第15話 池の周りを廻る(興津川夏合宿編【4/6】)
正太郎と祐子は、バス停の前のベンチに腰を降ろした儘、二人並んで星を見ていた。祐子が唐突に、正太郎へ問い掛けて来た。
「正ちゃん。2年進級時の文理選択は如何するの?」
「えっ、俺? 俺は、分からないけど、多分、文系だな。英語が致命的に苦手なんだけどね。国語と社会は好きだからなあ。祐ちゃんは、如何するの。オールラウンダーだから羨ましいよ。でも、嗜好から謂ったら、間違い無く、理系かな?」
「ううん。私は、…未だ、決めていないよ。…正ちゃんは将来、なりたいものとか、夢はあるの?」
「夢かあ…」
正太郎は言葉を切ると、星が降り注ぐ様な天空を見上げた。真上には、天の川を背景に、星達による白鳥が悠然と其の姿を顕現させ、瞬く星々の間を飛翔している。とても、幻想的な光景である。そして、顔を赤らめ乍ら、徐に呟いた。
「俺、物を書く職業に就きたい。どんな形でも良いからさ。そして、斯うした美しい光景だとか、感動を綺麗に描写したい。そして、文章で人に感動を伝えたいと思っているんだ…」
「小説家とか?」
「まあ、…流石に其処迄は考えて無いけど…」
「大丈夫。成れるよ。正ちゃんなら。沢山、本読んでいるし」
煮え切らない回答を返す正太郎に対して、祐子は一生懸命に背中を押す。そんな祐子に対し、正太郎は笑い乍ら、
「読書好きが小説家になれるのなら、人類の半分以上が小説家だよ」
と、多少、自嘲気味に嘯いた。そして、逆に問いかけた。
「祐ちゃんは?」
「…私は」
祐子は其処で、言葉を切った。
(私の夢は正ちゃんのお嫁さんになる事だよ)
祐子は自分の秘めたる夢を、口には出せなかった。辺りは、暫し、沈黙に支配された。そして、二人の間にも、沈黙が訪れた。
「敬介達、大丈夫かなあ」
正太郎は、二人の間の、微妙な空気を払拭すべく、自分が敬介に行った、ちょっとした、お節介の行方を気に掛けて、呟いた。多少、会話の中に閉塞感を感じていた祐子も、感良くそれに乗っかった。
「多分、大丈夫。いずなちゃんは優しい子だよ。屹度、敬介君の想いが伝わると思うよ」
正太郎と祐子は手を繋いでいる。祐子は改めて正太郎の手を優しく握った。手の温もりにホッとした。胸襟を開き、夢を語ってくれた正太郎の言葉が嬉しかったのだろう。
其処へ、敬介達が帰ってきた。いずなは、大分、納まったものの、未だ、泣き噦っていた。
「…ひっく。…ひっく。…すん」
「如何したんだ? 扨は、敬介の奴、何か、不埒な事しようとして…」
「正ちゃん。敬介君はそんな事しないよ。いずなちゃん! 宿に戻って一緒にお風呂入ろうよ!」
まだ、泣き濡れているいずなを、お風呂に誘ったのは、祐子のファインプレーであった。ひろみと凛子は勉強部屋らしかった。二人とも、お風呂は今日二回目である。温かいお湯につかると、いずなは見る見るうちに、落ち着きを取り戻していった。
「如何? 大分、落ち着いた?」
「うん」
「何があったの?」
「星を見た後、その、…ケースケ君に告られて…」
「その、すごく、嬉しかった。初めてだもん。感激したら涙が出てきちゃって、でも、『私なんかでいいのかな』って思ったら、急に不安になっちゃって…。昔の事思い出したりしたら、訳、分から無くなっちゃって」
「…そう。いろんな感情が入り過ぎちゃったんだね。いずなちゃんは、敬介君の事、如何思ってたの?」
「良く分からない。でも、此の4人の中では、一番、意識していたと思う。…ううん。それは嘘だ。ずっとケースケの事が好きだった。多分、学校祭の頃から。…ううん。屹度、もっと前から。すごく純粋で優しいし、何時も、傍にいたし。冗談ばかり謂ってたけど…」
