第25話 Goodbye To Love【後編】
「扨、何れからにしようかな。やはり、ジャンケンからかねえ…。まず、前提として、菜月には、尋常ならざる記憶力、観察力、そして、知能がある事を念頭に置いておいて下さい。でないと、皆目、理解出来無いと思うよ」
「…はい」
「ジャンケンの僕との戦績は16勝4敗でした。然し、あの子は其の気に成れば、20戦全勝だった筈ですよ」
「如何謂う事ですの?」
「菜月は僕の動作を完全に盗んでいましたよ。僕自身、全く意識して無い様な微妙な癖を見つけていたのでしょうね。従って、僕の手は常に読めていたと思いますよ。尤も、20勝全勝では、如何にも不自然である事は、良く理解していた。だから、5、10、15、20戦目に態と負ける手を出していたんだよ。更に、親や先攻が有利とは謂え無い、ブラックジャックや神経衰弱の親決めジャンケンでは、態と負ける手を出していましたよ」
矢張り、此の男の観察眼も尋常では無い。順子先生は思わず呟く。
「ま、まさか…」
「だから、幼稚園でも、同様の事が行われたのだと思うな。菜月は、何としても優勝したかった。ママや僕に褒めてもらう為にね…。でも、全勝したら流石に不自然だ。尤も、其れがあの子の屈託であったのかもしれないけど。だから、17勝3敗。ひょっとしたら、モーションを盗みきれない子がいたのかも知れないなあ…。然しまあ、恐らく、そうではありますまいね。あの子の性格からして、負けの込んでいる子に勝ちを譲ったのでしょうねえ…。でなければ、相子が入らない理由が説明出来無いでしょうから…」
吾郎先生はニコニコし乍ら、淡々と分析する。順子先生の目が潤んだ。いずなはジャンケン大会で優勝した事を頻りに謂っていた事を思い出した。褒めてもらいたかった事に、気が付いてあげられ無かった。
(私はそんな事も気付けずに、あの子の主張を無視したばかりか、叱ってしまった。其の上に、あろう事か、叩いてしまった)
吾郎先生は妻の後悔を察し、優しく妻の肩に手を置き、謂ったものである。
「そんなに、気に病む事はありませんよ。順子さん。あの子は優しい子だよ。若し、其の件で気が咎めるのなら、お昼寝から覚めたら、褒めてあげれば良いですよ。其れで、充分ですよ」
「…はい」
「えーと、次はブラックジャックだね?」
「はい、あれも、なんで菜月が圧勝したのか…?」
「1対1のブラックジャックでは、親の優位性は無いよ。スタンドオアヒットの選択権は、基本、子にあるのだからね。菜月は其れを知っていたから、親決めジャンケンで態と負けたのだよ」
「でも、其れだけで、必勝と謂う訳では…」
「カードカウンティング」
「何ですの?」
「カジノ等で、出たカードの目を覚えていて、ゲームを有利に運ぶテクニックの事ですよ。でも、菜月の場合は、レベル感がまるで違う。恐らく、あの子は今日行われたブラックジャックのそれぞれがドローした札全てを、正確に再現出来ると思うよ。昼寝から起きた後でもね。でなければ、其の後の神経衰弱が説明出来ませんからねえ…」
「ま、まさか…」
「まさかじゃありませんよ。そして、其れが、次の神経衰弱のトリックの全てです」
「…其の前に。途中でズルは駄目だとか…」
吾郎先生は苦笑いを浮かべ、頭を搔き乍ら、説明した。
「…ああ、あれですか。あれは、菜月が僕のセカンドディールを見破ったのですよ」
「セカンドディール? 一体、何の事ですの?」
「あのトランプは僕が高校時代から使っていましてね、ハートのJは裏に小さい傷があるのです。そして、山札の天辺に其の傷が見えた。だから、僕は菜月がヒットすれば、恐らく、バーストする事を知っていた。然し、あの子も傷の事を知っていたのでしょうね。『次はハートのJ』とか、謂っていましたからね。当然、ヒットして来なかった。だから、セカンドディール。つまり、上から2番目の札を引く技術を使ったのですが…。物の見事に見破られました…」
「呆れた…。4歳児相手に…。如何様じゃないですか」
吾郎先生は快活に笑う。
「はっはっは。まさか、見破られるとは思いませんでしたが…。まあ、如何様も見破られなければ、ルールの内ですからねえ…」
「全く、此の人は、もう」
順子先生も呆れる。然し、順子先生は呆れ乍らも、あの時感じた疑問をぶつけてみた。
