第18話 夏休み最後の日々と坊主捲り
合宿終了の翌日も、朝から暑い日だった。じりじりとした茹だる様な暑さの中、縁側の葦簀越しに、庭の向日葵も余りの暑さに、其の首を傾げている様に見えていた。時折、ぶら下がった江戸風鈴が、気紛れに、涼しげな音色を奏でている。
其れでも、夏はとおり過ぎて逝く。時刻は朝8時30分。祐子は自室で音楽を聞き乍ら寛いでいたが、朝から、正太郎と会えない日常に、多少、戸惑いを感じていた。合宿中では、当たり前であった何気ない日常が、想い出の写真の様に、頗る遠くに感じる。祐子の切実な想いが俄かに噴出する。
(正ちゃん。如何しているかなあ。正ちゃんに会いたいな)
恐らく、正太郎は宿題の追い込みの真っ最中であろう。確か、宿題が未だ半分位残っていると謂っていた。来週には、新学期である。然も、始業式の翌日には、夏休みの宿題を範囲とした全教科実力テストがあるのだ。以前にも記した事でもあるが、一体に、此の清水高校と謂う高校は、極めてテスト好きである。長期休暇明けに、いきなり、実力テストを被せて来る辺りは、発想として、実に悪魔じみている。多くの学生たちは、夏休み最後の週に、不本意乍らも、テスト対策に、呻吟せざるを得ないのだ。
祐子は考える。流石に、必死になって頑張っている正太郎の邪魔をしても、申し訳が無い。とは謂え、此処数日間、何時も傍らにいた正太郎がいないと謂う事が、此れ程迄に寂しい事だとは思わなかった。祐子は逡巡した挙句に、ごく短いメールを送った。
『おはよう。正ちゃん。宿題やってる?』
返事は直ぐに返って来た。
『おはよう。祐ちゃん。宿題は未だやってないよ。祐ちゃんと会えないだけで、落ち着かなくて。…あのね、良かったら、中央図書館で一緒にやらない?』
忽ち、いつもの様に祐子の笑顔が弾けた。
『うん。喜んで。うれしいな。私も正ちゃんと会えないと、落ち着かなかったの。何時にする?』
『9時に祐ちゃんの家に行くよ』
祐子にして見れば、少々、意外でもあった。正太郎の提案がである。正太郎が此の様なハッキリとした物謂いで祐子を誘うのは、随分と久し振りでも有る。或いは、合宿の時と較べた今の日常との落差は、正太郎にしても、耐え難いものであったのかもしれない。祐子は弾む様な足取りで階下に行き、支度をして、9時10分前には玄関で待っていた。背中には愛用のピンクのデイパックを背負っており、髪にピンクのリボン、ピンクのポロシャツに青色のスカートである。正太郎が来るのを待ちきれ無かったのだ。祐子の母親が驚いて声を掛けた。
「あら、祐ちゃん。如何したの?」
「あのね、ママ。正ちゃんと宿題をやりに、中央図書館に行って来るね」
「あらあら、玄関の框でなくて、中で待っていればいいのに」
「うん。でも、正ちゃん、もう直ぐ来るし、ねえ、ママ。リボン変じゃない?」
母親はニッコリと笑うと、
「大丈夫ですよ。うんと可愛いわよ。祐ちゃん」
「ありがとう。ママ」
そう謂うと祐子は、また玄関の框に腰掛けた。キキーッと謂う、表で自転車が止まる音が聞こえた。
「あっ、ママ。来たみたい。じゃあ、行って来るね」
「気をつけてね。正ちゃんによろしくね」
祐子の母親は愛娘を見送り乍ら思った。
(あらあら。祐ちゃんたら、本当に正ちゃんの事が大好きなのね)
正太郎は、自転車を青紫の朝顔の蔓が絡みついたフェンスの脇に置くと、祐子の家に向かって歩きかけていたが、笑顔でウサギの様に飛び出してきた祐子を見付けると、すぐに笑い乍ら声を掛けた。
「おはよう。祐ちゃん」
「おはよう。正ちゃん」
「わあ。其のリボン可愛らしいね。良く似合ってる」
「えへへ。ありがとう」
「あっ、そうそう、写真ありがとうね。早速、みんな、ダウンロードしたみたいだよ。あのね、昨日まで、四六時中、一緒にいたもんで、昨日の夜から、ずっと寂しかった。今日の朝、5時過ぎにお散歩しようって、メール送ろうかと思ったもん」
「私も同じ。昨日の夜も、メール送ろうかと思ったけど、宿題の邪魔になってもと思って我慢したの。本当は、今朝も5時過ぎに正ちゃんの家の周辺をお散歩したの。出会えるかなって思って…」
正太郎が笑顔で提案した。
「もし、良かったら、夏休みの残り期間、昔みたくラジオ体操に行かない? 二人とも朝型だし。彼処なら、今も小学生達が毎日やっているよ」
祐子の笑顔が弾けた。
「もちろん、オーケーだよ。やったー。此れで、毎日正ちゃんと会える」
「でも、今日は、わざわざ、付き合ってもらって、ごめんね。祐ちゃん、本当は宿題は粗方終わっているんだろ?」
「ううん。未だちょっと残っているし、多分、宿題の範囲が、テスト範囲になると思うし…」
「だよなー。あと、1週間がんばって見るよ」
