第13話 夏雲の想い出(興津川夏合宿編【2/6】)
一向は良介と千穂ちゃんに、二階の客室へ案内された。ベランダに面した出窓から、室内へ向けて瑠璃色の風が駆け抜けて行く。横を流れる興津川の恩恵なのであろうか、盛夏にあっても、意外と涼しいのだ。此れなら、確かにクーラーは不要なのかも知れない。二階は全部で8部屋。男子側が201号、女子側が202号だった。二部屋とも川に面した20畳の部屋だった。隣の203号は空き部屋で12畳、隣の204号も12畳の広さ。廊下を挟んで反対側も同じ間取りで、街道に面していた。同じ間取りの205号と206号を勉強部屋Aと勉強部屋Bとした。207号と208号は使用せず。201号~204号の部屋から興津川が見える。10人くらいの子供達が川で水遊びをしている。水面スレスレを数羽の翡翠が遊んでいる。川面を渡る風は天然の扇風機だった。川を挟んだ向いの山全体から蝉の声が聞こえた。木々の一本一本が、がなりたてている様だった。ひろみが、窓の欄干に手を掛け、体中で涼風を浴び乍ら、気持ち良さそうに叫んだ。栗色の雲鬢がサラサラと風に靡いている。
「うわー、気持ち良い。風になったみたい。本当に、素敵な処ね」
欄干に手を掛け、穏やかな横顔のひろみが、酷く前のめりの前傾姿勢で、目を瞑っている。そう、正しく風なのだ。今、ひろみの意識は風と一体になって、宙空を滑空している。祐子は横からひろみを優しげな瞳で見つめた。風と一体になっているひろみは、随分と女性的な容姿をしている。斯うして、横からひろみを見ると、意外と肉付きが良いのである。日頃、高志が良くからかう様に、胸も決して、貧乳と謂う程では無く、寧ろ、相応に大きく見える。結局の処、周囲との比較対象の問題でもあるのだろう。祐子や凛子と謂った、学年屈指の巨乳の持ち主と比較されては、ひろみとしても堪った物では無いのだろう。そして、其の隣で、件の凛子もしみじみと謂った。
「確かに良い処ね。本当は、私、今回のお泊り合宿、すごく楽しみだったの。うちね、両親が共働きで、お泊りの旅行に連れて来てもらった事なんて無かったから。敬介には、ちょっと感謝かな」
「そうだったの…。うちも、父親が転勤族で、小学校の時、2回も転校した。それに、私も此の性格だから、仲の良い友達なんて出来無かったし、憧れだったんだ。気の置けない仲間達と、遊んだり、騒いだり、バカやったりって」
ひろみが、遠い目をし乍ら謂った。祐子といずなが、思わず顔を見合わせた。
(楽しみだったのは、私達だけじゃ無かった…)
顔を見合わせる、祐子たちを尻目に、ひろみが独白を続ける。
「だから、私もすごく楽しみだったの。まあ、あいつら、ちょっと、バカやりすぎる嫌いがあるけどね」
「凛子っちも、ひろみっちも、早く水着に着替えて、飛び込みに行こうよ。きっと、凄く楽しいよ」
一方、男子部屋では、海パン一丁になり乍ら、高志がみんなの顔色を伺いつつ、恐る恐る、謂った。
「なあ、物は相談なんだが、俺、寝る時、部屋の真ん中でも、良いかな?」
正太郎が訝しみ乍ら、尋ねた。
「良いけど、何でなんだ? 暑苦しいだけだろ」
「いや、ただ、何となく」
敬介がニヤニヤし乍ら謂った。
「ははあ…。分かったぞ。部屋の端っこだと怖いんだろ。俺にも覚えがあるぞ。田舎のばあちゃんちに行った時、結構、怖かったわ。壁に般若かなんかの、変なお面が飾ってあってよ。然も、其の下には、結構、大きな市松人形かなんかが置いてあってよ。然も、寝返りを打った拍子に人形と目があっちまってよ。ありゃあ、普通に恐怖だよな。夜中、怖くて其方は見れなかったわ」
如何やら、高志も敬介も部屋の端っこは苦手らしい。
「喧しい。おめーと一緒にすんな。俺は死んだばあちゃんの遺言で、仕方無くだな…」
明彦が笑い乍ら謂った。
「遺言って何だよ。わかった。わかった。端でも、真ん中でも、好きな処にしろ。また、寝小便でもされたら、たまらんからな。俺は、寧ろ端っこの方が好きだしな…」
「すまん、恩に着る」