「ブラックジャックの最後のゲームも妙でしたわ」
「ははは、あれこそカードカウンティングですよ。あの時、山札は残り4枚。僕の伏せ札はスペードのK。然し、菜月は残り全てを把握していたのでしょうね、僕の伏せ札が何であれ、スタンドすれば、必ず僕をバーストさせる事が出来る事を、知っていたのですよ」
順子先生は思った。成程、確かに得心は行く。然し、此の会話により、一つ判った事が在る。あの時、吾郎先生も、残りの山札の内容を把握していた事に成るではないか。
「…其れで、神経衰弱の方は?」
「僕はあの時、ブラックジャックで使った札を態とシャッフルしませんでした。まあ、ちょっとした、思惑があったんですがねえ。其れは、予想以上でしたよ。然し、カードを裏返しにして広げた訳ですから、順番が分かっていたとしても目で追いきれるものではないですよ。でも、其れは飽く迄、我々、一般人の発想であって、同時に進行する幾通りもの変化を瞬時に把握出来る人間も居るのですよ。だから、あの子はだるまトランプから開いていったのです。僕のトランプの位置と内容は概ね把握出来ている訳ですからねえ。そして、其の後はご覧の通りだよ。あの子の記憶力は常人離れしているね」
吾郎先生は、穏やかな表情で淡々と語る。然し、吾郎先生は、『我々一般人』とは、謂っていたが、抑々、此の元タイトルホルダーは、紛う事無く、いずな側の人間である。と、謂うよりも、いずなの能力は明らかに彼、吾郎先生、直系の能力である。彼自身も少年時代に、いずな程では無いにせよ、そう謂った逸話には事欠かなかった筈である。彼がプロ棋士の内弟子時代に、他の弟子たちと先人たちの棋譜を整理していた時の事である。開け放たれていた書斎の障子の為、イタズラ好きの風が棋譜を巻き上げた。彼は、宙を踊っている棋譜を一瞬見ただけで、本局を再生する事が出来たそうである。そして、其の逸話は未だに語り草になっていると謂う。また、そうでなければ、15歳にしてタイトルを手にし、名人を目指す様な状況には成り得なかったであろう。だが、悲しいかな、唯の一般人である順子先生は今にも泣き出しそうな、悲痛な形相で、悲鳴を抑える様に、口に手を当て乍ら謂った。
「あなた、…其れって」
「ああ、そうだね。…菜月はサヴァン症候群の様だね」
「嘘です。確かにあの子は、言葉は少し遅いですけど、知的障害がある様には、とても…」
「ああ、其のとおりですよ。寧ろ、菜月の現時点の知能指数は、測定不能なレベルで高いと思うよ。ママも聞いたでしょう。菜月が、神経衰弱の最初、僕がだるまトランプを2回続けて引いた時に、あの子が謂った言葉」
「ええ、だるまトランプを続けて引いては駄目だ。其の後、チョキとパーを見せて…」
「ははは、あれはジャンケンじゃないよ。数字だよ。5と2。つまり、菜月は斯う謂いたかったのさ。『だるまトランプを2回続けて引いても当たりはいない。だるまトランプの次は僕のトランプを引けば、52分の1の確からしさで当たりを引ける』とね。所謂、確率…、小学校高学年の概念だね。尤も、言葉が追いつかずに指で示しただけだが…」
「ま、まさか…、そんな、馬鹿な事…」
「結局、神経衰弱で菜月がミスったのは、ブラックジャックで最後に山札にあったカードだけでした。即ち、クラブのK、クラブのQ、ハートの9、そして、私の手札のスペードのK。山札の部分の順番迄は、流石に分かりませんからねえ…。流石の菜月ちゃんも、此の4枚に関しては、乾坤一擲にならざるを得ない…」
此処で順子先生は確信した。矢張り吾郎先生もカードカウンティングとやらを使っていたのだと。でなければ、残った山札の顔ぶれを、斯うも正確に把握は出来ないであろう。其処で、吾郎先生はお茶をズズズと啜って、また、続きを語りだした。まるで、自身のカードカウンティングなどは取るに足りない出来事だと謂った風に。
「所詮、算数、数学は抽象化の学問です。小学校低学年の段階でも、小数や分数といった抽象化された数字、所謂、自然数では無い数字にぶつかるよ。菜月は、表現は出来無いにしても、概念としては、正しく理解出来ている様だね。まあ、菜月の今の年齢を考えれば、奇想天外と謂うか、荒唐無稽と謂って良い話だからねえ…」
「あの、…最後のA4用紙の話は?」
