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第25話 Goodbye To Love【後編】

(さて)()れからにしようかな。やはり、ジャンケンからかねえ…。まず、前提(ぜんてい)として、菜月(なつき)には、尋常(じんじょう)ならざる記憶力(きおくりょく)観察力(かんさつりょく)、そして、知能(ちのう)がある事を念頭(ねんとう)に置いておいて下さい。でないと、皆目(かいもく)理解(りかい)出来(でき)()いと思うよ」

「…はい」

「ジャンケンの(ぼく)との戦績は16勝4敗でした。(しか)し、あの子は()の気に成れば、20戦全勝(ぜんしょう)だった(はず)ですよ」

如何(どう)()う事ですの?」

菜月(なつき)(ぼく)動作(モーション)完全(かんぜん)(ぬす)んでいましたよ。僕自身(ぼくじしん)(まった)く意識して()(よう)微妙(びみょう)(くせ)を見つけていたのでしょうね。(したが)って、(ぼく)の手は常に読めていたと思いますよ。(もっと)も、20勝全勝(ぜんしょう)では、如何(いか)にも不自然(ふしぜん)である事は、良く理解(りかい)していた。だから、5、10、15、20戦目に(ワザ)と負ける手を出していたんだよ。(さら)に、親や先攻が有利(ゆうり)とは()()い、ブラックジャックや神経衰弱(メランコリー)の親決めジャンケンでは、(ワザ)と負ける手を出していましたよ」

 矢張(やは)り、()の男の観察眼(かんさつがん)尋常(じんじょう)では()い。順子先生は思わず(つぶや)く。

「ま、まさか…」

「だから、幼稚園(ようちえん)でも、同様の事が行われたのだと思うな。菜月(なつき)は、何としても優勝したかった。ママや(ぼく)()めてもらう(ため)にね…。でも、全勝(ぜんしょう)したら流石(さすが)不自然(ふしぜん)だ。(もっと)も、()れがあの子の屈託(くったく)であったのかもしれないけど。だから、17勝3敗。ひょっとしたら、モーションを(ぬす)みきれない子がいたのかも知れないなあ…。(しか)しまあ、(おそ)らく、そうではありますまいね。あの子の性格からして、負けの込んでいる子に勝ちを(ゆず)ったのでしょうねえ…。でなければ、相子(あいこ)が入らない理由が説明(せつめい)出来(でき)()いでしょうから…」

 吾郎先生はニコニコし(なが)ら、淡々(たんたん)と分析する。順子先生の目が(うる)んだ。いずなはジャンケン大会で優勝した事を(しき)りに()っていた事を思い出した。()めてもらいたかった事に、気が付いてあげられ()かった。


(私はそんな事も気付けずに、あの子の主張(しゅちょう)無視(むし)したばかりか、(しか)ってしまった。()の上に、あろう事か、(たた)いてしまった)


 吾郎先生は妻の後悔(こうかい)(さっ)し、(やさ)しく妻の肩に手を置き、()ったものである。

「そんなに、気に()む事はありませんよ。順子さん。あの子は(やさ)しい子だよ。()し、()の件で気が(とが)めるのなら、お昼寝から()めたら、()めてあげれば()いですよ。()れで、充分(じゅうぶん)ですよ」

「…はい」

「えーと、次はブラックジャックだね?」

「はい、あれも、なんで菜月(なつき)圧勝(あっしょう)したのか…?」

「1対1のブラックジャックでは、親の優位性(ゆういせい)()いよ。スタンドオアヒットの選択権(せんたくけん)は、基本(きほん)、子にあるのだからね。菜月(なつき)()れを知っていたから、親決めジャンケンで(ワザ)と負けたのだよ」

「でも、()れだけで、必勝(ひっしょう)()(わけ)では…」

「カードカウンティング」

「何ですの?」

「カジノ(など)で、出たカードの目を覚えていて、ゲームを有利(ゆうり)(はこ)ぶテクニックの事ですよ。でも、菜月(なつき)の場合は、レベル感がまるで違う。(おそ)らく、あの子は今日(きょう)行われたブラックジャックのそれぞれがドローした(ふだ)(すべ)てを、正確(せいかく)に再現出来(でき)ると思うよ。昼寝から起きた後でもね。でなければ、()(あと)神経衰弱(メランコリー)説明(せつめい)出来(でき)ませんからねえ…」

「ま、まさか…」

「まさかじゃありませんよ。そして、()れが、次の神経衰弱(メランコリー)のトリックの(すべ)てです」

「…()(まえ)に。途中(とちゅう)でズルは駄目(だめ)だとか…」

 吾郎先生は苦笑(にがわら)いを浮かべ、頭を()(なが)ら、説明(せつめい)した。

「…ああ、あれですか。あれは、菜月(なつき)(ぼく)のセカンドディールを見破(みやぶ)ったのですよ」

「セカンドディール? 一体(いったい)、何の事ですの?」

「あのトランプは(ぼく)が高校時代から使っていましてね、ハートのJは(うら)に小さい(きず)があるのです。そして、山札(やまふだ)天辺(てっぺん)()(きず)が見えた。だから、(ぼく)菜月(なつき)がヒットすれば、(おそ)らく、バーストする事を知っていた。(しか)し、あの子も(きず)の事を知っていたのでしょうね。『次はハートのJ』とか、()っていましたからね。当然(とうぜん)、ヒットして来なかった。だから、セカンドディール。つまり、上から2番目の札を引く技術(テクニック)を使ったのですが…。物の見事(みごと)見破(みやぶ)られました…」

(あき)れた…。4歳児(さいじ)相手に…。如何様(いかさま)じゃないですか」

 吾郎先生は快活(かいかつ)に笑う。

「はっはっは。まさか、見破(みやぶ)られるとは思いませんでしたが…。まあ、如何様(いかさま)見破(みやぶ)られなければ、ルールの(うち)ですからねえ…」

(まった)く、()の人は、もう」

 順子先生も(あき)れる。(しか)し、順子先生は(あき)(なが)らも、あの時感じた疑問(ぎもん)をぶつけてみた。

「ブラックジャックの最後(さいご)のゲームも(みょう)でしたわ」

「ははは、あれこそカードカウンティングですよ。あの時、山札(やまふだ)は残り4枚。(ぼく)()(ふだ)はスペードのK。(しか)し、菜月(なつき)は残り(すべ)てを把握(はあく)していたのでしょうね、(ぼく)()(ふだ)が何であれ、スタンドすれば、必ず(ぼく)をバーストさせる事が出来(でき)る事を、知っていたのですよ」

