表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/54

第13話 夏雲の想い出(興津川夏合宿編【2/6】)

 一向(いっこう)は良介と千穂ちゃんに、二階の客室へ案内された。ベランダに面した出窓(でまど)から、室内へ向けて瑠璃色(るりいろ)の風が()()けて行く。横を流れる興津川(おきつがわ)恩恵(おんけい)なのであろうか、盛夏(せいか)にあっても、意外(いがい)(すず)しいのだ。()れなら、確かにクーラーは不要なのかも知れない。二階は全部で8部屋。男子側が201号、女子側が202号だった。二部屋とも川に(めん)した20畳の部屋だった。隣の203号は空き部屋で12畳、隣の204号も12畳の広さ。廊下(ろうか)(はさ)んで反対側も同じ間取(まど)りで、街道(かいどう)(めん)していた。同じ間取(まど)りの205号と206号を勉強部屋Aと勉強部屋Bとした。207号と208号は使用せず。201号~204号の部屋から興津川(おきつがわ)が見える。10人くらいの子供達が川で水遊びをしている。水面スレスレを数羽の翡翠(カワセミ)が遊んでいる。川面(かわも)(わた)る風は天然の扇風機(せんぷうき)だった。川を(はさ)んだ(むか)いの山全体から(せみ)の声が聞こえた。木々の一本一本が、がなりたてている様だった。ひろみが、窓の欄干(らんかん)に手を掛け、体中で涼風(りょうふう)()(なが)ら、気持ち良さそうに(さけ)んだ。栗色の雲鬢(うんびん)がサラサラと風に(なび)いている。

「うわー、気持ち()い。風になったみたい。本当に、素敵(すてき)(ところ)ね」

 欄干(らんかん)に手を掛け、(おだ)やかな横顔のひろみが、(ひど)く前のめりの前傾姿勢(ぜんけいしせい)で、目を(つむ)っている。そう、(まさ)しく風なのだ。今、ひろみの意識は風と一体になって、宙空(ちゅうくう)滑空(かっくう)している。祐子は横からひろみを優しげな瞳で見つめた。風と一体になっているひろみは、随分(ずいぶん)女性的な(おんならしい)容姿(フォルム)をしている。()うして、横からひろみを見ると、意外(いがい)と肉付きが良いのである。日頃(ひごろ)、高志が良くからかう様に、胸も決して、貧乳(ひんにゅう)()う程では無く、(むし)ろ、相応に大きく見える。結局(けっきょく)(ところ)、周囲との比較対象の問題でもあるのだろう。祐子や凛子と()った、学年屈指(くっし)巨乳(きょにゅう)の持ち主と比較されては、ひろみとしても(たま)った物では無いのだろう。そして、()の隣で、(くだん)の凛子もしみじみと()った。

「確かに()(ところ)ね。本当は、私、今回のお泊り合宿、すごく楽しみだったの。うちね、両親が共働きで、お泊りの旅行に連れて来てもらった事なんて無かったから。敬介には、ちょっと感謝かな」

「そうだったの…。うちも、父親が転勤族で、小学校の時、2回も転校した。それに、私も()の性格だから、仲の()い友達なんて出来(でき)無かったし、(あこが)れだったんだ。気の()けない仲間達と、遊んだり、(さわ)いだり、バカやったりって」

 ひろみが、遠い目をし(なが)()った。祐子といずなが、思わず顔を見合わせた。

(楽しみだったのは、私達だけじゃ無かった…)

