第28話 トリアージ【後編】
そして、間髪をいれず、祐子からの電話があった。祐子の声は、既に、涙声であった。祐子に因れば、概ね、正太郎からのメールの通りではあった。其れは、此処数時間で、仔猫は殆ど鳴く事がなくなった事。ミルクを如何にかして飲ませようとシリンジに切り替えたものの、全く、受け付けなくなった事。そして、極めて不吉な事ではあるが、心なしか、体温がどんどん冷たくなって行った事。などを交々と訴え続けた。祐子は23時頃迄は正太郎の家にいたのであるが、流石に年頃の娘の事でもある。祐子の母親からの安否確認の為の連絡が、祐子の携帯にあったのを機に、正太郎の母親がお詫びの電話を入れ、正太郎がお詫び方々、祐子を家まで送り届けに行ったのであった。此れは、如何に近所で幼馴染であると謂う間柄であっても、山本家に対して誠意を示しておかねばならない正太郎なりの、気遣いでもあった。其れでも祐子は、例え徹夜となっても看病をしたいと、半泣きで頻りに駄々を捏ねたが、流石に其れは許可されずに、何とか正太郎と祐子の母親に宥められ、渋々乍らも諦めたのであった。然し、其の代り、明日、払暁と共に正太郎の家に行き、看病の手伝いをすると謂う約束は取り付けたのである。祐子との通話を終えたいずなは、暫し、茫然自失の態で部屋の中に佇立していた。いずなの双眸からは、見る見る内に大量の涙が流れ出していた。そして、本人も意識しない儘に、激しい慟哭を始めていた。
いやああー。
悲鳴の様な異様な叫び声が上がった。いずなは、突然、わあわあと大声を挙げ、泣き始めたのであった。本来であれば、異変は家族には分らぬ筈ではあった。然し、夕食時のいずなのちょっとした違和感を察知した順子先生が、偶々、二階迄様子を見に来た事で、自室で戸も締めない儘に、号泣するいずなが発見されたのである。小柄ないずなは母親に肩を抱かれ階下の居間に連れて来られた。其処には吾郎先生も居たが、潸然としたいずなの欷歔を見ても、吾郎先生は、存外、落ち着いていた。此れは、医者と謂う吾郎先生の職業柄の通弊であったのかもしれないし、また、物に動じない吾郎先生の生来の気質によるものであったかもしれず、或いは、順子先生が、正しくそうであった様に、夕食時のいずなの些細な違和感を、医師としての観察眼が見逃さなかった為に、或る程度、此の様な状況を、予見出来ただけなのやもしれなかった。
「一体、如何したと謂うのだね?」
吾郎先生は、何時もの様に、穏やかに尋ねる。其処で、いずなは潸然なる儘に、全てを吐露した。通学途上で仔猫を拾ってしまった事。午前中の授業を全てサボってしまった事。独力で解決する心算であったが、結局は、何も出来なかった事。でも、何も謂わないうちから、友人達が奔走して助けてくれた事。のみならず、教師達迄が自分を助けてくれた事。そして、今、其の仔猫は瀕死の状態にある事。其れらを、涙乍らに、そして、時折、噦り上げ乍ら、両親に打ち明けたのであった。吾郎先生と順子先生は思わず顔を見合わせた。そして、暫し間を擱いた後に、徐に、順子先生が静かな口調で諭し始めた。
「菜月ちゃん。其れについては、前にも謂ったかもしれないけど…」
順子先生の言葉は、頗る穏やかではあった。然し穏やかなれど、其の調子は、微かではあるが、何処と無く、批判的な色彩を帯びていた事は間違い無かった。然し、豈図らんや、言葉の途中で、吾郎先生が右手を上げ、順子先生を制した。順子先生は思わず口を噤むと、吾郎先生が徐に口を開いた。
「状況は良く分かったよ。色々と考え、議論しなければならない事もあるかもしれない。だが、菜月ちゃん、今日は休もう。今、此処で、我々に出来る事は何も無い…。そう、何も無いのだ。若し、我々に、何か出来る事があるとすれば、其の仔の無事を祈る事と、明日の為に休む事だけだ。だから、休もう。だが、其の代り、明日、朝になったら、一緒に高野君の家に出掛けようじゃないか。其処で最高の医療を約束する」
吾郎先生が訥々と語る其の言葉の内には、一種不思議な暖かみと安心感があった。