 順子先生は思った。成程(なるほど)、確かに得心(とくしん)は行く。(しか)し、()の会話により、一つ(わか)った事が()る。あの時、吾郎先生も、残りの山札(やまふだ)の内容を把握(はあく)していた事に成るではないか。

「…()れで、神経衰弱(メランコリー)の方は?」

(ぼく)はあの時、ブラックジャックで使った(ふだ)(ワザ)とシャッフルしませんでした。まあ、ちょっとした、思惑(おもわく)があったんですがねえ。()れは、予想(よそう)以上(いじょう)でしたよ。(しか)し、カードを(うら)(がえ)しにして広げた(わけ)ですから、順番(じゅんばん)が分かっていたとしても目で追いきれるものではないですよ。でも、()れは()(まで)我々(われわれ)一般人(いっぱんじん)発想(はっそう)であって、同時(どうじ)進行(しんこう)する幾通(いくとお)りもの変化(へんか)瞬時(しゅんじ)把握(はあく)出来(でき)る人間も居るのですよ。だから、あの子はだるまトランプから開いていったのです。(ぼく)のトランプの位置(いち)内容(ないよう)(おおむ)把握(はあく)出来(でき)ている(わけ)ですからねえ。そして、()(あと)はご(らん)の通りだよ。あの子の記憶力(きおくりょく)常人(じょうじん)(ばな)れしているね」


 吾郎先生は、(おだ)やかな表情(ひょうじょう)淡々(たんたん)(かた)る。(しか)し、吾郎先生は、『我々(われわれ)一般人(いっぱんじん)』とは、()っていたが、抑々(そもそも)()の元タイトルホルダーは、(まご)事無(ことな)く、いずな側の人間である。と、()うよりも、いずなの能力(ちから)は明らかに彼、吾郎先生、直系の能力(ちから)である。彼自身(かれじしん)も少年時代に、いずな(ほど)では()いにせよ、そう()った逸話(エピソード)には事欠(ことか)かなかった(はず)である。彼がプロ棋士(きし)内弟子(うちでし)時代に、(ほか)弟子(でし)たちと先人(せんじん)たちの棋譜(きふ)を整理していた時の事である。()け放たれていた書斎(しょさい)障子(しょうじ)(ため)、イタズラ好きの風が棋譜(きふ)を巻き上げた。彼は、(ちゅう)(おど)っている棋譜(きふ)一瞬(いっしゅん)見ただけで、本局を再生する事が出来(でき)たそうである。そして、()逸話(いつわ)(いま)だに(かた)(ぐさ)になっていると()う。また、そうでなければ、15歳にしてタイトルを手にし、名人を目指(めざ)(よう)状況(じょうきょう)には成り得なかったであろう。だが、悲しいかな、(ただ)一般人(いっぱんじん)である順子先生は今にも泣き出しそうな、悲痛な形相(ぎょうそう)で、悲鳴(ひめい)(おさ)える(よう)に、口に手を当て(なが)()った。

「あなた、…()れって」

「ああ、そうだね。…菜月(なつき)はサヴァン症候群(シンドローム)(よう)だね」

(うそ)です。(たし)かにあの子は、言葉(ことば)は少し遅いですけど、知的障害がある(よう)には、とても…」

「ああ、()のとおりですよ。(むし)ろ、菜月(なつき)の現時点の知能(ちのう)指数は、測定不能(そくていふのう)なレベルで高いと思うよ。ママも聞いたでしょう。菜月(なつき)が、神経衰弱(メランコリー)最初(さいしょ)(ぼく)がだるまトランプを2回続けて引いた時に、あの子が()った言葉(ことば)

「ええ、だるまトランプを続けて引いては駄目(だめ)だ。()の後、チョキとパーを見せて…」

「ははは、あれはジャンケンじゃないよ。数字だよ。5と2。つまり、菜月(なつき)()()いたかったのさ。『だるまトランプを2回続けて引いても当たりはいない。だるまトランプの次は(ぼく)のトランプを引けば、52分の1の(たし)からしさで当たりを引ける』とね。所謂(いわゆる)、確率…、小学校高学年の概念(がいねん)だね。(もっと)も、言葉(ことば)が追いつかずに指で(しめ)しただけだが…」

「ま、まさか…、そんな、馬鹿(ばか)な事…」

結局(けっきょく)神経衰弱(メランコリー)菜月(なつき)がミスったのは、ブラックジャックで最後(さいご)山札(やまふだ)にあったカードだけでした。(すなわ)ち、クラブのK、クラブのQ、ハートの9、そして、私の手札のスペードのK。山札(やまふだ)部分(ぶぶん)順番(じゅんばん)(まで)は、流石(さすが)()かりませんからねえ…。流石(さすが)の菜月ちゃんも、()の4枚に関しては、乾坤一擲(バクチ)にならざるを得ない…」


 此処(ここ)で順子先生は確信した。矢張(やは)り吾郎先生(さん)もカードカウンティングとやらを使っていたのだと。でなければ、残った山札の顔ぶれを、()うも正確に把握(はあく)出来(でき)ないであろう。其処(そこ)で、吾郎先生はお茶をズズズと(すす)って、また、続きを(かた)りだした。まるで、自身のカードカウンティングなどは取るに足りない出来事(できごと)だと()った風に。

所詮(しょせん)、算数、数学は抽象化(ちゅうしょうか)の学問です。小学校低学年の段階でも、小数や分数といった抽象化(ちゅうしょうか)された数字、所謂(いわゆる)自然数(しぜんすう)では無い数字にぶつかるよ。菜月(なつき)は、表現(ひょうげん)出来(でき)()いにしても、概念(がいねん)としては、正しく理解(りかい)出来(でき)ている(よう)だね。まあ、菜月(なつき)の今の年齢(ねんれい)を考えれば、奇想天外(きそうてんがい)()うか、荒唐無稽(こうとうむけい)()って()い話だからねえ…」

「あの、…最後(さいご)のA4用紙の話は?」

「ああ、あれには(おどろ)かされたよ。まあ、(ぼく)のちょっとした好奇心(こうきしん)で、かなり意地悪(いじわる)質問(しつもん)だったんだがね…。()の子は無理数(むりすう)如何(どう)表現(ひょうげん)するのかなと、つい、好奇心(こうきしん)刺激(しげき)されてね。でも、結果(けっか)予想(よそう)以上(いじょう)でしたよ。A4用紙の縦横(たてよこ)(へん)。縦298mm、横210mm、まあ所謂(いわゆる)白銀比(はくぎんひ)だね。(したが)って、()比率(ひりつ)は√2対1となっている。ママも知っての(とお)り…」