「ああ、あれには驚かされたよ。まあ、僕のちょっとした好奇心で、かなり意地悪な質問だったんだがね…。此の子は無理数を如何表現するのかなと、つい、好奇心を刺激されてね。でも、結果は予想以上でしたよ。A4用紙の縦横の辺。縦298mm、横210mm、まあ所謂、白銀比だね。従って、其の比率は√2対1となっている。ママも知っての通り…」
順子先生は顔を赤らめ乍ら謂った。
「…あの、私は知りませんでしたけど…」
「ママらしからぬ言葉だね。でも、そうなっているのですよ。其れよりも、驚かされたのは、其れに対する菜月の答えだよ。あの子は咄嗟に、縦の辺は『お指で出来ない』と謂っていた。即ち、自然数では無いと謂っていたのだよ。√2だから当然なのだが、其の後の答えを聞いた時に、肌が粟立ったよ」
「確か、四角いお家が如何とか…」
「うん。其れも、真四角なお家と謂っていたよ。僕は、菜月が謂った四角いお家を、正方形の面積と解釈したのだよ。そうすれば、充分過ぎる程、意味が通る。短い方の辺の長さを1とした時の、短い辺を一辺とする正方形の面積は1。長い辺を一辺とする正方形の面積は2。そして、其れらの辺に挟まれた直角三角形の斜辺を一辺とする正方形の面積は3。確かに指で表現出来るよ。見事な迄に三平方の定理だね。結局、あの子は、正方形の面積に託けて、無理数を二乗する事で有理化し、指で表現したのですよ」
順子先生は其の時の情景を思い出し、くらくらと目眩く思いがした。
「う、嘘です。そんな…三平方の定理に無理数だなんて。抑々、あの子は、まだ、4歳なんですよ。何故、A4用紙の縦横比を知っているのですか?」
「其れは、僕も不思議だったのだが、菜月は良くあの複合機で、自分の描いた絵を拡縮して遊んでいただろう? 其の過程で気付いたんじゃないかな。A4もA3も相似形だという事に。歪み無く拡縮できると謂うのは、相似形、即ち、縦横比が一致していると謂う事だからねえ。其処迄来れば、A4用紙の縦横の比率はx対1。其れに対して、A3用紙の比率は2対x。A4用紙2枚分がA3用紙だからね。従って、内項の積・外項の積でxは√2となる。勿論、表現は出来なくても、其の数同士を掛け合わせれば2になる数字である、と謂う概念は持っていたのだろう。つまり、√2だね。まあ、とは謂っても、4歳児の発想では無いと思うけどねえ」
順子先生は食い下がった。
「然し、あなた。菜月はまだ4歳ですよ。何故、内項の積・外項の積の法則を、理解しているのですか? 其の上、√2だなんて…」
吾郎先生は首を振り乍ら答えた。
「だから、冒頭に謂ったでしょう。『菜月には途轍も無い観察力と記憶力と知能がある』とね。少なくとも、菜月は我々と同等以上の立ち位置にいる。斯う謂うと、難しく聞こえるかも知れないけれども、例えば、1,2,3,4,5と並んだ数列があって、次の数字は何ですかと聞いたら、殆どの4歳児は6と答えるでしょう。同様に1、√2、2、2√2と並んだ数列を見て、次の数字は何ですかと聞かれれば、我々のうちの殆どが4と答えるでしょう。内項の積・外項の積を知らなくても良いんです。要は、法則性を発見出来るか否かです。尤も、あの子の事です。内項の積・外項の積の定理も、理解はしていると思いますよ」
「でも、菜月は何で、四角形や三角形の面積を求める方法を知っているのですか?」
「ああ、それは、あの子、チェス盤やオセロ盤で良く遊んでいたじゃないですか。それに、囲碁盤でも。其の時に、気づいたのだろうね。四角形の面積の求め方、そして、三角形は其の半分になることを…。まあ、小学校でも、面積の概念を説明する際には、升目を使って説明するからねえ…。抑々、あの子には僕が囲碁を教えた。恐らく、其の実力はアマ、4、5級と謂った処だろう。当然、九九は理解している。何と謂っても、あの遊戯の地合の計算には九九は必須だからねえ…」
大分、冷静さを取り戻した順子先生は最後の大きな疑問を投げてきた。
「でも、あなた。三平方の定理は? 菜月は、一体、如何して知り得たのでしょう?」
「ああ、それは、多分、ピタゴラスと同じでしょう。経験則と謂うか、実際に試してみたと思うよ。菜月は一時期、A4の紙や折り紙を、はさみで切って遊んでいたからね。実際にやってみて、直角三角形では斜辺の四角いお家の大きさが、他辺のお家の和と一致する事を、自明の事実として認識していたのだろうね」
