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第2話 桜の花の満開の下で

 翌日(よくじつ)は、昨日(きのう)と打って変わって、実に春らしく(うら)らかな日和(ひより)であった。桜南風(さくらまじ)とも()える、(あたた)かなそよ風に(いざな)われて、桜も一気に満開になった様子(ようす)だった。今日から(すで)に通常の授業が始まる。祐子は、昨日(きのう)(こと)なり、自転車だった。

「正ちゃん。今日はいないかな」

 祐子は、渋川橋(しぶかわばし)東の交差点で信号を二、三回程やり過ごしたが、正太郎は現れなかった。正太郎の家は新幹線のガードの横に見えているマンションであるが、正太郎の姿は一向(いっこう)に現れそうに無かった。やがて、祐子は(あきら)めると、学校に向かって自転車を()ぎだした。教室に入り着席した祐子は、正太郎の座席を見つめた。矢張(やは)り、()だ登校していないらしい。


「おーすっ」


 高志が入って来た。祐子は心配そうに、高志に話し掛けた。

「あっ。岡本さん。正ちゃんが、()だ、来ていないの」

「えっ。もう、始業5分前だぜ。昨日(きのう)、あのあと(なん)かあったのか?」

「ううん。普通に帰ったと思うよ。夜だって、メールも来たし」

 高志がニヤニヤし(なが)ら、

「へー、メールがね。なかなかやるね。正の字も」

 祐子が真っ赤になり(なが)ら、

「ううん。(ただ)のメールだったよ。おやすみなさいって」

「そうか。だったら、()(うち)、来んだろ。まさか、また、赤灯台から飛び込んだんじゃ無いだろうな?」

「ううん。それは無いと思う。まだ4月だし」

 そのうち、昨日(きのう)早速(さっそく)、『薬缶(やかん)』という渾名(あだな)を高志に(ひそ)かに付けられた、きれいに頭が禿()げ上がった担任が入って来た。そして、開始を告げる予鈴(チャイム)が、鳴り終わるや(いな)や、正太郎が飛び込んで来た。

「ぎりぎりセーフ!」

「アウトじゃ。ばかもん!」

 パチーン。出席簿で思い切り頭をはたかれていた。


正太郎が、高校の最初の授業でまず驚いたのは、授業のレベルの高さであった。高校入学前に教科書の配布時に、数学Ⅰの教科書を渡されたのであるが、数学Ⅰは事前に各自終わらせておき、4月より数学ⅡBから始めると()うのだ。正太郎は、()れは、出来(でき)が悪い上に、(はなは)性質(たち)の良くない、悪い冗談(じょうだん)だと受け止めた。(しか)し、今日の授業で()れは、冗談(じょうだん)どころではない。(はなは)性質(たち)()ろしくない、悪夢の様な現実(げんじつ)である事を、改めて思い知る羽目(はめ)になったのである。薬缶(やかん)の説明に()れば、本来は、今日から数学ⅡBを始めたかったのであるが、一部の不心得者(ふこころえもの)の生徒が、春休み中に数学Ⅰを終わらせてこなかったせいであると、声高に()(つの)り、4月中に数学Ⅰを終了し、来月からは予定通り数学ⅡBに進むとの事で、従って、来月の中間テストの範囲は数学Ⅰの全範囲であると、(はなは)理不尽(りふじん)な上に悪魔すらも腰を抜かしそうな予告をして行ったのだ。一体(いったい)何処(どこ)の世界に教科書一冊分、丸々自習させる学校があると()うのだ。(さら)に、閉口(へいこう)したのが、()の授業時間である。清水高校の授業時間は65分である。中学校が50分であった事を思えば、如何(どう)しても、()の長さに馴染(なじ)め無い。もうそろそろ終わりだと思って時計を見ても、()だ20分以上時間がある勘定(かんじょう)になるのである。


(えらい(ところ)へ入学してしまった…。)


 誰しもが、そんな思いを(いだ)いた事だろう。放課後、祐子と高志が昨日に続き、練習場である講堂に行くと、正太郎がガックリと項垂(うなだ)れて、(へこ)んでいた。

一体(いったい)如何(どう)したの? 正ちゃん。心配したんだよ」

「うう。祐子か。寝坊したんだよ。くそっ。初日から遅刻がついた…」

 ひろみが此方(こっち)の方を振り返り(なが)()った。

(まった)く、何やってるのよ。(うわさ)だと学期中に遅刻3回で父兄(ふけい)呼び出しって話よ」

「マジ?」

「ああ。大マジだ」

 そう言い(なが)ら、(うし)ろから、正太郎をブラスに引きずり込んだ二年生で次期吹奏楽部(ブラバン)の部長である村木先輩がやってきた。

「よう。高野。久しぶり。初日から大活躍だな。まあ、うちの学校は勉強さえやっていれば、生活指導はゆるゆるだからな。()の代り、勉強が出来(でき)ねーときついぞ。情け容赦なく、赤点食らうからな」

「克彦さんも食らったんですか?」

「バーカ。食らうかよ。でも、お前も知ってる、二年先輩のヨッタカさん。あの人。九つも赤点食らってな。なんとか、卒業できたけど…。赤点って通信簿の1の事なんだが、本当に1だけ赤い文字なんだよ。俺もヨッタカさんの通信簿見せてもらったけど、本当に二色()りなんだよ。『赤尾の豆単』みたかったぜ」

「赤点だと、如何(どう)なるんですか?」

「成績は10段階で、2以下は補習。赤点はプラス追試があって、合格すると1を二本線で訂正して2にしてくれる」

「赤点の(まま)だと…?」

当然(とうぜん)、進級(卒業)出来ねー。所謂(いわゆる)留年(りゅうねん)って(やつ)だ」

「…マジかよ」

「うちの学校は特進科も含めて360人位いるが、特に300番台のことを『はなみち』と()う。はなみちは赤点危険水域(レッドゾーン)だ。中間・期末等の各教科学年成績上位50名の氏名が張り出されるのはよその学校と同じだが、はなみちも全員氏名と点数が張り出されるぞ。お前らも気をつけろよな」

「えーっ」

 克彦さんは笑い(なが)ら行ってしまった。正太郎は今の話に怖気(おじけ)づいてしまったのか、

「くっそーっ。本当かな今の話。もう、遅刻なんて如何(どう)でも良く成って来た。心して掛からなければアブねーな…」

 ひろみが(さけ)んだ。

如何(どう)でも良くなんか無いわよ。馬鹿(バカ)じゃないの。そうだ、祐子。あんた、近所なんでしょ。毎朝、起こしに行ってあげたら如何(どう)なの?」

「えーっ。それは、…ちょっと。…恥ずかしいし」

 祐子は真っ赤になり(なが)ら、小声で答えた。(となり)で、いずなも頭を(かか)えて(へこ)んでいる。高志はいずなに声をかけた。

「おっ。どーした? いずな。お前も遅刻か? それとも、今の話にびびったか?」

 ひろみが()った。

「ばかねえ。いずなはね、あんなんだけど清水中学開校以来の天才少女として、近隣(きんりん)でも有名だったわよ。全科目満点を2回程やってのけたとか、(なん)でも、『神武(じんむ)以来(このかた)の天才』とか、呼ばれていたわよ。そんな心配はいらないわよ」

「『神武(じんむ)以来(このかた)の天才』だあ…? まさか、得意戦法は棒銀(ぼうぎん)ってんじゃないだろうな? それじゃあ、なんで(へこ)んでんだよ。お前も遅刻か?()れとも、…」

 高志は(おもむろ)にひろみの耳に顔を近づけ、声を(ひそ)めて、

「…今日は女の子か?」

 ひろみは真っ赤になり(なが)ら、

乙女(おとめ)に対して、何てえ事、()うのよ! 正拳突き食らわすわよ」

「うわっ。待て待て。じゃあ、如何(どう)したんだよ」

 祐子が困ったように、(おだ)やかな微笑(ほほえみ)を浮かべて、

「ケモ耳の付け耳とけも尻尾(しっぽ)。先生に没収(ぼっしゅう)されちゃったんだって…」

 いずなは悲しさが頂点に達してしまったのだろう。しくしくと泣き出してしまった。見かねた祐子が、

「ねえ。いずなちゃん。今から職員室に行って、先生に(あやま)って返してもらおうよ。私も一緒に行ってあげるから…」

 全員が、いずなの肩を、優しげに抱いた祐子達の後姿を唖然(あぜん)とし(なが)ら見送っている時に、後ろから声を掛けられた。

「新入部員の方ですか?」

 高志が振り返り(なが)ら、

「そーすけど。あんたらは? いや、失礼。皆さんは?」

 そこには三人。一人は身長170㎝位、黒縁(くろぶち)眼鏡(めがね)に折り目正しく、鹿爪(しかつめ)らしい、如何(いか)にも頭が良さげな風貌(ふうぼう)の学生。彼が、

「失礼。僕は付属中からきました滝明彦です。クラスは5組です」

「げっ。5組って。特進科かよ」

「ええ。まあ」

 続いて、女性。身長175㎝はあろうか、えらく、美しくスタイルの()い子だ。(まさ)に、雲鬢花顔(うんびんかがん)(たと)えもあるが、端麗(たんれい)百合(ゆり)(ごと)き、(りん)とした容姿(ようし)。切れ長の目で、()れでいて瞳もかなり大きく、クールである。()の上、かなりの、美人でもある。更に、胸も祐子程ではないが、適度に大きい。C、いやDカップ位か? 髪はボブカットで赤い大きなカチューシャをして、大きな蜻蛉(とんぼ)眼鏡(めがね)を掛けている。

「私は有度(うど)中出身。如月凛子(きさらぎりんこ)、ホルンをやっていました。よろしくね。クラスは8組です」

 三人目は身長163㎝位。男としてはかなり小柄(こがら)な方だ。頭の後ろで手を組んでおり、よく動く(つぶ)らな(ひとみ)は、如何(いか)にも、すばしっこそうな印象を与える。

「俺は庵原(いはら)一中。今井敬介。中学時代は野球部だよ。だから、(まった)くの素人(しろうと)。よろしくな。あー、クラスは1組」

 高志が驚いた様に、

「今井か? 庵原(いはら)一中の? 何でお前がこんな(ところ)にいるんだよ? 俺だよ。興津(おきつ)一中の岡本だよ」

「わあっ。びっくりした。あっ本当だ。岡本だ。お前こそ何やってんだ? 肩でも壊したのか? 変な投げ方(フォーム)だったもんなあ」

「うるせー。ほっとけ。ちょっと(わけ)ありなんだよ」

此方(こっち)も、()身長(タッパ)だし、スポーツじゃ大成しそうにないからな。中学で廃業(やめ)だ。ところで、新入部員は()れで全部か?」

「ああ。(おれ)の知っている限りではな。いや、待て。今、二人ほど、職員室にお()びに行っている」

「何だあ。初日から、何をやらかした?」

「まあ。いろいろあんだよ。やらかしったって()うのなら、此奴(こいつ)もだ。初日から遅刻で、『薬缶(やかん)』に目をつけられている」

 高志が左手で親指を突き出し、肩越しに振り(なが)ら答えた。

「なんだとー」

 倉皇(そうこう)としている内に、祐子といずなが帰ってきた。特にいずなは、満面の笑みを浮かべ、ぴょんぴょんと飛び()ねている。無事、交渉、もとい謝罪が成功したに違いない。

