第2話 桜の花の満開の下で
翌日は、昨日と打って変わって、実に春らしく麗らかな日和であった。桜南風とも謂える、暖かなそよ風に誘われて、桜も一気に満開になった様子だった。今日から既に通常の授業が始まる。祐子は、昨日と異なり、自転車だった。
「正ちゃん。今日はいないかな」
祐子は、渋川橋東の交差点で信号を二、三回程やり過ごしたが、正太郎は現れなかった。正太郎の家は新幹線のガードの横に見えているマンションであるが、正太郎の姿は一向に現れそうに無かった。やがて、祐子は諦めると、学校に向かって自転車を漕ぎだした。教室に入り着席した祐子は、正太郎の座席を見つめた。矢張り、未だ登校していないらしい。
「おーすっ」
高志が入って来た。祐子は心配そうに、高志に話し掛けた。
「あっ。岡本さん。正ちゃんが、未だ、来ていないの」
「えっ。もう、始業5分前だぜ。昨日、あのあと何かあったのか?」
「ううん。普通に帰ったと思うよ。夜だって、メールも来たし」
高志がニヤニヤし乍ら、
「へー、メールがね。なかなかやるね。正の字も」
祐子が真っ赤になり乍ら、
「ううん。唯のメールだったよ。おやすみなさいって」
「そうか。だったら、其の内、来んだろ。まさか、また、赤灯台から飛び込んだんじゃ無いだろうな?」
「ううん。それは無いと思う。まだ4月だし」
そのうち、昨日、早速、『薬缶』という渾名を高志に密かに付けられた、きれいに頭が禿げ上がった担任が入って来た。そして、開始を告げる予鈴が、鳴り終わるや否や、正太郎が飛び込んで来た。
「ぎりぎりセーフ!」
「アウトじゃ。ばかもん!」
パチーン。出席簿で思い切り頭をはたかれていた。
正太郎が、高校の最初の授業でまず驚いたのは、授業のレベルの高さであった。高校入学前に教科書の配布時に、数学Ⅰの教科書を渡されたのであるが、数学Ⅰは事前に各自終わらせておき、4月より数学ⅡBから始めると謂うのだ。正太郎は、此れは、出来が悪い上に、甚だ性質の良くない、悪い冗談だと受け止めた。然し、今日の授業で此れは、冗談どころではない。甚だ性質の良ろしくない、悪夢の様な現実である事を、改めて思い知る羽目になったのである。薬缶の説明に因れば、本来は、今日から数学ⅡBを始めたかったのであるが、一部の不心得者の生徒が、春休み中に数学Ⅰを終わらせてこなかったせいであると、声高に謂い募り、4月中に数学Ⅰを終了し、来月からは予定通り数学ⅡBに進むとの事で、従って、来月の中間テストの範囲は数学Ⅰの全範囲であると、甚だ理不尽な上に悪魔すらも腰を抜かしそうな予告をして行ったのだ。一体、何処の世界に教科書一冊分、丸々自習させる学校があると謂うのだ。更に、閉口したのが、其の授業時間である。清水高校の授業時間は65分である。中学校が50分であった事を思えば、如何しても、其の長さに馴染め無い。もうそろそろ終わりだと思って時計を見ても、未だ20分以上時間がある勘定になるのである。
(えらい処へ入学してしまった…。)
誰しもが、そんな思いを抱いた事だろう。放課後、祐子と高志が昨日に続き、練習場である講堂に行くと、正太郎がガックリと項垂れて、凹んでいた。
「一体、如何したの? 正ちゃん。心配したんだよ」
「うう。祐子か。寝坊したんだよ。くそっ。初日から遅刻がついた…」
ひろみが此方の方を振り返り乍ら謂った。
「全く、何やってるのよ。噂だと学期中に遅刻3回で父兄呼び出しって話よ」
「マジ?」
「ああ。大マジだ」
そう言い乍ら、後ろから、正太郎をブラスに引きずり込んだ二年生で次期吹奏楽部の部長である村木先輩がやってきた。
「よう。高野。久しぶり。初日から大活躍だな。まあ、うちの学校は勉強さえやっていれば、生活指導はゆるゆるだからな。其の代り、勉強が出来ねーときついぞ。情け容赦なく、赤点食らうからな」
「克彦さんも食らったんですか?」
「バーカ。食らうかよ。でも、お前も知ってる、二年先輩のヨッタカさん。あの人。九つも赤点食らってな。なんとか、卒業できたけど…。赤点って通信簿の1の事なんだが、本当に1だけ赤い文字なんだよ。俺もヨッタカさんの通信簿見せてもらったけど、本当に二色刷りなんだよ。『赤尾の豆単』みたかったぜ」
「赤点だと、如何なるんですか?」
「成績は10段階で、2以下は補習。赤点はプラス追試があって、合格すると1を二本線で訂正して2にしてくれる」
「赤点の儘だと…?」
「当然、進級(卒業)出来ねー。所謂、留年って奴だ」
「…マジかよ」
「うちの学校は特進科も含めて360人位いるが、特に300番台のことを『はなみち』と謂う。はなみちは赤点危険水域だ。中間・期末等の各教科学年成績上位50名の氏名が張り出されるのはよその学校と同じだが、はなみちも全員氏名と点数が張り出されるぞ。お前らも気をつけろよな」
「えーっ」
克彦さんは笑い乍ら行ってしまった。正太郎は今の話に怖気づいてしまったのか、
「くっそーっ。本当かな今の話。もう、遅刻なんて如何でも良く成って来た。心して掛からなければアブねーな…」
ひろみが叫んだ。
「如何でも良くなんか無いわよ。馬鹿じゃないの。そうだ、祐子。あんた、近所なんでしょ。毎朝、起こしに行ってあげたら如何なの?」
「えーっ。それは、…ちょっと。…恥ずかしいし」
祐子は真っ赤になり乍ら、小声で答えた。隣で、いずなも頭を抱えて凹んでいる。高志はいずなに声をかけた。
「おっ。どーした? いずな。お前も遅刻か? それとも、今の話にびびったか?」
ひろみが謂った。
「ばかねえ。いずなはね、あんなんだけど清水中学開校以来の天才少女として、近隣でも有名だったわよ。全科目満点を2回程やってのけたとか、何でも、『神武以来の天才』とか、呼ばれていたわよ。そんな心配はいらないわよ」
「『神武以来の天才』だあ…? まさか、得意戦法は棒銀ってんじゃないだろうな? それじゃあ、なんで凹んでんだよ。お前も遅刻か? 其れとも、…」
高志は徐にひろみの耳に顔を近づけ、声を潜めて、
「…今日は女の子か?」
ひろみは真っ赤になり乍ら、
「乙女に対して、何てえ事、謂うのよ! 正拳突き食らわすわよ」
「うわっ。待て待て。じゃあ、如何したんだよ」
祐子が困ったように、穏やかな微笑を浮かべて、
「ケモ耳の付け耳とけも尻尾。先生に没収されちゃったんだって…」
いずなは悲しさが頂点に達してしまったのだろう。しくしくと泣き出してしまった。見かねた祐子が、
「ねえ。いずなちゃん。今から職員室に行って、先生に謝って返してもらおうよ。私も一緒に行ってあげるから…」
全員が、いずなの肩を、優しげに抱いた祐子達の後姿を唖然とし乍ら見送っている時に、後ろから声を掛けられた。
「新入部員の方ですか?」
高志が振り返り乍ら、
「そーすけど。あんたらは? いや、失礼。皆さんは?」
そこには三人。一人は身長170㎝位、黒縁の眼鏡に折り目正しく、鹿爪らしい、如何にも頭が良さげな風貌の学生。彼が、
「失礼。僕は付属中からきました滝明彦です。クラスは5組です」
「げっ。5組って。特進科かよ」
「ええ。まあ」
続いて、女性。身長175㎝はあろうか、えらく、美しくスタイルの良い子だ。将に、雲鬢花顔の例えもあるが、端麗な百合の如き、凛とした容姿。切れ長の目で、其れでいて瞳もかなり大きく、クールである。其の上、かなりの、美人でもある。更に、胸も祐子程ではないが、適度に大きい。C、いやDカップ位か? 髪はボブカットで赤い大きなカチューシャをして、大きな蜻蛉眼鏡を掛けている。
「私は有度中出身。如月凛子、ホルンをやっていました。よろしくね。クラスは8組です」
三人目は身長163㎝位。男としてはかなり小柄な方だ。頭の後ろで手を組んでおり、よく動く円らな瞳は、如何にも、すばしっこそうな印象を与える。
「俺は庵原一中。今井敬介。中学時代は野球部だよ。だから、全くの素人。よろしくな。あー、クラスは1組」
高志が驚いた様に、
「今井か? 庵原一中の? 何でお前がこんな処にいるんだよ? 俺だよ。興津一中の岡本だよ」
「わあっ。びっくりした。あっ本当だ。岡本だ。お前こそ何やってんだ? 肩でも壊したのか? 変な投げ方だったもんなあ」
「うるせー。ほっとけ。ちょっと訳ありなんだよ」
「此方も、此の身長だし、スポーツじゃ大成しそうにないからな。中学で廃業だ。ところで、新入部員は此れで全部か?」
「ああ。俺の知っている限りではな。いや、待て。今、二人ほど、職員室にお詫びに行っている」
「何だあ。初日から、何をやらかした?」
「まあ。いろいろあんだよ。やらかしったって謂うのなら、此奴もだ。初日から遅刻で、『薬缶』に目をつけられている」
高志が左手で親指を突き出し、肩越しに振り乍ら答えた。
「なんだとー」
