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第28話 トリアージ【後編】

 そして、間髪(かんぱつ)をいれず、祐子からの電話があった。祐子の声は、(すで)に、涙声であった。祐子に()れば、(おおむ)ね、正太郎からのメールの通りではあった。()れは、此処(ここ)数時間で、仔猫(こねこ)(ほとん)ど鳴く事がなくなった事。ミルクを如何(どう)にかして飲ませようとシリンジに切り替えたものの、(まった)く、受け付けなくなった事。そして、(きわ)めて不吉な事ではあるが、心なしか、体温がどんどん冷たくなって行った事。などを交々(こもごも)と訴え続けた。祐子は23時頃(まで)は正太郎の家にいたのであるが、流石(さすが)に年頃の娘の事でもある。祐子の母親からの安否(あんぴ)確認の(ため)の連絡が、祐子の携帯(スマホ)にあったのを(しお)に、正太郎の母親がお()びの電話を入れ、正太郎がお()方々(かたがた)、祐子を家まで送り届けに行ったのであった。()れは、如何(いか)に近所で幼馴染(おさななじみ)であると()間柄(あいだがら)であっても、山本家に対して誠意を示しておかねばならない正太郎なりの、気遣(きづか)いでもあった。()れでも祐子は、(たと)徹夜(てつや)となっても看病(かんびょう)をしたいと、半泣(はんな)きで(しき)りに駄々(だだ)()ねたが、流石(さすが)()れは許可(ゆる)されずに、(なん)とか正太郎と祐子の母親に(なだ)められ、渋々(しぶしぶ)(なが)らも(あきら)めたのであった。(しか)し、()(かわ)り、明日(あした)払暁(ふつぎょう)と共に正太郎の家に行き、看病(かんびょう)の手伝いをすると()う約束は取り付けたのである。祐子との通話を終えたいずなは、(しば)し、茫然自失(ぼうぜんじしつ)(てい)で部屋の中に佇立(ちょりつ)していた。いずなの双眸(そうぼう)からは、見る見る内に大量の涙が流れ出していた。そして、本人も意識しない(まま)に、激しい慟哭(どうこく)を始めていた。


 いやああー。


 悲鳴の様な異様な(さけ)び声が上がった。いずなは、突然(とつぜん)、わあわあと大声を()げ、泣き始めたのであった。本来(ほんらい)であれば、異変は家族には分らぬ(はず)ではあった。(しか)し、夕食時のいずなのちょっとした違和感(いわかん)察知(さっち)した順子先生が、偶々(たまたま)、二階(まで)様子(ようす)を見に来た事で、自室で戸も()めない(まま)に、号泣(ごうきゅう)するいずなが発見されたのである。小柄(こがら)ないずなは母親に肩を()かれ階下の居間に()れて来られた。其処(そこ)には吾郎先生も居たが、潸然(さんぜん)としたいずなの欷歔(ききょ)を見ても、吾郎先生は、存外(ぞんがい)、落ち着いていた。()れは、医者と()う吾郎先生の職業柄(しょくぎょうがら)通弊(つうへい)であったのかもしれないし、また、物に動じない吾郎先生の生来(せいらい)気質(きしつ)によるものであったかもしれず、(ある)いは、順子先生が、(まさ)しくそうであった様に、夕食時のいずなの些細(ささい)違和感(いわかん)を、医師としての観察眼(かんさつがん)が見逃さなかった(ため)に、()る程度、()の様な状況(じょうきょう)を、予見(よけん)出来(でき)ただけなのやもしれなかった。


一体(いったい)如何(どう)したと()うのだね?」


 吾郎先生は、何時(いつ)もの様に、(おだ)やかに(たず)ねる。其処(そこ)で、いずなは潸然(さんぜん)なる(まま)に、(すべ)てを吐露(とろ)した。通学途上(つうがくとじょう)仔猫(こねこ)を拾ってしまった事。午前中の授業を(すべ)てサボってしまった事。独力(どくりょく)で解決する心算(つもり)であったが、結局(けっきょく)は、何も出来(でき)なかった事。でも、何も()わないうちから、友人達が奔走(ほんそう)して助けてくれた事。のみならず、教師達(まで)が自分を助けてくれた事。そして、今、()仔猫(こねこ)瀕死(ひんし)状態(じょうたい)にある事。()れらを、涙乍(なみだなが)らに、そして、時折(ときおり)(しゃく)り上げ(なが)ら、両親に打ち明けたのであった。吾郎先生と順子先生は思わず顔を見合わせた。そして、(しば)()()いた(のち)に、(おもむろ)に、順子先生が静かな口調(くちょう)(さと)し始めた。


「菜月ちゃん。()れについては、前にも()ったかもしれないけど…」


 順子先生の言葉は、(すこぶ)(おだ)やかではあった。(しか)(おだ)やかなれど、()調子(ちょうし)は、(かす)かではあるが、何処(どこ)と無く、批判的(ひはんてき)色彩(しきさい)()びていた事は間違い無かった。(しか)し、豈図(あにはか)らんや、言葉の途中(とちゅう)で、吾郎先生が右手を上げ、順子先生を制した。順子先生は思わず口を(つぐ)むと、吾郎先生が(おもむろ)に口を開いた。

状況(じょうきょう)は良く分かったよ。色々と考え、議論しなければならない事もあるかもしれない。だが、菜月ちゃん、今日は休もう。今、此処(ここ)で、我々に出来(でき)る事は何も無い…。そう、何も無いのだ。()し、我々に、何か出来(でき)る事があるとすれば、()()無事(ぶじ)を祈る事と、明日の(ため)に休む事だけだ。だから、休もう。だが、()(かわ)り、明日、朝になったら、一緒(いっしょ)に高野君の家に出掛けようじゃないか。其処(そこ)で最高の医療(いりょう)を約束する」

