第23話 Hard to Say I'm Sorry
「まあまあ、そう固くならずにだな、自宅に居るつもりで寛いでくれ」
高志が麦茶を勧め乍ら、愛想笑いをする。焙煎した大麦の種子の香ばしい薫りが正太郎達を、丁重に饗す。
「寛げ、つわれてもなあ…」
正太郎は、畳の上に胡坐をかき乍ら、多少、迷惑そうに答える。ベージュのスラックスに水色のセーターと、割と気軽な、出で立ちではある。周囲を見渡せば、黒ずんだ畳に、燻んだ色の漆喰の壁。部屋の真ん中の空間の上方には、太く真っ黒の梁が渡されている。更に、梁の上には、恰も真っ黒な射干玉の如き黒猫が蹲っている。高志は其の黒猫を見上げ乍ら、徐に呟いた。
「おお、ガンツ先生、其処に居たのか。悪いが、お客さんが来たからな」
そう謂うと、高志が廊下との障子を開け放った。ガンツ先生と呼ばれた黒猫も、実に心得た物で、梁の上からひらりと飛び降り、一つ大きく欠伸をして伸びをすると、正太郎達を一瞥もする事無くスーッと音も無く廊下へ出て行った。
「へえ、何かハイカラな名前だね」
祐子はガンツ先生と呼ばれた黒猫の優雅で撓やかな後姿を見送り乍ら感心する。
「ああ、ガンツ先生か? もう、じいさんなんだが、ああ見えても、昔は良く鼠を取ってきたもんさ。えっ、名前の由来か? 彼奴がああして丸まっているとガンツ玉そっくりだからな」
「成程な」
そう謂い乍ら、正太郎は周囲を顧眄した。紛う事無き、農家の2階である。昭和の初期。或いは其れ以前からの、年代物の家に相違無い。酷く古びてはいるものの、質素で朴訥な造りが、高志の飾り気の無い天衣無縫な人柄を髣髴とさせ、古ぼけた実用一点張りの調度類も、歴史の重みと謂うよりも、寧ろ清潔感すら漂っているのである。家の前には旧国道一号、旧東海道が走っている。即ち、此処は東海道五拾三次の第拾七宿、興津宿の中心部なのである。開け放たれた窓からは、秋の麗らかな陽射しの中、街道を駆け抜けて行く爽籟が、僅かばかりの枯れ草と埃と歴史の匂いを置き土産に、足早に走り去って行くのが感じられた。
「へえ、凄いね。高志君のお部屋。何か良いなあ」
白のブラウス、ピンクのカーディガンにデニムのスカートを着込んだ祐子が、乱雑に散らかった高志の学習机の前に置かれた椅子に腰掛け、物珍しそうに、窓から眼下の街道を見下ろしている。お向かいは銀行の様である。目の前に大きな臙脂色の看板が見えた。高志の机には、物理や数学の参考書が、無造作に投げ出され、奥には、小学校時代の彼の作品であろうか、木彫りのレタースタンドが置いてあり、此れ又、無造作に葉書類が、置き忘れられたかの態で刺さっている。
「ははは、そうだろ、そうだろ。何でも、此処は、江戸時代には庄屋のお屋敷だったらしいぜ」
高志が自慢気に説明をする。今日は鼠色のスエットに、濃紺のトレーナー。例に因って、背面にでかでかと、『ハロゲン族』と、意味不明な文字が白色でプリントされている。全く一体、何処で此の様なトレーナーを購入してくるのであろうか?
「で、一体、何の用だ。態々、三連休の最終日に呼び出しやがって…。然も、DM患者には、ハードルのたけえ店ばかり案内しやがって…。悪魔か? おめーは」
正太郎は、宛ら家康公の顰み像の様な格好で、胡坐をかいた自らの足に頬杖をつき乍ら、渋い顔で高志に説明を要求した。
「まあ、おいおいとな…」
其の日、即ち、十月上旬の三連休の最終日に、正太郎と祐子は高志の家に遊びに来ていた。昨日、つまり、正太郎が祐子と、三保にサイクリングに出掛けた日の事だが、正太郎が家に帰り着くや否や、高志から誘いの電話があったのだ。『ちょっと、相談したい事がある。』との、事だった。其の後、紆余曲折の末、結局、祐子と二人で、連れ立っての訪問となった訳である。朝の10時に興津の名刹、清見寺門前での待ち合わせである。そして、其の後、三人で清見寺を参拝して、有名な老舗の饅頭屋で、宮様まんぢうを購入した後、興津の昔乍らの通りを抜け、有名なケーキ屋で、午餉がわりに、ケーキを振舞われ、更に、有名な鯛焼き屋を冷やかしがてら、岡本家の客人となったのである。饅頭やケーキ、鯛焼きには目が無い、肥満系女子である祐子にとって、それはそれで、至福の一時であったのであろうが、食事制限に呻吟する正太郎にとっては、難行苦行の連続でもある。然も、現時点に於いて、高志の用向きは、皆目、見当も付かない。
「で、一体、用事って何なんだ。まさか、ケーキや鯛焼きを奢りたかった訳じゃ無いだろう」
再び、正太郎が先を促した。
「ああ、其れなんだが…」
高志はそう謂うと、机の上から取り出した一枚の絵葉書を、ピシッと指で弾いて、畳の上を滑らせ、正太郎の許に送った。絵葉書は、畳の上をクルクルと回転し乍ら、ぴたりと正太郎の前に止まった。
「絵葉書?」
正太郎は訝り乍ら、其の葉書を手に取る。一面の銀世界が広がっており、画面中央辺りの雪原に、葉を落としたポプラであろうか、背の高い樹が見える。其の背後には遠く雪を頂いた山並みが続いており、一風、物寂しげな風景である。写真のピント、構図の具合から見ても、明らかにプロの手による写真では無い。素人が自己の撮影による写真を、パソコンか何かで印刷した葉書に相違無い。正太郎は表を返して見た。
「寒中見舞い?」
「ああ」