 順子先生は顔を赤らめ(なが)()った。

「…あの、私は知りませんでしたけど…」

「ママらしからぬ言葉(せりふ)だね。でも、そうなっているのですよ。()れよりも、(おどろ)かされたのは、()れに対する菜月(なつき)の答えだよ。あの子は咄嗟(とっさ)に、(たて)(へん)は『お指で出来(でき)ない』と()っていた。(すなわ)ち、自然数(しぜんすう)では()いと()っていたのだよ。√2だから当然(とうぜん)なのだが、()(あと)の答えを聞いた時に、(はだ)粟立(あわだ)ったよ」

(たし)か、四角いお(うち)如何(どう)とか…」

「うん。()れも、真四角(ましかく)なお(うち)()っていたよ。(ぼく)は、菜月(なつき)()った四角いお(うち)を、正方形(せいほうけい)面積(めんせき)解釈(かいしゃく)したのだよ。そうすれば、充分(じゅうぶん)過ぎる(ほど)、意味が通る。短い方の(へん)の長さを1とした時の、短い(へん)一辺(いっぺん)とする正方形(せいほうけい)面積(めんせき)は1。長い(へん)一辺(いっぺん)とする正方形(せいほうけい)面積(めんせき)は2。そして、()れらの(へん)(はさ)まれた直角三角形の斜辺(しゃへん)一辺(いっぺん)とする正方形(せいほうけい)面積(めんせき)は3。(たし)かに指で表現(ひょうげん)出来(でき)るよ。見事(みごと)(まで)三平方(さんへいほう)定理(ていり)だね。結局(けっきょく)、あの子は、正方形(せいほうけい)面積(めんせき)(かこつ)けて、無理数(むりすう)二乗(じじょう)する事で有理化(ゆうりか)し、指で表現したのですよ」

 順子先生は()の時の情景(じょうけい)を思い出し、くらくらと目眩(めくるめ)く思いがした。

「う、(うそ)です。そんな…三平方(さんへいほう)定理(ていり)無理数(むりすう)だなんて。抑々(そもそも)、あの子は、まだ、4歳なんですよ。何故(なぜ)、A4用紙の縦横比(たてよこひ)を知っているのですか?」

()れは、(ぼく)不思議(ふしぎ)だったのだが、菜月(なつき)()くあの複合機で、自分の()いた絵を拡縮(かくしゅく)して遊んでいただろう? ()過程(かてい)気付(きづ)いたんじゃないかな。A4もA3も相似形(そうじけい)だという事に。(ゆが)み無く拡縮(かくしゅく)できると()うのは、相似形(そうじけい)(すなわ)ち、縦横比(たてよこひ)一致(いっち)していると()う事だからねえ。其処迄(そこまで)来れば、A4用紙の縦横(たてよこ)比率(ひりつ)はx対1。()れに対して、A3用紙の比率(ひりつ)は2対x。A4用紙2枚分がA3用紙だからね。(したが)って、内項(ないこう)(せき)外項(がいこう)(せき)でxは√2となる。勿論(もちろん)表現(ひょうげん)出来(でき)なくても、()の数同士を掛け合わせれば2になる数字である、と()概念(がいねん)は持っていたのだろう。つまり、√2だね。まあ、とは()っても、4歳児(さいじ)発想(はっそう)では()いと思うけどねえ」

 順子先生は食い下がった。

(しか)し、あなた。菜月(なつき)はまだ4歳ですよ。何故(なぜ)内項(ないこう)(せき)外項(がいこう)(せき)法則(ほうそく)を、理解(りかい)しているのですか? ()(うえ)、√2だなんて…」

 吾郎先生は首を振り(なが)ら答えた。

「だから、冒頭(ぼうとう)()ったでしょう。『菜月(なつき)には途轍(とてつ)()観察力(かんさつりょく)記憶力(きおくりょく)知能(ちのう)がある』とね。少なくとも、菜月(なつき)我々(われわれ)同等以上(どうとういじょう)立ち位置(パラダイム)にいる。()()うと、(むずか)しく聞こえるかも知れないけれども、例えば、1,2,3,4,5と(なら)んだ数列(すうれつ)があって、次の数字は何ですかと聞いたら、(ほとん)どの4歳児(さいじ)は6と答えるでしょう。同様(どうよう)に1、√2、2、2√2と(なら)んだ数列(すうれつ)を見て、次の数字は何ですかと聞かれれば、我々(われわれ)のうちの(ほとん)どが4と答えるでしょう。内項(ないこう)(せき)外項(がいこう)(せき)を知らなくても()いんです。(よう)は、法則(ほうそく)性を発見出来(でき)るか(いな)かです。(もっと)も、あの子の事です。内項(ないこう)(せき)外項(がいこう)(せき)定理(ていり)も、理解(りかい)はしていると思いますよ」

「でも、菜月(なつき)(なん)で、四角形や三角形の面積(めんせき)を求める方法を知っているのですか?」

「ああ、それは、あの子、チェス盤やオセロ盤で良く遊んでいたじゃないですか。それに、囲碁盤でも。()の時に、気づいたのだろうね。四角形の面積(めんせき)の求め方、そして、三角形は()の半分になることを…。まあ、小学校でも、面積(めんせき)概念(がいねん)説明(せつめい)する際には、升目(ますめ)を使って説明(せつめい)するからねえ…。抑々(そもそも)、あの子には(ぼく)囲碁(いご)を教えた。(おそ)らく、()の実力はアマ、4、5級と()った(ところ)だろう。当然(とうぜん)、九九は理解(りかい)している。(なん)()っても、あの遊戯(ゲーム)地合(じあい)の計算には九九は必須(ひっす)だからねえ…」

 大分(だいぶ)冷静(れいせい)さを()(もど)した順子先生は最後(さいご)の大きな疑問(ぎもん)を投げてきた。

「でも、あなた。三平方(さんへいほう)定理(ていり)は? 菜月(なつき)は、一体(いったい)如何(どう)して知り()たのでしょう?」

「ああ、それは、多分(たぶん)、ピタゴラスと同じでしょう。経験則(けいけんそく)()うか、実際(じっさい)に試してみたと思うよ。菜月(なつき)は一時期、A4の紙や折り紙を、はさみで切って遊んでいたからね。実際(じっさい)にやってみて、直角三角形では斜辺(しゃへん)の四角いお(うち)の大きさが、他辺(たへん)のお(うち)()一致(いっち)する事を、自明の事実(じじつ)として認識(にんしき)していたのだろうね」