其の件の宿題である。まず、数学は問題集。量が多い上に、難易度が恐ろしく高い。化学も問題集。数学と同様。生物、日本史、世界史も同様。だが、此れらは未だマシなのだ。其の他の教科、例えば英語。英語1ページから22ページまで熟読の事。英語20ページまで熟読の事。古文は百人一首の最初の50首を暗記の事。と謂った調子だ。問題集はまあ良いとして、熟読だの暗記といった、聊か抽象的な内容だと、つい、手を抜きたくなる。さらに、始末に悪いのは、今、挙がらなかった教科である。其れらは、宿題が無い事になるが、宿題が無いからと謂って、テストが無い訳ではないのだ。当然、テスト範囲も決っている。結局、テストは地力勝負となるのだ。正太郎は、実の処、合宿のお陰で、英語以外の教科の問題集は粗方終わっていた。だが、苦手な英語は、略、手付かずだった。
「多分、此の1週間は英語漬けだな」
「大丈夫だよ、正ちゃんなら。頑張ろうよ」
中は割りと広く、自習用の個人スペースと二人がけの自習スペースがあった。正太郎たちは二人用の自習スペースに座った。宿題は非常にテンポ良く進んだ。正太郎は2時間で7ページほど終了した。矢張り、祐子は英語の語彙力がある。此の進捗状況は、正太郎単独では考えられないペースだった。其処で、祐子に一服しようと持ちかけ、祐子も同意した。
「祐ちゃん。ありがと。本当に助かった。祐ちゃんがいなければ、多分、一日中やっても3ページくらいだと思う。だから、せめてジュースを奢らせて」
「正ちゃん。それは駄目だよ。此の間、約束したでしょ」
「あっ」
正太郎は思い出した。お互いに無理をしない様にと、デートの時は割り勘にしようと決めた事を。事の発端は、件のホテルの直後だった。ホテルの支払いの時に祐子が謂い出したのだが、其の時は、流石に正太郎も譲らなかった。女の子にホテル代なぞ出させる訳にはいかない。然し、結局、祐子の『一生の思い出だから、私も参加させて』の一言に負けたのだった。
「だから、自分の分は自分で出すよ」
「うーん。何か申し訳ないなあ」
「そお? 無理するよりも。毎日デート出来た方が良いもん」
「確かにそのとおりなのだけど…。やっぱ、申し訳無いよなあ」
ニコニコしていた祐子が、急にイタズラっ子の顔になって、
「じゃあ。後から、ご褒美を頂戴」
「ご褒美?」
「そう、ご褒美。…合宿中は5回しか、してもらえなかったし…」
正太郎にも何の事かは直に分かった。確かキスは、夜、河原で星を見た時と、朝のお散歩の時しかしていない。
「なんか…恥ずかしいね。後からね」
祐子がニコニコし乍ら頷いた。
「うん」
「場所は如何する?」
「赤灯台がいいな」
今度は正太郎がいたずらっ子のような顔つきになって謂った。
「でも、祐ちゃん。あんまり、可愛いと俺、止まれなくなっちゃうかもよ」
「…もう。…でも、私も止まれなくなっちゃうかも…」
「何が止まれなくなっちゃうの♪」
突然、後ろから声が聞こえた。
「うわあ」
「い、いずなちゃん」
其処には、身長150センチそこそこの、小学生の様な体型のいずなが、炎天下の歩道にニコニコし乍ら佇んでいた。赤で大きく『♪』を描いたピンクのTシャツに水色のショートパンツのラフなスタイルだ。ウェーブ掛かったおかっぱボブカット、やや釣り目のクリクリッと大きな瞳に、チャームポイントの八重歯が愛らしい。
「何で此処に居る? って謂うか、何時から居る?」
「…ん。朝からだよ」
「そうじゃない」
正太郎は急に声を潜めると、顔を赤らめ乍らも改めて尋ねた。
「今の会話。何処ら辺から聞いてた?」
「最後の方だけだよ」
「具体的には?」
「んーと。ご褒美の辺りかなあ…」
いずなは、然も恍けた様に嘯く。
「略、全部じゃねーか」
「嫌あ。いずなちゃんってば」
祐子が真っ赤になった。いずなは確かに幼児体型だが、あの体型に騙されてはいけない。いつものメンバーの中でも、相方の敬介とは正反対に、洞察力、推理力はメンバー内でも、屈指なのである。恐らくは、先刻の会話で、概ね、状況を把握したに違いない。いずなはニコニコし乍ら謂った。
「大丈夫。若いんだから、止まれなくても仕方無いよ。いずなは気にしないよ」
「だーっ、俺達は気にするんだよ。お前に聞かれた事の方を。ところで、いずな。こんな処で何してるんだ?」
「んー。宿題。正ちんやゆうちんと同じだよ」
「えっ。だって、いずな。おまえは粗方、片付いていた筈じゃ…」
いずなは仄かに顔を赤らめて謂った。
「だから、ゆうちん達と同じ。…ケースケ君と一緒に宿題やってるの」
「敬介君もいるの?」
「うん。中で頑張ってる。数学問題集が後少し。社会は終わった。今日中に問題集を終わらせたいって。いずなは、のどが渇いたから、ジュース飲みに来たんだよ」
「そうか。じゃあ、俺が買ってくるよ。大丈夫、祐ちゃん。後で請求するから。祐ちゃんはレモンティーだよね。いずなは何にする?」
「ダイエットコーラ」
「分かった。俺と同じだ」
「ゆうちん。其のおリボン可愛いね。正ちんが止まらなくなっちゃうのも、無理ないね」
「喧しい!」
「もう、いずなちゃんの意地悪」
正太郎は自販機を探して、ぎらつく太陽の許、桜橋駅の方に歩いていった。祐子はいずなに向かって笑い掛けた。
「昨日まで一緒にいたのに、会えないと不安になって、つい、正ちゃんにメールしちゃったの。本当は、正ちゃんの邪魔しちゃっているのかもしれないけど」
