第21話 孤高の僧正
古今東西を問わず、世間には、頗る珍妙な流行り廃れがあって、後から振り返ってみた時、何であんな物がと謂う様な物が流行する事が儘ある。まあ、確かに、そう謂われてみれば、学校と謂う村社会に於いても、卒爾として、何の前触れも無く、実に奇態な物が流行る事が往々にしてある。
其れは、時として、怪談であったり、クイズであったり、卑猥な冗談であったり、はたまた、都市伝説であったりとする訳なのだが、此れは何も、特段に、珍しい椿事と謂う訳でも無い。寧ろ、学校に於いて、当たり前と迄は謂えぬ迄も、まあ、日常的な現象であって、或る種、浮かんでは消える、謂わば、泡沫の様な代物なのである。そう謂った意味では、今から記す此のお話も、そうした無数にある潮流の中の、眇眇たる畝りの一つに過ぎず、此の一件。抑々、其れは、後に正太郎により、『孤高の僧正』と命名された命題なのではあるが、事の発端は、以下の様な、実に、些細な四方山話から始まったのである。
先週の『13個の錘』の事件から、丁度、一週間後。月が替わって、翌週のまたしても金曜日。即ち、10月の5日の事である。部室に蝟集したメンバーの中の明彦が、ノートに何やら書き出し乍ら、唐突に、こんな事を謂い出したのである。
「そう謂えばさあ。昔、こんなのが流行らなかったか? 此の図に纏わる怪事件の噂。全部引ききると、死神が姿を現すとか謂う…」
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図を一目見るなり、全員が了解した。そして、正太郎が如何にも懐かしそうに、声を挙げる。
「おお、流行った、流行った。確か、小学校の頃だよな。あれだろ、同じ●を二度と通らず、×も通らず、縦横に進んでいき、全ての●を通すって奴だろ。祐ちゃんも良くやって居たよなあ…」
と、正太郎が謂えば、祐子も、
「うわあ、懐かしいね。正ちゃんこそ、良くやって居たじゃない。…英語の授業中に」
「そ、そんな事無いよ」
ノートを覗き込んだひろみも謂った。
「本当。確かに、懐かしいわね。あんまり、流行るから、岡中では、禁止されていたわよ」
「ムッキー、懐かしい。いずなも良くやったよ。斜めはいけないんだよね。確か、全部引ききると意中の人と結ばれるって話で、女の子達が挙ってやっていたよ。其の×の処に好きな人の名前を書いてさ」
凛子が首を傾げて、怪訝そうな顔をして謂った。今日は鮮やかな檸檬色のカチューシャをしている。顰みに倣うの故事其の儘に、笑顔無くとも、一段と美しい。
「えー違うでしょ、いずな。有度中では、殺したい相手の名前を書いて、全部引ききると、書かれた相手が不慮の事故で、死ぬとか何とかって。そんな話じゃなかったけか…?」
ひろみも、それを受けて同調する。
「岡中も、そうだったよ。だから、学校で禁止になったんだから…」
「ムッキー、其れ何処のデ●ノートよ。全く、もう…。もっとロマンチックな話だよね、ケースケ。ケースケの学校でも好きな人と結ばれる話だったんでしょ?」
「いや、違うぞ。何か、もっとホラー仕立てな話だったぞ。なんでも、或る高名な数学者が此の問題に挑戦して、ずっと取り組んでいたんだが、或る日、解けた図面を前に発狂している姿が発見されたとか何とか…。高志ん処もそうだろ?」
高志は図面を覗き込み乍ら謂った。
「うちの中学では違っていたなあ。其れに、抑々、×の位置が微妙に違うぞ」
「えっ、そうなの?」
ひろみが聞き返す。高志が頷いて答える。
「ああ、×の位置が左下隅の右隣だった」
「つまり、中央上下に線を引き、線対称の位置って事?」
「ああ、…そうだな。其れに、恋占いや呪いや怪談の要素は、全く、無かったな。なんでも、RSA暗号のプログラミングを専門に手掛けている、とあるコンピューター会社が大型コンピューターを駆使して、解こうとしたが、解くまでに3日3晩かかって、挙句にコンピューターが熱暴走して焼失したとかって聞いたぞ。…有り得ねえだろ。全ての順列を計算したとしても、たかだか、24の階乗だぞ」
「ムッキー。RSA暗号とか、熱暴走とか、『よろしくお願いしまーす』っぽいキーワードだねー」
横で明彦が電卓を叩き乍ら謂った。
「まあ、ざっと、10の23乗程度だがな」
いずながニヤニヤし乍ら突っ込んだ。
「うっわー、眼鏡、ひまー。其の電卓、24桁も表示出来るの?」
「出来る訳無いだろ。対数関数を使ったに決ってんだろ…」
だんだん、話が横道に逸れた処で、祐子が懸命に話を戻す。
「でも、私の聞いた話は違うなあ。何でも、昔、清水区の何処かで、とある気の狂った数学者が、自分の血で自室の壁に重要な事を書き留める癖があったらしいの。でも、或る日、此の図面を前に、失血死した状態で発見され、壁には血文字で、『私は、此の問題について、驚くべき解法を発見したが、其れを書くには、此処の壁の余白も、私の血液も少な過ぎる』とか、書かれていたんだって…。本当に、怖いよね。一体、清水区の何処ら辺の話なんだろ?」
「ムッキー、ゆうちん。其れ、本当の話なの? 此の清水に、そんな奇怪な人物が居たなんて…」
いずなも震え上がる。然し、高志は、如何にも胡散臭そうに、眉を顰め乍ら、斯う謂った。
「何だよ。思いっきり、嘘くせえ話だな。其れに、後半部分の件が、何処かで聞いた事の有る様な逸話なんだが…?」
正太郎が呆れながら、膠も無く吐き捨てる。
