第14話 露天風呂と様式美(興津川夏合宿編【3/6】)
薄い桃色の無地のTシャツに、座橙色のショートパンツ姿のひろみが勉強部屋Aに入ってきた。間取りは男子部屋と同じである。高志は背中に青で『ハロゲン族』と、意味不明の文字がでかでかとプリントしてある白のTシャツに、青のサッカーパンを穿いている。高志が一人で宿題をしており、ひろみは辺りを見回し乍ら、聞いた。
「あれっ。みんなは?」
高志は左手で親指を立て、肩越しに後方を指さした。後ろに布団が二組敷いてあり、奥の布団にいずなが、桃色の地に赤で『♪』を大きく描いたTシャツに、浅葱色のショートパンツ姿で大の字になっている。寝姿は小学生の其れと変わらない。手前の布団に、初号機のTシャツに、瑠璃紺色のハーフパンツ姿の祐子と、青の無地のTシャツに、灰色のハーフパンツ姿の正太郎が寝ていた。祐子の豊満な胸はちょっと艶っぽく、正太郎と向き合う様な格好で、祐子の左手は正太郎の左手の上に置かれていた。早速、正太郎は約束を守った様である。
「あらあら。祐子ったら」
と、みんなにタオルケットを掛けて回り乍ら、呟いた。
「祐子もいずなも、大燥ぎだったから、流石に疲れたのね。祐子と正太は、すごく仄々としているけど、此処迄来ると、流石にちょっと、妬けるわね」
「まあな」
高志が電子辞書を引き乍ら、ぶっきら棒に相槌を打った。
「で、あんたは何してるのよ? ハロゲン族」
「見てのとおり、夏休みの宿題だ」
ひろみは欄干を背凭れに、出窓に腰掛けた。爽風は蜩の声と伴に、僅かばかりの涼を部屋の中に迄、届けて来る。川面を渡る風がとても爽やかで、渓流の細流と蝉の声しか聞こえない。長閑な静寂がひろみを其の場所へ誘い、腰を上げづらくしている。ひろみは目を瞑り、川の細流を聞き乍ら、涼に浸っていた。不意に高志が、何かを優しく放った。
「ひろみ! ほれっ」
「?」
ひろみはキャッチした物をまじまじと見つめる。其れは、高志が家から持って来た甘夏だった。
「あっ、ありがと」
「如何いたしまして。家の山でとれた自慢の一品だ」
そう謂うと、高志はまた、英文に目を落とし、一心不乱に電子辞書を引き始めた。ひろみは、皮を剥き始める。ぱあっと、酸味を含んだ夏の香気が一気に弾け、一瞬のうちに、辺りに拡がる。一口、口にした時、思わず呟いた。
「あっ。甘い」
そして、次から次へと口に入れ、瞬く間に完食してしまった。此れ程までに、一心不乱に甘夏を食べたのは、何時以来だろう。ひろみは、喉が渇いていた自分に、漸く気が付いた。
「ねえ、高志」
「ん?」
「ありがと」
「何が? 甘夏か?」
高志が顔を上げ、少し怪訝な顔をして、ひろみの方を向いた。
「ううん。今回の旅行。いや、合宿かな」
ひろみが酷く穏やかな表情でお礼を謂う。彼女が斯うした表情をする時には、頗るキュートで、やや、垂れ目の、如何にも女の子らしい相好となる。
「何で俺だ。話を持って来たのは敬介だぜ」
高志は、ちょっと呆れた様に、当然すぎる反駁をする。
「うん。分かってる。でも、女子全員、あんた達全員に感謝しているよ。みんな、本当に楽しみにしてたんだ。あたしだけじゃ無い。みんなだよ。人の事謂うのは、あまり好きじゃないけど、祐子といずなは、中学の時、人間関係でとても苦労したって…」
「…らしいな」
「凛子も、あまり口には出さないけど、矢張り、苦労したみたい。あの子、クールでドライな風、装っているけど、本当は人一倍、涙もろくて、お人好しだもの」
「…知ってる」
「私だって、中学の時、クラスの中で、浮いていた自覚はあった。こんな、性格だしね。でも、今日は、本当に楽しかったんだ。初めて心から楽しいって思えるキャンプに、参加したって実感があるもの。だから、お礼謂っとくね。ありがとね」
高志は手を止めると、徐に謂った。
「俺達だって、似た様なものさ。みんな、大なり小なり、事情を抱えているんだ。敬介は入学当初、此の学校に、相当、背伸びして入ったって謂ってた。前に、キャトルからの帰りに、『みんな、中学時代の優等生の集まりで、俺なんかが混ざって良いのかって思う』なんて、零してやがった。『つるんで、バカやるのに、学力審査なんていらねえだろ』って、謂ってやったけどな。正太にしても、此の前の、竜爪山の一件聞いたろ。其れに、以前に正太が、赤灯台から飛び込んだって話してただろ。ふざけてとか謂ってたけど…」
「うん」
「あれも、多分違う。本当は人命救助だったんだと思う。でも、人命救助となると、其の友達に傷がつく。未遂ともなればな。彼奴、絶対に本当の事、謂わないと思うけど…」
「あんたは、何故、其れを知ってるのよ?」
「従兄弟が、彼処の傍の倉庫で働いているんだ。以前、聞いた事がある。正太が話した時は、全く結びつか無かったけど、受験ノイローゼの中学生が発作的に海に飛び込んだんだと。一緒に居た友達が、泣き乍ら大声で救助を求めた後、救助に飛び込んだってさ。尤も、後から救助で飛び込んだ中学生も、殆ど、泳げ無かったらしいがな。結局、従兄弟の兄ちゃんと其の同僚が、数人掛かりで二人を救助したって」
