第27話 トリアージ【前編】
唐突ではあるが、医学用語にトリアージと謂う言葉がある。辞典を紐解いて見ても、選別を表す英語、若しくは、仏語とされている。選別などと表記をすれば、輓近流行の鬱アニメの様な展開を連想する向きも多いのであろうが、残念乍ら今回のお話は、若干、そう謂った要素を含んだ展開でもある。
トリアージ。日本語的には負傷者選別とでも訳すのであろうか。災害時、或いは、非常時の際に、医師、医療資源、救命資材そして時間が有限である以上、救命手当てをすべき優先順位をつけるのは、須く止むを得ない事ではあるのだが、若し、救助者と要救助者の需給バランスがアンマッチであった場合は如何であろう。殊、一分一秒を争う状況の場合、其の救助の序列は非常に大きな意味合いを持ってくるのである。トリアージと謂うのは、其の際に、救助すべき順番、或いは、其の優先度合を意味する用語なのである。従って、一目見て手の施し様の無い死亡者は、当然、是非も無い話なのではあるが、例え、手を尽くしたとしても、救い得ない様な、或いは、救い得る可能性の小さい瀕死の患者にあっては、優先度合として、劣位に位置する事となる。本来であれば、要救助者は斉しく救助、救恤されて、然るべき筈である。にも拘らず、斯うした言葉が存在する、と謂う現実があると謂う事は、かなり、衝撃的で有り、非人道的ですら有る。何ともやり切れぬ話ではあるが、斯うした、合理的な、そう、冷酷な迄に合理的な判断は、現実問題として、必要になって来る事が、時としてあるのだ。トリアージと謂う概念は、謂わば、其の序列を表す用語なのである。即ち、治療を優先すべき序列とでも謂おうか、要は、命の選択、命の優先順位の序列が、此の言葉の謂いなのである。
いずなが此の言葉を牢記せざるを得なかった事象に直面したのは、曇よりとした鉛色をした重い雲が垂れ込め、今にも、氷色をした氷雨が降り出しそうな、寒い冬の入りが近づいた或る朝の出来事である。小芝神社と謂う、地元の氏神様のお社様、其の裏手の道から旧国道1号を横断し清水高校通用門へと至る道は、慣習的に清水高校に通う多くの学生達の自転車通学路となっており、巴川にあっては稚児橋より下流の港方面や、清水、不二見、駒越そして三保方面、そして、或いは稚児橋から、入江、追分、有度、草薙、更には静岡方面、またJR線以南の岡、船越方面の学生たちは、概ね街道を一本外れた此の裏通りを通学路として活用していたのである。尤も最近では、旧国道1号のクミアイ化学のある北脇付近から新幹線に平行して東へ向かい、渋川橋を経る、比較的最近出来た広くて大きな県道も選択される様ではある。其れこそ今迄、散々描写された正太郎と祐子の通学路が、将に、其れに該当し、此方の道でも、最終的には略、一直線に清水高校に突き当たるのである。と、謂うよりも、北脇からは、清水高校迄一直線の幅広い片側2車線の県道であり、更には両側にゆったりとした歩道もあり、追分以西の有度、草薙方面の学生たちは此方のルートを選択する様になったとの事である。其れでも、大多数の学生たちは昔乍らの小芝神社ルートを選択していた。要するに、学校より南部、西部方面の大多数の生徒たちは、昔乍らの小芝神社の裏手の道を利用していたのである。
いずなが通学の際に、此の道路を走行していた時の事である。小芝神社の搦手口の際に白い真新しいダンボールが、ポツンと置かれていたのを発見した。天蓋を虚空に向けて開いた、白いダンボール箱である。いずなは一目見た瞬間に何やら怪しい胸騒ぎを覚え、思わず自転車を止めた。何気無く其の箱を覗き込んだいずなは、思わず慄然とした。中には、10センチ足らずの縞模様の物体。雉トラ模様の5、6匹の仔猫たちが、折り重なる様に横たわっていたのだ。未だ、目すら開いてはいない。
『ひいっ』
いずなは、両手を口許に持ってくると、思わず悲鳴を挙げそうになった。
(何て酷い事をするんだろう)