 順子先生は恐怖(きょうふ)()()った(よう)面持(おもも)ちで沈黙(ちんもく)した。()脳裏(のうり)にはアスペルガー症候群(シンドローム)()単語(たんご)()かんでは消えて行く。順子先生も医師である。当然(とうぜん)()発達障害(はったつしょうがい)知悉(ちしつ)している。()の第二次大戦下のドイツと因縁(いんねん)浅からぬ、オーストリア人小児科医(しょうにかい)、ハンス・アスペルガーの名を(かん)した()障害(しょうがい)は、発達障害(はったつしょうがい)一種(いっしゅ)であり、本人、そして、()の家族に多大(ただい)負担(ふたん)()いるものである。順子先生は突然(とつぜん)状況(じょうきょう)に、足許(あしもと)瓦解(がかい)して行く(よう)な、()い知れぬ恐怖(きょうふ)(おぼ)えた。そして、(しば)しの沈黙(ちんもく)の後、順子先生は(おび)えた様に(たず)ねた。

「あの、私は…。いえ、私達は如何(どう)すれば()いのでしょうか?」

 ()れに対して、吾郎先生は順子先生の肩に(やさ)しく手を置き、()ったものである。

(まった)く、今迄(いままで)と変わりませんよ、順子さん。順子さんが知っての通り、菜月(なつき)(やさ)しく、思いやりのある、聡明(そうめい)子供(こども)です。ただ、()れだけです。だから、(ただ)しく、()()ぐに()ばしてあげるのが、(ぼく)らの(つと)めです」

「…はい」

 順子先生は泣き笑顔(えがお)(うなず)いた。


(私は()の人の妻で良かった。()の人と一緒になれて本当に良かった…)


 順子先生は心からそう思ったりした。が、その(あと)、吾郎先生が、こんな事を()い出した。

「ところで、順子さん。…その、明日は休みだし、菜月(なつき)もお昼寝中だし、如何(どう)だろう? 今から、その、夫婦の時間とか…」

 順子先生は、じろりと、吾郎先生を多少(たしょう)(あき)れた(よう)三白眼(さんぱくがん)睥睨(へいげい)する。(まさ)に、流眄(りゅうべん)()う言葉が一番ぴたりと来るであろう。(さなが)ら、竹林(ちくりん)七賢人(しちけんじん)の一人、阮籍(げんせき)白眼(はくがん)髣髴(ほうふつ)とさせる目つきである。

「…今からですか? ()だ、明るいですよ。本当に()の人はもう…。折角(せっかく)、今、とても感心していたのに…」

 吾郎先生は、何時(いつ)に無く赤くなり、多少(たしょう)狼狽気味(ろうばいぎみ)に、

「い、いや、(ぼく)だって、その、順子さんに甘えたくなる時もあるんですよ…。やっぱ、駄目(だめ)ですかね?」

 順子先生は、普段(ふだん)沈着冷静(ちんちゃくれいせい)な吾郎先生が子供(こども)の様に取り乱したのが、余程(よほど)面白(おもしろ)くもあり、また、(いと)しくもあったのだろう。其処(そこ)で、表情(ひょうじょう)を緩めると、優しい眼差(まなざ)しで、吾郎先生を見つめた。そして、阮籍(げんせき)白眼(はくがん)も優しげな青眼(せいがん)になった(ところ)()()った。

「分かりましたよ、吾郎さん。(やさ)しくしてくださいね…」

 ハイスペックな二人ではあるが、こういう(ところ)は、世間一般のバカ夫婦と何ら変わらない。お寿司(すし)が届くまでの間、夫婦の時間となった。()の後、お昼寝から起きてきたいずなと、親子3人でおすしを食べた。順子先生はジャンケン大会の結果(けっか)()め、そして、

「ところで、菜月(なつき)ちゃん。四角いお(うち)って何の事かしら?」

 と、尋ねて見た。()れに対して、いずなは、

「うーんとね…」

 と()うと、ゴソゴソと先(ほど)のA4用紙を引っ張り出した。そして、角を反対側の(へん)にぴったりとつけ、綺麗(きれい)()()を作ると、()()起点(きてん)から、紙を内側に()り、見事(みごと)正方形(せいほうけい)を作り、

「ねっ、ちかくいお(うち)でしょ。」

 と()うと、ニッコリと微笑(ほほえ)んだ。

「本当ね。四角いお(うち)ね」

 いずなはそれに対して満面(まんめん)()みを浮かべ(なが)ら、とても、誇らしげな顔をしていた。


 (さて)閑話休題(かんわきゅうだい)。いずなの中学時代の話に(もど)る。いずなの態度(たいど)一変(いっぺん)した(ころ)、一部の女子がKに()め寄った。

最近(さいきん)、小泉ノートが回ってこないわよ。如何(どう)なってんの?」

「貸してくれないんだよ。お前ら、何かしたのか?」

「し、知らないわよ。ああ、そう()えば、()れが(はさ)まっていたのよ。あんた(あて)よ。ラブレターかしら? 教室にでも()って(さら)しちゃう?」

「バカやろー。()れの事か。待て、()い事がある。(おれ)によこせ。それに、もうすぐ中間テストがある。あいつには、答案(とうあん)を書いた後、解答(かいとう)右端(みぎはし)に置く様に()ってある」