「敬介君。何時でも、いずなちゃんの事、気にしていたもんね。何時も、いずなちゃんの事、可愛いって謂ってたよ」
「あれこそ、冗談だと思っていたよ。私、そんな事、謂われたこと無かったから…。此の人、いつもからかってばかりって、先刻、『おてて繋いであげる』って謂った時のケースケの顔見て驚いちゃったもん。軽い冗談の心算だったのに…」
「すごい喜び様だったもんね」
祐子は相槌を打って、続けた。
「多分、敬介君いずなちゃんじゃなきゃ駄目だったと思うよ。敬介君、何時だっていずなちゃんしか見ていなかったもん。此方が妬けちゃう位に」
「そう…なの」
「敬介君。初めてあった時からいずなちゃんの事。かわいいって謂ってたよ。そして、化学の追試の時、いずなちゃんが様子見に行ったって聞いたら、感激してたもん。優しい子だって。それに、学校祭の時だって、2日間一緒にいられたって、大喜びだったよ」
「ケースケ君の方こそ、本当に優しいよ。先刻、取り乱しちゃった時、ずっと慰めてくれてた。『大丈夫だから。心配ないから』って、頭、撫で乍ら。…本当は、余計、涙出ちゃったけど…」
「本当によかったね。いずなちゃん」
其の時、ガラガラッと、引き戸が開いて、ひろみと凛子が入って来た。
「あれー、祐子といずな? 何よー。お風呂入るなら誘ってよ。水臭いわね」
「あら、本当。そう謂えば、あんた達、何処に居たの? お風呂誘いに行ったら、勉強部屋にいなかったから」
「いずなね、お外で星見てたの。ゆーちん達と」
「へー。何かあったの?」
猜疑の眼差しを向けたのは凛子である。祐子がニコニコし乍ら、
「内緒だよね。いずなちゃん」
「うん。内緒。って、謂いたいけど、みんな大切なお友達だから謂うね。あのね、ケースケ君に告られました。そして、その、…受け入れました」
「えっ」
「マジなの?」
凛子が、すごく優しい顔つきで、
「良かったじゃない、いずな。本当にヤキモキしていたんだから。あーあ、此れで3組目かあ。ちょっと待って、そうすると、残っているのって、私と駄眼鏡だけじゃないの。うっわーっ。もう、最悪。駄眼鏡しか残って無いの? 何よ、其れ」
凛子が大仰に驚いてみせる。祐子が謂った。
「あら、明彦君4人の中で一番イケメンじゃないの? それに、抑々、凛子ちゃん、明彦君と付き合って無かったの?」
「…無いわよ。何、謂っているの。祐子。家が同じ方向だから、からみが多いだけよ。それに、スケベだし」
祐子がニヤニヤし乍ら謂った。
「じゃあ、何かHな事。されたんだ」
「…知らない」
いずなが寄ってきた。
「kwsk」
ひろみが、助け舟を出した。
「ちょっと、待ちなさいよ! 凛子。なんで其ん中に、私とハロゲン族が入っている訳?」
「あら、正太に聞いたわよ。勉強部屋で、ハロゲン族に情熱的なまでに告られたって。何でも、『愛と青春の旅立ち』のラストシーンみたかったって。居合わせたみんなが、万雷の拍手を送っていたとか、謂ってたわよ」
「あのバカ…。適当な事を…。兎に角、ハロゲン族は、正式に告った訳じゃないから、ノーカウントでしょ」
祐子が謂った。
「いや、かなり正式だったよね? あれ」
「うん。ドラマみたいな演出もしてたよね。凄くかっこ良かったよ。いずな、キュンってなっちゃったもん」
女子勢が、二回目の風呂から上がって勉強部屋へ戻って来た時には、男子勢全員が勉強部屋にいた。鴨居の上には教室にある様な丸い時計が設置されており、10時を指している。男子4人は勉強部屋A、即ち、205号室に全員集結して、黙々と宿題をやっていた。いずなは敬介と目が合うと、いずななりの然り気無い気配りなのであろう。心からの感謝と親愛の情を込めて、ニッコリと微笑んだ。敬介はいずなの屈託の無い零れる様な笑顔を見て、俄かに顔を赤らめ乍らも、ホッとした様子であった。高志が、上がって来た女子勢を見咎めて、