 顔を見合わせる、祐子たちを尻目(しりめ)に、ひろみが独白(ひとりごと)を続ける。

「だから、私もすごく楽しみだったの。まあ、あいつら、ちょっと、バカやりすぎる(きら)いがあるけどね」

「凛子っちも、ひろみっちも、早く水着に着替えて、飛び込みに行こうよ。きっと、(すご)く楽しいよ」

 一方、男子部屋では、海パン一丁(いっちょう)になり(なが)ら、高志がみんなの顔色を(うかが)いつつ、(おそ)(おそ)る、()った。

「なあ、物は相談なんだが、(おれ)、寝る時、部屋の()(なか)でも、()いかな?」

 正太郎が(いぶか)しみ(なが)ら、(たず)ねた。

()いけど、(なん)でなんだ? 暑苦しいだけだろ」

「いや、ただ、(なん)となく」

 敬介がニヤニヤし(なが)()った。

「ははあ…。分かったぞ。部屋の(はし)っこだと(こわ)いんだろ。(おれ)にも覚えがあるぞ。田舎(いなか)のばあちゃんちに行った時、結構(けっこう)、怖かったわ。壁に般若(はんにゃ)かなんかの、変なお面が飾ってあってよ。(しか)も、()の下には、結構(けっこう)、大きな市松人形(いちまつにんぎょう)かなんかが置いてあってよ。(しか)も、寝返りを打った拍子(ひょうし)に人形と目があっちまってよ。ありゃあ、普通に恐怖(ホラー)だよな。夜中、怖くて其方(そっち)は見れなかったわ」

 如何(どう)やら、高志も敬介も部屋の(はし)っこは苦手(にがて)らしい。

(やかま)しい。おめーと一緒(いっしょ)にすんな。(おれ)は死んだばあちゃんの遺言(ゆいごん)で、仕方(しかた)無くだな…」

 明彦が笑い(なが)()った。

遺言(ゆいごん)って何だよ。わかった。わかった。(はし)でも、()(なか)でも、好きな(ところ)にしろ。また、寝小便でもされたら、たまらんからな。(おれ)は、(むし)(はし)っこの方が好きだしな…」

「すまん、(おん)に着る」


 (かわら)には、小学生から幼稚園児と(おぼ)しき、地元の子供達が、(およ)そ20人位いた。川幅(かわはば)は10m位で。中州(なかす)に高さ1mほどの、大きな岩があり、子供達が(しき)りに飛び込みをしている。対岸(たいがん)比較的(ひかくてき)緩慢(ゆるやか)岩肌(いわはだ)であり、中州(なかす)の岩の対岸(たいがん)、2m程上流に、高さ3m程のひときわ大きな岩があり、()の上で、子供達が列を成して飛込みをしていた。岩と岩の(あいだ)(ふち)はとても深いらしく、飛び込んで行く子供達は、(みな)一様(いちよう)に足が立たずに流されて行く。が、30m程下流には、子供でも膝下(ひざした)位の()が続いており、安全に遊べる様だ。如何(どう)やら、()(あた)りの箇所(かしょ)雨乞淵(あまごえふち)と呼ぶらしい。(ふち)の10m程上流にも()があり、流れがとても速い。子供達は()()やゴムボートで、一気に(ふち)に流されて来る。本来であれば、誰か大人が安全の為に監視すべきなのであろうが、子供たちは、一向(いっこう)にお構い無しである。と、()うよりも、此処(ここ)いら(あた)りは、興津川(おきつがわ)の中でも、有数な安全に水遊びが出来(でき)箇所(かしょ)である事を、彼らは、(おさな)い頃から知悉(ちしつ)しているのである。


 高志たちは、(かわら)一角(いっかく)陣取(じんど)り、レジャーシートを()き、女子の到着(とうちゃく)を待っていた。女子組は全員、スクール水着だった。此方(こちら)に向かって、何かにこやかに談笑(だんしょう)(なが)ら、やって来る。敬介が目を(かがや)かせて感嘆(かんたん)する。

「いやー。いずなちゃん。かわいいよ。()いよなあ。スクール水着」

 明彦が(あき)(なが)ら、

「お前、()のうち、絶対逮捕されるぞ」

「ほっとけ…」

「お前、スクール水着属性か? 顔立ちがかわいい事は、認めるけどな。あの、体型、隣の千穂ちゃんと(まった)く変わらねーぞ。完全に小学生体型じゃねーか」

 と、高志が掛け合うと、明彦が、

「いや、()れより、凛子を見ろよ。あの胸。公称(こうしょう)Cとの事だが、あれは、絶対レベルEだぞ。彼奴(あいつ)着痩(きや)せするタイプかなあ」

「いや、胸なら、絶対、祐子ちゃんだろ。うらやましいぞ。()の巨乳ハンターが…。なっ、正太」

 正太郎が(あき)れる。

「おまえらなあ」

 高志が(はしゃ)(なが)()った。

「なあ、如何(どう)だろ? 泳いでいる時に、どさくさに(まぎ)れて(さわ)るって()うのは? パットかどうか確認するんだ。なあに、『高校生らしい良識(りょうしき)を持った生活を送ろう!』には、抵触(ていしょく)しねえ。(むし)ろ、健全(けんぜん)な高校生、()の物の発想だろ?」