「あのね。ゆーちん。いずなも同じだよ。今朝から、ケースケ君に会えないだけで、落ち着かなくて、電話掛けちゃったの。『一緒に宿題しない?』って、そうしたら、ケースケ君。『僕から、お願いしようと思ったんだ。一緒に宿題やらない?』って謂ってくれたんだ。いずな。ケースケ君に会えるって思っただけで、ドキドキしちゃって、こんな事初めてだよ」
恋する少女二人の会話は、とても弾んだ。其のうち、正太郎が戻って来て、あと、2時間ほど頑張って14時ごろファミレスに行こうと謂う事で意見が纏まった。
「ところで、いずなちゃん達は何処にいるの?」
「個人用のスペースだよ。流石に、夏休み最終週だけあって、いずな達が来た時には、略、満席だったよ。じゃあ、ケースケ君にも伝えておくね」
14時過ぎ。街路樹の欅の幹に、油蝉が止まってがなり立てている。正太郎と祐子は図書館の入り口で待っていた。其のうち、敬介といずなが出て来た。
「おーい。正太、祐子ちゃん。写真ありがとな。早速、ダウンロードしたぞ。」
「如何いたしまして。ところで、如何だ。宿題、進んだか?」
「いずなちゃんのお陰で、バッチリ。…と、謂いたい処だが、未だしの感がつえーな。まだ、先は長げーよ」
「俺もだ。ところで、何処に行く」
「此の近所だと、フェルケール博物館の所かなあ」
「そうだな」
一同、ドリームプラザ近所のファミレスに到着した。店内はそこそこ混んでいた。奥で高校生らしい二人連れがノートを広げている。如何やら、宿題をしているらしい。夏休みの最終週であり、まあ、謂わば、夏の様式美の風物詩である。此の光景は何処も同じであろう。店内を顧眄していたいずなが、突然驚きの声を挙げた。
「あれ、ひろみっちじゃない? おーい。ひろみっち」
薄桃色のTシャツにジーンズ姿のひろみも、素っ頓狂な声を上げた。此れには、余程、驚いたらしい。
「あれっ。いずなじゃない。あんた。こんな所で何やってんのよ!」
「宿題だよ。げっ。ハロゲン族もいる。なんか怪しい」
ひろみが真っ赤になり乍らも、抗弁する。
「私は富士見町だよ。近所だもん。何の不思議も無いわよ。あーそうそう、正太、写真ありがとね」
ハロゲン族も便乗する。
「俺も近所だもん。何の不思議も無いぜ」
正太郎が、透かさず突っ込む。
「ウソつけ。如何見ても、5km以上離れているじゃないか」
「うるさい。中央図書館に行ったけど、満室だったんだよ」
其処で、いずなも突っ込む。
「ヴー。怪しい。図書館で満室なんて謂わない。其れ謂うの、カラオケか如何わしい施設」
其処で高志は、此処ぞとばかりに叫ぶ。
「其れだ! ひろみ! 今度、図書館が満室なら、其方に行けば良いんだ。平日なら、フリータイム。3500円で一日中、エアコンの効いた部屋で、勉強し放題。勉強に飽きたら、…別の事すれば良いし。ナイスアイデアだろ。あいてててっ」
「乙女に向かって、何て事、謂うの。此のハロゲン族は。…もう。なんで、こんなおたんこなすを好きになっちゃたのかしら」
ひろみは真っ赤になり乍ら、高志の耳を引っ張り上げ、ふくれている。
「ひろみっちがふくれたところ、かわいー。あれじゃあ、ハロゲン族が夢中になるのも分かるね」
「喧しい。ところで、お前らは何しに来たんだ?」
「俺たちも、図書館で宿題してたんだよ。でもって、今は昼飯食いに来たんだよ」
「じゃあ、俺たちも一息入れて、飯にするか。流石に、コーヒー一杯で3時間は気が引けてたんだよな」
正太郎が呆れ乍ら謂った。
「迷惑な客だなあ。そのうち、出禁になるぞ。ところで、高志たちこそ、何でこんなとこでやってんだ。高志もひろみも、宿題なら粗方終わっているんだろ」
ひろみがコーヒーを啜り乍ら謂った。
「まあ、そうなんだけど、全部終わった訳じゃないし、抑々、あの宿題は、宿題に託けて、休み明けのテスト勉強して置けよって、事じゃない。終わりなんか無いわよ。それに、宿題が無い教科も不気味だし」
「それな。まあ、俺も朝から、やってたんだが、イマイチ集中出来無くてな、つい、ひろみに電話した訳だ。やっぱ、1日1回、ひろみ姉さんの小さな胸を拝ま無いと、調子が…げほっ」
ひろみが、肘うちをし乍ら、大きく溜息をついた。
「はあ、本当にもう。なんで、こんなおたんこなすに惚れちゃったんだろ…」
食事が終わったところで、敬介が提案した。
「ちょっと、みんな聞いて欲しい。ひろみと、おたんこなすも…」
「誰が、おたんこなすだ」
高志が反論するのを抑えて、ひろみが極めつけた。
「あんたよ。で、何なの?」
「俺が、多分、此の中で一番遅れているから、申し訳無い提案なんだけど、今週、宿題やるなら一緒にやらないか? 俺、此の調子だと、あと一週間は掛かると思うけど、多分、図書館は毎日一杯だろう。俺の家なら、少々、遠いけど、広さだけは充分にある。前に麻雀の時、謂ってた部屋だ。如何だろうか?」
確かに、強ち、悪い提案では無い。と、謂うよりも、寧ろ、良案である。祐子が思案気な面持ちで謂った。
「願っても無い提案だけど。敬介君の家に迷惑が掛かるでしょ?」