磧には、小学生から幼稚園児と思しき、地元の子供達が、凡そ20人位いた。川幅は10m位で。中州に高さ1mほどの、大きな岩があり、子供達が頻りに飛び込みをしている。対岸は比較的緩慢な岩肌であり、中州の岩の対岸、2m程上流に、高さ3m程のひときわ大きな岩があり、其の上で、子供達が列を成して飛込みをしていた。岩と岩の間の淵はとても深いらしく、飛び込んで行く子供達は、皆、一様に足が立たずに流されて行く。が、30m程下流には、子供でも膝下位の瀬が続いており、安全に遊べる様だ。如何やら、此の辺りの箇所を雨乞淵と呼ぶらしい。淵の10m程上流にも瀬があり、流れがとても速い。子供達は浮き輪やゴムボートで、一気に淵に流されて来る。本来であれば、誰か大人が安全の為に監視すべきなのであろうが、子供たちは、一向にお構い無しである。と、謂うよりも、此処いら辺りは、興津川の中でも、有数な安全に水遊びが出来る箇所である事を、彼らは、幼い頃から知悉しているのである。
高志たちは、磧の一角に陣取り、レジャーシートを敷き、女子の到着を待っていた。女子組は全員、スクール水着だった。此方に向かって、何かにこやかに談笑し乍ら、やって来る。敬介が目を輝かせて感嘆する。
「いやー。いずなちゃん。かわいいよ。良いよなあ。スクール水着」
明彦が呆れ乍ら、
「お前、其のうち、絶対逮捕されるぞ」
「ほっとけ…」
「お前、スクール水着属性か? 顔立ちがかわいい事は、認めるけどな。あの、体型、隣の千穂ちゃんと全く変わらねーぞ。完全に小学生体型じゃねーか」
と、高志が掛け合うと、明彦が、
「いや、其れより、凛子を見ろよ。あの胸。公称Cとの事だが、あれは、絶対レベルEだぞ。彼奴、着痩せするタイプかなあ」
「いや、胸なら、絶対、祐子ちゃんだろ。うらやましいぞ。此の巨乳ハンターが…。なっ、正太」
正太郎が呆れる。
「おまえらなあ」
高志が燥ぎ乍ら謂った。
「なあ、如何だろ? 泳いでいる時に、どさくさに紛れて触るって謂うのは? パットかどうか確認するんだ。なあに、『高校生らしい良識を持った生活を送ろう!』には、抵触しねえ。寧ろ、健全な高校生、其の物の発想だろ?」
明彦も、激同する。
「おう。良く謂った、高志。俺も凛子のパット疑惑を、払拭する義務があるからな、同じ本屋に行った関係としてな」
正太郎が呆れ乍ら、呟く。
「一体、如何謂う関係だよ」
いずなが、歩き乍ら、眉を顰めて胡散臭そうに、ひろみに謂った。
「ねえ、ひろみっち。あいつら、今、絶対Hな話しているよ。顔にそう書いてある」
「確かにそうね。そんな顔してる」
凛子も間違い無いと謂った様子で、同意する。
「眼鏡なんて、先刻から、私の胸元しか見て無いもの。そばに行ったら、眼鏡叩き割ってやろうかしら」
祐子があわてて、バスタオルを羽織って、其の大き過ぎる胸元を包み隠した。凛子が、澄ました顔で謂った。何か悪巧みをしている顔付きである。
「あっ、そうだ、ひろみ、きんかん持って来た?」
「あるけど」
「ちょっと貸して」
凛子は右の手のひら一杯に、きんかんを塗った。
「おー。待ってたぞ。ぎゃんっ」
ひろみが、いきなり、高志の股間を蹴り上げた。
「あんた。テント張ってるわよ。川はそれ収まってからに、しなさいよね。いずな、行こ」
「ぷいっ」
「あら、明彦。眼鏡に汚れがついている。貸してみて」
「おっ。そうか」
其の刹那、凛子の右手が、『つっ』と伸び、掌が両目を覆った。
「ひやーっ。目が、目があ」
「あっ悪い。勘違いだった。これ返す」
凛子は明彦の顔に眼鏡を戻すと、冷めた顔ですたすたと行ってしまった。傍らで見ていた良介と千穂が謂った。
「あっ。此れ見た事ある。此の前、映画でやってた」
「うん。滅びの魔法だ」
高志が悔しそうに謂った。
「くっそー。何なんだよ、彼方ら」
祐子が困ったような微笑を浮かべて、
「みんなの下心が見透かされていたみたいよ。でも、許してあげて。彼女達の照れ隠しだから…」
「照れ隠しってもなあ。俺、●玉蹴り上げられたんだぜ。空手有段者に…。こんなん、普通に傷害事件だろ」
「俺なんか、目にきんかん塗られた」
正太郎が苦笑し乍ら、
「まあ、自業自得だな。おい、良介、千穂行くぞ。千穂、浮き輪忘れるなよ」
レッツゴー! みんな、歓声を上げ乍ら、早速、中州の岩に殺到した。全員、えらく、大人びてはいるが、昨年迄は中学生なのである。油蝉の消魂しい鳴き声の中、みんなの歓声が聞こえる。いずなは中州岩を制し、大岩にチャレンジする様だった。祐子はレジャーシートの横の岩に静かに腰掛け、読書をしていた。其処へ、正太郎がやって来た。
「あっ正ちゃん」
「祐ちゃん。楽しんでいるか?」
「うん。すごく楽しいよ」
「…そうか」
「ねえ。祐ちゃん。本とタオル置いて、此方来て」