最初に脳裏に浮かんだ感想は其れだった。折り重なった仔猫たちに、いずなが恐る恐る触れて見た。然し、いずなは、寸での処でピクリと手を引っ込めた。温もりがまるで無い。有ろう事か、其れは最早、恰も氷の様に冷たく実に無機質的な温度で、とても、生命の其れでは無かった。恐らくは、もう、とっくに生命の炎は消し飛んでいるのであろうが、嘗て、生物であった時の名残は辛うじて留めていたに過ぎない。いずなの瞼には涙が浮かんで来るのをハッキリと自覚した。時節柄、鋭い刃の様な神渡しが、情け容赦も無く、箱の隅々までも浚って行く。然し、其の時、一番端に居た、中でも比較的大柄の一匹だけが、今にも消え入りそうな可細い鳴き声を挙げたのだ。
『…に…い』
いずなの双眸から、再び、涙が止めどなくあふれ出た。
(良かった…)
と、思うのと同時に、冒頭での言葉、トリアージと謂う単語が脳裏を過ぎった。
そう、確かに現実的には、此処で既に、選択なのである。
其れも、冷酷な迄に現実的な、である。今から、いずなが取り得る選択肢は、概ね、以下の4つであろう。
①此の儘、見なかった事にして通り過ぎる。
②箱を全て回収する。
③生きている子猫だけ回収する。
④一匹だけ助ける。
いずなは逡巡した。以前のお話で述べた様に、いずなの自宅は医院である。況してや、今は通学途上でもある。取れる方策は極めて限定的な物となって来る。いくら、優しい両親であっても、生き物を飼う事については頗る難色を示すであろう。現に、いずなが小学生の時分に猫を飼いたがった時も、順子先生に反対された事を思い出した。若し、③や④を選択した場合、いずなの家で飼うか、若しくは、知人、友人達に里親探しを頼むか、再度、捨て直すかの何れかであろう。何れの場合であっても、いずなの責任に於いて決定する事など出来やしない。いや、強いて謂えば、捨て直すと謂う選択肢があるのみなのである。いずなは、直に或る台詞を思い出した。其れは、嘗て見た、いずなが大好きなアニメの主人公の台詞である。
『最後迄、責任を持てないのなら、何もするな!』
此の台詞であった。確かにそうであろう。どんなに感情的に救済を願ったからとて、今のいずなには、其の責を全うする術など無いのである。咄嗟に、いずなは心を決めると、心中で一言、呟いた。
(…ごめん。本当に、ごめんね)
いずなは、①を選択する心算であった。恐らく、此れが最適解なのであろう。如何考えても、此の方法しか無かった。然し、此れなら、安穏として恬安なる儘に、此の仔も他の兄弟姉妹達と仲良く、天国の門を潜る事が出来るやもしれない。そんな事すら考えたのだ。此れも、甚だ、人情味には欠けるにせよ、或る意味、立派なトリアージなのである。此れについては、いずなを責める事等、誰にも出来やしないだろう。寧ろ、現在の此の状況下にあっては、一番、現実的な選択肢なのである。
(何で、此の箱を覗き込んじゃったんだろう。…ひょっとしたら、次に見た人が親切な人で、拾ってくれるかも知れない)
そんな事を思ったりもした。だが、其れを考えた時、自らを瞞着する為の自己欺瞞でしかない事を悟った。其れは確かにそうだ。抑々、そんな親切な人が都合良く現れるのなら、こんな状況になど到っている筈が無いのである。其れに、此処に至るまでの経緯についても思い出したりした。いずなは道路の左側を走行していたのだ。然し、前方右手の小芝神社の際に天蓋が開いた白いダンボール箱を視認した時、態々、自転車の車体を道路の右に寄せ、箱を覗きに行ったのである。つまり、いずな自ら箱の中身を確認しに行ったのだ。そう、いずなには判っていたのだ。いや、あの状況下であれば、大抵の者にも想像がつく筈である。箱の中身が何であるか位は。だから、いずなにも、大方、判っていたのだ。箱の中身が、恐らくは子犬か子猫であろう事は。
(…ごめんね。本当に、ごめんね)
再度、いずなは心の中で叫んでいた。然し、次の刹那。
『に…い』
再び、可細い声が聞こえた。
(お願い。助けてよ)