「あのなあ…、其れ。『フェルマーの最終定理』だろ。其の逸話から、パクって来ただけじゃねーか。全く、バカバカしい。ねえ、祐ちゃん。一体全体、其の与太話、誰から聞いたの?」
「…確か、康代ちゃんから…」
正太郎は苦笑し乍ら謂った。
「だろうと思った。如何にもヤスベエが作りそうな話だもんな。如何せ、彼奴の事だ。妙な都市伝説が流行っているのを良い事に、尾ひれを着けて吹聴したんだろう。全く、ヤスベエがやりそうな事だ」
「まーた、あのやじろべえか。あの野郎、精神構造が、基本、ネラーだからな。全く、しょうがねえ。こんなデマ飛ばして、一体、何が面白いのか…」
「まあ、奴のモットーが、『人口に膾炙する風説の流布』、みてーな処があるからな」
正太郎が肩を竦める。だが、高志は顔を顰める。
「迷惑此の上無い野郎だな。やってる事はただの、サムネ一本釣りやバーボンハウスじゃねーか」
「ムッキー、ヤスベエったら。其れで、誰か出来た人はいるの? いるなら、いずな教えてもらおうと思ったんだけど…」
「私は出来無かったわよ」
と、凛子。其れに続いて、ひろみも同意する。
「ムッキー、ケースケは?」
「俺も出来た事は無いなあ。高志は、如何なんだ?」
「ああ、俺も死ぬ程やったが、一回も成功した事は無いぞ。まあ、お前らのとは×の位置が微妙に違うんだがな…。其れに、俺、×の位置をいろいろ変えてやったんだが、他にも出来無い場所が有ったぜ。だが、出来る場所も有るんだよなあ。例えば、左下隅を×にした場合、見てのとおり、一見して、出来るだろ。つまり、一ヶ所×にした、イコール引け無いという訳じゃ無いらしい…」
祐子が謂った。
「正ちゃんは?」
正太郎は肩を竦め、笑い乍ら、斯う謂った。
「出来てたら、此の場で発表しているさ。鬼の首を取った様にな。明彦は如何なんだ?」
「そう謂えば、俺も出来た事は無いなあ…。如何せ、こんなの、退屈な授業の時間潰しだろ。授業が終われば、其れっきりだしな」
祐子が腕組みし乍ら、人差し指を口元に当てて、呟いた。
「…結局、誰も出来た人はいないんだ…」
いずながニヤニヤし乍ら謂った。
「如何したの? ゆうちん。ひょっとして、スイッチ入っちゃった?」
「私、気になります」
やはり、微妙に似ているのである。然し、此の話題は此れを機にフェードアウトして行き、次第に明日からの3連休の話題となって行った。
正太郎と祐子は二人で並んで帰り道を歩いている。今日は二人とも徒歩である。もう既に10月ではあるものの、二人とも未だ夏服であり、祐子の白のブラウスが眩しかった。暑さも漸くに一段落を迎え、時折吹く清清しい荻の声が、道端でコスモスの鴇色の花弁を揺らしていた。祐子は言葉少なで、頻りに何か考え事をしている。正太郎は気になって声を掛けた。
「祐ちゃん、如何したの? ひょっとして、先刻の問題を考えているの?」
祐子はニッコリ笑うと、正太郎に謂った。
「えへへ…。やっぱり、分かる?」
「まあ、祐ちゃん、ああ謂うの好きだからなあ。でも、あれってクイズじゃ無いだろ?」
「そんな事無いよ。何処から、如何見てもクイズだよ。唯、正解が分から無いって、謂うだけで…」
「クイズと謂うよりも、唯の都市伝説だろ。俺も、小、中と散々やったけど…」
正太郎は其処で口を噤むと、静かに回想した。確かに、あの問題は明彦が謂う様に、退屈な授業の暇潰しの側面が、かなり強い。特に、正太郎の様に教科の好き嫌いがハッキリしている人間にとっては、あの問題に接する時間が更に多くなる。正太郎の場合は、主に、英語の授業であった訳であるが、何度か自宅でも試みた事があるし、高志がやった様に×の位置を変えてやった事もあった。然し、問題通りの×の位置では出来た事は、一度も無かった。正太郎は其の経験から、つい思いを吐露した。
「其れに、直感。あれは引ききる事が出来無いと思う…。証明は出来無いけどさ…」
其れを聞いた祐子は、上気して朱に染まった顔で正太郎の腕を確りと掴み、目をキラキラさせて斯う謂った。
「やっぱり? 正ちゃんも、そう思う? 私も中学校の時、出来無いんじゃないかなって、そして、それを証明しようと思ったけど、駄目だった…」
「ああ、実は、俺も中学校の頃に、出来無い事を証明しようと試みたんだけど、取っ掛かりすら分から無かった。多分、一筆書きみたいにトポロジーの問題じゃないかと思うんだが…。でも、一筆書きは奇点が3個以上で、出来無い事が判るけど、此の問題は当て嵌まらないんだよなあ…」
「私、気になります!」
「其れは、もう、良いって…」
祐子がもじもじし乍ら、提案した。
「正ちゃん、あのね、あのね。…良かったら、今から、おうちに来て、一緒に考えない?」
またまた、先週と同じ展開である。祐子は上目遣いに正太郎をじっと見つめているが、未だ目をキラキラさせている。祐子が何かお願い事をする時の眼差しだ。正太郎は、少々、躊躇した。祐子の家に行く事自体は、然程、吝かでは無い。然し、先週、祐子のお母さんには、大変バツの悪い思いをしている。正直、少々、遠慮をしたい気持ちもあった。
だが…。
(駄目だ。祐ちゃんが、此の目をしている時は、絶対に退かない…)
祐子は未だ、じっと正太郎を見つめている。コロコロっとした体型の祐子が上目遣いで、お願い事をする時の瞳だ。ちょっとポチャ可愛い。正太郎は諦めた様に肩を竦め乍ら、斯う謂った。
「分かったよ。どうせ、暇だし。一旦、家に帰って、着替えてからすぐに行くよ。でも、祐ちゃん家、俺、出禁になってない?」