正太郎は、浮き輪を取ると、祐子の手を取って、磧を下流に向かって歩き出した。祐子の手はひどく熱かった。
「正ちゃん。何処へ行くの? 私、水はちょっと」
「大丈夫だよ。俺を信じて」
正太郎たちは、淵から30m程下流の瀬に来ていた。
「見て。此処は見てのとおり、深さは俺の踝位だ。深い所でも膝下だ。此処なら如何かな?」
「…多分。大丈夫だと思う」
「じゃ。此方に」
正太郎は祐子の手を引き、瀬の中程に進んだ。
「水が冷たくて、すごく気持ちいいね」
「だろ。で、此処で座ると」
「わあ。本当に気持ち良いね」
瀬に座り込んだ二人の体に、清流が当たって、砕けて、キラキラした飛沫となり、体中に降り掛かる。火照った体にとても爽快だった。正太郎は怖ず怖ずと尋ねた。
「祐ちゃん。その、水、怖い?」
「ううん。全然」
正太郎はホッとする。
「良かった。自転車でハードワークした後に、あんな、暑い処で読書なんてしていたら、間違い無く、熱中症に成っちゃうよ。泳ぐ必要は無いけど、体を冷やす必要は有るからね」
「うん。正ちゃん。ありがと」
「じゃあ。次だ」
今度は、正太郎が手を引き中州岩の対岸に立った。
「此処と中州岩の間は、深さは大人の股下、或いは、腰下位だ。川底は大きな石が、ゴロゴロしていて、サンダル無しでは、とても歩け無い。ただ、流れがとても速いから、大人でも、流れに持っていかれる事がある。持ってかれたら、諦めて流されていい。どうせ、先刻座った瀬の処の手前で足がつけるし、必ず止まる。中州岩の3m程上流からチャレンジするのがポイントだよ。あと、サンダルが流され無い様にしてね。中州岩の正面に取り付けたら、水面下に足掛かりが有るから簡単に登れるよ。出来そうかな?」
「うん。ちょっと怖いけど、…やってみる」
「じゃあ。最初に、俺がやってみるね」
正太郎は、岩の3m程上流から、水面と水平に及び腰で飛び込んだ。そして、犬掻きの様な姿勢で、顔を一度も水に浸ける事無く、岩迄泳ぎ、岩の正面に捕りついた。泳ぐと謂うより、流された。あるいは、流され方をコントロールした。と謂った方が、正確かもしれない。祐子も正太郎の真似をしてやってみた。浮き輪のせいで、予想以上に速く流された。が、其の時、正太郎の腕ががっしりと浮き輪を掴んでいた。浮き輪のお陰で、顔は一度も濡れなかったし、首から下は火照った体を清流が冷してくれており、とても気持ちが良かった。
「ねっ。簡単だろ」
「うん。すごく気持ちが良かった」
正太郎が謂ったとおり、中州岩前部からは苦も無く登れた。祐子は、対岸の大岩の上にいずなの姿を見つけた。
「いずなちゃーん」
祐子がいずなに向かって手を振ると、向かいの大岩の上のいずなが、祐子にすぐ気がついた。水が苦手な祐子が、何と中州岩迄来ているのだ。
「ゆうちん!」
いずなは、驚き乍らもそう叫ぶと、続けて謂った。
「待ってー。すぐ行くから!」
いずなは頭から美しいフォームで飛び込むと、抜き手を切って、ひとかき、ふたかきと、泳ぎきると、すぐに中州岩に登ってきた。
「すごいね。ゆうちん。此処迄来れたんだ。良く、がんばったね」
「うん。此れも、いずなちゃんと正ちゃんが背中を押してくれたお陰だよ。ありがとね」
「えへへ」
「祐ちゃん。感想は?」
「すごい気持ちが良かった。全然、怖く無かったよ」
正太郎がイタズラっぽい笑顔になって、
「よーし、じゃあ。第三段階だ」
「…まだ。あるの?」
多少、不安気な祐子である。
「次は、此の岩から飛び込んで、川を渡り、向こうの岩肌に取り付く。渡河作戦だ」
「ちょっと、怖いかも…」
「まず、足から飛び込む。間違いなく足はつかない。安心して飛び込んでいい。飛び込んだら、対岸を目指す。目安は、ちょっと下流のあの辺りかな。ほら、千穂達が遊んでいるだろう。行って見ると分かるけど、あの辺りは殆ど流れが無いんだよ。水温もぬるま湯みたいだもん。それにあの辺りは、岩肌の下の水面下に、足場になる岩が張り出しているんだ。子供達はそれを知っているから、彼方から登るのさ。それから、サンダルは預かるよ。此処では、バタ足の邪魔になるからね。じゃあ俺達が、最初に行くね」
まず、いずなが、頭から飛び込み見事なクロールを披露して到達、続いて、正太郎が祐子のサンダルを持って足から飛び込み、犬掻きで泳ぎきると岩肌に取り付いた。最後に祐子が、躊躇いつつも、浮き輪をつけて、及び腰乍らも足から飛び込んだ。
ドブン!