「何だ。何だ。一体、何処へ行ってたんだ?」
いずながニコニコし乍ら、
「えへへ…。お風呂だよ」
高志が血相を変える。
「何だと。俺達に内緒でか?」
「そんな事、謂ったら、また、あんたが覗くでしょ」
ひろみが、ふくれ乍ら釘をさす。そして、凛子も続く。
「そうね、其処の眼鏡を棒組にしてね」
明彦が慌てて叫ぶ。
「こら、ちょっと待て。あれは、ハロゲン族に唆されてだな…」
「わあ、裏切りやがったな。てめえ。おめえだってノリノリだったじゃねえか。凛子の彼処の毛を見るんだって…」
「何ですってえ、此のエロ眼鏡」
明彦が周章狼狽し乍ら、事態の収拾に躍起である。
「うわあ、高志、詰まんねえ創作を捏ち上げてんじゃねえ…。其れに、敬介がいずなの裸を見てみたいなんて謂うから、抑々、こんな事に…」
「うわぁ、何、謂いやがる。俺迄、巻き込むんじゃねえ。こん畜生」
いずなが赤くなり乍ら口を尖らせる。
「ムッキー、ケースケのエッチ」
正太郎が、
「まあまあ、みんな反省している事だし…。ところで、何で全員、此の部屋へ? 他にも部屋があるだろうに…」
凛子と祐子がテーブルを、もう一組セットし乍ら、ひろみが
「良いじゃないの。みんなでやってもさ…。折角の合宿だし、分らない所は聞けるし。大体、むさくるしい野郎4人で勉強をやっていて、何が楽しい訳?」
明彦が口を尖らす。
「抑々、勉強に楽しさを求めてもなあ…」
祐子が、軽く燥ぎ乍ら、
「いいじゃん、いいじゃん。皆でやろうよ。判らないところも聞けるし」
「其れも、そうか」
和気藹々とした、勉強合宿の、夜の部、本番が始まった。みんな、思い思いの教科をやっているが、判らない事を自分で調べたり、聞き乍らして進めている。苦手な教科について教えを乞うのは勿論の事、自信の無いところを咨詢する事も可能なのである。勉強合宿は予想以上に効果的であった。更に、みんな、一定水準以上の学力を持つ子供達である。矢張り、此処一番での集中力は、流石に凄まじいものがある。彼らは一心不乱に、おもいおもいの教科を進めて行った。そんな中で、正太郎が敬介に、思い出した様に尋ねた。
「そう謂えばさあ、敬介。補習の宿題はやったのか? 数学の…」
「あはは、実は今、やっているんだ」
「全く、余計な作業だよなあ。来学期は補習食らわねえ様にしねえとな」
「全くだ」
「ムッキー、本当だよ。頑張ろうね。ケースケ」
いずながやんわりと窘める。今度は敬介が思い出した様に尋ねた。
「そう謂えばさ。正太。薬缶が謂っていた、池の問題は如何だ? 解けたのか?」
「…?」
「ほれ、池の周りを廻るって奴さ」
「ああ…、あれか」
正太郎も俄かに思い出した様である。
「あれは、普通に無理だろ。薬缶の冗談じゃねえの? 何か、にやにやしてやがったし。お前こそ、如何なんだ? 解けたのか?」
敬介がきっぱりと謂い放つ。
「出来る訳、無えだろ」
「何なの? 其れ?」
ひろみが聞き咎めて、二人に尋ねる。
「ああ、何でも…」
と、謂い乍ら、徐に正太郎が説明を始めた。
「『AとB。2人の男が池の外周を同方向にジョギングをしている。ある瞬間、Aの後方200mにBがいた。Aが100m進んだ時、2人が並びBがAを抜き去って行った。A、Bともに、其の儘、速度を変えずに池の周りを回り続けたとしたら、A、Bが並ぶ地点は何箇所あるでしょうか?』だとさ…」
皆も、集中力の切れ目なのか、各自の手を止め、正太郎の説明に俄かに食いつく。高志が訝り乍ら、尋ねた。