 明彦も、激同(はげどう)する。

「おう。良く()った、高志。(おれ)も凛子のパット疑惑(ぎわく)を、払拭(ふっしょく)する義務があるからな、同じ本屋に行った関係としてな」

 正太郎が(あき)(なが)ら、(つぶや)く。

一体(いったい)如何(どう)()う関係だよ」


 いずなが、歩き(なが)ら、(まゆ)(ひそ)めて胡散(うさん)(くさ)そうに、ひろみに()った。

「ねえ、ひろみっち。あいつら、今、絶対Hな話しているよ。顔にそう書いてある」

「確かにそうね。そんな顔してる」

 凛子も間違(まちが)い無いと()った様子(ようす)で、同意(どうい)する。

眼鏡(メガネ)なんて、先刻(さっき)から、私の胸元(バスト)しか見て無いもの。そばに行ったら、眼鏡(メガネ)叩き割ってやろうかしら」

 祐子があわてて、バスタオルを羽織(はお)って、()の大き過ぎる胸元(バスと)(つつ)(かく)した。凛子が、()ました顔で()った。何か悪巧(わるだく)みをしている顔付(かおつ)きである。

「あっ、そうだ、ひろみ、きんかん持って来た?」

「あるけど」

「ちょっと貸して」

 凛子は右の手のひら一杯に、きんかんを()った。

「おー。待ってたぞ。ぎゃんっ」

 ひろみが、いきなり、高志の股間(こかん)()()げた。

「あんた。テント張ってるわよ。川はそれ(おさ)まってからに、しなさいよね。いずな、行こ」

「ぷいっ」

「あら、明彦。眼鏡(メガネ)に汚れがついている。貸してみて」

「おっ。そうか」

 ()刹那(せつな)、凛子の右手が、『つっ』と伸び、(てのひら)が両目を(おお)った。

「ひやーっ。目が、目があ」

「あっ悪い。勘違(かんちが)いだった。これ返す」

 凛子は明彦の顔に眼鏡(メガネ)を戻すと、()めた顔ですたすたと行ってしまった。(かたわ)らで見ていた良介と千穂が()った。

「あっ。()れ見た事ある。()の前、映画でやってた」

「うん。滅びの魔法だ」

 高志が(くや)しそうに()った。

「くっそー。何なんだよ、彼方(あいつ)ら」

 祐子が困ったような微笑(ほほえみ)を浮かべて、

「みんなの下心(したごころ)見透(みす)かされていたみたいよ。でも、許してあげて。彼女達の()(かく)しだから…」

()(かく)しってもなあ。(おれ)、●玉蹴り上げられたんだぜ。空手有段者に…。こんなん、普通に傷害事件だろ」

(おれ)なんか、目にきんかん()られた」

 正太郎が苦笑(くしょう)(なが)ら、

「まあ、自業自得(じごうじとく)だな。おい、良介、千穂行くぞ。千穂、()()忘れるなよ」


 レッツゴー! みんな、歓声(かんせい)を上げ(なが)ら、早速(さっそく)中州(なかす)の岩に殺到(さっとう)した。全員、えらく、大人びてはいるが、昨年(まで)は中学生なのである。油蝉の消魂(けたたま)しい鳴き声の中、みんなの歓声(かんせい)が聞こえる。いずなは中州(なかす)岩を制し、大岩にチャレンジする様だった。祐子はレジャーシートの横の岩に静かに腰掛(こしか)け、読書をしていた。其処(そこ)へ、正太郎がやって来た。