倉皇としている内に、祐子といずなが帰ってきた。特にいずなは、満面の笑みを浮かべ、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。無事、交渉、もとい謝罪が成功したに違いない。
「おい。岡本。あのちっこい子、かわいいな。あの子達も新入部員か?」
「ああ。お前がちっこい謂うな。ちっこい方は小泉菜月。通称いずな。清水中の不思議ちゃんだ。得意戦法は棒銀だそうだ」
「…?」
「でもって、巨乳ちゃんの方は山本祐子。遅刻の先生の彼女だから、手え出すなよ。なんでも、暴食の名を持つ七つの大罪の一人だ」
「あんたは、先刻から。腕、へし折るわよ!」
ひろみが高志の腕を後ろ手に捻り上げ叫んだ。と、同時に、正太郎が、
「良いぞ。やれ、ひろみ。俺が許す!」
「わーっ。いたた…。待て。悪かった。冗談だ!」
「何だか分からんが、面白そうな部だな。気に入った。入部するよ」
騒動が静まった後、高志がいずなに話しかけた。
「無事返してもらえたようだな」
「うん。ゆーちんが一緒に謝ってくれて…。でも、聞いてよ。酷いんだよ。学校に持って来ては駄目なんだって」
「当たり前だ。んな事ばっかりやっていると、正の字みたく父兄呼び出しになるぞ」
「正ちん。もう、呼び出し食らったの?」
正太郎は、憮然として答える。
「呼び出されてねーよ。未だ」
部活の終了とともに、高志が紹介を兼ねて、昨日の店に行かないか提案した。全員賛同し、再び、キャトルに集合と相成った。昨日の席に陣取った一同。やはり、男性陣と女性陣とにきれいに分かれた。まず、高志が口火を切った。
「まず、栗色の髪で可愛らしい顔立ちの垂れ目のねーちゃんは、ひろみ。エーと、苗字、何だっけ?」
「稲森よ!」
「そうそう。でも、あの顔にだまされてうっかり近づくと大変だぞ。何しろ、空手と合気道の達人だ。特に空手の方は有段者だ。顎を砕かれるか、腕をへし折られるか…」
「あんたはまた」
ひろみが怒気を含んで立ち上がった。
「わー。待てってば」
一通りの紹介が終わる頃、高志が、
「わーっ。何やってんだ。然も、制服の上から装着しやがって…」
いつの間にか、いずなが付け耳と付け尻尾を装着していた。
「わあ。かわいい。本当にいづなたんみたいだね。キングクリムゾンしちゃうよ」
「でしょ。ゆーちん。でも、此の耳ちょっと『ホロ』っぽいから、こーして耳を隠して町娘に扮して、廓言葉を使えば…」
「主様よ、わっちの名前を謂ってみよ!」
「わあ。ホロちゃんだー」
「おい、正の字。あいつら、何、謂ってんだ」
正太郎は頬杖を突いて、そっぽを向き乍ら答えた。
「ほっとけ。とあるアニメのネタ語りだ。それも複数絡めてやがる。唯のマニアの会話だ。聞き流せ」
「おいちょっと待て。正の字。お前、今。かなり正確に状況を把握しているよな。ひょっとして、お前もそっち側の人間か?」
「ぎっくぅ!」
「ハハハ。祐子ちゃん。良かったな。正の字も相当な趣味人らしいぞ」
一方、女子卓では、ひろみが声を潜めて、
「私、思うんだけど。どーもあの三人は同じ匂いがするのよね。芸風が被るって謂うか…」
「あの三人って」
「高志、正太郎、敬介の三人。馬鹿の匂いしかしないもの。三馬鹿大将ね。祐子には悪いけど」
其処で、凛子が口を挟んだ。
「ううん。多分、あの眼鏡も同じ。女のカンよ」
其の頃、いずなは祐子に向かってお礼を謂っていた。
「ゆーちん。先刻は、本当にありがとう」
「どういたしまして。大切なアニ友だもの。当然だよ。ねえ。一つ聞いていい?」
「いいよー」
「なんで、いずなちゃんは、特進科にしなかったの?」
頬杖を突いて、知的な微笑を浮かべるいずなは、急に25歳位になったように見えた。声色も今まで聞いていた声とは別人のようだった。
「祐子ちゃんこそ? 何で特進科にしなかったの? 内申は余裕だったんでしょ?」
「私は、…その、…正ちゃんが…普通科だから…」
「恋は良いよね。私も同じ」
「えっ。いずなちゃんも誰か好きな人が?」
「ううん。好きな人はいないよ。でも、高校に入ったら恋もしてみたいと思ったし、一杯遊びたいとも思ったよ。アニメも一杯見たいし、何よりも、お友達が欲しかった」
「うん」
「私ね、中学校の時は、ひとりも友達がいなかったの。天才少女とか、変人とか謂われて、すごく悲しかった。何よりも孤独がいやだった。でも、孤独だけが、私の友達だった」
「うん。私もそうだった」
「特進科にいったら、私の行動、立ち居振る舞い、全てが足枷になると思う。中学校時代以上に浮く自信があるわ。結果、学校に行かなくなるか、退学になるかのどちらかに違いないと思うわ」
黙々と、話を聞いていた祐子の瞳から、一筋の涙が溢れた。祐子がいずなと共感したのは、何もアニメ好きな部分だけでは無い。同じ匂いというか、形単影隻の気配を感じていたからに他ならない。祐子は毅然としていずなに謂った。
「そんな事にはさせないよ。絶対に」
「ありがとう。祐子ちゃん何かコナン君みたいだね」
「私の居場所には、正ちゃんだけでなく、いずなちゃんもいるんだから。此の居場所だけは絶対に守る。私は昨日お家で涙がでてきちゃったの。正ちゃんの事だけじゃない。素敵な友達が出来た事がうれしくて」
祐子は続けた。
「孤独って本当に…つらいよね」
「うん」
いずなの双眸から二筋の雫が流れていた。懸命に平静を装いつつ、いずなが謂った。
「私の為に…泣いてくれた人。…初めてなの。…本当にありがと」
祐子といずなは二人して化粧室に行った。
一方男子卓では、多少、深刻な女子卓の会話と違い、能天気な会話に終始していた。敬介が高志に向かって。
「いや、やっぱり、いずなちゃんだっけか。かわいいわ」
「おまえ、ああ謂うのがタイプか? 顔はともかく、胸はペッタンコだし、体型は、略、幼女だぞ。二人で街を歩いていたら、かなりの高確率で、おまわりの職質を受けるレベルだぞ」
「いや。でも、かわいいよ。彼氏いるのかなあ?」
「わかった。其のうち調べておく」
「おお。兄貴」
「でっ。眼鏡の旦那は?」
「誰が眼鏡の旦那だ? 失礼。僕は、やっぱり凛子さんですかね。あのスタイルは高校生離れしてますよ。知的な処も、又、いい」
「旦那。ムッツリーニですか」
「…うるさい」
「大体。此の学校に進学してくる女子で、知的で無いのがいるのかよ。いずなだって、最初は馬鹿っぽいと思ったけど、ひろみの話だと、清水中の天才少女だとか何とか」
「神武以来の天才…。まさか、あいつだったのか?」
「それは、頭の禿たおじいちゃんだろ。棒銀が得意な」
「いや、違う。其方じゃない。付属中でも有名だったんだ。中学3年の業者テスト。偉く難易度が高かったんだが、特に英語。全国でも二十数人しか、満点がいなかったらしいが。県内では2人もいたそうだぜ。小泉と如月だよ」
「マジかよ。なんで特進科にしなかったんだ。あいつら」
と、敬介。
「いろいろ事情があったんだろ。驚くにはあたらねーや。大体、そんなのの集まりだろう。此の学校は。此のメンバーにしても、偉く、洽覧深識な連中ばかりじゃねーか。祐子ちゃんにしても、見た目以上に、頭が切れるぜ。昨日、ちょっとした詐略でよ、此処にいる正の字を嵌めて、秘密を炙り出していたし…」
「なっ。お前、それを知っていて、先刻の茶番は…」
高志はニヤリとして、ぺろっと舌を出した。滝は納得した様に、深く頷いた。
「成程な。面白い。俺も此処に入るよ。退屈しないで済みそうだ。処で、付属中で話題になっていた、他校の有名人を教えてやるよ。英語全国模試満点の清水中の小泉、有度中の如月。国語及び社会が全国模試満点の江尻中の高野。全国模試主要5科目県内8位の江尻中の山本。そして、全国模試主要5科目県内4位の興津一中の岡本。こんな博識多才な有名人達と一緒に青春時代を送れるのは光栄の至りってもんだ。とぼけているようだが、岡本君。あんたも相当に、有名人だぜ」
高志が頬杖を付き乍ら、まるで、そんな話柄には、全く興味無さそうに謂った。
「…そりゃ、どーも」
祐子といずなが化粧室から戻って来た。二人ともすっかりいつもどおりに戻っていた。ひろみと正太郎が、心配そうに声を掛けた。
「ちょっと大丈夫? 二人とも、何か様子が変だったから…」
いずながいつもどおりの口調で、
「心配掛けてごめんね。ひろみっち。ちょっと気持ち悪くなっちゃって。ゆうちんが介抱してくれたの。でも、もう大丈夫」
「そう。ならいいけど。無理しないでね。若し、具合が悪かったら、何時でも謂ってね」
いずなは表情こそ、にこやかな笑みを浮かべた儘であったが、内心では、ひろみの誠意溢れる優しい言葉に、懸命に零れそうになる涙を堪えていた。
「大丈夫? 祐子。先刻、いずなと話している頃から、その…何か様子がおかしかったから」
「ううん。大丈夫。心配掛けてごめんね」