 吾郎先生が訥々(とつとつ)と語る()の言葉の内には、一種(いっしゅ)不思議(ふしぎ)(あたた)かみと安心感があった。


「パパ…」


 いずなは吾郎先生に抱きついた。そして、号泣(ごうきゅう)だった。

 吾郎先生は欷歔(ききょ)する娘の髪を、(やさ)しく(くしけず)るだけだった。


 翌日(よくじつ)、朝6時。吾郎先生は書斎(しょさい)にいた。(おだ)やかな表情で新聞を読んでいる。身長160センチ()らずの(ひど)く小柄な()の先生が、口ひげを(たくわ)煙草(タバコ)(くゆ)らせ(なが)ら、モーニングコーヒーを(たしな)んでいる姿は、何処(どこ)喜劇役者(コメディアン)の様であり、(いささ)か、滑稽(こっけい)(おもむき)すらある。其処(そこ)へいずなが入って来た。

「おはよう」

 吾郎先生は(やさ)しく声を掛けた。

「おはよう…パパ」

 いずなは、吾郎先生の挨拶(あいさつ)居住(いず)まいを(ただ)すと、(あわ)てて挨拶(あいさつ)をした。

(何ともはや、(ひど)い顔だ)

 吾郎先生は愛娘(まなむすめ)の顔を見て、まず、そう思った。ゲッソリと(やつ)れ、憔悴(しょうすい)しきった相好(そうごう)。目の下にくっきりと浮かんだ(くま)(おそ)らくは、まんじりとも出来(でき)無かったに、相違(そうい)ない。

無理(むり)も無い)

 そう思わざるを()ない。吾郎先生は愛娘(まなむすめ)心根(こころね)(やさ)しさを知悉(ちしつ)している。感情的(ウェット)になるなと()う方が、抑々(そもそも)無理(むり)な話であろう。吾郎先生、順子先生、(とも)に医師である。割と(タナトス)が身近な職業でも有る。(タナトス)が決して美しいものでも無ければ、甘美(かんび)なものでも無い事を知悉(ちしつ)しているのである。(タナトス)とは只管(ひたすら)に残酷なものなのである。()の身内からすれば、(タナトス)とは、(ただ)単に、強烈な喪失(そうしつ)でしかない。()の夫妻にあって、娘が生き物を飼う事を禁じた最大の理由は、(ある)いは、()の感受性の強すぎる愛娘(まなむすめ)を、()れらから、少しでも遠ざけたかっただけなのかもしれない。

「正太郎君の方は?」

 先生が(おだ)やかに(たず)ねた。

「うん。もう起きている。と、()うよりも、…寝ていないみたい」

 吾郎先生は、悲しげに(かす)かな溜息(ためいき)を一つ()いた。

「そうか…。そして、猫ちゃんは?」

()だ、生きているって」

 いずなは、正太郎からのメールによる情報を伝えた。正太郎からの情報では、確かに()だ生きてはいるとの事であった。(しか)()れは、多分(たぶん)に正太郎やいずなの強い願望も混じっている。文面(メール)では、生きているとはなってはいたが、状況(じょうきょう)正確(せいかく)(しる)せば、(むし)ろ、(いま)だ死んではいないと()う方が正確(せいかく)(ところ)なのだろう。(おそ)らくは、人間(ひと)今際(いまわ)同様(どうよう)に、医師に()る死亡の確認が出来(でき)ていないだけ、と()状況(じょうきょう)なのかもしれない。(おそ)らくは、()の小さな魂魄(こんぱく)死の大河(コキュートス)(ほとり)彷徨(さまよ)っている状態なのは、何ら疑念の余地も無かった。いずなと吾郎先生は7時前に吾郎先生の運転する銀色(シルバー)のベンツで出発した。途中(とちゅう)入江岡(いりえおか)の駅前で恰幅(かっぷく)の良い(ひげ)だらけの男をひろった。(おそ)らくは、吾郎先生の言葉を借りれば、最高の医療(いりょう)なのだろう。男は黒い大きな診療鞄(しんりょうかばん)を持って後部座席に乗り込むと、吾郎先生に向かって、()()った。

(まった)く、お前さんと来たら、相変(あいか)わらず、人使いが荒いよなあ」

 男は其処(そこ)で言葉を切ると、今度はいずなに対して、ニコニコと快活(かいかつ)そうに話しかけてきた。

「やあ、菜月ちゃん。お久し振り。いや、見違(みちが)えたよ。すっかり綺麗(きれい)になったね、お母さんに似て良かったよ」

「三神のおじさま…。随分(ずいぶん)、ご無沙汰(ぶさた)しております」

 いずなは、居住(いず)まいを(ただ)すと、(あわ)てて前の座席から挨拶(あいさつ)をした。()の男は三神新太郎と()う、清水の入江岡(いりえおか)で動物病院を(いとな)む獣医さんであった。父親である吾郎先生の古くからの友人、所謂(いわゆる)刎頸(ふんけい)の友でもある。

「ハハハ、(ところ)で、患者さんは菜月ちゃんのお友達のおうちかい?」

「…はい」

成程(なるほど)。そうか。()れで、似気(にげ)も無くと()(わけ)かい? 吾郎らしく無いとは思ってはいたが…」

 三神先生の言葉は何時(いつ)しか吾郎先生に向けられていた様である。

「ああ、お休みの(ところ)すまんね」

 いずなは、()(まで)経緯(いきさつ)細々(こまごま)と話した。特に昨夜半(さくやはん)からの(くだり)(ところ)では、大柄(おおがら)な先生は表情を(くも)らせた。(やが)て、吾郎先生が運転するベンツは、寒風(かんぷう)が吹き(すさ)ぶ、渋川橋(しぶかわばし)を渡り正太郎の家に到着した。