其の声は間違い無く、そう謂っていた。其れは、今、将に消え行く生命が、最期の力を振り絞った、小さな生命の渾身からの、救助を求める悲鳴の様な叫び声であった。いずなは後に此の状況を思い浮かべる度に、涙が流れ出る事を、禁じ得ない。其の仔は、未だ、目も開いていない。恐らくは、其処にいる、自分を覗き込む者が見えている訳では無いのだ。僅かばかりの気配を察し、一縷の望みに掛けての事だったのだろう。そんな彼が、声を挙げる事すら儘成ら無い此の状況下にあって、細く細く、今にも断ち切れそうな命の綱を擦り減らし乍らも、懸命に、救助を求める悲鳴を挙げているのである。実に、正視に耐えない光景であった。其の声は、とても、弱々しい声だった。然し、其の声は、可細くはあれど、いずなのトリアージを破綻させる程度には、充分過ぎる程の響きを持っていた。いずなは咄嗟の内に意を決した。感情に流されての行動などでは無い、と謂えば嘘になる。然し、此の瞬間だけはいずななりの正義があったのだ。いずなは、涙を拭うと、衝動的に、其れでいて、確固たる意思を持って、其の小さな生命を通学用スポーツバッグの上部、タオルの上に大切に置き、学校に向かって走り出したのだった。
「ねえ、いずな見なかった?」
そう謂って、ヤスベエと葵が祐子の許を訪ねて来たのは、昼休みの前、3限が終わって直の事であった。
「えっ、いずなちゃん如何かしたの?」
祐子が訝しんで尋ねる。確かに、今日の英、数の選択クラスの授業には、いずなの姿は無かった。
「でも、彼奴のチャリは自転車置き場にあったぜ。あんな、紅白だんだらの悪趣味なウオーリーチャリは彼奴しか乗らんだろ。謂われて見れば、確かに、英数クラスでは見掛けなかったが…」
と、英、数、共に上位クラスの高志が謂う。
「俺達は下位組だからなあ。そうだったの? 祐ちゃん」
正太郎は祐子に尋ねる。
「うん…。確かに、英数の時、いずなちゃん居なかったよ」
「そうなのよねえ。あたしも下位組だもんで、3限迄気がつかなかったんだけど。一体、何処へ行ったのかしら」
と、首を捻るヤスベエ。其処へ、
「いずなの姉ちゃんだったら、チャリで通用門から出て行くところを見掛けたぞ。『何処へ行くんだ?』と、声を掛けたら、元気がなさそうな声で、『うん、ちょっと』とか謂っていたが…」
と、話を横で聞いていた六助が答える。
「ねえ、一体、何時の話よ。其れ」
「ああ、えーと、あれは、朝錬の後だからなあ…。一限が始まる前だな。8時10分位かな」
「あんた、何で、其処で止めなかったのよ」
「いや、前店で腹ごしらえでもする心算かと思ってさ」
「何、馬鹿な事、謂ってんのよ。優等生のいずなが、そんな時間から、授業サボって、フラフラ出掛ける訳無いでしょ。あんたじゃあるまいし。大体、前店に行くんだったら、チャリなんか使う訳、無いじゃない。全く、役に立たないわね、此の寸足らず」
「な、なんだと。何て事、謂うんだ。此のバカヤス」
「謂ったわね」
やいのやいの謂い合う、ヤスベエと六助を尻目に、ラインを打ち終わった祐子が、
「此れでよしと。…今、ボストンティーパーティーのラインに入れたよ」
と謂えば、ヤスベエも、
「あたしも、先刻、『清高通信』のチャットにいれた。誰かがいずなを見かけたら、応えてくれるでしょ」
清高通信とは、清高HPに併設されている。チャット機能である。まあ、便利と謂えば便利なのであるが、時折、問題ある使われ方をする事が在る為、其の存続は其の都度、物議を醸す事となっていたが、情報伝達に多大な効用がある為、清高では、学校公認のチャット機能として存続していた。尤も、先述した様に、問題ある使用が為された場合には、学校のみならず、生徒自治組織である生徒会にも緊急停止権限は付与されていた。それに、抑々、今のSNS全盛の時代背景を鑑みれば、どんなに非社交的な人間であっても、複数のラインは組んでおり、ヤスベエ辺りになると、学内関連のラインだけでも30近く組んでいるのが実情であった。
何時の間にか、騒ぎを聞きつけた敬介が、会話に参戦している。