(此の人、泣いている私を見てずっと気に掛けてくれていたんだ。ごめんね。正ちゃん)
「そう。なら良いけど」
微妙な雰囲気になりかけた処へ、感良く高志がラインとメアド交換の話を切り出した。
「ところでさあ、昨日俺達も交換したんだけど…」
「良いわよ」
「良いぜ」
「あっ、じゃあ俺も」
「ところで何なの。このライン名。『ボストン茶会事件』って」
訝る凛子に、ひろみが得意気に答える。
「良いでしょ。私が考えたの」
「うん。洒落が利いていて、面白いわ」
突然、祐子の携帯メールの着信音がなった。メール送信者は正太郎だった。
「えっ」
『もし、心配事があったら、何でも相談しろよ』
メールを見た祐子は、懸命に涙をこらえていたのだが、そのうち、肩を振るわせ始めた。驚いたのは、正太郎といずなである。異変を見て取ったいずなが祐子の肩を抱き乍ら化粧室に駆け込んだ。正太郎は祐子が心配なあまり、すぐにメールを送信してしまったが、正太郎はTPOを誤った事を後悔していた。そのとき、いずなからメールが来た。
『祐子は大丈夫だから心配しないで、落ち着いたら出て行って、私がうまく誤魔化すから。迷惑掛けてごめんね』
『すまん。いずな。祐子をよろしく頼む』
凛子は天性の観察者であった。今日の一連の出来事を冷静に観察していた。祐子といずなの会話も概ね理解していた。そして、祐子といずなの遣る瀬無い孤独も、頗る理解できた。いや、共感出来たと言って良いだろう。凛子のクールなキャラクターは、孤独に対しての精一杯の抵抗であり、無理解な周囲に対する反発でもあった。凛子は自分と似た境遇の彼女達の中に自分の居場所を見出していた。
「面白いわね。あんた達。私も此の部に決めたわ。どれ、ちょっと様子を見て来るわね」
ひろみが叫んだ。
「ちょっと、如何謂う事?」
高志が大儀そうに答えた。
「良いから。良いから。此処は、有度中のクールビューティーに任せようぜ」
数分後、三人は何事も無かった様に出て来た。にこやかに笑い乍ら…。店内ではボズスギャックスの名曲ウイ・アー・オール・アローンの優しく穏やかな旋律が流れていた。
祐子が家に帰るのと略同時にいずなからメールが着信した。
『祐子ちゃん。今日は本当にありがとう。私の嬉しかった気持ちを、思い出に残したかったから、メールに認めました。いつまでもいいお友達でいてください。正太郎君との事もうまくいくといいね。応援しています』
祐子は目頭が熱くなってくるのを感じた。
(私、なんか、高校に入学して以来、泣いてばっかりだ)
『お礼を言うのは私の方だよ。私もいずなちゃんの気持ちは良く分かるよ。私も友達と謂える人が殆どいなかったもの。こんな私でよければ、お友達になってください』
そして、ラインで、
『今日はご心配を掛けてすみませんでした。明日からよろしくね。 ―祐子』
またたく間に、全員の既読がついた。そして、暖かいといえるかどうか不明であるが応援のラインが次々と到着した。
『心配事があるなら直ぐ謂えよ。幼馴染だろ。 ―正太郎』
『誰だって、バランスを崩す事はあるわよ。ガンバ! ―凛子』
『おっ。ボストンティーパーティー初稼動だな。何か心配事あるなら正の字が相談しろっていってたぞ。じゃあな。 ―高志』
『いずなだよ。今度ゆうちんのおうち遊びに行っていい? ―いずな』
『いずなが行くなら、俺も行くぞ。 ―敬介』
『ちょっと、あんたたち、祐子の家を何だと思ってるの。でも、何かあったら、あたしにも相談してよね。友達でしょ。 ―ひろみ』
『滝だ。まだ、今日一日の付き合いだが、みんな良い奴だと思ったぞ。不安があったら相談しろ。絶対、誰かが助けてくれる。とりあえず、中間テストで勝負だ。山本。 ―明彦』
最初の日曜日、定期演奏会の間近であるものの、部活は休みであった。其の日は、実に春らしい麗らかな日和で、将に、春風駘蕩の春めいた陽気であった。嫩草の嫋やかなる薫りと、新緑の芽吹く香りが、哀しい程に、芳しい。正太郎は青いセーターにジーンズ姿、スニーカーを履いて渋川橋の方へ向かって歩いていた。特段、何処行く当ても無かった。強いて当てを探すとすれば、唯の散歩である。正太郎の家は江尻中学の学区の、最も外れにある。新幹線と巴川が交差する地点の横の集合住宅が、其れである。新幹線を北に越えれば、高部中学学区。巴川を西に渡れば、入江中学学区。江尻中学校が、駅の比較的傍である事を鑑みれば、中学校からは、かなり遠くに自宅がある事になる。祐子の家にしても、そうなのであるが、小中高の位置関係を比較すれば、高校が一番近いと謂えるだろう。
扨、正太郎は先程も述べたように、麗らかな春の陽気に誘われただけであった。当初は巴川を上流方向に向かって、即ち、新幹線高架を北に越え、高部中学学区の方へ踏み出そうと考えていた。子供の時分に、此の季節、近所の子供達と良く土筆を取りに行った散歩道であり、懐かしくもある。そんな時、何時だって祐子が傍にいたものだった。そして、門を出た時に、俄かに考えを変えた。正太郎は身を翻すと渋川橋の方へ向かって歩いて行った。正太郎は、何故か祐子に会いたくなったのだ。恐らく、先程の連想が影響しているのであろう。渋川橋の袂の狭い道を、下流方向に下ればすぐに祐子の家である。然し、渋川橋の袂迄来た時に、正太郎は、少々、困惑した。祐子の家を訪問する事に、俄かに気後れしたのだった。祐子の家を訪問したのは、小学校時代が最後である。此の3年間の無沙汰が、思いのほか正太郎を掣肘する。此れが幼稚園の頃ならば、祐子の家に行って、『祐子ちゃん、あーそーぼ』で、済んだ話だし、小学校の頃でも、『おい、祐子。遊びに行こうぜ』で、済んだ話なのだ。何と無く、祐子の家の方迄来れば、祐子に会えるのじゃないかと謂う、思春期特有の幻想。ほら、皆さんにも覚えがあるのではあるまいか? 何となく、好きな子の家の傍迄、行って見る。ばったり会うんじゃないかと謂う、あの妄想。あれである。正太郎は渋川橋の橋の欄干に手を掛け、ぼんやりと下流方向を眺めた。爽やかな卯月の風は、軽く彼の鼻腔を擽った。麗らかな春の陽射しの中、巴川の川面はキラキラと輝き乍ら悠然と横たわり、目の前には祐子の自宅が見える。垣根の向こうには、白い花水木が見事な花を咲かせており、昔の儘であれば、2階の白いカーテンが掛かった部屋が、祐子の部屋である筈であった。然し、白いカーテンは閉じた儘である。或いは、祐子は家に居ないのかもしれない。
一体に、此の辺りの巴川中流域は、木材産業が盛んであった。此処から、下流に向かっての川沿いや、上流の川沿いには、大掛かりな合板工場や、貯木場や、材木置き場が、所狭しと犇いていた。海抜差が少ない、巴川の地勢構造上、巴川は川と謂うよりも運河に近く、過去の巴川の氾濫の名残である、沼地や三日月湖が数多、点在していた。そして、其れらは、貯木場や合板工場に姿を変えた。尤も、これも昭和の時代迄の話である。祐子の家は祖父の代迄は、中堅の材木問屋であり、合板工場も営んでいた。然し、昭和の後期、祖父の代に、海外の輸入ラワン合板の勢いに抗えず、本業である木材・合板部門を売却し、雑貨輸入に軸足をシフトした。暫くは、高級家具の輸入が主力品目であったが、祐子の祖父は、昭和末期の海外ボードゲームの小さなブームに目をつけ、此れを輸入した。此れが、折からの円高も追い風となり当った。爆発的な大ヒットとは行かなかったものの、いつしか、静岡県内に海外ボードゲーム専門店、数店舗を展開するまでになっていたのだ。やがて、時代は平成に移ると、家庭用ゲーム機が普及し始め、ボードゲームは見る見るうちに廃れていってしまった。其の頃には、祐子の父に代替わりしていた。祐子の父親は婿養子であり、理系出身のコンピュータープログラミングに長けた人物だった。祐子の父は、海外有名ボードゲームの幾つかをPCゲームへの移植を試みた。さらに、其のうちの幾つかを、家庭用ゲーム機に移植した。此れが売れた。国内の海外ボードゲームファンには、熱狂的なファンが多いのだが、いつも苦労するのが、其の対戦相手の確保である。祐子の父親は、其処に目をつけた。これも、父親自身がボードゲームファンだったからかもしれない。祐子の家の家業は、何時しか、輸入商社、ボードゲーム販売からゲームソフト開発へと、其の軸足をシフトしていた。やがて、時代は移り、平成も終わり近くになると、ゲームもDLが一般的となったが、其の頃には、ゲーム開発だけでなくIT関連会社へと変貌していた。祐子の祖父の時代、宮崎県宮崎市北部の佐土原に買い取った広大な土地があった。広さ2千㎡程である。元々、植林用地として二束三文で買い取ったのだが、昭和の終わりには不良債権化していた。然し、祐子の父は此の土地が割りと都合が良い事に気がついたのだ。宮崎空港は、宮崎平野を流れる大淀川河口部付近に位置するのだが、空港にJRが直接乗り入れており、アクセスの利便性は九州の空港の中でも有数である。恐らく、空港駅から佐土原駅まで30分程度であろう。然も、此の地の気候は静岡に似て温暖な気候である。此処に巨大サーバーと開発室の施設を建設し、レンタルサーバーも業務として、安定的な収益を上げるべく事業を開始した。そして、社名も、有限会社山本祐三商店から、鹿爪らしい、株式会社清水インフォメーション・テクノロジー・ディベロップメント・サービスと改名したのも、此の頃だったと謂う。正太郎は以前祐子から聞いた、そんな話を思い出したりしていた。