「パパ…」
いずなは吾郎先生に抱きついた。そして、号泣だった。
吾郎先生は欷歔する娘の髪を、優しく梳るだけだった。
翌日、朝6時。吾郎先生は書斎にいた。穏やかな表情で新聞を読んでいる。身長160センチ足らずの酷く小柄な此の先生が、口ひげを蓄え煙草を燻らせ乍ら、モーニングコーヒーを嗜んでいる姿は、何処か喜劇役者の様であり、聊か、滑稽な趣すらある。其処へいずなが入って来た。
「おはよう」
吾郎先生は優しく声を掛けた。
「おはよう…パパ」
いずなは、吾郎先生の挨拶に居住まいを直すと、慌てて挨拶をした。
(何ともはや、酷い顔だ)
吾郎先生は愛娘の顔を見て、まず、そう思った。ゲッソリと窶れ、憔悴しきった相好。目の下にくっきりと浮かんだ隈。恐らくは、まんじりとも出来無かったに、相違ない。
(無理も無い)
そう思わざるを得ない。吾郎先生は愛娘の心根の優しさを知悉している。感情的になるなと謂う方が、抑々、無理な話であろう。吾郎先生、順子先生、伴に医師である。割と死が身近な職業でも有る。死が決して美しいものでも無ければ、甘美なものでも無い事を知悉しているのである。死とは只管に残酷なものなのである。其の身内からすれば、死とは、唯単に、強烈な喪失でしかない。此の夫妻にあって、娘が生き物を飼う事を禁じた最大の理由は、或いは、此の感受性の強すぎる愛娘を、其れらから、少しでも遠ざけたかっただけなのかもしれない。
「正太郎君の方は?」
先生が穏やかに尋ねた。
「うん。もう起きている。と、謂うよりも、…寝ていないみたい」
吾郎先生は、悲しげに微かな溜息を一つ吐いた。
「そうか…。そして、猫ちゃんは?」
「未だ、生きているって」
いずなは、正太郎からのメールによる情報を伝えた。正太郎からの情報では、確かに未だ生きてはいるとの事であった。然し其れは、多分に正太郎やいずなの強い願望も混じっている。文面では、生きているとはなってはいたが、状況を正確に記せば、寧ろ、未だ死んではいないと謂う方が正確な処なのだろう。恐らくは、人間の今際と同様に、医師に因る死亡の確認が出来ていないだけ、と謂う状況なのかもしれない。恐らくは、其の小さな魂魄は死の大河の畔を彷徨っている状態なのは、何ら疑念の余地も無かった。いずなと吾郎先生は7時前に吾郎先生の運転する銀色のベンツで出発した。途中、入江岡の駅前で恰幅の良い髭だらけの男をひろった。恐らくは、吾郎先生の言葉を借りれば、最高の医療なのだろう。男は黒い大きな診療鞄を持って後部座席に乗り込むと、吾郎先生に向かって、斯う謂った。
「全く、お前さんと来たら、相変わらず、人使いが荒いよなあ」
男は其処で言葉を切ると、今度はいずなに対して、ニコニコと快活そうに話しかけてきた。
「やあ、菜月ちゃん。お久し振り。いや、見違えたよ。すっかり綺麗になったね、お母さんに似て良かったよ」
「三神のおじさま…。随分、ご無沙汰しております」
いずなは、居住まいを直すと、慌てて前の座席から挨拶をした。此の男は三神新太郎と謂う、清水の入江岡で動物病院を営む獣医さんであった。父親である吾郎先生の古くからの友人、所謂、刎頸の友でもある。
「ハハハ、処で、患者さんは菜月ちゃんのお友達のおうちかい?」
「…はい」
「成程。そうか。其れで、似気も無くと謂う訳かい? 吾郎らしく無いとは思ってはいたが…」
三神先生の言葉は何時しか吾郎先生に向けられていた様である。
「ああ、お休みの処すまんね」
いずなは、此れ迄の経緯を細々と話した。特に昨夜半からの件の処では、大柄な先生は表情を曇らせた。頓て、吾郎先生が運転するベンツは、寒風が吹き荒ぶ、渋川橋を渡り正太郎の家に到着した。
正太郎の集合住宅は、巴川と新幹線の交点に接する地元瓦斯会社の社宅であり、其の昔、昭和の時代には瓦斯タンクがあった場所でもあった。今でも、敷地の周りには金網で囲われている。社宅のあるところ以外は雑草が生い茂る資材置き場となっており、駐車スペースには事欠かなかった。尤も、此の季節の事である。緑は略無く、一面、枯れ草に覆われた冬の色で強調されていた。吾郎先生は草叢にベンツを止めると、三神先生は黒い鞄を持って、