「何だそりゃ?」
ひろみも、
「其れだけ? 肝心な池の円周は?」
正太郎も困惑した様に、説明する。
「其れが、薬缶の野郎、謂わ無えんだよ」
「そんな事謂って、あんたが聞き逃しただけじゃないの? 其れなら、解ける訳無いじゃないの」
「んな事、ねーよ。俺、何度も薬缶に聞いたんだぜ。でも、あのハゲ、『何でも、教えて貰える程、此の世の中、甘くは無い』とか、自らの存在意義を否定する様な、くだらねえ戯言をだな…」
此処で、明彦も参戦する。
「其れにしても、奇妙な問題だな。何箇所かと謂う処も妙だし…。直感、出来そうにないんだが…。積分の問題だよなあ。此れ。若し、そうだとしたら、俺達、未だ習ってねーぞ」
凛子が、困惑気味に敬介に尋ねる。
「ねえ、敬介。本当に問題、間違って無いの? 圧倒的に情報量が足りない様に思うんだけど…」
「ああ、でも、多分、正太の謂った通りだったと思うぜ」
「其れで、補習受けてた連中で、誰か解けた奴はいたの?」
凛子の問い掛けに、正太郎が代わりに答える。
「いねえと思うぜ。って謂うより、抑々、数学の補習会場だぞ。数学赤点と其の予備軍だぞ。皆、一様にぽかんとしてたぞ。六と一平なんぞは、涎、垂らして、ガーガー爆睡してやがったし…」
いずなも参考書を置いて、考え始める。
「ムッキー、一見、解けそうに無いんだけどなあ…。でも、薬缶が円周を敢えて謂わ無かったと謂う事は、此の条件で解けると謂う事かなあ…」
高志が吼える。
「んな訳あるかあ。あの禿、ボケが始まってるんじゃねーの」
【緊急告知】
此処で、此の問題を自力で解きたい方は、本を置いて考えてみよう!
実は、此れだけの条件でも、スッキリ解けますよ。
此処で、皆の沈黙と引き換えに、外から聞こえる虫の音が、一段と大きくなった。一同、一様に、首を傾げているが、其の中で、唯、一人だけニコニコしている者が居る。祐子である。鉛筆を咥えて、考え込んでいたいずなが、祐子の表情を見咎めて謂った。
「ゆーちん。如何したの? ひょっとして、何か判った?」
祐子はニコニコし乍ら、大きく頷く。
「…うん。多分、解けたと思う」
「えーっ」
「う…そだろ。此の条件でか?」
驚愕の一同である。
「…うん」
数学自慢の明彦が慌て周章く。
「ちょっと、待ってくれよ。祐子ちゃん。本当に解けたのか? 積分を使うんだろ?」
「ううん。使わないよ。…実は、私、ちょっと感心してるんだ。だって、此のクイズ、凄く秀逸なんだもん。羅漢先生の作かなあ?」
「祐ちゃん、早く答えを教えてよ」
正太郎が急かすが、祐子はそんな正太郎を窘める。
「駄目だよ。正ちゃん。少しは自分で考えないと。こんな良質なクイズ、滅多にお目に掛かれ無いよ」
「そんなぁ…」
高志も口を挟む。
「そんな事、謂わねーで、頼むよ、祐子ちゃん。抑々、池の円周が分らなければ、話にならないだろう。それに、池の円周が不定で成立するなんて事はねーだろ」
「えへへ…」
祐子は、唯、ニコニコと微笑んでいるだけである。然し、此処で助け舟をだす。
「あのね。池の円周に拘っては駄目だよ。はっきり謂うとね、池の円周がいくらであっても、此の条件なら、答えは変わら無いよ」
「嘘だろ…。池の円周が5キロであっても、10キロであっても、同じ答えだと謂うのか?」
「うん」
祐子は大きく肯く。
「有り得無いだろ…そんな事」
明彦が呻く様に呟くが、祐子はニコニコし乍ら、低音の押し殺した様な声で謂った。
「有り得無いなんて。有り得無い…」
「ムッキー、もう、ゆうちん。こんな時にグリードしないの」
「何か、イラッとするなあ。微妙に似ているだけに…」
正太郎も不満を口にする。