「でも、昨日、いずなちゃんと会った時は、普段どおりだったぞ。最初は何か相談があるとか謂ってたから、ちょっと心配したけど、良く聞いたら、今度のデートは何処に行こうかって相談だったし、いつもどおり、銀座のジュース屋でメロンジュースを飲んで別れたけど、全然、普段どおりで変わりは無かったぞ。相変わらず、チャーミングで可愛かったぞ」
「何だよ。唯の惚気じゃねーか。詰まんねえ情報を、いちいち、入れに来るんじゃねえ。此の薄らとんちき」
「何だと」
と、呆れる高志に対して、気色ばむ敬介。其処へ2組の羽根田美羽と謂う小柄な女の子が、トコトコとやって来た。すかさず、ヤスベエが声を掛ける。
「あっ、みうみう。如何だった」
ヤスベエは友人を頼み、人をやって前店に確認しに行かせたのだ。流石に斯う謂った処は判断が早く、実に如才ない。
「だーめー。前店にはいなかったよー」
みうみうと呼ばれた女の子は酷く間延びした声で答えを返した。
「おっ、何だ。みうみうじゃねーか。相変わらず、乳がでけーな」
とんでもない、がさつな突っ込みをいれるのは、高志である。
「ムーッ、ハロゲン族、エッチー」
みうみうは白地に、笑顔を顰めて不快感を露にし乍らも、其れでも、努めて笑顔で高志に反撃する。斯う謂った、何処か呑気で、気さくで屈託の無い処がみうみうの長所でもある。みうみうもヤスベエやいずなの影響からか、高志の事をハロゲン族と呼ぶのである。
此のみうみうと呼ばれた少女は、ヤスベエの相方で、何時ぞやの遠足の際に体調不良で不参加であった少女である。彼女は身長150センチに満たない、酷く小柄な女の子で、恐らくは、いずなより身長が無い。若干の釣り目にキリリとした眉毛。眼が大きく、割と端正な何処か男好きのする顔立ち乍ら、何時も笑顔を絶やさない口許は、人にのほほんとした印象を与え、如何にもおっとりした性格である事が窺える。然し、此の少女には、他にもまして、極めて、特筆すべき目立った身体的特徴があり、恐らくは、学年を超えて其の名前は認知されていた。其の理由は、先刻、高志がからかった様に、彼女は祐子規模で胸が大きいのである。然も、祐子とは異なり、体型は普通(本当に祐子には申し訳ないが、肥満体型では無いのだ)なのである。つまり、ただ単に、胸がでかいのである。此の様な身体的特徴は、斯う謂った思春期集団の中に於いては、大変に目を引く、著しい特徴と謂え、或る意味、悪目立ちとも謂える特徴なのである。だから当然、男子生徒たちからは好奇の目で眺められた上、のみならず、『ぼよよん娘』だとか、『たわわ姫』、『ロリ巨乳』、果ては、『ぽよぽよの実を食べ過ぎた女』などと、陰口を叩かれていた。祐子が入学以来、男子生徒たちから好奇の目で見られていたのと同様に、みうみうも又、其の様な目に晒され続けて来た訳なのである。更に、彼女の場合、其のキャラクターもかなり特殊であった。所謂、天然キャラなのである。友人たちとの会話も、何処かと謂うか、明後日の方向にピントがズレているのである。勿論、其れでも清水高校へ入学した訳であるから、一定の知的水準は持ち合わせている筈なのだが、何しろ、みうみうである。他人とは一般常識の物差しが、かなり、乖離しており、人々の通常の反応の、遥か斜め上の、更に、3.5次元的角度から反応していたので、良くも悪くも目立っていた。其の一方で、一部の男子からは、保護欲をそそられるだとか、ただ単に、可愛いとか、好意的に見る向きも多かった。斯う謂った事情から、みうみうと謂う渾名は学年を超えて定着しており、みうみうと謂えば、大部分の清高生は、一年二組のおっぱいちゃんと、認識出来たのである。成績的には、ヤスベエや正太郎とどっこいどっこいであり、英数ともに下位組である。出身中学はひろみと同じ岡中であったのだが、抑々、岡中自体、一学年当りの生徒数が400人を超えるマンモス中学であり、ひろみとはまったく接点が無かった。ただ、此の様なキャラの場合、同性からは否定的に見られる事が多く、彼女の気さくで屈託の無い人柄にもかかわらず、其の肉体的な特徴と相俟って、根拠の無い、『美魔女』だとか、『やな女』、『ぶりっ子』と、陰口を叩かれるケースも多かった。彼女は中学校時代、吹奏楽部に所属し、クラリネットを担当していたのである。然し、高校では、二日目に見学に来ていた様ではあるのだが、何故か、吹奏楽部に入部しなかったのだ。