 正太郎の集合住宅(マンション)は、巴川と新幹線の交点に接する地元瓦斯(ガス)会社の社宅であり、()の昔、昭和の時代には瓦斯(ガス)タンクがあった場所でもあった。今でも、敷地の周りには金網で囲われている。社宅のあるところ以外は雑草が()(しげ)る資材置き場となっており、駐車スペースには事欠かなかった。(もっと)も、()の季節の事である。緑は(ほぼ)無く、一面(いちめん)()(くさ)(おお)われた冬の色で強調されていた。吾郎先生は草叢(くさむら)にベンツを止めると、三神先生は黒い(かばん)を持って、

(さて)と、それじゃあ、行って来るか」

 と()(なが)ら、快活(かいかつ)そうに草叢(くさむら)に降り立った。正太郎の集合住宅(マンション)の入口周辺に、祐子が寒そうに肩を(すく)(なが)ら立っていた。助手席に座るいずなの姿に気がついたのであろう。新太郎先生に会釈(えしゃく)をしつつ、入れ違いになる形で車の方に寄って来た。

「ゆうちん」

「いずなちゃん」

 いずなは祐子を車の中に招き入れた。祐子は涙を何とか(こら)(なが)ら、後部座席に乗り込むと、いずなに挨拶(あいさつ)もそこそこに、状況(じょうきょう)を話し始めた。祐子に()れば、状況(じょうきょう)()して変ってはいないと()う。昨晩に(くら)ぶれば、ゴロゴロ音が出てきたりと、素人目(しろうとめ)には多少(たしょう)元気になった様に(うつ)るが、正直な(ところ)判らないと()うのが、本当の(ところ)であった。(ただ)、希望的な所見(しょけん)を述べれば、朝一番でミルクを多少(たしょう)飲んだとの事であった。今頃は正太郎が中で三神先生に状況(じょうきょう)を説明している事であろう。続いて、祐子はいずなの父親に会釈(えしゃく)をしつつ、挨拶(あいさつ)を交わした。車内のバックミラー越しの対面であり、二言(ふたこと)三言(みこと)、言葉を()わしただけに過ぎなかったが、()()がる些細(ささい)違和感(いわかん)()れは。


 (私は、過去に()の人と何処(どこ)かであった事がある。)


 ()れであった。異様(いよう)(まで)に記憶力の良い、()の少女の事である。(おそ)らく()れは、事実なのだろう。だが、一体(いったい)何処(どこ)で? 祐子は懸命(けんめい)に記憶を辿(たど)ってみる。抑々(そもそも)、祐子の人生に()いて、いずなとの接点は無かった(はず)である。にも(かかわ)らず、()(やさ)しげな物腰(ものごし)の、糸の様に細い目をした紳士(おじさん)とは、()()()()()()()()()()()()()()()()れは間違いの無い事であり、祐子の記憶が、確実にそう()っている。(しか)し、一体(いったい)何処(どこ)でだろう? (もっと)も、いくら、祐子の記憶と()っても、多少(たしょう)齟齬(そご)捍格(かんかく)が無いとも()い切れない。()れに、()稀有(けう)な経歴を持つ吾郎先生の事である。当然(とうぜん)、若い(ころ)の写真などもネット上に出回っており、()の際に、祐子が閲覧(えつらん)している可能性もあるし、(ある)いは、祐子が物心(ものごころ)()く以前に、当番医か何かで、吾郎先生の診療を受けていた可能性は捨てきれない。だが…。祐子の記憶は()れを明白(あからさま)否定(ひてい)している。(おそ)らくは、もっと何か密接(みっせつ)な形で接点を持っている(はず)なのだ。(しか)し、祐子の記憶の洪水は其処(そこ)()()められた。三神医師と正太郎が集合住宅(マンション)の入口から、車の方へ歩いてきたのだ。正太郎の右手には白く赤い屋根(やね)(ふた)がついた、動物用のキャリーバックが(にぎ)られている。昨日(きのう)のうちに購入したものに違いない。


「それでは、先生。何卒(なにとぞ)(よろ)しくお願いします」

 正太郎はそう()うと、深々(ふかぶか)と頭を下げた。三神先生は大きく(うなず)くと、

「ああ、分ったよ。君もゆっくりと休むべきだね。()()の事は任せてくれたまえ」

 三神先生はそう()うと、巨体を()すり(なが)ら車に乗り込んだ。入替(いれかわ)りに祐子が降りると、矢庭(やにわ)に車が出発した。後方で、正太郎と祐子が深々(ふかぶか)と頭を下げ、お辞儀(じぎ)をしている。


 動き出した車の中で、()()ずといずなは三神先生に(たず)ねた。

「…如何(どう)でした?」

 三神先生は難しい顔を(ゆる)めると、

「ああ、菜月ちゃん。大丈夫(だいじょうぶ)だよ。バイタルは非常に安定している。もう、心配はいらない。死神(タナトス)は去って行ったよ」

 一気に、いずなの全身の筋肉が弛緩(しかん)するのを感じた。吾郎先生はハンドルを握り(なが)(たず)ねた。

一体(いったい)、何があったと()うのだね。昨日(きのう)聞いた話の(かぎ)りでは、素人目(しろうとめ)にも(むずか)しいと感じたのだが」

 三神先生は、専門外である吾郎先生が、謙虚(けんきょ)(みずか)らを素人(しろうと)とした事を(くさ)(なが)ら、

「誰が素人(しろうと)だって? (まった)く、お前さんと来たら。まあ、素人(しろうと)()えば、あの子、正太郎君だっけか? (まった)く飛んでも無いなあ」

「?」

昨日(きのう)の夜にミルクの中に、自分が風邪(かぜ)(さい)処方(しょほう)された薬を少々(しょうしょう)混ぜたんだそうだ。(あわ)せて、ウイスキーもな…。まあ、(ほとん)ど、飲まなかった様だが」