順子先生は恐怖に引き攣った様な面持ちで沈黙した。其の脳裏にはアスペルガー症候群と謂う単語が浮かんでは消えて行く。順子先生も医師である。当然、此の発達障害は知悉している。此の第二次大戦下のドイツと因縁浅からぬ、オーストリア人小児科医、ハンス・アスペルガーの名を冠した此の障害は、発達障害の一種であり、本人、そして、其の家族に多大な負担を強いるものである。順子先生は突然の状況に、足許が瓦解して行く様な、謂い知れぬ恐怖を覚えた。そして、暫しの沈黙の後、順子先生は怯えた様に尋ねた。
「あの、私は…。いえ、私達は如何すれば良いのでしょうか?」
其れに対して、吾郎先生は順子先生の肩に優しく手を置き、謂ったものである。
「全く、今迄と変わりませんよ、順子さん。順子さんが知っての通り、菜月は優しく、思いやりのある、聡明な子供です。ただ、其れだけです。だから、正しく、真っ直ぐに伸ばしてあげるのが、僕らの努めです」
「…はい」
順子先生は泣き笑顔で頷いた。
(私は此の人の妻で良かった。此の人と一緒になれて本当に良かった…)
順子先生は心からそう思ったりした。が、その後、吾郎先生が、こんな事を謂い出した。
「ところで、順子さん。…その、明日は休みだし、菜月もお昼寝中だし、如何だろう? 今から、その、夫婦の時間とか…」
順子先生は、じろりと、吾郎先生を多少呆れた様な三白眼で睥睨する。将に、流眄と謂う言葉が一番ぴたりと来るであろう。宛ら、竹林の七賢人の一人、阮籍の白眼を髣髴とさせる目つきである。
「…今からですか? 未だ、明るいですよ。本当に此の人はもう…。折角、今、とても感心していたのに…」
吾郎先生は、何時に無く赤くなり、多少、狼狽気味に、
「い、いや、僕だって、その、順子さんに甘えたくなる時もあるんですよ…。やっぱ、駄目ですかね?」
順子先生は、普段、沈着冷静な吾郎先生が子供の様に取り乱したのが、余程、面白くもあり、また、愛しくもあったのだろう。其処で、表情を緩めると、優しい眼差しで、吾郎先生を見つめた。そして、阮籍の白眼も優しげな青眼になった処で斯う謂った。
「分かりましたよ、吾郎さん。優しくしてくださいね…」
ハイスペックな二人ではあるが、こういう処は、世間一般のバカ夫婦と何ら変わらない。お寿司が届くまでの間、夫婦の時間となった。其の後、お昼寝から起きてきたいずなと、親子3人でおすしを食べた。順子先生はジャンケン大会の結果を褒め、そして、
「ところで、菜月ちゃん。四角いお家って何の事かしら?」
と、尋ねて見た。其れに対して、いずなは、
「うーんとね…」
と謂うと、ゴソゴソと先程のA4用紙を引っ張り出した。そして、角を反対側の辺にぴったりとつけ、綺麗な折り目を作ると、折り目の起点から、紙を内側に折り、見事な正方形を作り、
「ねっ、ちかくいお家でしょ。」
と謂うと、ニッコリと微笑んだ。
「本当ね。四角いお家ね」
いずなはそれに対して満面の笑みを浮かべ乍ら、とても、誇らしげな顔をしていた。
扨、閑話休題。いずなの中学時代の話に戻る。いずなの態度が一変した頃、一部の女子がKに詰め寄った。
「最近、小泉ノートが回ってこないわよ。如何なってんの?」
「貸してくれないんだよ。お前ら、何かしたのか?」
「し、知らないわよ。ああ、そう謂えば、此れが挟まっていたのよ。あんた宛よ。ラブレターかしら? 教室にでも貼って晒しちゃう?」
「バカやろー。此れの事か。待て、良い事がある。俺によこせ。それに、もうすぐ中間テストがある。あいつには、答案を書いた後、解答を右端に置く様に謂ってある」
悪意剥き出しの会話をよそに、いずなは自分を貫く。いずなは卒業迄、学校で教科書を開く事も、ノートを取る事も、二度と無かった。