其の葉書の宛名書は岡本高志様となっており、横には記念切手であろうか。カラフルなエゾシカの切手が貼られていた。祐子も、しげしげと、横から覗き込む。
「珍しい消印だね」
「ああ」
消印は、ユーモラスなヒグマのイラストの消印である。恐らくは、特殊消印であろう。正太郎が徐に説明を始めた。
「成程、特殊消印だな。俗に謂う、風景印って奴だ。取り扱い局は…、えーっと、東旭川局ってなっている。祐ちゃん、特殊消印ってのはね、此の消印を取り扱っている郵便局に郵便物を持ち込み、希望すると押してもらえるんだ。えーと、日付はっと、今年の1月…、1月23日だ」
「へー、そうなんだ」
祐子が目を細めて感心する。宛名面の下に文面があり、達筆なボールペンで、以下の文面が丁寧に認めてあった。
『寒中お見舞い申し上げます。
もうすぐ、受験ですね。高志君は、いつも無茶しがちだけど、高志くんの学力なら、落ち着いて臨めば、何の心配も要らないと思うよ。お互いに頑張ろうね。高志君は小さい頃、体が弱かったけど、今はスポーツマンだから、安心かな。でも、無理は禁物だよ。いろんな事があったけど、凄く楽しかったな。ありがとう。それじゃあ、元気でね。さようなら。□佐々木蛍』
差出人名はあるが、特に、住所等は記されていない。正太郎は文面を繁々と眺め乍ら、高志に尋ねた。
「高志くんの学力ならって…、随分と上から目線なんだな。で、此の葉書が如何したんだ?」
高志が少し困惑した様に、肩を竦め乍ら答えた。
「いや、聞きたいのは、此方なんだが…」
「抑々、此の、佐々木蛍って、何者なんだ?」
「ああ、此奴は、俺の同級生で、幼稚園からの、腐れ縁だ。蛍なんて萎らしい名前とは裏腹に、とんだ山猫だ。兎に角、ガチャついた野郎でなあ…。何にでも、首を突っ込んで来やがるし、煩え事、此の上無え。其の上、いつも、お姉さん気取りで、人のやる事にあれこれ口を出して、掣肘して来やがる」
祐子が今更乍ら、驚いて、
「お姉さんって、女の子なの?」
「ああ、とんでも無え、お茶っぴいだ」
「何とも、古風な表現だなあ。其れで、如何謂う関係だったんだよ?」
「如何も斯うもねーよ。先刻も謂った様に、唯の腐れ縁だ。まあ、器量は其処其処、可愛かったんだが、何しろ、あの、性格だからなあ…。初中、喧嘩ばかりしてた」
正太郎が尋ねる。
「美人だったのか?」
高志は何処か遠い眼差しをし乍ら答えた。
「まあ、其処其処な。…そうだなあ。俺達の知ってる奴で例えると、おお、そうだ。ひろみが、かなり近いかな。顔立ちと謂い、勝気な処と謂い、あの、ガチャついた処と謂い、暴力的な処と謂い…」
「…おい」
「もう、ひろみちゃん、怒るよ」
「いや、雰囲気てえか、物腰がだな…。だけど、いろいろ、違う処もあったぞ」
高志は慌てて、弁解する。
「あー、そうそう。勉強だ」
「?」
「中学校時代、俺はあのお茶っぴいに、テストでは一度も勝てなかった…」
「へっ? テストでって…、まさか、おまえがか?」
高志は清高の中にあっても成績上位者、所謂、壁新聞組だ。正太郎は目を剥いた。
「ああ…」
高志が静かに肯く。
「本当かよ? おまえが一度も勝て無かったって…」
「ああ…、俺が中学で学年トップを取ったのは、3年3学期の学年末だけだ。あのお茶っぴいは中学3年間、常に首席だった。俺はお陰で、万年シルバーコレクターさ。其れとそう、胸だな」
「胸?」
「ああ、俺の推定では、99のGカップだ…」
正太郎はじろりと高志を一瞥すると、呆れた様に釘を刺す。
「…おい、其の情報。抑々、本当に、本件に必須の情報なんだろうな?」
正太郎はそう謂い乍らも、横目でちらりと祐子の其れを流し見る。99と謂えば、祐子と良い勝負である。然し、目敏く悟った祐子が、両腕で胸を隠し乍ら、
「もう、正ちゃんのエッチ! 一体、何処見てんのよ」
「わったった」
正太郎は真っ赤になり乍ら、
「こら、高志。おめーが詰まんねー事、謂ったせいでだな…」
高志が冷笑う。
「何を謂いやがる。此のムッツリめ。まあ、正太。中々、良い着眼点だ。そう、大体、99って謂うと、祐子ちゃん規模だ。そう謂う訳で、此の辺りは、ひろみが逆立ちしても適わなかっただろうな…」
「もう、高志君。ひろみちゃんが本当に怒るよ」
と、祐子が私憤を露に、やんわりと釘を刺せば、正太郎もニヤニヤし乍ら続く。
「つまり、お前の、ドストライク・ゾーンの子だった訳だな。要するに、ひろみの耳に入ったら、全治一ヶ月コースって訳だな」
「喧しい。誰があんなお茶っぴいを…。まあ、そんな訳だ。若し、野郎が清高に入学していたら、学業面と謂い、おっぱいと謂い、祐子ちゃんの強力なライバルになった筈なんだ。…入学していれば、の話だがな」
祐子がふくれる。
「もう、私、そんなの競って無い。…後者の方は、特に…」
正太郎は、怒れる祐子を尻目に、
「でも、結局、清高に入学しなかったんだな。そんなに勉強が出来たんなら、静岡長谷高あたりじゃ…」
「いや、如何やら、其方も見当違いの様だ。て謂うよりも、もう、興津には住んで無えみてーだ」
「まさか、失踪事件?」
祐子が目を輝かせ乍ら、尋ねる。高志は首を振り乍ら、
「いや、まさか、そんなバカな事は…」
正太郎は唐突に、
「で、一体、何をやらかしたんだ?」
「へっ?」
「いや、お前が何かやらかしたのかなあって、例えば、其の、胸か何かを触ったんじゃねーかと…」