「扨と、それじゃあ、行って来るか」
と謂い乍ら、快活そうに草叢に降り立った。正太郎の集合住宅の入口周辺に、祐子が寒そうに肩を竦め乍ら立っていた。助手席に座るいずなの姿に気がついたのであろう。新太郎先生に会釈をしつつ、入れ違いになる形で車の方に寄って来た。
「ゆうちん」
「いずなちゃん」
いずなは祐子を車の中に招き入れた。祐子は涙を何とか堪え乍ら、後部座席に乗り込むと、いずなに挨拶もそこそこに、状況を話し始めた。祐子に因れば、状況は然して変ってはいないと謂う。昨晩に較ぶれば、ゴロゴロ音が出てきたりと、素人目には多少元気になった様に映るが、正直な処判らないと謂うのが、本当の処であった。唯、希望的な所見を述べれば、朝一番でミルクを多少飲んだとの事であった。今頃は正太郎が中で三神先生に状況を説明している事であろう。続いて、祐子はいずなの父親に会釈をしつつ、挨拶を交わした。車内のバックミラー越しの対面であり、二言、三言、言葉を交わしただけに過ぎなかったが、湧き上がる些細な違和感。其れは。
(私は、過去に此の人と何処かであった事がある。)
其れであった。異様な迄に記憶力の良い、此の少女の事である。恐らく其れは、事実なのだろう。だが、一体、何処で? 祐子は懸命に記憶を辿ってみる。抑々、祐子の人生に於いて、いずなとの接点は無かった筈である。にも拘らず、此の優しげな物腰の、糸の様に細い目をした紳士とは、必ず何処かで会っている筈なのだ。其れは間違いの無い事であり、祐子の記憶が、確実にそう謂っている。然し、一体、何処でだろう? 尤も、いくら、祐子の記憶と謂っても、多少の齟齬、捍格が無いとも謂い切れない。其れに、此の稀有な経歴を持つ吾郎先生の事である。当然、若い頃の写真などもネット上に出回っており、其の際に、祐子が閲覧している可能性もあるし、或いは、祐子が物心の就く以前に、当番医か何かで、吾郎先生の診療を受けていた可能性は捨てきれない。だが…。祐子の記憶は其れを明白に否定している。恐らくは、もっと何か密接な形で接点を持っている筈なのだ。然し、祐子の記憶の洪水は其処で堰き止められた。三神医師と正太郎が集合住宅の入口から、車の方へ歩いてきたのだ。正太郎の右手には白く赤い屋根の蓋がついた、動物用のキャリーバックが握られている。昨日のうちに購入したものに違いない。
「それでは、先生。何卒、宜しくお願いします」
正太郎はそう謂うと、深々と頭を下げた。三神先生は大きく頷くと、
「ああ、分ったよ。君もゆっくりと休むべきだね。此の仔の事は任せてくれたまえ」
三神先生はそう謂うと、巨体を揺すり乍ら車に乗り込んだ。入替りに祐子が降りると、矢庭に車が出発した。後方で、正太郎と祐子が深々と頭を下げ、お辞儀をしている。
動き出した車の中で、怖ず怖ずといずなは三神先生に尋ねた。
「…如何でした?」
三神先生は難しい顔を緩めると、
「ああ、菜月ちゃん。大丈夫だよ。バイタルは非常に安定している。もう、心配はいらない。死神は去って行ったよ」
一気に、いずなの全身の筋肉が弛緩するのを感じた。吾郎先生はハンドルを握り乍ら尋ねた。
「一体、何があったと謂うのだね。昨日聞いた話の限りでは、素人目にも難しいと感じたのだが」
三神先生は、専門外である吾郎先生が、謙虚に自らを素人とした事を腐し乍ら、
「誰が素人だって? 全く、お前さんと来たら。まあ、素人と謂えば、あの子、正太郎君だっけか? 全く飛んでも無いなあ」
「?」
「昨日の夜にミルクの中に、自分が風邪の際に処方された薬を少々混ぜたんだそうだ。併せて、ウイスキーもな…。まあ、殆ど、飲まなかった様だが」
「ミルクに人間の為の抗菌剤と酒を混ぜたって謂うのかい?」
「ああ、そうだ。全く、素人が飛んでも無い事をしやがる」
三神先生は苦虫を噛み潰した様な態で同意する。