「そうなの」
ひろみは溜息をついた。
「あのホテルの一件も、あの時は俺も頭に血が上っちまってたけど、良く考えたら、全然、彼奴らしく無え。彼奴、入学した時、『彼女がいる』なんて嘯いてたけど、そんな様子は、微塵も無かった。『此処、1ヶ月間あって無いんだ』とも謂ってやがった。受験っていう、人生有数の山を、乗り越えたのによ。何だそりゃ。とも、思ったよ。もう、とっくに切れていたんだと思う。あの日、途中でメールに気がついて、『なんか、昔の友達が困っているみたいだから』とかほざいてたけど、呼び出されたんだろうな。全く、人が好いのも大概にしろって話だ」
「そうだったの?」
「ああ。彼奴、多分、祐子ちゃんの事も、入学式初日から意識し捲りだった癖に、つい此の間迄、別の子と付き合っている自分が、節操が無いとか、不実だとか、勝手に頚木を着けちまっていたんだろうな。ほら、彼奴、馬鹿だから」
高志が更に続けた。
「祐子ちゃんの事を、『俺の片思いだから、俺が我慢すれば済む』そう、思ったんだろうが、彼奴の誤算は祐子ちゃん自身だ。まさか、祐子ちゃんが彼奴に片思いしているなんて、夢にも思わなかったんだろうな。周りから見たら、バレバレなのにな…」
高志は、当時を思い出し乍ら溜息をつくと、更に、続けた。
「みんな、何かを抱えているんだ。でも、涼しい顔して、足掻いている。泰然とし乍ら、狼狽している。飄々とし乍ら、小心で、笑い乍ら、泣いている。畢竟、人間なんて、そんなもんだろ」
ひろみには、普段、お調子者の高志が似気も無く、真面目な顔で哲学を語るのが、少し意外でもあり、そして、ちょっと可笑しかった。が、ひろみも、そんな高志につきあい、しみじみとした口調で、斯う呟いた。
「『呑気と見える人々も、心の底を叩いてみれば、何処か悲しい音がする』…か」
「夏目漱石だっけか?」
「うん。『我輩は猫である』の一節だよ。蓋し、名言だね」
「…本当だな」
頓て、高志は、再び、英文に目を落とし、一心不乱に和訳を始めた。ひろみは出窓に腰掛け、弥勒菩薩の様に足を組み乍ら、ぼんやりと外の風景を見つつ、欄干に頬杖をついた。横顔が意外と凛々しい。外から涼しげな蜩の声が聞こえる。お山に陽が落ち掛かっている。実に静かな夏の夕暮れ時である。また、ひろみが口を開いた。
「高志。今朝はごめんね」
ひろみは、外を向いた儘、謂った。慈愛と後悔の入り混じった、少し不思議な表情である。
「…らしくも無いな」
高志は、英文から顔を上げもせず、呟く。然し、其処には、凛々しい顔立ちで男勝りな性格、其れでいてほんわりとした垂れ目の不思議な魅力を持つ、弥勒菩薩の様な少女を常に意識する自分が居た事に、気がついた。
「かもね、でも、あんな事で、あんたに嫌われたく無いから…」
「気にするな。ねーよ。そんな事は」
高志は、電子辞書を引き乍ら答えた。そして、また、英文に目を落とすと、頗る自然に、斯う謂った。
「俺、お前の事。結構、好きだぜ」
ひろみは、外を向いた儘である。
「そう、ありがと」
「You are welcome.(どういたしまして)」
高志は、英文に目を落とした儘である。
カナカナカナ…
哀愁を帯びた蜩の声が、頻りに聞こえる。ひろみは、日が落ち掛かった山を見乍ら考えた。果たして、漱石なら今のやり取りをアイラブユーと訳すのであろうか。二人とも、最後迄顔を合わせ無い儘であった。何時しか、窓の外では傾きかけた夕日が、夏の名残である入道雲の輪郭をオレンジ色に染め始め、蜩が一段と静かに、そして、哀愁を漂わせて鳴いていた。
高志は相変らず顔を上げ無かったが、今一人、顔を上げられ無い状況の者がいた。祐子である。祐子の顔はカーッとばかりに真っ赤になっていた。実は、祐子はひろみがタオルケットを掛けた頃、うっすらと目を覚ましたのだが、話題が自分達の事に及び始めたが故に、目を覚ました振りをする機会を逸してしまい、其の内に、抜き差し成ら無い状況に陥ってしまった。
(此れは、起きられ無い)
人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られて死ねば良い。誰だって、此の状況で起きる事など出来ぬであろう。宛ら、『宇治拾遺物語』の『かいもちひ』である。祐子は寝た振りを貫くしか無いと決意し、目を瞑り、目の前の正太郎の手を無意識に軽く握った。其の時、正太郎が手を軽く握り返して来た。
「えっ?」
祐子が薄目を開けると、其処には、目を開けた正太郎がいた。口元に人差し指を当て、必死に『寝たふりをしろ』の意を通わしている。
(此処にも、顔を上げられ無い奴、いたー)