 悪意(あくい)()き出しの会話をよそに、いずなは自分を(つらぬ)く。いずなは卒業(まで)、学校で教科書を開く事も、ノートを取る事も、二度と()かった。


 中間試験が始まった。試験中のいずなの行動は、さらに常軌(じょうき)(いっ)したものだった。1限目は英語である。50分のテスト時間が始まるも、最初(さいしょ)の3分(ほど)解答(かいとう)を書き上げ、自分の右端(みぎはし)解答用紙(かいとうようし)()せた。見易(みやす)(よう)にひどく大きな字である。教師の『後、5分』の声が掛かるや(いな)や、いずなは猛然(もうぜん)(すべ)ての解答(かいとう)を消しゴムで消し、正答を書き上げた。書き上げたのが、教師の『はい。終了』の声とほぼ同時(どうじ)であった。2限目の数学は、同様(どうよう)だった。まず、計算式を明示(めいじ)する問題(もんだい)から()めていった。記号問題(もんだい)、単純な答えを記入する問題(もんだい)は、空欄(くうらん)(まま)である。いずなは()の状態で答案用紙(とうあんようし)を『どうぞ』と、謂わんばかりに右端(みぎはし)に押しやった。いずな自身(じしん)は、頬杖(ほおづえ)()(なが)ら、ぼんやりと手持(ても)無沙汰(ぶさた)に窓の外を(なが)めている。(さて)、記入してある部分(ぶぶん)であるが、インテグラ、Ψ(プサイ)Φ(ファイ)、サイン、コサイン、タンジェント。ログ、e、iと()った、普通(ふつう)の中学生は見た事()(よう)な記号や公式(こうしき)(おど)っている。(ある)いは、テストとは(まった)無関係(むかんけい)な、マックスウェル方程式(ほうていしき)や、導関数、留数積分(りゅうすうせきぶん)公式(こうしき)が並んでいる。(さなが)ら、シュレディンガー音頭(おんど)である。()しき観察者(かんさつしゃ)達は、目を白黒させ、写すべきかどうか戸惑(とまど)っている。いずな自身(じしん)、今度は、教師の『後、5分』の声が掛かっても、まるで動きは()い。と、思いきや、残り3分位で記号と数値を()め、式も書き直してしまった。Kは(はらわた)()えくり返る思いで(つぶや)いた。


(あの野郎(やろう)…)


 3限目の理科は、穴埋(あなう)問題(もんだい)が多かった。いずなは、最初(さいしょ)の5分(ほど)で、全問書き上げ、(おもむろ)に手を()げ、()ったのである。

「先生。お腹が痛いから、保健室に行っていいですか? 不正(ふせい)を疑われても面倒(めんどう)なので、先に提出していきます。あっ。勿論(もちろん)、これで採点(さいてん)して下さって構いません。多分(たぶん)、全問正解だと思います」

 クラス内はざわついた。そして、いずなは4限目(まで)、帰って来なかった。4限目の社会は記述問題が多かった。(しか)し、いずなは開始の声が掛かっても、始めようとしない。答案(とうあん)に名前が書いてあるのみである。ぼーっと、外の景色(けしき)(なが)めている。一方(いっぽう)観察者(かんさつしゃ)達は戸惑(とまど)っている。()(まま)だと、白紙答案(はくしとうあん)になりかねない、自分の解答(かいとう)を書かざるを()ない。残り、10分を切った(ころ)、いずなは猛然(もうぜん)解答(かいとう)の記入を始めた。元より、記述式はカンニングには不向きである。(しか)も、いずなは恐ろしく小さな字で書いている。(さら)にご丁寧(ていねい)にも、人名等、語句(ごく)埋め問題(もんだい)は後に回すつもりなのか、()えて、飛ばしている。いずなが最後(さいご)解答(かいとう)である、『野口英世(のぐちひでよ)』と『田山花袋(たやまかたい)』を書き上げたのは、『はい。終了』の声と同時(どうじ)だった。最後(さいご)の国語は、観察者(かんさつしゃ)を完全に翻弄(ほんろう)していた。最初(さいしょ)の10分位で書き上げ机の右端(みぎはし)に置いた。(しか)し、あろう事か、解答の(すべ)てを平仮名(ひらがな)で書いている。世の中には、無駄(むだ)小難(こむずか)しい漢字を多用する(やから)もいるが、()れには、一つ、利点(メリット)があって、意外(いがい)と読み(やす)いのである。心地良(ここちよ)いペースで読んでいける。()れは、字面(じづら)だけで意味を判別(はんべつ)出来(でき)るからであり、百人一首の取札や電文が読みにくいのと同様、平仮名(ひらがな)だけの文章は、(すこぶ)る読みにくいのだ。(ため)しに、()稿(こう)平仮名(ひらがな)だけに変換して見たら、筆者(ひっしゃ)は3行でギブアップとなった。(さて)()行為(こうい)はいずななりの、観察者に対する、嘲笑(ちょうしょう)であろう。だが、()れも(つか)の間、20分には(すべ)て消して、新たに書き上げ右端(みぎはし)に置く、30分に又消し始めた。さらに、消している最中(さいちゅう)に、答案用紙(とうあんようし)が破れてしまったのか、新しい答案用紙(とうあんようし)を要求したのだ。新しい答案用紙(とうあんようし)が届くと、今度は何も書かずに居眠(いねむ)りを始めた。白紙の答案用紙(とうあんようし)右端(みぎはし)に置かれているだけである。結局(けっきょく)終了まで()(まま)で、挙句(あげく)の果てに先生に、

「書き直そうと思ったんですけど、時間が足り無くなると思い、古い解答用紙を使わせてもらいましたので、()の用紙はお返しします」

 と()って、右端(みぎはし)の白紙の用紙を返却した。


 いずなの採点(さいてん)結果(けっか)は、伝説(でんせつ)となる2回目の250点満点を達成し、学年でトップだった。次席者の点数が、222点であった事を考慮(こうりょ)すれば、相当(そうとう)難易度(なんいど)が高かったのだろう。(まさ)に、科挙圧巻(かきょあっかん)である。いずなは、此処(ここ)最近(さいきん)奇妙(きみょう)態度(たいど)(あわ)せて、職員室に()いて、教員たちの話題(わだい)独占(どくせん)であった。一方(いっぽう)()しき観察者(かんさつしゃ)達は、全科目翻弄(ほんろう)された挙句(あげく)、ぼろぼろだった。特にKは(ひど)く、トータルで18点だった。


 ()の日、いずなはKに呼び出された。いずなは教室内と同じく、(ひど)(うつ)ろで無表情(むひょうじょう)面持(おもも)ちだった。

最近(さいきん)は、ノート貸してくれないんだね。それに、あのテスト何なの?」

 いずなは、(いささ)()めた声で(とぼ)けた。

「テストって何の事? ノートはごめんね。私、最近(さいきん)ノート持って来て()いの。全部、()の場で覚える事にしたの。(もっと)も、学校で覚える事って、庶務事項位だけだけど…」