「確かに、余り褒められた事じゃあないね」
「全くだ。だが、まあ此の仔も其のお陰で生き永らえたと謂えるかもしれんがね」
三神先生は褒められた事では無い筈の、正太郎の咄嗟の機転を渋々乍らも賞賛した。いずなは、恐る恐る疑問をぶつけて見た。
「其れで、何で其の仔を連れて行くの?」
三神先生は笑い乍ら応える。
「ああ、此れは検査の為さ。飼う以上はいろいろ検査をしなければならないし、何よりも本当の治療が必要だろう」
帰りの途次、いずなは父親に懇願し、一ヶ所立ち寄ってもらった。件の小芝神社の裏手の道である。いずなは車から降りると、此の仔を拾った箱を探した。然し、いずなが立ち寄った時にはもう、
件の白い箱は既に無くなっていた。
恐らくは、見かねた近隣の住人の誰かが、憐惜の情深く、哀戚を盡し懇ろに弔った物に相違無い。いずなは目頭が熱くなった。いずなは頭を垂れ、両手を合わせると、薄倖の仔猫達の為に、真摯に祈った。いずなは涙を拭うと、車まで戻った。吾郎先生は身動ぎもせずに謂った。
「此処で拾ったのかい?」
「…うん」
「そうか…」
吾郎先生は黙って車を発進させた。いずなは後方に遠ざかる件の場所を見ていたが、頓て、旧国一の広い道を左折すると、其れも見えなくなった。
入江岡の駅で三神先生を降ろすと、吾郎先生は、一路、自宅へと向かった。途次、いずなが吾郎先生に対して呟く様に謂った。
「あのね、パパ…」
いずなは、其処で一度、口を噤むと、やや、間を擱いて、振り絞る様に続けた。
「ごめんなさい…」
其れに対して、吾郎先生は何も謂わなかった。然し、暫しの沈黙の後に、ハッキリと斯う謂った。
「菜月ちゃん。君のした事は間違っているよ。最後迄、責任を全う出来なければ、行動を起こすべきでは無いのだよ」
吾郎先生は、奇しくもいずなの大好きなアニメの隊長さんと同じ事を謂った。其の言葉には、何人たりとも抗い難い様な重みがあった。いずなは思わず、項垂れて肯いていた。
「…はい」
然し、其の後、吾郎先生は、実に意外な事を謂い出した。
「でも…、菜月ちゃん。君のした事は、人として正しい。其の優しさは本当に大切な事なんだよ。僕は君が優しく思いやりのある子に育ってくれた事を誇りに思う」
「えっ」
いずなは多少の混乱の儘に頷いた。
「僕は、今、君を酷く混乱させている事も理解している。僕の謂っている事は明らかな二律背反。完全な矛盾だからねえ。でも、結果論であるが、一つの生命が救われたのだ。本当に良かったと思うよ。結局、人間は此の様な矛盾の中で、最善を尽くして生きて行くしかないのだよ」
「はい」
いずなは力無く頷いた。吾郎先生が謂わんとしている事も朧気乍ら理解出来た。例えば、今回、いずながあの猫ちゃんを拾って、無事、飼えたとしよう。然し、次に同様な事があったとしたら。そして、又、次にも。結局、きりが無いのだ。何処かで、そして、何時かは其の連鎖を断ち切るしかないのだ。其の時に、飼える事になった猫と切り捨てられた猫との違いは、一体なんであろうか? 吾郎先生の謂う二律背反についても、頗る漠然としてではあるが、分る気がした。本当は、救えるものであれば、全てを救いたいのだ。だが、其れが適わぬが故に、トリアージと謂う概念が存在するのである。いずなは、其の様な取り留めの無い考えを思い巡らせ乍ら、家路に就いたのであった。
自宅に帰り着くと、心配そうな面持ちの順子先生が出迎えた。
「如何でしたの」
吾郎先生が快活そうに応える。
「ああ、大丈夫だよ。何よりも、正太郎君の看病。そして、新太郎が宜しくやってくれたよ」
「そう…。よかったわね。菜月ちゃん」
順子先生は、いずなにニッコリとした笑顔を向ける。一方、いずなは若干暗い面持ちである。先程の、吾郎先生の言葉を重く受け止めていたに相違無い。だが、母親の心底嬉しそうな顔を見た時、思わず、涙が込み上げて来た。母の胸に飛び込むのと同時に斯う謂った。
「うん、有難うママ。そして、…ごめんなさい」