「ミルクに人間の(ため)の抗菌剤と酒を混ぜたって()うのかい?」

「ああ、そうだ。(まった)く、素人(しろうと)が飛んでも無い事をしやがる」

 三神先生は苦虫(にがむし)()(つぶ)した様な(てい)で同意する。

(たし)かに、(あま)()められた事じゃあないね」

(まった)くだ。だが、まあ()()()のお陰で生き永らえたと()えるかもしれんがね」

 三神先生は()められた事では無い(はず)の、正太郎の咄嗟(とっさ)の機転を渋々(なが)らも賞賛(しょうさん)した。いずなは、恐る恐る疑問をぶつけて見た。

()れで、何で()()を連れて行くの?」

 三神先生は笑い(なが)ら応える。

「ああ、()れは検査の(ため)さ。飼う以上はいろいろ検査をしなければならないし、何よりも本当の治療が必要だろう」


 帰りの途次(みちすがら)、いずなは父親に懇願(こんがん)し、一ヶ所立ち寄ってもらった。(くだん)小芝神社(おしばじんじゃ)の裏手の道である。いずなは車から降りると、()()を拾った箱を探した。(しか)し、いずなが立ち寄った時にはもう、


 (くだん)の白い箱は(すで)に無くなっていた。


 (おそ)らくは、見かねた近隣(きんりん)の住人の誰かが、憐惜(れんせき)の情深く、哀戚(あいせき)(つく)(ねんご)ろに(とむら)った物に相違無(そういな)い。いずなは目頭(めがしら)が熱くなった。いずなは(こうべ)()れ、両手を合わせると、薄倖(はっこう)仔猫(こねこ)達の(ため)に、真摯(しんし)に祈った。いずなは涙を(ぬぐ)うと、車まで戻った。吾郎先生は身動(みじろ)ぎもせずに()った。

此処(ここ)で拾ったのかい?」

「…うん」

「そうか…」

 吾郎先生は(だま)って車を発進させた。いずなは後方に遠ざかる(くだん)の場所を見ていたが、(やが)て、旧国一の広い道を左折すると、()れも見えなくなった。


 入江岡(いりえおか)の駅で三神先生を降ろすと、吾郎先生は、一路、自宅へと向かった。途次(みちすがら)、いずなが吾郎先生に対して(つぶや)く様に()った。

「あのね、パパ…」

 いずなは、其処(そこ)で一度、口を(つぐ)むと、やや、()()いて、()(しぼ)る様に続けた。

「ごめんなさい…」

 ()れに対して、吾郎先生は何も()わなかった。(しか)し、(しば)しの沈黙(ちんもく)(のち)に、ハッキリと()()った。

「菜月ちゃん。君のした事は間違っているよ。最後(まで)、責任を(まっと)出来(でき)なければ、行動を起こすべきでは無いのだよ」

 吾郎先生は、()しくもいずなの大好きなアニメの隊長さんと同じ事を()った。()の言葉には、何人(なんぴと)たりとも(あらが)(がた)い様な重みがあった。いずなは思わず、項垂(うなだ)れて(うなず)いていた。

「…はい」

 (しか)し、()()、吾郎先生は、実に意外(いがい)な事を()い出した。

「でも…、菜月ちゃん。君のした事は、人として正しい。()(やさ)しさは本当に大切な事なんだよ。僕は君が(やさ)しく思いやりのある子に育ってくれた事を(ほこ)りに思う」

「えっ」

 いずなは多少(たしょう)の混乱の(まま)(うなず)いた。

「僕は、今、君を(ひど)く混乱させている事も理解している。僕の()っている事は明らかな二律背反(にりつはいはん)。完全な矛盾(むじゅん)だからねえ。でも、結果論であるが、一つの生命(いのち)が救われたのだ。本当に良かったと思うよ。結局(けっきょく)人間(ヒト)()の様な矛盾(むじゅん)の中で、最善(ベスト)()くして生きて行くしかないのだよ」

「はい」

 いずなは力無く(うなず)いた。吾郎先生が()わんとしている事も朧気(おぼろげ)(なが)ら理解出来(でき)た。例えば、今回、いずながあの猫ちゃんを拾って、無事(ぶじ)、飼えたとしよう。(しか)し、次に同様(どうよう)な事があったとしたら。そして、又、次にも。結局(けっきょく)、きりが無いのだ。何処(どこ)かで、そして、何時(いつ)かは()連鎖(れんさ)を断ち切るしかないのだ。()の時に、飼える事になった猫と切り捨てられた猫との違いは、一体(いったい)なんであろうか? 吾郎先生の()二律背反(にりつはいはん)についても、(すこぶ)漠然(ばくぜん)としてではあるが、分る気がした。本当は、救えるものであれば、(すべ)てを救いたいのだ。だが、()れが(かな)わぬが(ゆえ)に、トリアージと()概念(がいねん)が存在するのである。いずなは、()の様な()()めの無い考えを思い(めぐ)らせ(なが)ら、家路(いえじ)()いたのであった。


 自宅に帰り着くと、心配そうな面持(おもも)ちの順子先生が出迎(でむか)えた。

如何(どう)でしたの」

 吾郎先生が快活(かいかつ)そうに応える。

「ああ、大丈夫(だいじょうぶ)だよ。何よりも、正太郎君の看病(かんびょう)。そして、新太郎が(よろ)しくやってくれたよ」

「そう…。よかったわね。菜月ちゃん」

 順子先生は、いずなにニッコリとした笑顔を向ける。一方(いっぽう)、いずなは若干(じゃっかん)暗い面持(おもも)ちである。先程(さきほど)の、吾郎先生の言葉を重く受け止めていたに相違無(そういな)い。だが、母親の心底(しんそこ)(うれ)しそうな顔を見た時、思わず、涙が込み上げて来た。母の胸に飛び込むのと同時に()()った。