「あっ正ちゃん」

「祐ちゃん。楽しんでいるか?」

「うん。すごく楽しいよ」

「…そうか」

「ねえ。祐ちゃん。本とタオル置いて、此方(こっち)来て」

 正太郎は、()()を取ると、祐子の手を取って、(かわら)を下流に向かって歩き出した。祐子の手はひどく熱かった。

「正ちゃん。何処(どこ)へ行くの? 私、水はちょっと」

大丈夫(だいじょうぶ)だよ。(おれ)を信じて」

 正太郎たちは、(ふち)から30m程下流の()に来ていた。

「見て。此処(ここ)は見てのとおり、深さは(おれ)(くるぶし)位だ。深い所でも膝下(ひざした)だ。此処(ここ)なら如何(どう)かな?」

「…多分(たぶん)大丈夫(だいじょうぶ)だと思う」

「じゃ。此方(こっち)に」

 正太郎は祐子の手を引き、()中程(なかほど)に進んだ。

「水が冷たくて、すごく気持ちいいね」

「だろ。で、此処(ここ)(すわ)ると」

「わあ。本当に気持ち()いね」

 ()に座り込んだ二人の体に、清流(せいりゅう)が当たって、(くだ)けて、キラキラした飛沫(ひまつ)となり、体中に降り掛かる。火照(ほて)った体にとても爽快(そうかい)だった。正太郎は()()ずと(たず)ねた。

「祐ちゃん。その、水、(こわ)い?」

「ううん。全然(ぜんぜん)

 正太郎はホッとする。

「良かった。自転車でハードワークした後に、あんな、暑い(ところ)で読書なんてしていたら、間違(まちが)い無く、熱中症(ねっちゅうしょう)に成っちゃうよ。泳ぐ必要は無いけど、体を冷やす必要は有るからね」

「うん。正ちゃん。ありがと」

「じゃあ。次だ」

 今度は、正太郎が手を引き中州(なかす)岩の対岸(たいがん)に立った。

此処(ここ)中州(なかす)岩の間は、深さは大人の股下(またした)(ある)いは、腰下(こしした)(くらい)だ。川底は大きな石が、ゴロゴロしていて、サンダル無しでは、とても歩け無い。ただ、流れがとても速いから、大人でも、流れに持っていかれる事がある。持ってかれたら、(あきら)めて流されていい。どうせ、先刻(さっき)(すわ)った()(ところ)の手前で足がつけるし、必ず止まる。中州(なかす)岩の3m程上流からチャレンジするのがポイントだよ。あと、サンダルが流され無い様にしてね。中州(なかす)岩の正面に取り付けたら、水面下(すいめんか)足掛(あしが)かりが有るから簡単(かんたん)に登れるよ。出来(でき)そうかな?」

「うん。ちょっと(こわ)いけど、…やってみる」

「じゃあ。最初に、(おれ)がやってみるね」

 正太郎は、岩の3m程上流から、水面(すいめん)と水平に(およ)(ごし)で飛び込んだ。そして、犬掻(いぬか)きの様な姿勢(しせい)で、顔を一度も水に()ける事無く、岩(まで)泳ぎ、岩の正面に捕りついた。泳ぐと()うより、流された。あるいは、流され方をコントロールした。と()った方が、正確かもしれない。祐子も正太郎の真似(まね)をしてやってみた。()()のせいで、予想以上に速く流された。が、()の時、正太郎の腕ががっしりと()()(つか)んでいた。()()のお陰で、顔は一度も()れなかったし、首から下は火照(ほて)った体を清流(せいりゅう)が冷してくれており、とても気持ちが良かった。