「ば、ば、バカヤロー。謂うに事欠いて、何てえ事謂いやがる。そりゃ、確かに、食指をそそる魅力的なおっぱいではあったが、相手はあのお茶っぴーだぞ。山猫みてーな野郎だぞ。そうだ、ほれ、ひろみを想像してみろ。とても、出来る事じゃねーだろ」
「いや、其れでも、お前、ひろみには、やってたよな。其れも、何度と無く」
「ぐっ…」
ぐうの音も出ないとは、将に、此の事であろう。
高志の話に因れば、佐々木蛍は中学3年の二学期迄は普段と変わり無く、興津一中に居たらしい。一体に、受験期の此の時期になると、似た学力レベル、同じ志望校の生徒同士でつるむ事が多くなる。彼らは強力なライバルであると同時に、大切な戦友でもあるのだ。クラスも高志のクラスであり、学業的にも、高志と同等以上のレベルであった訳だから、自然とつるむ事が多くなって来た。まあ、とは謂っても、元来、幼馴染であり、いつも高志のお姉さんの様に振舞っていた訳であるから、相変わらず、喧嘩ばかりの毎日だったそうだ。高志が聞いていた限りでは、蛍の志望校は清水高校の普通科であった。彼女の成績からすれば、特進科で無いのが、若干、違和感がある処ではあるが、高志は、『俺の志望が普通科だったからな』と、嘯いていた。状況を鑑みれば、此れも強ち、的外れな話では無かったのかもしれない。まあ、其れを謂えば、高志の普通科志望も違和感が有ると謂えば、或る訳なのだが…。然し、事態が一変したのは、三学期に入ってからである。冬休みが明けても、蛍は学校に出て来なかった。欠席理由も、当初は体調不良との事であったが、2週間程経過した1月の中旬頃には、家庭の事情に切り替わったとの事だった。そして、あの寒中見舞いである。然なきだに、不安しか残らない。高志の中の嫌な予感は、どんどん、加速して行った。そして、中学最後の学年末テストで、高志は念願の学年トップをマークした。でも、そんな事は、もう如何でも良かった。蛍の居ない中でとった学年トップになぞ、最早、何の興味も無い。高志は、清高の入試会場でも、蛍の姿を探した。頓て、時は巡り、清高の入学式の日も、蛍の姿を探し求めていたと謂う。然し、其れらの全てが徒労に終わった。蛍は、高志の前から、忽然と姿を消してしまったのだ。
「つまり、蛍ちゃんとやらは、昨年を最後に姿を消しちまった、て訳だな。それで、手懸りは、此の葉書だけって事なんだな」
「ああ」
葉書を、矯めつ眇めつしていた祐子が、口許に人差し指を当て乍ら、
「ねえ、正ちゃん。此の写真というか、此の樹に見覚えがあるの。此のポプラの樹、富良野か何処かにある、昔、CMとかで有名になった樹じゃあないかなあ…」
「おー、そう謂えば、確かにそうだ。ケンとメリーの樹だ! 確か、北海道の美瑛町じゃ無かったかな」
「美瑛町なら、旭川市の南隣だよ。此の消印にも合致するよ」
高志は呆れ乍ら、
「おめーら、随分詳しいなあ。美瑛に行った事あんのか?」
「うんにゃ。ねーよ。抑々、殆ど静岡から出た事が無えからな。行った一番の北限が東京だ」
「私は有るよ。100回位行ったかな。行くと、大体、ジャガイモ畑やチューリップ畑、他にも美瑛石工場を買うんだよ」
「???」
意味が分からず、呆然としている高志を尻目に、正太郎が渋い顔で、
「祐ちゃん。それ、桃鉄の話だろ…。全く、もう…」
「えへへ…」
高志が真っ赤になって、吼える。
「えへへ、じゃねーだろ! 全く、お前らときたら…、如何にも見て来た様に謂うから、てっきり、美瑛に行った事があるのかと…」
そんな事を謂ってる高志に、取り合わず、正太郎が続ける。
「だが、此の葉書。いろいろと、妙な処があるぞ…」
「うん」
祐子も頷く。
「まず、差出人住所が無い。これは、かなり妙だ」
「そうだね」
「例えば、俺が祐ちゃんに葉書を送る時、恐らく、自分の住所は書か無い。そりゃ、そうだ。当然、祐ちゃんは俺の住所を知っているだろうし、若し、旅先だとしたら、○○に於いて、とかに成るだろう。だが、此の場合は、明らかに違う。高志からみれば、蛍ちゃんは失踪中なんだ…」
「うん。そうだね」
「でも、一方で、此れに相反する事実が有る。此の写真のケンとメリーの樹、風景印、エゾジカの記念切手。全てが北海道を指向している。特に風景印は致命的だ。北海道。それも、旭川周辺に居る事は確実だ。いや、其れ処か、英語で謂う処の、アイム・ヒア(私は此処にいるよ)と謂った意思すら感じる。少なくとも、書き手は、何処にいるか迄を韜晦する気は、更々、無かったらしい…」
「…そうだね。此のエゾシカの記念切手だって、高志くんに気を使っての事だと思うよ」
「だが、何よりも奇妙なのは、此の文面だ。如何考えてもおかしい。」
「本当だね」
高志が割って入った。
「おいおいちょっと、待て。別に、文面はおかしく無いだろ」
「いや、かなりおかしいよ。此の文面、要約すると、『受験がんばろう。体に気をつけて。色々、楽しかった。さようなら。』だ」
「そりゃ、端折り過ぎだろ。でも、其れの、何処が変なんだよ?」
「淡々とし過ぎているんだよ。事務的って謂うか、本心を韜晦しているって謂うか、そんな印象を強く受けるんだよ。音信不通の幼馴染が、態々、筆を執って、書いているんだぜ。何で、こんな他人行儀な手紙を書かなきゃならないんだ? まるで、感情を極端に抑えた様な印象すらあるんだぜ。普通、如何考えても不自然だろう。俺が祐ちゃんと喧嘩した後に、旅先で手紙を書いたとしても、斯うはならない。もう少し、気の利いた事を書く。此方の心情とか、風景の感想とか、旅情、或いは、言い訳とかさ」