中間試験が始まった。試験中のいずなの行動は、さらに常軌を逸したものだった。1限目は英語である。50分のテスト時間が始まるも、最初の3分程で解答を書き上げ、自分の右端に解答用紙を寄せた。見易い様にひどく大きな字である。教師の『後、5分』の声が掛かるや否や、いずなは猛然と全ての解答を消しゴムで消し、正答を書き上げた。書き上げたのが、教師の『はい。終了』の声とほぼ同時であった。2限目の数学は、同様だった。まず、計算式を明示する問題から埋めていった。記号問題、単純な答えを記入する問題は、空欄の儘である。いずなは其の状態で答案用紙を『どうぞ』と、謂わんばかりに右端に押しやった。いずな自身は、頬杖を突き乍ら、ぼんやりと手持ち無沙汰に窓の外を眺めている。扨、記入してある部分であるが、インテグラ、ΨにΦ、サイン、コサイン、タンジェント。ログ、e、iと謂った、普通の中学生は見た事無い様な記号や公式が躍っている。或いは、テストとは全く無関係な、マックスウェル方程式や、導関数、留数積分の公式が並んでいる。宛ら、シュレディンガー音頭である。悪しき観察者達は、目を白黒させ、写すべきかどうか戸惑っている。いずな自身、今度は、教師の『後、5分』の声が掛かっても、まるで動きは無い。と、思いきや、残り3分位で記号と数値を埋め、式も書き直してしまった。Kは腸が煮えくり返る思いで呟いた。
(あの野郎…)
3限目の理科は、穴埋め問題が多かった。いずなは、最初の5分程で、全問書き上げ、徐に手を挙げ、謂ったのである。
「先生。お腹が痛いから、保健室に行っていいですか? 不正を疑われても面倒なので、先に提出していきます。あっ。勿論、これで採点して下さって構いません。多分、全問正解だと思います」
クラス内はざわついた。そして、いずなは4限目迄、帰って来なかった。4限目の社会は記述問題が多かった。然し、いずなは開始の声が掛かっても、始めようとしない。答案に名前が書いてあるのみである。ぼーっと、外の景色を眺めている。一方、観察者達は戸惑っている。此の儘だと、白紙答案になりかねない、自分の解答を書かざるを得ない。残り、10分を切った頃、いずなは猛然と解答の記入を始めた。元より、記述式はカンニングには不向きである。然も、いずなは恐ろしく小さな字で書いている。更にご丁寧にも、人名等、語句埋め問題は後に回すつもりなのか、敢えて、飛ばしている。いずなが最後の解答である、『野口英世』と『田山花袋』を書き上げたのは、『はい。終了』の声と同時だった。最後の国語は、観察者を完全に翻弄していた。最初の10分位で書き上げ机の右端に置いた。然し、あろう事か、解答の全てを平仮名で書いている。世の中には、無駄に小難しい漢字を多用する輩もいるが、此れには、一つ、利点があって、意外と読み易いのである。心地良いペースで読んでいける。此れは、字面だけで意味を判別出来るからであり、百人一首の取札や電文が読みにくいのと同様、平仮名だけの文章は、頗る読みにくいのだ。試しに、此の稿を平仮名だけに変換して見たら、筆者は3行でギブアップとなった。扨、此の行為はいずななりの、観察者に対する、嘲笑であろう。だが、其れも束の間、20分には全て消して、新たに書き上げ右端に置く、30分に又消し始めた。さらに、消している最中に、答案用紙が破れてしまったのか、新しい答案用紙を要求したのだ。新しい答案用紙が届くと、今度は何も書かずに居眠りを始めた。白紙の答案用紙が右端に置かれているだけである。結局終了まで其の儘で、挙句の果てに先生に、
「書き直そうと思ったんですけど、時間が足り無くなると思い、古い解答用紙を使わせてもらいましたので、此の用紙はお返しします」
と謂って、右端の白紙の用紙を返却した。
いずなの採点結果は、伝説となる2回目の250点満点を達成し、学年でトップだった。次席者の点数が、222点であった事を考慮すれば、相当、難易度が高かったのだろう。将に、科挙圧巻である。いずなは、此処最近の奇妙な態度と併せて、職員室に於いて、教員たちの話題独占であった。一方、悪しき観察者達は、全科目翻弄された挙句、ぼろぼろだった。特にKは酷く、トータルで18点だった。
其の日、いずなはKに呼び出された。いずなは教室内と同じく、酷く虚ろで無表情な面持ちだった。
「最近は、ノート貸してくれないんだね。それに、あのテスト何なの?」
いずなは、聊か褪めた声で惚けた。
「テストって何の事? ノートはごめんね。私、最近ノート持って来て無いの。全部、其の場で覚える事にしたの。尤も、学校で覚える事って、庶務事項位だけだけど…」
「なら、宿題は如何するんだよ?」
此処で、初めていずなは微笑んだ。ある種、凄みのある悪魔的微笑だった。