「おい。岡本。あのちっこい子、かわいいな。あの子達も新入部員か?」

「ああ。お前がちっこい()うな。ちっこい方は小泉菜月。通称いずな。清水中の不思議ちゃんだ。得意戦法は棒銀(ぼうぎん)だそうだ」

「…?」

「でもって、巨乳ちゃんの方は山本祐子。遅刻の先生の彼女だから、手え出すなよ。なんでも、暴食(グラトニー)の名を持つ七つの大罪の一人だ」

「あんたは、先刻(さっき)から。腕、へし折るわよ!」

 ひろみが高志の腕を後ろ手に(ひね)り上げ叫んだ。と、同時に、正太郎が、

()いぞ。やれ、ひろみ。(オレ)が許す!」

「わーっ。いたた…。待て。悪かった。冗談(じょうだん)だ!」

(なん)だか分からんが、面白(おもしろ)そうな部だな。気に入った。入部するよ」

 騒動(そうどう)が静まった後、高志がいずなに話しかけた。

「無事返してもらえたようだな」

「うん。ゆーちんが一緒に謝ってくれて…。でも、聞いてよ。(ひど)いんだよ。学校に持って来ては駄目(だめ)なんだって」

「当たり前だ。んな事ばっかりやっていると、正の字みたく父兄呼び出しになるぞ」

「正ちん。もう、呼び出し食らったの?」

 正太郎は、憮然(ぶぜん)として答える。

「呼び出されてねーよ。()だ」


 部活の終了とともに、高志が紹介を兼ねて、昨日の(キャトル)に行かないか提案した。全員賛同し、再び、キャトルに集合と相成(あいな)った。昨日の席に陣取(じんど)った一同。やはり、男性陣と女性陣とにきれいに分かれた。まず、高志が口火を切った。

「まず、栗色の髪で可愛(かわい)らしい顔立ちの垂れ目のねーちゃんは、ひろみ。エーと、苗字(みょうじ)(なん)だっけ?」

稲森(いなもり)よ!」

「そうそう。でも、あの顔にだまされてうっかり近づくと大変だぞ。何しろ、空手と合気道の達人(たつじん)だ。特に空手の方は有段者だ。(あご)(くだ)かれるか、腕をへし折られるか…」

「あんたはまた」

 ひろみが怒気(どき)(ふく)んで立ち上がった。

「わー。待てってば」

 一通りの紹介が終わる頃、高志が、

「わーっ。何やってんだ。(しか)も、制服の上から装着しやがって…」

 いつの間にか、いずなが付け耳と付け尻尾(しっぽ)を装着していた。

「わあ。かわいい。本当にいづなたんみたいだね。キングクリムゾンしちゃうよ」

「でしょ。ゆーちん。でも、()の耳ちょっと『ホロ』っぽいから、こーして耳を隠して町娘に(ふん)して、(くるわ)言葉を使えば…」

主様(あるじさま)よ、わっちの名前を()ってみよ!」

「わあ。ホロちゃんだー」

「おい、正の字。あいつら、何、()ってんだ」

 正太郎は頬杖(ほおづえ)を突いて、そっぽを向き(なが)ら答えた。

「ほっとけ。とあるアニメのネタ語りだ。それも複数(から)めてやがる。(ただ)のマニアの会話だ。聞き流せ」

「おいちょっと待て。正の字。お前、今。かなり正確に状況を把握(はあく)しているよな。ひょっとして、お前もそっち側の人間か?」

「ぎっくぅ!」

「ハハハ。祐子ちゃん。良かったな。正の字も相当な趣味人(アニヲタ)らしいぞ」

 一方、女子卓では、ひろみが声を(ひそ)めて、

「私、思うんだけど。どーもあの三人は同じ(にお)いがするのよね。芸風が(かぶ)るって()うか…」

「あの三人って」

「高志、正太郎、敬介の三人。馬鹿の(にお)いしかしないもの。三馬鹿大将ね。祐子には悪いけど」

 其処(そこ)で、凛子が口を挟んだ。

「ううん。多分(たぶん)、あの眼鏡も同じ。女のカンよ」

 ()の頃、いずなは祐子に向かってお礼を()っていた。

「ゆーちん。先刻は、本当にありがとう」

「どういたしまして。大切なアニ友だもの。当然だよ。ねえ。一つ聞いていい?」

「いいよー」

「なんで、いずなちゃんは、特進科にしなかったの?」

 頬杖(ほおづえ)を突いて、知的な微笑(ほほえみ)を浮かべるいずなは、急に25歳位になったように見えた。声色(こわいろ)も今まで聞いていた声とは別人のようだった。

「祐子ちゃんこそ? (なん)で特進科にしなかったの? 内申(ないしん)は余裕だったんでしょ?」

「私は、…その、…正ちゃんが…普通科だから…」

「恋は()いよね。私も同じ」

「えっ。いずなちゃんも誰か好きな人が?」

「ううん。好きな人はいないよ。でも、高校に入ったら恋もしてみたいと思ったし、一杯(いっぱい)遊びたいとも思ったよ。アニメも一杯(いっぱい)見たいし、何よりも、お友達が欲しかった」

「うん」

「私ね、中学校の時は、ひとりも友達がいなかったの。天才少女とか、変人とか()われて、すごく悲しかった。何よりも孤独がいやだった。でも、孤独だけが、私の友達だった」

「うん。私もそうだった」

「特進科にいったら、私の行動、立ち居振る舞い、全てが足枷(あしかせ)になると思う。中学校時代以上に浮く自信があるわ。結果、学校に行かなくなるか、退学になるかのどちらかに違いないと思うわ」

 黙々(もくもく)と、話を聞いていた祐子の(ひとみ)から、一筋(ひとすじ)の涙が(あふ)れた。祐子がいずなと共感したのは、何もアニメ好きな部分だけでは無い。同じ(にお)いというか、形単影隻(けいたんえいせき)気配(けはい)を感じていたからに他ならない。祐子は毅然(きぜん)としていずなに()った。

「そんな事にはさせないよ。絶対に」

「ありがとう。祐子ちゃん何かコナン君みたいだね」

「私の居場所には、正ちゃんだけでなく、いずなちゃんもいるんだから。()の居場所だけは絶対に守る。私は昨日お家で涙がでてきちゃったの。正ちゃんの事だけじゃない。素敵(すてき)な友達が出来(でき)た事がうれしくて」

 祐子は続けた。

「孤独って本当に…つらいよね」

「うん」

 いずなの双眸(そうぼう)から二筋の(しずく)が流れていた。懸命(けんめい)に平静を(よそお)いつつ、いずなが()った。

「私の為に…泣いてくれた人。…初めてなの。…本当にありがと」

 祐子といずなは二人して化粧室に行った。

 一方男子卓では、多少(たしょう)、深刻な女子卓の会話と違い、能天気(のうてんき)な会話に終始(しゅうし)していた。敬介が高志に向かって。

「いや、やっぱり、いずなちゃんだっけか。かわいいわ」

「おまえ、ああ()うのがタイプか? 顔はともかく、胸はペッタンコだし、体型は、(ほぼ)、幼女だぞ。二人で街を歩いていたら、かなりの高確率で、おまわりの職質(しょくしつ)を受けるレベルだぞ」

「いや。でも、かわいいよ。彼氏いるのかなあ?」

「わかった。()のうち調べておく」

「おお。兄貴」

「でっ。眼鏡(めがね)旦那(だんな)は?」

「誰が眼鏡(めがね)旦那(だんな)だ? 失礼。僕は、やっぱり凛子さんですかね。あのスタイルは高校生離れしてますよ。知的な(ところ)も、又、いい」

旦那(だんな)。ムッツリーニですか」

「…うるさい」

大体(だいたい)()の学校に進学してくる女子で、知的で無いのがいるのかよ。いずなだって、最初は馬鹿(バカ)っぽいと思ったけど、ひろみの話だと、清水中の天才少女だとか何とか」

神武(じんむ)以来(このかた)の天才…。まさか、あいつだったのか?」

「それは、頭の禿(はげ)たおじいちゃんだろ。棒銀(ぼうぎん)が得意な」

「いや、違う。其方(そっち)じゃない。付属中でも有名だったんだ。中学3年の業者テスト。(えら)く難易度が高かったんだが、特に英語。全国でも二十数人しか、満点がいなかったらしいが。県内では2人もいたそうだぜ。小泉と如月だよ」

「マジかよ。なんで特進科にしなかったんだ。あいつら」

 と、敬介。

「いろいろ事情があったんだろ。驚くにはあたらねーや。大体(だいたい)、そんなのの集まりだろう。()の学校は。()のメンバーにしても、(えら)く、洽覧深識(こうらんしんしき)連中(れんちゅう)ばかりじゃねーか。祐子ちゃんにしても、見た目以上に、頭が切れるぜ。昨日(きのう)、ちょっとした詐略(トラップ)でよ、此処(ここ)にいる正の字を()めて、秘密を(あぶ)り出していたし…」

「なっ。お前、それを知っていて、先刻(さっき)茶番(ちゃばん)は…」

 高志はニヤリとして、ぺろっと舌を出した。滝は納得した様に、深く(うなず)いた。

成程(なるほど)な。面白(おもしろ)い。俺も此処(ここ)に入るよ。退屈しないで済みそうだ。(ところ)で、付属中で話題になっていた、他校の有名人を教えてやるよ。英語全国模試満点の清水中の小泉、有度(うど)中の如月。国語及び社会が全国模試満点の江尻中の高野。全国模試主要5科目県内8位の江尻中の山本。そして、全国模試主要5科目県内4位の興津(おきつ)一中の岡本。こんな博識多才(はくしきたさい)な有名人達と一緒に青春時代を送れるのは光栄の(いた)りってもんだ。とぼけているようだが、岡本君。あんたも相当(そうとう)に、有名人だぜ」

 高志が頬杖(ほおづえ)を付き(なが)ら、まるで、そんな話柄(わへい)には、(まった)く興味無さそうに()った。

「…そりゃ、どーも」

 祐子といずなが化粧室(トイレ)から戻って来た。二人ともすっかりいつもどおりに戻っていた。ひろみと正太郎が、心配そうに声を掛けた。

「ちょっと大丈夫? 二人とも、(なん)様子(ようす)が変だったから…」

 いずながいつもどおりの口調で、

「心配掛けてごめんね。ひろみっち。ちょっと気持ち悪くなっちゃって。ゆうちんが介抱(かいほう)してくれたの。でも、もう大丈夫」

「そう。ならいいけど。無理しないでね。()し、具合が悪かったら、何時(いつ)でも()ってね」

 いずなは表情こそ、にこやかな()みを浮かべた(まま)であったが、内心では、ひろみの誠意(あふ)れる優しい言葉に、懸命(けんめい)(こぼ)れそうになる涙を(こら)えていた。

「大丈夫? 祐子。先刻(さっき)、いずなと話している頃から、その…何か様子がおかしかったから」

「ううん。大丈夫。心配掛けてごめんね」

()の人、泣いている私を見てずっと気に掛けてくれていたんだ。ごめんね。正ちゃん)

「そう。なら()いけど」

 微妙(びみょう)雰囲気(ふんいき)になりかけた(ところ)へ、感良(かんよ)く高志がラインとメアド交換の話を切り出した。

「ところでさあ、昨日俺達も交換したんだけど…」

()いわよ」

()いぜ」

「あっ、じゃあ(おれ)も」

「ところで何なの。このライン名。『ボストン茶会事件』って」

 (いぶか)る凛子に、ひろみが得意気(とくいげ)に答える。

()いでしょ。私が考えたの」

「うん。洒落(シャレ)が利いていて、面白(おもしろ)いわ」

 突然、祐子の携帯メールの着信音がなった。メール送信者は正太郎だった。

「えっ」

『もし、心配事があったら、何でも相談しろよ』

 メールを見た祐子は、懸命(けんめい)に涙をこらえていたのだが、そのうち、肩を振るわせ始めた。驚いたのは、正太郎といずなである。異変を見て取ったいずなが祐子の肩を抱き(なが)ら化粧室に駆け込んだ。正太郎は祐子が心配なあまり、すぐにメールを送信してしまったが、正太郎はTPOを誤った事を後悔していた。そのとき、いずなからメールが来た。