「ずばずば、来るなあ」
「それを、態々、筆を執ったにも関わらず、こんな淡白な手紙を送って来る。其処が一番奇妙な処なんだ…」
然し、其処で会話は中断された。階下で高志の母親が、高志を頻りに呼んでいる。
「ったく、ばばあの奴、煩いなあ。ちょっと、行ってくらあ」
高志は階下に降りて行った。残された二人は顔を見合わせた。
「なあ、如何思う? 祐ちゃん。一応、此れは恋文だとは思うんだけど…」
「正ちゃんが謂ったとおりだと思うよ。でも、私はもっと不吉な印象を受けたな。…此の最後のさよならだけど、英語で謂う処の、ソー・ロングやシー・ユー・アゲインじゃ無い様な気がする。寧ろ、フェアウェルやロング・グッバイって訳すのが適切だと思う。…あんまり、穏当な比喩では無いとは思うんだけど、若し、私が、今年の七夕祭りの直後に、正ちゃんと離れ離れになったとしたら、斯う謂う文面の手紙を書いたかもしれない…。それと、もう一つ気になるのが、署名の上の白い四角」
「ボールペンで塗りつぶした後、ホワイトで塗りつぶしてあるね」
「…名前を直したのだと思う」
「でも、名前を直すって、一体、如何謂う状況だよ? 普通、有り得ないだろ…」
「其れはそうなんだけど、此のホワイト。そう、考えるのが、一番、自然なんだけどなあ…」
「ああっ!」
其処で、ぼんやりと高志の机上を眺めていた筈の正太郎が、押し殺した様な悲鳴を上げると固まった。高志の机の一点を凝視している。
「如何かしたの?」
訝って、体を寄せて尋ねる祐子に、正太郎が、黙って指さした乱雑な高志の机。其処には、件のレタースタンドが置いてあり、何枚かの葉書が無造作に突っ込まれている。其の中の、一番手前の葉書。パソコンで印刷をしたと思われる絵葉書の様だ。綺麗な記念切手が貼られており、消印が無い。即ち、作成途上、あるいは、投函出来無かった物と思われる。下半分の通信面は、レタースタンドによって、ぎりぎり隠されていたが、宛先だけは確認出来た。宛先は北海道上川郡美瑛町××北島蛍様。となっていた。
「此れは…、此の苗字…。佐々木じゃない! …北島だ。正ちゃん。此れって…」
「ああ、多分、高志の書いた返信の恋文だ。蛍って名前は、名前自体が、かなり、珍しい名前だろ。名前と謂い、住所と謂い、同一人物と見て、まず、間違い無い。此れが、書き掛けなのか、投函出来無かったのかは不明だけど…。でも、此れで、先刻の四角の説明はつく」
祐子が呟いた。
「今の苗字を書き掛けて、慌てて、高志君の知っている苗字に書き直したんだ…」
正太郎が机上に、つと、手を伸ばし、葉書を取ろうとした。然し祐子が、慌てて、それを押し留めた。
「ストップ! 正ちゃん。其れだけは駄目だよ。絶対に」
「何でだよ。祐ちゃん。真相に手が届くのかもしれないんだぜ」
「其れでも、駄目だよ」
祐子の強い制止に合い、正太郎も渋々諦めた。祐子は静かに続ける。
「でも、おかげで、大分、分かったね。蛍ちゃんの、今の名前と住所。それと、高志くんの此の葉書。とても、昨日今日に、書かれた物では無いよ」
正太郎が其の後を受けた。
「ああ、そうだ。葉書自体、かなり、日に焼けている。それに、最初の一文字。ぎりぎり、ウかんむりの字で有る事は、確認出来る。つまり…」
「…寒中見舞い?」
「ああ…、恐らく、先刻の寒中見舞いの返信なんだろうな。まあ、内容は推して知るべしなんだが、併せて、推定出来る事実が一つ。少なくとも、高志は、此の葉書を書こうとした段階では、蛍ちゃんの今の名前と、住所を知っていた事になる…。まあ、そう考えれば、先刻、美瑛の話をした時の反応も妙だったが…」
「そうだね。ケンとメリーの樹の話の時だね。高志くんも、あれが美瑛に有る事を前提に話をしてた…。つまり、美瑛町について、ある程度、予備知識を持って居たんだ」
「だが、一方で、先刻の話では、高志は受験の時と、入学してから、清高で、蛍ちゃんの姿を探したとか謂っていたよな? つまり、蛍ちゃんがどれ位北海道に居る心算か判ってはいない…。ひょっとしたら、受験の時に戻って来るかもしれないと希望的観測を持っていた事になる。謂い換えれば、何故、蛍ちゃんが北海道に居るのか、正確な理由は判っていないと謂う事じゃ無いのか? まあ、とは謂っても、あの、嘘つき野郎が全て正直に話していれば、と謂う前提ではあるんだが…」
一方、其の嘘つき野郎は、鼻歌交じりに、階段をとんとんと登って来る。そして、部屋の前で正太郎を大声で呼ばわった。
「おーい、正太。悪いが障子を開けてくれ。両手が塞がっているんだ」
正太郎は、黙って障子を開けてやると、大きな盆を持った高志が入って来た。更に、先程のガンツ先生もちゃっかりと、後ろからついて来る。盆には大きな丼が2つ載っており、丼にはこんもりと栗が盛られている。また、盆には、バター皿も載っている。其れを見た祐子の瞳が、忽ち、お星様になった。
「おお、正太。サンキュー」
「如何したんだ? 其の栗?」
「今日は中秋の名月だからな。お袋が茹でてくれた」
「わあ、栗だあ。ねえ、高志くん。此れ、食べて良いの?」
「此の状況で、他に何があんだよ」
「うわー、やったー。然も、バター迄有る。早速、食べようよ。高志くんありがとね」