「うん、勿論、大丈夫。ママも、次に正ちゃんが来るの楽しみにしてたから…。待ってるね」
祐子の笑顔が弾けた。そして、正太郎は思った。
(やれやれ。此の笑顔には敵わないなあ)
そして、二人は渋川橋東の交差点で一旦別れ、それぞれの自宅に向かった。然し、正太郎は暫く立ち止まり、祐子の後姿を見送った。祐子の丸っこい体躯が、渋川橋へと向かう坂道を、トコトコと登って行くのが見える。何処と無く嬉しげな後姿であった。
正太郎は白のTシャツにグレーのハーフパンツにサンダルという、レディの家への訪問と謂うには聊かラフな格好で、自転車に跨った。季節も既に10月である。が、然し、陽気的には9月の初めと謂っても良い。其れこそ、入道雲でも見えそうな陽気であったが、夏の暑さとは訣別した色無き風が、時折、自由奔放に渡って行く。そして、空を見上げれば、青いキャンパスに2、3度、白い絵の具を、面相筆で軽く撫でた様な巻雲が、今の爽やかな季節を、鮮やかに証明していた。正太郎は、其の清清しい空気を思い切り吸い込むと、巴川の方に向かって漕ぎ出した。俄かに、水草の香りがした。巴川の向こう岸の土手には真っ赤な彼岸花が群生している。正太郎は不吉な名を持つ此の花が少し苦手だった。其の昔、祐子にあげようとして巴川に下りていった処、祐子の母親に、激しく、叱責された。以来、彼岸花と祐子の母親には、若干の苦手意識を持つ様になっていた。祐子の家に着くと、件の母親が庭で水をやっていた。
「…こんちは」
正太郎は怖ず怖ずと挨拶をした。母親は、祐子から聞いていたのであろう。正太郎を見るとニッコリして謂った。
「いらっしゃい、正ちゃん。祐ちゃんがお待ちかねよ」
と謂い、家に向かって呼びかけた。
「祐ちゃーん、王子様のご来訪よー」
「はーい、今、行きまーす」
と、声が聞こえ、二階から降りて来た祐子が、ひょっこり玄関に顔を出した。祐子は石竹色の地に、豊満な胸の辺りに大きく青で『LOVE』と印刷されたTシャツに、瑠璃紺色のハーフパンツで此方も相当ラフな格好である。驚いたのは髪形である。祐子は、元来、ショートカットである。最近、多少髪が伸びたなとは思っていたが、此の時は、短めのツインテールにしている。帰宅後、直に整えたのだろう。祐子のツインテールを見るのは小学校以来であり、あの当時に戻ったみたいで、それはそれで、意外と謂うか、かなり可愛らしい。正太郎が呆気に取られて、見とれていると、祐子は顔を左手で隠し乍ら、指を広げた右手を突き出し、振り乍ら謂った。
「駄目! 恥ずかしいから余り見ないでぇ」
(なら、何故した)
正太郎は、そう思わない訳でも無かったが、慌てて、素直に褒めた。
「いや、すごく似合っているよ。可愛らしいよ」
「もう…、恥ずかしいよ、正ちゃん」
祐子も真っ赤になっている。其処へ、母親が多少おどけ乍らやって来た。
「ハーイ、あんた達其処まで。続きはお部屋でね」
【お約束の告知】
扨、此の問題をクイズとして捉えている貴方。此処で本を置いて考えてみよう。論理的に、引けない事を証明出来ますよ。
母親の其の一言で、正太郎も既に真っ赤である。祐子に案内されて家に上がったが、階段の前で祐子に『お先にどうぞ』と、促されて先に登って行った。前回は祐子の後ろについて登ったのだが、何の事は無い。祐子も大きく育ったお尻を下から見上げられたくなかったのだろう。此の辺りに、思春期女子特有の恥じらいがあるのかもしれない。祐子の部屋は相変らず整然としている。正面のベランダへの出入り口は全開であり、清清しい、細荻が、部屋の中を遠慮がちに、通り抜けていく。ベランダの向こうには巴川。そして、先程見た彼岸花の群生が、赤い絵の具を流し込んだ様に、川面と岸の境界を、より一層際立たせていた。
「本当に気持ちが良いお部屋だね。祐ちゃんのお部屋は」
「えへへ…、そう? だったら、もっと遊びに来てよ」
「えっ、だって先週、来たばっかじゃないか」
「でも、其の前に来たのは小学校6年の時が最後だよ。中学の夏期講習の時は、部屋には上がらなかったし…」
「そうだっけか? 小学校6年の時、祐子ちゃんのママに怒られちゃったし、先週はバツの悪い思いをしたし、ちょっと、心配だったんだ」
祐子は、巴川向こう岸の彼岸花に眼をやった。
「あの、彼岸花を摘みに行った時の事だね。あの時、私も家に帰ってから、すごく怒られた。子供のやる事なんだし、…ママもあんなに怒んなくても良いのに…」
正太郎は笑い乍ら謂った。
「子供のやる事だからだよ。川へ下りていって、万一、川に転落でもしたら、大事件だ。俺が親でも怒ると思うよ。其れに、抑々、彼岸花自体が毒草だ。祐ちゃんのママのお怒りも尤もだよ」
「えっ、そうなの」
「ああ、其れも結構強いそうだよ。彼岸花。別名、曼珠沙華、地獄花、死人花、幽霊花、蛇花、お墓花。なんだか、不吉な呼び名しか無いしね。俺はちょっと苦手な花だな。実に、鮮やかで秋らしい花なんだけどね…」
「そうなんだ」
そう謂うと、祐子はベッドに腰掛けた。薄桃色のTシャツにツインテールの祐子。とても可愛らしい。祐子と目が合うと、祐子は其の儘、目を閉じた。正太郎は祐子の髪を撫で乍ら、優しく唇にキスをした。祐子からは仄かに甘い香りがした。
「えへへ、先にご褒美もらっちゃった…。よーし、頑張って解かないと…」
「そ、そうだね」
「そうだ。此の前みたく、碁盤持って来る? ああ謂うのがあった方が…」
正太郎は赤面し乍らも、すかさず同意した。未だ、先程の接吻の甘い余韻が残っている。