(本当だ、足がつかない)
祐子は、ちょっと不安になったが、懸命にバタ足をした。其の内、本流から外れ、体が急に楽になり、正太郎が謂った様に、水温が生暖かくなった。ふと、前を見ると、正太郎といずなが岩肌から懸命に手を伸ばしているのが見える。祐子は正太郎の手を借り乍ら、岩肌へ取り付いた。
「やったね。ゆうちん。おめでとう」
「祐ちゃん。如何だった?」
正太郎はサンダルを渡し乍ら聞いた。
「全然怖くないよ。浮き輪無しでも大丈夫かも」
正太郎といずなはお互いに顔を見合わせて、ニッコリとしている。正太郎達は岩肌伝いに大岩に到達した。先程、いずなが飛び込んだ大岩だ。
「此処から飛び込むのが、最終のレベル5。ちょっと、覗いてみる?」
祐子が恐る恐る覗き込むと、それは思ったより、ずっと高く感じた。足腰の力が脱力してしまう様な恐怖の感覚に襲われた。
「すごく高いね。私、此処は多分、無理だよ」
「分かってるよ。僕も足からがやっと。下から見上げるのと違い、恐怖感が半端無いもんね。次は、此方、岩肌沿いに行ける処迄行く。そして、行き着いたら、此の瀬から、淵を通って、最初の瀬まで、一気に急流下り」
「ゆうちん。私も横で泳ぐから」
「ゴー」
祐子が浮き輪で瀬に入ると、一気に流され始めた。強い水の流れに乗って、浮き輪は結構なスピードで流されて行く。そして、冷たい水流が実に心地良い。『祐子おー』、大岩の上から、ひろみと高志と凛子が次々と、飛び込んだ。中州岩から、明彦と敬介が。次々と水柱があがった。瀬についた祐子は、満面の笑みだった。
「凄く面白いよ。みんなありがとう。水、全然怖く無いね」
「よかったね。お姉ちゃん」
「ありがとね。千穂ちゃん」
「じゃあ。飯にするか?」
昼食は頗る楽しかった。祐子と凛子が、卵焼きとか、焼きウインナー、ゆで卵といったおかずを作ってきてくれていた。高志が、
「おにぎりが一人頭6種類の6個か。流石に食べきれ無いだろ?」
「そんな事無いさ。朝からサイクリングに水泳とハードワークの連続だからな。みんな、ぺろりと行くと思うぜ」
と、正太郎。いずなは、隣の良介に、早速、明日行く清地淵の情報を聞いている。
「ねえ。良介君。傍に、もっとすごい、飛び込みスポットが有るんだって?」
「うん。清地淵だろ。あそこの道から飛び込めないと男として認められ無いんだ」
「お姉ちゃん。それが楽しみで来たんだから。明日行こうね」
「本当?」
「うん」
「みんな、良かったらこれも食べてね」
祐子が作ってきたおかずを皆に勧める。正太郎の予言どおり、おにぎりとおかずは、あっという間に売り切れた。
「一人6個じゃ、足りないくらい位だね」
「良介と千穂。食えるか? 食えないなら、お兄ちゃん達が手伝うけど…」
高志が、早速、狙っている。
「本当。いずなも最初は、おにぎり買い過ぎって、思ったけど。まだ、足り無いよね」
「祐ちゃん。おかずおいしかったよ。…また作ってくれる?」
「うん」
「其のかわり、正ちゃん。また、急流下り。行こ!」
「オーケー」
二人を見送り乍ら凛子が、
「あらあら、お熱いわね、お二人さん。じゃあ、眼鏡。大岩からの飛び込み付き合いなさい」
「えー。何で俺が」
と謂い乍らも、満更でも無さそうだった。
「ケースケ。一緒に急流下りする?」
「おう、ゴムボートは?」
「いらないよ」
そう謂って、満面の笑みを浮かべたいずなの八重歯は、印象的でとても可愛かった。敬介は、何か話しかけようとした。其れは、ひょっとしたら、敬介の胸の奥底深くに秘匿した、熱い想いだったのかもしれない。
「あっ。いずなちゃん」
「なーに?」
そう謂って、振り返った時のいずなの顔は、輝いており、年相応の、いや、もっと年上の、頗る美人に見えた。余りの美しさに敬介はドキリとして、思わず、慌てて言葉を飲み込んだ。そして、精一杯の照れ隠しの笑顔を浮かべて、
「いや、なんでもない。行こう、いずなちゃん」
「うん」
正太郎は祐子に付き合って、急流下りを5回程やった後、中州岩に腰掛け休んでいた。6回目の急流下りを終えた祐子が中州岩に登ってきた。そして、そっと正太郎の後ろに回り込むと、
「えいっ」
と謂う掛け声と共に、正太郎の背中を押した。
「うわあ」
正太郎の素っ頓狂な声と共に、正太郎は落水した。正太郎は其の儘流され、瀬から岸を回って中州岩に上がって来た。
「ひどいよ、祐ちゃん。いきなり何するんだよ」
正太郎は笑顔で抗議するも、祐子は脹れ顔である。