扨、祐子は、朝食後、居間で紅茶を飲んだ後、自室にあがって行った。父親は件の佐土原の開発室へ出張していて、不在だった。祐子はカーテンを大きく開け、窓を開くと、春の柔らかな風と水の香りと共に、視界に飛び込んだのは、悠然と流れる巴川と、渋川橋の橋の上で、川面に目を落としつつ、無聊を託つ正太郎の姿であった。
(えっ)
祐子は、一瞬驚くも、すぐさま大声で叫んだ。
「正ちゃん!」
祐子の声は、向こう岸の河岸の堤防に跳ね返り反響した。正太郎は向こう岸、即ち、西岸である渋川方向から声がしたと錯覚したのだろう。声の出何処を求めてキョロキョロしている。祐子は正太郎の、そんな狼狽振りがちょっと可笑しかったが、又、大声をはりあげた。
「正ちゃーん。何してるの?」
正太郎は漸く気がついた。先刻まで、白いカーテンにより遮られていた、祐子の家の2階の窓は、何時しか全開となり、ベランダには、白いブラウス姿でデニムのスカートをはいた、丸っこい体型の祐子がニコニコし乍ら身を乗り出して、大きく手を振っている。正太郎は笑って、右手を大きく振ると、祐子に声を掛けた。
「おはよう。祐子」
それに対して、祐子は、
「ちょっと待ってー。すぐ行くから…」
祐子は、そう叫ぶや否や、桃色のカーデガンを羽織り、ピンクのデイパックの中に、財布と携帯とカメラを放り込むと、自室を飛び出し、階段を一足飛びに駆け下りていった。祐子の慌てぶりに、驚いた母親が階下で声を掛けた。
「あら、祐ちゃん。如何かしたの?」
「あっ、ママ。ちょっと、お散歩に行ってくるね」
祐子はそう謂うと、洗面所に飛び込むと髪のブローを5秒で仕上げ、玄関に飛び降り、スニーカーを突っ掛け、謂った。
「じゃあ、ママ、行って来るね」
「はいはい」
母親はニコニコし乍ら、推察した。
(如何したのかしら? 窓から正ちゃんでも、見掛けたのかしら)
正しく、完全に母親が洞察した通りである。祐子はウサギの様に玄関を飛び出すと、花水木の白い花影の下を、手を振り乍ら、正太郎の待つ渋川橋に、小走りに駆けて行った。
「正ちゃーん。おはよう」
「あっ、祐子…、おはよう」
「一体、如何したの? 日曜日の朝から」
「うん。すごく天気が良くて、暖かだったから…。散歩に。祐子は?」
「じゃあ、私も散歩。…良いでしょ?」
正太郎は顔を赤らめ乍ら、謂った。
「…うん」
「ところで、正ちゃん。お散歩は何処へ行く心算だったの?」
「特に当てはないよ。最初は巴川上流に行こうと思ったけど…。大沢川にしようと思ってさ」
正太郎は、此処でちょっと嘘を付いた。嘘と謂うより、出任せである。大沢川と謂うのは、祐子の家より、やや下流域で合流する巴川の支流の一つである。巴川を上流方向に進むのなら、渋川橋は通らない。正太郎は、まさか、祐子に会いたくなったとも謂えずに、大沢川を持ち出したのだった。祐子はそんな正太郎には気がつかず、無邪気に、
「よーし、じゃあ、大沢川の上流を目指して出発進行!」
祐子は明るく宣言した。正太郎も祐子の明るさに釣り込まれる様に謂った。
「よーし、南南西に向かって進路を取るぞ」
「おーっ」
祐子も右手を高々と上げて、剽軽に応じた。
二人は渋川橋を渡ると、大曲方面に向かった。やがて、大沢川にぶつかると、川沿いを上流に向かって歩いた。土手には、赤、白、黄、様々な色の花が咲き乱れ、春の訪れを高らかに告げていた。将に春爛漫である。川の反対側には田園が広がり、此の時期には、蓮華のピンク色の花や菫の紫色の花が咲き乱れている。祐子が歩き乍ら、土手の道の傍に咲いている橙色の花を指差し、正太郎に尋ねた。
「ねえ、正ちゃん。此のオレンジの花、何て花かな?」
「ん? どれどれ。あー、此れか。此れはポピーだよ。あるいは、コクリコ。本当は、あと一ヶ月位後に、咲くと思うんだけどなあ、日当たりが良いのかな。日本語では、雛芥子って謂うよ。あと、もう少し、詩的に表現すれば、虞美人草。祐子ちゃんにピッタリの花だ」
祐子は照れて赤くなる。正太郎は祐子の異性を意識しなければ、此の様な歯の浮く様な事も、割と、平気で謂えるのだ。
「へー、これが、虞美人草なんだ。漢楚の戦いの、垓下の歌で有名な虞美人の」
「そう。あと、漱石の作品にもあるよね。雛芥子は芥子の仲間だけど、アヘンとか、麻薬成分が抽出出来無いから、植えても大丈夫だよ。どれ、ちょっと待ってて…」
正太郎はそう謂うと、雛芥子を一本摘むと、祐子のピンクのカーデガンのボタンホールに挿した。祐子は嬉しそうにレンゲ畑を見渡し乍ら謂った。
「あっ、ありがとう。本当に、綺麗な花だね。…でも、何時の間にか、春になっていたんだね。受験って、本当に周りが見え無くなるよね」
「あははは…。学年トップの祐子…ちゃんには、特別な受験勉強は必要無かっただろうに」
此処で、正太郎は、祐子の事を『ちゃんづけ』で呼ぶ事を試みた。特段、深い理由は無かった。然し、呼び捨てというのが、如何にも横柄な印象を与えているのではないかと、少し気になったのだ。もう、小学生時代とは違う。祐子も立派なレディなのだ。それに、小学校時代と較べて、ふくよかに成長した胸を如何しても意識してしまう。正太郎は、慌てて視線を逸らした。祐子は『ちゃんづけ』で呼ぶ正太郎の気遣いが嬉しかったが、正太郎が祐子の胸を意識している事には、多少の嬉しさと共に、恥じらいを感じている。祐子は、はにかみ乍らも正太郎に謂った。
「何、謂ってるの。特別な勉強は、正ちゃんだってしなかったでしょ。内申点は兎も角、学力テストの点数的には、正ちゃんも、悠々、合格圏だった筈だよ。でも、私は受験生と謂うだけで、心に余裕が無かったな。季節の移り変わりを感じる様な余裕は」
「まあ、確かにね」
「そうだ。正ちゃんに聞こうと思っていたの。此の間、渋川橋東の交差点で信号待ちしていたら、すごくいい香りが漂って来て。何だろうと思ったんだけど、分らなかったの。正ちゃんなら分かる?」
「うーん。どんな香りだったの?」
「何か、蘭みたいな臭いだった。かなり、強烈な香りで、信号待ちし乍ら探したのだけど、分からなかったな」
「なんだろうな? 蘭みたいな香りか。沈丁花、蜜柑の花、藤の花、西洋躑躅。どれも、ピンと来ないなあ…。抑々、あの辺りに無いもんなあ。あーっ。分かった」
正太郎は大声で叫び、10メートル程駆け出すと、緑色のフェンスに纏わり着く蔦の様な植物の白い花の臭いを嗅ぐと、祐子を手招きした。祐子は訝り乍らもやって来ると、正太郎が指差す星型の白い花の香りを嗅いでみた。
「あーっ、確かにそうだ。此の香りだった。ねえ、正ちゃん。何て花なの?」
「耶悉茗だよ」
「へえ、此れが耶悉茗なんだ。本当に良い香りだね。耶悉茗って、もっと、温室なんかで栽培されているのかと思ってた」
「そんな事無いよ。元々、熱帯、亜熱帯の植物だけど、静岡は暖かいから、結構、見掛けるよ。先刻、祐子ちゃんの話を聞いた時に、交差点の横の資材置き場のフェンスの向こう側に、咲いているのを思い出したもん。だから、分かったんだよ」
「本当に良い香りだね」
「うん。…そうだ、ちょっと、待ってて」
正太郎はそう謂うと、耶悉茗の花を蔓ごと摘むと、祐子の髪に挿した。耶悉茗の高貴な馥郁たる香りが、シャワーの如く頭の上から降り注がれる。祐子は赤くなり乍ら、慌ててお礼を謂った。
「あっ、ありがとう」
正太郎はニッコリ微笑むと謂った。
「如何いたしまして」
祐子は、嘗て無い幸福感の中に居た。実に麗らかな、甘い薫りの漂う杪春の日和の中、二人はまた、テクテクと歩き出した。勿論、幼馴染の二人である。祐子は、花を摘んでもらった事は、当然、過去にもあった。小学校の頃にはレンゲの髪飾りを作ってもらった事がある。正太郎は意外と手先が器用なのである。でも、此の年頃にあっては意味合いが少し違ってくる。尤も、正太郎は、あの頃と精神的に、何ひとつ変わって無いのかも知れない。祐子は知っている。正太郎は極端な照れ屋なのである。祐子を異性として意識していたのなら、決して先程の様な行動は取らない。いや、取れなかったであろう。彼が、自然にああ謂った行動を取れたのは、子供の頃からの幼馴染としての習慣的な行動の為である。白つめ草で作った冠や、レンゲの髪飾りを髪に挿してあげる、正太郎は祐子がそういった行為を、すごく喜ぶ事を知っていた。そして、正太郎は祐子のそうしたときの遠慮がちに、それでいて、弾けた様な笑顔が大好きだった。そう、ぱあっと開く蓮の花の様とでも、表現すべきなのだろう笑顔が大好きだったのだ。正太郎は右隣を歩いている祐子を見つめた。祐子はおなかの辺で左手で右手首を握り、ニコニコし乍ら歩いている。二人は、一見すると、還暦間近の伉儷の様な仄々とした趣があった。川の蛇行に沿った緩やかなカーブを抜けると、一面、桜の絨毯だった。はらりはらりと桜の花が舞い続けている。正太郎は染井吉野の花を見上げ乍らぼそりと呟いた。