「えへへ、ごめんごめん。でも、此の部屋の中にも、似た様な状況の物があるんだけどなあ…」
祐子の思いも掛けない一言により、皆、示し合わせた様に、一斉にキョロキョロと辺りを顧眄する。然し、何の変哲も無い、杪夏の山間の鄙びた温泉宿である。辺りに聞こえて来るのは、川音と虫の声だけなのである。部屋の内外に、何かヒントになる様な物があろうとも、思われ無い。然し、いずなが、突然、素っ頓狂な声をあげた。
「あーっ」
そして、初めて、ニッコリすると、
「むっきい、そう謂う事か。」
敬介がいずなに問いかける。
「いずなちゃん。何か判ったの?」
「漸く、判ったよ。答えは2箇所だね。ゆうちん」
「いずなちゃん。正解!」
高志がいずなを急かす。
「おい、自分だけ判ってないで、さあ、早く解法を教えろよ」
いずなはニヤニヤし乍ら、いたずらっ子の様な顔付きである。
「ムキキ。駄目だよー。自分で解かなきゃ」
「わあ、いずなてめえ。ふざけんな。コラッ」
「こら、いずな、俺を寝かさないつもりか? 俺は早く宿題に戻りたいんだよ」
明彦も熱り立つ。普段、クールなグラマラスな美人である凛子も、両手を合わせて、拝み乍ら頼み込む。今日はライトブルーの涼しげな色のカチューシャをしている。
「いずな、お願い。あたし、斯う謂うの気に成り出すと、眠れなくなるの。せめて、ヒントをお願い…」
「ムッキー、しょうがないなあ。ヒントはrational numberかな」
「rational number…。有…理数?」
凛子が、恰も、夢寐の人の如く、虚ろな表情で其の言葉を反芻する。一方、ニコニコした祐子が、感心する。
「いずなちゃん! それ、凄く良いヒント」
「エヘヘ…」
「一体、如何謂う事だ?」
「わ…判らん」
「ねえ、正ちゃん。Aが100m進んだ時に、Bは何m進むの?」
「そりゃ、300mだろ。」
「そう、判っているのは、此れだけ。だったら、Aが1km進んだ時には?」
「3kmだろ」
「つまり、速度差しか判らないと謂う事だよね」
其処で、いずなが補足した。
「ムッキー、厳密に謂うと、速度比だよね、ゆうちん」
「そう、常に同じ速度でと謂う条件があるからね。じゃあ、Aが池の周りを1周した時には、Bは…」
「そりゃ、3周だろ…。ああっ」
正太郎が悲鳴に近い叫び声を上げる。卒爾として、何か気が付いた様である。そして、其の時、いずなと祐子が、突如として、カウントダウンを始める。
「5、4、3、2、…ゼロ」
そして、祐子が部屋の一点を指差す。皆、つられた様に、其の方向を見る。部屋の鴨居よりも上に、教室に有る様な大きな丸い時計が設置されていたが、丁度、深夜0時を指していた。
「ほら、AとBが並んだ!」
満面の笑みを浮かべた祐子の一言により、各々から、驚嘆に近い溜息が洩れた。
「ああ…」
「そうか…」
「成…程」
「そう謂う…事か」
一同、了解した様である。唯一、敬介だけが、泣き声を挙げる。
「ちょっと、待ってよ。いずなちゃん。俺、全然、判らないよう」
「ムッキイ、ケースケったら。先刻、ゆうちんと正ちんが謂ってたでしょ。Aが池の周りを1周した時には、Bは3周回るって。なら、Aが2周回った時には、Bは?」
「そりゃ、6周だろ…。」
「Aが1周回った時と、2周回った時、Bと何処で並ぶと思う?」
「あーっ、そうか。同じ処だ」
「ムッキー、判った?」
「…うん。でも、何で、こんな、変てこな事が起こるんだ? 現実には有り得無いだろう」
祐子が、ニコニコし乍ら、解説する。
「其れはね、AとBの速度比が、時計の長針と短針の様に、有理だからなの。つまり、二人の速度比が有理であれば、池の円周にかかわらず、答えは、常に固定化される。逆に、速度比が無理であれば、答えは不定に成らざるを得ない…」