「全然。俺の家、高志んところと同じで農家だから昼間は誰もいないし、提供する部屋は20畳。離れだから、例え、大騒ぎしても母屋には聞こえないよ。本当は、今日いずなちゃんから電話があった時、考えたんだけど、俺の家、遠いから止めたんだ。でも、図書館がこれだけ混んでいるなら、と思ってさ。それに、離れはパソコン置いてあるから、ネットも使える。ワイハイもOKだよ。飲み物も家の前に自販機があるし、コーヒーメーカーがあるから、何時でも飲める」
「いずなは賛成。それに、図書館だと、私語厳禁だしね」
正太郎がニコニコし乍らも、多少、不安気に謂った。
「願っても無い提案だけど、本当に良いのか? …若し良ければ、是非お願いしたいよ。抑々、俺は英語が苦手だから、誰かに聞けるのって、すごく有難いし、助かる。静粛な図書館だと、中々聞きづらくてさ…。祐ちゃんは如何かな?」
「私も是非お願いしたいな。図書館もいいけど、あの混み具合だと離席出来ないし、私語も出来無いもんね。それに、やっぱり、誰かに聞けるのって、いいよね。ひろみちゃんは?」
「私も助かる。未だ、問題集も英語も少し残っているから。それに、図書館もあの様子だと、今週は無理っぽいもんね。高志は?」
「ああ。俺も賛成。だけど、昼飯は如何する? カップ麵でも持ち寄るか?」
祐子がニコニコし乍ら謂った。
「お弁当なら作るよ」
正太郎が謂った。
「いや、それも申し訳ないよ。朝、ラインでオーダーとって、俺が、花月でまた買ってくよ」
「いずなも賛成。彼処のおにぎり、おいしかったし」
最後は高志が取り纏めた。
「じゃあ、全員賛成と謂う事でいいかな? 敬介、迷惑掛けるけど、世話になるよ。あと、眼鏡たちも連絡しようぜ。あいつらも、絶対、単独でやってないぜ。二人で何処かでやっているに決まっているさ。試しにメールしてみるか?」
返事は直に返って来た。まず、凛子からだった。彼らは自宅近所の草薙にある県立図書館に居るらしい。
『若し、良ければ是非参加したいわ。今、県立図書館にいるけど、すごく混んでいて、堪ったもんじゃないわ。離席出来無くて、トイレにも行けないもの。でも、敬介、お家の人は大丈夫なの?』
『俺も参加させてくれ。今日、一日、県立図書館で、凛子と宿題していたんだが、混み方が半端ねえ。それに、聞ける奴がいるのは大きい。俺も凛子も参加だ』
解散した後、約束どおりに二人で赤灯台に行った後、中学校の傍にある、コーヒー専門店のTコーヒーに来ていた。祐子は正太郎に尋ねた。
「如何して、コーヒー専門店に?」
正太郎は照れ乍ら答えた。
「実は、俺、高校受験以来、コーヒーに凝っているんだ。折角、敬介が場所を提供してくれるから、せめて、コーヒー豆でも持って行こうと思って。あと、お茶菓子も」
「それなら、私も、正ちゃんち家の傍のスーパーでお菓子を買って行くよ」
「じゃあ、俺も付き合うよ」
翌日、正太郎がラジオ体操の会場に行ったら、祐子はニコニコし乍ら待っていた。今日は、白のTシャツにグレーのハーフパンツ姿で、実に、健康そうないでたちである。愛犬のラブラドールレトリバーのペスも一緒で、ペスは『ワン、ワン』と大喜びで吠え、尻尾を振り乍ら、正太郎の方に寄って来た。相変わらず、人懐っこい仔なのである。
「おはよう、祐ちゃん。おお、ペスも元気そうだな」
ペスは其れに応える様に、ワンワンと吠え乍ら、正太郎に鼻を摺り寄せてくる。
「おはよう。正ちゃん。昨日は、あの後、やった?」
「うん。12時位までやった。祐ちゃんは?」
「私もそれ位。本当は10時位に休もうと思ったけど、今日の事考えたら、わくわくしちゃって…。ところで、今日、何時ごろ行くの?」
「先刻、おにぎりの注文のラインを回した。8時過ぎに花月に、買いに行くつもり」
「あっ、本当だ。ラインが着ている。でも、丁度良かった。昨日の夜、いずなちゃんからメールがあって、一緒に行こうって事になったの。9時に学校の講堂前で待ち合わせ。あと、ひろみちゃんも。正ちゃんも一緒に行こうよ!」
「分かった。敬介に時間を、知らせておくよ。ラインで。じゃあ、祐ちゃんの家に8時50分でいいかな?」
「うん、待ってる」
正太郎が花月でおにぎりを買って、祐子の家に行ったのは8時45分頃だった。祐子は例によって玄関で待っていた。髪にピンクのリボン、白のポロシャツに紺色のスカートである。
「おはよう、正ちゃん。うわっ、おにぎり、すごい量だね。半分持とうか?」
白のTシャツに青のハーフパンツ姿の正太郎が謂った。
「いや、大丈夫だよ。にしても、高志と明彦。買いすぎだ。二人で20個だぞ。おにぎり屋でも始めるつもりか、まったくもう」
「えー、そんなに」
正太郎と祐子が学校に着いたのは、8時50分位だった。いずなとひろみはもう既に待っていた。いずなは、白地に紺色でト音記号が描かれたTシャツ、水色のショートパンツにサンダル。ひろみはピンクのポロシャツにベージュのキュロットスカートにサンダル。二人とも川遊びが出来そうないでたちである。