『祐子は大丈夫だから心配しないで、落ち着いたら出て行って、私がうまく誤魔化(ごまか)すから。迷惑掛けてごめんね』

『すまん。いずな。祐子をよろしく頼む』

 凛子は天性の観察者(オブザーバー)であった。今日の一連の出来事(できごと)を冷静に観察していた。祐子といずなの会話も(おおむ)ね理解していた。そして、祐子といずなの()()無い孤独も、(すこぶ)る理解できた。いや、共感出来(でき)たと言って良いだろう。凛子のクールなキャラクターは、孤独に対しての精一杯の抵抗であり、無理解な周囲に対する反発でもあった。凛子は自分と似た境遇(きょうぐう)の彼女達の中に自分の居場所を見出(みいだ)していた。

面白(おもしろ)いわね。あんた達。私も()の部に決めたわ。どれ、ちょっと様子(ようす)を見て来るわね」

 ひろみが(さけ)んだ。

「ちょっと、如何(どう)()う事?」

 高志が大儀(たいぎ)そうに答えた。

()いから。()いから。此処(ここ)は、有度(うど)中のクールビューティーに任せようぜ」

 数分後、三人は何事も無かった様に出て来た。にこやかに笑い(なが)ら…。店内ではボズスギャックスの名曲ウイ・アー・オール・アローンの優しく(おだ)やかな旋律(メロディー)が流れていた。


 祐子が家に帰るのと(ほぼ)同時にいずなからメールが着信した。

『祐子ちゃん。今日は本当にありがとう。私の(うれ)しかった気持ちを、思い出に残したかったから、メールに(したた)めました。いつまでもいいお友達でいてください。正太郎君との事もうまくいくといいね。応援しています』

 祐子は目頭(めがしら)が熱くなってくるのを感じた。

(私、なんか、高校に入学して以来、泣いてばっかりだ)

『お礼を言うのは私の方だよ。私もいずなちゃんの気持ちは良く分かるよ。私も友達と()える人が(ほとん)どいなかったもの。こんな私でよければ、お友達になってください』

 そして、ラインで、

『今日はご心配を掛けてすみませんでした。明日からよろしくね。 ―祐子』

 またたく間に、全員の既読がついた。そして、暖かいといえるかどうか不明であるが応援のラインが次々と到着した。

『心配事があるなら直ぐ()えよ。幼馴染(おさななじみ)だろ。 ―正太郎』

『誰だって、バランスを(くず)す事はあるわよ。ガンバ! ―凛子』

『おっ。ボストンティーパーティー初稼動(はつかどう)だな。何か心配事あるなら正の字が相談しろっていってたぞ。じゃあな。 ―高志』

『いずなだよ。今度ゆうちんのおうち遊びに行っていい? ―いずな』

『いずなが行くなら、(おれ)も行くぞ。 ―敬介』

『ちょっと、あんたたち、祐子の家を何だと思ってるの。でも、何かあったら、あたしにも相談してよね。友達でしょ。 ―ひろみ』

『滝だ。まだ、今日一日の付き合いだが、みんな良い奴だと思ったぞ。不安があったら相談しろ。絶対、誰かが助けてくれる。とりあえず、中間テストで勝負だ。山本。 ―明彦』



 最初の日曜日、定期演奏会の間近(まじか)であるものの、部活は休みであった。()の日は、実に春らしい(うら)らかな日和(ひより)で、(まさ)に、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)の春めいた陽気であった。嫩草(どんそう)(たお)やかなる(かお)りと、新緑(しんりょく)芽吹(めぶ)く香りが、(かな)しい(ほど)に、(かぐわ)しい。正太郎は青いセーターにジーンズ姿、スニーカーを()いて渋川橋(しぶかわばし)の方へ向かって歩いていた。特段(とくだん)何処(どこ)行く当ても無かった。()いて当てを探すとすれば、(ただ)の散歩である。正太郎の家は江尻(えじり)中学の学区の、(もっと)(はず)れにある。新幹線と巴川(ともえがわ)交差(クロス)する地点の横の集合住宅(マンション)が、()れである。新幹線を北に越えれば、高部(たかべ)中学学区。巴川(ともえがわ)を西に渡れば、入江(いりえ)中学学区。江尻中学校が、駅の比較的(そば)である事を(かんが)みれば、中学校からは、かなり遠くに自宅がある事になる。祐子の家にしても、そうなのであるが、小中高の位置関係を比較すれば、高校が一番近いと()えるだろう。


 (さて)、正太郎は先程も述べたように、(うら)らかな春の陽気(ようき)に誘われただけであった。当初は巴川(ともえがわ)を上流方向に向かって、(すなわ)ち、新幹線高架を北に越え、高部(たかべ)中学学区の方へ踏み出そうと考えていた。子供の時分(じぶん)に、()の季節、近所の子供達と良く土筆(つくし)を取りに行った散歩道であり、(なつ)かしくもある。そんな時、何時(いつ)だって祐子が(そば)にいたものだった。そして、門を出た時に、(にわ)かに考えを変えた。正太郎は身を(ひるがえ)すと渋川橋(しぶかわばし)の方へ向かって歩いて行った。正太郎は、何故(なぜ)か祐子に会いたくなったのだ。(おそ)らく、先程(さきほど)連想(れんそう)が影響しているのであろう。渋川橋(しぶかわばし)(たもと)の狭い道を、下流方向に下ればすぐに祐子の家である。(しか)し、渋川橋(しぶかわばし)(たもと)(まで)来た時に、正太郎は、少々(しょうしょう)困惑(こんわく)した。祐子の家を訪問する事に、(にわ)かに気後(きおく)れしたのだった。祐子の家を訪問したのは、小学校時代が最後である。()の3年間の無沙汰(ぶさた)が、思いのほか正太郎を掣肘(せいちゅう)する。()れが幼稚園の(ころ)ならば、祐子の家に行って、『祐子ちゃん、あーそーぼ』で、済んだ話だし、小学校の頃でも、『おい、祐子。遊びに行こうぜ』で、済んだ話なのだ。何と無く、祐子の家の方(まで)来れば、祐子に会えるのじゃないかと()う、思春期特有の幻想(げんそう)。ほら、皆さんにも覚えがあるのではあるまいか? 何となく、好きな子の家の(そば)(まで)、行って見る。ばったり会うんじゃないかと()う、あの妄想(もうそう)。あれである。正太郎は渋川橋(しぶかわばし)の橋の欄干(らんかん)に手を掛け、ぼんやりと下流方向を(なが)めた。(さわ)やかな卯月(うづき)の風は、軽く彼の鼻腔(びこう)(くすぐ)った。(うら)らかな春の陽射(ひざ)しの中、巴川(ともえがわ)川面(かわも)はキラキラと輝き(なが)悠然(ゆうぜん)と横たわり、目の前には祐子の自宅が見える。垣根(かきね)の向こうには、白い花水木(ハナミズキ)が見事な花を咲かせており、昔の(まま)であれば、2階の白いカーテンが掛かった部屋が、祐子の部屋である(はず)であった。(しか)し、白いカーテンは閉じた(まま)である。(ある)いは、祐子は家に居ないのかもしれない。


 一体(いったい)に、()(あた)りの巴川(ともえがわ)中流域は、木材産業が盛んであった。此処(ここ)から、下流に向かっての川沿いや、上流の川沿いには、大掛かりな合板工場や、貯木場や、材木置き場が、所狭(ところせま)しと(ひしめ)いていた。海抜(かいばつ)差が少ない、巴川(ともえがわ)の地勢構造上、巴川(ともえがわ)は川と()うよりも運河(うんが)に近く、過去の巴川(ともえがわ)氾濫(はんらん)名残(なごり)である、沼地や三日月湖(みかづきこ)数多(あまた)点在(てんざい)していた。そして、()れらは、貯木場(ちょぼくじょう)合板(ごうはん)工場に姿を変えた。(もっと)も、これも昭和の時代(まで)の話である。祐子の家は祖父の代(まで)は、中堅の材木問屋(とんや)であり、合板(ごうはん)工場も(いとな)んでいた。(しか)し、昭和の後期、祖父の代に、海外の輸入ラワン合板(ごうはん)の勢いに(あらが)えず、本業である木材・合板(ごうはん)部門を売却し、雑貨輸入に軸足(じくあし)をシフトした。(しばら)くは、高級家具の輸入が主力品目であったが、祐子の祖父は、昭和末期の海外ボードゲームの小さなブームに目をつけ、()れを輸入した。()れが、(おり)からの円高も追い風となり当った。爆発的な大ヒットとは行かなかったものの、いつしか、静岡県内に海外ボードゲーム専門店、数店舗(すうてんぽ)を展開するまでになっていたのだ。やがて、時代は平成に移ると、家庭用ゲーム機が普及(ふきゅう)し始め、ボードゲームは見る見るうちに(すた)れていってしまった。()(ころ)には、祐子の父に代替(だいが)わりしていた。祐子の父親は婿養子(むこようし)であり、理系出身のコンピュータープログラミングに()けた人物だった。祐子の父は、海外有名ボードゲームの(いく)つかをPCゲームへの移植(いしょく)を試みた。さらに、()のうちの(いく)つかを、家庭用ゲーム機に移植(いしょく)した。()れが売れた。国内の海外ボードゲームファンには、熱狂的(コア)なファンが多いのだが、いつも苦労するのが、()の対戦相手の確保である。祐子の父親は、其処(そこ)に目をつけた。これも、父親自身がボードゲームファンだったからかもしれない。祐子の家の家業は、何時(いつ)しか、輸入商社、ボードゲーム販売からゲームソフト開発へと、()軸足(じくあし)をシフトしていた。やがて、時代は移り、平成も終わり近くになると、ゲームもDL(ダウンロード)が一般的となったが、()の頃には、ゲーム開発だけでなくIT関連会社へと変貌(へんぼう)していた。祐子の祖父の時代、宮崎県宮崎市北部の佐土原(さどわら)に買い取った広大な土地があった。広さ2千㎡程である。元々、植林用地として二束三文(にそくさんもん)で買い取ったのだが、昭和の終わりには不良債権化していた。(しか)し、祐子の父は()の土地が()りと都合(つごう)が良い事に気がついたのだ。宮崎空港は、宮崎平野を流れる大淀川(おおよどがわ)河口部付近(かこうぶふきん)に位置するのだが、空港にJRが直接乗り入れており、アクセスの利便性は九州の空港の中でも有数である。(おそ)らく、空港駅から佐土原駅まで30分程度であろう。(しか)も、()の地の気候は静岡に似て温暖(おんだん)な気候である。此処(ここ)に巨大サーバーと開発室の施設を建設し、レンタルサーバーも業務として、安定的な収益を上げるべく事業を開始した。そして、社名も、有限会社山本祐三商店から、鹿爪(しかつめ)らしい、株式会社清水インフォメーション・テクノロジー・ディベロップメント・サービスと改名したのも、()(ころ)だったと()う。正太郎は以前祐子から聞いた、そんな話を思い出したりしていた。