みうみうの話続く。
彼女の為に弁ずれば、彼女は、本当に天然なだけであり、別に異性の気を引く為に、ネンネを気取っている訳では、決して無かった。気立ても良く、優しく、まあ、良くある誤解され易いタイプであり、彼女にしても、何故、同性から其の様に見られ、謗りを受けるのかが、皆目、見当もついていないと謂うのが実情であった。(まあ、其の辺りが、ぶりっ子と謂われる所以なのだろうが…)
其のみうみうが続ける。
「あっ、でもねー。いずなちゃん。3年の小坂先輩が見かけたって…。ウエルシアで粉ミルクと哺乳瓶を買ってたって…」
其処で、すかさず高志が反応する。
「何だと! それで、如何なんだ。避妊具は買ったのか?」
いきなり、駆けつけて来たばかりのひろみが、高志の後頭部目掛けて飛び蹴りを食らわす。
「買う訳無いでしょ。此のおバカ! 大体、みうみう相手にそんな下ネタかまして、理解出来る訳無いでしょ!」
然し、みうみうも、丁寧に反応する。
「違うよー。近藤先輩じゃなくてー、小坂先輩だよー」
案の定、と謂うか、果然、理解出来ていないらしい。
「あー、すまん。俺が悪かった」
高志は後頭部を手で摩り乍ら渋い顔で謂った。そして、振り返ると、敬介に向かって、指を指し乍ら叫んだ。
「つまりは、テメーの仕業って事だな。おい、敬介。何て事、してくれたんだ!」
「お、俺? 一体、何の事だ」
「ああ、抑々が、昨日のいずなの相談事だ。本来、来るべき物が来なくなった。如何しよう。ってな相談じゃあなかったのか? 其処で粉ミルクと哺乳瓶だ」
「成程、有り得るな。其処で、『俺に謂われても分らないよ』とか、『何で子供なんか作ったんだよ』とか、人間としてとんでもない事を答えたんだろ。うわあ、やってくれたな敬介。誠さんと同じだな。如何でもいいけど、敬介。おまえ、責任だけは取れよ。然も無いと、包丁で滅多刺しにされた上に、其のうち日本中から敬介●ねとか謂われるぞ」
何時の間にやら、隣の組の明彦がニヤニヤし乍ら、参戦している。みうみうが、
「あっ、明彦君だあ」
と驚く。確かに考えてみれば、みうみうも明彦も同じ小学校同士なのである。然し、敬介は其れ処では無い。抑々、身に覚えの無い、あらぬ嫌疑迄掛けられているのである。
「うわあっ、何て事を謂いやがる。全然、身に覚えがねえぞ。大体、何だ。ドサクサに紛れて、又、スクイズネタをぶっこんできやがって。日本中の誠さんと敬介君に謝れ!」
「馬鹿も大概にしなさい。此のハロゲン族に眼鏡。抑々、来るべき物が来なくて、其の明日に、いきなり粉ミルクと哺乳瓶な訳ないでしょ。其れとも、敬介。あんた。何か身に覚えでもあんの?」
ひろみが当たり前の様に突っ込む。其れを受け、敬介が吃音乍ら反論する。
「うわあ、ね、ねえよ。あ、ある訳ねーだろ。何てえ事、謂いやがる。大体、明彦。テメーは、一体、何処から湧いて出た?」
「何だと。人を孑孑みたいに謂いやがって。お前らがいずなを探しているって謂うから、御注進に上がっただけじゃねーか」
其処で祐子が身を乗り出して、尋ねる。
「それで、明彦君。何か知っているの?」
「ああ、祐子ちゃん。いや、知っているって程じゃあないが、俺たち二限が化学だったんだが、化学室へ移動の際に、いずなが講堂の方に走って行くのを見たんだ。彼奴、何か凄く思い詰めた様な顔だったんで、気には成っていたんだが…」
其の時、凛子からラインが届く。
『いずながいたの。みんな、大至急、部室に来て!』
居合わせたメンバー。即ち、正太郎、祐子、高志、ひろみ、明彦、六助、ヤスベエ、葵、みうみうが部室に駆けつける。いずなは祐子の姿を一目見た瞬間に、緊張の糸が切れたのであろう。わっとばかりに泣き出した。