「もう、正ちゃん。…先刻、急流下りの時に、…胸、触った。…2回も」
「違うよ、1回目は浮き輪かと思って掴んだら、…その」
正太郎は必死になって抗弁するも、顔は既に真っ赤である。
「…じゃあ、2回目は?」
確かに、2回目は浮き輪と謂うより、祐子自身に抱きつく感じで、両胸を後ろから抱えた儘に、其の儘流されていった。感触も、遠慮がちにと謂うよりは、寧ろ、ムニュウッと謂った感じであった。不可抗力と謂えなくも無かったが、正太郎の本音で謂えば、確実にワザとである。正太郎は、愛しい祐子の事を、つい、抱きすくめたくなってしまい、水中である事を、此れ幸いに、後ろから、確りと抱きしめた儘、流されて行ったのだった。
「…いや、あれは。…不可抗力の様な、…ワザとの様な…」
「…エッチ」
正太郎は祐子の隣で茹蛸の様になっている。祐子が真っ赤な顔をし乍ら、小声で謂った。
「…ちょっと、…感じちゃったんだから…、もう」
祐子の此の一言により、正太郎は真っ赤になり乍ら、祐子の隣で突如、体育座りを始めた。正太郎の男の子が敏感に、かつ、瞬間的に反応してしまっている。
「ごめん…なさい」
祐子は表情を緩めて笑顔になると、斯う謂った。
「駄目。お昼寝の時は、おてて繋いでくれないと、駄目。許してあげない。…あと、キスも最低限、1日1回…」
「…はい。ごめんなさい」
「じゃあ、許してあげる。約束だからね、正ちゃん」
祐子はニッコリすると体を寄せ乍ら謂った。正太郎は祐子の手を握った。祐子も拒まなかった。祐子は空を見上げ、山から湧き上がる入道雲を見上げている。入道雲は、輪郭部分はキラキラと陽の光を反射し、眩いばかりの光芒を放っており、むくむくと湧き上がる雲の中に、影となるグレーの部分は、其のコントラストをどぎつい程に際立たせ、雲の立体感を造形美術の様に高めていた。祐子は遠い目をして、其れを眺めつつ思った。
(あの時の雲と同じだ)
其れは一年前、中学三年の夏、正太郎と受験対策夏期講習の帰りに見た入道雲と同じだった。突然、祐子が正太郎に語りかけた。
「ねえ、正ちゃん、あの雲。一年前と同じだね」
「えっ、ああ…」
正太郎も遠い目をして、目の前の山の上に聳え立つ積乱雲を見つめている。奇しくも、正太郎も同じ思いだったらしい。一年前の中学3年時の夏休み。正太郎と祐子は7月31日月曜日より、三週間の夏期講習に通っていた。祐子にとって、正太郎と疎遠だった中学時代の3年間は、此の夏休み中の3週間に、全て収束していたのだった。
受験対策夏期講習は、とある予備校の恒例の企画であった。事前の試験により、選抜クラス6クラスと、一般クラス12クラスに峻別されていた。特に、選抜クラス分けは、1組から6組迄、全て事前の試験の成績順であり、特に地元進学校である清水高校を受験する受験生達は、概ね、選抜クラスに収まっていた。未だ、当時としては知る由も無かったが、ボストンティーパーティーの面々も、全員選抜クラスの中に収まっていたのだ。いずな、凛子、明彦、高志は1組。ひろみは2組。正太郎は4組。敬介は6組であった。祐子はと謂うと、まあ、当然と謂えば当然の事乍ら1組であった筈なのだが、同じ文芸部である選抜4組の高山康代(謂わずと知れたヤスベエの事である)と謂う子から、正太郎のクラスが4組である事を知るや、彼女に強引に頼み込んで、クラスを変わってもらい、当初から名前を偽って4組に出席していた。更に、講習初日の前日に、偶々、近所のスーパーに買い物に来ていた祐子と祐子の母親が、正太郎の母親とばったり出会う事で、祐子の母親から、『正ちゃんが一緒に行ってくれるなら一安心ね。うちの祐子は、兎に角、引っ込み思案だから、心配で…』の一言により、また、正太郎の母親からも、『此方こそ、祐子ちゃんと一緒なら、安心ね。正太郎もフラフラ遊びに行ったりしないでしょう。良いですよ。正太郎に良く謂っておきますから』との、言質を取り付け、毎日、正太郎と一緒に静岡迄通わせると謂う密約が、正太郎本人のみが蚊帳の外という状況下で、既に、交わされていたのだ。当然、正太郎は嫌がったが、母親の強い命令により、彼の意見は却下された。斯くして、正太郎は、毎朝、祐子の家に迎えに行き、二人で桜橋駅迄歩き、そして、静岡迄通うと謂う、約三週間の夏休みが始まったのである。