其れ以上の言葉は出なかった。そして、いずなは母の胸の中で泣き乍らある事に気がついた。其れは、吃驚する程、単純な事実でもあった。吾郎先生にしても、順子先生にしても、医師を生業としているのである。其の職は、生命を軽んじる人間が就ける職業ではないし、また、そうあるべきでも無いのだ。生命や死に対して、常に、厳粛に、そして、真摯に向き合い、患者の苦しみの軽減と死神との戦いを、日常としている人々なのである。昨日、いずなが遭遇した仔猫達の死。そして、其の悲しみ、哀れみ、驚き、怒り。其の時受けたあらゆる感情が、いずなにとっては、明らかに非日常であった。だが、吾郎先生や順子先生にとっては、或る意味、其れが日常なのである。いずなが感じた感情の、何倍、或いは、何十倍もの感情を、日常の中に感じているのである。其の中には、当然、断腸の思い、砂を噛む思いなどが含まれていて、然るべきなのだ。
「本当にごめんなさい。パパ。ママ」
いずなは、改めて、両親に謝罪した。母親はいずなを抱きしめると、黙って頭を撫でた。父親もニコニコして見守っている。実に、素敵な尊敬すべき家族である。
扨、数日後、仔猫は完全に元気を恢復した。そして、今日は、其の仔猫のお披露目の会である。其れは正太郎と祐子の発案であり、場所は手狭な正太郎の家ではなく、近所である祐子の家が会場となったのである。関係者であるメンバーが、三々五々、祐子の家に集合しつつある。高志、ひろみ、明彦、凛子、敬介、いずな、ヤスベエ、葵、みうみう、である。祐子は、若干、興奮気味である。其れはそうであろう。以前にも描写したとおり、友人達が集う家と謂う物に、此の肥満気味の少女はかなりの憧憬を持っていた。立ったり、座ったり、お茶を淹れたり、お菓子を持ってきたりと、独楽鼠の様に忙しく動きまわっていた。また、祐子の飼い犬であるペスも同様である。此のベージュの毛並みを持つ、ラブラドールレトリバーのペスは、元来、社交的な犬種なのである。日課であるお昼寝を取り止めて、ぶんぶんぶんと尻尾を左右に振り乍ら、人々の間を邌り歩き、皆に愛想を振りまいていた。特に、みうみうが来た時などは、動物好きの此の少女の事である。
「ふわわあ。ワンワンだ。ワンちゃんだあ。」
と大興奮。わんわんと寄って来るペスに対して、
「ふわわあ。かわいいねワンちゃん。ねえ、ゆうちん、此の仔、お名前、何てえの、何てえの、何てえの」
「ペスだよ」
「ふわあ。ペス、ペス。良い子だね」
と、謂い乍ら、ペスの体を撫でている。ペスも、もとより大変クレバーな犬であり、自分に好意を向けている事は良く理解出来るのである。みうみうの傍に寄って来て、座ったみうみうの頬っぺたに鼻を擦り付けると、ぺろぺろと頬を舐め始めた。
「ふわあ、擽ったいよ。ペス」
「コラッ、ペス。あんまり燥いじゃ駄目だよ。迷惑でしょ」
祐子が軽く窘めるが、祐子自身も先程から、少々、軽躁状態にある。
「まあまあ、祐子。ペスも大喜びじゃないの? みうみうは動物が大好きだからねー。ところで、本日の主役は未だ来ないのかな?」
助け舟を出すのは、二組でのみうみうの相棒、ヤスベエである。
「其れに、サッカー部のでこぼこブラザーズもいねーぞ」
辺りを顧眄していた明彦が呟く。
「ああ、彼奴らは、部活だとさ。全く、因果なクラブだぜ」
祐子の寝台を背凭れに、煎餅を頬張っていた高志が口を挟む。倉皇としている内に、本日の主役が到着した。
白いお家の赤い屋根の可愛らしいキャリーバッグを抱えた正太郎が祐子の部屋へ入って来た。一同の視線が注がれた。正太郎がゲートを開けてやると、中には、立派な雉トラ模様の仔猫がちょこんとしており、周囲の状況を躊躇し乍らも、矯めつ眇めつしているのが、良く分った。そう、此の一週間で、漸く目も開いたのだ。頓て、二、三歩歩み出ると、
「に…い」
と鳴いた。
「か、かわいい」
「ふわわー」
「ムッキー」