祐子は、早速、ほこほことした栗を手に取ると、もしゃもしゃと食べ始めた。其処で、正太郎が、
「おいおい、祐ちゃん。ちったあ、遠慮ってえ物を…。まあ、良いや、高志、早く続きを話せや。北島蛍ちゃんの話を…」
そう謂って、続きを促す。一方、高志は目を瞠る。
「…正太。おまえ、何故、其の名前を…」
そう謂い乍らも、不用意に晒したレターケースに気が付いた。
「あーっ、まさか見たのか?」
「いや、見ようとしたけど、祐ちゃんに止められた。やっぱ、不味いか?」
「当たり前だ。全く、油断も隙も無え…」
そう、謂い乍らも、何処かホッとした様子の高志であった。そして、先刻の話の続きを始めた。
「良くある話さ。家庭の事情って奴だ」
高志に因れば、蛍の家は、両親の夫婦仲は余り良く無かったらしい。蛍が中学に進学した頃には、完全に冷え切っており、別居同然の状態であったとの事だった。如何に勝気で、確り者の蛍にとっても、嘸かし、辛い現実であったに相違無い。其の冷め切った夫婦の関係が、愈々破綻したのが、昨年の11月。即ち、蛍が中三の秋の事だった。翌年1月より、父親の海外赴任が決定していた為、蛍は母親の郷里である、北海道の美瑛町に逼塞する事となった。其処で徐に、高志が謂った。
「勿論、蛍の父ちゃんや、母ちゃんを責めるつもりは無え。男女の事だからな…。だけど、蛍の事をもう少し、考えてあげられ無かったのかと思うとな。結局、斯う謂う時に、割を食うのは、何時だって、子供だ」
尤も、高志が、事の次第を知ったのは今年の初夏、学校祭の頃だと謂う。高志のお袋さんの知人から齎された情報により、詳らかに成ったとの事だった。其処で正太郎は口を挟む。
「然し、お前、寒中見舞いを貰った直後に其の手紙を出そうとしてたよな? 抑々、状況が判っていた訳じゃあ無いのか?」
「ああ、あいつの特に仲の良かった女の子を締め上げた。まあ、苗字を聞き出せた段階で、状況については、ある程度、想像が付くからな。だが、彼女らも、詳細については、殆ど何も知ら無かった。知っていたのは、今の住所と名前だけで、蛍の奴、メアドすら謂っていなかったらしい」
祐子は、只管、栗をもしゃもしゃ食べている。余程、栗がお気に召した様だ。ガンツ先生も、祐子の隣で栗をがりがりと齧っている。時折、祐子が皮を剥いてやると、大喜びでがっついていた。正太郎は、そんな様子を目を細め乍ら、眺めていたが、頓て、高志を見据えると、静かに問いただした。
「其処で、最初の質問に立ち返るんだが…。一体、何をやらかした?」
「…やっぱ、そうなるか?」
「当たり前だ。状況は概ね判ったが、其れだけでは、あの、淡白な手紙の説明は、全く、付か無い。…何かあったんだろ?」
「やっぱ、云わなきゃ駄目か?」
そう、前置きし乍ら、高志は静かに懺悔を始めた。
それは、文字通り懺悔であった。2学期も終了したクリスマスの頃、蛍が転校をせざるを得ない事を知っている、極、少数の女子が、お別れ会を兼ねて、クリスマスカラオケパーティーを企画した。人数は男女合わせて10人前後であり、皆、蛍の幼馴染である。勿論、高志も招かれた訳である。特に、蛍の仄かな思いを斟酌した友人達からすれば、高志の招待は必須であった。然し、蛍は、最後の最後迄、高志に事情を説明するのを躊躇っており、或る意味、メンバーの中で高志のみが、蚊帳の外の状況下にあった。其れでも、一同は、大いに歌い、食べて、楽しい一時を過ごしたのであったが、そんな中で事件は起こった。
蛍にして見れば、万感の想いがあったのであろう。高志の隣の席に納まると、世話女房宜しく、箸の上げ下ろしから、其れこそ、おかずの選別迄、あれこれ、高志の世話を焼いていた。其処で、高志が切れて謂わずもがなの毒を吐いたのだ。
『なんだ、手前は、先刻から煩えな。おめえは、俺の母ちゃんか何かか? 余計な事はしねえで、すっこんでいろ! ドブス』
無論、高志の稚気溢れる照れ隠しもあったのであろう。高志自身に然程の悪意が合ったものとも思われ無い。然し、居合わせた全員は凍りついたと謂う。正太郎は多少呆れて、
「ひでえ事、謂うなあ…」
高志は頭を抱え乍ら、
「謂うな。本当に、何であんな事、謂っちまったんだろ。」
「其れで、蛍ちゃんは?」
「良く覚えて無え。普段どおりだったとは思うが…」
暫し、沈黙が訪れた。祐子は、ガンツ先生と共に相変わらず、もしゃもしゃと栗を食っている。
「其れで、あの手紙か?」
「…ああ」
其の時、大人しく栗を食べていた筈の祐子が、突然、喋りだした。
「でも、高志くん。若し、心に負い目が有るのなら、其の手紙出した方が良いよ。でないと、1年後だろうが、2年後だろうが、10年後だろうが、50年後だろうが、心に後悔として、何時までも残ると思うよ」
「此の手紙をかあ? そうは謂ってもなあ…」
高志はそう謂い乍ら、口を噤んだ。屹度、其の言葉の先には、ひろみの儚げな姿があったに相違無い。
「まあ、止めて置くよ。今更感が半端無えしな。其れに、抑々、今の俺には、そんな資格も無え」
高志は、如何にも仕方無さそうに、肩を竦め乍ら、苦笑いを浮べている。然し、其処で突然、突拍子も無い奇声を挙げた。
「あーっ、ガンツ。てめー、やりやがったな」