「桜かあ。本当に祐子ちゃんみたいな花だな…」
「…?」
正太郎と祐子との距離が、小学生の頃の様に接近した。祐子の髪からブロウの甘い香りと耶悉茗の高貴な香りが薫った。正太郎はちょっと、祐子の異性を意識し、顔を赤く染めた。正太郎は祐子に話しかけようとしたけど、出来なかった。今、正太郎の中には、無邪気な小学生の頃の正太郎と、思春期の中にあって祐子を異性として意識する正太郎と、二人の人格が同居していた。
正太郎と祐子は、旧国道1号を渡り大沢川と別れ、やがて、旧東海道へ達した。其処で、祐子が謂った。
「ねえ、正ちゃん。ちょっと、寄り道して行っても良い?」
「うん。でも、何処へ?」
「えへへ…。羊羹屋さん」
「ああ、美味しいもんね。彼処」
祐子が謂った羊羹屋さんは、追分羊羹と謂って、清水の代表的銘菓で、モチモチっとした食感が特徴的な羊羹である。然し、旧東海道を歩いていると、思いも掛けない人物に出会った。凛子である。凛子は上下水色のジャージを着て、ジャージの色に合わせた大きな水色のカチューシャをして、旧東海道を清水方面に向かってジョギングをしており、凛子の豊かなバストが上下に揺れていた。祐子が気がついて、慌てて声を掛けた。
「凛子ちゃーん」
凛子も、二人に気がついた。
「あら、祐子。其れに、正太も。一体、如何したの? あんた達?」
「正ちゃんとお散歩に。大沢川の桜を見に来たの」
「あら、いいわね」
「そうだ。凛子ちゃんも一緒に如何?」
「えっ、私は…」
其処へ、遠くから呼ぶ声が聞こえた。
「おーい」
「誰だろう?」
みんなでキョロキョロすると、狐ヶ崎の方から青のTシャツにグレーのハーフパンツで自転車に跨った明彦が、此方に向かってやってくる。
「おーい」
「あっ、明彦君」
「おー明彦。何やってんだ。扨は、凛子をストーキングでも、してたのか?」
「ば、ば、ばかやろ。何て事、謂いやがる。俺は南幹線のマックの前を、凛子が走って行くのが見えたから、追っ掛けただけだ。然し、いくら、此方が信号待ちとは謂っても、もう、速いの何のって…」
「やっぱり、ストーキングじゃねーか。其れを世間一般では、普通にストーキングって謂うんだよ」
「喧しい。ところで、お前らは何やってんだ?」
祐子が代表して答えた。
「お散歩だよ。で、今から、大沢川の桜を見に行こうと…。ねえ、凛子ちゃんと明彦君も行こうよ」
明彦と凛子が顔を見合わせた。
「へえ、花見か…、良いな。凛子は?」
「えっ、私は…、別に、良いけど」
「やったあ、そうだ、ねえ、正ちゃん。他の皆も呼んでみない?」
正太郎も同意する。
「うん、そうだね。面白そうだ。早速、ライン入れようぜ」
『祐子です。今、正ちゃんや、明彦君や、凛子ちゃんとお花見をしようって事になったんだけど、皆さんも来ませんか? 場所は大坪町の大沢川周辺にいます。レジャーシートを持って来て貰えると有難いです。 ―祐子』
祐子はラインで地図情報と位置情報を送ると、反応は直ぐにあった。まず、ひろみだった。
『うわー、行く。行く。あたしの学区で、そんな、面白そうな企画を開催されて、行かない訳、無いでしょ。レジャーシートは持って行くわよ。 ―ひろみ』
やや遅れて、いずなからも返信が来た。
『ムキーッ、いずなも行く。三色団子と柏餅と桜餅と餅入り最中買ったから。今、桜ヶ丘の交差点だよ。 ―いずな』
祐子はニコニコし乍ら、
「いずなちゃんとひろみちゃんも、来るって」
4人は桜の花が満開となった大沢川沿いの土手の道を、漫然と歩いた。風もなく麗らかな日である。時折、清明の候の爽やかな桜南風が渡るたびに、桜の花びらが枝から別れ、宙空を踊っていた。南幹線に出ると、派手な赤白のセーターにオーバーオールのいずなと、チェックのブラウスにジーンズのひろみが道の向こうで手を振っていた。
「祐子おー」
「ゆうちん!」
「いずなちゃん。ひろみちゃん」
二人と合流した後、近所の桜ヶ丘公園に移動した。公園の一角に陣取ると、レジャーシートを敷いた。其処で、ひろみが凛子に聞いた。
「お誘い、ありがとね。ところで、今日は一体、如何したの?」
「いや、私も、旧東海道の所で、ばったり祐子達とあって…」
其の時、いずなの後ろから、両手でいずなの目を隠し、声を掛ける者があった。
「だーれだ?」
「ムキッ、其の声は、ケースケだ」
「あっはっは。大当たり」
いずなが振り向くと、白のTシャツに紺のジャージ姿の敬介が立っていた。
「わあ、ケースケだ♪。ケースケだ♪。ケースケ、ジャージが良く似合っているよ。うーんと、田舎の小学生みたい」
「ひどいよ、いずなちゃん。それ、絶対、褒めて無いだろ」
さらに、今度はひろみの後ろから、声が掛かった。
「だーれだ?」
「きゃあ!」
ただし、敬介とは異なり、その手はひろみの目を隠さず、両方の胸を押さえている。ひろみは、前方に其の不埒者を大腰で、自身の腰越しに大きく投げ飛ばすと、右腕を極め乍ら、仰向けに転がった不埒者の眼前に、上方から右正拳を振り下ろす形で突きつけた。やや、垂れ目のパッチリした目鼻立ちのお人形さんの様な顔立ちであり乍ら、やる事は凄まじい。
「うわーっ、待て待て。俺。俺だよ」
高志である。
「判ってるわよ。こんな、馬鹿すんの、あんたしかいないでしょ」
「わーっ。唯の冗談だよ」
「何、謂ってんのよ。こっちはリアルで、胸、触られたんだから。今度やったら本当に顎を粉砕するからね」
ひろみはぷりぷり怒っている。正太郎が、笑い乍ら、高志に声を掛けた。
「全く、しょうもない事するなあ」
「くっそー、ひでー目にあった。ところで、今日は如何したんだ? 丁度、清水の街に買い物に来ていたら、ラインが入ったもんで」
「いや、ただの行きがかりで…。何と無く、集まってさ」
いずなはレジャーシートの上で、お餅やら、お団子をほおばっていた。いずなは祐子の髪に挿してある耶悉茗を目敏く見つけた。
「ムッキー、ゆうちん、ところで、先刻から気になっていたんだけど、髪の耶悉茗の花どうしたの? あと、此のオレンジの花は、ポピーだよね?」
祐子が照れ乍らも、とても、嬉しそうに謂った。
「あのね、先刻、お散歩の途次に、正ちゃんが挿してくれたの。オレンジの花は虞美人草だって」
「ムキッ、本当? やったね。ゆうちん、良かったね」
「…うん」
祐子は真っ赤になり乍らも、嬉しそうだ。レジャーシートの上で寛ぐ祐子。祐子の前には、柏餅や桜餅、三色団子、追分羊羹が残っている。いずなが見咎めて謂った。
「あれっ、ゆうちん? お餅、嫌いだっけか?」
「ううん。そうじゃないの…。寧ろ、大好物なんだけど…」
そう謂い乍ら、祐子はちらりと正太郎の方を見る。正太郎はと謂うと、明彦や凛子達とバカ話をし乍ら、笑い転げている。祐子もお年頃である。勿論、甘味は、特にお餅の類は大好物なのであるが、憧れの正太郎の目の前で、お餅を7つも8つも食べる訳には、流石にいかない。いずなはすぐにピンと来た。
「もう、ゆうちんらしくないよ。多分、正ちんは、ぽっちゃり型が大好きだよ。いずなの斯う謂う勘は良く当るんだから…。そうだ。確かめてみようよ」
「ちょっと、いずなちゃん。何を?」
「まあ、良いから、良いから。おーい、正ちん」
「ん? 如何した? いずな」
「あのね、正ちん。正ちんって、女の子、痩せ型とぽっちゃり型と何方が好み?」
「何だよ。藪から棒に…」
正太郎は質問の意図を解しかねている。遠くで、高志と敬介がキャッチボールをしている。雲雀達も春の歌を一生懸命に囀っており、長閑な春の休日である。祐子は、全く、いずなと正太郎の会話を聞いてない風で、其のキャッチボールをニコニコし乍ら眺めている。…様に装い乍ら、いずなと正太郎の会話に全神経を集中させていた。正太郎は、ちらりと祐子の方を見やり乍ら、いずなの耳元に口を寄せて、顔を赤らめ乍ら謂った。
「断然、ぽっちゃり型」
「だよねー。ゆうちんがね、最近、お年頃でね、お餅大好きなのに、食べないんだよ。ゆうちん、ぽっちゃりし過ぎていると思う?」
正太郎は顔を赤らめ乍ら斯う謂った。
「…そんな事ないよ。コロコロしていて、健康的で可愛いと思う」
