第26話 祭礼の日に
心配をお掛けして、大変申し訳有りません。今後、健康管理には充分気をつけます。また。よろしくお願いいたします。
鮮やかな七竃の炎の様に赤い実が撓に実り、冬の足音が本格的に聞こえ始める十一月二十日火曜日。其の日は静岡市清水区本町にある西宮神社の祭礼の日である。えべっさん、おべっさん、おいべつさん、などと呼ばれ、地元の人々から親しまれている。おいべつさん、此の呼称から察するに、祭神は恵比寿様なのであろう。一体に、恵比寿様と謂うのは、不思議で謎の多い神様である。所謂、蕃神に当り、狩衣姿で右手に釣竿、左手に鯛を抱え、ニコニコとしたふくよかな笑みを浮かべているお姿が一般的である。抑々、恵比寿と謂う言葉は、『夷』や『戎』と表記し、即ち、異民族、異邦の者を表している。恵比寿様自体、ご存知のとおり、七福神の一柱でもある。惜、蕃神なれど、日本各地で信奉されており、主に神格化された漁業の神様として、鯨など大きな魚で其のお姿を現し、海から福をお授けになるとされている。此れらを鑑みるに、所謂、寄り神信仰であろう。豊漁や商業の神様としても知られており、元来、清水の様な小さく貧しい漁村では、斯うした寄り神信仰的な神様は、当然の事として歓迎されたものと察せられる。然し、一方では、恵比寿様は別表記すれば蛭子様とされ、此れは記紀神話に於ける蛭子とも謂われ、斯うなって来ると、最早、神ですら無くなってしまう。記紀神話を当時の正統政府の歴史書であると解釈するのであれば、差し詰め、ヒルコは追放された反対勢力と謂った処であろうか。何時の時代にあっても、斯うした権力闘争に敗れた者の末路は、常に、侘しく。想像を逞しゅうすれば、恵比寿信仰と謂うものは、国津神としての、所謂、反主流としての信仰を、連綿と、そして、細々と集め続けていた結果に過ぎないのかもしれない。
此の祭礼は、俄に冬の足音が聞こえ始める、十一月十九日及び二十日に行なわれる。此の年の十一月二十日。ボストンティーパーティーの面々はひろみの家を拠点に、此の祭礼の見物に行く事になっていた。抑々の事の発端は昨日の月曜日、部活の練習後に遡る。偶々、ひろみといずなが、自宅近所のおいべつさんの祭礼について話題にしていたのだ。其れを横で聞いていた祐子が其れは何かと尋ねる。其処へ、習俗や民間伝承に異常な関心を示す正太郎が首を突っ込む、いずなの一挙一投足を気にする敬介が、透かさず参戦。お祭り男の高志が聞き咎め、結局は、其れから其れへと、花が咲くと謂った展開で、翌日の練習休止日にひろみの家へ集合する事となったのである。尤も、ボストンティーパーティーの面々全員と謂う訳では無く、サッカー部のでこぼこコンビは練習の為、合流が難しかろうし、ヤスベエも情報部の活動の為、参加は出来ないとの事であった。然し、葵は帰り道の途中でもあるし、寄って行くとのメールがあった。
扨、此処で改めて記述しておくが、抑々、此の西宮神社の祭礼は、然して大きな祭りでは無い。神社の所在地が静岡市清水区本町と謂う訳であるから、学区的にはひろみと謂うよりは、寧ろ、いずなの住んでいる清水学区に該当する。然し、近所と謂う点に於いて謂えば、断然、ひろみの家の方が近いのである。以前にも叙述をしたが、ひろみの家はさつき通り(旧電車通り)に面している。清水駅前から続く目貫通り。其れこそ以前、昭和の時代には、路面電車が走り、両側にデパートや商業施設、映画館やボーリング場、銀行や証券会社が立ち並ぶ繁華街が、終点である港橋迄続いていたのである。ひろみの家は港橋に程近い富士見町に古くから構える茶舗である。間口は然して広くも無いが、奥行きはかなりある。さつき通りから巴川に至る迄が全て家の敷地なのである。所謂、鰻の寝床の様な細長い敷地なのであるが、此れはひろみの家の家業と無関係では無い。稲森茶舗はさつき通りに面した清水の商業地区に、明治の時代から開業しているお茶屋であり、此れには家の前を走っていた軽便鉄道が大きく拘ってくる。