祐子はそう思った矢先。正太郎は、恍けて軽い寝息を立て始めた。ちょっと、態とらしかったかもしれない。然し、更に、態とらしい奴も居た。其奴は、大仰に寝返りを打つと、『ぐおー、ぐおー』と、大きな鼾をかき始めた。いずなである。高志はパタリと教科書を置くと、血相を変えて吼えた。
「おまえら、態とらしいにも程があるだろうが!」
ひろみは、相変わらず、弥勒菩薩の様に足を組み乍ら外を見ていた。其の表情は窺い知る事が出来無い。然し、ウェーブがかった栗色の髪と肩が大きく震えて居た。
「あんたらねえ!」
ひろみが振り向いた。其の神々しいばかりの美しさの菩薩様は微かに涙目である。着ているTシャツ以上に、真っ赤な顔だった。尤も、先程から差し込んで来る西日に因って、全てがオレンジ色に染まっていた。ひろみは、恥ずかしさと照れくささで、一杯だった。相変わらず、表から、寂寥感を感じさせる、蜩の声と河鹿蛙の声が聞こえている…。
「ごめん。ごめん。起きるに起きれ無くて。まるで、『かいもちひ』みたいな状況だったよ♪ 『宇治拾遺物語』の♪」
おかっぱソバージュのいずながニコニコし乍ら、胡坐をかいて、頭を掻き乍ら謂った。祐子も布団の上に女の子座りをすると続いた。
「あっ。私もそれ思った。本当にリアル『かいもちひ』だったよね。よっぽど、『えいっ』て、謂って起きようかと思った程だよ」
意外と、祐子もワルノリする。正太郎もムクムクと起き上がって、口を挟んだ。
「いや、でも、かっこ良かったよ。ハロゲン族。漱石と迄はいかなくても、青春小説のワンシーンみたかったぞ。でも、正式に告る時は、ちゃんと、真正面からやってやれよ。でないと、ひろみが可哀相だ」
高志が、何時に無く、激しく狼狽える。
「頼む…。お願いだから、虐殺、やめろ。勘弁してくれー」
いずなは特徴的な八重歯で、
「いや、あの方がかっこ良いよ。お互い見なくても通じ合う心と心。いずな、キュンってなっちゃった。いずなが監督なら、やっぱり、あの演出を取るよ」
「ちょー、待て。おまえ、何で其処迄見えてんだ?」
「えっ。だって、いずな、ずっと肘枕で聞いてたよ。ハロゲン族は此方に背を向けてたし、ひろみっちは外見てたし…。そしたら、正ちんが起きだして、何とか後ろを見ようとしてたの、見えたもん」
「何が、『起きるに起きれなくて』だ。ふざけやがって。くっそー、道理で後ろが自棄に、ごそごそすると思ったら…」
「あんたも、其処迄分かっていたのなら気づきなさいよ、此のハロゲン族! バカなの?」
「でも、ひろみっち、かっこ良かったよ。特に最後のやり取り。多分、漱石なら、アイラブユー。ミートゥー。って英訳すると思うな」
最早、唯の可憐な垂れ目の少女となったひろみは、両手に顔を埋めて、顔をブンブンブンと振った。
「お願いだから! もう止めてー」
「おーい。そろそろ、夕飯作ろうよ」
凛子が入ってきた。グレーのアディダスのTシャツにグレーのハーフパンツ。地味な色合いだが、元々、スタイル抜群の美人だから、地味でも目立つ。
「お願い、凛子、助けて。みんなが苛めるの」
「?」
凛子がキョトンとしている。訝り乍ら問い掛ける。
「…如何したの? ひろみ。キャラがおかしいよ? 何か、悪い物でも食べたの?」
「ハロゲン族が持ってきた甘夏」
いずなが、澄ました顔で、謂った。
「何だと。いずな! おっぱいもむぞ。ぺちゃんこだけど」
「ムキーッ。乙女に何て事謂うの! 黙りなさいよ。此のハロゲン族!」
いずなが高志に向かって、枕を投げつける。
「ちょっと、やめなさい。あんたたち」
響き渡る凛子の諌める声。また、いつものドタバタが始まった。夕日が、いつしか、蜩の声に混じって、茜色に部屋の中を染め始めていた。
白のナイキのTシャツに、青のサッカーパン姿の敬介が大欠伸をし乍ら、良介と千穂を連れて入って来た。
「おはよう。いやあ、爆睡しちまったぜ」
高志がチビたちに声を掛けた。
「おっ。良介、千穂ちゃん。良く眠れたか?」
「うん」
千穂は目をこすり乍ら、頷いた。まだ、眠いらしい。
「そうだよな。昼寝はそうでなけりゃ。こっちは、勉強部屋で昼寝している振りして、狸寝入り決め込むバカが多くてな。おかげで…」
「何だ。何かあったのか?」
高志が仏頂面で答える。
「…何でも無え」
ひろみが凛子に聞いた。
「あら、そう謂えば、明彦は?」
「さあ。先刻、コープさんが来た時は、一緒に荷物を受け取ってくれたけど。まさか、まだ、厨房にいるのかしら?」
明彦は厨房にいた。白のTシャツにグレーのスウェット姿で、一心不乱にじゃが芋の皮を剥いている。
「おう。遅かったな。ハロゲン族」
「ハロゲン族、謂うな。ってか、何でバックプリントのことを知っている?」
「何でも、何も、着替えの時一緒にいただろう。随分と面妖なTシャツだとは思ったが…。だいたい、何なのだ? 其のシャツは?」