正太郎は嫌がっていた、とは叙述したが、何も、祐子の事が嫌いと謂う訳では無かった。寧ろ、妹に対しての様に、好意的ですらあった。ただ、二人で歩くのが、途轍も無く恥ずかしかっただけであり、小学校時代は何時も一緒に居た訳だから、自然と其の頃に戻った様に、振舞えた。尤も、小学校時代とは異なり、祐子のふくよかに育った胸は、常に意識してしまっていたのではあるが…。祐子にしてみれば、此の3週間の思い出は、何物にも換え難い、宝物の様な思い出だった。片道、1時間。往復で2時間。更に会場での4時間。締めて6時間、憧れの正太郎と常に一緒なのである。其の内、帰りに買い物をしたり、アイスクリーム屋に寄ったり、と謂った時間も出て来た。お互い学校でのクラスの事、クラブの事、受験の事、勉強の事、二人の間で交わされた、中学校3年間の情報交換は、全て、此の3週間で為されたと謂って良い。また、正太郎が、二人の共通の幼馴染である、酒井六助や、杉本一平への受験のアドバイスを祐子にお願いしたのも此の頃であった。以前にも書いた事ではあるが、祐子の成績は学年でもトップクラスであり、先生方からは特進科を推された程でもあり、受験に失敗するなど、到底、考えられない状況下にある。一方、正太郎はと謂うと、流石に祐子には及ばぬまでも、祐子に次ぐ次元の成績であり、内申点は兎も角、テストの点数的には優に、清水高校の安全圏内に収まっているのである。彼の斑っ気のある性格上、今回の峻別では、選抜クラスの4組となってしまっていたが、本来の実力であれば、当然、2、3組程度に収まる筈であり、受験勉強自体には、かなり呑気に構えていた。更に、清水高校の合否判断と謂う点に於いては、此の夏期講習のクラス選抜が一つの試金石と目されていた。一般的に、此の夏期講習の選抜クラスに入る事が、清水高校合格の目安とされており、其の点からも、二人とも十二分に合格条件は満たしていたのである。そんな訳であるから、正太郎、祐子、共に受験生特有の悲壮感などは皆無であり、特に祐子に到っては、不合格など考えられない高校受験の為の、夏期講習な訳なのだから、憧れの正太郎との受験対策夏期講習に託けた安寧の日々。宛ら、毎日がデートの様なものであった。尤も、祐子にも、若干の後悔はあった。一つは、正太郎とメアドや携帯番号を交換しなかった事、そして、祐子と正太郎の中途半端な擬似交際が千春の告白を誘発した事であった。然し、当時としてはそんな事になるとは、知る由も無かったのである。
扨、夏期講習も愈々、今日が最終日である。帰り際に、珍しく正太郎から祐子に、『何か飲んでいかないか?』と、誘いがあった。当然、祐子に否やは無かった。二人は茹だる様な暑さの中、玩具の様な静鉄電車で終点の新清水迄乗り過ごし、清水銀座はずれの生ジュース屋さんへ寄った。二人は、油蝉の泣き声が至る所に滲み込んだ炎天下の昼下がりに、メロンジュースを注文し一緒に飲んだのだった。正太郎は何時に無く、言葉数が少なく、他愛も無い話柄に終始していた。此れと謂った出来事も無い儘、二人は店を出ると、蝉達が、がなりたてる清水銀座を抜け、魚町稲荷、そして、母校である二の丸小学校へと至った。家への道程は、小学校を通り抜け、裏門から嘗ての通学路へ至る道が一番の近道であった。頓て、二人はグランドを見下ろす石の階段に並んで腰掛けた。眼の前に、馬大頭が空中停止をしている。灼熱の太陽が創り出す陽炎は、全ての風景を海の底の海草の様に揺らし、働き者の蝉達が力の限り声をあげている中、生徒達の製作物であろうか、空き缶を利用した風鈴が、時折、思い出したかの様に遠慮がちに渡る青東風を受け、カランコロンとカウベルの様な間の抜けた音を発していた。特段、何の変哲も無い、水彩画の様な杪夏の一風景である。蝉の声のみが辺りを包み込む。其処には海の底の様な静寂しか無かった。じりじりとした暑さの中、正太郎は祐子に対する気持ちを、正直な処、少し持て余していた。2年半の中学校生活に祐子との接点は全く以って無かった。唯一あるとすれば、学力テストだけである。中学3年とも成ると、何と無く、自分と同レベルの子達とつるむ様になる。同じクラスの中でも、其の傾向はあったし、クラス外にあってもそうであった。特に地元有数の進学校である清水高校志望の場合、何処のクラスの誰が志望しているかは、直に判る事であって、正太郎と祐子は、クラスこそ端から端であるものの、お互いに、噂は良く耳にしていた。
運動場に面した石段に腰掛けた儘、正太郎は祐子に謂った。