「いずなちゃん。ひろみちゃん。おはよう」
「あっ。ゆーちん、正ちん、おはよう」
「おはよう、祐子、正太。相変わらず、仲睦まじいわね」
「ほっとけ。此れで全部か? あれっ、眼鏡たちは?」
「凛子っちは二人で行くんだって。仲いいよね」
「本当ね。ところで、眼鏡たちって、付き合っているの?」
「いずなもよく分からないんだよ」
「でも、いつも一緒にいるもんね」
と、祐子。ひろみも、それに続く。
「本当に、謎なのよね。ところで、敬介んち、誰か知ってる?」
正太郎が笑い乍ら答えた。
「俺が知っている。一学期中に、一度遊びに行った事がある。清水いはらインターの方。庵原球場やナショナルトレーニングセンターより向こうだ。金谷のバス停の先。結構登るぞ。じゃあ、行こうか」
学校から秋葉神社の横の道を、夏の強烈な日差しに弄られ乍ら、汗を拭き拭き進んだ。正太郎が自転車をこぎ乍ら謂った。
「昔、明治の末期だか大正の頃、此の道は軽便鉄道が走っていて、今の道は其の跡地だったそうだよ。それこそ、今から行く、敬介の家辺りまで、軽便鉄道が通っていたらしいよ」
「えー。いずな、清水っ子だけど、そんな話初めて聞いたよ。ひろみっちの家の前はちんちん電車が通ってたって、聞いた事があるけど」
「それは、静鉄の清水市内線だろ。親父がガキの頃、走っていたって。親父もよくそれに乗って、横砂のプールに行ったって謂ってだ」
祐子も頷き乍ら謂った。
「うん。パパやママから聞いた事がある。横砂から港橋まで走っていたって。今の、さつき通りが其の跡地だって」
「ああ。それとは別にさ。俺も親父から聞いたんだけど、余りにも嘘臭いもんで、本気にしていなかったんだが、ウィキで調べたら、ちゃんと、『庵原軌道』って、載っているんだ。確かに、庵原街道って、所々、道幅が無駄に広くなっている所があるだろ。あれなんか、駅の跡地じゃないかなって…、思うんだ」
「正ちゃん、そう謂う話大好きだよね」
正太郎の意外な薀蓄の披露に、ひろみも感心する。
「へー。流石、清水高校の柳田国男ね。其の手の軼事に詳しいと謂うか、何と謂うか」
「茶化すのは止せよ。…あっもうすぐだな」
山に大分、分け入っており、蝉の声は既に、大音響である。合宿の宿に戻ったみたいであった。敬介の家はすぐに分かった。立派な門構えの大きな家だった。早速、敬介のお母さんが出迎えてくれた。お母さんは良二おじさんから、大分、良い評判を聞かされていたらしい。
「ごめんなさいね。皆さん。うちの敬介にも、良く勉強を教えてあげて下さいね」
通されたのは、渡り廊下風の長い廊下の先の一室だった。恐らく、昔の母屋なのだろう。近代的に改築されており、エアコン完備の、居心地の良い部屋だった。敬介が謂ったとおり、二十畳はあるであろう。部屋の真ん中にはテーブルが2つ、そして部屋の隅にはパソコンが置いてある。パソコンの前には高志が、件の、青に白地のハロゲン族Tシャツに、青のサッカーパン姿で、肘を枕に横臥して、寛いでいた。
「よう、遅かったな」
「ムキ、ハロゲン族。自分の家の様に、当たり前に寛いでる」
「揃った所で、早速始めようぜ。お宝探し」
「…?」
高志が親指を立て乍ら謂った。
「此の上、敬介の部屋なんだが、当然、隠してある筈のエロ本を探すのさ。先刻、覗いたんだが、いずなのヌード写真しか貼ってねえ。水玉模様のちっぱいの…」
「ムッキー、ケースケ、何て事すんの。絶交だよ」
敬介が慌てて否定する。
「おいコラ、高志。人を嵌める様な事謂うなよ。違うよ。いずなちゃん。高志の冗談だよ。机の写真スタンドに、二人で撮った写真。とあと、…壁に…A4サイズの」
「ヌードだろ。いずなの」
「ムキーッ。やっぱり」
「違う。…いずなちゃんの…浴衣姿。大体、一昨日飾ったばっかだぞ」
「あれ、ベッドの横だもんなあ。如何考えても、おかず用だろ…げほっ」
「あんたと一緒にしないの。いい加減にしなさいよ。全く…」
「ムッキー、ケースケ。恥ずかしい使い方、禁止」
「そんな、いずなちゃんをそんな事に…使う訳…ない。と、…思う」
「あー、もごもごした。怪しい」
それを聞いていた、祐子が助け舟を出した。
「いずなちゃんは、敬介君の写真飾ってないの?」
「…んーとね。ちょっとだけ」
「何枚?」
「…うーっ。…5枚位かな」
「俺より、多いじゃんか。いずなちゃんも、写真は一昨日飾ったんだろ」
「…うーっ。そう。もう、宿題始める。ハロゲン族が絡むと、碌な事がない。ツキが落ちる」
其の内、明彦たちからメールが来た。金谷まで来たが、其の先が分からないと謂う。結局、敬介が迎えに行き、全員集合となった。明彦は緑白のラガーシャツにベージュのスラックス。凛子はブルーの開襟シャツに黒のスラックスとダンディないでたちであったが、髪にはトレードマークの桃色の大きなカチューシャをしていた。みんな、黙々と進め、時には聞いて、時には教えあい、効率よく、午前の部が終了した。昼食の段になった時、凛子がしみじみと謂った。
「あーあ、然し、本当に合宿楽しかったなあ…」
「まーな」