「ああ、そうだね」
然し、祐子が碁盤を取りに部屋を出ようとした瞬間、咄嗟に正太郎が注文をつけた。
「あっ、ちょっと、待って。祐ちゃん。其の…チェス盤はある? 何となくだけど、其方の方が…」
祐子は訝り乍らも、謂った。
「うん、あるけど…。分かった。持ってくるね」
正太郎は祐子の出て行った部屋の中を見回していた。何時の間にか、机の写真スタンドの他に、祐子のベッドの枕元に、正太郎の浴衣姿の写真が置いてある。港祭りの時の写真で、先週には無かった物だ。正太郎は少し赤面しつつ、祐子の戻りを待った。祐子は立派なチェス盤を抱え、すぐに戻って来た。
「おまたせー」
良く見ると、祐子の後ろから、クリーム色の毛並みを持つ、祐子の忠実な友であるラブラドールレトリバーのペスも、のこのことついてくる。其れを見咎めた祐子が、遮る様に言葉を掛けた。
「駄目よ、ペス。お客さんなんだから…」
「くうん」
少し、項垂れるペス。少々、不満そうである。然し、此処で正太郎が助け舟を出した。
「良いよ。祐ちゃん。…ペス、おいで」
正太郎の言葉が分ったのか、ペスは愁眉を開くと、わんわんわんと嬉しそうに尻尾を振り乍ら、正太郎の下に擦り寄ってきた。
「言葉が分るのか。相変わらず、賢いな」
そう謂い乍ら、ペスの頭を撫でる正太郎。ペスも頻りに鼻を擦り付けて来る。
「もう、ペスったら。正ちゃんに甘えて」
祐子はチェス盤を、部屋中央のテーブルに置くと、二人向かい合うように座った。正太郎が祐子のベッドを背に、祐子と向かい合う形である。祐子の持ってきたチェスセットは恐ろしく高級品であった。駒はまるで彫像の様である。盤自体もかなり大きな物だった。
「うわー、偉く高級そうなセットだね。此れも、お父さんの?」
「うん」
「こんな、立派なセット、一般家庭じゃ、まず、見掛け無いよ」
祐子はニコニコし乍ら、
「だって、うちの家業、元々は、海外雑貨輸入商だもん。今はコンピューターゲーム屋さんだけど…」
「あはは、そうだったね。然し、見事なもんだね。ボードは柘植かな。駒は象牙? いや、大理石と黒曜石だな…」
正太郎は興奮して、駒をいろんな角度から見ている。
「ひょっとして、バックギャモンとかドミノもあるの?」
「うん。象牙の奴…」
「うわあ、今度それも見せてね。ていうか、祐ちゃんとやってみたいな。勝てる自信全く無いけど…」
「うん、いいよ」
「よーし、じゃあ、当面の問題を片付けよう。ところで…、わー、祐ちゃん、何持っているの?」
正太郎が驚いて叫び声をあげる。祐子の右手には油性マジックが確りと握られている。
「分かり易い様に、此れで、線を引こうと思って…」
こんな高級そうなチェス盤に、油性マジックで線など引かれたら、堪った物では無い。
「祐ちゃん。それは勘弁してあげて。祐ちゃんのパパ、間違い無く、泣いちゃうよ…」
「…そうかな?」
「そうだよ、…もう」
其処で、A3用紙をL字型に切って、上からチェス盤に重ね、即席の5×5枡のチェス盤が作られ、件の×の場所に該当する黒枡に、白の僧正が置かれた。そして、正太郎が宣言した。
「扨と、此れで、準備完了だね。其処で、確認なんだけど。まず、此の問題が『引き切る事が出来ない』事を、仮定とし、それを証明する。と謂う流れで良いかな?」
「うん」
「となると、前提条件であるルールの確認だ。
①縦横と隣り合った枡にしか移動できない。
②僧正のいる枡には入れない。
③一度入った枡には入れない。
④全ての枡を通る。
っと、条件は此れでいいね」
「うん」
「それでだ、まず、謂えるのは、僕から見て右下隅の白の枡。此処が起点、若しくは、終点になる場所である、と謂う事。一筆書きで謂う、所謂、奇点に当たるからね」
そう謂い乍ら、正太郎は右下隅の半島のようになっている白枡に、剣を構えた兵士の駒を置いた。
「うん」
其処で正太郎が肩を竦めて自嘲する。
「と、此処迄は、中坊の時に、散々、やったんだけど、其処から先、一歩も進めなくてさあ…、もう、お手上げ。難易度高すぎだろ、此れ…」
「もう、正ちゃんたら、リザイン、早過ぎ!」
「でもさ、此れ、やっていても、何時も、奇点が2箇所以上残る印象がしてさ、それで、最終的には詰んでいるんだよな。此れって、証明にならないかな?」
「なる訳無いよ。もう」
そうは謂ってみた物の、祐子は正太郎の謂わんとしている事が、感覚的には理解出来た。確かにやってみると、其の様な印象を受けるのである。本来であれば、此処からが詮議の為所と成るべき筈なのであるが、糸口が、皆目、見えてこない。取っ掛かりは、一体、何処にあるのだろう? 然し、祐子は盤面を眺めているうちに、或る事に気がついた。何時もの様に、右人差し指を口元に当て乍ら、徐に、語り始めた。
「ねえ、正ちゃん。今、思ったんだけど、私から見ると、僧正が左上隅右隣にいる。って事は、若し引けないとすれば、左上隅右隣が僧正でも、引け無いって事だよね。更、横にいる人が見たら、右列上から2番目。そして、左列下から2番目に僧正が居る様に見えるよね…」
祐子はそう謂って、盤を90度づつ回転させて行った。孤高の僧正が、祐子の動作と共に、360度回って行く。此れには、正太郎も、はっとした。目から鱗とは、将に此の事であろう。
「た、確かに…、そうだ。何で、今まで気がつかなかったんだろう…」
「此れなら、高志君が謂っていた『他にも引けない場所がある』と謂う言葉にも、合致する…。ねえ、ところで、何で僧正なの?」