「あんな、宿題なら1分もあれば出来る。あのレベルのテストなら5分位かな。宿題は始業の1分前にする事にしたの。テストも覗く人がいるから、いろいろ工夫しちゃった。…普通の生徒の学力進捗度合を測る目的のテストでは、あたしの学力は測れない。無意味だよ。MAXの結論しか出ないもの」
いずなは氷の様な微笑を浮かべ乍ら、恐るべき事を、冷徹に謂い放った。物陰から、Kの仲間達が出て来た。男女7人程だ。
「もういいぜ、やっちまおうぜ。此のブス」
「調子こいてんだよ」
然し、Kは負けてはいなかった。ニヤニヤし乍ら、冷静に謂ってのけた。
「まあ、待て。俺に任せろ。ところで、此れだろ」
そう謂ってKが取り出したのは、件の封筒だった。
「此の前、読んだ? って。此れの事か? ワリい。忙しくて、読んでねえんだよ」
Kはそう謂うと、矢庭に、封筒を二つに引き裂くと、丸めて足下に放った。
「あっ」
更に、靴で踏みにじると、嘲る様に謂い捨てた。
「まっ、読む気もねーんだけどよ。行こうぜ。こんなチビ、利用価値無しだ」
「ハハハ。ばーか」
「死ぬ迄、勉強でもやってろ」
「でも、早く死になさいね。バーカ」
唾棄すべき卑劣な同級生達は、笑い乍ら行ってしまった。残されたいずなは、暫くは、自らの両足で己を支えていたが、よろよろと、二、三歩泳ぐ様に歩むと、頓ては崩れ落ちる様に両膝をつく。そして、倒れ込むと同時に両手を着いた。目の前に、可愛らしいひよことあひるのイラストの封筒が無残な姿を晒していた。いずなの淡く仄かな恋心で、真心を込めて認めた、初恋の恋文の亡骸が、文字通り、引き裂かれ、丸められて、踏みにじられて、泥に塗れて…。
転がっていた。
嗚呼、何と謂う下劣な連中であろうか。呪われてあれ、卑劣漢ども。黄色い可愛らしいひよこ達の輪郭は、霞んだいずなの視界の中で、見る見るうちに耄やけて行った。いずなは悔しさに打ち震える手で、懸命に初恋の恋文の残骸を拾った。指先がぷるぷると震え戦慄、上手く拾えなかった。悔しくて、悲しくて、いずなの顔は、くしゃくしゃに歪んでいたが、いずなは無我夢中で堪えた。そして、心の中で叫んだ。
(負けない。私、絶対に負けない。あんた達に泣かされたりなんかしない。死んでも泣か無い)
そして、何時しか、声に出して絶叫していた。
「泣いてなんか、やるもんか!」
いずなの血の出る様な渾身からの叫びは、放課後、傾きかけた夕日が照らす校舎に反響し、僅かに谺した。表の通りには何故か折り良く車が途絶え、闃然とした不思議な静寂だけが其処にあった。無力だった。ただ、只管、無力だった。どんなに勉強が出来ようが、どんなに家が裕福であろうが、それが何になろう。いずなはよろよろと立ち上がると、両の腕でゴシゴシゴシと顔を拭い、頓て、背を丸めて歩き始めた。酷くゆっくりとした、引き摺る様な足取りだった。いずなは、虚ろな面持ちで、酷くとぼとぼと蹣跚として、家路を辿った。時折、立ち止まって目を擦っては、虚空を見上げた。上を見てないと、涙が流れ落ちて来る様に思われた。秋の空はとても高く、そして、抜ける様に青かった。一機の飛行機が、一筋の飛行機雲を置き去りに横切って行く。空は吸い込まれそうなコバルト色だった。空の青さだけが、妙に印象に残っていた。秋、とは謂っても、青北風が、時折、いずなの後方から追い抜いて行くが、其の木枯らしですら、あの、卑劣な同級生達に較べたら、何処か優しく、暖かく感じられた。そして、いずなは、やっとの想いで家に辿り着いた。いずなは家には寄らずに、無言の儘、裏庭に行き、庭の片隅でしゃがみ込むと、無表情で虚ろな目をして、黄色い、ボロボロになった封筒に火を付けた。一刻も早くひよこ達を弔ってやりたかった。何度と無く、涙が込み上げて来たが、其の都度、歯を食いしばって懸命に堪えた。寂しい葬儀だった。参列者は、と謂っても、いずな以外には、庭に咲いた秋桜の花だけだったが、青北風に弄られた秋桜は、寂しげに首を振っていた。爽籟はいずなの心の中をも吹き抜けて行く様な気がした。爽快感と謂うには、余りにも悲しく、余りにも虚しく、少し肌寒かった。炎はめらめらと燃え上がり、あっという間に燃え尽き、僅かばかりの灰を残した。いずなは、虚ろな目でぼんやりと立ち上る煙を見つめていた。風も凪いで、真っ直ぐに天に向かって伸びたる煙は、ひよこ達が天に向かって旅立った証左の様に思われた。頓て、火も消えた。寂しい、悲しい、空しい、初恋の弔いだった。後には、何も残らなかった。残ったのは、僅かばかりの灰と、遣る瀬無い思いだけだった。頓て、いずなは立ち上がると、虚ろな表情の儘に、家に戻った。玄関で順子先生が、いずなの悄然とした様を見て、心配そうに声を掛けた。