 (さて)、祐子は、朝食後、居間で紅茶を飲んだ後、自室にあがって行った。父親は(くだん)佐土原(さどわら)の開発室へ出張していて、不在だった。祐子はカーテンを大きく()け、窓を開くと、春の(やわ)らかな風と水の香りと共に、視界(しかい)に飛び込んだのは、悠然(ゆうぜん)と流れる巴川(ともえがわ)と、渋川橋(しぶかわばし)の橋の上で、川面(かわも)に目を落としつつ、無聊(ぶりょう)(かこ)つ正太郎の姿であった。


(えっ)


 祐子は、一瞬(いっしゅん)驚くも、すぐさま大声で(さけ)んだ。

「正ちゃん!」

 祐子の声は、向こう岸の河岸(かがん)の堤防に跳ね返り反響(こだま)した。正太郎は向こう岸、(すなわ)ち、西岸である渋川方向から声がしたと錯覚(さっかく)したのだろう。声の出何処(でどころ)を求めてキョロキョロしている。祐子は正太郎の、そんな狼狽(ろうばい)()りがちょっと可笑(おか)しかったが、又、大声をはりあげた。

「正ちゃーん。何してるの?」

 正太郎は(ようや)く気がついた。先刻(さっき)まで、白いカーテンにより(さえぎ)られていた、祐子の家の2階の窓は、何時(いつ)しか全開となり、ベランダには、白いブラウス姿でデニムのスカートをはいた、丸っこい体型の祐子がニコニコし(なが)ら身を乗り出して、大きく手を振っている。正太郎は笑って、右手を大きく振ると、祐子に声を掛けた。

「おはよう。祐子」

 それに対して、祐子は、

「ちょっと待ってー。すぐ行くから…」

 祐子は、そう(さけ)ぶや(いな)や、桃色のカーデガンを羽織(はお)り、ピンクのデイパックの中に、財布と携帯とカメラを放り込むと、自室を飛び出し、階段を一足飛びに()け下りていった。祐子の(あわ)てぶりに、驚いた母親が階下で声を掛けた。

「あら、祐ちゃん。如何(どう)かしたの?」

「あっ、ママ。ちょっと、お散歩に行ってくるね」

 祐子はそう()うと、洗面所に飛び込むと髪のブローを5秒で仕上げ、玄関に飛び降り、スニーカーを突っ掛け、()った。

「じゃあ、ママ、行って来るね」

「はいはい」

 母親はニコニコし(なが)ら、推察した。

如何(どう)したのかしら? 窓から正ちゃんでも、見掛けたのかしら)

 (まさ)しく、完全に母親が洞察(どうさつ)した通りである。祐子はウサギの様に玄関を飛び出すと、花水木(ハナミズキ)の白い花影の下を、手を振り(なが)ら、正太郎の待つ渋川橋(しぶかわばし)に、小走(こばし)りに駆けて行った。

「正ちゃーん。おはよう」

「あっ、祐子…、おはよう」

「一体、如何(どう)したの? 日曜日の朝から」

「うん。すごく天気が良くて、暖かだったから…。散歩に。祐子は?」

「じゃあ、私も散歩。…()いでしょ?」

 正太郎は顔を赤らめ(なが)ら、()った。

「…うん」

「ところで、正ちゃん。お散歩は何処(どこ)へ行く心算(つもり)だったの?」

「特に当てはないよ。最初は巴川(ともえがわ)上流に行こうと思ったけど…。大沢川にしようと思ってさ」

 正太郎は、此処(ここ)でちょっと嘘を付いた。嘘と()うより、出任(でまか)せである。大沢川と()うのは、祐子の家より、やや下流域で合流する巴川(ともえがわ)の支流の一つである。巴川(ともえがわ)を上流方向に進むのなら、渋川橋(しぶかわばし)は通らない。正太郎は、まさか、祐子に会いたくなったとも()えずに、大沢川を持ち出したのだった。祐子はそんな正太郎には気がつかず、無邪気(むじゃき)に、

「よーし、じゃあ、大沢川の上流を目指して出発進行!」

 祐子は明るく宣言した。正太郎も祐子の明るさに釣り込まれる様に()った。

「よーし、南南西に向かって進路を取るぞ」

「おーっ」

 祐子も右手を高々と上げて、剽軽(ひょうきん)に応じた。


 二人は渋川橋(しぶかわばし)を渡ると、大曲(おおまがり)方面に向かった。やがて、大沢川にぶつかると、川沿いを上流に向かって歩いた。土手には、赤、白、黄、様々な色の花が咲き乱れ、春の(おとず)れを高らかに告げていた。(まさ)春爛漫(はるらんまん)である。川の反対側には田園(でんえん)が広がり、()の時期には、蓮華(れんげ)のピンク色の花や(スミレ)の紫色の花が咲き乱れている。祐子が歩き(なが)ら、土手の道の(かたわら)に咲いている橙色(だいだいいろ)の花を指差(ゆびさ)し、正太郎に(たず)ねた。

「ねえ、正ちゃん。()のオレンジの花、何て花かな?」

「ん? どれどれ。あー、()れか。()れはポピーだよ。あるいは、コクリコ。本当は、あと一ヶ月位後に、咲くと思うんだけどなあ、日当たりが()いのかな。日本語では、雛芥子(ひなげし)って()うよ。あと、もう少し、詩的に表現すれば、虞美人草(ぐびじんそう)。祐子ちゃんにピッタリの花だ」

 祐子は照れて赤くなる。正太郎は祐子の異性(いせい)を意識しなければ、()の様な歯の浮く様な事も、割と、平気で()えるのだ。

「へー、これが、虞美人草(ぐびじんそう)なんだ。漢楚(かんそ)の戦いの、垓下(がいか)の歌で有名な虞美人(ぐびじん)の」

「そう。あと、漱石の作品にもあるよね。雛芥子(ひなげし)芥子(けし)の仲間だけど、アヘンとか、麻薬成分が抽出(ちゅうしゅつ)出来(でき)無いから、植えても大丈夫(だいじょうぶ)だよ。どれ、ちょっと待ってて…」

 正太郎はそう()うと、雛芥子(ひなげし)を一本()むと、祐子のピンクのカーデガンのボタンホールに()した。祐子は(うれ)しそうにレンゲ畑を見渡し(なが)()った。

「あっ、ありがとう。本当に、綺麗(きれい)な花だね。…でも、何時(いつ)の間にか、春になっていたんだね。受験って、本当に周りが見え無くなるよね」

「あははは…。学年トップの祐子…ちゃんには、特別な受験勉強は必要無かっただろうに」

 此処(ここ)で、正太郎は、祐子の事を『ちゃんづけ』で呼ぶ事を(こころ)みた。特段(とくだん)、深い理由は無かった。(しか)し、呼び捨てというのが、如何(いか)にも横柄(おうへい)な印象を与えているのではないかと、少し気になったのだ。もう、小学生時代とは違う。祐子も立派(りっぱ)なレディなのだ。それに、小学校時代と(くら)べて、ふくよかに成長した胸を如何(どう)しても意識してしまう。正太郎は、(あわ)てて視線を()らした。祐子は『ちゃんづけ』で呼ぶ正太郎の気遣(きづか)いが(うれ)しかったが、正太郎が祐子の胸を意識している事には、多少の(うれ)しさと共に、()じらいを感じている。祐子は、はにかみ(なが)らも正太郎に()った。

「何、()ってるの。特別な勉強は、正ちゃんだってしなかったでしょ。内申点(ないしんてん)()(かく)、学力テストの点数的には、正ちゃんも、悠々(ゆうゆう)、合格圏だった(はず)だよ。でも、私は受験生と()うだけで、心に余裕が無かったな。季節の移り変わりを感じる様な余裕は」

「まあ、確かにね」

「そうだ。正ちゃんに聞こうと思っていたの。()(あいだ)渋川橋(しぶかわばし)東の交差点で信号待ちしていたら、すごくいい香りが(ただよ)って来て。何だろうと思ったんだけど、分らなかったの。正ちゃんなら分かる?」

「うーん。どんな香りだったの?」

「何か、(らん)みたいな(にお)いだった。かなり、強烈(きょうれつ)な香りで、信号待ちし(なが)ら探したのだけど、分からなかったな」

「なんだろうな? (らん)みたいな香りか。沈丁花(じんちょうげ)蜜柑(みかん)の花、藤の花、西洋躑躅(アザレア)。どれも、ピンと来ないなあ…。抑々(そもそも)、あの(あた)りに無いもんなあ。あーっ。分かった」

 正太郎は大声で叫び、10メートル(ほど)駆け出すと、緑色のフェンスに(まと)わり着く(つた)の様な植物の白い花の臭いを()ぐと、祐子を手招(てまね)きした。祐子は(いぶか)(なが)らもやって来ると、正太郎が指差(ゆびさ)す星型の白い花の香りを()いでみた。

「あーっ、確かにそうだ。()の香りだった。ねえ、正ちゃん。何て花なの?」

耶悉茗(ジャスミン)だよ」

「へえ、()れが耶悉茗(ジャスミン)なんだ。本当に良い香りだね。耶悉茗(ジャスミン)って、もっと、温室なんかで栽培されているのかと思ってた」

「そんな事無いよ。元々、熱帯、亜熱帯の植物だけど、静岡は暖かいから、結構(けっこう)、見掛けるよ。先刻(さっき)、祐子ちゃんの話を聞いた時に、交差点の横の資材置き場のフェンスの向こう側に、咲いているのを思い出したもん。だから、分かったんだよ」

「本当に良い香りだね」

「うん。…そうだ、ちょっと、待ってて」

 正太郎はそう()うと、耶悉茗(ジャスミン)の花を(つる)ごと()むと、祐子の髪に挿した。耶悉茗(ジャスミン)の高貴な馥郁(ふくいく)たる香りが、シャワーの(ごと)く頭の上から()(そそ)がれる。祐子は赤くなり(なが)ら、(あわ)ててお礼を()った。

「あっ、ありがとう」

 正太郎はニッコリ微笑(ほほえ)むと()った。

如何(どう)いたしまして」


 祐子は、(かつ)て無い幸福感の中に居た。実に(うら)らかな、(あま)(かお)りの(ただよ)杪春(びょうしゅん)日和(ひより)の中、二人はまた、テクテクと歩き出した。勿論(もちろん)幼馴染(おさななじみ)の二人である。祐子は、花を()んでもらった事は、当然、過去にもあった。小学校の頃にはレンゲの髪飾(かみかざ)りを作ってもらった事がある。正太郎は意外と手先が器用なのである。でも、()の年頃にあっては意味合いが少し違ってくる。(もっと)も、正太郎は、あの(ころ)精神(メンタル)的に、何ひとつ変わって無いのかも知れない。祐子は知っている。正太郎は極端(きょくたん)な照れ屋なのである。祐子を異性として意識していたのなら、決して先程の様な行動は取らない。いや、取れなかったであろう。彼が、自然にああ()った行動を取れたのは、子供の(ころ)からの幼馴染(おさななじみ)としての習慣的な行動の(ため)である。白つめ草で作った(かんむり)や、レンゲの髪飾(かみかざ)りを髪に()してあげる、正太郎は祐子がそういった行為を、すごく喜ぶ事を知っていた。そして、正太郎は祐子のそうしたときの遠慮(えんりょ)がちに、それでいて、(はじ)けた様な笑顔が大好きだった。そう、ぱあっと開く(はす)の花の様とでも、表現すべきなのだろう笑顔が大好きだったのだ。正太郎は右隣を歩いている祐子を見つめた。祐子はおなかの辺で左手で右手首を(にぎ)り、ニコニコし(なが)ら歩いている。二人は、一見すると、還暦(かんれき)間近の伉儷(こうれい)の様な仄々(ほのぼの)とした(おもむき)があった。川の蛇行(だこう)沿()った(ゆる)やかなカーブを抜けると、一面、桜の絨毯(じゅうたん)だった。はらりはらりと桜の花が舞い続けている。正太郎は染井吉野(ソメイヨシノ)の花を見上げ(なが)らぼそりと(つぶや)いた。