「祐子。3週間有難う。祐子のお陰でなんとか続けられたし、その、…結構、楽しかった」
最後の言葉は、苦渋の選択ではあった。当時の正太郎には、『好きだ』と謂う言葉は、本当の恋を知らない少年には、選択し得なかった言葉であったし、2年もの間、何の接点も無く使い得る様な言葉でも無かった。更に、現時点では、受験生でもある。何を謂っても受験からの逃避の様に思われた。然し、それに対して、祐子は本当に嬉しそうに謂うのだった。
「私の方こそ、ありがとね。正ちゃん。此の3週間、本当に助かったし、…私も楽しかった」
正太郎は迷っていた。今の胸の内を如何に言葉にすべきかをである。此の些細な躊躇が後々迄の禍根を残した。グランドを挟んだ道の向こうには巴川、そして、更に、其の向こうには沸き立つ様な夏色の積乱雲が見えた。祐子は其の雲をぼんやりと見つめ乍ら続けた。
「…あのね、正ちゃん。私、好きな人がいるの…。そして、清水高校に入って、其の人と来年もまた、一緒にあの雲を見たいな…」
それは、思いも寄らない祐子の一言だった。晩熟で引っ込み思案だとばかり思っていた祐子の、予想だにしない、強烈な一撃だった。小学校時代、いつも影の様に正太郎の後を黙って付いて回っていた祐子。中学校時代の2年間に何があったかは分からない。然し、何時の間にか、祐子にはそう謂う思いの人が出来ていたのか? 落ち着いて、冷静に考えれば、前後の文脈から類推しても、祐子の好きな人が、誰の事を指していたのかは、将に、一目瞭然。普通に考えても、分かりそうな物なのだが、正太郎には分からなかった。『ひょっとして彼奴じゃないか?』、其の対象者の名前を、一人、一人、推理したが、間の抜けた事に、容疑者一覧の中に、自身の名前だけは入っていなかったのである。そして、今、目の前の現実にあるものは、祐子の不退転の決然とした意思表示。正太郎は脳天を叩き割られた様な衝撃を受けると共に、持ち味である冷静さを失っていた。更に、
「うん。そうか。そうなるといいね。僕も…応援するよ」
と謂う、明白に本心を韜晦した、心にも無い応援迄していた。後から思えばバカバカしい限りではあるが、正太郎は幼馴染の祐子にだけは、祐子の事で取り乱した自分を見せたく無い、そう謂う思いが、強くあった。家までの帰り道、何時もより言葉少なではあったが、正太郎は、表情だけは完璧に作っていた筈だった。でも、祐子の自宅に送り届けた時の、祐子の何処か寂しげな表情は一生忘れないだろう。正太郎は自宅に帰ると、自室に篭り、ぼんやりと外を見た。南の空には、先程見た様な、空に湧き上がる、夏特有の入道雲が見えた。それは、巴川の向こうに聳え立ち、眩いばかりの光芒を放っていた。今日で、夏期講習は終了ってしまった。明日からは、祐子と会う口実すら無くなってしまったのだ。正太郎は其れを見ている内に、涙が頬を伝って来るのを感じた。涙は溢れる様に込み上げて来て、同時に、喉の奥からは血の臭いがした。正太郎は、ぼんやりとではあるが、自分が生まれて初めて失恋した事を自覚した。
「正ちゃん。大丈夫?」
祐子の一言で、正太郎は一年前の、幻想の様な白昼夢から、中州岩の上の現実に引き戻された。祐子はボーっと瞑想に耽っている正太郎が心配になったのだ。現実に引き戻され乍らも、正太郎はあの当時から抱いていた仄かな疑問を、思わず口にした。
「…ねえ、祐ちゃん。今更こんな事聞くのも、何か変な話なんだけど…。1年前の夏期講習。祐ちゃん、本当は何組だったの?」
祐子は躊躇いがちに答えた。
「本当は、…選抜の…1組。康代ちゃんにお願いして、代わってもらったの…。正ちゃんが4組だったから…」
正太郎は溜息を吐き乍ら謂った。
「だよなあ。ヤスベエの1組も妙だとは思ったけど、祐ちゃんの4組は、絶対有り得ないって、思ってたもん」
祐子は赤くなり乍ら、下を向いている。正太郎は自嘲気味に続けた。
「然し、我乍ら、随分と間抜けな話だなあ…。今頃になって、気付くなんて…」
漸く、此処に来て、正太郎は、1年前に祐子が謂っていた『好きな人』の正体に、率爾として、気が付いたのだった。然し乍ら、祐子も、明らかに目的語が欠落した正太郎の自嘲を受けて、笑い乍ら謂った。
「本当だよ。折角、ありったけの勇気を振り絞って告った心算だったのに…。正ちゃんたら、斜め上のリアクションするんだもん」
正太郎は下を向き乍ら謝った。
「…ごめん」