と、集まった人たち、主に女性からであるが、一斉に感嘆が洩れ、周囲の耳目を集める形となった。仔猫は覚束無い足取りで、部屋の中央の方へ歩いていったが、自分を見つめる視線の中に、ベージュ色の毛を纏った巨大な生物を認めると、思わず慄然として、立ち竦んだ。祐子は驚いて、慌てて止めた。
「ペス。駄目だよ」
祐子の『駄目だよ』の前には『虐めちゃ』と謂う文字が省略されていたに相違無い。其れに対して、ペスは『わん』と、即座に答えを返していた。
(そんな事。しないよ)
恐らく、そう謂っていたのだろう。仔猫は、恰も、『何の興味も無いよ』と謂った風でペスと視線を合わさずにテトテトと歩を進める。一度、コテンと倒れたが、起き上がり、ゆっくりと歩き出した。然し、其の後、恐る恐る、ペスに近づくと、腹の下に潜り込み、ペスのお乳にむしゃぶりつき、チュパチュパと吸い始めた。そして、其の内、ヘソ天の儘、ゴロゴロ謂い乍ら、昼寝を始めてしまった。
「わあ、かわいい」
「ふわー、ふわー」
一斉に歓声を挙げる女子勢。一方、ペスの方は、ぺろぺろと仔猫の顔を舐め乍らも、時折、若干困った様な視線を祐子に送る。
「もう、猫ちゃんたら、ペスは未だ、未婚なのにねえ」
そう謂う祐子を尻目に、つと手を伸ばした高志が、いきなり、ペスのお乳を摘む。
「あっ」
「えっ」
「おわっ」
がぶり。
「うっ、うぎゃあ。犬吉に噛まれた!」
「あっ、いけない。ぺ、ペス。めえよ!」
驚いた祐子が叫ぶ。
「ふわあ、犬吉じゃないよ。ペスだよ」
みうみうが即座に否定するが、高志は其れ処では無い、咄嗟に手を引くと、
「あいたたた、コン畜生、何て事すんだ。此の犬吉め!」
「其れは此方の台詞よ。全く、何てえ事すんのよ。此の人獣共通女性の敵!」
ひろみが、一女性として熱り立つ。
「いや、だってよ。猫吉が無邪気にむしゃぶりついてても平気だったから、無邪気に摘んだら大丈夫かなと…」
「大丈夫な訳ないでしょ! 此のお馬鹿!」
「全く、何、やってんだ。大体、無邪気に摘んで、如何しようってんだよ。本当にバカだなー」
敬介がにやつき乍ら、呆れる。明彦も眉を顰めつつ、
「一体全体、何がしたかったのやら…」
「いや、喜んでもらえ…」
「な、訳ないでしょ。あんたって人は、全くもう」
ひろみとしては、彼氏であるハロゲン族の不始末を恐縮せざるを得ない。然し、祐子は飼い主として、其れ処ではない。
「ペス、めえよ。高志お兄ちゃんにゴメンしなさい」
だが、ペスはくうんと、不服そうに鼻を鳴らす。明らかに納得していない様子だ。
「ちょっと、祐子、何、謂ってるの。あんた見てなかったの? あれは、指を噛み千切っても良い次元よ」
凛子が同性として、義憤に駆られる。
「いや、流石に、噛み千切られたら困るけど…。」
ひろみが高志の不始末を申し訳無さ気に呟く。葵が勘良く、話を逸らす。
「ところで、此の仔。お名前は決まったの? 正太君」
然し、其れを高志が引き取って答えた。
「そんなの、猫吉で充分だろ。そうだ。良い機会だ。此れを機に、お前も犬吉と命名しよう…」
だが、ペスも謂っている事が判るのか、うううーと低い唸り声を挙げている。如何やら、不服な様子である。
「いや、其の名前。もうちょっと、何とかしろよ。いくらなんでも、ネーミングセンスってもんがあんだろ」
明彦が呆れる。
「うーん、じゃあ、熊吉」
「いや、だから…」
「じゃあ、チャトラッシュ・ド・クリストファー・寅吉ってのは如何だ」
「何で、ミドルネームみたくなってる? 大体、此奴、茶トラじゃなくて雉トラだぞ」
異論を唱える明彦の横から、正太郎が、
「大体、猫吉や寅吉って何だよ。抑々、此奴。雌だぞ」
「うわあ、何、謂ってやがる。お前、引き取った当日、メールで雄とか謂ってたじゃねーか」
「ああ、其れなんだが」
正太郎はきまり悪そうに頭を掻いた。
「実は、お袋の謂う事を鵜呑みにして…。ほれ、此奴の腹は真っ白だろ。でもって、お尻の下にクローバー型の黒い模様があるだろう。ほれ、腹側の方だ。其れを見たお袋の馬鹿が、立派なのがついてるよって謂うもんだから、此方人等も、つい、騙されて…」
「あっ、本当だ」