「ねっ。簡単(かんたん)だろ」

「うん。すごく気持ちが良かった」

 正太郎が()ったとおり、中州(なかす)岩前部からは()()く登れた。祐子は、対岸(たいがん)の大岩の上にいずなの姿を見つけた。

「いずなちゃーん」

 祐子がいずなに向かって手を振ると、向かいの大岩の上のいずなが、祐子にすぐ気がついた。水が苦手(にがて)な祐子が、(なん)中州(なかす)(まで)来ているのだ。

「ゆうちん!」

 いずなは、驚き(なが)らもそう(さけ)ぶと、続けて()った。

「待ってー。すぐ行くから!」

 いずなは頭から美しいフォームで飛び込むと、()()を切って、ひとかき、ふたかきと、泳ぎきると、すぐに中州(なかす)岩に登ってきた。

「すごいね。ゆうちん。此処(ここ)(まで)来れたんだ。良く、がんばったね」

「うん。()れも、いずなちゃんと正ちゃんが背中を押してくれたお陰だよ。ありがとね」

「えへへ」

「祐ちゃん。感想は?」

「すごい気持ちが良かった。全然(ぜんぜん)、怖く無かったよ」

 正太郎がイタズラっぽい笑顔になって、

「よーし、じゃあ。第三段階だ」

「…まだ。あるの?」

 多少(たしょう)不安気(ふあんげ)な祐子である。

「次は、()の岩から飛び込んで、川を渡り、向こうの岩肌(いわはだ)に取り付く。渡河(とか)作戦だ」

「ちょっと、(こわ)いかも…」

「まず、足から飛び込む。間違(まちが)いなく足はつかない。安心して飛び込んでいい。飛び込んだら、対岸(たいがん)を目指す。目安(めやす)は、ちょっと下流のあの(あた)りかな。ほら、千穂達が遊んでいるだろう。行って見ると分かるけど、あの(あた)りは(ほとん)ど流れが無いんだよ。水温(すいおん)もぬるま湯みたいだもん。それにあの(あた)りは、岩肌(いわはだ)の下の水面下(すいめんか)に、足場(あしば)になる岩が張り出しているんだ。子供達はそれを知っているから、彼方(あそこ)から登るのさ。それから、サンダルは預かるよ。此処(ここ)では、バタ足の邪魔(じゃま)になるからね。じゃあ(おれ)達が、最初に行くね」

 まず、いずなが、頭から飛び込み見事なクロールを披露(ひろう)して到達(とうたつ)、続いて、正太郎が祐子のサンダルを持って足から飛び込み、犬掻(いぬか)きで泳ぎきると岩肌(いわはだ)に取り付いた。最後に祐子が、躊躇(ためら)いつつも、()()をつけて、(およ)(ごし)(なが)らも足から飛び込んだ。


 ドブン!


(本当だ、足がつかない)

 祐子は、ちょっと不安になったが、懸命(けんめい)にバタ足をした。()の内、本流から(はず)れ、体が急に楽になり、正太郎が()った様に、水温(すいおん)が生暖かくなった。ふと、前を見ると、正太郎といずなが岩肌(いわはだ)から懸命(けんめい)に手を伸ばしているのが見える。祐子は正太郎の手を借り(なが)ら、岩肌(いわはだ)へ取り付いた。

「やったね。ゆうちん。おめでとう」

「祐ちゃん。如何(どう)だった?」

 正太郎はサンダルを渡し(なが)ら聞いた。

全然(ぜんぜん)怖くないよ。()()無しでも大丈夫(だいじょうぶ)かも」

 正太郎といずなはお互いに顔を見合わせて、ニッコリとしている。正太郎達は岩肌(いわはだ)(づた)いに大岩に到達(とうたつ)した。先程(さきほど)、いずなが飛び込んだ大岩だ。

此処(ここ)から飛び込むのが、最終のレベル5。ちょっと、(のぞ)いてみる?」

 祐子が(おそ)(おそ)(のぞ)き込むと、それは思ったより、ずっと高く感じた。足腰の力が脱力してしまう様な恐怖の感覚に襲われた。

「すごく高いね。私、此処(ここ)多分(たぶん)無理(むり)だよ」

「分かってるよ。僕も足からがやっと。下から見上げるのと違い、恐怖感が半端(はんぱ)無いもんね。次は、此方(こっち)岩肌(いわはだ)沿()いに行ける処(まで)行く。そして、行き着いたら、()()から、(ふち)を通って、最初の()まで、一気に急流下り」

「ゆうちん。私も横で泳ぐから」

「ゴー」

 祐子が()()()に入ると、一気に流され始めた。強い水の流れに乗って、()()結構(けっこう)なスピードで流されて行く。そして、冷たい水流(すいりゅう)が実に心地(ここち)()い。『祐子おー』、大岩の上から、ひろみと高志と凛子が次々と、飛び込んだ。中州(なかす)岩から、明彦と敬介が。次々と水柱(みずばしら)があがった。()についた祐子は、満面(まんめん)の笑みだった。