元々、ひろみの家の前を走っていた路面電車(静岡鉄道清水市内線)は、清水の港湾部から江尻宿中心部を経て、興津手前の横砂とを結ぶ軽便鉄道で、かつては旅客加之、地場産品であるお茶などの物資をも運搬していたと謂う。一方の起点である港橋はさつき通りのどん詰まり、即ち、波止場の横にある。つまり、江尻宿側から向かえば、さつき通りが行き当たった丁字路の左が波止場であり、右が巴川。其処に掛かる橋が港橋と謂う訳である。先に述べたとおり、ひろみの家は鰻の寝床の様な細長い家であり、裏手は巴川に面しており、昔は巴川の水運を利用した荷揚げ場があり、家業のお茶の搬入に利用されていたのである。軽便鉄道自体は港橋から横砂迄敷設されていたが(現在は廃止されている)、新清水で現在の静岡鉄道静岡―清水線(こちらは現存)に連絡しており、葵区の鷹匠町にある新静岡へと到っている。
更に、静岡側では、JR静岡駅前を起点とした路面電車(静岡鉄道静岡市内線)が敷設されており(昭和三十七年に廃線)、静岡駅前―新静岡―県庁前―中町―呉服町―茶町―安西と運行されており、静岡の目貫通りを駆け抜ける様な構造となっていた。安西・茶町地区は現在に於いても、製茶工場が立ち並ぶ静岡市の一大製茶地区であり、今でも初夏になると、此の地区ではお茶を炒る芳ばしい香りに包まれる。更に、昭和の初期迄遡れば、井宮(現静岡銀行しずはた支店付近)を起点とした安倍鉄道と謂う軽便鉄道が、安倍川沿いに、北部の牛妻迄、約10キロ程に亘って敷設されていた。現在では、在りし日の俤を偲ぶ事は出来無いが、静岡銀行しずはた支店周辺から、北方に向かって伸びる、不必要な迄に一直線の細い道路が其の跡地であるとの事である。此の鉄道は沿線の木材資源、お茶、みかんの運搬と旅客輸送の為に営業されていた。大正初期から昭和初期に掛けての約20年程営業されていたのだが、アメリカのウォール街の株価暴落に端を発する世界恐慌及び昭和恐慌の荒波に呑まれ、其の姿を消した。然し、此のお話でも分る様に、此の軽便を使って、安倍奥、井川と謂ったお茶産地から、お茶や木材と謂った一次産品が、運搬されていた事は想像に難くない。安倍奥には、梅ヶ島、玉川、井川、足久保と謂った県内有数のお茶の産地があり、前述の通り、此の軽便の起点部に当る、安西地区に製茶工場が集中している点から謂っても、此の軽便鉄道が当時果した役割については、推して知る可しなのである。従って、安倍鉄道、静岡市内線、静岡清水線、清水市内線。此の4つの軽便鉄道の役割は、比較的明白であり、静岡地区の地場一次産品の運搬、そして、其れらの、港湾部への運搬が其の輸送システムの眼目であった訳である。更に、此れらを補助していたのが、安倍川、巴川の水運である。
今でこそ、安倍川は静岡市を南北に貫いているが、江戸時代、或いは、其れ以前の地図に因れば、其の姿を大きく変えている事になる。抑々、安西と謂う地名は、安倍川の西岸と謂う意味合いで命名されており、今の、安西の遥か西側を流れる安倍川からは、まるで当て嵌まらない。江戸時代以前の古地図を紐解いて見れば明白なのであるが、安倍川は賤機山塊の直ぐ西側を、恐らく、今で謂う安倍街道辺りを流れており、(此れ自体、今の安倍川に較べたらかなり東側であるが)賤機山塊の切れ端、即ち、現浅間神社の舳先で、恐らくは、片羽町、安倍町の交差点辺りであろうか、宛ら、龍が馳騁闊歩するかの如く、幾重にも分岐している。其れらは、北川、賤機川、横尾川、妹川、稲川と謂う名称の川であった様である。此れらの川は、今は、全て現存しない。今となっては何処を如何流れていたのかすら判然とはしないが、其の内の北川だけは、割と明確である。此れは現在でも、ごく一部を確認する事が出来る。浅間神社前の川幅僅か1m程の小川が其の名残であり、賤機山麓の東側を麻機沼に向かって北上していたとの事である。現在の筆者の自宅は浅間神社近隣の丸山町にあるが、其れが事実であれば、筆者の自宅は、差し詰め、かつての川底と謂う訳であり、災害ハザードマップ的には、危険な事、此の上無い。だが、記憶を辿ってみれば、50年近く前の記憶ではあるが、確かに筆者の家の前には小川が流れており、朝などは、どうどうと謂う、結構、大きな川音で目を覚ましていた位である。つまり、かなり大きな水音を立てる川が流れていたと謂う事になる。然し、何時しか水が涸れ、頓ては暗渠と化し、埋め立てられてしまった。静岡の各地の地名から推し量れば、市街地北部の安東と謂う地名は安倍川の東側。横内は横尾川の内側の中州、と謂った意味なのであろう。又、水落と謂う地名も、如何にも、水辺を連想させる地名ではあるが、どの川の事であるかは定かでない。場所的に謂っても、駿府城のお堀の水源となったものと推察されるが、其の源流が何処であるかは良く分からない。此れらの川が静岡の市街地を縦横無尽に駆け抜けていたのは、江戸時代以前の事と思われる。