「桜かあ。本当に祐子ちゃんみたいな花だな…」

「…?」

 正太郎と祐子との距離が、小学生の頃の様に接近した。祐子の髪からブロウの甘い香りと耶悉茗(ジャスミン)の高貴な香りが(かお)った。正太郎はちょっと、祐子の異性を意識し、顔を赤く染めた。正太郎は祐子に話しかけようとしたけど、出来(でき)なかった。今、正太郎の中には、無邪気(むじゃき)な小学生の(ころ)の正太郎と、思春期(ししゅんき)の中にあって祐子を異性として意識する正太郎と、二人の人格が同居していた。


 正太郎と祐子は、旧国道1号を渡り大沢川と別れ、やがて、旧東海道へ達した。其処(そこ)で、祐子が()った。

「ねえ、正ちゃん。ちょっと、寄り道して行っても()い?」

「うん。でも、何処(どこ)へ?」

「えへへ…。羊羹(ようかん)屋さん」

「ああ、美味(おい)しいもんね。彼処(あそこ)

 祐子が()った羊羹(ようかん)屋さんは、追分羊羹(おいわけようかん)()って、清水の代表的銘菓で、モチモチっとした食感が特徴的な羊羹(ようかん)である。(しか)し、旧東海道を歩いていると、思いも掛けない人物に出()った。凛子である。凛子は上下水色のジャージを着て、ジャージの色に合わせた大きな水色のカチューシャをして、旧東海道を清水方面に向かってジョギングをしており、凛子の豊かなバストが上下に揺れていた。祐子が気がついて、(あわ)てて声を掛けた。

「凛子ちゃーん」

 凛子も、二人に気がついた。

「あら、祐子。()れに、正太も。一体(いったい)如何(どう)したの? あんた達?」

「正ちゃんとお散歩に。大沢川の桜を見に来たの」

「あら、いいわね」

「そうだ。凛子ちゃんも一緒に如何(どう)?」

「えっ、私は…」

 其処(そこ)へ、遠くから呼ぶ声が聞こえた。

「おーい」

「誰だろう?」

 みんなでキョロキョロすると、狐ヶ崎(きつねがさき)の方から青のTシャツにグレーのハーフパンツで自転車に(またが)った明彦が、此方(こっち)に向かってやってくる。

「おーい」

「あっ、明彦君」

「おー明彦。何やってんだ。(さて)は、凛子をストーキングでも、してたのか?」

「ば、ば、ばかやろ。何て事、()いやがる。俺は南幹線のマックの前を、凛子が走って行くのが見えたから、追っ掛けただけだ。(しか)し、いくら、此方(こっち)が信号待ちとは()っても、もう、速いの何のって…」

「やっぱり、ストーキングじゃねーか。()れを世間一般では、普通にストーキングって()うんだよ」

(やかま)しい。ところで、お前らは何やってんだ?」

 祐子が代表して答えた。

「お散歩だよ。で、今から、大沢川の桜を見に行こうと…。ねえ、凛子ちゃんと明彦君も行こうよ」

 明彦と凛子が顔を見合わせた。

「へえ、花見か…、()いな。凛子は?」

「えっ、私は…、別に、()いけど」

「やったあ、そうだ、ねえ、正ちゃん。他の(みんな)も呼んでみない?」

 正太郎も同意する。

「うん、そうだね。面白(おもしろ)そうだ。早速(さっそく)、ライン入れようぜ」

『祐子です。今、正ちゃんや、明彦君や、凛子ちゃんとお花見をしようって事になったんだけど、(みな)さんも来ませんか? 場所は大坪町の大沢川周辺にいます。レジャーシートを持って来て(もら)えると有難(ありがた)いです。 ―祐子』

 祐子はラインで地図情報と位置情報を送ると、反応は()ぐにあった。まず、ひろみだった。

『うわー、行く。行く。あたしの学区(テリトリー)で、そんな、面白(おもしろ)そうな企画を開催(かいさい)されて、行かない(わけ)、無いでしょ。レジャーシートは持って行くわよ。 ―ひろみ』

 やや遅れて、いずなからも返信が来た。

『ムキーッ、いずなも行く。三色団子(さんしょくだんご)柏餅(かしわもち)桜餅(さくらもち)(もち)入り最中(もなか)買ったから。今、桜ヶ丘(さくらがおか)の交差点だよ。 ―いずな』

 祐子はニコニコし(なが)ら、

「いずなちゃんとひろみちゃんも、来るって」

 4人は桜の花が満開となった大沢川沿いの土手の道を、漫然(まんぜん)と歩いた。風もなく(うら)らかな日である。時折(ときおり)清明(せいめい)(こう)(さわ)やかな桜南風(さくらまじ)が渡るたびに、桜の花びらが枝から別れ、宙空(ちゅうくう)を踊っていた。南幹線に出ると、派手(はで)な赤白のセーターにオーバーオールのいずなと、チェックのブラウスにジーンズのひろみが道の向こうで手を振っていた。

「祐子おー」

「ゆうちん!」

「いずなちゃん。ひろみちゃん」


 二人と合流した後、近所の桜ヶ丘公園に移動した。公園の一角に陣取(じんど)ると、レジャーシートを()いた。其処(そこ)で、ひろみが凛子に聞いた。

「お誘い、ありがとね。ところで、今日は一体、如何(どう)したの?」

「いや、私も、旧東海道の所で、ばったり祐子達とあって…」

 ()の時、いずなの後ろから、両手でいずなの目を隠し、声を掛ける者があった。

「だーれだ?」

「ムキッ、()の声は、ケースケだ」

「あっはっは。大当たり」

 いずなが振り向くと、白のTシャツに紺のジャージ姿の敬介が立っていた。

「わあ、ケースケだ♪。ケースケだ♪。ケースケ、ジャージが良く似合っているよ。うーんと、田舎(いなか)の小学生みたい」

「ひどいよ、いずなちゃん。それ、絶対、()めて無いだろ」

 さらに、今度はひろみの後ろから、声が掛かった。

「だーれだ?」

「きゃあ!」

 ただし、敬介とは異なり、その手はひろみの目を隠さず、両方の胸を押さえている。ひろみは、前方に()不埒者(ふらちもの)大腰(おおごし)で、自身の腰越しに大きく投げ飛ばすと、右腕を()(なが)ら、仰向(あおむ)けに転がった不埒者(ふらちもの)眼前(がんぜん)に、上方から右正拳を振り下ろす形で突きつけた。やや、垂れ目のパッチリした目鼻立ちのお人形さんの様な顔立ちであり(なが)ら、やる事は(すさ)まじい。

「うわーっ、待て待て。(おれ)(おれ)だよ」

 高志である。

(わか)ってるわよ。こんな、馬鹿(バカ)すんの、あんたしかいないでしょ」

「わーっ。(ただ)冗談(じょうだん)だよ」

「何、()ってんのよ。こっちはリアルで、胸、触られたんだから。今度やったら本当に(あご)粉砕(ふんさい)するからね」

 ひろみはぷりぷり怒っている。正太郎が、笑い(なが)ら、高志に声を掛けた。

(まった)く、しょうもない事するなあ」

「くっそー、ひでー目にあった。ところで、今日は如何(どう)したんだ? 丁度(ちょうど)、清水の街に買い物に来ていたら、ラインが入ったもんで」

「いや、ただの行きがかりで…。(なん)と無く、集まってさ」


 いずなはレジャーシートの上で、お(もち)やら、お団子(だんご)をほおばっていた。いずなは祐子の髪に()してある耶悉茗(ジャスミン)目敏(めざと)く見つけた。

「ムッキー、ゆうちん、ところで、先刻(さっき)から気になっていたんだけど、髪の耶悉茗(ジャスミン)の花どうしたの? あと、()のオレンジの花は、ポピーだよね?」

 祐子が照れ(なが)らも、とても、(うれ)しそうに()った。

「あのね、先刻(さっき)、お散歩の途次(みちすがら)に、正ちゃんが()してくれたの。オレンジの花は虞美人草(ぐびじんそう)だって」

「ムキッ、本当? やったね。ゆうちん、良かったね」

「…うん」

 祐子は真っ赤になり(なが)らも、(うれ)しそうだ。レジャーシートの上で(くつろ)ぐ祐子。祐子の前には、柏餅(かしわもち)桜餅(さくらもち)三色団子(さんしょくだんご)追分羊羹(おいわけようかん)が残っている。いずなが見咎(みとが)めて()った。

「あれっ、ゆうちん? お(もち)、嫌いだっけか?」

「ううん。そうじゃないの…。(むし)ろ、大好物(だいこうぶつ)なんだけど…」

 そう()(なが)ら、祐子はちらりと正太郎の方を見る。正太郎はと()うと、明彦や凛子達とバカ話をし(なが)ら、笑い(ころ)げている。祐子もお年頃(としごろ)である。勿論(もちろん)甘味(かんみ)は、特にお(もち)(たぐい)大好物(だいこうぶつ)なのであるが、(あこが)れの正太郎の目の前で、お(もち)を7つも8つも食べる(わけ)には、流石(さすが)にいかない。いずなはすぐにピンと来た。

「もう、ゆうちんらしくないよ。多分(たぶん)、正ちんは、ぽっちゃり型が大好きだよ。いずなの()()(かん)は良く当るんだから…。そうだ。確かめてみようよ」

「ちょっと、いずなちゃん。何を?」

「まあ、()いから、()いから。おーい、正ちん」

「ん? 如何(どう)した? いずな」

「あのね、正ちん。正ちんって、女の子、()せ型とぽっちゃり型と何方(どっち)が好み?」

「何だよ。(やぶ)から(ぼう)に…」

 正太郎は質問の意図(いと)()しかねている。遠くで、高志と敬介がキャッチボールをしている。雲雀(ひばり)達も春の歌を一生懸命(いっしょうけんめい)(さえず)っており、長閑(のどか)な春の休日である。祐子は、(まった)く、いずなと正太郎の会話を聞いてない(ふう)で、()のキャッチボールをニコニコし(なが)(なが)めている。…(よう)(よそお)(なが)ら、いずなと正太郎の会話に全神経を集中させていた。正太郎は、ちらりと祐子の方を見やり(なが)ら、いずなの耳元に口を寄せて、顔を赤らめ(なが)()った。

断然(だんぜん)、ぽっちゃり型」

「だよねー。ゆうちんがね、最近、お年頃(としごろ)でね、お(もち)大好きなのに、食べないんだよ。ゆうちん、ぽっちゃりし()ぎていると思う?」

 正太郎は顔を赤らめ(なが)()()った。

「…そんな事ないよ。コロコロしていて、健康的で可愛(かわい)いと思う」

 いずなは祐子の方に顔を向けると、正太郎に気が付かれない様に(つぶや)いた。

「だってさ♪。聞こえた? ゆうちん」

「…もう、いずなちゃんったら。でも、ありがとね」

 祐子はそう()うと、柏餅(かしわもち)を、はむっと口に入れた。いずなはニコニコし(なが)らそれを見ていたが、思い出した様に祐子のカーディガンを見つめ(なが)()った。