「あら、菜月、お帰りなさい。如何かしたの?」
(何かあったんだ…)
いずなの悄然とした出で立ちを見て、順子先生はすぐさま直感した。然し、そんな気配は噯気にも出さ無い。母親、と謂うよりは、寧ろ、医者としての配慮であろう。
「ううん。何でも無い…。ママ。頭が痛いから、此の儘、休むね」
「大丈夫? お粥でも作ろうか?」
順子先生は知っている。最愛の娘は今、精神的危機に陥っている。そんな娘の苦痛を緩和出来るのは自分しかいない。そして、緩和出来る物は偽心無き真心しか無いのだ。順子先生もまた、母親として、医者として大きく成長していたのだった。
「ううん。ママ。ありがとう。大丈夫だから」
順子先生の優しい言葉が涙を誘う。いずなは、自室に篭り、ベッドに横たわると、天井を見上げたまま、身動ぎもしなかった。
虚ろな眼差しで、漠然と天井を見ているが、ともすれば、時折、天井が耄やける。上を向いていないと、涙が流れて来てしまう。頓て、順子先生が心配するといけないと思い、部屋の電気をつけ、何気無く、FMラジオをつけた。折しも、カーペンターズの『グッドバイトゥラブ』と謂う、曲が流れていた。
(良い曲だな)
最初から、いずなの琴線にふれた。バイリンガルであるいずなは、即座に歌詞が理解出来た。
(はは…。私と…同じだ…)
そう思うと、無性に泣きたくなった。ドラムのフィルインが1小節入った後の、アウトロもカッコ良かった。コーラスとギターソロを聞き乍ら、何度か涙がこみ上げた。が、其の都度、目をこすって堪えた。
(こんな、良い曲なのに、泣けないのはつらいな…)
此処で、涙を流すと、あいつらに泣かされた様な気がした。其の理不尽さが釈然としなかった。只管、釈然としなかった。然し、それも、全ては遠い思い出だった。決して、美しくも無く、懐かしくも無く、思い出したくも無かったが、紛れも無く、いずなの初恋、即ち、人生の一部だったのである。
神渡しが、目の前で震える病葉を浚って行く。いずなは、突然、現実に引き戻された。秋の夕暮れ時の事である。時折、木枯らしにも似た、小寒い風が、色鮮やかな銀杏の葉を巻き上げ、吹き抜けて行く。いずなは、遠い目をし乍ら、ベンチに座りぼんやりと、大型商業施設の入り口の方を見ている。入り口のラウドスピーカーから、地元FM局の放送が流れ、そして、何時しか、『グッドバイトゥラブ』が流れ始めた。何時だって、此の曲には涙腺を刺激される。あの日の悲しい記憶が、再び去来する。
(あれから、1年も経つんだ…。あれから、1年。私、変われたのかなあ?)
あの頃のいずなは孤独であった。孤独は寂しくもあったが、居心地も良かった。いずなの中学校時代迄は孤独の連続であった。謂わば、孤独はいずなの一番の友人でもあった。絶望は死に至る病と謂ったのはキルケゴールであったであろうか。だが、然し、孤独は絶望以上に、何時かは死に至る病なのである。あの当時、いずなの窮愁の憂いを理解する様な親友はいなかった。いずなは目を閉じる。まず、瞼に浮かんだのは、いずなの両親、そして、敬介の優しく人懐っこい笑顔だった。
敬介は、入学以来、いずなに好意を示し続け、何時だっていずなの心に寄り添う様に接してくれていた。今のいずなにとって、掛け替えの無い人である。そして、次に浮かんだのは、少しはにかんだ祐子の遠慮がちな笑顔であった。人付き合いの苦手なぽっちゃり型の此の少女は、いずなの高校生になってと謂うよりも、人生初めてのお友達と謂って良いだろう。そして、其の彼氏である正太郎。如何にも飄々としている様に見えて、其の実、繊細過ぎる此の少年は、いずなの最初の異性の友人でもある。為たり顏の剽軽なお調子者の高志は、此のグループの狂言回し役であり、ムードメーカーでもある。初中、下世話な冗談や下ネタに走るが、其の心根は誰よりも優しい。ひろみは実直で一本気の女の子だ。いずなは、其の真っ直ぐな清清しさを何時も尊敬していた。凛子は、沈着冷静なクールビューティであるが、其の内面は、純情で涙脆い人情家で有る事をいずなは良く知っていた。明彦は秀才タイプのキャラであったが、其の実、凛子同様人情家であり、友人の為であれば、どんな艱難辛苦でも、厭わぬであろう。他にも、葵、ヤスベエ、六助、一平と掛け替えの無い友人達の俤が、次々と浮かんでは、消えて行った。