いずなは祐子の方に顔を向けると、正太郎に気が付かれない様に呟いた。
「だってさ♪。聞こえた? ゆうちん」
「…もう、いずなちゃんったら。でも、ありがとね」
祐子はそう謂うと、柏餅を、はむっと口に入れた。いずなはニコニコし乍らそれを見ていたが、思い出した様に祐子のカーディガンを見つめ乍ら謂った。
「そうかあ、これが虞美人草かあ。ゆうちん、良く知っていたね」
「ううん。私は知らなかった。全部、正ちゃんの受け売り」
「へー、正ちん、物知りだね。…ねえ、ゆうちん。ひょっとして正ちんさあ、ゆうちんと虞美人を重ねたんじゃない」
「えーっ、それは無いでしょ。項羽の愛妾、虞美人は絶世の美女だよ」
「でも、正ちんからしたら、ゆうちんは虞美人って事じゃないの。此の、メンバーの中でそう謂った、詩的な表現って、正ちんが突出してやりそうだもん。正ちん、昔から文学少年だったんでしょ。斯うした、暗喩と謂うか、メタファーを好みそうじゃないの。それに、其の耶悉茗の花言葉だって、『愛想の良い』、『愛らしさ』だよ。また、白い耶悉茗の花言葉は『温順』、『柔和』だよ。すべて、ゆうちんに当てはまると思うんだけどなあ」
「えーっ、唯の偶然だと思うけどなあ」
「よし、それなら、確認しようよ」
「えっ、何を?」
「良いから、良いから。おーい、正ちん」
「何だよ。いずな」
「ねえ、ゆうちんが髪に挿している花。凄く良い匂いがするけど、何かな?」
「ああ、あれか。耶悉茗だよ」
「そうか。あれが、耶悉茗なんだ。花言葉って何だっけか?」
「うん。確か、『愛想の良い』、『愛らしさ』、『温順』、『柔和』だよ」
「へー、ゆうちんにピッタリだね」
正太郎は赤くなり乍ら、ひろみ達の方に向いてしまった。いずなは、ニコニコし乍ら祐子の方を向くと、謂った。
「ねっ、聞いたでしょ。耶悉茗の花言葉を、正確に把握していたよ。それに、態々、ヒナゲシが虞美人草と呼ばれている事を、ゆうちんに解説して、ひなげしをゆうちんに挿しているんだよ。正ちんは確信犯。意味するところは唯一つ。『私にとって、あなたは虞美人です』。以上。他に解釈出来無いよ」
「えっ、でも…」
いずなの推理を聞き乍ら、祐子は真っ赤になっていた。確かにいずなの推理は一つ一つが頷ける。特に、虞美人草の暗喩等は、如何にも正太郎が好みそうなメタファーである。そう考えると天にも昇る様な結論である。が、此処で、恋に臆病な少女の意識が頭をもたげる。
(だけど、それって、正ちゃんは私の事を好き…。ううん、違う。多分、いずなちゃんの考え過ぎだ)
其処で、いずなが、更に横槍を入れる。
「もう、ゆうちんは。おーい、正ちん」
「また…、何だよ。いずな」
「実は、聞いた話によれば、ゆうちん、恋人募集中なんだって。正ちんなら、お似合いじゃないかって思ってさ。如何かな? 正ちん」
「ど、如何って、祐子ちゃん魅力的だし、ポチャ可愛いし、性格もいいし、俺なんかとは…」
正太郎が、其処迄、謂った時、祐子と目が合ってしまった。二人は目が合った瞬間、カーッと真っ赤になって顔を下に向けてしまう。
「ムッキーッ、二人とも可愛いね」
いずながニコニコしている。祐子は、先程の様に、視線を他所にやり乍ら、会話に集中していたのだが、つい、関心が先立ち、正太郎の方を見入ってしまった。正太郎はと謂うと、常日頃から、意識している祐子の方をチラリと見てしまった。二人は、完全に話の継ぎ穂を失ってしまい、やがて、下を向いていた二人は、略、同時に顔を上げ、
「…あの」
と、謂い掛けたのだが、また、下を向いてしまった。
「祐子ちゃん、…そ、其の。何か…な?」
「正ちゃんこそ…。どうぞ」
正太郎は真っ赤になり乍ら、
「あの、…柏餅って、…美味しいよね」
「…うん」
はらはらと、桜が散り泥む中、途轍も無く、微妙な空気が流れている。其の横で、唖然とし乍らも、二人の挙動を、じーーっと身を乗り出して見ていた凛子に、明彦が声を掛けた。
「おーい、凛子。何を見ているんだ?」
凛子が眉間に皺を寄せ乍ら、身動ぎもせずに答える。
「かなり、珍妙で牴牾しい寸劇を、少々…」
凛子と同様、二人の挙動をじーーっと見つめていたひろみが、横から明彦を窘める。
「しいっ、静かにしなさい眼鏡。折角、今、良い所なんだから…。正太、ごめんねー。気にせず、続きをどうぞ」
俄かに、我に帰った正太郎が真っ赤になって吼える。
「出来るかー」
祐子も真っ赤になってちんまりと座っている。そして、其処でひろみが、明彦を咎める。
「ほら見なさいよ。眼鏡。あんたのせいよ。折角、もう少しで、正太か祐子が、愛の告白をした処だったのに…」
突然のひろみからの苦言に、明彦は驚く、
「へっ、俺? でも、俺が聞いたときには、何か、柏餅の話をしてたぞ?」
其処で、ひろみが説明する。
「其処が、此の二人の奥ゆかしい処なのよ、多分、後、24時間もあれば、告白迄行ったわよ」
凛子は相変わらず褪めた面持ちで付け加える。
「見ている方としては、身悶えする程、牴牾しかったけどね」
正太郎が真っ赤になって抗議する。
「…見世物じゃねーぞ」
「…まったく、もう」
祐子も脹れている。
桜ヶ丘公園の桜は今が見頃の様だ。将に春爛漫である。正太郎はレジャーシートに横になると、空を見上げた。天に向かって薄桃色の花弁が幾重にも連なり、万朶の花は嫋やか乍らも、清明の穏やかな日和南風に揺れている。鵯が、ピピピピと鳴き乍ら、桜の花弁を啄ばんでおり、彼が枝から枝へと移るごとに、一枚、そして、一枚、而して、一枚、染井吉野の花びらが正太郎の顔に降って来る。其の遥向こうに、燻んだ卯月の空があった。
「おーい、正太。キャッチボールしようぜ」
「ああ」
高志の誘いに、口のうちで呟き、先刻、顔に落ちた桜の花びらを抓むと、じっと見乍ら謂った。
「本当に祐子ちゃんみたいな花だな…」
正太郎は花びらを祐子が花びらを掬おうと差し出していた手の平に優しく乗せると、靴を履き、更に謂った。
「高志。今、行く」
そして、駆け出して行った。
ひろみ、凛子、明彦も参加し、ゴロベースを始めた。レジャーシートの上には、祐子といずなだけが残った。祐子は横座りのままであるが、右手人差し指を伸ばして、口元に当てている。祐子が思索するときの癖である。いずなは祐子を見つめ乍ら、ニコニコしている。祐子はいずなに謂った。
「ねえ、いずなちゃん。桜の花言葉ってあるの?」
「当然、あるよ。正ちんの先刻の一言だよね? 桜自体は『優雅な女性』、あと、フランスでは『私の事を忘れないでね』だよ。これでも、ゆうちんに対して言っていると思うけど、染井吉野の花言葉だと意味合いが更に違ってくる」
「染井吉野だとまた違うの?」
「うん。染井吉野の花言葉は『純潔』、『優れた美人』だよ」
祐子は真っ赤になり乍ら、呟いた。
「先刻、みんなと合流する前にも、正ちゃんに染井吉野の樹の下で謂われた」
「ムッキー、確定だね。それに、いずなも、うっかりしていたけど、抑々、雛芥子の花言葉…」
「教えて、いずなちゃん」
「ムッキー、『恋の予感』だよ。正ちん、雛芥子の花言葉と虞美人を掛けたんじゃないかな? ゆうちんには虞美人みたいだと謂うのと同時に、自分の心情を花言葉に託して。如何にも文学青年がやりそうな掛詞だよ」
確かにいずなの推理は、正鵠を射ているものと思われる。然し、祐子は反駁した。
「でも、現に、私には其の謎掛けは分からなかったよ。幸い、いずなちゃんがいたから分かったけど…。それに、例え、謎掛けとしても、何の鍵も残さなければ、気がつき様も無いよ」
「如何かな? 結果として、ゆうちん、其の日のうちに暗示に気がついた。それに、耶悉茗と謂い、染井吉野と謂い、明らかに花に水を向けている。仮に、いずながいなくても、ゆうちん、お家で耶悉茗と染井吉野の花言葉を調べたと思うよ。そして、ヒナゲシもね。正ちん花を摘んでくれた事って初めて?」
「ううん。そんな事無いよ。小学校の頃は、良く一緒に遊んでいたから、レンゲの髪飾りや、白つめ草の冠を作ってもらったよ」
いずながニコニコし乍ら謂った。
「ほーら、やっぱり。そんな事だろうと思った…。ねえ、ゆうちん。レンゲと白つめ草の花言葉を、教えてあげるね。レンゲは『あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ』、『心がやわらぐ』。そして、白つめ草の花言葉は『私を思ってください』だよ」
「そんな、小学校の時の話だよ。それに、若し、当時、正ちゃんが花言葉の意味を知っていたとしても、ちょっと、奥ゆかしすぎるんじゃないかな」
「そんな事ないよ。とても、正ちんらしいと思うな。いずなも、此の手のメタファー好きだから、正ちんの気持ちは分かるな」
祐子は、俄かにオロオロし乍らいずなに尋ねた。