高志が適当に相槌を打つ。屋外の蝉の声が中に迄聞こえる。ひろみも、
「本当にそうだよね。来年もまたやりたいよね」
「そうだよなあ。然し、たかだか、3日足らずだったが、中身の濃い合宿だったよなあ…」
明彦もしみじみと相槌を打つ。高志は多少ニヤニヤし乍ら、
「3日足らずとは謂うが、実際、リアルでは6ヶ月もやっていたと謂う話だからなあ。バカ作者の奴。前にも顰蹙を買った癖に凝りねえからなあ。俺も、一時は、エンドレスエイトかアストロ球団みたくなるのかと心配したぜ…」
凛子が難しい顔をし乍ら、すかさず突っ込む。
「流石に最近の子供たちは、エンドレスエイトは兎も角、アストロ球団は知らないでしょ」
みんながワイワイしているのが落ち着いた処で、敬介がお礼を謂い始めた。
「でも、みんな、ありがとう。午前中だけでかなり宿題が進んだよ。午後は、もう一回問題集を見直してみるよ。世界史も不安だからな。最初からやり直すよ。一学期、赤点だったし」
正太郎はニヤニヤし乍ら謂った。
「おい、敬介、世界史と謂えば。マケドニアの有名な王様知っているか?」
「それぐらい、知っているよ。アレキサンダー大王だろ」
「あれって。トランプの、クラブのKのモデルだって知っているか?」
「本当かよ?」
凛子が口を挟む。
「また、白地に嘘臭い話ね」
「そんな事無いよ。ダイヤのKは有名なローマ皇帝だし、ハートのKはフランク王国の王。でもって、スペードのKはユダヤの王だ。あと、QやJもちゃんとモデルが居るぜ。たとえば、スペードのQはギリシャ神話の女神様だしな。尤も、絶対にテストには出ないとは思うが」
いずながパソコンで調べていたが、頓て、大声で叫んだ。
「ムキーッ、本当だ。正ちんの謂ったとおりだ。ダイヤのKはシーザー、ハートのKはカール大帝、スペードのKはダビデ王となってる。流石はクイズ王だね」
高志が眉を顰め乍ら謂った。
「あのなあ。正の字。其の無駄に深い知識。確かに、凄いとは思うんだが、抑々、人生に必須の知識なのか?」
「バカヤロー。知識の本質がまさにそれだろ。俺達が今、必死こいてやっている此の問題だって、死ぬまで何の縁も無い、知識のきれっぱしかもしれないんだぜ」
「まあ、それはそうなんだが…」
「本当だ。スペードのQはアテナってなってる。アテナってローマ神話だと…」
いずなが感心し乍ら謂った。正太郎が引き継いだ。
「ミネルヴァだよ。『ミネルヴァの梟は夜になると飛翔する』の」
敬介が無邪気に尋ねた。
「それって、如何謂う意味」
いずなが引き取って答えた。
「言葉自体は、ドイツの哲学者ヘーゲルが『法の哲学』の序文で述べている。ミネルヴァは知の女神であり、其の僕たる梟は、学問の象徴。意味は、所詮、学問は後追いでしかない。と、謂う処かな…」
「やっぱ、お前ら凄いよ。学校祭のクイズ大会の時、そう思ったんだ。俺、何か自信なくなっちゃうな。午後は世界史に決めた」
「まあ、心配するな。こんなの勉強には何の関係もねえ。俺だって、一学期末は総合順位298位だ。赤点こそなかったが、2のオンパレード。補習の嵐だったぜ」
「そうかな、正ちゃん。昔から、勉強だけでなく、こういう雑学が凄かったもんね」
「そうかなあ。あっそうだ。百人一首も覚えるんだった」
「百人一首ていや、坊主捲りだよな」
高志がぼんやりと謂った。敬介も続く。
「それな。坊主捲りっていや、蝉丸だろ。大体、いつも、喧嘩になるんだよな。坊主かどうか揉めて」
「おお、それな。俺も兄貴と良くやったんだが…」
「あんた、お兄さんいるの?」
ひろみが横合いから口を挟む。
「居ちゃ悪いのかよ。前に、風疹の話の時に、出て来た筈だぞ。今、京大農学部の一年だ。それでだな、家の坊主捲りは、蝉丸を引いた奴が負けなんだ。あと、山札の何処から抜いてもいいんだ」
「大体、坊主捲りはそーだろ」
「でも、家の蝉丸は長年の抗争の結果、傷だらけでな。要するにガンがついているんだ。だから、蝉丸の札は必ず、最後まで残る。しかも、交互に一回づつ引いていくんだ。姫の二回引きボーナスもなし。つまり、後手必敗の二人零和有限確定完全情報ゲームなのさ」
ひろみが呆れ乍ら謂った。
「そんなの、坊主捲りでも、何でもないじゃないの。それで、その蝉丸爆沈ゲームのどの辺りが、面白い訳?」
「まず、先手争いだ。百人一首の札の枚数からして、後手を引いたら、必ず負けだからな。まず、其処で、大概、喧嘩になる」
「…」
「でも、俺は一計を案じてな。箱から出す時、天智天皇の札を隠したんだ。そして、兄貴に先手を譲ったんだ」
「…」
「これで、兄貴を出し抜いた訳だ。ざまあみろと思ったよ。だが、兄貴の野郎、卑怯だからな。彼奴も、猿丸大夫を隠していやがってよ。結局、俺が蝉丸を引かされる羽目になってな。然も、あの野郎、挙句の果てに、オモチャの散弾銃なんぞ持ち出してきてな、『兄より優れた弟なぞ、存在せんのだあ』なんて、くっだらねえ勝鬨なんぞ上げやがってよ。全く、頭にくるぜ。其処で、兄貴と取っ組み合いの大喧嘩よ」
正太郎が、鳩が豆鉄砲でも食らった様な顔で呆れる。