ひろみが呟く。然し、高志はそんなひろみを嘲笑う。
「何、謂ってやがる。此れは普通に唯の模様じゃねーか。それに、其の下にあるのはどー見ても、立派な ま…。ぐはあ」
「下品!」
全てを謂わせずに、ひろみの肘打ちが、高志の鳩尾に炸裂する。
「ムッキー、本当に下品だね。ハロゲン族は。大体、失礼だよ。いきなりお乳摘むなんて、一般社会なら、即、逮捕案件だよ」
と、女性陣からは、非難轟々である。そんな高志を見かねてか、正太郎が助け舟を出す様に、謂った。
「ああ、家では、如何やら、『ミニャラ』に落ち着きそうなんだが…」
「よせよせ。貧乏臭い。」
「何だと」
息巻く正太郎に目もくれずに、高志が続ける。
「例えば、犬吉を見ろ」
ペスはうううーと、低い唸り声を挙げている。如何やら、犬吉と謂うのがお気に召さないらしい。
「えーっと、ペスだっけか? 如何にもお金持ちのお嬢さんの飼い犬みたいじゃねーか」
「そんな事無いよ」
そう謂うのは、祐子である。ペスは元々、祐子が中学3年の時、産れた直後に、祐子の母方の伯母から貰ってきたのである。当初から祐子に大変良く懐いており、孤独がちな祐子の篤実な友であった。当初はラブラドールレトリバーに由来して、ラブと命名されていたのだが、此の犬は其の名前に一向に反応せず、祐子も困惑していたと謂う。其ればかりか、祐子が修学旅行で購入した京都土産のタペストリーの軸をガリガリと齧り、其の都度、『タペストリー、めっ』と、祐子に叱られていたと謂う。何時しか、件のタペストリーもぼろぼろになって千切れ、軸はペスのおもちゃとなってしまったのであるが、其の頃には、彼の犬の名もペスとなったと謂う次第であった。其の経緯を聞いた高志は嘲笑う。
「なんだ。犬吉。お前も、存外、馬鹿犬だったんだな」
然し、其れを聞いたペスは、うううーと低く唸っていたが、其のうち、わんわんわんと激しく高志に向かって吠え立てた。
「ひぃっ」
「あっ、駄目だよ。高志くん。此の子、意外と言葉が分るから。…特に悪口は」
と、窘める祐子。更に、みうみうがペスを抱きかかえると、懸命に頭を撫で乍ら、
「ほうら、ペス。良い子、良い子。ハロゲン族は馬鹿なんだから、相手にしちゃ駄目。ペスちゃんは、ミニャラちゃんの面倒を見なければいけないでしょ」
そう謂い乍ら、ペスに抱きつく。ペスも、くうんと鼻を鳴らすと、みうみうの頬を舐め、続いて、ミニャラの額を舐め始めた。ミニャラはすかさず、ゴロゴロ謂い出した。
「ところで、此の哺乳瓶。如何しよう」
祐子が、当初、いずなが薬局で買った哺乳瓶を取り出す。
「ああ、いずなが買った奴か、如何見ても人間用だもんな。ネットで転売すればいいんじゃねーの」
早速、高志がオークションサイトへ展示する。
『哺乳瓶売ります』
「なんかぱっとしないわね」
凛子が零す。明彦が文言を少々修正する。
『哺乳瓶売ります。(人間用)』
「哺乳瓶は、大概、人間用だろうが」
と、敬介。
「こんなの買い手がつかないでしょ。いいとこ、1円よ」
ひろみが口を尖らす。其処へヤスベエが割って入ってきた。
「そんなのマーケティング次第でしょ。あたしに任せなさい」
『売ります。赤ちゃんの靴。哺乳瓶。未使用』
「如何? 斯うすれば、大分、説得力が出たでしょう? 同情票も集まる事、請け合いよ」
正太郎はジロリと呆れた様に流眄し乍ら、斯う謂った。
「誰が小説を書けと謂った? 大体、買い手がついた時に、其の赤ちゃんの靴とやらは如何すんだよ?」
「そんなの、決ってんじゃないの。赤ちゃんの靴を買って来て、帳尻を合わせれば済む話でしょ」
「バカ謂ってんじゃねー。主客転倒も甚だしいだろ。抑々、赤ちゃんの靴がいくらすると思ってんだ。早く取り消せ」
然し、其の矢先、みうみうがしくしく泣き出してしまった。高志が驚いて声を掛ける。
「ん、如何した。みうみう」
「あのね、此の赤ちゃんの事考えたら、何か悲しくなっちゃって」
「うわあ、何、謂ってやがる。抑々が、やじろべえの捏ち上げじゃねーか! 何、真に受けてやがんだ!」