恐らく、有名な家康公の天下普請により、安倍川の流れは当時より、かなり、西寄りの現在の流れに改変されてしまったのだろう。
『それが、家康のド汚い処だ』
正太郎は其の話しを、薩摩(鹿児島県)出身で家康公嫌いの父親より、小さい頃から耳に胼胝が出来る程、聞かされていた。恐らく、家康公の天下普請の事を謂っているのであろう。家康公は有力外様大名の経済力を削ぐ為に、日本各地の土木工事の任に当たらせた。薩摩の島津、長州の毛利、加賀の前田、米沢の上杉、仙台の伊達、秋田の佐竹、肥後の細川、福岡の黒田等が其の槍玉に上がったのであろう。安倍街道沿いには薩摩土手、あるいは薩摩通りと謂った地名があるのだが、此れは家康公の天下普請の名残であろう。正太郎の父親はそれらのワードを聞く度に、家康公を謗り倒すのを常としていた。正太郎の父親は学識溢れた理知的な男ではあったが、此の点に於いては、凡そ、理性の対極に居った様で、正太郎は子供心に、何故、父親が地元の英雄である家康公を、此処迄、誹謗中傷するのか、皆目見当も付かなかった。尤も、父親は、『日本の首都は太閤さん以来大阪だ』と謂って、憚らない人物であった事から、一風変わった史観の持ち主ではあったのかも知れない。
静岡市の話、続く。
国土交通省のホームページに因れば、静岡平野は安倍川流域に出来た扇状地であると謂う。国交省のホームページに掲載されている位であるから、恐らくは、事実なのであろうが、甲府盆地の其れとは異なり、特徴的な扇型の地形では無い。筆者も、長年に亘り、此の街に住み乍ら、扇状地である事を意識した事はまるで無い。試しにと、国土地理院の電子国土で確認してみる。一体に安倍川は身延山地、八紘嶺に端を発し、山間の渓筋を南に向けて一気に駆け下りる構造である。安倍川の東側を賤機山塊、西側も身延山地の残滓である安倍奥の山々とで、東西から狭窄される形となっており、細長い谷間を丿乀として左右の山々を削り取り、蛇行を繰り返し乍ら下って来るのである。そして、現在の浅間神社附近で其の頸木から一気に解放され、広闊なる静岡平野へと至る形となっており、其の際に運んで来た万斛の土塊を、一気に解放する様な地形となっている。此の辺りの仕組は扇状地の特徴と一致すると謂えなくも無い。現在の安倍川周辺の海抜は、静岡平野の、他の地域の海抜と較べ、概ね、高めであり、所謂、天井川である事が窺える。浅間神社付近から東方面、即ち、清水方面へ向けて約10km掛けて、緩慢に下っているのである。更に、浅間神社から麻機、即ち、北へ向かっても、緩やか乍ら、下っている。麻機は静岡平地部の最奥部に位置するのだが、現在でも、低湿地帯であり、沼や池などがかなり残っている。つまり、浅間神社からみれば、東及び北方面へと下っており、これらの箇所は、先程、消失されたと目される川の跡地と、忌じくも、一致する。河川の消失と謂う現象自体は、扇状地の特徴とも謂える現象でもあり、此処でも其の説は裏付けられる。
賤機山塊は、静岡市街地を南北に貫く様に位置しているのであるが、賤機山塊の尾根道を一本の線と見立て、線対称の位置の海抜を電子国土(国土地理院地形図)を元に、左右、即ち、賤機山塊の西側と東側とで比較してみる。出来るだけ線対称となる様な位置を選んだ心算ではある。まず、東側、城北公園三角点18.8m、西側、籠上標高点38m。東側、池ヶ谷東標高点10m、西側、与一標高点47m。東側、唐瀬標高点7m、西側、松富標高点54m。此の様に、賤機山塊の西側(安倍川側)では北に向かって、かなり急激に登っているのに対し、山塊の東側では、緩慢に下っているのである。海抜、54mと7m。優にビルの十四、五階に当る高低差である。先日、筆者は賤機山の尾根道をハイキングしたのであるが、山塊の東側と西側を一望出来る処が何箇所かあった。俯瞰して見るに、一目瞭然であり、西側の風景の方が、極めて、近くに感じる。即ち、素人目に見ても、西側の方が、海抜が高いのが明らかなのである。