「ゆ、ゆうちん。私、如何したらいいか、分らなくて…」
すぐさま、立ち上がって、祐子に抱きついたいずなは、声を上げて、激しく泣き噦る。祐子はいずなの頭を撫で乍ら、いずなが腰掛けていた椅子の前の机を見た。机上には、タオルが敷いてあり、其の上には10センチに満たない、縞模様の物体、即ち、雉トラ模様の仔猫が、寒いのだろう、小刻みに震え乍ら丸まっていた。
「ふわわー、ネコちゃんだあ」
みうみうが、如何にも彼女らしい、呑気な感嘆の声を挙げる。
「あら、かわいい」
と、ひろみも女の子らしい感想を漏らす。
「でも、此奴。何だか元気ねーぞ」
呟く敬介に、潸然としたいずなが、涙乍らに頷く。
「そうなの、先刻からミルクを飲んでくれなくて…。それに、元気も無いし、飼い主も探さなきゃならないし、授業もサボっちゃったし、私、もう、如何したら良いか…」
そう謂うと、また、いずなが泣き出してしまう。祐子は、よしよしとばかりに、欷泣するいずなの頭を撫で乍ら、懸命に慰める。
「そうかあ。里親を考えないとならないのか…」
と正太郎。葵も頷き乍ら、
「いずなちゃんちも病院だから、生き物は難しいよね」
「う…ん、うちも病院だから、ママからは、生き物は駄目だって謂われているの」
「俺んちも、ガンツ先生がいるからなあ」
困った様な顔で頭を掻く高志。
「うちはペスがいるからなあ…」
と、呟く祐子。
「うちはキューちゃんがいるからなあ」
ひろみも吐露する。確かに、先日ひろみの家にお邪魔した際に、大きな鳥篭の中で飼われた九官鳥が居た事を思い出した。
「うちは、ピピちゃんがいるよー。お喋りがとっても上手なんだよ」
と、みうみうが負けじと叫ぶ。如何やら、ペット自慢の話だと思ったらしい。
「何だよ。ピピちゃんって」
と謂う高志の突っ込みに、
「セキセイインコの男の子だよ。パパの物まねがとても上手なんだよ」
「うわあ、いいなあ。今度見に行っても良い?」
「うん、いいよー。ゆうちん」
其処へ、ヤスベエが手ごろなサイズのダンボールを抱えて、部室に入って来た。
「あっ、未だ居た。良かったあ。職員室で貰ってきたよ。此れ」
ヤスベエは、小さなダンボールを持って来た。矢張り、斯う謂った処は、実に、如才ない。早速、皆でチビの猫箱を作る。取り敢えず、里親探しも、未だ、中途であるのだが、そろそろ、昼休みも終わりになりつつある。いずなは、午後の授業もサボってネコの面倒を見る心算ではあったのだが、流石に、それはまずいと高志が謂う。
「でも、こんな処におきっぱなしでは、何か合った時に…」
「大丈夫だ。心配すんな。俺に心当たりがある。だから、いずなも安心して午後の授業には出ろ」
高志はそう叫ぶと、ダンボールを抱え、勢い良く部室を飛び出した。そして、みんなはぞろぞろとついて来る。
「一体、何処へ行こうってんだよ」
正太郎が疑念の眼差しで問い質す。
「まあ、見てろって。其奴はな、間違いなく、金曜日の4限と5限が空きコマなんだ。其の辺りは確認済みだ」
「…空きコマ?」
高志が向かった先は、数学研究室であった。まあ、何の事は無い。数学教師の溜まり場である。入り口の引き戸を、ガラリと勢い良く開けると、高志は大声で謂った。
「ちわっす。先生。いますか?」
「あら、岡本君じゃないの? 一体、如何したの?」
加藤先生と謂う、生徒達からも、すみれちゃんの愛称で親しまれている数学教師が声を掛ける。美人と謂う程では無いが、清楚なロリ巨乳として一部生徒達から絶大な人気を誇る。印象が少し祐子に似ている。
「ああ、すみれちゃん。薬缶はいますか?」
すみれちゃんと呼ばれた加藤すみれ先生は、困った様な笑顔を浮かべると、
「奥に、いるわよ」
と、同時に、
「誰が薬缶だ! 此のばかもん」
と謂った、怒声が奥から聞こえる。如何やら、薬缶先生はいるらしい。高志は物怖じせずに、斯う声を掛けた。
「ああ、羅漢先生。すんません。頼みがあるんすよ」
「何事だ」
「此奴の面倒を見てもらいたいんすよ。放課後まで…」