一方、ひろみもハンカチで目頭を押さえている。
「何か、赤ちゃんのお母さんの心情を思うと、切なくなっちゃって」
「うわー、てめーまで何、謂ってやがる。こんな、くっだらねえステマに引っ掛かりやがって。大体、ネタとしても古典的だぞ。フラッシュ・フィクションの典型的な奴じゃねーか」
ひろみが驚いて反応する。
「えっ、そうなの?」
正太郎が引き取って応える。
「ああ、高志の謂ったとおりだ。フラッシュ・フィクションの典型でな。ネットで、『世界一短い小説』と打ち込むと、死ぬ程出てくる。作者はアーネスト・ヘミングウェイと謂う事になっているが、まあ、尤も、如何やら、此方はガセらしいがな…」
「ムッキー、本当だ、死ぬ程、出て来た」
「全く、バカバカしい。其れより、早く取り消せよ。見ろ、ミニャラも寝ちまったぞ」
ミニャラはゴロゴロ謂い乍ら、ペスのお腹にもぐりこむと、暖かそうに丸まっている。
「然し、此奴も元気になって、本当に良かったな。もう、大丈夫なのか?」
心配そうに問い掛ける敬介。
「ああ、もう心配ないって。検査の結果、変な病気も持って無いってさ」
「本当に良かったわね」
思わず、凛子も相槌を打つ。みうみうも楽しそうに続く。
「良かったねー。ミニャラちゃん。ミニャラちゃんは美人だし、模様も立派なトラ縞だし、お腹の模様はヒョウ柄も入っているし、ご先祖様は、屹度、虎か豹だね」
其処で、すかさず、高志が突っ込む。
「おいおい、そりゃ生物学的におかしいだろ。大体、虎か豹が先祖なら、今の此奴は明らかに退化だろ。知能指数も身体能力も如何見ても退化しているもんな」
「むっ、ハロゲン族のバカー。可愛さが進化しているから、いいんだよ」
他愛も無い話をワイワイ謂いあうメンバー達。いずなは静かにミニャラに歩み寄るとそっと呟いた。
「本当に良かったね。ミニャラちゃん。でも、ごめんね…、私はあなたの弟や妹達を助けてあげられなかった。ごめんなさい」
呟くいずなの瞳には、何時しか涙が浮かんでいた。いずなの哀悼にも似た懺悔を遮る様に、凛とした声が響いた。
「違うよ。其れは、違うよ。いずなちゃん」
敬介である。
「其れは、絶対に違う」
敬介は、今一度、繰り返した。
「あの時、通りがかったのがいずなちゃんだったから、今、此奴は此処にいるんだ。若し、あの時、通りがかったのが俺だったら、いや、例え正太であっても、多分、此奴は、今、此の世にはいないんだ。そして、其の結果こそが全てなんだよ」
敬介は毅然として謂った。斯う謂った台詞を吐く時の敬介は、いつも田舎の小学生とからかわれている時とは違い、頗る大人びて見える。いや、もっと、成熟した大人の魅力とでも謂おうか、そう、正しく吾郎先生のそれなのである。いずなは敬介の中に父親の俤を見ていたのである。
「うわーん」
いずなは図らずも号泣してしまった。傍らでいずなの髪を梳る優しい敬介。そして、いずなの足許に件のミニャラが覚束ない足取りで近づいてきた。いずなが手を差し伸べると、懸命に其の指をぺろぺろと舐める。
「ほら、ミニャラが、『助けてくれて有難う』ってさ」
すかさず、敬介が謂う。
「もう、ケースケのバカ。此れ以上、あたしを泣かせるな」
いずなはそう謂うと、ミニャラの方に向き直り、優しく謂った。
「本当に良かったね。ミニャラちゃん」
ミニャラはそんないずなに構わず、ゴロゴロ謂い乍ら、いつまでも、いずなの指を舐めているのであった。
斯くして、高野家に新しく縞模様の家族が誕生した。結局、名前も高志の希望は叶わず、ミニャラと謂う事に落ち着いた。其のミニャラも、今では、正太郎の家の前の瓦斯タンク跡地の草叢を、元気に駆け回っていると謂う事である。
人生は失敗の連続ではある。失敗の無い人もいなければ、取り返しのつかない失敗も無い。然し、大きすぎる青春の蹉跌の場合は? 次回はそんな青春の蹉跌の物語である。次回、『第29話 仰げば尊し【前編】』。私達は沢山の師に支えられ、導かれ生きているのだ。お楽しみに。