此れは、国道一号バイパスを安倍川付近から東上してみても分る事であるが、山塊西側では賤機山トンネルの手前から、平地をまるで地下に向かって、掘り下げて進んでいるにも拘らず、800m程のトンネルを抜けた東側では、かなり高い高架の上に出て、静岡市街地を俯瞰する様な風景が現出するのである。そして、此のバイパスの北方には麻機沼を中心とした、麻機遊水池と謂う低湿地帯が広がっている。以前にも記述した七夕豪雨の大災害も此の地区の干拓などの開発にあると謂われている。干拓によって、水を蓄える許容量、即ち、余力が低下してしまった為に起こったと謂われているのである。そして、此の地区に端を発して、巴川が清水方面へと注いでいるのである。
扨、閑話休題。ひろみの家は、今でこそ、富士見町の茶舗が主な家産となっているのであるが、先代の頃には、安西地区に製茶工場、清水区内に缶詰工場を、そして、足久保地区に茶畑を所有しており、大層、羽振りが良かったとの事である。然し、先代、先々代と、二代に亘って道楽者が続いたお陰で、其れらは全て、人手に渡ってしまった。今では、祖父母が経営する茶舗と、入江地区に僅かに残った家作の家賃収入により、細々と暮らしている。尤も、細々暮らしているとは謂っても、家賃収入のある世帯などは、裕福な部類な世帯と謂えるだろう。つまりは、昔日の栄華に較ぶればと謂う話であり、其れ程までに、昔の稲森家は、清水でも有数な分限者。所謂、素封家であった。ひろみの父親は、茶舗を継がず地元有数の商社に就職した為、以前にも描写をしたかもしれないが、ひろみの小さい頃は、転勤族である父親の影響で、横浜、甲府、浜松と目まぐるしく居を変え、父親の本社勤務に成ったのを機に、父親の実家、即ち、現在の家に、祖父母と同居する事となったのである。
扨、愈々、祭礼当日、メンバーは三々五々、ひろみの自宅に集まりつつあった。もとより、ひろみの家に遊びに来た事のある者はいなかったが、さつき通りに面した、清水でも古くからの茶舗と謂う事もあり、流石に迷う者はいなかった。まず、正太郎、祐子、高志の4組勢がやって来た。彼らは、愛想の良い祖母に迎えられると、店舗から、煤けた大福帳が掛かった帳場の前の薄暗い土間を抜けて、ひろみたち世帯の住む新宅に案内された。新宅の入り口には、大きな鳥篭が吊られ、中には九官鳥が飼われており、頻りに、何か侏離鴃舌な言葉を喋っている。ひろみの部屋は2階であり、稲森茶舗の最奥部に当る。巴川を見下ろす明るい部屋であり、清水の港湾地区の中心にありながら巴川河畔を見下ろす静かな佇まいは、実に、澹乎とした趣がある。ひろみらしからぬ、と謂ったら幾分失礼に当るのやも知れぬが、部屋全体の壁が薄い石竹色。即ち、桃色を基調とした女の子らしいカラーの八畳程度の部屋である。部屋にはベッドが据え付けられており、恐らくは、全員が揃う頃には、少々、手狭になるものと推察される。其れを案じてか、ひろみが申し訳無さそうに謂う。
「少々、狭いけどごめんね。ベッドをソファ代わりに使ってね」
案内された3人は、キョロキョロと室内を顧眄し乍ら、思い思いの場所に腰をおろす。真っ先に目に留まったものは、学習机の机上に有る、数人の学生服とセーラー服の一団の写真である。中央に、紺色のスカーフ、セーラー服姿のひろみがいる。まじまじと眺める3人を、ひろみが見咎めて説明をする。
「ああ、此れね。岡中の生徒会の写真なの。あたし、生徒会長だったから」
「ええっ、ひろみちゃん。生徒会長だったの?」
「うん」
驚く祐子。然し、此れも、考えてみれば、宜なるかなと謂った話であり、人に物怖じする事なく、堂々と自分の意見を主張出来るひろみには、如何にも適任の感があった。ベッド横の壁には高志の筋骨隆々とした上半身裸の写真が貼ってある。腹筋が六つに割れ、厚い胸板。興津川合宿の時の物らしい。
「わっ、見ちゃ駄目ぇ」
と、ひろみが真っ赤になる。其の素振。意外とかわいらしい。更に、目を机上に戻すと、生徒会写真の横には2Lサイズの一回り大きな写真。ピンクのノースリーブのユニフォームを着た6人程の写真。明らかにバスケットチームの写真であり、前列中央にはバスケットボールを小脇に抱えたひろみが座っている。今度は高志が目を丸くする。
「お前、バスケをやっていたのか?」
「そうよ。悪い?」