そして、いずなは、確信した。
(1年前と変わらないなんて、有り得ない。私はこんなにも素敵な友人達に囲まれている)
「いずなちゃん。遅くなってごめん」
横合いから、不意に、敬介の声が聞こえた。いずなは、立ち上がり、そして、振り返る。其処には、敬介が息を切らして立っていた。学校から此処迄、走り詰めだったのだろう。両手で膝頭を支え、肩で大きく息をしていた。小柄な体躯の敬介が、何故か、一周り大きく見えた。それに対し、一年前に比べ、少しふっくらして、女らしさと丸みを帯びた、振り返りざまのいずなの頬を、涙が二筋伝った。いずなの瞳は逆光の夕日を受け、きらきらと潤んでいた。とても美しい笑顔だった。そして、次の瞬間、其の神々しい笑顔が下唇を噛み締めて奇妙に歪んだ。折しも、スピーカーからは、ドラムのフィルイン、そして、いずなの好きなアウトロが流れ始めていた。いずなは心の中で、自分に謂い聞かせる様に、そして、中学時代の悲しい思い出を断ち切る様に、叫んだ。
(あいつらには泣かされない。絶対に。でも、ケースケ君にだったら、泣かされても良いよね。涙、見せても良いよね)
美しいコーラスと、噎び泣く様なギターソロが、銀杏の葉が舞い踊る、すずめ色の黄昏に染まり始めた街並みに、響き渡っていた。
いずなは、敬介の胸の中で、大きく肩を震わせ、激しく泣き噦っていた。号泣だった。涙も、鼻水も、涎も、全て垂れ流し、とても愛する人の前では見せられた姿では無かった。それでも、只管泣いた。何時迄も、大声を張り上げ、わあわあと泣いた。本当は、1年前に流したかった涙だったのかも知れない。あの日、此の曲を聴き乍ら、流したかった涙だったのかもしれない。
「如何したの?」
敬介は当惑し乍らも、
「大丈夫だから…。心配無いから…泣かないで」
と懸命に励まし、何時迄も、優しく頭を撫でている。
(本当に優しい人だ。此の人と巡り会えて良かった。ありがとう、神様。ありがとう、ケースケ君)
いずなは、ひよこ達の送り先が、此の優しい敬介で無かった事が、残念でならなかった。敬介ならば、送り先が、敬介であったならば、ひよこ達が灰になる事も、決して、無かっただろう。只管、ひよこ達に申し訳が無かった。いずなは、漸く、悲しみ深い初恋と、決別出来た事を自覚した。小柄なれど、酷く暖かく慈愛に満ちた敬介の腕の中で。あの日流せなかった、悲しい涙とともに。
秋の夕暮れ時の、銀杏の葉の舞い散る中で、西日を浴びて佇む、抱擁する二人の高校生。一方は号泣し、一方は優しく慰撫する高校生達。大型ショッピングモール前での、此のかなり珍妙な光景に、道行く人々は振り返り乍らも、通り過ぎて行った。暫し経って、敬介が、優しく頭を撫で乍ら、斯う謂った。
「大丈夫? 落ち着いた? 寒くなって来たよ。中で、何か暖かい物でも飲もうよ」
「うん」
敬介は、泣き笑顔で頷くいずなの手を握り、歩き出した。二人の影が、店の中へと吸い込まれる様に消えて行った。いずなが、高校1年の、何もかもが金色に染まった、そして、悲しすぎる初恋と漸く決別出来た、とある秋の夕暮れ時の出来事だった。
以上が、『グッドバイトゥラブ』に纏わる、いずなの少し切なく、少し悲しい青春残酷物語の一部始終である。いずなにとって、甚だ、不本意な事かもしれないが、いずなの初恋は、全て此の曲に収斂している。いずなが『グッドバイトゥラブ』と謂う曲を忘れる事は、例え、いずなの其の卓犖した能力が無くとも、一生、出来無いであろう。
いつも、ご愛読有難う御座います。卒爾乍ら、3ヶ月程、休載させて戴きます。今は体を休め、健康の涵養に努めて行きたいと思います。また、再開出来る日を楽しみにしております。 -作者
大変ご心配をおかけしました。2022年7月より再開致します。
清水の小さな祭礼の日の夜のお話。いつものメンバーの四方山話に花が咲く。
次回、『第26話 祭礼の日に』。お楽しみに。