「うるさい、俺は酸化剤が好きなんだよ…。あーっ。此奴、芋全部、皮剥きやがった。どーすんだよ。3日分だぞ。芋カレーになっちまうぞ」
祐子が思案気に、首を傾げ乍らに謂った。
「そうねえ。カレーに使う分以外は、じゃがバタにしようか? それとも、肉じゃが?」
「肉じゃが!」
いずなが八重歯を輝かせ乍ら答えた。
全員で当番の担当を決めた。本来は、祐子と凛子以外は籤引の予定だったが、ひろみといずなが厨房を担当したいと懇願したので、厨房は女子全員と明彦、風呂場の掃除とお湯張りが正太郎と敬介、子供の勉強担当がハロゲン族と相成った。ひろみといずなは、祐子や凛子の女子力を見習いたかったのだ。
一方、203号室、子供部屋では、子供達が絵日記に取り組んでいた。徐に、千穂が聞いた。朝の一幕についてである。
「ねえ、高志お兄ちゃん。ひろみお姉ちゃん。なんで、お兄ちゃんを蹴ったのかなあ」
「うーん。其れはだな。お姉ちゃん、本当はお兄ちゃんの事好きだったんだ。良く有るだろ?」
「あーっ知ってる。近所の花ちゃん。耕太君に蜘蛛投げつけられたり、芋虫投げつけられたりと、いろいろひどい事されていたんだけど…」
「…。ちょい、待て。流石に其れは本当に酷いな」
ハロゲン族は、かつて、女の子に蜂を投げつけて、遊んでいた過去は、完全に忘れてしまっているらしい。
「本当は耕太君、花ちゃんの事好きだったんだって」
「おう、其れな。彼奴、メンタリティが小学生レベルだから。あと、おっぱいもな…。おっぱい小さいだろ、あのお姉ち…ぐほっ」
無責任な放言を垂れ流す高志の脳天に、肘が落ちてきた。
「幼気な小学生に、何、吹き込んでんのよ。此のハロゲン族は!」
ひろみは高志を睨みつけ乍らも、良介と千穂にニッコリと笑顔を向けると、
「さあ、桃むいたから、食べてね。此のお兄ちゃん、勉強だけは出来るから、何でも聞いてね。勉強だけだけどね。…一応、あんたの分もむいて来て上げたわよ」
ピンクのエプロンを着けたひろみは、割りと可愛らしい。高志は頭を摩り乍らも、いつもどおりに戻ったひろみがちょっと嬉しかった。そして、不器用にむかれた桃を見て、やはり、少し嬉しかった。
其の頃、正太郎と敬介は風呂掃除をしていた。温泉は掛け流しなので、特段、手間は掛からない。モダンな浴槽は結構広く、正太郎はモップを掛け乍ら、敬介に謂った。
「いやー。本当に立派な風呂だな。露天風呂もあるし。宿題合宿、大正解だな。尤も、露天風呂は一個だけだから、男女共用だけどな」
敬介は男女の風呂の入り口を仕切る籐の衝立を移動させ乍ら、ぽつりと呟いた。
「そうだな、処で、いずなちゃん。本当に可愛いなあ…」
正太郎は手を止めると、敬介を呆れた様に、まじまじと眺め乍ら、斯う謂った。
「…。然し、お前の、バイザウェイの行き先は、其れしかねーのか?」
「ば、ばば、ばかやろ。俺は純粋にだな…」
正太郎が考え込む様に、ボソリと呟く。
「彼氏は、いないみたいだぞ」
「マジか?」
「ああ。祐子情報だ」
「そうか。希望が出てきた…。ついでに、スリーサイズも調べられねえかな?」
「調べて如何する? あの体型だぞ?」
「いや、やっぱり、知りたいよな。男として」
「面倒くせえなあ。当面の間は、50・50・50にしておけ。取り敢えず、今は其れで、充分だろ」
無責任な放言を飛ばす正太郎と、恋する小学生である敬介を、レモン色のエプロン姿の祐子と赤白ボーダー柄のエプロン姿のいずなが呼びに来た。
「ごはん出来たよー」
「おう。今、行く」
夕食のカレーライスと肉じゃがは、素晴らしくおいしかった。一同、今日の楽しい思い出を肴にご飯は進んだ。全員、此の様に楽しいお泊りは経験した事が無かったのだ。良介と千穂は、今日と明日は客室で寝たいと謂い出した。食後に母屋に戻るのが、寂しかったのだろう。女子部屋の隣の203号に布団を二組敷いた。先程、彼らが絵日記をやっていた部屋である。子供達が大喜びであったのは謂う迄も無い。
花火の後に、勉強部屋Aがゲーム部屋となっていた。祐子と正太郎がハロゲン族のお土産である甘夏を持って上がって来た。凛子、千穂、良介、明彦が桃鉄に興じている。明彦の圧勝だった。
「ワハハハハ…。向かう処、敵無しだな」
が、凛子が、『陰陽師カード』をゲットすると、
「まったく、小学生相手に大人気ないわね。見てなさい。お姉さんが天誅を食らわせてあげる。まず、陰陽師カードを眼鏡に使う。そして、眼鏡の『リニアカード』を惜しげも無く使う」
「あーっ」
「そして、キングボンビーを巻き込んで、カード売り場駅、丁度で止まれるところを探す。なるたけ、他プレーヤーがいないところを。他の人の迷惑になるでしょ?」
「あーっ」
「まだまだよ。其れから、カードを惜しげもなく売り払う。特に急行系カードは全て」
「なーっ」
「それで、所持金が0に収束するまで、売買を繰り返す。で、便利系カードは屑カードで満たして、これで、完了。後はキングボンビーに任せましょう」