其の時、正太郎は、熱波の溢れる燻んだ夏の空を見上げて思った。祐子は宛ら、蝉の様だと。成程、確かにそうかも知れない。祐子は空白だった中学校時代、其の空白を埋めるべく、僅か3週間と謂う一瞬に中学生生活の全てを賭けていたのだった。7年間地中に暮らし、地上に出た3週間に、一気に其の命を燃やし尽くす。自分は其の思いに、気付け無かった。其の事を思うと、後悔しかなかった。そして、祐子は続けた。
「それに、其の後の方が、もっと、辛くて、悲しかったんだぞ…」
そう謂い乍らも、祐子は泣いたりはしなかった。寧ろ、ニッコリとし乍ら、昔を懐かしむ様に謂った。
「本当に…ごめん」
正太郎は謝る。無論、それより他は無い。然し、其の後、祐子の笑顔に釣り込まれた様に謂った。
「本当は、あの日、3週間付き合ってくれたお礼と、高校に入ってからも、仲良しでいてくださいって、謂おうと思って、ジュース屋に誘ったんだ。…謂えなかったけど。こんな話自体が、…今更と謂うか、今となっては、余り意味が無い事かも知れないけど…、1年間、悲しい思いをさせちゃって、ごめんね」
「ううん、意味が無いなんて事、無いよ。それに、此の半年間。特に受験の後は、すごく楽しかったよ。正ちゃんと、如何したら仲良く成れるかって…、康代ちゃんと一緒に、すごく一生懸命、いろいろ考えたり、いずなちゃんや皆に応援してもらったもの。其れに、1年前に謂ったとおり、大好きな人と、また夏の雲が見れたから…」
「…うん」
祐子は、正太郎の手を遠慮がちに握り乍らも、ニコニコしている。其の頃、蝉の声に蜩の声が混じるようになってきていた。祐子は一年前の事が、恥ずかしくなったのであろうか。話題を変えようとした。
「でも、正ちゃん。本当に川って、気持ち良いね。私、此の合宿に来て良かった」
「うん、本当だね。祐ちゃん。それに、祐ちゃん苦手な水辺なのに、本当に楽しそうだもん」
祐子は、正太郎の隣に座り乍ら、山から吹いてくる涼風に体を預けている。
「うん。とっても。…それに、あの頃の、正ちゃんの気持ちが聞けたしね」
「…もう」
二人の間には、緩やかな時間が流れている。辺りには、蝉の声しか聞こえない。不思議な静寂が辺りを包んでいる。
静けさや 岩に染み入る 蝉の声
正太郎は、逆説的な此の句の意味を初めて理解した様な気がした。頓て、目を閉じ、耳を澄ませていた正太郎が呟いた。
「そろそろ、面白い事が起きるよ」
「えっ、何?」
「まあ、耳を澄ましてごらん」
「?」
祐子は目を瞑って、耳を澄ました。油蝉、ニイニイゼミ、ツクツクホウシ等の声が聞こえた。が、混じって、聞きなれない声が聞こえた。
『カナカナカナ…』
「えっ。これは?」
「めずらしいだろ?下ではめったに聞けないからね」
「エヴァンゲリオンでよく出てきたよね。何て蝉?」
「蜩。通称、かなかな」
「なんか哀愁漂う声だね」
「日が暮れる前に鳴くからひぐらし。でも、夜明け前や夜中にも聞こえる時があるよ。…其のうち、蜩一色になるよ」
祐子は、目を瞑って、蜩の声をしみじみと味わっていた。突然、一筋、祐子のほほを涙が伝った。祐子は正太郎に凭れ掛かった儘、謂った。
「何か夢みたい。私、正ちゃんと、こんな風になるの夢だったの。小学校の頃から…」
「僕も、すごく幸せだよ…。高校に入った頃から、ううん1年前から、祐ちゃんとこんな風になれたらなあって…」
そう謂うと、正太郎は、再び祐子の手を軽く握り締めた。祐子の手は熱くとても柔らかだった。祐子は突然小声で叫んだ。
「よし。来年の目標。大好きな人と、蜩の声を聞く!」
「だったら、僕も来年の目標。大好きな祐ちゃんと一緒に、蜩の声を聞く。ほら、ちゃんと、述語を明確にしておかないと、斜め上のリアクションをする人が居るから…」
「あー、ひどい。自分の事を棚に上げて…。私は、そんな斜め上の解釈しませんよーだ」
遠くで高志の声が聞こえる。
「おーい、二人ともー。そろそろ、帰るぞー」
気がつけば、辺りは蜩の大合唱になっていた。夏場の渓流での、ごくありふれた風景であったが、全員にとって、夏休みのとても素敵な1ページとなった。そして、正太郎と祐子にとって、1年前に止まった時計が、再び動き始めた、とある夏の一幕でもあった。
明彦だ。露天風呂つったら、やっぱ覗きだよなあ。(いや、抑々、其の発想がおかしい)それは、どんなアニメだろうが、露天風呂と謂った瞬間に覗きのフラグが立つ訳なんだが…。次回、『第14話 露天風呂と様式美』。お楽しみに。