「だったら、答えを不定にする為には、例えば、最初の設定をルート200メートルとかにすれば…」
若干、横道に外れ掛かる敬介の発言を高志が窘める。
「あのなあ、そんな不自然に悪目立ちする設定のクイズで、誰が引っ掛かるんだよ」
「それも、そうか」
納得する敬介の横合いから、祐子が、又、話し始めた。
「抑々、此のクイズの秀逸な処はね、池の周りを回ると謂う、如何にも有りそうな設定の中に、常に等速度で走り続けると謂う、絶対に有り得無い様な設定が組み込まれる事によって、突拍子も無い解答になってしまう処なの」
「確かに…」
明彦が呻く様に呟く。そして、静かに祐子に質した。
「でもさ、祐子ちゃん。かなり早い段階で気が付いていたよな。如何してなんだ?」
祐子は、言葉を選び乍ら、徐に語りだした。
「私が、一番引っ掛かったのは、『其の儘、速度を変えずに池の周りを回り続けたとしたら』と謂う、妙な言い回しなの。明らかに、普通の言い回しでは無いし、返って目立ったの。そして、此の設問では、常に等速度である事を強調している。と謂う事は、等速度で無いと成立しないのかなって、思ったの。本来であれば、常に等速度で走るなんて、有り得無い筈なんだから…」
「確かに…」
敬介も同意する。更に、祐子が続ける。
「そう考えれば、此処での条件は明らかに、速度比を現している。普通、私達が日常使う『速度』という言葉は、お約束として、其の頭に『平均』という文字が入るのだけれど、此の場合は明らかに違う。純粋な速度比。其処で判ったの。此れは、有理数、無理数の問題なんだろうなって。そして、比率は1対3。であれば、二人が並ぶ位置も常に同じ。時計の文字盤で例えるのなら、12時と6時の位置だね。」
祐子はニコニコし乍ら、更に続ける。とても、嬉しそうである。
「此の問題、設問を聞いただけでは、有理数、無理数の問題だとは、まず、気が付か無い。其の点が、秀逸な処だよね」
嬉々として説明している、此のぽっちゃり型の少女をを見据え乍ら、正太郎は密かに思った。
(絶対に理系だよ…)
正太郎は、先程の、バス停前での祐子との会話を思い出し乍ら、素直に祐子の説明に感服していた。確かに、そうであろう。あの発想は紛れも無く、理系の其れである。自分では及びも就かなかった着想である。然し、其の思索も、高志の素っ頓狂な声で中断された。
「あーっ、もう、0時だぞ。正太と敬介のせいで、30分近くも無駄にしたぞ…」
「わーっ、俺達のせいにするつもりか」
「ふざけやがって」
憤然と異議を唱える、正太郎と敬介。高志は更に続ける。
「大体、0時直前に、いきなりカウントダウンなんか始めやがって…。てっきり、俺は地獄通信にでも繋げるつもりかと…」
すかさず、凛子が混ぜ返す。
「一遍、死んで見る?」
「うわあ、やめろー」
田舎の温泉宿の一泊目は、いろんな夢や希望や、バカバカしい笑いを優しく包み込み乍ら、斯くして、更けて行くのだった。
カッコー、カッコー。
朝5時過ぎ、正太郎は、早起きの閑古鳥や杜鵑の鳴き声で起こされた。神経が高ぶっているせいもあろう。何時に無く、爽快な目覚めだった。正太郎はゴソゴソと寝床から這い出すと、匇卒と着替えを始めた。将に、宵衣旰食の生活ではあるが、惜しむらくは、此の生活が仕事の為では無いと謂う事位であろうか。立秋を過ぎれば、暦の上では秋である。だが、暦の上での秋は、あくまでも、暦の上での話なのだろう。もう、既に、暑かった。セミ達もフルスロットルで泣き始めている。正太郎は部屋の中を見渡した。正太郎以外のみんなは、思い思いの寝相でまどろんでいる。出窓の欄干に両手を掛け、河原を見下ろした。遠く、西側は未だ微かに紫紺の空だった。山の端に明けの明星が見える。ぼんやりと眺めていると、隣の欄干から、声が聞こえた。