「いずなちゃん。如何しよう」
「ムッキーッ、絶好の好機じゃん♪。ゆうちんも花言葉で返せばいいんだよ。此の状況なら花言葉を使えば、みんなに気付かれる事無く、100%、あの、野暮天にも伝わるよ」
「でも、私、花言葉知らないし…」
「じゃん♪」
いずなは、自身のスマホを見せた。其処には『逆引き花言葉』というサイトがあった。
「いずなちゃん。ちょっと、貸してもらえる?」
いずなはニコニコし乍ら謂った。
「うん、いいよ」
祐子は、真剣な眼差しで、スマホを指先で素早く下方に繰っている。そして、1、2分程経過したであろうか、ニッコリすると、スマホを返し、斯う謂った。
「ありがとね。いずなちゃん」
「えっ…」
いずなは、祐子の挙動を見て、唖然とした。若し、いずな以外の人間であれば、祐子が関心が無かったのか、あるいは、確認すべき項目を確認しただけであると、解釈するのであろう。然し、いずなは違った。いずなは、祐子が、約100にも渡る、告白に纏わる花言葉の花の画像と内容を悉く記憶したと、認識した。いずなは、彼女のごく身近な人物で、これが出来る人間がいる事を、良く知っていたのである。従って、記憶した事に驚いたのではない。寧ろ、自分の初めての友人とも謂える祐子が、そう謂う事を出来る人間であった事を、目の当たりにして、驚いただけなのだった。いずなは、素知らぬ顔で、ニコニコし乍ら、祐子に尋ねた。
「ねえ、ゆうちん。如何するの?」
「うん。あのね、お家の庭に白い花が咲く樹があるの。静岡市の木。あれを帰り際に贈ろうと思うの」
「うん。それがいいよ」
いずなは確信した。
(静岡市の木…。花水木だ。確かに、花水木はあのサイトの終わりの方にあった。矢張り、ゆうちんは、ほぼ、あの一瞬に、内容と画像の、認識と記憶をやってのけたんだ。私と同じ事が出来る人間がいるとは、思わなかったな)
祐子は、目の前に残った追分羊羹を、はむっと、口に入れると、頬に手を当て言った。
「この、もちもちっとした食感が、堪らないのよね」
いずなは釣り込まれたように微笑むと、謂った。
「あー、ゆうちん、なんだかんだ言って、全部食べちゃったね」
「えへへ、だから、正ちゃんには内緒」
「もう、ゆうちんったら…」
祐子は、立ち上がって、燻んだ卯月の空を見上げた。はらはらと、桜の花びらは、絶え間無く降り注いで来る。恰も、花びらの大海を泳いでいるようである。祐子は入学から今までを振り返り思った。
(良かった。本当に、良かった)
そう思わざるを得ない。憧れの正太郎と同じ組に成れただけでも、過分な僥倖だといえるのに、剰えも、同じ部活に入れたのだ。これ以上望むのは、分不相応であろう。然し、それでも、叶うならば、『願わくば、正ちゃんの隣にいたい』。その、一点のみであった。そして、祐子は目を瞑り、妄想した。舞散る、桜吹雪の中、正太郎と手を繋ぎ歩く。やがて、正太郎が優しく肩を抱き、そして、口づけをする。まるで、恰も、映画のワンシーンの様では無いか。祐子の妄想は留まる事を知らない。正太郎は長い接吻の後、斯う囁く。
「祐子ちゃん。…結婚、しよう」
祐子は涙乍らに頷く。
「…はい」
祐子は、夢見る乙女の顔で妄想を続けていたが、
「…子ちゃん。祐子ちゃん」
自分を呼ぶ正太郎の声で、卒爾として我に帰る。
「えっ」
「祐子ちゃん。大丈夫? みんなそろそろ帰ろうって…」
祐子は、白昼夢の対象である正太郎からの呼びかけにより、顔を仄かに赤く染め乍ら頷いた。
「は、はい…」
結局、その日は14時頃解散となった。一同は三々五々、家路についた。正太郎と祐子は、家路を辿り乍ら、朝からの散歩の余韻に浸っていた。正太郎は考える。雛芥子の事、耶悉茗の事、染井吉野の事、全ての謎掛けは不発であった。それでも、良いと思った。正しくは、いずなの洞察の通りであった。文学好きの正太郎にとっては、暗喩は暗喩の儘である事が文学であって、ネタばらしをして明喩となってしまっては、文学ではない。それは、最早、無粋と謂うものだ。だから、祐子にネタばらしをする心算は毛頭無かった。勿論、それをするだけの勇気も度胸も無かったのだが…。ただ、祐子に花をあげた時の、祐子の弾ける様な笑顔が見れたことが、何よりも嬉しかった。それだけで、良いと思っていた。桜橋から大曲にかけて緩慢な下り坂となっている。坂道をのんびりと下り乍ら、祐子が話しかけてきた。
「ねえ、正ちゃん」
「ん? 何?」
「今日は、楽しかったね。最初は、唯のお散歩だったのに」
「本当だね。『犬も歩けば棒にあたる』って、奴かな。でも、面白かったよね。こんな日も、のんびりしていて良いね」
「あっ、見て。ちょうど、此の道の延長上に山原の中継塔が見える。何か幻想的で、不思議な光景だね」
正太郎は北の山々に目を走らせた。さらに北西の方角には一際高い竜爪山が見える。正太郎はその山を感慨深げに見つめ乍ら、過去の感傷に浸っていた。
(もうすぐ、5月か。もう、此の季節になるんだ。また、竜爪山に登らなきゃ)
つい、その思いが口をついた。知らずに独白していたらしい。祐子は、其の一言を聞きもらさず、ニコニコし乍ら謂った。
「正ちゃん、私も連れてってくれる?」
「えっ」
正太郎は、其処で初めて、自身の胸の内を呟いていた事に気がついた。祐子はニコニコしている。正太郎は少し困惑した。元々、千春などと行く訳では無い。唯の単独行である。祐子と同行しても良かったのだが、正太郎は2つの理由から一人で行きたかった。1つは祐子の体力である。山歩きが趣味である正太郎に比べ、祐子はインドア指向の運動音痴である。竜爪山は中級レベル以上の山であり、初級レベルでも如何かと思う祐子にとって、適当では無いと思った。2つ目は正太郎の竜爪山登山は完全に正太郎の私用であり、果たして、祐子を巻き込んで良いものか、と思えたからだ。祐子は正太郎の表情を敏感に察したのであろう、少し、不安げな表情を浮かべて謂った。
「駄目…かな?」
正太郎は祐子の表情を、まじまじと見つめた。幼稚園の頃から、此の表情の祐子に対しては、余程の事が無ければ、正太郎が確実に折れて来た。
(矢張り、此の顔には抗えない)
やがて、正太郎はニッコリ笑って謂った。
「分かった。一緒に行こう」
「うん」
祐子の笑顔が弾けた。正太郎は祐子の此の顔が大好きだった。
「でも、竜爪山って結構大変だよ。祐子ちゃん、大丈夫かな? 結構、遭難する人もいるんだよ」
「もう、脅かさないでよ。頑張るから」
「じゃあ、来週の日曜日に…。晴れるといいね」
「うん」
祐子は嬉しそうに頷いた。正太郎は、祐子を脅かし乍らも、まあ、地元では、小中学校の遠足コースとなっているし、心配なのは天気位かなっと、思っていた。何よりも、合法的に祐子と次の約束が出来た事が嬉しかった。
渋川橋を渡り終わった時、祐子が正太郎に切り出した。
「正ちゃん。今日はありがとね。ちょっと、此処で待ってて」
そういうと、祐子は小走りに自宅方向へ駆け出すと、3分程後に、新聞紙に包んだ白い花らしき物を持ってくると、正太郎に差し出した。
「はい、今日は一杯、お花貰っちゃったから、お礼」
「…あっ、ありがと」
「それじゃあね。また、明日ね」
「うん、ばいばい」
正太郎は新聞紙に包まれた花をのぞきこんだ。
(ふーん、花水木か。そう謂えば、祐子の家の庭に咲いていたなあ)
そう思った矢先に、『あっ』と、口の中で呟いた。花水木の花言葉を思い出したのである。が、其の考えをすぐに打ち消した。
(まさか、な…)
正太郎は目の前の自宅へと軽やかな足取りで向かった。
「ただいま」
母親が、怒り乍ら出迎えた。
「もう、あんたは、朝から何処行ってたの。連絡くらいしなさいよ。あら、其のお花、どうしたの?」
「ん、祐子にもらった」
「あんたは、もう。子供見たく。祐子ちゃんはお年頃なんだから、呼び捨てにしちゃ悪いでしょ。此の間、祐子ちゃんのお母さんに、スーパーで挨拶されたわよ。同じクラス、同じクラブでいつも娘がお世話になっていますって、あんた、そう謂う事、全然、謂わないから…」
「分かったよ。もう、煩いなあ」
「でも、何で、花水木を…。あら、意外と綺麗ね。玄関に飾ろうかしら」
「あっ、母さん。待って。それ、俺の机の上に飾りたいんだけど…」
「そう、…まあ、あんたが貰ったものだからね」
正太郎は母親から花瓶を受け取ると、自室の机の上に置いた。母親は、両肘で頬杖を突き、ニコニコと花水木を嬉しそうに眺める我が子を見ると、何を思ったのか、
「へー、そうか、そうか。そう謂う事か。成程ね」
と、謂い乍ら、エプロンで手を拭き乍ら、台所に行ってしまった。
因みに、花水木の花言葉は『私の想いを受けてください』である。
いつもの面々が、深刻な面持ちで部室に揃っていた。入学後2週間、4月も半ばに差し掛かっていた。ひろみが口火を切った。