それは、バター皿に未だ半分程のバターが残っていたのだが、何時の間にやら無くなっており、更に、バター皿も洗ったばかりと見紛う程にピカピカとなっていた。屹度、ガンツ先生が丹念に舐め回したに相違ない。ガンツ先生は、恰も、フンと謂った表情で、机を踏み台に梁の上に駆け登ると、元居た場所で丸くなってしまった。正太郎と祐子は、高志の先程の台詞から、悄然とした姿にもかかわらず、決然とした断固たる意思を垣間見た様な気がした。二人とも、其れ以上は、何も謂え無かった。其れでも、愈々、高志の家を辞する段になって、祐子は思い出した様に、突然、妙な事を高志に尋ねた。
「ねえ、高志くん。そう謂えば、蛍ちゃんって、アルトだったの? テナーだったの?」
高志は、つい、釣り込まれた様に、うっかりと答えた。
「ああ、あの、お茶っぴいか? アルトだったよ」
思わず、答えた高志であったが、祐子の何気ない質問の裏に隠蔽された意図に気が付き、俄かに、顔色を変え、つい、しまったという顔をしてみせた。高志は、正太郎達を送りがてら、『用事を思い出した』とか謂って、自転車を東に向けて走らせて行った。
秋の西日が物憂げに、興津の街並みを静かに包み込む。古の宿場町は秋の日差しを受け乍ら、まるで、時間の流れから置き捨てられたかの様に、静かに佇んでいる。少々、物寂しい情景である。正太郎は、帰路の途次、思い出した様に、祐子に尋ねた。
「そう謂えば、先刻の、別れ際の質問。あれは、何だったの? 何か意味有り気だったけど…」
「ああ、あれね。蛍ちゃんて、中学時代、吹奏楽をやっていたんじゃないかな、って思ったの」
「でも、アルトなら、声楽かもしれないじゃないか?」
「もう、正ちゃんたら…。声楽なら、アルトは兎も角、テナーは無いでしょ」
「其れもそうか。でも、如何して?」
「中学校時代、野球部のエースだった高志くんが、高校になって、突然、吹奏楽部に入部して、アルトサックスを希望したのが、少し不思議だったの。だから、若しかしてと思ったの。当初は、訳有りとか謂ってたけど…」
「成程な。彼奴、ひょっとして、蛍ちゃんが入部するかもと思って…」
「…うん」
「ひろみには、聞かせられ無え話だな」
「…」
其れには、祐子も答えずに、困った様な表情を浮かべていたが、頓て、名残惜しそうな笑顔を浮べると、
「三連休終わっちゃったね」
「ああ、祐ちゃんも疲れたろ。明日から、また、学校だ。お腹も、ケーキと饅頭と鯛焼きと栗でパンパンだろ。今日中にガスを全部出しとけよ」
「もう、正ちゃんの意地悪」
ぽっと頬を赤く染めた祐子が、思わず正太郎を窘める。正太郎は、子供の様にハハハと笑い渋川橋東交差点で手を振り乍ら、何時迄も祐子を見送っていたが、祐子の後姿が渋川橋袂の坂道の頂点を越え、見え無くなっても、佇んで暫く考え込んでいた。然し、頓て何を思ったのか、踵を返すと自宅とは正反対の駅の方角に向かって、自転車を漕ぎ出したのだった。
秋の陽は釣瓶落としである。湾内に寄せる漣迄が茜色に染まる、黄昏時の赤燈台。正太郎は、ぽつんと一人、無聊を託ち乍ら、突堤に腰掛け、海に向かって足をぶらつかせていた。時折、吹いてくる秋の黄金色の風は、少し冷たい。冬も、もう、近いのだろう。そして、漸く、西日が落ち掛かった頃、暮れなずむ海を見つめた儘、何処見る風も無く、酷く穏やかな表情で、不意に呟いた。
「いよう、随分と、遅かったな。俺に風邪をひかせる心算か?」
「…」
今、来たばかりの男は、其れには応えずに、紋切り型の質問を投げ掛ける。
「…何故、おまえが此処に居る?」
正太郎は、相変わらず、海を見つめた儘に、優しげな表情を浮かべ、答えた。
「居るさ…。あれだけ、懺悔話を聞かされたんだ。お前が、此処に来るのも読める。長い付き合いだからな」
「こきやがる。未だ、たかだか、半年足らずだ」
高志は、そう呟くと、正太郎の隣にどっかりと胡坐をかいた。正太郎は溜息を吐きつつ、高志に語り掛ける。
「全く、懺悔って謂う割には、今日のお前は、嘘を吐き捲っていたからなあ…」
「俺は、何時も本当の事を謂うとは、限ら無えんだよ」
悪態を返す高志に、正太郎はすかさず極め付けた。
「蛍ちゃんもだろ?」
「…」
「お前、本当に素直じゃ無えからなあ…。蛍ちゃんの其の時の顔を覚えて無いなんてのも嘘っぱちだ。…本当は、蛍ちゃん。泣いてたんだろ?」
正太郎が、穏やかな表情とは裏腹に、舌鋒鋭く、高志が一番探られたくない図星を突く。本来であれば、全力で、真っ向から否定する処なのだろうが、高志は全てを諦めた人の様に、肩を竦めると、一言呟いた。
「ああ」
と、同時に高志は思う。
(此のバカ。自分の事は、からっきし、見えねえ癖して、人の事となると、一段と、いらん勘を働かせやがる…)
頓て、高志は深い溜息を一つ漏らすと、懺悔の続きを始めた。
「そうだ。あのお茶っぴいが泣いているのを見たのは、後にも先にも、あれっきりだ。もう、…二度とごめんだ。…尤も、此の先…、例え、見たくても、二度と…、見れねえがな」
最後の一言は、まるで、過去との訣別を自分に謂い聞かせている様でもあった。高志は、自嘲めいた独白を続ける中、最後の光景をまざまざと思い出していた。
高志の言に因れば、蛍ちゃんは、高志の激しい言葉を浴びた後、一瞬、童女の様な無邪気な表情できょとんとしていたが、頓て、寂しげに微笑むと、普段の蛍ちゃんにしては、似気も無く、
「…本当だね」