高志は、おずおずと段ボール箱を差し出した。薬缶は箱の中を一瞥して、
「此の馬鹿野郎。何てえ物を校内に持ち込んでやがるんだ。校則違反だろ」
「ええっ、でも、生き物を持ち込むべからずなんて校則は、確か無かった様な…」
「当たり前だ。常識で考えろ!」
「すみません。でも、頼みますよう。俺たち、もうすぐ4限が始まるもんで…。先生は此の後、4、5限と何もないじゃないですか。先週もそう謂って、パチンコしに行きたいとか、謂ってたじゃないですか」
蝟集した数学教師達の目が、薬缶にじろりと注がれる。薬缶は真っ赤になり乍らも、小声で、
「こら、碌でも無い事をべらべらと喋るんじゃない」
薬缶は其処で俄かに声を潜めると、
「それで、一体、何時迄だ」
「すんません。部活終了まで。19時頃には回収に上がりますんで…」
「おい、コラ、岡本。冗談じゃないぞ。そんな時刻まで残らなきゃならんのか? おい、待てと謂うのに…こんなもんを、人に押し付けて、如何謂う心算だ…」
然し、薬缶の呪いの言葉を、最後まで聞く者はいなかった。とっくに、全員、すたこらさっさと、遁走してしまっている。悪態を吐いている薬缶を尻目に、すみれ先生はくすりと笑うと、
「羅漢先生は、本当に生徒さんたちから、慕われていますね」
「何、謂ってるんですか。良い様に使われているだけですよ。大体、彼奴ら、粉ミルクは兎も角として、こんなにでかい、人間用の哺乳瓶で、此の仔が飲める訳が無いだろうに」
「それもそうですね。私も4コマ目は空きなので、猫用の哺乳瓶やシリンジを買ってきましょう」
「ああ、済みません」
すみれ先生はそう謂うと、早速、近所のホームセンターへ自動車で買いに出掛けた。
おかげで、午後の授業は、全員、何事も無く受ける事が出来た。但し、難航したのは、件の里親探しである。其れはそうであろう。誰だって、突然、猫を飼ってくれと謂われ、二つ返事で承諾する者など、殆ど、いないのではあるまいか? 況してや、全員、未成年なのである。当然、親や家族に倚藉する身の上としては、まず、其の同意があって、然るべきである。其の点に於いては、相変わらず結論の出ない状態であった訳であり、当初のいずなの苦悩が全員に拡大されただけに他ならない。然し、まあ、意識を共有出来たと謂う点では、前進したと謂えるのかもしれないが、相変わらず未解決の障壁として、一同の上に重く圧し掛かっていたのである。結局、最終的に名乗りを挙げたのは、正太郎である。まあ、とは謂っても、此れも率先してと謂う状況にはなく、寧ろ、周囲を顧眄して止むに止まれずと謂った感が強く、誰も名乗り出ないのであれば仕方が無い。と謂った状況ではあった。其れと謂うのも、
① 抑々、正太郎の家が学校から一番に近い。
② 仔猫を土日の間、学校に放置する事は出来ない。
③ だから、里親が決るまで預かる。
と、斯う謂った次第ではあった。とは謂っても、正太郎の家が一番に近い。此の要件が一番大きかったのではないかと推察される。正太郎とて、家族の同意を取り付けた訳ではない。今迄、散々描写して来た様に、抑々、正太郎の家は集合住宅である。果たして、猫や犬などを飼って良いのかすらも、怪しい物である。だから、正太郎自身も、此の土日の二日間だけ預かる位の心算でいた。其の間に里親も決るであろうと多寡を括っており、或る種、他人事の様な気楽さで臨んではいたのである。
扨、正太郎、祐子、いずな、高志が薬缶の処に仔猫を受け取りに行ったのが、約束よりも大分早い18時ごろの事であった。4人は口々にお礼を謂うと伴に、薬缶とすみれ先生にお礼の意味を込めたペットボトルのお茶を差し出した。
「詰まらん気を使うな」
と、薬缶には一喝されたが、満更でも無さそうであった。
「ところで、一体、誰が引き取る事になったんだ?」
薬缶が尋ねる。
「取り敢えず…。自分です」
と、正太郎。
「そうか…」
と、謂い乍らも、少し、顔を曇らせた薬缶が謂う。
「此奴、明日にでも病院に連れて行った方がいいかもしれん。矢張り、少し元気が無い。大分、弱っている様だ。ミルクも殆ど飲まなかったし…」