祐子が感心していった。
「すごいね。凛子ちゃん。『陰陽師カード』って、操作系能力だから、威力絶大だとは思っていたけど、此処迄、えげつない使い方、初めて見た」
正太郎も続いた。
「…考えもしなかった。鬼だな」
「ふふふ、操作系能力は早い者勝ち。相手の能力が高ければ高いほど、威力を発揮するからね。昔、弟相手に此れをやったら、二週間、口きいてくれなかったわよ」
「当然だろう。良く弟に刺されなかったな」
「そうかしら? だって、彼奴、昔、私の『冒険の書』を消した事があるのよ。クリヤー間近の奴」
結局、明彦はボンビラス星に連れて行かれてしまった。明彦が最下位になった。
「くっそー、全く、何て事しやがる!」
敬介が入ってきた。
「さあ、8時になったぜ。おーい、ちびたち。そろそろ、風呂入って、寝よう」
女子全員と千穂ちゃんが露天風呂に入っていった。此の時間の露天風呂は女子専用である。ひろみが、
「あー、気持ちいい。私、露天風呂初めてなんだ」
「あら、実は私も」
凛子が相槌を打った。祐子も続く。
「えへへ。私も」
「いずなもだよー。お風呂も良いけど、本当に今日は楽しかったな。お友達とお泊りって、こんなに楽しかったんだね。祐ちんは?」
「うん。楽しかったよ」
いずなが、ニヤニヤし乍ら謂った。
「愛する正ちんが一緒だから? 先刻も、一緒におてて繋いで、お昼寝していたもんね。あれ見ていたら、いずなも、彼氏、欲しくなっちゃったよ」
「もう、いずなちゃんの意地悪。でも、それだけじゃないよ。みんなで、ってのがいいな。本当に楽しかったよ」
「本当だよね」
いずなも同意した。周囲からは虫の声が聞こえる。然し、其処で、凛子が聞き耳を立て乍ら謂った。
「ねえ、ちょっと待って、あいつらの声が聞こえるんだけど、何か悪巧みをしているみたいなんだけど…」
其の頃、男湯では、ハロゲン族と眼鏡が露天風呂入り口に置かれた籐の衝立を何とかする算段をしていた。
「…扨と、此処は一つ、様式美に則ってだな…」
「なんだ? 何をする心算だ?」
敬介が湯船の中から、大儀そうに、高志に尋ねる。
「決ってんだろ。此の手の展開のお約束だ。…覗くんだ」
聞き咎めた正太郎が、
「なーにが、様式美だ。よせよせ。ひろみがいるんだぞ。また、●玉を蹴られるのが関の山だぞ」
敬介が手拭で顔を拭き乍ら、
「でも、いずなちゃんの入浴姿、ちょっと見てみたいなあ」
「おい、本当に大丈夫なのか? 何か、地雷臭しか、しねえぞ」
眼鏡も其の気になりつつも、露見した時の女子勢の報復が恐ろしいのか、二の足を踏んでいる。そんな明彦を高志が、無理矢理、仲間に引きずり込む。
「大丈夫だ。判りゃあしねえよ。大体、露天風呂に覗きっつったら、久米仙人以来の日本の伝統的な作法だ。謂わば、風物詩の一つだろ」
「…おい、久米仙人は、別に、女湯を覗いていた訳じゃあねえぞ。大体、おまえなあ。日本人、舐めてんだろ」
正太郎が眉を顰める。然し、高志はお構い無しに、明彦と次の算段を練る。
「それにしても、邪魔だな、あの衝立。声は聞こえるのになあ。よし、良介。お前が行って、あの衝立を撤去して来い。序に、祐子ちゃんのおっぱいも触って来い」
「やだよ。そんな事したら、ひろみ姉ちゃんに●玉蹴られちまう」
「ちっ。根性ねーな。じゃあ、敬介。お前が行って来い。序に、いずなのおっぱいも触って来るんだ。…殆ど、無えけどな」
「やだよ。俺を巻き込むなよ。そんなことしたら、いずなちゃんに嫌われちまうだろが」
「ちっ。揃いも揃って、軟弱な奴らだ。仕方が無え。正の字。お前が行って、祐子ちゃんのおっぱい触って来い。お前なら、祐子ちゃんも怒ら無えだろ。序に、乳首も摘まんで来るんだぞ」
高志の中では既に、衝立は如何でも良くなってしまった様だ。目的が明らかに変わって来ている。
「ふざけんな、バカ。何が、乳首だ。祐子が怒らない訳ないだろ。大体、ターミネーターひろみがいるんだぞ。殺されちまうだろが」
明彦が冷静に謂った。
「まあ、落ち着け。高志。問題はあくまでも衝立だ。が、此処は、それを逆手に取るんだ。つまり、俺達二人が、衝立の陰に隠れて、覗くんだ」
女子連中は、呑気に露天風呂へ入っている。当たり前ではあるが、当然、全員、全裸に相違無い。絶好の好機である。千載一遇のチャンスと謂っても良い。高志と明彦がそおっとガラス戸を開けて、衝立の陰に滑り込んだ。が、高志たちは一つだけ見落としていた。露天風呂の声が聞こえていたということは、男湯内風呂の声も筒抜けであると謂う事だ。
「あれっ。静かになっちまったな。うわあっ。冷たい」
頭上から、情け容赦なく冷水が降ってくる。ひろみがホースで、高志と明彦が潜んでいるあたりに放水している。
「うわあ、分かったよ。戻るから、放水を止めろ」
「良い加減にしなさいよ。此の、ハロゲン族と眼鏡」
「わー。ごめんなさい」