と謂う、無力な同意と伴に、一つの完結を意味する言葉を残し、ニッコリと笑ったそうだ。然し、其の美しい顔立ちの瞳には、確かに真珠の雫が光っていたと謂う。何時に無い、蛍の態度に、毒気を抜かれた形となった高志は、唖然として、蛍の其の美しい横顔を、まじまじと凝視すると共に、自らの軽率な振る舞いを、酷く恥じたと謂う。本来であれば、其の場で謝っておけば、高志の良心の呵責も、然程では無かったのであろうが、高志の稚気が、つい、邪魔をした。恐らく、其れが、高志の生涯に亘る後悔となった訳ではあるが、其の当時は、よもや其の様な事になろうとは、知る由も無かった。そして、其の直後、蛍ちゃんは、誰にも何も告げずに、会場を後にしたとの事だった。結局、高志にとって、此れが、蛍との永遠の袂別となったのである。
陽は既に落ち、西の空には、背景照明が銀幕を照らし出した様な、見事な迄に碧と紅の両極端に二分された漸次的移行が拡がっており、其の碧の部分の境界付近に、一際輝く宵の明星が見えた。
「で、如何すんだ?」
正太郎の穏やかな一言が、高志を現実に引き戻した。
「如何も斯うも無いさ」
高志はそう謂うと、持っていた投函出来無かった葉書を、びりびりと破り始めた。そして、高志の恋文の残骸は海からの強い風によって煽られ、あっという間に、粉雪の様に散って行った。
「良いのか? おい」
此処で初めて、正太郎は、横を向き、高志に目を向けた。其処には、改めて、悔恨に苛まれ、改悛の情を浮かべた、寂しげな親友の横顔があった。
「ああ…」
高志は一言そう呟くと、
「多分、良いんだ。…此れで」
改めて、寂しげに、呟いた。辺りは、暫し、静寂に包まれる。正太郎は再び、暗い波間に目を落すと、皮肉めいた口調で、穏やかに謂った。
「贖罪の記念に、一生、机の上に飾っとくと思ったぜ」
「よせやい。俺はそんなに、メンタルは強くねーよ。其れに、万一、ひろみにでも見られたら、殺されかねねえ」
正太郎が、殊更、穏やかな顔で警告した。
「ひろみに、同じ事すんなよ」
「うるせー」
そう謂った高志だったが、
「しねえよ。絶対に」
と、似気も無く、素直に謂い直した。
「其れにしても…、本当に好きだったんだなあ…」
「其れを、俺に謂わせるつもりか? 相変わらず、デリカシーの無い奴だ」
「本当は、今日、俺達を呼び出したのは、斯うした懺悔話をしたかったんだろ? 何しろ、あの書き掛けの葉書は、毎日、机の上に飾って置くには、強烈に過ぎる代物だ」
「…ああ、そうだ。だが、お前らは勝手に謎解きを始めちまうし、お前にしても、祐子ちゃんにしても…。自分達の事は何にも見えねえ癖しやがってよ。全く、何なんだよ。お前らは?」
正太郎は夕闇が迫り始めた水面に目を落としつつ、嘯いた。
「岡本高志の親友なんだろ。多分」
「…違い無え。ならば、其の親友に聞くが、俺は一体、此れから如何すれば良い?」
苦笑し乍らも、何時に無く、真剣な面持ちで、途方に暮れている高志に対し、正太郎は暫しの沈黙の後に、斯う謂った。
「自分で決めろ。そんな事は」
そう謂うと、高志の方を振り向き直り、笑い乍ら続けた。
「俺は、何処かの嘘つき野郎に、そう謂われたぜ。此処でな」
高志も笑い乍ら、
「そう謂えば、そうだったな…」
高志は目を閉じると、瞑想を始めた。
夏休み中の興津川。中流域、和田島辺りで、小学5年のキャンプの時である。煌く木漏れ日が少し眩しい。興津川の細流は涼しげな音を奏でている。兎に角、暑い日であった。其の日、高志は、前日に買い揃えた筈の、おやつのお菓子を家に置いて来てしまった。まあ、おやつなどは、キャンプを彩るものではあっても、必需品では無い。高志は若干寂しい思いをしたものの、仕方が無いと諦めていた。然し、そんな中、件の蛍が自分のお菓子を全て二等分にして、高志に分け与えたのであった。無論、蛍の事である。高志の迂闊を大いに詰ったのではあるが、其れでも、高志への優しさが其れを謂わせたのであろう。一方、高志は、蛍に素直に感謝していた。其の日の夕刻、再び蛍に感謝の言葉を伝えた処、
「良いわよ、そんな事」
と一笑に付された。其れでも、気の済まない高志は、更に、食い下がった処、
「そんなに謂うなら、高志くんのお嫁さんにしてもらおうかな」
咄嗟に固まる高志を前に、蛍はいたずらっ子の様に可憐な笑顔を浮べ乍ら、
「もう、冗談よ。冗談」
結構、純情な高志を、煙に巻いた蛍を思い出したりした。全ては、懐かしくも、遥けくも遠い想い出であった。
過去との想い出に向き合い傷心する高志と、其れを見守る正太郎。時間だけが無為に過ぎて行く。とっぷりと日が暮れて、夜の静寂に包まれた赤燈台。頓て、東の空には中秋の名月が顔を覗かせる。高志は過ぎ去った過去を思い出し乍ら、心の中で叫んでいた。
(10年だぞ、10年以上だぞ。彼奴との腐れ縁は…。其の最後の台詞があんなんで堪るかよ…)
そして、ふと、我に帰った高志はボソリと呟いた。
「なあ、正太。処で、素直になりついでに、もう一つだけ、懺悔をしても良いか?」
「…ああ」
微かに頷く正太郎。高志は、まるで別人の様に遠い瞳をすると、静かに未練を吐露した。其れは正しく、未練であった。
「もう一度…。もう一度だけで良い…。蛍に会いてえなあ…。俺は彼奴に、未だ、謂わなきゃなんねえ事が…、あったんだ…」