「?」
祐子が、如何にも聖職者風の法衣を纏い、豊かな髭を蓄えた彫像の駒を摘み上げ、当初から抱いていた疑問を口にした。正太郎もきょとんとしている。祐子の質問の意図が良く判らない様だ。漸く、何故、此の駒をと謂う、祐子の質問の意図を正確に理解し、笑い乍ら答えた。
「いや、何か駒を置いた方が分かり易いと思ってさ…」
「でも、だからって、何で?」
「いや、本当は何の駒でも良かったんだけど…、たまたま、目の前にあったからさ。それに、ミステリーっていったら、僧正だろ。あの、名作『僧正殺人事件』」
祐子が、透かさず見事な英語を披露する。
「Who killed Cock Robin?」
「うわあ、マザーグースだ。読んでいるね。祐ちゃん」
「えへへ…。斯う見えても、元、文芸部部長ですよーだ」
正太郎は、子供の様な口調で謂い返すツインテール少女に、多少ドギマギして、顔を赤らめ乍らも、続けた。
「それに、僧正って駒、何か好きなんだよな。神秘的で」
「?」
「だって、チェスの駒の中で、僧正だけだよ。何手掛けても行けない枡が存在するのは。初期配置黒枡の僧正は永遠に白枡には行けないし、初期配置白枡の僧正は絶対に黒枡には行けない。同じフィールド内に居乍ら、会い見える事は決して無い。互いに、異次元の存在なんだ。謂わば、2対揃っての完全体。なんか、アダムとイブみたくてさ、男性と女性って謂うのかな。此の駒見るとあの台詞が心に響くんだ。『女性とは、向こう岸の存在だよ。我々にとってはね』って謂う…」
「うわー、加持さんだね。懐かしいね。…でも、正ちゃんて、本当に、思考が独特というか、ユニークというか、詩人だよね」
正太郎は笑い乍ら反論する。
「ひどいよ、祐ちゃん。また、からかって…」
「そんな事無いよ…」
そう謂い掛けた祐子の笑顔が不意に強張り、其の言葉が終らぬ内に、言葉が途中で途切れた。正太郎は驚いて祐子の顔を見つめる。祐子は強張った表情で、唇に人差し指を当て乍ら、一点を、と謂うより、チェス盤の孤高な僧正を、まざまざと凝視している。驚きと謂うよりも、恐怖の表情と謂うのが、一番的確な表現なのかもしれない。そう、祐子は確かに、正太郎の言葉から明らかな天啓を受けたのだ。祐子は彫像の様に固まった儘だ。正太郎が心配して声を掛けた程である。
「祐ちゃん、如何したの? 大丈夫?」
祐子はそれには答えず。一言、呟いた。
「…敵わ無いな…本当に」
「えっ?」
「ねえ、正ちゃん。何で最初に、碁盤でなくてチェス盤を指定したの?」
「えっ、深い意味は無いよ。唯、チェス盤の方が5×5枡に近いと思っただけさ…。一体、如何したって謂うのさ?」
「それだったら、オセロ盤でも良いのに…。それに、僧正。本当にかなわないよ…。正ちゃんには」
祐子は表情を緩めると、穏やかな表情になった。そして、ツツツと、正太郎の左隣に回りこむと、ベッドを背に正太郎と並んで座った。屹度、同じ目線に立ちたかったのだろう。そして、横に居る正太郎を見つめて、瞳をキラキラさせて、一言、呟いた。
「…解けたの」
「何が?」
「此の問題が…」
「え、えーっ、う…そだろ…。こんなに早くに?」
「本当だよ。此のチェス盤と正ちゃんの僧正の話で…。多分、間違っていない。証明も出来る。今、検証もした」
「証明が出来るって?」
正太郎は、思わず慄然とする。無論、半信半疑である。
「…うん」
「じゃあ、そ、其の、証明とやらを、是非、き、聞かせてよ」
「勿論だよ。でも、其の前に、前段を説明するね。先刻話した、4箇所の引けない場所の話、覚えている? あの時、元々の場所から90度づつ回転させても、同じ状況になるって謂う話」
「うん」
「でも、それって高志君の中学で流行っていた場所でも同じ事が謂えると思うの。そうすると外周8箇所が該当の場所となる。あの時は、盤を回転させたから、ピンと来なかったけど、今度は僧正の方を動かすね。屹度、何か気がつく筈だから」
祐子はそう謂うと、其の8箇所の場所へと、僧正の動き宛らに、駒を動かしていった。将に、僧正が盤面を駆け回っている。
途中で、
「あっ」
と謂う、悲鳴に近い正太郎の叫び声が上がった。祐子がニッコリ微笑むと優しく謂った。
「如何? 何か分かった」
正太郎は、息を呑むと共に、呻く様に答える。
「全…部、黒い枡だ…。と謂うより、其の僧正の動ける範囲だけだ」
「正解。となると、帰納的に考えても、私達が試していない、中央部の菱形状の、4つの黒い枡に僧正がある場合も、引けないのではないかと推測出来る。一方で白い枡に僧正がある場合は、引けるのではないかとも類推出来る」
「うん。確かに…。黒い枡と白い枡かあ。…気付けなかった。でも、それは、『恐らく、引けないであろう』と謂う、仮定を押し進めた推論であって、証明にはならないよ」
祐子はニコニコして謂った。
「うん、分かってる。其処で、正ちゃんが冒頭で謂った前提条件の①だったかな。思い出して欲しいんだけど」
正太郎が懸命に思い出す。
「①縦横と隣り合った枡にしか移動できない。だっけか?」
「そう、①の条件を全うする為には一つ付随条件が必須である事に気がついたの。其れは、チェス盤だからなのだけど、引いていく過程で、必ず、白→黒→白…、あるいは、黒→白→黒…と、違う色の枡が交互に連続しなければなら無いと謂う事。其れは、そうだよね。特に、斯うしたチェス盤の場合、縦横隣り合った全ての枡は、今居る枡とは違う色、所謂、市松模様なんだから…。扨、此処で本題なのだけど、此の付随条件を全う出来無ければ、引ききる事は出来無いって事にならないかな? 其れでは、此の場合、付随条件を全うする為の条件はなんだろう? 其れは、白枡の数をm、黒枡の数をn、とした時、m=n、若しくはm=n±1と成る事」