「うん、有難(ありがと)うママ。そして、…ごめんなさい」

 ()れ以上の言葉は出なかった。そして、いずなは母の胸の中で泣き(なが)らある事に気がついた。()れは、吃驚(ビックリ)する程、単純な事実でもあった。吾郎先生にしても、順子先生にしても、医師を生業(なりわい)としているのである。()の職は、生命(いのち)を軽んじる人間が()ける職業ではないし、また、そうあるべきでも無いのだ。生命(いのち)や死に対して、常に、厳粛(げんしゅく)に、そして、真摯(しんし)に向き合い、患者の苦しみの軽減と死神(タナトス)との戦いを、日常としている人々なのである。昨日(きのう)、いずなが遭遇(そうぐう)した仔猫(こねこ)達の死。そして、()の悲しみ、哀れみ、驚き、怒り。()の時受けたあらゆる感情が、いずなにとっては、明らかに非日常であった。だが、吾郎先生や順子先生にとっては、()る意味、()れが日常なのである。いずなが感じた感情の、何倍、(ある)いは、何十倍もの感情を、日常の中に感じているのである。()の中には、当然(とうぜん)断腸(だんちょう)の思い、砂を()む思いなどが(ふく)まれていて、(しか)るべきなのだ。

「本当にごめんなさい。パパ。ママ」

 いずなは、(あらた)めて、両親に謝罪した。母親はいずなを抱きしめると、(だま)って頭を()でた。父親もニコニコして見守っている。実に、素敵(すてき)な尊敬すべき家族である。


 (さて)、数日後、仔猫(こねこ)は完全に元気を恢復(かいふく)した。そして、今日は、()仔猫(こねこ)のお披露目(ひろめ)の会である。()れは正太郎と祐子の発案であり、場所は手狭(てぜま)な正太郎の家ではなく、近所である祐子の家が会場となったのである。関係者であるメンバーが、三々五々(さんさんごご)、祐子の家に集合しつつある。高志、ひろみ、明彦、凛子、敬介、いずな、ヤスベエ、葵、みうみう、である。祐子は、若干(じゃっかん)興奮(こうふん)気味(ぎみ)である。()れはそうであろう。以前にも描写(びょうしゃ)したとおり、友人達が(つど)う家と()う物に、()肥満気味(ひまんぎみ)の少女はかなりの憧憬(あこがれ)を持っていた。立ったり、座ったり、お茶を()れたり、お菓子を持ってきたりと、独楽鼠(こまねずみ)の様に(いそが)しく動きまわっていた。また、祐子の飼い犬であるペスも同様(どうよう)である。()のベージュの毛並(けな)みを持つ、ラブラドールレトリバーのペスは、元来(がんらい)、社交的な犬種(けんしゅ)なのである。日課であるお昼寝を取り止めて、ぶんぶんぶんと尻尾(しっぽ)を左右に振り(なが)ら、人々の(あいだ)()り歩き、(みんな)愛想(あいそう)を振りまいていた。特に、みうみうが来た時などは、動物好きの()の少女の事である。

「ふわわあ。ワンワンだ。ワンちゃんだあ。」

 と大興奮(だいこうふん)。わんわんと寄って来るペスに対して、

「ふわわあ。かわいいねワンちゃん。ねえ、ゆうちん、()()、お名前、何てえの、何てえの、何てえの」

「ペスだよ」

「ふわあ。ペス、ペス。良い子だね」

 と、()(なが)ら、ペスの体を()でている。ペスも、もとより大変クレバーな犬であり、自分に好意を向けている事は良く理解出来(でき)るのである。みうみうの(かたわら)に寄って来て、座ったみうみうの()っぺたに鼻を(こす)り付けると、ぺろぺろと(ほほ)()め始めた。

「ふわあ、(くすぐ)ったいよ。ペス」

「コラッ、ペス。あんまり(はしゃ)いじゃ駄目(だめ)だよ。迷惑(めいわく)でしょ」

 祐子が軽く(たしな)めるが、祐子自身も先程(さきほど)から、少々(しょうしょう)軽躁状態(けいそうじょうたい)にある。

「まあまあ、祐子。ペスも大喜びじゃないの? みうみうは動物が大好きだからねー。ところで、本日の主役は()だ来ないのかな?」

 助け舟を出すのは、二組でのみうみうの相棒(あいぼう)、ヤスベエである。

()れに、サッカー部のでこぼこブラザーズもいねーぞ」

 (あた)りを顧眄(こべん)していた明彦が(つぶや)く。

「ああ、彼奴(あいつ)らは、部活だとさ。(まった)く、因果(いんが)なクラブだぜ」

 祐子の寝台(ベッド)背凭(せもた)れに、煎餅(せんべい)頬張(ほおば)っていた高志が口を(はさ)む。倉皇(そうこう)としている内に、本日の主役が到着した。


 白いお家の赤い屋根(やね)可愛(かわい)らしいキャリーバッグを抱えた正太郎が祐子の部屋へ入って来た。一同の視線(しせん)(そそ)がれた。正太郎がゲートを開けてやると、中には、立派(りっぱ)(きじ)トラ模様(もよう)仔猫(こねこ)がちょこんとしており、周囲の状況(じょうきょう)躊躇(ちゅうちょ)(なが)らも、()めつ(すが)めつしているのが、良く分った。そう、()の一週間で、(ようや)く目も開いたのだ。(やが)て、二、三歩歩み出ると、