「なら、宿題は如何(どう)するんだよ?」

 此処(ここ)で、初めていずなは微笑(ほほえ)んだ。ある(しゅ)(すご)みのある悪魔的(あくまてき)微笑(ほほえみ)だった。

「あんな、宿題なら1分もあれば出来(でき)る。あのレベルのテストなら5分位かな。宿題は始業の1分前にする事にしたの。テストも(のぞ)く人がいるから、いろいろ工夫(くふう)しちゃった。…普通(ふつう)の生徒の学力進捗度合(しんちょくどあい)(はか)る目的のテストでは、あたしの学力は(はか)れない。無意味(むいみ)だよ。MAXの結論(けつろん)しか出ないもの」


 いずなは氷の様な(アルカイック)微笑(スマイル)を浮かべ(なが)ら、恐るべき事を、冷徹(れいてつ)()(はな)った。物陰(ものかげ)から、Kの仲間達が出て来た。男女7人(ほど)だ。

「もういいぜ、やっちまおうぜ。()のブス」

調子(ちょうし)こいてんだよ」

 (しか)し、Kは負けてはいなかった。ニヤニヤし(なが)ら、冷静(れいせい)()ってのけた。

「まあ、待て。(おれ)(まか)せろ。ところで、()れだろ」

 そう()ってKが取り出したのは、(くだん)封筒(ふうとう)だった。

()の前、()んだ? って。()れの事か? ワリい。(いそが)しくて、()んでねえんだよ」

 Kはそう()うと、矢庭(やにわ)に、封筒(ふうとう)を二つに()()くと、(まる)めて足下(そっか)(ほう)った。


「あっ」


 (さら)に、(くつ)で踏みにじると、(あざけ)る様に()い捨てた。

「まっ、()む気もねーんだけどよ。行こうぜ。こんなチビ、利用価値(りようかち)()しだ」

「ハハハ。ばーか」

「死ぬ(まで)、勉強でもやってろ」

「でも、早く死になさいね。バーカ」

 唾棄(だき)すべき卑劣(ひれつ)な同級生達は、笑い(なが)ら行ってしまった。残されたいずなは、(しばら)くは、(みずか)らの両足で(おのれ)を支えていたが、よろよろと、二、三歩泳ぐ(よう)(あゆ)むと、(やが)ては(くず)れ落ちる様に両膝(りょうひざ)をつく。そして、倒れ込むと同時に両手を着いた。目の前に、可愛(かわい)らしいひよことあひるのイラストの封筒(ふうとう)無残(むざん)姿(すがた)(さら)していた。いずなの(あわ)(ほの)かな恋心(こいごころ)で、真心(まごころ)()めて(したた)めた、初恋(はつこい)恋文(こいぶみ)亡骸(なきがら)が、文字通(もじどお)り、()()かれ、(まる)められて、()みにじられて、(どろ)(まみ)れて…。


 (ころ)がっていた。


 嗚呼(ああ)(なん)()下劣(げれつ)連中(れんちゅう)であろうか。(のろ)われてあれ、卑劣漢(ひれつかん)ども。黄色い可愛(かわい)らしいひよこ達の輪郭(りんかく)は、(かす)んだいずなの視界(しかい)の中で、見る見るうちに()やけて行った。いずなは(くや)しさに()(ふる)える手で、懸命(けんめい)初恋(はつこい)恋文(こいぶみ)残骸(ざんがい)(ひろ)った。指先がぷるぷると(ふる)戦慄(わななき)上手(うま)(ひろ)えなかった。(くや)しくて、悲しくて、いずなの顔は、くしゃくしゃに(ゆが)んでいたが、いずなは無我夢中(むがむちゅう)(こら)えた。そして、心の中で(さけ)んだ。


(負けない。私、絶対(ぜったい)に負けない。あんた達に泣かされたりなんかしない。死んでも泣か()い)


 そして、何時(いつ)しか、声に出して絶叫(ぜっきょう)していた。


「泣いてなんか、やるもんか!」


 いずなの血の出る(よう)渾身(こんしん)からの(さけ)びは、放課後(ほうかご)(かたむ)きかけた夕日が照らす校舎に反響(はんきょう)し、(わず)かに(こだま)した。表の通りには何故(なぜ)()()く車が途絶(とだ)え、闃然(げきぜん)とした不思議(ふしぎ)静寂(しじま)だけが其処(そこ)にあった。無力(むりょく)だった。ただ、只管(ひたすら)無力(むりょく)だった。どんなに勉強が出来(でき)ようが、どんなに家が裕福であろうが、それが何になろう。いずなはよろよろと立ち上がると、(ふたつ)(かいな)でゴシゴシゴシと顔を(ぬぐ)い、(やが)て、背を(まる)めて歩き始めた。(ひど)くゆっくりとした、()()(よう)足取(あしど)りだった。いずなは、(うつ)ろな面持(おもも)ちで、(ひど)くとぼとぼと蹣跚(まんさん)として、家路(いえじ)辿(たど)った。時折(ときおり)、立ち止まって目を(こす)っては、虚空(おおぞら)を見上げた。上を見てないと、涙が流れ落ちて来る(よう)に思われた。秋の空はとても高く、そして、()ける(よう)に青かった。一機の飛行機が、一筋の飛行機雲を置き去りに横切って行く。空は吸い込まれそうなコバルト色だった。空の青さだけが、(みょう)印象(いんしょう)に残っていた。秋、とは()っても、青北風(あおぎた)が、時折(ときおり)、いずなの後方から追い抜いて行くが、()木枯(こが)らしですら、あの、卑劣(ひれつ)な同級生達に(くら)べたら、何処(どこ)(やさ)しく、暖かく感じられた。そして、いずなは、やっとの想いで家に辿(たど)り着いた。いずなは家には寄らずに、無言(むごん)(まま)(うら)庭に行き、庭の片隅でしゃがみ込むと、無表情(むひょうじょう)(うつ)ろな目をして、黄色い、ボロボロになった封筒(ふうとう)に火を付けた。一刻(いっこく)も早くひよこ達を(とむら)ってやりたかった。何度(なんど)と無く、涙が込み上げて来たが、()都度(つど)、歯を食いしばって懸命(けんめい)(こら)えた。(さみ)しい葬儀(そうぎ)だった。参列者は、と()っても、いずな以外には、庭に咲いた秋桜(コスモス)の花だけだったが、青北風(あおぎた)(なぶ)られた秋桜(コスモス)は、(さみ)しげに首を振っていた。爽籟(そうらい)はいずなの心の中をも吹き抜けて行く(よう)な気がした。爽快感(そうかいかん)()うには、(あま)りにも(かな)しく、(あま)りにも(むな)しく、少し(はだ)寒かった。炎はめらめらと燃え上がり、あっという間に()()き、(わず)かばかりの灰を残した。いずなは、(うつ)ろな目でぼんやりと立ち上る煙を見つめていた。風も()いで、()()ぐに天に向かって伸びたる煙は、ひよこ達が天に向かって旅立った証左(しょうさ)の様に思われた。(やが)て、火も消えた。(さみ)しい、(かな)しい、(むな)しい、初恋(はつこい)(とむら)いだった。(あと)には、何も残らなかった。残ったのは、(わず)かばかりの灰と、()る瀬()い思いだけだった。(やが)て、いずなは立ち上がると、(うつ)ろな表情(ひょうじょう)(まま)に、家に戻った。玄関で順子先生が、いずなの悄然(しょうぜん)とした(さま)を見て、心配そうに声を掛けた。