先程の照れ隠しもあるのであろう。ひろみが突っかかる様な調子で答える。
「いや、悪かあねーが。空手じゃあなかったのか?」
「うちの中学は空手部はなかったからね。女バスの主将で、名ポイント・ガードだったんだから…」
「自分で謂うかあ。其れを」
高志も、流石に其の事は知らなかったらしい。高志はまじまじと其の写真を見つめる。今より、明らかにふっくらとしている。恐らく、60kg近くあったに相違無い。更に、高志は見つめる。やや、垂れ目で、未だ、あどけなさは残るが、確かに美人である。そして、にこやかな笑みを浮かべている。だが…。屈託の無い笑顔と謂うには、少し、程遠い印象があった。何処か、困った様な、憂いを湛えた笑顔とでも謂おうか。そんな笑顔であった。以前にも描写したやもしれないが、恐らく、曲がった事が嫌いなひろみの真直ぐな性格である。ひょっとしたら、周囲とは無用な衝突、軋轢があったのかもしれない。小柄な体型である事は謂う迄も無い。頭の上で無造作に髪を束ねている。やや、垂れ目で端正な顔立ちである。所謂、美人の相とでも謂うべき、すうっと通った鼻筋を、若干乍らの垂れ目で緩和している様な形である。表現力に乏しい稚拙な筆者の描写では中々に伝わりにくく、大変申し訳無いのであるが、FFⅣのポロムちゃんが一番近いと謂えるかもしれない。正太郎はそんな高志の横顔を見て、再び、件の写真を見た。正太郎は、今、此の瞬間、完璧に高志の心的状況をトレース出来ていた。確かに、高志はそんな中学時代のひろみの写真に、見とれているのである。
正太郎は高志と割りと近しい。クラスも一緒で、クラブも一緒である。高志の嗜好も概ね把握しつつある。此の男は、ぽっちゃり型、所謂、肉付きの良い女の子が好きなのである。此れは、祐子への告白(尤も、此れは正太郎の背中を押す為ではあったが)。或いは、蛍ちゃんの話からも、推測は出来る。今でこそ、ひろみは小柄でボーイッシュな、丸みの無い体型をしているが、中学校時代はふっくらした体型であったのである。正太郎は口には出さねど、密かに確信していた。
(如何にも高志が好みそうな女の子だな)
其れが、正直な正太郎の感想である。高志も件の写真を食い入るように見つめている。其処へひろみがニヤニヤし乍ら、横から茶々をいれる。
「如何しちゃったの? あたしの中学校時代の姿にみとれちゃった?」
「うん。とても綺麗だ」
高志は、意外にも素直に肯いた。今度は、流石にひろみの方が、少々、慌てる。
「ちょっと、やめてよ。…此の頃は、今よりも大分、太っていたし」
「でも、昔の方が、ふっくらして健康的でかわいらしいよ。おっぱいも今より巨乳だし…。ぐえぇ」
すかさず、ひろみの右肘が高志の鳩尾辺りにめりこんでいる。
「失礼ね。絞ったって謂うのよ」
ひろみは、少々、気を悪くした様である。横合いから、正太郎がそんな高志を小声で窘める。
「馬鹿だな。全く、余計な事を謂う奴だ」
「いや、だってよ」
正太郎は思う。今のひろみは50kg前後であろう。写真の頃、恐らくは、1年前なのであろうが、凡そ、10kg程度絞った勘定になる。成長期の、それも年頃の娘が、其のレベルで減量すると謂うのは、並大抵の事では無い。
「此処は、嘘でも、スレンダーになったね。と、謂う処だろーが」
「…すまん」
「其処! 何、ごしょごしょ謂ってんの」
ひろみの尖った声が追っ掛けて来る。正太郎は更に小声で謂う。
(後できっちり、フォローしておけよ)
(分ってるって)
蒼惶としている内に、2組のいずなと葵、そして、1組の敬介が到着。更に、明彦と凛子が到着した。流石に、9人も納まると、室内もかなり手狭に成った。其れを見た高志が、
「扨と、じゃあ、そろそろ、行くか」
と音頭を取ったのだが、ひろみがもじもじし乍ら、斯う謂った。
「ごめんね、もうちょっと待ってくれないかな…。おばあちゃんが、今、玉露とお茶菓子を用意しているところなの。おばあちゃん、お客さんが嬉しくて」
「お茶菓子?」
祐子が、目をキラキラさせ乍ら、食いつく。
「うん、追分羊羹と栗最中」
「わあ」
斯う成ると、祐子は梃子でも動かない。結局、一同は玉露と追分羊羹、栗最中の登場を待つ事となったのである。