「あっ。正ちゃん。おはよう」
見ると、白いフリルの付いたキャミソール姿の祐子が出窓に腰掛けている。豊満な胸でキャミソールがはちきれそうである。二日目の初っ端から、祐子の輝く様な笑顔を見る事が出来た。
「祐ちゃん。おはよう。早いね」
「正ちゃん。みんな、まだ寝てるから、下で…。一緒に朝の散歩しない?」
「分かった。玄関前で」
朝の爽やかな空気を吸い乍らの散歩は、気持ちよかった。相変わらず、時折、閑古鳥の鳴き声が聞こえる。小径には、撫子が咲いていた。祐子は、『今日こそ正ちゃんに会えます様に』と、思い乍らも、一日が始まっていた昔が思い出された。中学時代に、祐子が毎日『ラジオ体操』に出席していたのも、正太郎の顔が合法的に見れる口実であったからに他ならない。結局、正太郎の顔を見れても、何を話す訳では無かった。寧ろ、話が出来無い日の方が圧倒的に多かったが、それでも、祐子は満足だった。でも、今に較べたら、と、思わざるを得ない。正太郎は、手を繋ぎ乍ら、隣でニコニコしている丸っこい少女を見て、幸福感に浸っていた。ふと気がつくと、祐子は反対側の手に何か黒い大きな物を持っている。
「あれっ、祐ちゃん。それは?」
「ああ。これ、カメラ。私、カメラが趣味なの。今回の合宿も、もう100枚くらい撮ったよ。あと、みなと祭りの時も、100枚くらい撮ったかな。みんなの浴衣姿」
「えっ。そうなの? そう謂えば、花見や竜爪山でも、沢山撮ってたなあ」
「うん。内緒で正ちゃんも、沢山撮っちゃった…。そうだ。ちょっと、お願いが。もし、良ければ、二人で写してもいい? 合宿で、二人で写した写真、一枚も無いから…」
「うん。いいよ、ちょっと恥ずかしいけどね。そのかわり、祐ちゃんの写真も撮らせてね。俺、祐ちゃんの写真、一枚も持って無いし…」
二人で撮った写真はちょっと表情が硬かったけど、幸せそうな二人のワンショットだった。
祐子のはにかんだ様な笑顔が、とても可愛らしかった。
「後から、もらえる?」
「うん」
「よければ、他の写真も」
「勿論、いいよ」
「実は、俺。小学校の時から、ホームページ作っているんだけど、億劫で、なかなか、写真撮らないから、あまり、更新しないんだ。やっぱり、写真が無いと映えないから。あっ。勿論、載せるの風景写真だけだから」
祐子は正太郎の、突然の吐露に酷く驚いた。若し、知っていたら、其れこそ毎日でも閲覧していただろう。
「えー、本当。私、知らなかったよ。URL教えてくれる?」
「うん。いいよ。もっとも、大した内容じゃないけど…。旅行とか、遠足なんかの写真に、感想とかコラムを添えて載っけているだけだよ。見ている人、殆ど、いないんじゃないかな、最近は更新もしてないし」
「私、絶対に見るよ」
「…それと、あのね、祐ちゃん。…昨日のお約束。しても…良い?」
「…うん」
祐子は飛びっきりの笑顔で頷く。
「えへへ、本当は、ちょっと、期待してたんだ」
祐子は、そう答えると、静かに目を閉じた。正太郎はぎこちなく、唇を重ねた。
二人は、6時少し前に戻ってきた。ライム色のエプロンを着た凛子は、一人、厨房で朝ごはんの準備に取り掛かろうとしていた。
「あっ。祐子。おはよう。何処に行ってたの」
「えっ。正ちゃんとお散歩」