「…本当に、くだらねえなあ」
「まあ、小学生時代に有り勝ちな兄弟喧嘩ね」
凛子が溜息混じりに呟くが、高志が間髪入れずに吐露する。
「いや、今年の正月の事なんだが…」
ひろみが、更に呆れ乍ら謂った。
「ちょっと、待ってよ。子供の頃の話じゃないの? じゃあ、何。京大受験を控えた受験生と、清高受験を控えた受験生が、受験直前にそう謂うバカやってた訳?」
「しょうがねえだろ。挑まれた戦いなんだから…。『絶対に負けられない戦いが、其処にある』って奴だ」
凛子が呆れ乍ら謂い捨てる。
「…あきれた。あんたは、勿論としても、お兄さんも大概よね。お母さん悲しむわよ」
「冗談じゃねえぞ。あの時は、其の後お袋が血相変えて上がって来て、『勉強しなさい』って、ふたりとも、どっちかられて、お陰で、我が家は、百人一首が禁止になっちまったんだぞ」
明彦が呆れた。
「…また、其のオチかよ」
ひろみも同意する。
「そんなの、百人一首でも何でもないじゃないの。唯の蝉丸爆沈ロシアンルーレットでしょ。然も、お互いにイカサマし合って、喧嘩になったってだけじゃないの。受験の直前に。まったく、バカバカしい」
「いずな、知ってるよ。本当は百人一首は優雅な歌ガルタなんだよ。ハロゲン族、藤原定家に謝んなさいよ」
「喧しい」
此処で、敬介が素っ頓狂な声を上げた。
「えっ、百人一首って坊主捲りが正しい遊び方じゃないの?」
凛子が謂った。
「違うわよ。…何か頭痛がしてきた。いずな、あんた、教えてあげなさいよ。然も無いと、此の子、またテストで書くわよ…」
「えーっ。…あのね、ケースケ。本当はカルタなんだよ。坊主捲りに使う読み札と、字が書いてある取り札があるでしょ」
「そうだったんだ。実は、ひらがながいっぱい書いてある奴、用途が分からなくて、謎だったんだよ。何か、不気味な暗号みたいな文字が、いっぱい書いてあってさ。気味悪かったんだよ。でも、使わないから、友達にあげたり、捨てたりしてさ。今は一枚も残ってないよ。今や坊主捲り専用だな」
「…。本気で頭痛がしてきた。敬介のお母さんの心情を察すると、余りあるわね」
高志がニヤニヤし乍ら聞いた。
「じゃあ、敬介。おまえ、テストにはどんな問題が出ると思ったんだよ?」
「絵札画像がでてな。どれが蝉丸ですか? 的な…。俺、8割方いけると思ったんだけどな…。ねえ、いずなちゃん。ところで、藤原定家って何者? 百人一首の中にいなかったよね」
「ちゃんといるよ。鎌倉時代の人。歌人だよ。百人一首を選んだ人。百人一首の中の権中納言定家だよ。これは、テストに出るかも、日本史のね」
高志がニヤニヤし乍ら謂った。
「そんな、画像問題な訳無いだろう。でも、斯う謂う、画像問題ならいけるかも。『此れは、誰のブラですか?』みたいな。此れは、ちっぱいのひろみ。此れは、壊滅的な胸のいずな。で、此れはデカパイの祐子ちゃん専用。そして、此の漆黒のブラは大人の雰囲気満載の凛子の…。あいたたたた…」
「黙んなさいよ。此の女性の敵」
「ムッカー、ひろみっち、其の無礼な蝉丸爆沈男、黙らせて」
「ひろみちゃん。お願い。もう一発、よろしくね」
「ひろみの許可さえあれば、蹴りも入れるんだけど…」
女子全員にボコられた高志がぼやいた。
「くっそー。折角、食後の優雅なひと時が台無しだ。然も、ちっぱいな奴ほど、ひどい暴行を加えやがって…」
「何よ、未だ侮辱する気?」
「くっそー。ツキが落ちた。勉強でもやるか」
正太郎が渋い顔で窘める。
「…くだらねえ事、謂うからだ」
午後の部が始まった。正太郎は、割と早い段階で、英語の全範囲が一通り終わった。其処で、立ち上がってコーヒーを煎れに行った。コーヒーの香ばしい香りが、辺りに漂って来た。高志が手を上げた。
「正太。俺も、もらえるか」
「いいぜ。他に飲む奴はいるかな?」
明彦と凛子といずなが手を上げた。祐子も立ち上がって、謂った。
「じゃあ、私、紅茶入れてくるね。飲む人は?」
ひろみが手を上げた。
「ごめんね。祐子。私も頂くわ」
「分かった。敬介君は?」
「俺は、緑茶を頂くよ」
正太郎と祐子がコーヒー、紅茶、緑茶を準備し、お茶菓子の最中とアソートチョコレートを持っていった。高志がそれを見て、筆を止めた。
「わりいな、正太。俺たちもコーヒーブレークにするか」
全員異存は無かった。高志はコーヒーを飲み乍ら、自嘲気味に謂った。
「俺さ、中学ん時、勉強は、学年でトップクラスだった。多分、程度の差こそあれ、此処にいるみんな、似たり寄ったりだろ。此れは、俺の個人的意見なんだが、勉強は一人でやるもんだと思っていた。まあ、基本、其の考えは今も変わらないがな。皆で、集まって勉強会なんて、勉強をした気になっている自己満足だと思ってた。だけど、こうして、皆でやった方が進む時もあるんだなってのは、新たな発見だよ。合宿の時に思ったんだ。あれだけ、日中遊んで、然も、夜もがんばれる。何の事はねえ、一人でやるよりよっぽど進むんだ。それに、人から教わる事なんかねえと思ってた。だが、実際は違った。いずなや、祐子ちゃんや、明彦や、凛子、ひろみ。それに正太や敬介からも教わった。俺、天狗になってたんだな。それが、良く分かった」