頓て、件の玉露と追分羊羹と栗最中が運ばれてきた。備前焼と思われる湯飲みに、同じく、古備前と思われる皿に羊羹がのっている。一見、質素で素朴な印象を受けるが、此の様な器皿にあっても、昔乍らのお茶屋の其処は彼と無い気品と風格を感じるのである。
「そう謂えばさ…」
少々、手持ち無沙汰となった明彦が、無聊を託ちかねて続ける。
「如何したんだよ?」
「?」
「いや、馬鹿作者の奴さ」
ああ、と諒解を示しつつも、頷くひろみ。
「そう謂えば、此の処、暫く、休載していたわね」
敬介が、
「彼奴、確か、正太と同じ持病持っていただろ。其れで、入院でもしてたんじゃねーの?」
其の言葉を受け、高志が反論する。
「いや、そーじゃあねーよ。厳密に謂うと、現実の時間軸では、昨年末に近所の総合病院に、矢張りDMで教育入院していたんだ。だけど、其の時でも、暇な時間に厭かせて、執筆活動をしていたらしいぞ」
「ふーん、そうなの? まあ、入院中はやる事が無いからね」
凛子が同意する。
「久し振りに、沢山、執筆と昼寝が出来たって話だ。其れに、入院中に同級生と後輩がお見舞いに来てくれたとかで、野郎、無邪気に喜んでやがった。欲を謂えば、お見舞いの品に大福が欲しかったとか、能天気な戯言をほざいていやがった」
祐子がしみじみと呟く。
「うーん、其の気持ち分るなあ」
祐子の放言に、正太郎が目を丸くする。
「DM患者の見舞いに、そんな物を持ってくる奴は、流石にいねーだろ」
「相変わらず、病気の自覚が無い奴ね」
「其れでも、以前の教育入院と較べて、全然、楽だったそうだ。20年前の入院の時の食事療法は、一日辺りの総カロリーが1800キロカロリーだったんだが、ひもじくて、ひもじくて、夢に大福が出て来て、食おうとした瞬間に目が覚めたそうだが、今回は総カロリーが1600キロカロリーだったんだが、そんな事はなかったそうで、全然、楽勝だったそうだ」
「なんか、浅ましい夢ね。まあ、彼奴自身、其の当時と較べ、30キロ程減量しているらしいから、大分、標準体重に近づいている筈だし…。其れで、今回の活動休止は其の関係なの?」
「まあ、関係が有るか如何かは、良くわからんのだが、胸痛が続いたらしい」
「心筋梗塞とか狭心症?」
「いや、違う」
「心不全?」
中々に、生々しい病名が飛び出す。
「いや、其れも違うらしい。って謂うか、抑々、心不全なら、此の処、野郎、毎年夏になると発症している。暑さが厳しくなると、酷く息苦しく成るんだそうだ。彼奴に因れば、最早、毎年、夏の風物詩だって謂ってた」
凛子が呆れる。
「何だか嫌な風物詩ね」
正太郎が興味深げに尋ねる。将に、同病相哀れむと謂う奴であろう。
「抑々、教育入院とか謂ってたが、A1cはどれ位だったんだ?」
「ああ、なんちゃらエーワンシーって奴か? 大体、10・0位だったらしい」
正太郎も呆れる。
「かなり、高えなあ」
「でも、退院時には7・3位に迄、下がったとか、謂ってたぜ」
「おい、そんなに急激に下げて大丈夫なのか? 普通はもっと緩やかにやるだろ」
正太郎が驚く。まあ、正太郎が驚いたのも無理は無いだろう。血糖状況は余りにも急激に改善し過ぎると、却って、神経障害などが亢進する事があるのである。
「ああ、其のせいで、神経障害が顕在化したそうだ。そして、まあ、本当に、其のせいか如何かは不明なんだが、気が付けば、胸痛と不整脈が増悪したらしい」
「ふーん、なかなか大変なんだね。あっ、でも、お父さんが謂ってたなあ。血糖状況が急激に改善すると、かえって、症状が進む患者さんもいるって…」
葵が呟く。正太郎も同意する。
「そうなんだよ。俺が入院した時も、座学でそう教わったんだ」
「もともと、奴は、6、7年前に不整脈が発覚してな。なんちゃらとか謂う薬が処方されて、ぴたっと収まっていたらしいんだが、此の間の入院の際に、其の薬がジェネリックに変わったらしい。其れ以来、結構、激しい不整脈が出る様になったと謂うんだ」
「そうなんだ」
「とは謂っても、主治医の話だと、全く、命に別状の有る不整脈じゃあ無いから、心配する必要は無いとも謂われたらしいが…」
「そうなの?」
「でもなあ、そう謂われた処で、激しい動悸が続くと謂うのは、其れは其れで、恐怖感が半端無いだろうに。何でも、奴の言に因れば、生まれて初めて、女の子とホテルに行った時の様な胸の高鳴りが、四六時中続いて、日常生活に支障を来して困っている状態らしい…」