「に…い」

 と鳴いた。

「か、かわいい」

「ふわわー」

「ムッキー」

 と、集まった人たち、主に女性からであるが、一斉(いっせい)感嘆(かんたん)()れ、周囲の耳目(じもく)を集める形となった。仔猫(こねこ)覚束無(おぼつかな)い足取りで、部屋の中央の方へ歩いていったが、自分を見つめる視線(しせん)の中に、ベージュ色の毛を(まと)った巨大な生物を(みと)めると、思わず慄然(ギョッ)として、立ち(すく)んだ。祐子は(おどろ)いて、(あわ)てて止めた。

「ペス。駄目(だめ)だよ」

 祐子の『駄目(だめ)だよ』の前には『(いじ)めちゃ』と()う文字が省略(しょうりゃく)されていたに相違無(そういな)い。()れに対して、ペスは『わん』と、即座(そくざ)に答えを返していた。

(そんな事。しないよ)

 (おそ)らく、そう()っていたのだろう。仔猫(こねこ)は、(あたか)も、『何の興味も無いよ』と()った(ふう)でペスと視線(しせん)を合わさずにテトテトと(あゆみ)を進める。一度、コテンと倒れたが、起き上がり、ゆっくりと歩き出した。(しか)し、()の後、恐る恐る、ペスに近づくと、腹の下に潜り込み、ペスのお(ちち)にむしゃぶりつき、チュパチュパと吸い始めた。そして、()の内、ヘソ天の(まま)、ゴロゴロ()(なが)ら、昼寝を始めてしまった。

「わあ、かわいい」

「ふわー、ふわー」

 一斉(いっせい)に歓声を()げる女子勢。一方(いっぽう)、ペスの方は、ぺろぺろと仔猫(こねこ)の顔を()(なが)らも、時折(ときおり)若干(じゃっかん)困った様な視線(しせん)を祐子に送る。

「もう、猫ちゃんたら、ペスは()だ、未婚(みこん)なのにねえ」

 そう()う祐子を尻目(しりめ)に、つと手を伸ばした高志が、いきなり、ペスのお(ちち)(つま)む。

「あっ」

「えっ」

「おわっ」


 がぶり。


「うっ、うぎゃあ。犬吉(いぬきち)()まれた!」

「あっ、いけない。ぺ、ペス。めえよ!」

 (おどろ)いた祐子が(さけ)ぶ。

「ふわあ、犬吉(いぬきち)じゃないよ。ペスだよ」

 みうみうが即座(そくざ)否定(ひてい)するが、高志は()(どころ)では無い、咄嗟(とっさ)に手を引くと、

「あいたたた、コン畜生(ちくしょう)、何て事すんだ。()犬吉(いぬきち)め!」

()れは此方(こっち)台詞(セリフ)よ。(まった)く、何てえ事すんのよ。()の人獣共通女性の敵!」

 ひろみが、一女性として(いき)()つ。

「いや、だってよ。猫吉(ねこきち)無邪気(むじゃき)にむしゃぶりついてても平気だったから、無邪気(むじゃき)(つま)んだら大丈夫(だいじょうぶ)かなと…」

大丈夫(だいじょうぶ)(わけ)ないでしょ! ()のお馬鹿(バカ)!」

(まった)く、何、やってんだ。大体(だいたい)無邪気(むじゃき)(つま)んで、如何(どう)しようってんだよ。本当にバカだなー」

 敬介がにやつき(なが)ら、(あき)れる。明彦も(まゆ)(ひそ)めつつ、

一体全体(いったいぜんたい)、何がしたかったのやら…」

「いや、喜んでもらえ…」

「な、(わけ)ないでしょ。あんたって人は、(まった)くもう」

 ひろみとしては、彼氏であるハロゲン族の不始末(ふしまつ)恐縮(きょうしゅく)せざるを()ない。(しか)し、祐子は飼い主として、()(どころ)ではない。

「ペス、めえよ。高志お兄ちゃんにゴメンしなさい」

 だが、ペスはくうんと、不服(ふふく)そうに鼻を鳴らす。明らかに納得(なっとく)していない様子(ようす)だ。

「ちょっと、祐子、何、()ってるの。あんた見てなかったの? あれは、指を()千切(ちぎ)っても良い次元(レベル)よ」

 凛子が同性として、義憤(ぎふん)に駆られる。

「いや、流石(さすが)に、()千切(ちぎ)られたら困るけど…。」

 ひろみが高志の不始末(ふしまつ)(もう)訳無(わけな)()(つぶや)く。葵が勘良(かんよ)く、話を()らす。


「ところで、()()。お名前は決まったの? 正太君」

 (しか)し、()れを高志が引き取って答えた。

「そんなの、猫吉(ねこきち)で充分だろ。そうだ。良い機会だ。()れを()に、お前も犬吉(いぬきち)命名(めいめい)しよう…」

 だが、ペスも()っている事が(わか)るのか、うううーと低い(うな)り声を()げている。如何(どう)やら、不服(ふふく)様子(ようす)である。

「いや、()の名前。もうちょっと、何とかしろよ。いくらなんでも、ネーミングセンスってもんがあんだろ」

 明彦が(あき)れる。

「うーん、じゃあ、熊吉(くまきち)

「いや、だから…」

「じゃあ、チャトラッシュ・ド・クリストファー・寅吉(とらきち)ってのは如何(どう)だ」

「何で、ミドルネームみたくなってる? 大体(だいたい)此奴(こいつ)、茶トラじゃなくて(きじ)トラだぞ」

 異論を(とな)える明彦の横から、正太郎が、

大体(だいたい)猫吉(ねこきち)寅吉(とらきち)って何だよ。抑々(そもそも)此奴(こいつ)(メス)だぞ」

「うわあ、何、()ってやがる。お前、引き取った当日、メールで(オス)とか()ってたじゃねーか」

「ああ、()れなんだが」

 正太郎はきまり悪そうに頭を()いた。

「実は、お袋の()う事を鵜呑(うの)みにして…。ほれ、此奴(こいつ)の腹は真っ白だろ。でもって、お尻の下にクローバー型の黒い模様(もよう)があるだろう。ほれ、腹側の方だ。()れを見たお袋の馬鹿(バカ)が、立派(りっぱ)なのがついてるよって()うもんだから、此方人等(こちとら)も、つい、(だま)されて…」