「そうかあ、これが虞美人草(ぐびじんそう)かあ。ゆうちん、良く知っていたね」

「ううん。私は知らなかった。全部、正ちゃんの受け売り」

「へー、正ちん、物知りだね。…ねえ、ゆうちん。ひょっとして正ちんさあ、ゆうちんと虞美人(ぐびじん)を重ねたんじゃない」

「えーっ、それは無いでしょ。項羽(こうう)愛妾(あいしょう)虞美人(ぐびじん)絶世(ぜっせい)の美女だよ」

「でも、正ちんからしたら、ゆうちんは虞美人(ぐびじん)って事じゃないの。()の、メンバーの中でそう()った、詩的な表現って、正ちんが突出(とっしゅつ)してやりそうだもん。正ちん、昔から文学少年だったんでしょ。()うした、暗喩(あんゆ)()うか、メタファーを好みそうじゃないの。それに、()耶悉茗(ジャスミン)の花言葉だって、『愛想の良い』、『愛らしさ』だよ。また、白い耶悉茗(ジャスミン)の花言葉は『温順(おんじゅん)』、『柔和(にゅうわ)』だよ。すべて、ゆうちんに当てはまると思うんだけどなあ」

「えーっ、(ただ)偶然(ぐうぜん)だと思うけどなあ」

「よし、それなら、確認しようよ」

「えっ、何を?」

()いから、()いから。おーい、正ちん」

「何だよ。いずな」

「ねえ、ゆうちんが髪に()している花。(すご)()(にお)いがするけど、何かな?」

「ああ、あれか。耶悉茗(ジャスミン)だよ」

「そうか。あれが、耶悉茗(ジャスミン)なんだ。花言葉って何だっけか?」

「うん。確か、『愛想の良い』、『愛らしさ』、『温順(おんじゅん)』、『柔和(にゅうわ)』だよ」

「へー、ゆうちんにピッタリだね」

 正太郎は赤くなり(なが)ら、ひろみ達の方に向いてしまった。いずなは、ニコニコし(なが)ら祐子の方を向くと、()った。

「ねっ、聞いたでしょ。耶悉茗(ジャスミン)の花言葉を、正確に把握(はあく)していたよ。それに、態々(わざわざ)、ヒナゲシが虞美人草(ぐびじんそう)と呼ばれている事を、ゆうちんに解説して、ひなげしをゆうちんに()しているんだよ。正ちんは確信犯。意味するところは(ただ)一つ。『私にとって、あなたは虞美人(ぐびじん)です』。以上。他に解釈(かいしゃく)出来(でき)無いよ」

「えっ、でも…」

 いずなの推理を聞き(なが)ら、祐子は()()になっていた。確かにいずなの推理は一つ一つが(うなず)ける。特に、虞美人草(ぐびじんそう)暗喩(あんゆ)(など)は、如何(いか)にも正太郎が好みそうなメタファーである。そう考えると天にも昇る様な結論である。が、此処(ここ)で、恋に臆病(おくびょう)な少女の意識が頭をもたげる。

(だけど、それって、正ちゃんは私の事を好き…。ううん、違う。多分(たぶん)、いずなちゃんの考え過ぎだ)

 其処(そこ)で、いずなが、(さら)横槍(よこやり)を入れる。

「もう、ゆうちんは。おーい、正ちん」

「また…、何だよ。いずな」

「実は、聞いた話によれば、ゆうちん、恋人募集中なんだって。正ちんなら、お似合(にあい)いじゃないかって思ってさ。如何(どう)かな? 正ちん」

「ど、如何(どう)って、祐子ちゃん魅力的だし、ポチャ可愛いし、性格もいいし、俺なんかとは…」

 正太郎が、其処(そこ)(まで)()った時、祐子と目が合ってしまった。二人は目が合った瞬間、カーッと()()になって顔を下に向けてしまう。

「ムッキーッ、二人とも可愛(かわい)いね」

 いずながニコニコしている。祐子は、先程(さきほど)の様に、視線を他所(よそ)にやり(なが)ら、会話に集中していたのだが、つい、関心が先立ち、正太郎の方を見入ってしまった。正太郎はと()うと、常日頃(つねひごろ)から、意識している祐子の方をチラリと見てしまった。二人は、完全に話の継ぎ穂(つぎほ)を失ってしまい、やがて、下を向いていた二人は、(ほぼ)、同時に顔を上げ、

「…あの」

 と、()い掛けたのだが、また、下を向いてしまった。

「祐子ちゃん、…そ、()の。何か…な?」

「正ちゃんこそ…。どうぞ」

 正太郎は真っ赤になり(なが)ら、

「あの、…柏餅(かしわもち)って、…美味(おい)しいよね」

「…うん」

 はらはらと、桜が()(なず)む中、途轍(とてつ)も無く、微妙(びみょう)な空気が流れている。()の横で、唖然(あぜん)とし(なが)らも、二人の挙動(きょどう)を、じーーっと身を乗り出して見ていた凛子に、明彦が声を掛けた。

「おーい、凛子。何を見ているんだ?」

 凛子が眉間(みけん)(しわ)を寄せ(なが)ら、身動(みじろ)ぎもせずに答える。

「かなり、珍妙(ちんみょう)牴牾(もどか)しい寸劇(ショートコント)を、少々(しょうしょう)…」

 凛子と同様、二人の挙動(きょどう)をじーーっと見つめていたひろみが、横から明彦を(たしな)める。

「しいっ、静かにしなさい眼鏡(めがね)折角(せっかく)、今、()い所なんだから…。正太、ごめんねー。気にせず、続きをどうぞ」

 (にわ)かに、(われ)に帰った正太郎が()()になって()える。

出来(でき)るかー」

 祐子も()()になってちんまりと座っている。そして、其処(そこ)でひろみが、明彦を(とが)める。

「ほら見なさいよ。眼鏡(めがね)。あんたのせいよ。折角(せっかく)、もう少しで、正太か祐子が、愛の告白をした(ところ)だったのに…」

 突然のひろみからの苦言(くげん)に、明彦は(おどろ)く、

「へっ、(おれ)? でも、(おれ)が聞いたときには、(なん)か、柏餅(かしわもち)の話をしてたぞ?」

 其処(そこ)で、ひろみが説明する。

其処(そこ)が、()の二人の奥ゆかしい(ところ)なのよ、多分(たぶん)、後、24時間もあれば、告白(まで)行ったわよ」

 凛子は相変わらず()めた面持(おもも)ちで付け加える。

「見ている方としては、身悶(みもだ)えする(ほど)牴牾(もどか)しかったけどね」

 正太郎が()()になって抗議する。

「…見世物(みせもの)じゃねーぞ」

「…まったく、もう」

 祐子も(ふく)れている。


 桜ヶ丘公園の桜は今が見頃の様だ。(まさ)春爛漫(はるらんまん)である。正太郎はレジャーシートに横になると、空を見上げた。天に向かって薄桃色(うすももいろ)花弁(かべん)幾重(いくえ)にも(つら)なり、万朶(ばんだ)の花は(たお)やか(なが)らも、清明(せいめい)(おだ)やかな日和南風(ひよりまじ)()れている。(ヒヨドリ)が、ピピピピと()(なが)ら、桜の花弁を(つい)ばんでおり、彼が枝から枝へと移るごとに、一枚、そして、一枚、(しこう)して、一枚、染井吉野(ソメイヨシノ)の花びらが正太郎の顔に降って来る。()(はるか)向こうに、(くす)んだ卯月(うづき)の空があった。

「おーい、正太。キャッチボールしようぜ」

「ああ」

 高志の誘いに、口のうちで(つぶや)き、先刻(せんこく)、顔に落ちた桜の花びらを(つま)むと、じっと見(なが)()った。

「本当に祐子ちゃんみたいな花だな…」

 正太郎は花びらを祐子が花びらを(すく)おうと差し出していた手の平に優しく乗せると、靴を()き、(さら)()った。

「高志。今、行く」

 そして、駆け出して行った。

 ひろみ、凛子、明彦も参加し、ゴロベースを始めた。レジャーシートの上には、祐子といずなだけが残った。祐子は横座りのままであるが、右手人差し指を伸ばして、口元に当てている。祐子が思索(しさく)するときの(くせ)である。いずなは祐子を見つめ(なが)ら、ニコニコしている。祐子はいずなに()った。

「ねえ、いずなちゃん。桜の花言葉ってあるの?」

「当然、あるよ。正ちんの先刻(さっき)の一言だよね? 桜自体は『優雅(ゆうが)な女性』、あと、フランスでは『私の事を忘れないでね』だよ。これでも、ゆうちんに対して言っていると思うけど、染井吉野(ソメイヨシノ)の花言葉だと意味合いが更に違ってくる」

染井吉野(ソメイヨシノ)だとまた違うの?」

「うん。染井吉野(ソメイヨシノ)の花言葉は『純潔(じゅんけつ)』、『(すぐ)れた美人』だよ」

 祐子は真っ赤になり(なが)ら、(つぶや)いた。

先刻(さっき)、みんなと合流する前にも、正ちゃんに染井吉野(ソメイヨシノ)()の下で()われた」

「ムッキー、確定だね。それに、いずなも、うっかりしていたけど、抑々(そもそも)雛芥子(ヒナゲシ)の花言葉…」

「教えて、いずなちゃん」

「ムッキー、『恋の予感』だよ。正ちん、雛芥子(ヒナゲシ)の花言葉と虞美人(ぐびじん)を掛けたんじゃないかな? ゆうちんには虞美人(ぐびじん)みたいだと()うのと同時に、自分の心情を花言葉に(たく)して。如何(いか)にも文学青年がやりそうな掛詞(かけことば)だよ」

 確かにいずなの推理は、正鵠(せいこく)()ているものと思われる。(しか)し、祐子は反駁(はんばく)した。

「でも、現に、私には()謎掛(なぞか)けは分からなかったよ。(さいわ)い、いずなちゃんがいたから分かったけど…。それに、例え、謎掛(なぞか)けとしても、何の(ヒント)も残さなければ、気がつき様も無いよ」

如何(どう)かな? 結果として、ゆうちん、()の日のうちに暗示(あんじ)に気がついた。それに、耶悉茗(ジャスミン)()い、染井吉野(ソメイヨシノ)()い、明らかに花に水を向けている。仮に、いずながいなくても、ゆうちん、お家で耶悉茗(ジャスミン)染井吉野(ソメイヨシノ)の花言葉を調べたと思うよ。そして、ヒナゲシもね。正ちん花を()んでくれた事って初めて?」

「ううん。そんな事無いよ。小学校の頃は、良く一緒に遊んでいたから、レンゲの髪飾(かみかざ)りや、白つめ草の(かんむり)を作ってもらったよ」

 いずながニコニコし(なが)()った。

「ほーら、やっぱり。そんな事だろうと思った…。ねえ、ゆうちん。レンゲと白つめ草の花言葉を、教えてあげるね。レンゲは『あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ』、『心がやわらぐ』。そして、白つめ草の花言葉は『私を思ってください』だよ」

「そんな、小学校の時の話だよ。それに、()し、当時、正ちゃんが花言葉の意味を知っていたとしても、ちょっと、奥ゆかしすぎるんじゃないかな」

「そんな事ないよ。とても、正ちんらしいと思うな。いずなも、()の手のメタファー好きだから、正ちんの気持ちは分かるな」

 祐子は、(にわ)かにオロオロし(なが)らいずなに(たず)ねた。

「いずなちゃん。如何(どう)しよう」

「ムッキーッ、絶好の好機(チャンス)じゃん♪。ゆうちんも花言葉で返せばいいんだよ。()の状況なら花言葉を使えば、みんなに気付かれる事無く、100%、あの、野暮天(やぼてん)にも伝わるよ」