高志は、辛うじて、其処迄謂うと、其処で絶句した。正太郎は静かに高志の方を振り返る。親友の細めた両の瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちて行った。
そう、ぼろぼろ、ぼろぼろと。
東の空に浮かんだ真ん丸の月は、無情にも、其の情景。親友の心からの無念の欷歔を照らし出す。そして、同時に正太郎は、思った。
(矢張り、此奴は誰よりも現実主義者だ)
そうだ、確かにそうだ。此の現実主義者には判っている。其れが、二度と再び、還らない事も、二度と再び、戻らない事も、そして、彼が吐露した細やかな希望が叶う事など決してある筈も無い事を、誰よりも良く判っていたのである。正太郎は優しげな瞳で、黙して暫し、親友の声無き、而して、激しい慟哭を見つめていた。然し、頓て、立ち上がると、優しく、其れでいて、支度気無く、静かに親友の肩に手を置くと、潸然とした親友に対して、優しく、斯う呟いた。
「そろそろ、行こう。 …流石に、風邪を引く…」
「ああ…」
かろうじて、そう肯く高志。頓て、正太郎と項垂れた高志は、二人連れ立って、赤燈台を後にした。
枯草色の緩やかに畝る様な、特徴的な波状段丘が続く北の大地を、気の早い虎落笛が、甲高い声だけを残して駆け抜けて行く。もうすぐ、此の地は、白銀一色に染め、一年の半分以上を占める冬がやって来る。そんな北の大地に、高志の朴訥な便りが届いたのは、冬の入りが間近に迫った、10月も中旬の事だった。
高志からの手紙は絵葉書であった。裏面に、恐らくは、高志があの日、興津薩埵峠から撮ったであろう、陽光溢れる、駿河湾を挟んだ富士山の写真。昔、蛍が好きだと謂っていた風景である。表面は、綺麗な富士山の記念切手と共に、宛名と高志の稚拙な字体で乱筆なるも手書きの文面であった。例によって、平仄整わぬ、杜撰で取り留めの無い内容の文面ではあったが、一点の疑義も無く、拙い乍らも今の高志の精一杯が、訥々と綴られていた。此処では其の全文を抜粋しよう。
『いよう。元気か? 俺は元気だ。てっきり、清水高校に入学する物と思ってたぞ。其れにしても、相談位しろってーの。長い付き合いじゃねーか。あっ、其れと高校に入って彼女が出来たぞ。すげーだろ。其れと、其の、最後にあった時、ひでえ事謂っちまって、済まなかった。本当にごめん。そっちは寒いみてーだから、体にきをつけてな。 岡本高志』
高志は、今更乍らに思う。こんな事をしたからとて、何が変わる物でも無い。畢竟、唯の自己満足に過ぎぬ。或いは、蛍を更に傷つけるだけなのやも知れぬ。其れでも、高志は此の手紙を出さずには居られなかったのである。十年の旅路の果てが、あんな寂しい風景で、あんな悲しい光景で、あって良い筈が無い。
さよならだけが人生。
此れだけでは、余りにも切なく、そして、悲しすぎるから。
何度か、文面を読み返した蛍は、ふうっと、溜息とともに、軽い毒を吐いた。
「バーカ、気、位漢字で書け。つーの」
蛍は、窓の外に目を遣った。眼前には、芒の原が広がっており、穂先が微かに揺れている。其の向こうには、エゾマツ、カラマツ、白樺などの葉を落とした疎林が点在している。疎林の木立の間を、今にも暮れ行く、宛ら、線香花火の雫玉の様な夕日が、寂しく映える。此方は、もう、冬が其処迄来ているのだろう。斯うした、透明感溢れる夕焼けは、荒涼たる風景の寂寥感を、一段と際立たせていた。
(遠いなあ。今の私にとって、清水は遥かに遠い。多分、あの白樺の木立の間に見える、今にも大地に吸い込まれようとしている夕日よりも更に遠い…。)
それが、蛍の正直な実感であった。此処、遥かなる陬遠の地にある此の身としては、潮風の香りがする、あの素朴な街並みも、みんなで通った古びた小学校も、喧嘩ばかりだったけど高志との懐かしい日々も、優しかった父さんとの想い出も、何もかもが、とても、遠くに行ってしまった。自分だけを置き去りにして…。
そして、再び、蛍は深い溜息を漏らすと、半ば、安心した様に、そして、半ば、寂しげに呟いた。
「そっかー、高志君。彼女が出来たんだ…」
直後、階下から母親の呼ぶ声が聞こえた。蛍は元気な声で、
「はーい、今行くね」
と、応えると、改めて、文面を読み返し、三度、溜息を吐いた。
「本当に、彼女、出来ちゃったんだ…」
蛍はそう呟くと、机上の写真スタンドから、野球帽を被った中学生時代の高志の勇姿を取り出し、丁寧にアルバムへ収めると、今、届いたばかりの絵葉書を、それも、宛名面を表にして、写真スタンドに大切に収めた。
蛍の此の時の心情は、良く判らない。恐らくは、今の蛍にとって、物謂わぬ写真よりも、同じ物謂わねど、今の高志の精一杯を雄弁に物語る此の葉書の方こそが、大切だったのだろう。
其の日、美瑛には初雪が舞った。此の地方の此の季節に於いて、然程、珍しい事では無いのかも知れない。然し、其れは、唯の偶然かも知れないが、若しかしたら、高志が二度とごめんだと謂った、素直な蛍の涙だったのかもしれない。少なくとも、筆者にはそう思われてならない。
誰にでも、初恋の記憶と謂うのはあるものだ。例え其れが、どんな悲しく、虚しい思い出であってもである。一人の少女が忘れじの初恋の記憶。それは、少女への悲しいイジメの記憶でもあった。次回『第24話 Goodbye To Love【前編】』。お楽しみに。誰に対してであっても、いじめだけは、絶対に許されない!