「あっ、本当だ」

 ひろみが(つぶや)く。(しか)し、高志はそんなひろみを嘲笑(あざわら)う。

「何、()ってやがる。()れは普通に(ただ)模様(もよう)じゃねーか。それに、()の下にあるのはどー見ても、立派(りっぱ)な ま…。ぐはあ」

下品(げひん)!」

 (すべ)てを()わせずに、ひろみの肘打(ひじう)ちが、高志の鳩尾(みずおち)炸裂(さくれつ)する。

「ムッキー、本当に下品(げひん)だね。ハロゲン族は。大体(だいたい)、失礼だよ。いきなりお(ちち)(つま)むなんて、一般社会なら、即、逮捕案件だよ」

 と、女性陣からは、非難轟々(ひなんごうごう)である。そんな高志を見かねてか、正太郎が助け舟を出す様に、()った。


「ああ、家では、如何(どう)やら、『ミニャラ』に落ち着きそうなんだが…」

「よせよせ。貧乏臭い。」

「何だと」

 息巻く正太郎に目もくれずに、高志が続ける。

「例えば、犬吉(いぬきち)を見ろ」

 ペスはうううーと、低い(うな)り声を()げている。如何(どう)やら、犬吉(いぬきち)()うのがお気に()さないらしい。

「えーっと、ペスだっけか? 如何(いか)にもお金持ちのお嬢さんの飼い犬みたいじゃねーか」

「そんな事無いよ」

 そう()うのは、祐子である。ペスは元々(もともと)、祐子が中学3年の時、産れた直後に、祐子の母方の伯母(おば)から(もら)ってきたのである。当初(とうしょ)から祐子に大変良く(なつ)いており、孤独(こどく)がちな祐子の篤実(とくじつ)な友であった。当初(とうしょ)はラブラドールレトリバーに由来(ゆらい)して、ラブと命名(めいめい)されていたのだが、()の犬は()の名前に一向(いっこう)に反応せず、祐子も困惑(こんわく)していたと()う。()ればかりか、祐子が修学旅行で購入した京都土産(みやげ)のタペストリーの(じく)をガリガリと(かじ)り、()都度(つど)、『タペストリー、めっ』と、祐子に(しか)られていたと()う。何時(いつ)しか、(くだん)のタペストリーもぼろぼろになって千切(ちぎ)れ、(じく)はペスのおもちゃとなってしまったのであるが、()の頃には、()の犬の名もペスとなったと()次第(しだい)であった。()経緯(いきさつ)を聞いた高志は嘲笑(あざわら)う。

「なんだ。犬吉(いぬきち)。お前も、存外(ぞんがい)馬鹿犬(バカいぬ)だったんだな」

 (しか)し、()れを聞いたペスは、うううーと低く(うな)っていたが、()のうち、わんわんわんと(はげ)しく高志に向かって()()てた。

「ひぃっ」

「あっ、駄目(だめ)だよ。高志くん。()の子、意外と言葉が分るから。…特に悪口は」

 と、(たしな)める祐子。(さら)に、みうみうがペスを抱きかかえると、懸命(けんめい)に頭を()(なが)ら、

「ほうら、ペス。()い子、()い子。ハロゲン族は馬鹿(バカ)なんだから、相手にしちゃ駄目(だめ)。ペスちゃんは、ミニャラちゃんの面倒(めんどう)を見なければいけないでしょ」

 そう()(なが)ら、ペスに抱きつく。ペスも、くうんと鼻を鳴らすと、みうみうの(ほほ)()め、続いて、ミニャラの(ひたい)()め始めた。ミニャラはすかさず、ゴロゴロ()い出した。