「でも、私、花言葉知らないし…」

「じゃん♪」

 いずなは、自身のスマホを見せた。其処(そこ)には『逆引き花言葉』というサイトがあった。

「いずなちゃん。ちょっと、貸してもらえる?」

 いずなはニコニコし(なが)()った。

「うん、いいよ」

 祐子は、真剣な眼差(まなざ)しで、スマホを指先で素早(すばや)く下方に()っている。そして、1、2分程経過したであろうか、ニッコリすると、スマホを返し、()()った。

「ありがとね。いずなちゃん」

「えっ…」

 いずなは、祐子の挙動(きょどう)を見て、唖然(あぜん)とした。()し、いずな以外の人間であれば、祐子が関心が無かったのか、あるいは、確認すべき項目を確認しただけであると、解釈するのであろう。(しか)し、いずなは違った。いずなは、祐子が、約100にも渡る、告白に(まつ)わる花言葉の花の画像と内容を(ことごと)く記憶したと、認識した。いずなは、彼女のごく身近な人物で、これが出来(でき)る人間がいる事を、良く知っていたのである。(したが)って、記憶した事に驚いたのではない。(むし)ろ、自分の初めての友人とも()える祐子が、そう()う事を出来る人間であった事を、()の当たりにして、驚いただけなのだった。いずなは、素知(そし)らぬ顔で、ニコニコし(なが)ら、祐子に(たず)ねた。

「ねえ、ゆうちん。如何(どう)するの?」

「うん。あのね、お家の庭に白い花が咲く()があるの。静岡市の木。あれを帰り(ぎわ)(おく)ろうと思うの」

「うん。それがいいよ」

 いずなは確信した。

(静岡市の木…。花水木(ハナミズキ)だ。確かに、花水木(ハナミズキ)はあのサイトの終わりの方にあった。矢張(やは)り、ゆうちんは、ほぼ、あの一瞬に、内容と画像の、認識と記憶をやってのけたんだ。私と同じ事が出来る人間がいるとは、思わなかったな)

 祐子は、目の前に残った追分羊羹(おいわけようかん)を、はむっと、口に入れると、(ほほ)に手を当て言った。

「この、もちもちっとした食感が、(たま)らないのよね」

 いずなは釣り込まれたように微笑(ほほえ)むと、()った。

「あー、ゆうちん、なんだかんだ言って、全部食べちゃったね」

「えへへ、だから、正ちゃんには内緒(ないしょ)

「もう、ゆうちんったら…」


 祐子は、立ち上がって、(くす)んだ卯月(うづき)の空を見上げた。はらはらと、桜の花びらは、絶え間無く降り(そそ)いで来る。(あたか)も、花びらの大海を泳いでいるようである。祐子は入学から今までを振り返り思った。

(良かった。本当に、良かった)

 そう思わざるを得ない。(あこが)れの正太郎と同じ(クラス)に成れただけでも、過分(かぶん)僥倖(ぎょうこう)だといえるのに、(あまつさ)えも、同じ部活に入れたのだ。これ以上望むのは、分不相応(ぶんふそうおう)であろう。(しか)し、それでも、(かな)うならば、『(ねが)わくば、正ちゃんの(となり)にいたい』。その、一点(いってん)のみであった。そして、祐子は目を(つむ)り、妄想(もうそう)した。舞散(まいち)る、桜吹雪(さくらふぶき)の中、正太郎と手を(つな)ぎ歩く。やがて、正太郎が優しく肩を()き、そして、口づけをする。まるで、(あたか)も、映画のワンシーンの様では無いか。祐子の妄想(もうそう)(とど)まる事を知らない。正太郎は長い接吻(キス)の後、()(ささや)く。

「祐子ちゃん。…結婚、しよう」

 祐子は涙(なが)らに(うなず)く。

「…はい」

 祐子は、夢見る乙女の顔で妄想(もうそう)を続けていたが、

「…子ちゃん。祐子ちゃん」

 自分を呼ぶ正太郎の声で、卒爾(そつじ)として我に帰る。

「えっ」

「祐子ちゃん。大丈夫(だいじょうぶ)? みんなそろそろ帰ろうって…」

 祐子は、白昼夢(はくちゅうむ)の対象である正太郎からの呼びかけにより、顔を(ほの)かに赤く染め(なが)(うなづ)いた。

「は、はい…」


 結局(けっきょく)、その日は14時(ごろ)解散となった。一同は三々五々(さんさんごご)、家路についた。正太郎と祐子は、家路を辿(たど)(なが)ら、朝からの散歩の余韻(よいん)(ひた)っていた。正太郎は考える。雛芥子(ヒナゲシ)の事、耶悉茗(ジャスミン)の事、染井吉野(ソメイヨシノ)の事、(すべ)ての謎掛(なぞか)けは不発であった。それでも、良いと思った。正しくは、いずなの洞察(どうさつ)の通りであった。文学好きの正太郎にとっては、暗喩(あんゆ)暗喩(あんゆ)(まま)である事が文学であって、ネタばらしをして明喩(めいゆ)となってしまっては、文学ではない。それは、最早、無粋(ぶすい)()うものだ。だから、祐子にネタばらしをする心算(つもり)毛頭(もうとう)無かった。勿論(もちろん)、それをするだけの勇気も度胸(どきょう)も無かったのだが…。ただ、祐子に花をあげた時の、祐子の(はじ)ける様な笑顔が見れたことが、何よりも(うれ)しかった。それだけで、良いと思っていた。桜橋から大曲にかけて緩慢(なだらか)な下り坂となっている。坂道をのんびりと下り(なが)ら、祐子が話しかけてきた。

「ねえ、正ちゃん」

「ん? 何?」

「今日は、楽しかったね。最初は、(ただ)のお散歩だったのに」

「本当だね。『犬も歩けば棒にあたる』って、奴かな。でも、面白(おもしろ)かったよね。こんな日も、のんびりしていて()いね」

「あっ、見て。ちょうど、()の道の延長上に山原(やんばら)の中継塔が見える。何か幻想的で、不思議な光景だね」

 正太郎は北の山々に目を走らせた。さらに北西の方角には一際高い竜爪山(りゅうそうざん)が見える。正太郎はその山を感慨(かんがい)深げに見つめ(なが)ら、過去の感傷に(ひた)っていた。

(もうすぐ、5月か。もう、()の季節になるんだ。また、竜爪山(りゅうそうざん)に登らなきゃ)

 つい、その思いが口をついた。知らずに独白(どくはく)していたらしい。祐子は、()の一言を聞きもらさず、ニコニコし(なが)()った。

「正ちゃん、私も連れてってくれる?」

「えっ」

 正太郎は、其処(そこ)で初めて、自身の胸の内を(つぶや)いていた事に気がついた。祐子はニコニコしている。正太郎は少し困惑(こんわく)した。元々、千春などと行く(わけ)では無い。(ただ)の単独行である。祐子と同行しても良かったのだが、正太郎は2つの理由から一人で行きたかった。1つは祐子の体力である。山歩きが趣味である正太郎に比べ、祐子はインドア指向の運動音痴(おんち)である。竜爪山(りゅうそうざん)は中級レベル以上の山であり、初級レベルでも如何(どう)かと思う祐子にとって、適当では無いと思った。2つ目は正太郎の竜爪山(りゅうそうざん)登山は完全に正太郎の私用であり、果たして、祐子を巻き込んで良いものか、と思えたからだ。祐子は正太郎の表情を敏感に(さっ)したのであろう、少し、不安げな表情を浮かべて()った。

駄目(だめ)…かな?」

 正太郎は祐子の表情を、まじまじと見つめた。幼稚園の頃から、()の表情の祐子に対しては、余程(よほど)の事が無ければ、正太郎が確実に折れて来た。

矢張(やは)り、()の顔には(あらが)えない)

 やがて、正太郎はニッコリ笑って()った。

「分かった。一緒に行こう」

「うん」

 祐子の笑顔が(はじ)けた。正太郎は祐子の()の顔が大好きだった。

「でも、竜爪山(りゅうそうざん)って結構大変だよ。祐子ちゃん、大丈夫(だいじょうぶ)かな? 結構(けっこう)遭難(そうなん)する人もいるんだよ」

「もう、(おど)かさないでよ。頑張(がんば)るから」

「じゃあ、来週の日曜日に…。晴れるといいね」

「うん」

 祐子は(うれ)しそうに(うなず)いた。正太郎は、祐子を(おど)かし(なが)らも、まあ、地元では、小中学校の遠足コースとなっているし、心配なのは天気位かなっと、思っていた。何よりも、合法的に祐子と次の約束が出来(でき)た事が(うれ)しかった。


 渋川橋(しぶかわばし)を渡り終わった時、祐子が正太郎に切り出した。

「正ちゃん。今日はありがとね。ちょっと、此処(ここ)で待ってて」

 そういうと、祐子は小走りに自宅方向へ駆け出すと、3分(ほど)(あと)に、新聞紙に包んだ白い花らしき物を持ってくると、正太郎に差し出した。

「はい、今日は一杯、お花(もら)っちゃったから、お礼」

「…あっ、ありがと」

「それじゃあね。また、明日ね」

「うん、ばいばい」

 正太郎は新聞紙に包まれた花をのぞきこんだ。

(ふーん、花水木(ハナミズキ)か。そう()えば、祐子の家の庭に咲いていたなあ)

 そう思った矢先に、『あっ』と、口の中で(つぶや)いた。花水木(ハナミズキ)の花言葉を思い出したのである。が、()の考えをすぐに打ち消した。

(まさか、な…)

 正太郎は目の前の自宅へと軽やかな足取りで向かった。

「ただいま」

 母親が、怒り(なが)出迎(でむか)えた。

「もう、あんたは、朝から何処(どこ)行ってたの。連絡くらいしなさいよ。あら、()のお花、どうしたの?」

「ん、祐子にもらった」

「あんたは、もう。子供見たく。祐子ちゃんはお年頃なんだから、呼び捨てにしちゃ悪いでしょ。()の間、祐子ちゃんのお母さんに、スーパーで挨拶(あいさつ)されたわよ。同じクラス、同じクラブでいつも娘がお世話になっていますって、あんた、そう()う事、全然(ぜんぜん)()わないから…」

「分かったよ。もう、(うるさ)いなあ」

「でも、(なん)で、花水木(ハナミズキ)を…。あら、意外と綺麗(きれい)ね。玄関に(かざ)ろうかしら」

「あっ、母さん。待って。それ、俺の机の上に(かざ)りたいんだけど…」

「そう、…まあ、あんたが貰ったものだからね」

 正太郎は母親から花瓶(かびん)を受け取ると、自室の机の上に置いた。母親は、両肘(りょうひじ)頬杖(ほおづえ)を突き、ニコニコと花水木(ハナミズキ)(うれ)しそうに(なが)める我が子を見ると、何を思ったのか、

「へー、そうか、そうか。そう()う事か。成程(なるほど)ね」

 と、()(なが)ら、エプロンで手を()(なが)ら、台所に行ってしまった。


 (ちな)みに、花水木(ハナミズキ)の花言葉は『私の想いを受けてください』である。




 いつもの面々が、深刻な面持(おもも)ちで部室に(そろ)っていた。入学後2週間、4月も半ばに差し掛かっていた。ひろみが口火(くちび)を切った。

「ねえ、聞いた化学のあの(うわさ)?」

「ああ、元素(げんそ)周期表を全部覚えるとか何とか?」

「何か明日から化学のあるクラスは試験(テスト)があるみたいよ」

 (うわさ)では、周期表の元素(げんそ)記号、元素(げんそ)名を任意(にんい)に出題して書かせるらしい。厳密(げんみつ)には、周期表全部といっても、全部という(わけ)ではないのだが、此処(ここ)は、化学教師の北村の言葉を引用(いんよう)した方が正確であろう。