「…」
流石に、蝟集した女性陣が呆れる。まあ、比較的最近、似た様な経験を体験したばかりである祐子と正太郎は、顔を赤らめ乍ら、思わず目を合わせるも、慌てて、目を逸らすと、お互い外方を見やり乍ら、目を泳がせている。顔を赤らめた凛子が呆れ乍ら、
「相変わらず、随分と特殊な表現をする奴ね」
と、謂えば、ひろみも、
「本当。最低」
「ムッキー。エッチなんだよ。彼奴は」
と、散々である。唯一、高志だけが、
「そうかなあ。でも、此方の方がピンポイントで状況が伝わるだろ。彼奴も、病状を説明する際には、看護婦さんにもそう謂って説明していたみたいだし…」
「えええっ、看護婦さんに其れを謂ったの?」
流石に顔を赤らめ乍ら、祐子が呆れる。
「なんしろ、馬鹿だからなあ。彼奴は」
「其れって、ただの、医療従事者に対するセクハラじゃないの?」
と凛子が憤る。
「そうかなあ。俺は、文学的で良い表現だと思うがな。」
「何処がよ。此のおたんこなす」
「うわあ、待て待て。暴力反対」
熱り立つひろみを、高志が宥め乍ら、祐子が先を促した。
「其れで、動悸や不整脈の方は治ったの?」
「まあ、徐々に収まって来た様だ。唯、生活態度を見直す事を強く勧められたらしい。其れと、当面の間の安静かな」
「まあ、其れはそうでしょうけれど…。でも、執筆活動って、謂ったって、元々、彼奴が好きでやっている事でしょう。其れ程、無理をしているとも思え無いのだけど…」
「いや、其れがそうでも無いらしい。此れは、彼奴に直接に聞いたんだが、此の処、月間執筆作業量が原稿用紙に換算して、概ね、百枚程度らしいんだ。まあ、先刻、凛子が謂った様に、好き好んでやっている事だから、然程、苦痛でも無かったらしい。だが、其れでも、アップ前には、不眠不休で作業をして、其の儘、会社に行ったり、丸一日、絶食したりと、年齢も考えずに、随分と無茶な真似をしていた様だ」
「おい、絶食したのなら、血糖状況は改善する筈だろ?」
疑問を呈するのは明彦である。
「其れが、そうでも無いらしいのさ。正太ならわかるだろ」
「ああ、高志の謂うとおりだと思うぜ。却って悪化すると思うぞ」
「ええっ、何で?」
「決められた時間に、決められた食事量。そして、決められたインスリンの方が絶対に血糖状況が安定するんだよ。確かに、絶食すれば血糖値は上がらないだろうけど、永遠に絶食を続ける事は出来やしない。いつかは必ず食事をする。だが、俺の経験則で謂えば、其の時、間違い無く、普段以上に食事を摂取する。つまり、食い過ぎる訳だ。結果、血糖値は跳ね上がる。其れも、途轍も無くな」
此れは、正太郎の持論の通りであろう。決められた量(カロリー制限された)の食事自体、習慣化する事は、かなりの難易度であり、多くの人は、此れを定着化する事に、心を砕いているのである。此の習慣自体、意志の弱い人間にとっては、相当な困難が伴う事に違いない。そんな状況下で、絶食などすれば、其の反動で、摂取時には、過剰摂取になるに決っている。
「だから、彼奴が入院する前の血糖状況は、相当手の付けられない状況だったに違い無いぜ。何より、高々、2週間の入院で其処迄、劇的に血糖状況が改善すると謂うのは、其れ迄、相当、出鱈目な食生活を送って来た証左に他ならねえ」
「確かにな」
「つまり、入院生活で健康的な生活を送ったお陰で、血糖状況は改善されたけど、神経障害が亢進したと謂う訳ね」
「まあ、そう謂う事だな。ああ、其れと神経障害の薬を追加されたんだが…、其れが中々に剣呑でな」
「一体、如何したのよ?」
「何でも、男性機能障害になったらしい」
「男性…機能…障害?」
「何でも、野郎。前に神経障害の薬を追加された時は、ただのビタミン剤だったから、結構、軽く考えていたらしい。奴自身も神経障害を劇的に改善する薬は無いと謂う認識を持っていたそうだ。処が今回処方されたのは、なんちゃらとか謂う抗鬱剤だったそうで…」
「抗鬱剤?」
「ああ。知ってのとおり、野郎は或る意味、鬱の対面にいる様な奴だろ。暫くはかなり騒々しかったそうだ」
「ふーん」
「其れで半年くらい其の薬を服用して、初めて異常に気がついたそうだ」
「でも、アレが元気なくなったのなら、直にでも気がつきそうなものじゃない?」