「ああ!」
正太郎の驚嘆の悲鳴と共に、祐子のキラキラとした輝いた顔。流石に正太郎も何か気がついたらしい。
「で、後は白枡と黒枡を数えてみれば良いのよ」
「…本当だ。僧正が居る枡を勘定に入れなければ、確かに、白枡が2枡多い…」
「つまり、連続させようにも、白枡が必ず一枡余る。従って、此のケースでは、如何あっても絶対に引き切る事は出来無い。此れで、先程の推論も正しい事が証明されるでしょ。畢竟、黒枡と白枡には、見た目以上に、其の性質が峻別されている事になるの。つまり、黒枡に僧正がある場合にのみ、引き切る事が出来無い。此れで、Quod Erat Demonstrandum!」
確かに明快な証明である。正太郎にとって、『フェルマーの最終定理』にも比肩し得る様な此の命題を、祐子はいともあっさりと、撃破して見せたのだ。正太郎は思った。矢張り、此の子には敵わない。そう思い、素直に感想を口にした。
「すごいよ。祐ちゃん。俺、やっぱり、数学では絶対に祐ちゃんに敵わないよ。悔しいけど…」
「そんな事無いよ。敵わないのは私の方だよ。…まったく、何で、彼処でチェス盤なのかなあ? 今回の証明は、彼処でチェス盤を持って来させた閃きこそが、全てだと思うよ」
「いや、すごいのは祐ちゃんだよ。俺、チェス盤が目の前にあっても分からなかった…。そして、今、とても感動してる…」
正太郎はそう謂うと、隣にいる祐子を思い切り抱きしめた。例によって、祐子の豊満な胸に正太郎の顔が埋まっている。然も、正太郎は感極まって涙ぐんでいる。然し、今回、祐子は、然程驚かない。と謂うよりも、正太郎の行動を読みきって、態々、隣に移動した程である。祐子は正太郎の頭を優しく撫で乍ら、
「正ちゃんのお陰だよ。ありがとね、正ちゃん。大好き」
そう謂うと、祐子も優しく正太郎を抱きしめた。そして、其処で、またまた、様式美である。祐子の母親がお茶とお茶菓子をお盆に乗せて入って来た。
「祐ちゃん。お茶とお菓子持ってきたわよ。あら…」
今回、祐子はママの接近に、全く気がつかなかった。ママの声を聞き、初めて接近に気が付いたのである。祐子は仰天して、咄嗟に弁解を始めた。
「ち、ち、違うのママ。此れには、訳があって…」
「わ、わ、わ…」
正太郎も祐子の弁解を聞くや否や、慌てふためいて飛びのいた。約一間は飛び退ったであろう。飛びのいた先で正座である。ママはイタズラっぽい笑顔で続ける。
「はいはい、分かってるわよ。如何せ、アルキメデスが発見した様なもんだって、謂うんでしょ。で、其の可愛いアルキメデス達は、今日は何を発見したのかしら? まさか、偽の王冠の見分け方じゃないでしょうね? 『アルキメデスの原理』だったら、確か、紀元前の段階で、既に発見されている筈なんだけどな…」
正太郎が真っ赤になり乍ら、若干、ふじこふじこ状態で、必死に弁解する。
「いえ、クイズなんです。僕達、小学校時代から、答えが分からなかったクイズがあるんですが、それを祐ちゃんの、其の、快刀乱麻を断つ様な鮮やかな証明を…」
母親は首を傾げ乍らテーブルの上を覗き込んだ。
「クイズ? …あらっ、ひょっとして、クイズって『24の点』の問題? 斯う謂う物は、廃れないものね。良く授業中の暇潰しにやったわよ」
祐子が驚いて叫んだ。
「ママも知ってるの?」
「当たり前でしょ。小、中、高、大と良くやったわよ。でも、解けたのは大学生の時。其れに、解いたのは恭一郎さんだけど…」
正太郎は小声で祐子に尋ねる。
「…一体、誰?」
「…うちのパパ」
祐子は恥じらい乍ら答える。母親は構わず続ける。
「それについて、傑作な話があるの。恭一郎さん、囲碁が強くて有段者クラスだったの。それで、よく囲碁部の助っ人として、大会に出ていたの。其の日は、5人の団体戦だったんだけど、恭一郎さんは圧倒的に優勢で、相手は投了寸前だったらしいの。それで、他の部員の形勢は2勝2敗。恭一郎さんの結果次第で1回戦突破だったらしいんだけど、あの人、其の時、此の問題の証明に気が付いちゃったらしいの。盤面を見ていて、急に閃いたんだって。其れで、相手は投了前の形作りの一手を打っただけなのに、徐に立ち上がって『分かったぞ!』て叫ぶと、自ら投了して、会場を後にして一目散に私達の下宿に来たわよ。おかげで、チームは一回戦敗退。対戦相手と他の部員は呆然。部長はカンカン。二度と助っ人に呼ばれ無かったらしいわよ」
祐子が呆れて、
「うわあ、パパも相当、変人だね」
「まんま、『エウレーカ』、じゃないですか」
「本当よね。吉祥寺の街を裸で駆け抜けなかったのが、めっけもんよ。それで、あの人、無邪気な子供みたいに嬉々として、私に説明するの、ちょっと可愛かったな。それで、本人はフェルマーの最終定理を証明した位の気持ちでいた様なのだけど、後から、割とパズルの中ではメジャーな部類と聞いて大変ショックを受けていたわ。何せ、足掛け10年以上考えさせられてたんだから…」
「えっ、そうなの? ママ」