『いいかあ。お前ら。1族、2族、あと13族~18族で元素番号88以下の元素(げんそ)記号と元素(げんそ)名を全て覚えて来いよ。次回テストをやるぞ。全20問17点以下は追試(ついし)だぞ』

(まった)く、(なん)て学校だよ。普通Caまで言えれば、()いんじゃないのか?」

 と、正太郎がぼやけば、すかさず、ひろみが(とが)める。

「ばかねえ。それじゃ、中学生と同じでしょ。あれ、高志は随分(ずいぶん)と余裕ね」

「ああ。だって、俺、全部覚えたもん」

「えーっ」

「見てろ。ほれ」

 高志がレポート用紙に書き上げた。明彦が周期表と見比(みくら)べる。

「本当だ…。全部、あっている」

 一同、高志に驚嘆(きょうたん)眼差(まなざ)しを向けた。

「こつがあるんだよ。実は、(おれ)も、昨日聞いたばかりなんだが…」

「誰に?」

()の小説の作者に」

「作者あ?」

(やつ)()うには、高校1年の時に覚えて、今年55才になるらしいが、40年()っても、いまだに忘れてねえとか、豪語(ごうご)してやがった。打倒第三の壁とか()ってたぞ」

「何者なんだ?」

「何でも、親父の古い友人らしい。自称(じしょう)、小説家とか()っていたが、本業は銀行員らしい。でも、俺が思うに、多分(たぶん)(にせ)銀行員だな。札勘(さつかん)出来(でき)無かったし、字も、(ちょう)下手糞(へたくそ)だった」

「ふーん。胡乱(うろん)(やつ)だな…」

「ああ、まあ、おかげで助かったんだがな。昨日、うちで親父と飲んでやがった」

胡散臭(うさんくさ)い人ねえ…。とにかく、教えなさいよ」

()いけど…、(ただ)、恐ろしく下品なんだよ。()れに、覚えたはいいけど、()の後の40年間の人生で、(ただ)の一度も使わ無かったとも、()ってたぞ」

「何か、テンション下がるわね」

 と凛子が()った。ひろみは、高志を()かす。

()いから、早くしなさいよ」

 高志が即席の講師となり、臨時の講義(レクチャー)が始まった。

「まず、『水兵リーベ僕の船七曲シップスクラークか』が基本だ。どうせ、()のメンバーだ。みんな知ってるだろ?」

「ああ」

「まあ。一応ね」

「当り前じゃないの」

「いずなも知ってるよ」

 敬介が、

「えっ。何それ。初めて聞いたぞ」

「お前は、まず、其処(そこ)から覚えろよ! よく、()の学校に来れたな?」

「だって。(おれ)スポーツ(わく)だもの」

「嘘つけ!」

()いから、始めなさいよ」

「じゃ。まず、『水兵リーベ僕の船七曲シップスクラークか』を紙に書く。これが基本だ」

其処(そこ)で、1族。アルカリ金属だ。これはちょっと苦しいが『い(Li(リチウム))な(Na(ナトリウム))か(k(カリウム))でルビー(Rb(ルビジウム))をせし(Sc(セシウム))めてフランス(Fr(フランシウム))に逃亡』と覚えるらしい」

「かなり、苦しいわね」

「続いて、2族。アルカリ土類だ。これは、かなり秀逸(しゅういつ)だぞ。これは『ベ(Be(ベリリウム))ッドでまぐ(Mg(マグネシウム))あい。彼(Ca(カルシウム))女とすれ(Sr(ストロンチウム))ば人生ば(Ba(バリウム))ら(Ra(ラジウム))色』と覚えるらしい」

「乙女に、(なん)てえ事、()わせるのよ!」

「わーっ。待て。正拳(せいけん)突きは()めれ! 文句だったら馬鹿作者に()え」

 もくもくと書いていた祐子が、(まゆ)(ひそ)め、

「確かに、語呂(ごろ)合わせとしては、秀逸(しゅういつ)だと思うけど、女の子にはちょっとね…。でも、覚えよ」

「祐子。馬鹿どもにとってはそうでもないみたいよ。割と、親和性(しんわせい)があるみたい」

 と、凛子がため息混じりに()い捨てた。

 正太郎が、嬉々(きき)として、言い放った。

「これはすごい。大地に雨が染み込むように、大脳(だいのう)皮質(ひしつ)()み込むぜ」

 敬介も感激している。

「おお。何かアルカリ土類(すご)いな。俺、多分(たぶん)、アルカリ土類の事、一生忘れないぜ」

随分(ずいぶん)とくだらねえ一生だな…」

「うるさい」

「で、次、13族ホウ素族元素なんだが。これは流石(さすが)の俺も()えねえ。小説自体削除される恐れがあるからな。一応、『…(B(ホウ素))…(Al(アルミニウム))…(Ga(ガリウム))…イン(In(インジウム))サートしたり(Tl(タリウム))』らしい」

 凛子が、又かと()わんばかりに(つぶや)いた。

「最後だけ聞こえたけど、相当、(ろく)でも無い内容みたいね」

「次の14族。炭素(たんそ)族元素は明快だ。『く(C(炭素))さい(Si(珪素))下(Ge(ゲルマニウム))痢すん(Sn(スズ))な(Pb())』」

 ひろみが呆れる。

「本当に下品ね」

 敬介が(いぶか)しむ。

「何で『な』がPb()なんだ?」

(なまり)だからだろ」

「続いて、15族の窒素(ちっそ)族元素。『日(N(窒素))本(P(リン))の朝(As(砒素))は酢豚(Sb(アンチモン))にビ(Bi(ビスマス))ール』」

 ひろみが、あきれ(なが)ら言った。

「なんか、朝っぱらから、胃にもたれそうね」

「16族。酸素系元素。『オ(O(酸素))ス(S(硫黄))の性(Se(セレン))器は鉄(Te(テルル))砲(Po(ポロニウム))』」

「だから。あんたは、乙女に向かって…」

 凛子も(うたが)わし()眼差(まなざ)しを高志に向ける。

「ちょっと、これ、あんたが適当に作ってんじゃないでしょうね! セクハラ目的で」

「そんなつまんねー事する訳ないだろ。凛子!」

「もとい。17族。ハロゲン族だ。これは、『ふ(F(フッ素))っくら(Cl(塩素))ブラ(Br(臭素))ジャー私(I(ヨウ素))に合った(At(アスタチン))』尤も、作者は『ふっくらブラジャー愛の(あと)』と、覚えたらしい」

「確かに秀逸(しゅういつ)ね。相当下品だけど」

「何が秀逸(しゅういつ)なもんか。祐子や凛子ならともかく、ふっくらブラジャーがお前やいずなにあう(わけ)…うがっ」

 ひろみの怒りの肘打(ひじう)ちが、高志の鳩尾(みぞおち)にめり込む。

「ムキー。ひろみっち。もう一発、いずなの分も昇龍拳入れといて」

「で、最後の18族。()ガスなんだが、これだけは、絶対に()えない」

「でも、()わなきゃ分かんないでしょ」

「絶対。正拳突きしないか?」

「しないわよ」

「逆関節もとらないか?」

「とらないわよ」

「じゃ、()うが、聞こえると、流石(さすが)にやばい。ちょっと耳を貸せ」

「ゆーちん。いずなも聞いてくるね」

「(He(ヘリウム))…(Ne(ネオン))…(Ar(アルゴン))…(Kr(クリプトン))…(Xe(キセノン))…(Rn(ラドン))」

 みるみるうちに、ひろみの顔は真っ赤になり、

「おのれはー。無垢(むく)な乙女に何てえもの、聞かせるのよ! ぶっ殺すわよ!」

「いや、だから、怒らないって()ったじゃないか」

(おの)ずと、限度と()うものがあるでしょ!」

 いずなが、赤面し(なが)ら、ててててーと、戻ってきた。祐子がいずなに聞いた。

如何(どう)だった? いずなちゃん」

「ムギー。何か凄い事、()ってた。アレだとかクリ●●●だとか●exだとか乱交だとか…。ヴー。夜、夢に見そう…」

 正太郎と敬介が、いずなの隣へ即座に瞬間移動(キングクリムゾン)して来た。

「く、(くわ)しく!」

「とまあ、こんな感じなんだわ。後は、普段馴染(なじ)みのない元素名が分かるかどうかが鍵だな、インジウムだとか輝安鉱(アンチモン)だとかアスタチンだとかテルルとか」

「テルルって『ケロロ軍曹』に出てこなかったけか?」

 と、祐子がボケれば。

「こねーよ。でもラドンはゴジラシリーズに出てきたぞ」

 と、正太郎も突っ込む。凛子もあきれ(なが)らも()った。

「でも、何とかなりそうじゃないの? 途轍(とてつ)も無く下品だけど…」


 数日後。祐子が部室にいると、正太郎と高志が入ってきた。

「あっ。正ちゃん。如何(どう)だった?」

「満点。高志もな。祐子ちゃんは?」

「うん。満点。あと、いずなちゃん、ひろみちゃん、凛子ちゃん、明彦君、みんな満点だったよ」

「今回ばかりは、高志様様(さまさま)だな」

「でも…。敬介君が5問間違えて…。元素(げんそ)記号は全部分かったらしいのだけど…。元素(げんそ)名を間違えたって」

「何を間違ったんだ?」

In(インジウム)Sb(アンチモン)Br(臭素)kr(クリプトン)Xe(キセノン)

「インジウム(In(インジウム))は?」

「………インサート」

輝安鉱(アンチモン)Sb(アンチモン))は?」

「すぶた」

臭素(しゅうそ)Br(臭素))は?」

「…ブラジャー」

「まさかとは思うけど、クリプトン(Kr(クリプトン))は?」

 祐子は、顔を、()れ以上無い位に赤く染め、耳朶(じだ)の付け根まで真っ赤にし(なが)ら、

「…それは…、…ちょっと…。…()え無い」

「聞くまでもなさそうだけど、キセノン(Xe(キセノン))は?」

「それも…。ちょっと」

「…あのバカ」

「間違い方が、さすがに悪質だって。故意(こい)じゃないかって、それで、さっき、北村先生に、職員室に呼び出されて…。いずなちゃんが様子(ようす)を見に行ったんだけど、今度、追試だって。で、今、反省文を書かされてる」

「…おい、高志。後から敬介にラーメンでもおごってやれよ…」

「えーっ」

 敬介が反省文を書き終え、半べそかき(なが)ら出て来た。いずなが部室で待っており、敬介を(なぐさ)める。

「ムキ、大丈夫? (あと)ちょっとだったじゃないの。でも、クリプトン(Kr)とインジウム(In)とキセノン(Xe)はちゃんと覚えないと、いずな。お口()いてあげないよ」

「…はい」

 敬介君は項垂(うなだ)れた(まま)()()いましたとさ。


我々は、時折、日常と非日常の境を見失う事があり、其れとは知らずに、非日常へと足を踏み入れる事がある。日常と非日常の境界は一体何処に? 楽しい筈のハイキングで、一転、絶体絶命の正太郎と祐子。そして、其の時、正太郎が下した決断とは? 次回、『第3話 正常性バイアス』。お楽しみに。

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