「あら、菜月(なつき)、お帰りなさい。如何(どう)かしたの?」


(何かあったんだ…)


 いずなの悄然(しょうぜん)とした()()ちを見て、順子先生はすぐさま直感(ちょっかん)した。(しか)し、そんな気配(けはい)噯気(おくび)にも出さ()い。母親、と()うよりは、(むし)ろ、医者としての配慮(はいりょ)であろう。

「ううん。何でも()い…。ママ。頭が痛いから、()(まま)、休むね」

大丈夫(だいじょうぶ)? お(かゆ)でも作ろうか?」

 順子先生は知っている。最愛の娘は今、精神的危機に(おちい)っている。そんな娘の苦痛を緩和(かんわ)出来(でき)るのは自分しかいない。そして、緩和(かんわ)出来(でき)る物は偽心(ぎしん)無き真心(まごころ)しか()いのだ。順子先生もまた、母親として、医者として大きく成長していたのだった。

「ううん。ママ。ありがとう。大丈夫(だいじょうぶ)だから」

 順子先生の優しい言葉(ことば)が涙を(いざな)う。いずなは、自室に(こも)り、ベッドに横たわると、天井(てんじょう)を見上げたまま、身動(みじろ)ぎもしなかった。


 (うつ)ろな眼差(まなざ)しで、漠然(ばくぜん)天井(てんじょう)を見ているが、ともすれば、時折(ときおり)天井(てんじょう)()やける。上を向いていないと、涙が流れて来てしまう。(やが)て、順子先生が心配するといけないと思い、部屋の電気をつけ、何気(なにげ)()く、FMラジオをつけた。(おり)しも、カーペンターズの『グッドバイトゥラブ』と()う、曲が流れていた。

()い曲だな)

 最初(さいしょ)から、いずなの琴線(きんせん)にふれた。バイリンガルであるいずなは、即座(そくざ)に歌詞が理解(りかい)出来(でき)た。

(はは…。私と…同じだ…)

 そう思うと、無性に泣きたくなった。ドラムのフィルインが1小節入った後の、アウトロもカッコ良かった。コーラスとギターソロを聞き(なが)ら、何度(なんど)か涙がこみ上げた。が、()都度(つど)、目をこすって(こら)えた。

(こんな、()い曲なのに、泣けないのはつらいな…)

 此処(ここ)で、涙を流すと、あいつらに泣かされた(よう)な気がした。()理不尽(りふじん)さが釈然(しゃくぜん)としなかった。只管(ひたすら)釈然(しゃくぜん)としなかった。(しか)し、それも、(すべ)ては遠い思い出だった。(けっ)して、(うつく)しくも()く、(なつ)かしくも()く、思い出したくも()かったが、(まぎ)れも()く、いずなの初恋(はつこい)(すなわ)ち、人生の一部だったのである。


 神渡(かみわた)しが、目の前で(ふる)える病葉(わくらば)(さら)って行く。いずなは、突然、現実に引き戻された。秋の夕暮(ゆうぐ)れ時の事である。時折(ときおり)木枯(こが)らしにも似た、小寒(こさむ)い風が、色鮮やかな銀杏(いちょう)の葉を巻き上げ、吹き抜けて行く。いずなは、遠い目をし(なが)ら、ベンチに座りぼんやりと、大型商業施設の入り口の方を見ている。入り口のラウドスピーカーから、地元FM局の放送が流れ、そして、何時(いつ)しか、『グッドバイトゥラブ』が流れ始めた。何時(いつ)だって、()の曲には涙腺(るいせん)刺激(しげき)される。あの日の悲しい記憶(きおく)が、(ふたた)去来(きょらい)する。

(あれから、1年も経つんだ…。あれから、1年。私、変われたのかなあ?)

 あの(ころ)のいずなは孤独(こどく)であった。孤独(こどく)(さび)しくもあったが、居心地(いごこち)も良かった。いずなの中学校時代(まで)孤独(こどく)の連続であった。()わば、孤独(こどく)はいずなの一番の友人でもあった。絶望(ぜつぼう)は死に(いた)(やまい)()ったのはキルケゴールであったであろうか。だが、(しか)し、孤独(こどく)絶望(ぜつぼう)以上(いじょう)に、何時(いつ)かは死に(いた)(やまい)なのである。あの当時、いずなの窮愁(きゅうしゅう)(うれ)いを理解する様な親友(とも)はいなかった。いずなは目を閉じる。まず、(まぶた)()かんだのは、いずなの両親、そして、敬介の(やさ)しく人懐(ひとなつ)っこい笑顔(えがお)だった。


 敬介は、入学以来(いらい)、いずなに好意(こうい)(しめ)し続け、何時(いつ)だっていずなの心に()()(よう)に接してくれていた。今のいずなにとって、掛け替えの()い人である。そして、次に()かんだのは、少しはにかんだ祐子の遠慮(えんりょ)がちな笑顔(えがお)であった。人付き合いの苦手(にがて)なぽっちゃり型の()の少女は、いずなの高校生になってと()うよりも、人生初めてのお友達と()って()いだろう。そして、()の彼氏である正太郎。如何(いか)にも飄々(ひょうひょう)としている(よう)に見えて、()(じつ)繊細(せんさい)過ぎる()の少年は、いずなの最初(さいしょ)の異性の友人でもある。()たり顏の剽軽(ひょうきん)なお調子(ちょうし)者の高志は、()のグループの狂言回(きょうげんまわ)し役であり、ムードメーカーでもある。初中(しょっちゅう)下世話(げせわ)冗談(じょうだん)や下ネタに走るが、()心根(こころね)は誰よりも優しい。ひろみは実直(じっちょく)で一本気の女の子だ。いずなは、()()()ぐな清清(すがすが)しさを何時(いつ)尊敬(そんけい)していた。凛子は、沈着冷静(ちんちゃくれいせい)なクールビューティであるが、()内面(ないめん)は、純情(じゅんじょう)涙脆(なみだもろ)人情家(にんじょうか)で有る事をいずなは良く知っていた。明彦は秀才タイプのキャラであったが、()(じつ)、凛子同様(どうよう)人情家(にんじょうか)であり、友人の(ため)であれば、どんな艱難辛苦(かんなんしんく)でも、(いと)わぬであろう。他にも、葵、ヤスベエ、六助、一平と掛け替えの()い友人達の(おもかげ)が、次々と浮かんでは、消えて行った。