「ええ、そうよ。パズルの中では、偶奇性系問題って謂うらしいわよ。例えば、斯う謂う問題があるの。『此のチェス盤の様に8×8枡の床の部屋があるけど、対角線上の2隅は柱があって全部で62枡。其処で、部屋の持ち主が床にタイルを敷こうとしたんだけど、1枡分のタイルは売り切れ。だから、2枡分のドミノ板の様なタイルを31枚買って来たんだけど、何故か敷く事が出来無かった。何故でしょう?』って奴。あなた達なら、もう分かるでしょ?」
「はい、対角線上の2隅というと、黒枡若しくは白枡が、2つ分少なくなります。一方、ドミノ板の様なタイルだと白黒対の性質となり、半分に切らない限りは、敷けないものと思います」
「そう、正解。だけど、チェス盤でなく、普通の升目だったら、此れは容易には気付けない。此の問題はね、チェス盤に着目した段階で、8割方正解に辿り着いているのよ」
祐子が不満そうに謂う。
「そう、其処なの。其れが、ちょっと悔しい処なの…」
「何、謂ってんの、祐ちゃん。俺なんて、眼前にチェス盤があっても、分からなかったんだから…」
「へー、すると、チェス盤を持って来させたのは、正ちゃんの指示だった訳?」
「そうなの、ママ。本当に、何で、彼処でチェス盤なんだろ。悔しいと謂うより、羨ましいな…。其の閃きが」
「そんなあ…」
二人の会話を聞いていた母親は、ニッコリ頷くと、
「本当に、良いコンビなのね。あなた達は。おばさん、応援しているからね。扨、お邪魔虫は退散。さあ、ペスもいらっしゃい。ご飯を上げるから。あっ、其れから、祐ちゃん。万一のときは、必ず、アレ使うのよ」
祐子はニコニコし乍ら、
「大丈夫。安心して。必ず使うから…」
そう謂った後に、流石に失言に気が付き、真っ赤になって、謂い直した。
「いや、ママの頭の上で、そんな事しないから、安心して」
正太郎も更に小さくなって、真っ赤な顔で俯いて正座している。無論、そうするより他は無い。母親は笑い乍ら、ペスをつれて部屋を出て行った。正太郎は、恐る恐る聞いてみた。
「ねえ、祐ちゃん。ひょっとして、祐ちゃんのお母さん。俺達の、其の、何ていうか、…関係を知っているの…?」
祐子はもじもじし乍ら、謂った。
「…うん。気が付いていた…。先週、正ちゃんが帰った後で、コナン君された…。超、恥ずかしかった…」
「ええーっ、俺、ますます、祐ちゃん家、来れ無いよ。其れにしても、何で分かったんだろう?」
「…浴衣の帯の結び目。ママが結ったのと違ってたんだって。あれを指摘されたら、ぐうの音もでないよ。だから、…半分は正ちゃんのせいだよ…」
「うわー、敵わないなあ」
「だけど、ママ応援してくれるって。でも、学生だからほどほどにって。だから、いざって時には必ずアレ使いなさいって。…ママも覚えがあるみたいなの…」
「そう…なんだ。ところで、一つお願いがあるんだけど…」
「何?」
祐子がニコニコし乍ら尋ねる。
「その、…祐ちゃんのツインテール姿。…その、すごく可愛いから、その…お写真撮らせて欲しいんだけど…」
祐子は真っ赤になり乍ら、
「…もう、恥ずかしいよ」
「やっぱ、駄目かな…?」
「それじゃあ、交換条件で…」
そう謂うと、祐子は正太郎の耳元で何事かを囁いた。それを聞いた正太郎は驚いて、
「えーっ、其方の方がよっぽど恥ずかしいだろ」
「此の条件じゃないと、撮らせてあげませんよーだ」
「えーっ」
結局、不承不承、正太郎が祐子の条件を飲んで、其の日は祐子の家を辞した。
あくる日、隣町である静岡市葵区の静鉄新静岡駅階上の映画館での事である。凛子はコーラを二つ持って座席に戻った。
「お待たせ。明彦君」
「ああ、ありがとう。凛子さん」
「如何いたしまして。私も喉が渇いていたから…。ところで、何故、あんたが此処にいるのよ。此のハロゲン族。然も、また、横一列に並んでるじゃないの」
「バッキャロー、それは此方のセリフだ。人の行く先々に出没しやがって…。何か、嫌な予感ががしたからさあ、態々、ドリプラを避けて此方に来たのに…。おかげで、川辺町界隈で〆るという、折角のひろみとのデートプランが…ぷぎゃん」
横にいる素っ気無い表情のひろみのバックブローが、顔面に炸裂する。
「ムッキー、ハロゲン族、失礼。人をストーカー呼ばわりして…。ケースケも何か謂ってやって」
敬介は円らな瞳をニコニコさせ乍ら、いずなの言葉とは裏腹に、別の事を謂った。
「おお、そう謂えば、正太。あの、『24の点問題』、出来無い事を証明したんだってな。まあ、謎の数学者が失血死する前に解けて良かったぜ。やっぱ、スゲーよ、お前ら」
「俺じゃないよ。例によって、祐ちゃんの独壇場。見ていて感動したよ」
「ムッキー、本当なの? ゆうちん」
「えっ、マジなの、祐子」
いずなと凛子も驚く。其処で、祐子がチェス盤の話と証明を簡単に説明した。
「ムッキー、すごいね、ゆうちん。ちょっと感動物だよ」
と、いずなが謂えば、明彦も、
「成程な、偶奇性っていうのか? 祐子ちゃんに、数学で勝てない訳だよ…」
高志が透かさず突っ込む。
「あのなあ、抑々、数学だけじゃねーだろ。英語、物理、化学、現国…。枚挙に暇が無いとは、此の事だぞ」
「喧しい!」
明彦が吼える。其の後で、高志が自嘲気味に、残念そうに呟く。
「俺さあ、家でやった時に、×の位置をいろいろ変えたって謂ったじゃん。其の時、思ったんだ。出来無い時の×の位置が、市松模様になるなあって…」
「なんでそれで、其の時、証明出来ないんだよ。随分と間抜けな話だな…」
正太郎がニヤニヤし乍ら、透かさず突っ込む。
「喧しい。チェス盤に気が付き乍ら、証明出来無かったお前に、謂われたくねえ」
「だから、意図してチェス盤に、気が付いてた訳じゃねーよ」