退散しようとした明彦が、バランスを崩し、籐の衝立の隙間から覗こうとして、前のめりになっていた高志の肩に掴まったが、それで無くとも不安定な態勢の高志である。
「うわあっ」
と叫ぶと、バランスを崩し籐の衝立と明彦ごと、前方に一回転し乍ら翻筋斗を打って湯船の方に向かって倒れこんだ。グワッシャーと派手な音を立て、籐の衝立は壊れ、明彦は背中を強打、高志は一回転してM字開脚の儘、ドスンと尻で着地をした為、尾骶骨を強打し、動きが取れない。湯船の中に居た祐子といずなは、とても元気になった高志の息子と、至近距離でご対面である。
「きゃーっ」
「うきゃあ、何あれ。むきーっ」
一糸纏わぬ姿で放水活動をしていた、ひろみはと謂うと、
「きゃーっ」
と謂う、此れ又、実に女の子らしい悲鳴を上げ乍ら、湯船に飛び込み、
「何てえ物、見せるのよ。此の野蛮人」
と叫び、胸を隠し乍らも、湯船から湯桶を高志に向かって投げつけた。湯桶はスコーンと小気味良い音を立て、高志の頭に直撃し、
「ぷぎゃん」
高志は情け無い悲鳴を上げる。湯船の中で立ち上がっていた凛子は、これまた、
「きゃーっ」
という、大人びたスタイルにはそぐわない黄色い悲鳴を上げると、胸を押さえて湯船にしゃがみ込む。然し、手でしっかりと、顔を覆ってはいるが指の隙間から、高志、明彦のそれをじっくり観察している。ひろみが真っ赤になって、更にシャンプーを投げつけ乍ら、
「きゃー、早く、出て行きなさいよ。此のとんちき!」
高志は苦悶の表情を浮かべ、顔を顰め乍ら、
「ちょっと待ってくれ。ケツを強打して…」
と、身動きが取れないらしい。きゃーきゃーと、黄色い悲鳴が飛び交う中、正太郎が心配して、ガラス戸を開けて露天風呂へ出て来ようとする。
「おーい、大丈夫か? 高志も明彦も、何やってんだ。まったく、良い加減にしろよ」
と謂い乍ら、ガラス戸を開けた瞬間、スコーンと石鹸が正太郎の顔面を直撃し、『ぐわっ』っと、悲鳴を上げ、正太郎はすってんころりんと、背中から、派手に転倒する。
「入ってくるな! バカー」
と、ひろみ。てんやわんやの大騒ぎである。
10分後、Tシャツを着込み、腕組みをした女子勢を前に、男子一同が正座をしている。結局、ジャパニーズ土下座で勘弁してもらう事と相成った。然し、怒り覚めやらないひろみは、人差し指を立て、
「良い事? 今度やったら、焼き土下座だからね。衝立はあんた達が弁償しなさいよ」
と、凄む。凛子も、
「本当よ。全くもう、初日から、しょーもないバカやらかして…」
良介を除く男子一同、正座し乍ら、シュンとしている。いずなはショックの余りに、べそを掻き乍ら、愚痴る。
「ムッキー、もう、何あれ。気持ち悪い。もっと、象さん見たく可愛いのだと思っていたのに…すごく、グロテスク。あれじゃあ、エイリアンだよ。正ちんと眼鏡は象さんのお鼻だったけど…」
正太郎は真っ赤になり乍ら、
「ば、ば、バカ野郎、いずな。謂うに事欠いて、何て事を謂いやがる…。大体、俺は止めに入っただけだぞ」
明彦は真っ赤になって両手をつき、orz其の物の体位で、
「うう、屈辱だ…。まるで、草も生えねえ。もう死にたい。くっそー、高志のバカめ、やっぱり、地雷、踏み抜いたじゃねーか」
と、涙ぐむ。敬介はぶそくり乍ら、愚痴っている。
「くっそー、俺、何にもして無いのに、土下座だなんて…、でも、いずなちゃん、安心して。俺のはかわいい象さんのお鼻だから。」
「ムッキーッ、ケースケ。バカ謂ってると、お口利いてあげないよ!」
再び、項垂れる敬介。高志が呆れ乍ら、
「おい、敬介。お前、よくバカって謂われんだろ」
「喧しい。人を巻き込みやがって…」
初日から青春全開のバカ騒ぎの一同であった。
夜、9時頃である。勉強部屋Bでは、明彦がひとりで宿題をやっていた。凛子が入って来ると、明彦に尋ねた。
「あれ、ひろみとハロゲン族は?」
「ああ、ひろみなら夜食を作りに厨房へ。彼奴、おまえと祐子ちゃんの料理の手際見て、相当にショック受けていたからなあ。高志は風呂へ。先刻の騒ぎで、彼奴、殆ど湯に浸って無かったから…。まあ、自業自得だけど」
「そう…、まあ、それなら、丁度いいわ。」
「?」
凛子はどっかりと明彦の正面に座ると、英語の宿題を広げつつ、謂った。
「…何故、止めたの?」
ちょっとした、沈黙が流れる。
「…何をだ? 覗きか?」
「違うわよ。レ、ス、リ、ン、グ」
凛子は、むっとし乍ら、一語一語にアクセントを込めて、明彦に尋ねた。明彦は頭を掻き乍ら、少々、返答に窮している。
「其方かあ…。…あまり、謂いたく無いなあ。…謂わなきゃ駄目かなあ」
「駄目って訳じゃ…無いけど」
明彦は、表の街灯に視線を移し、数学の参考書を机の上に置き乍ら、深い吐息を洩らすと、不意に謂った。
「悔しく無かったから、…かな」
「…」
「全中の…、準々で負けた時にさ…」
「悔しく…無かった?」