 そして、いずなは、確信した。

(1年前と変わらないなんて、有り()ない。私はこんなにも素敵(すてき)な友人達に囲まれている)


「いずなちゃん。遅くなってごめん」

 横合(よこあ)いから、不意(ふい)に、敬介の声が聞こえた。いずなは、立ち上がり、そして、振り返る。其処(そこ)には、敬介が息を切らして立っていた。学校から此処(ここ)(まで)、走り()めだったのだろう。両手で膝頭(ひざがしら)(ささ)え、肩で大きく息をしていた。小柄(こがら)体躯(たいく)の敬介が、何故(なぜ)か、一周(ひとまわ)り大きく見えた。それに対し、一年前に比べ、少しふっくらして、女らしさと丸みを()びた、振り返りざまのいずなの(ほほ)を、涙が二筋伝った。いずなの(ひとみ)逆光(ぎゃっこう)夕日(ゆうひ)を受け、きらきらと潤んでいた。とても美しい笑顔(えがお)だった。そして、次の瞬間、()神々(こうごう)しい笑顔(えがお)下唇(したくちびる)()()めて奇妙(きみょう)(ゆが)んだ。(おり)しも、スピーカーからは、ドラムのフィルイン、そして、いずなの好きなアウトロが流れ始めていた。いずなは心の中で、自分に()い聞かせる(よう)に、そして、中学時代の悲しい思い出を()ち切る(よう)に、(さけ)んだ。

(あいつらには泣かされない。絶対(ぜったい)に。でも、ケースケ君にだったら、泣かされても()いよね。涙、見せても()いよね)

 美しいコーラスと、(むせ)び泣く(よう)なギターソロが、銀杏(いちょう)の葉が()(おど)る、すずめ色の黄昏(たそがれ)()まり始めた街並(まちな)みに、(ひび)き渡っていた。


 いずなは、敬介の胸の中で、大きく肩を(ふる)わせ、(はげ)しく()(じゃく)っていた。号泣(ごうきゅう)だった。涙も、鼻水も、(よだれ)も、(すべ)()(なが)し、とても愛する人の前では見せられた姿では()かった。それでも、只管(ひたすら)泣いた。何時(いつ)(まで)も、大声を張り上げ、わあわあと泣いた。本当は、1年前に流したかった涙だったのかも知れない。あの日、()の曲を()(なが)ら、流したかった涙だったのかもしれない。


如何(どう)したの?」

 敬介は当惑(とうわく)(なが)らも、

大丈夫(だいじょうぶ)だから…。心配()いから…泣かないで」

 と懸命(けんめい)(はげ)まし、何時迄(いつまで)も、(やさ)しく頭を()でている。

(本当に優しい人だ。()の人と(めぐ)り会えて良かった。ありがとう、神様。ありがとう、ケースケ君)

 いずなは、ひよこ達の送り先が、()(やさ)しい敬介で()かった事が、残念(ざんねん)でならなかった。敬介ならば、送り先が、敬介であったならば、ひよこ達が灰になる事も、(けっ)して、()かっただろう。只管(ひたすら)、ひよこ達に申し(わけ)()かった。いずなは、(ようや)く、悲しみ深い初恋(はつこい)と、決別(けつべつ)出来(でき)た事を自覚(じかく)した。小柄(こがら)なれど、(ひど)(あたた)かく慈愛(じあい)()ちた敬介の(かいな)の中で。あの日流せなかった、悲しい涙とともに。


 秋の夕暮(ゆうぐ)れ時の、銀杏(いちょう)の葉の舞い散る中で、西日(にしび)()びて(たたず)む、抱擁(ほうよう)する二人の高校生。一方(いっぽう)号泣(ごうきゅう)し、一方(いっぽう)(やさ)しく慰撫(いぶ)する高校生達。大型ショッピングモール前での、()のかなり珍妙(ちんみょう)光景(こうけい)に、道行く人々は振り返り(なが)らも、通り過ぎて行った。(しば)()って、敬介が、(やさ)しく頭を()(なが)ら、()()った。

大丈夫(だいじょうぶ)? 落ち着いた? 寒くなって来たよ。中で、何か(あたた)かい物でも飲もうよ」

「うん」

 敬介は、泣き笑顔(えがお)(うなず)くいずなの手を握り、歩き出した。二人の影が、店の中へと吸い込まれる様に消えて行った。いずなが、高校1年の、何もかもが金色(こんじき)()まった、そして、悲しすぎる初恋(はつこい)(ようや)決別(けつべつ)出来(でき)た、とある秋の夕暮(ゆうぐ)(どき)出来事(できごと)だった。


 以上(いじょう)が、『グッドバイトゥラブ』に(まつ)わる、いずなの少し(せつ)なく、少し悲しい青春残酷物語の一部始終(いちぶしじゅう)である。いずなにとって、(はなは)だ、不本意(ふほんい)な事かもしれないが、いずなの初恋(はつこい)は、(すべ)()の曲に収斂(しゅうれん)している。いずなが『グッドバイトゥラブ』と()う曲を忘れる事は、(たと)え、いずなの()卓犖(たくらく)した能力(のうりょく)()くとも、一生(いっしょう)出来(でき)()いであろう。

いつも、ご愛読有難う御座います。卒爾乍ら、3ヶ月程、休載させて戴きます。今は体を休め、健康の涵養に努めて行きたいと思います。また、再開出来る日を楽しみにしております。   -作者


大変ご心配をおかけしました。2022年7月より再開致します。


清水の小さな祭礼の日の夜のお話。いつものメンバーの四方山話に花が咲く。

次回、『第26話 祭礼の日に』。お楽しみに。

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