祐子は喜色満面の笑みを浮かべている。
「本当にすごいね。祐ちん。ところで、其の髪型、如何したの?」
「…うん。髪がちょっと長くなって、襟足が気になるもんで…、此の髪型にしたの。そしたら、正ちゃんがエラく気に入っちゃって、写真撮らせて欲しいって謂うの。だから交換条件で此れ撮っちゃった。えへへ…」
声を潜めて、そう謂い乍ら、スマホの待ち受け画面を見せた。いずなは訝り乍ら、覗き込む。それはお互いにベッドの端に腰掛け、キスをしている。如何にも清い交際の様なツーショット写真であるが、かなり、熱烈でもある。
「ムキ? ムッキッキー! ゆうちんやったね。て謂うか、かなり羨ましい。良いなあ。いずなもケースケ君に頼んで撮ってもらおうかな…」
其の時、いずなと祐子の秘密の会話など、知る由も無い正太郎が謂った。
「祐ちゃん。飲み物を買って来るよ。何が良い?」
「待って、正ちゃん。私も行くから。いずなちゃん、スマホ、後から返してね」
二人は売店に向かって歩いて行った。其の後姿を眺めていたひろみが訝しげに謂った。
「ねえ、先刻から気になっていたんだけど、祐子のあの髪型、何かあったの? 確かにすごくかわいいんだけど、あれじゃあ、中学生っていうか、健康優良児の小学生じゃないの…」
先刻から喋りたくて、うずうずしていたいずなが説明を始めた。最近、同じクラスのヤスベエの影響を、如実に受けている模様である。
「何でも、昨日、あの髪型の祐ちんを見て、正ちん、完全に魅惑されちゃったんだって。もう、メロメロみたい。祐ちんも、当面、あの髪型で攻勢に出るみたいだよ。ムキー」
「ふーん…。ねえ、高志。正太って、ロリコン属性なんて、あったっけか?」
「ある訳ねーだろ。あんな、爆乳娘と付き合っていて…」
「でもさあ、最近のアニメだと、ロリ巨乳ってのが流行っているらしいじゃないの。ねえ、そうなんでしょ? いずな」
「そうだよ。最近のアニメ、おっぱい星人ばっかだよ」
「まあ、正太がロリって事はまず無えな。それより、俺や敬介の方がやばいだろ。それぞれの彼女を見るに、此の胸を見た連中は100%、俺達の事をロリだと思うぞ。特に敬介に到っては、ロリコンの謗りは免れねえ。だから、ひろみ。お前は祐子ちゃんの髪型の真似だけはするなよ。座敷童子か何かと間違われ…ふげっ」
「なんてえ事、謂うのよ。此のとんちき」
本日、2発目のバックブローが炸裂した。いずなも、
「ムッキー、ハロゲン族、失礼」
「然し、何だかんだ謂っても、正太もぞっこんよね」
凛子が褪めた面持ちで付け加えれば、いずながにやにやし乍ら、
「ムッキー、それなんだけど、此のスマホ…」
そう謂い乍ら凛子に、祐子のスマホを渡す。凛子はスマホを手に取るも、スリープ機能が働いている。
「何よ、スリープで、見れないじゃない…」
「ムキキ、パスコードは多分、『0914』、正ちんの誕生日」
凛子が半信半疑で入れてみると、
「あ、本当だ。…って、何よ、これ?」
敬介と明彦が覗き込む。
「うわあ。強烈だなあ」
「…あいつらの、何処が奥手なんだよ…」
横のひろみに手渡す。
「うわー、祐子もやるわね」
「な、な、なんだ此れは? 然も、正太の右手、如何見ても祐子ちゃんのおっぱい触ってるぞ。羨まし過ぎるだろ。こんなん」
其処へ、正太郎と祐子が手を繋ぎ乍ら、戻って来た。如何にも恋人達らしく、頗る仲睦まじい。正太郎は着席すると、徐に、ダイエットコーラを啜りだしたが、高志が息巻いて、件のスマホを正太郎の鼻先に突きつけ乍ら叫んだ。
「やい、正太、なんてえ事しやがる。此の巨乳マニアめ!」
「?」
正太郎はスマホの画面を一瞥するなり、コーラを鼻から噴き出し、ゲホゲホと激しく咽ている。
「ゆ、祐ちゃん、ひどいよ。みんなに見せるなんて…。折角、誰にも見られずに隠し通す事が出来れば、想いが成就するとか謂う、謎の都市伝説があったのに…」
高志が真っ青な顔で口を挟む。
「うわっ、あぶねーな、正太。それ、都市伝説なんかじゃなくて、唯のスクイズじゃねーか。連載終了させるつもりか?」
凛子もすかさず口を挟む。
「やっぱり、嘘だったんじゃないですか。中にだあれもいませんよ…」
「うわあ、凛子さん。お止めなさいってば…」
明彦も、余りに危険なネタの披露にオロオロし乍ら、狼狽える。
「ムッキー、正ちん。危ないネタを責めるねー。でも、意外と皆、アニメみてるよねー。いずな、ちょっと驚き。まあ、かなり、カルトな路線だけど…。最終的には打ち切りになった上に、ナイスボートになっちゃうんだよ」
ひろみが渋い顔して、
「全く、悪趣味ねえ。まあ、確かに、未だにネットでナイスボートって打ち込むと、ヒットするもんね」
「もう、いずなちゃんたら、みんなに見せて…」
然し、肩を竦め乍らも、意外と冷静な祐子。恰も、いずながみんなに見せる事は織り込み済みの様である。まあ、当然の事乍ら、確信犯なのではあるが…。
其の後、みんなの追及により、正太郎は、祐子がツインテールのニコニコ顔で、Vサインしている画像を待ち受けに使っている事が判明するに及んで、散々、みんなにからかわれた上に、挙句の果てに、ロリ認定されたとの事だった。全く以って、難儀な事である。
秋風に誘われて、正太郎と祐子は清水縦断のサイクリングに出掛けた。今迄、余り、詳らかにされなかった清水の街の構造や歴史、そして、其の先で巡り合う意外な人物とは? 次回、『第22話 世界遺産を歩く』。お楽しみに。