「ところで、()哺乳瓶(ほにゅうびん)如何(どう)しよう」

 祐子が、当初(とうしょ)、いずなが薬局で買った哺乳瓶(ほにゅうびん)を取り出す。

「ああ、いずなが買った(やつ)か、如何(どう)見ても人間用だもんな。ネットで転売すればいいんじゃねーの」

 早速(さっそく)、高志がオークションサイトへ展示する。


哺乳瓶(ほにゅうびん)売ります』


「なんかぱっとしないわね」

 凛子が(こぼ)す。明彦が文言を少々(しょうしょう)修正する。


哺乳瓶(ほにゅうびん)売ります。(人間用)』


哺乳瓶(ほにゅうびん)は、大概(たいがい)、人間用だろうが」

 と、敬介。

「こんなの買い手がつかないでしょ。いいとこ、1円よ」

 ひろみが口を(とが)らす。其処(そこ)へヤスベエが()って入ってきた。

「そんなのマーケティング次第(しだい)でしょ。あたしに任せなさい」


『売ります。赤ちゃんの靴。哺乳瓶(ほにゅうびん)。未使用』


如何(どう)? ()うすれば、大分(だいぶ)、説得力が出たでしょう? 同情票も集まる事、請け合いよ」

 正太郎はジロリと(あき)れた様に流眄(りゅうべん)(なが)ら、()()った。

「誰が小説を書けと()った? 大体(だいたい)、買い手がついた時に、()の赤ちゃんの靴とやらは如何(どう)すんだよ?」

「そんなの、決ってんじゃないの。赤ちゃんの靴を買って来て、帳尻(ちょうじり)を合わせれば済む話でしょ」

「バカ()ってんじゃねー。主客転倒(しゅかくてんとう)(はなは)だしいだろ。抑々(そもそも)、赤ちゃんの靴がいくらすると思ってんだ。早く取り消せ」

 (しか)し、()矢先(やさき)、みうみうがしくしく泣き出してしまった。高志が(おどろ)いて声を掛ける。

「ん、如何(どう)した。みうみう」

「あのね、()の赤ちゃんの事考えたら、何か悲しくなっちゃって」

「うわあ、何、()ってやがる。抑々(そもそも)が、やじろべえの(でっ)()げじゃねーか! 何、()に受けてやがんだ!」

 一方(いっぽう)、ひろみもハンカチで目頭(めがしら)を押さえている。

「何か、赤ちゃんのお母さんの心情を思うと、切なくなっちゃって」

「うわー、てめーまで何、()ってやがる。こんな、くっだらねえステマに引っ掛かりやがって。大体(だいたい)、ネタとしても古典的だぞ。フラッシュ・フィクションの典型的な(やつ)じゃねーか」

 ひろみが(おどろ)いて反応する。

「えっ、そうなの?」

 正太郎が引き取って応える。

「ああ、高志の()ったとおりだ。フラッシュ・フィクションの典型でな。ネットで、『世界一短い小説』と打ち込むと、死ぬ程出てくる。作者はアーネスト・ヘミングウェイと()う事になっているが、まあ、(もっと)も、如何(どう)やら、此方(こっち)はガセらしいがな…」

「ムッキー、本当だ、死ぬ程、出て来た」

(まった)く、バカバカしい。()れより、早く取り消せよ。見ろ、ミニャラも寝ちまったぞ」

 ミニャラはゴロゴロ()(なが)ら、ペスのお腹にもぐりこむと、(あたた)かそうに丸まっている。


(しか)し、此奴(こいつ)も元気になって、本当に良かったな。もう、大丈夫(だいじょうぶ)なのか?」

 心配そうに問い掛ける敬介。

「ああ、もう心配ないって。検査の結果、変な病気も持って無いってさ」

「本当に良かったわね」

 思わず、凛子も相槌(あいづち)を打つ。みうみうも楽しそうに続く。

「良かったねー。ミニャラちゃん。ミニャラちゃんは美人だし、模様(もよう)立派(りっぱ)なトラ(じま)だし、お腹の模様(もよう)はヒョウ(がら)も入っているし、ご先祖様は、屹度(きっと)、虎か(ひょう)だね」

 其処(そこ)で、すかさず、高志が突っ込む。

「おいおい、そりゃ生物学的におかしいだろ。大体(だいたい)、虎か(ひょう)が先祖なら、今の此奴(こいつ)は明らかに退化だろ。知能指数も身体能力も如何(どう)見ても退化しているもんな」

「むっ、ハロゲン族のバカー。可愛(かわい)さが進化しているから、いいんだよ」


 他愛(たわい)も無い話をワイワイ()いあうメンバー達。いずなは静かにミニャラに歩み寄るとそっと(つぶや)いた。

「本当に良かったね。ミニャラちゃん。でも、ごめんね…、私はあなたの弟や妹達を助けてあげられなかった。ごめんなさい」

 (つぶや)くいずなの瞳には、何時(いつ)しか涙が浮かんでいた。いずなの哀悼(あいとう)にも似た懺悔(ざんげ)(さえぎ)る様に、(りん)とした声が響いた。

「違うよ。()れは、違うよ。いずなちゃん」

 敬介である。

()れは、絶対に違う」

 敬介は、今一度(ふたたび)、繰り返した。

「あの時、通りがかったのがいずなちゃんだったから、今、此奴(こいつ)此処(ここ)にいるんだ。()し、あの時、通りがかったのが(オレ)だったら、いや、(たと)え正太であっても、多分(たぶん)此奴(こいつ)は、今、()の世にはいないんだ。そして、()の結果こそが(すべ)てなんだよ」

 敬介は毅然(きぜん)として()った。()()った台詞(セリフ)()く時の敬介は、いつも田舎(いなか)の小学生とからかわれている時とは違い、(すこぶ)大人(おとな)びて見える。いや、もっと、成熟(せいじゅく)した大人(おとな)魅力(みりょく)とでも()おうか、そう、(まさ)しく吾郎先生のそれなのである。いずなは敬介の中に父親の(おもかげ)を見ていたのである。

「うわーん」

 いずなは(はか)らずも号泣(ごうきゅう)してしまった。(かたわ)らでいずなの髪を(くしけず)(やさ)しい敬介。そして、いずなの足許(あしもと)(くだん)のミニャラが覚束(おぼつか)ない足取りで近づいてきた。いずなが手を差し伸べると、懸命(けんめい)()の指をぺろぺろと()める。

「ほら、ミニャラが、『助けてくれて有難(ありがと)う』ってさ」

 すかさず、敬介が()う。

「もう、ケースケのバカ。()れ以上、あたしを泣かせるな」

 いずなはそう()うと、ミニャラの方に向き直り、(やさ)しく()った。

「本当に良かったね。ミニャラちゃん」

 ミニャラはそんないずなに構わず、ゴロゴロ()(なが)ら、いつまでも、いずなの指を()めているのであった。


 ()くして、高野家に新しく縞模様(しまもよう)の家族が誕生した。結局(けっきょく)、名前も高志の希望(のぞみ)(かな)わず、ミニャラと()う事に落ち着いた。()のミニャラも、今では、正太郎の家の前の瓦斯(ガス)タンク跡地(あとち)草叢(くさむら)を、元気に駆け回っていると()う事である。

人生は失敗の連続ではある。失敗の無い人もいなければ、取り返しのつかない失敗も無い。然し、大きすぎる青春の蹉跌の場合は? 次回はそんな青春の蹉跌の物語である。次回、『第29話 仰げば尊し【前編】』。私達は沢山の師に支えられ、導かれ生きているのだ。お楽しみに。

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