「ねえ、聞いた化学のあの噂?」
「ああ、元素周期表を全部覚えるとか何とか?」
「何か明日から化学のあるクラスは試験があるみたいよ」
噂では、周期表の元素記号、元素名を任意に出題して書かせるらしい。厳密には、周期表全部といっても、全部という訳ではないのだが、此処は、化学教師の北村の言葉を引用した方が正確であろう。
『いいかあ。お前ら。1族、2族、あと13族~18族で元素番号88以下の元素記号と元素名を全て覚えて来いよ。次回テストをやるぞ。全20問17点以下は追試だぞ』
「全く、何て学校だよ。普通Caまで言えれば、良いんじゃないのか?」
と、正太郎がぼやけば、すかさず、ひろみが咎める。
「ばかねえ。それじゃ、中学生と同じでしょ。あれ、高志は随分と余裕ね」
「ああ。だって、俺、全部覚えたもん」
「えーっ」
「見てろ。ほれ」
高志がレポート用紙に書き上げた。明彦が周期表と見比べる。
「本当だ…。全部、あっている」
一同、高志に驚嘆の眼差しを向けた。
「こつがあるんだよ。実は、俺も、昨日聞いたばかりなんだが…」
「誰に?」
「此の小説の作者に」
「作者あ?」
「奴が謂うには、高校1年の時に覚えて、今年55才になるらしいが、40年経っても、いまだに忘れてねえとか、豪語してやがった。打倒第三の壁とか謂ってたぞ」
「何者なんだ?」
「何でも、親父の古い友人らしい。自称、小説家とか謂っていたが、本業は銀行員らしい。でも、俺が思うに、多分、偽銀行員だな。札勘が出来無かったし、字も、超下手糞だった」
「ふーん。胡乱な奴だな…」
「ああ、まあ、おかげで助かったんだがな。昨日、うちで親父と飲んでやがった」
「胡散臭い人ねえ…。とにかく、教えなさいよ」
「良いけど…、唯、恐ろしく下品なんだよ。其れに、覚えたはいいけど、其の後の40年間の人生で、唯の一度も使わ無かったとも、謂ってたぞ」
「何か、テンション下がるわね」
と凛子が謂った。ひろみは、高志を急かす。
「良いから、早くしなさいよ」
高志が即席の講師となり、臨時の講義が始まった。
「まず、『水兵リーベ僕の船七曲シップスクラークか』が基本だ。どうせ、此のメンバーだ。みんな知ってるだろ?」
「ああ」
「まあ。一応ね」
「当り前じゃないの」
「いずなも知ってるよ」
敬介が、
「えっ。何それ。初めて聞いたぞ」
「お前は、まず、其処から覚えろよ! よく、此の学校に来れたな?」
「だって。俺スポーツ枠だもの」
「嘘つけ!」
「良いから、始めなさいよ」
「じゃ。まず、『水兵リーベ僕の船七曲シップスクラークか』を紙に書く。これが基本だ」
「其処で、1族。アルカリ金属だ。これはちょっと苦しいが『い(Li)な(Na)か(k)でルビー(Rb)をせし(Sc)めてフランス(Fr)に逃亡』と覚えるらしい」
「かなり、苦しいわね」
「続いて、2族。アルカリ土類だ。これは、かなり秀逸だぞ。これは『ベ(Be)ッドでまぐ(Mg)あい。彼(Ca)女とすれ(Sr)ば人生ば(Ba)ら(Ra)色』と覚えるらしい」
「乙女に、何てえ事、謂わせるのよ!」
「わーっ。待て。正拳突きは止めれ! 文句だったら馬鹿作者に謂え」
もくもくと書いていた祐子が、眉を顰め、
「確かに、語呂合わせとしては、秀逸だと思うけど、女の子にはちょっとね…。でも、覚えよ」
「祐子。馬鹿どもにとってはそうでもないみたいよ。割と、親和性があるみたい」
と、凛子がため息混じりに謂い捨てた。
正太郎が、嬉々として、言い放った。
「これはすごい。大地に雨が染み込むように、大脳皮質に染み込むぜ」
敬介も感激している。
「おお。何かアルカリ土類凄いな。俺、多分、アルカリ土類の事、一生忘れないぜ」
「随分とくだらねえ一生だな…」
「うるさい」
「で、次、13族ホウ素族元素なんだが。これは流石の俺も謂えねえ。小説自体削除される恐れがあるからな。一応、『…(B)…(Al)…(Ga)…イン(In)サートしたり(Tl)』らしい」
凛子が、又かと謂わんばかりに呟いた。
「最後だけ聞こえたけど、相当、碌でも無い内容みたいね」
「次の14族。炭素族元素は明快だ。『く(C)さい(Si)下(Ge)痢すん(Sn)な(Pb)』」
ひろみが呆れる。
「本当に下品ね」
敬介が訝しむ。
「何で『な』がPbなんだ?」
「鉛だからだろ」
「続いて、15族の窒素族元素。『日(N)本(P)の朝(As)は酢豚(Sb)にビ(Bi)ール』」
ひろみが、あきれ乍ら言った。
「なんか、朝っぱらから、胃にもたれそうね」
「16族。酸素系元素。『オ(O)ス(S)の性(Se)器は鉄(Te)砲(Po)』」
「だから。あんたは、乙女に向かって…」
凛子も疑わし気な眼差しを高志に向ける。
「ちょっと、これ、あんたが適当に作ってんじゃないでしょうね! セクハラ目的で」
「そんなつまんねー事する訳ないだろ。凛子!」
「もとい。17族。ハロゲン族だ。これは、『ふ(F)っくら(Cl)ブラ(Br)ジャー私(I)に合った(At)』尤も、作者は『ふっくらブラジャー愛の跡』と、覚えたらしい」
「確かに秀逸ね。相当下品だけど」
「何が秀逸なもんか。祐子や凛子ならともかく、ふっくらブラジャーがお前やいずなにあう訳…うがっ」
ひろみの怒りの肘打ちが、高志の鳩尾にめり込む。
「ムキー。ひろみっち。もう一発、いずなの分も昇龍拳入れといて」
「で、最後の18族。希ガスなんだが、これだけは、絶対に謂えない」
「でも、謂わなきゃ分かんないでしょ」
「絶対。正拳突きしないか?」
「しないわよ」
「逆関節もとらないか?」
「とらないわよ」
「じゃ、謂うが、聞こえると、流石にやばい。ちょっと耳を貸せ」
「ゆーちん。いずなも聞いてくるね」
「(He)…(Ne)…(Ar)…(Kr)…(Xe)…(Rn)」
みるみるうちに、ひろみの顔は真っ赤になり、
「おのれはー。無垢な乙女に何てえもの、聞かせるのよ! ぶっ殺すわよ!」
「いや、だから、怒らないって謂ったじゃないか」
「自ずと、限度と謂うものがあるでしょ!」
いずなが、赤面し乍ら、ててててーと、戻ってきた。祐子がいずなに聞いた。
「如何だった? いずなちゃん」
「ムギー。何か凄い事、謂ってた。アレだとかクリ●●●だとか●exだとか乱交だとか…。ヴー。夜、夢に見そう…」
正太郎と敬介が、いずなの隣へ即座に瞬間移動して来た。
「く、詳しく!」
「とまあ、こんな感じなんだわ。後は、普段馴染みのない元素名が分かるかどうかが鍵だな、インジウムだとか輝安鉱だとかアスタチンだとかテルルとか」
「テルルって『ケロロ軍曹』に出てこなかったけか?」
と、祐子がボケれば。
「こねーよ。でもラドンはゴジラシリーズに出てきたぞ」
と、正太郎も突っ込む。凛子もあきれ乍らも謂った。
「でも、何とかなりそうじゃないの? 途轍も無く下品だけど…」
数日後。祐子が部室にいると、正太郎と高志が入ってきた。
「あっ。正ちゃん。如何だった?」
「満点。高志もな。祐子ちゃんは?」
「うん。満点。あと、いずなちゃん、ひろみちゃん、凛子ちゃん、明彦君、みんな満点だったよ」
「今回ばかりは、高志様様だな」
「でも…。敬介君が5問間違えて…。元素記号は全部分かったらしいのだけど…。元素名を間違えたって」
「何を間違ったんだ?」
「In、Sb、Br、kr、Xe」
「インジウム(In)は?」
「………インサート」
「輝安鉱(Sb)は?」
「すぶた」
「臭素(Br)は?」
「…ブラジャー」
「まさかとは思うけど、クリプトン(Kr)は?」
祐子は、顔を、此れ以上無い位に赤く染め、耳朶の付け根まで真っ赤にし乍ら、
「…それは…、…ちょっと…。…謂え無い」
「聞くまでもなさそうだけど、キセノン(Xe)は?」
「それも…。ちょっと」
「…あのバカ」
「間違い方が、さすがに悪質だって。故意じゃないかって、それで、さっき、北村先生に、職員室に呼び出されて…。いずなちゃんが様子を見に行ったんだけど、今度、追試だって。で、今、反省文を書かされてる」
「…おい、高志。後から敬介にラーメンでもおごってやれよ…」
「えーっ」
敬介が反省文を書き終え、半べそかき乍ら出て来た。いずなが部室で待っており、敬介を慰める。
「ムキ、大丈夫? 後ちょっとだったじゃないの。でも、クリプトン(Kr)とインジウム(In)とキセノン(Xe)はちゃんと覚えないと、いずな。お口利いてあげないよ」
「…はい」
敬介君は項垂れた儘、斯う謂いましたとさ。
我々は、時折、日常と非日常の境を見失う事があり、其れとは知らずに、非日常へと足を踏み入れる事がある。日常と非日常の境界は一体何処に? 楽しい筈のハイキングで、一転、絶体絶命の正太郎と祐子。そして、其の時、正太郎が下した決断とは? 次回、『第3話 正常性バイアス』。お楽しみに。