(すご)面白(おもしろ)いよ。みんなありがとう。水、全然(ぜんぜん)怖く無いね」

「よかったね。お姉ちゃん」

「ありがとね。千穂ちゃん」

「じゃあ。飯にするか?」


 昼食は(すこぶ)る楽しかった。祐子と凛子が、卵焼きとか、焼きウインナー、ゆで卵といったおかずを作ってきてくれていた。高志が、

「おにぎりが一人頭6種類の6個か。流石(さすが)に食べきれ無いだろ?」

「そんな事無いさ。朝からサイクリングに水泳とハードワークの連続だからな。みんな、ぺろりと行くと思うぜ」

 と、正太郎。いずなは、隣の良介に、早速(さっそく)、明日行く清地(きよじ)(ふち)の情報を聞いている。

「ねえ。良介君。(そば)に、もっとすごい、飛び込みスポットが有るんだって?」

「うん。清地(きよじ)(ふち)だろ。あそこの道から飛び込めないと男として認められ無いんだ」

「お姉ちゃん。それが楽しみで来たんだから。明日行こうね」

「本当?」

「うん」

「みんな、良かったらこれも食べてね」

 祐子が作ってきたおかずを(みな)に勧める。正太郎の予言どおり、おにぎりとおかずは、あっという間に売り切れた。

「一人6個じゃ、足りないくらい位だね」

「良介と千穂。食えるか? 食えないなら、お兄ちゃん達が手伝うけど…」

 高志が、早速(さっそく)(ねら)っている。

「本当。いずなも最初は、おにぎり買い過ぎって、思ったけど。まだ、足り無いよね」

「祐ちゃん。おかずおいしかったよ。…また作ってくれる?」

「うん」

()のかわり、正ちゃん。また、急流下り。行こ!」

「オーケー」

 二人を見送り(なが)ら凛子が、

「あらあら、お熱いわね、お二人さん。じゃあ、眼鏡(メガネ)。大岩からの飛び込み付き合いなさい」

「えー。何で(おれ)が」

 と()(なが)らも、満更(まんざら)でも無さそうだった。

「ケースケ。一緒(いっしょ)に急流下りする?」

「おう、ゴムボートは?」

「いらないよ」

 そう()って、満面(まんめん)の笑みを浮かべたいずなの八重歯(やえば)は、印象的(いんしょうてき)でとても可愛(かわい)かった。敬介は、何か話しかけようとした。()れは、ひょっとしたら、敬介の胸の奥底深くに秘匿(ひとく)した、熱い想いだったのかもしれない。

「あっ。いずなちゃん」

「なーに?」

 そう()って、振り返った時のいずなの顔は、(かがや)いており、年相応(としそうおう)の、いや、もっと年上の、(すこぶ)る美人に見えた。(あま)りの美しさに敬介はドキリとして、思わず、(あわ)てて言葉を飲み込んだ。そして、精一杯(せいいっぱい)の照れ隠しの笑顔を浮かべて、

「いや、なんでもない。行こう、いずなちゃん」

「うん」


 正太郎は祐子に付き合って、急流下りを5回程やった後、中州(なかす)岩に腰掛(こしか)け休んでいた。6回目の急流下りを終えた祐子が中州(なかす)岩に登ってきた。そして、そっと正太郎の後ろに回り込むと、

「えいっ」

 と()う掛け声と共に、正太郎の背中を押した。

「うわあ」

 正太郎の()頓狂(とんきょう)な声と共に、正太郎は落水した。正太郎は()(まま)流され、()から岸を回って中州(なかす)岩に上がって来た。

「ひどいよ、祐ちゃん。いきなり何するんだよ」

 正太郎は笑顔で抗議(こうぎ)するも、祐子は(ふく)(がお)である。

「もう、正ちゃん。…先刻(さっき)、急流下りの時に、…胸、(さわ)った。…2回も」

「違うよ、1回目は()()かと思って(つか)んだら、…その」

 正太郎は必死になって抗弁(こうべん)するも、顔は(すで)に真っ赤である。

「…じゃあ、2回目は?」

 確かに、2回目は()()()うより、祐子自身に()きつく感じで、両胸を後ろから(かか)えた(まま)に、()(まま)流されていった。感触(かんしょく)も、遠慮(えんりょ)がちにと()うよりは、(むし)ろ、ムニュウッと()った感じであった。不可抗力(ふかこうりょく)()えなくも無かったが、正太郎の本音(ほんね)()えば、確実にワザとである。正太郎は、(いと)しい祐子の事を、つい、抱きすくめたくなってしまい、水中である事を、()(さいわ)いに、後ろから、(しっか)りと抱きしめた(まま)、流されて行ったのだった。