凛子は怪訝そうな顔で、鸚鵡返しに尋ねた。
「ああ」
「…其れだけで?」
「ああ、充分だろ、其れで」
網戸の外から、頻りに、虫の声が聞こえる。正面には不承顔の凛子が座っている。二人の間には静寂のみが存在する。明彦には、凛子の物問いたげな視線が、少し痛かった。凛子が、突然、声を詰まらせて叫んだ。
「分からないよ。分かる訳無いじゃない。そんな事で」
明彦は凛子の反応にちょっと驚いた様だった。そして、暫しの沈黙。然し、今度は明彦が、穏やかに口を開いた。
「俺、準々でさ、何も出来無かったんだ。何が起きたのかも分からなかった。気が付いたら、フォールされてた。…凛子の兄ちゃんには悪いけど、俺、本当は、全国レベルじゃ無い事は良く分かっていた。でも、同じ中学生だし、もう少し出来ると思っていたんだ。…でも、何も出来無かったんだ」
「そんな、…其れだけで?」
「ああ、本当に悔しくなかったんだ。俺、此奴に負けたんだな…。其れならば、仕方無いって、そう思ったんだ。あの、実力差じゃあ、そう思うしか無かったよ。そして、同時に、シューズも脱ごうと思った」
「…でも」
口を挟み掛けた凛子であったが、然し、二の句が継げなかった。明彦の優しげな、そして、少し寂しげな笑みが全てを物語っていた。凛子は其れ以上、何も謂えなかった。十四歳の少年が夢を諦めたのだ。恐らく、第三者が想像出来無い様な、苦悩と葛藤があったに相違無いのだ。遠くで川の細流が聞こえる。外の水銀灯が淡い光を放っている。絶え間無く聞こえる虫の声が、秋の訪れを静かに告げている。凛子は、不承乍も、穏やかな顔で問いかけた。
「それで、新しい夢は見つかったの?」
「まだだよ。でも、必ず見つけるさ。何しろ…、夢の挫折と引き換えだ」
「そう、…頑張ってね。応援してる」
「ああ、ありがとな」
凛子は、再び、窓の外に目を向ける。窓の外から、虫の声に混じって夜の蝉の声が聞こえた様な気がした。然し、突然、虫の声が止んだ。
同じ頃、正太郎が勉強部屋Aに入って来た。其処では、祐子といずなが宿題をやっていた。二人とも、珍しく、眼鏡をかけている。彼女達もお年頃である。眼鏡は可能な限り外す様にしていたのだろう。祐子は慌てて眼鏡を外すと、謂った。
「あら、正ちゃん」
「オッス。正ちん」
二人とも、眼鏡で雰囲気が頗る変わる。祐子は銀縁の眼鏡によって、目元がパッチリするし、いずなの黒縁の眼鏡は、いずなを5歳は年上のお姉さんに見せた。
「ふたりとも、ちょっと良いか?」
「如何したの?」
「良かったら、散歩に行かないか?」
「うん。良いけど」
いずなは気を遣ったのだろう。
「私はパス。ゆーちん、行って来なよ」
「いや、いずなも。…良ければだけど。実は、敬介もいるんだ」
「ケースケが? …分かった。行くよ」
「暗いから。足下気をつけてね。あと、眼鏡を持ってきた方が良いぞ」
「?」
四人は昼間遊んだ河原に向かって、堤防の上に腰掛けた。夏盛りとは謂え、立秋を過ぎれば、暦の上では秋である。漆黒の闇の中の闃然とした空間の中にあっても、よくよく耳を澄ませば、至る処から、虫の声が聞こえて来た。渓流の方からは河鹿蛙のもの悲しい声も聞こえる。夜になっても衰える事の無い暑気は霞を呼び、川面は煙波縹渺としていた。かなり、幻想的な光景である。然し、時折、そよ吹く湿気をはらみ、水と土の香りがする涼風が、霞を払って行く。夜風は哀しいほど爽やかで、秋の訪れを感じさせてくれる。頓て、日ならずして、新涼灯火の候となるのであろう。
「暑い暑いと思ってたけど、何時の間にか、夜はすっかり秋めいていたんだね。ところで、如何したの?」
祐子が、訝しげに聞いた。土と水の香りが鼻腔を擽る。とても爽やかな夏の夕べである。
「いや、大した事じゃないけど、上を見てごらん」
みんなが一斉に見上げた。視界に飛び込んで来たのは、清水市街地ではとても見られない様な満天の星空だった。天龍が翼を広げ、星空の海を大きく飛翔する。
「わあ」
「すごい」
「本当だ」
「お約束の『夏の大三角形』。前に、見たいって謂ってたろ」
「『夏の大三角形』って、化物語の主題歌の?」
いずなが、プラネタリウムで見る様な星空を見上げ乍ら、夢見る少女の様な顔つきで謂った。正太郎が上を見上げ乍ら、解説する。
「そう。此れだけ見え過ぎちゃうと、逆に探すのが大変だけど。真上に明るい星を3つ探すと二等辺三角形になるのがあるだろう。三角形の内側に、十字架型の配列の星があるから分かると思う。二等辺三角形の頂点が鷲座のアルタイル。ひこぼし様だ。で、十字架型の一番上の星が白鳥座のデネブ。で、最後の一つがこと座のベガ。おりひめ様だ。此の3つが、所謂、『夏の大三角形』。ひこぼしとおりひめの間には、天の川が流れていて…。あはっ、見えるね、天の川。すごくぼんやりとだけど」
「あれがそうなの?」
「ムッキー、とても綺麗」