「あらあら、朝っぱらから熱いわね。然し、彼奴もよく起きられたわね。確か、2時過ぎまで、勉強部屋にいたわよ。1時ごろ、私とひろみでコーヒー入れてあげたのだけど、まだ、頑張っていたもの。彼奴と敬介、宿題やってないって、結構、目の色変えてやってたからね。まあ、私もだけどね。でも、うちの学校の宿題。一日、二日、目の色変えた位で、何とかなる量じゃ無いもの。勉強部屋Bでは、明彦とハロゲン族とひろみが3時位まで、やってたそうよ。なんだかんだ謂っても清水高校の生徒よね、バカやっていても、勉強はするもの。でも、今から起こすのちょっとかわいそうね。ごはん出来る迄、寝かしてあげようか?」
「あっ。正ちゃんが起こしに行っちゃった」
「おーい、朝だぞ」
男子部屋で正太郎がみんなを起こして廻っていた。
「何だよ、もう、朝かよ」
ハロゲン族がぶそくっている。敬介が大欠伸をし乍ら、
「ねむいなあ。女の子達は、もう起きたのか?」
「祐子と凛子は。…他はまだみたいだ」
ハロゲン族が、とたんに活性化した。
「何だと! 起こさなきゃ駄目だろ。ついでに、寝顔もカメラに収めよう」
眼鏡もキリッとした顔で続いた。
「手伝おう」
高志たちが、女子部屋に乱入した。
「おーい。朝だぞ」
然し、いずなとひろみは起きていた。然も、此の手の作品の様式美である。ひろみはピンクのブラとピンクのパンツ。いずなは水玉模様のパンツだけだった。いずなは、あわてて、両腕で胸を隠す。
「ウキャーッ」
「おまえらー。また、性懲りも無く、何のつもりよ。ぶっ殺すわよ! 此の野蛮人」
「うわー。待て、待て、待て。誤解だ。俺達は、只、起こしに来ただけで…」
「ムッキーッ、ひろみっち! ハロゲン族が、カメラ持ってる! 然も、見て。下が、又、もっこりしてる…。屹度、又、あのエイリアンが活性化してるんだよ」
「あんたたちねえ。乙女の部屋に、何のつもりなの?」
「いや、誤解だ。これは、ただの生理現象…グワッ」
「何が、誤解よ。くらえっ、天誅!」
「グエッ」
ひろみが横蹴りを放った。
全員そろって、7時に朝食。献立は納豆、味噌汁、目玉焼き、ほうれん草のおひたしだった。祐子が、
「高志君、如何したの? 目にあざが。明彦君も鼻血が…」
ひろみが不満げに謂った。
「別に…。朝っぱらから現れた不埒な痴漢を、成敗しただけよ」
「聞いてよ。祐ちん。いずな。おっぱい見られちゃったんだよ。ハロゲン族と眼鏡に」
「なーにがおっぱいだ。ぺちゃんこの癖しやがって」
「ムッカーッ」
続いて眠そうな顔で入って来た敬介が、目を擦り乍ら、いずなに声を掛けた。まだ、意識は眠っている様である。
「おはよう。いずなちゃん。良く眠れた?」
「うん。ケースケ君は?」
「良く眠れたよ。3時間程だけど…」
二人の会話を聞きとがめた高志が、
「何だあ? いずなちゃんにケースケ君って、お前ら、なんか、変なものでも食ったのか?」
高志は、未だ昨晩の二人の馴れ初め話を知らないらしい。いずなが、味噌汁を啜り乍ら、澄まして謂った。
「ハロゲン族が持ってきた甘夏」
「何だと。いずな。おっぱいもむぞ。ぺちゃんこだったけど」
「ムッキーッ。此のハロゲン族は。ひろみっち。ゴー」
「わーっ。分かった。もう、謂わない」
明彦が、
「ところで、今日は如何する?」
凛子が答えた。
「此の後、おにぎり作って。10時まで、全員で宿題。其の後、いずなが楽しみにしている清地淵へ出発。子供達も私達と一緒だと宿題捗るんだって」
午前7時の段階で、既に暑さがかなり厳しい。今日も絶好の川日和である。胸躍る一同であった。
敬介だぜ。It never rains but it pours.って英文があるんだ。いずなちゃんに聞いたら、「降れば土砂降り」と訳すんだそうだ。何だかマーフィーの法則みたいな英文なんだが、さて、次回はそんな話だ。次回、『第16話 蜘蛛に集られ崖から転落した日の出来事』。見てくれよな。