「殆ど泣きませんでしたものね」
すみれ先生も心配そうに相槌を打つ。4人も心配そうに顔を見合わせる。正太郎が意を決した様に、毅然として答えた。
「わかりました。先生。明日連れて行きます」
其の日はそれで解散となった。いずなは本心を謂えば、正太郎の家迄付いていって、いろいろ手伝いたかったと謂うのが本音であろう。然し、正太郎の家は手狭と謂う点を、本人も、再三、強調していた。多少、気恥ずかしさもあるのであろうから、遠慮をする事にした。尤も、祐子は手伝って行くと謂う。斯う謂った処は、近所で幼馴染の強みでもある。いずなは祐子と一緒に薬局に行き、使い捨てカイロや、仔猫の蒲団代わりのタオルを数枚買い込んで、祐子に託し、別れたのであった。
いずなは、今日の事を両親に報告する心算であった。両親の戒めを破り、仔猫を拾った事。授業をサボってしまった事。いろんな人に多大な迷惑を掛けてしまった事。そして、其れでも、仔猫を飼いたい事。全ては、いずなの口から両親に話さなければいけない事の様に思われた。酷く気の重い事ではある。どれをとっても両親から褒められる様な内容の話ではない。其れでも、いずなは両親、吾郎先生と順子先生に謂っておきたかったのだ。今回の出来事。いずなは、全て、独力で解決する心算であった。然し、何も出来なかった。代わりに、自分が何一つ謂わない内から、みんなが助けてくれた。昼休み中、部室で打ちひしがれている自分を励ましてくれたのは、凛子、そして祐子だった。如才ない才覚と行動で箱を手配してくれたヤスベエ。機転を利かせた行動で先生に助力を求めた高志。真摯に里親を検討してくれた葵、敬介、明彦、六助、みうみう。そして、仔猫の面倒を見てくれた羅漢先生とすみれ先生。一体、何人の人たちに助けられたのだろう?
いずなが遅い晩餐を迎えたのは、22時を少々回った頃だった。両親とも医者であり、患者が比較的多い、休み前には如何しても、夕食が遅くなる傾向にある。一度、母親に謂い掛けたのであるが、如何にも気後れしてしまった。いずなは、一度、自室に引き取ると、改めて、両親に相談する心算ではあった。然し、其処で、心臓が凍る様な凶報が飛び込んで来た。凶報は何時だって夜に来る。
『いずな。済まない。此の仔、もう、駄目かも知れない。ミルクも全然飲まないし、先刻から全然動かないんだ』
メールの主は正太郎であった。いずなは、ひいぃっ、と謂う、悲鳴に似た何とも謂えない叫び声を挙げると、其の場で固まった。時間にして、23時30分。正太郎がラインを使わずに、いずなにだけSMSを送ってきたのも、深夜に全員を巻き込んだ大騒ぎにしたくなかった為であろう。其れだけに、状況の深刻さは、並々ならぬ物がある。敢て、正太郎は駄目と謂う言葉を使った。普段の彼であれば、『難しい』とか、『芳しく無い』、『容易ならざる状況』、或いは、ユーモラスに『万難を排して生還しつつある』といった修辞的技法を使った表現をしそうなものである。でも、其れをしなかった。何故か。其れは、現実が其の様な修辞的技法に依って、等閑に出来る様な状況には程遠く、其の様な美辞麗句を用いる余地すらなく、『駄目』と謂う、敢えて、直截的な表現を使用する事で、端的に状況を伝えようとした為に他ならない。最早、其の仔の命運は『駄目』と謂う、二文字の熟語に収斂されていたと謂っても良い。
全ての絶望を纏った、死と謂う不吉な文字が脳裏を過ぎる。死神が其の大鎌を高々と振り翳し乍ら、そろりそろりと忍び寄る。若し、生と死を分かつ大河があるとするならば、甚だ残念乍ら、其の小さな、未だ名も無き生命は、他の兄弟姉妹に遅れる事24時間。静かに、気高くも、そして、厳そかに其の大河を渡り始めた事は明白であったのである。
物事には全て結末があり、其の結末如何によっては、後始末と謂うものが必ずついて回る。いずなが助けた小さな生命の行く末は、既に神の手に委ねられた。次回、『第28話 トリアージ【後編】』。お楽しみに。