顔を赤らめ乍ら、凛子が突っ込む。然し、高志がにやつき乍ら、全力で否定する。
「処が、其れがそうじゃあ無いんだな。つまり、勃起不全と謂う訳では無く、何でもイケ無くなったらしい」
「はあ?」
「つまり、射精出来なくなったんだそうだ。奴に謂わせると、将に此の世の地獄の様だったみたいだぜ。先刻、凛子が謂ったとおり、元気がなくなるのなら、野郎が幾ら馬鹿でも、直にでも気がついたんだろうが、そうじゃ無いからなあ。まさか、感じなくなるのが、薬の作用とは思わなかったそうだ。結局、しまいには奴のかみさんも怒ってしまったそうだ」
「何で、かみさんが怒るんだ? 喜ぶんじゃないのか?」
無邪気な敬介の問い掛けに、女子は真っ赤になり、いずなは憤然とする。
「ムッキー。ケースケのエッチ」
祐子は酢を飲んだ様な顔をしている。ひろみが呟く。
「でも、其の状況を説明するだけでも一苦労ね。幾ら彼奴でも、看護婦さん相手に流石に謂いにくいでしょ」
「何を謂いやがる。野郎は馬鹿だからな。俺が聞いた話では、看護婦さん相手に嬉々として説明していたそうだぞ」
「…」
「其れで、如何なったの?」
「何でも、薬を止めて一月ほどした処で、かみさん相手に然るべき処で試してみたそうだ。無事、出来たみたいだぞ。何でも嬉しくて年甲斐も無く3回ほど抜いたそうだ。まあ、結局はかみさんに怒られたそうだがな。『彼処が擦りきれ過ぎて痛い。前と同じ』だって。まあ、今日の教訓は過ぎたるは及ばざるが如し、と謂う事だな」
「彼奴が馬鹿なのは仕方ないとしても、あんたも大概よね。普通、女の子を前に、そう謂う話する?」
「良いんだよ。なんでも彼奴、十日物語やカンタベリー物語みたいな小説を目指しているみたいだから」
「其れ、絶対に嘘だろ。十日物語にしても、カンタベリー物語にしても、此の話程、下品じゃあ無いぞ。彼奴、絶対に読んだ事ねーだろ。」
熱り立つのは正太郎である。
「まあ、なんしろ、野郎の話だからなあ。…彼奴、若い頃から、向精神薬の類とは相性が悪いらしいんだ。なんでも、30代の頃、酷い肩こりと眩暈に悩まされたそうだ。大きな病院へも行ったんだが、なかなか診断が付かない。結局、不定愁訴と謂う事になったんだが、肩こりは治まらない。そんな時、同級生のやってる耳鼻科に行ったんだが、筋緊張性頭痛炎と謂う事で、ある薬を処方されたらしい、其の薬を飲んだら、立ち処に肩こりは雲散霧消したらしい」
「へえ…」
「奴も無頓着だからな。何の薬か良く判らずに服用をしていたらしい。其の薬、確かに肩こりは治まるんだが、酷く眠くなったらしい。仕事中は勿論の事、パチンコをし乍ら寝入ってしまった事もあったそうだ」
葵が尋ねる。
「一体、何の薬だったの?」
「精神安定剤」
「安定剤?」
「ああ、挙句の果てに、野郎。かみさんと致している時にもグーグーと寝入ってしまったそうだ」
「…」
葵が真っ赤になって俯く。ひろみが尋ねる。
「…其れで、如何したのよ?」
「怒ったかみさんに引っ叩かれたんだそうだ。何でも、其の後、2週間、させてもらえなかったそうだぞ」
凛子が呆れた様に呟く。
「結局、何方此方、其方の方向に話を持っていく訳ね。真面目に聞いて損した」
「ムッキー、ハロゲン族。最低」
「俺がか? 野郎じゃねーのか?」
「何方も何方でしょ」
熱り立つひろみ。祐子が慌てて閑話休題をする。
「其れで、肝心の神経障害の方は?」
「ああ、それも、大分、落ち着いて来た様だ。昨日、うちに来て、快気祝いとか称して、親父と呑んでやがった」
「相変わらず、胡散臭い、人間関係ねえ」
凛子が呆れた処で、皆も羊羹を食べ終わり、おいべつさんへ出発と謂う事にあいなった。来月には、学校の傍、秋葉神社の祭礼が十五日にあるが、尤も、其の頃は、完全に冬となっているだろうし、何よりも期末試験直前である。今日の様に集まる事は難しいであろう。正太郎はそんな事を考え乍ら、晩秋の祭礼を楽しんだのであった。
どんなに平穏な日常を送る者であっても、其の一瞬の判断が他者の生死を分かつ瞬間がある。其の時にどんな判断を下すのか? それは、人それぞれの人生観に基づいた、個人個人の考え方によって判断は分かれて来るのである。そして、若し、其の救助に優先順位があったとしたのならば…。次回、『第27話 トリアージ【前編】』。お楽しみに。