それを聞いた明彦もしみじみと謂った。
「俺だって同じだよ。俺も、勉強なんて一人でやるもんだって思ってたよ。だから、合宿の話があった時、面白そうだとは思ったけど、此れで、宿題はパアだなって思った。でも、実際は合宿中の方が進むんだ。結局、好きな人の前ではがんばれるってのが、大きいのかなあ。出来たら、来年もまた興津川合宿やりたいよな」
祐子がニコニコし乍ら、尋ねた。
「明彦君の好きな人って誰なの?」
「ふふふ。祐子ちゃん。それは、トップシークレットだ。まだ、誰にも謂えん」
凛子が額に手を当て、半ば呆れた様に、顔を振り乍ら謂った。
「あのねえ…、明彦。此の8人の内、公になっているカップルが3組6人。既に出来上がっているの…。あんたが、知らないだけで…」
「何だとおー。正太と祐子ちゃん以外にもそんな、浮いた話があったとは…。と謂う事は、高志。おまえもなのか? そう、なのか?」
「いや、ははは…」
「一体、相手は誰なんだ? 分かった。いずなだな」
「ムッキー。何で私がハロゲン族と…」
祐子が正太郎に耳打ちした。
「明彦君。素で知らないみたいね」
「ああ。あいつ、或る意味、敬介以上の天然だからな…」
明彦が身悶えする様に叫ぶ。かなり、混乱している様子である。
「一体誰なんだ? まさか、凛子じゃ…。いてえっ」
凛子が明彦の後ろ頭を叩く。ひろみがふくれ乍ら、自分を指差した。
「マジか? 一番ありそうも無い組み合わせだぞ。て、事は、敬介の相手は…」
いずながニコニコし乍ら、自分を指差した。敬介は赤くなって、ちんまりとしている。そして、いずなが、
「で、もってえ、明彦が好きな子が…」
明彦と凛子以外の全員が、凛子を一斉に指差した。凛子が真っ赤になって小さくなっている。が、明彦も茹蛸の様な状態である。
「一体、合宿中に何が起こっていたのだ? 抑々、そんな面白い事になっているなら、何故、此の俺を呼ばん」
高志が遮った。
「何を謂ってやがる。おまえ、昼寝か、覗きか、芋の皮剥きやってたじゃねえか。大体、今、問題になっているのは、お前が好きな子の話題だ。それを吐くまでは、宿題なぞ、出来ると思うなよ」
凛子がぷりぷりし乍ら謂った。
「あーもう。わかったわよ。…私、明彦君と付き合ってます。…これで、いいでしょ」
「ほーら。やっぱり」
いずなが勝ち誇った。ひろみがニヤニヤし乍ら尋ねた。
「一体、何時からなの?」
「さあ、何時からだったかしら…」
高志がニヤニヤし乍ら謂った。
「じゃあ、明彦を締め上げようぜ。此奴、優等生風でも、案外、バカだから、吐くと思うぜ。誘導尋問にもすぐ引っかかるし」
「何だとおー」
「わー。分かったわよ。謂うわよ。…学校祭の最終日からよ」
みんなでわいわい謂い乍らも、結局、其の日は、午後5時位までがんばった。そして、翌日以降も勉強会を継続した。3日目には、全員宿題は終了し、テスト勉強モードとなった。8月31日金曜日には勉強会を打ち上げて、残った土日を各人思い思いに過ごすと謂うことで解散となった。みんなが、口々に、敬介に場所提供のお礼を謂って、帰って行った。正太郎は祐子に帰り道の道すがら、こう謂った。
「祐ちゃん。良ければ、赤灯台に行ってかない?」
「うん。いいよ」
夏の終わりではあるが、18時前では未だ明るい。暗い常磐色の水面に、そろそろ、傾きかけた夕日が反射して、海面が亜麻色に見えた。二人は夕日を見乍ら、突堤に腰掛けた。祐子が訝しげに尋ねた。
「如何したの? 正ちゃん」
「うん。みんなの前だと恥ずかしかったから…。あのね、祐ちゃん、お誕生日おめでとう」
正太郎は、そう謂い乍ら、小さな紙包みを渡した。贈り物は小さな星型の髪飾りだった。祐子の瞳が見る見るうちに潤んでいったが、頓て、真珠の涙がこぼれ出す。
「ありがとね。正ちゃん。私、一生大切にする」
「いや、それ程の物でも…。安物だし」
「そんな。大好きな人からの、それも、長年片思いだった人からの、贈り物だよ…」
祐子は、其処迄謂うと、言葉に詰まってしまった。正太郎が、祐子の髪を、優しく撫でている。
「正ちゃん。ありがとう。本当に嬉しい」
「祐ちゃんが、そんなに喜んでくれるなら、良かった。今年の夏は、いろんな事があったけど、僕にとって、特別の夏だよ」
「私もだよ。私、此の夏の事は一生忘れないよ」
夕闇迫る赤灯台に、二人のシルエットだけを残し、8月最後の夕日が暮れようとしている。が、二人の影は動かない。頓て、夜の帳が下りる頃、二人の影は立ち上がり、暫く重なった後に、突堤から見えなくなった。
年に一度の遠足の日がやって来た。其のバスの中で、1年前の祐子と正太郎の行動を第三者が俯瞰的に観察したエピソードと、春先の『幽霊ピアノ事件』に纏わる意外な推理が明かされる。更に、3年前の遠足の日に起きた、学園を巻き込んだ騒擾事件とは? 次回、『第19話 カルネアデスの舟板』。随分と重いタイトルであるが、乞うご期待。