突然、敬介がどもり乍ら、精一杯の勇気を振り絞って、いずなに話し掛けた。
「と、ところで、いずなちゃんさあ。た、誕生日はいつかな?」
「3月20日だよ」
「3月20日っておひつじ型だよね」
混乱している敬介が、『座』と『型』を謂い間違えた。
「違うよ魚型だよ」
いずなも、敬介に合わせて答えた。
「魚型ってさ、アフロデ…。おい、正太。何だっけ?」
「あっ。バカ…」
いずなが、ぷっと吹き出した。
「なーに。もう。軍師に頼るの? まあ、十二宮全部覚えようとした、心意気に免じてお手手繋いで上げる」
と謂って、敬介の手を握った。敬介は緩みきった笑顔で、呟いた。
「もう、死んでも良い」
「二葉亭四迷かしら?」
いずなはニヤニヤし乍ら謂った。でも、とても嬉しそうだった。分かる人には分かる。が、分からない敬介には分からない。敬介はきょとんとしている。分かる人たちである祐子と正太郎はあっちで星を見て来ると謂って席を立ってしまった。いずなは、
「もう少し此処にいるね。まだ、ケースケのお誕生日聞いていないし。ねえ、ケースケのお誕生日はいつなの?」
「1月23日。水瓶型。A型」
「私は、AB型。それも、Rh-の」
「まじなの?」
「だから、良く病院から電話が掛かってくるの。輸血用血液が足りない時に。私、体重無いから、あまり沢山、献血出来無いけど、いつも、協力できる時は、する様にしているんだ。お互い様だものね。だから、ケースケが必要な時には謂ってね。輸血してあげる」
「…死んじまうだろうが」
敬介は、此の冗談好きで、優しくも献身的な少女を見つめた。八重歯がとてもチャーミングだった。それまで、堪えて来た想いが、堰を切った様に溢れ出た。
「あ、あのさ、俺、いずなちゃんと友達になりたい」
「何、謂ってるの? ケースケ。もう、とっくにお友達でしょ」
「いや、違うんだ。もっと、…その、俺、俺、いずなちゃんの事が好きだ」
「ちょっと、如何したの? 私、そんな事、…謂われた事が無いから、…如何したら良いか…」
と、謂って、いずなは言葉を切った。そして、悲しげな表情で続けた。
「私、ケースケ君に謂わなければならない事があるの。自分で謂うと、…悲しくなっちゃう様な事だけど、後から、ケースケ君にやっぱりとか思われたく無いから、今、謂うね。私…、その、…中学の時、みんなに嫌われていたの。『変人』とか、『がり勉』とか『ぶりっ子』とか『ばい菌』って謂われていた…。だから、人の事好きになる資格なんて、…多分、無いよ」
語り乍ら、いずなの双眸には涙が溢れている。自分に好意を寄せている人に、こんな話をしなければならない事自体が、とても、悲しかった。然し、其れでも敬介は、そんないずなを労る様に、真摯に謂った。顔付きがとても優しく、そして、凛々しい。
「ひどいな…。そんな、自分が悲しくなる様な事、謂うなよ。俺は、そんな奴らの目よりも、自分の目を信じる。確かに、一目惚れだったけど、5ヶ月間、いずなちゃんを…、いずなちゃんだけを見て来たよ。優しくて、友達想いで、冗談好きで、マイペースな振りして、周りに気配りして。祐子ちゃんの時も、バラバラになりそうだった俺達を一生懸命に鼓舞してさ。自分が傷つく事も省みないで。いずなちゃんは強くて、優しい子だよ。俺は自分の見た儘を信じる。そして、そんないずなちゃんが大好きだ」
「でも、私、ぺちゃぱいだよ」
「知ってるよ」
「チビだよ」
「俺もだ」
「小学生体型だよ」
「大丈夫。守備範囲だ」
「ケースケ。そのうち、警察に捕まるよ」
「…大きなお世話だ!」
いずなちゃんは、どんな状況からでも、ギャグだけはかまさないと気が済まない性分の様だ。
「ありがとね。でも、こんな私がケースケ君の事、好きになっても…良いの?…多分、そんな、資格無いよ」
「良いに決まっている。俺だって、いずなちゃんの事が大好きだ」
「…うっ、うう…」
突然のいずなの嗚咽。そして、号泣。
「うわーん。ママー」
いずなは泣いていた。思わず、母を呼び、泣き濡れていた。とめどなく涙があふれ出てきた。学校祭のクイズ大会の時と全く同じだった。告白された事も初めてだったが、抑々、自分に好意を寄せてくれる人がいるなんて、思っても見なかったのだ。つらく悲しい小学校、中学校時代を思うと、涙は止まらなかった。
「ありがとう。ケースケ君。私も、ケースケ君の事が大好きです。…こんな、私で良かったら…」
此処迄謂うのが、精一杯だった。いずなちゃんは泣き崩れてしまった。
辺りは、星空と虫の声のみが包み込む、二人だけの世界であった。
「ムッキー、聞いてよひろみっち。いずな、彼氏が出来たんだよ」
「何よ、あたしだって…」
「ムッキー、でも、バカ作者の奴。変な覗きの話を無理やりねじ込むから…」
「全く、本当よね」
「然も、次回はクイズも無理やりねじ込んで来るみたいよ」
「と謂う訳で、次回、『第15話 池の周りを廻る』。お楽しみに」