「…いや、あれは。…不可抗力(ふかこうりょく)の様な、…ワザとの様な…」

「…エッチ」

 正太郎は祐子の隣で茹蛸(ゆでだこ)の様になっている。祐子が真っ赤な顔をし(なが)ら、小声で()った。

「…ちょっと、…感じちゃったんだから…、もう」

 祐子の()の一言により、正太郎は真っ赤になり(なが)ら、祐子の隣で突如(とつじょ)、体育座りを始めた。正太郎の男の子が敏感(びんかん)に、かつ、瞬間的に反応してしまっている。

「ごめん…なさい」

 祐子は表情を(ゆる)めて笑顔になると、()()った。

駄目(だめ)。お昼寝の時は、おてて(つな)いでくれないと、駄目(だめ)。許してあげない。…あと、キスも最低限、1日1回…」

「…はい。ごめんなさい」

「じゃあ、許してあげる。約束だからね、正ちゃん」

 祐子はニッコリすると体を寄せ(なが)()った。正太郎は祐子の手を握った。祐子も(こば)まなかった。祐子は空を見上げ、山から()き上がる入道雲(にゅうどうぐも)を見上げている。入道雲(にゅうどうぐも)は、輪郭(りんかく)部分はキラキラと()の光を反射し、(まばゆ)いばかりの光芒(こうぼう)を放っており、むくむくと()き上がる雲の中に、影となるグレーの部分は、()のコントラストをどぎつい程に際立(きわだ)たせ、雲の立体感(りったいかん)造形美術(ぞうけいびじゅつ)の様に高めていた。祐子は遠い目をして、()れを(なが)めつつ思った。


(あの時の雲と同じだ)


 ()れは一年前、中学三年の夏、正太郎と受験対策夏期講習の帰りに見た入道雲(にゅうどうぐも)と同じだった。突然、祐子が正太郎に語りかけた。

「ねえ、正ちゃん、あの雲。一年前と同じだね」

「えっ、ああ…」

 正太郎も遠い目をして、目の前の山の上に(そび)()積乱雲(せきらんうん)を見つめている。()しくも、正太郎も同じ思いだったらしい。一年前の中学3年時の夏休み。正太郎と祐子は7月31日月曜日より、三週間の夏期講習に通っていた。祐子にとって、正太郎と疎遠(そえん)だった中学時代の3年間は、()の夏休み中の3週間に、(すべ)収束(しゅうそく)していたのだった。


 受験対策夏期講習は、とある予備校の恒例(こうれい)企画(きかく)であった。事前(じぜん)試験(しけん)により、選抜(せんばつ)クラス6クラスと、一般クラス12クラスに峻別(しゅんべつ)されていた。特に、選抜(せんばつ)クラス分けは、1組から6組(まで)(すべ)て事前の試験の成績順であり、特に地元進学校である清水高校を受験する受験生達は、(おおむ)ね、選抜(せんばつ)クラスに(おさ)まっていた。()だ、当時(とうじ)としては知る(よし)も無かったが、ボストンティーパーティーの面々(めんめん)も、全員選抜(せんばつ)クラスの中に(おさ)まっていたのだ。いずな、凛子、明彦、高志は1組。ひろみは2組。正太郎は4組。敬介は6組であった。祐子はと()うと、まあ、当然(とうぜん)()えば当然(とうぜん)の事(なが)ら1組であった(はず)なのだが、同じ文芸部である選抜(せんばつ)4組の高山康代(()わずと知れたヤスベエの事である)と()う子から、正太郎のクラスが4組である事を知るや、彼女に強引(ごういん)に頼み込んで、クラスを変わってもらい、当初から名前を(いつわ)って4組に出席していた。(さら)に、講習初日の前日に、偶々(たまたま)、近所のスーパーに買い物に来ていた祐子と祐子の母親が、正太郎の母親とばったり出会う事で、祐子の母親から、『正ちゃんが一緒(いっしょ)に行ってくれるなら一安心ね。うちの祐子は、()(かく)()()思案(じあん)だから、心配で…』の一言(ひとこと)により、また、正太郎の母親からも、『此方(こちら)こそ、祐子ちゃんと一緒(いっしょ)なら、安心ね。正太郎もフラフラ遊びに行ったりしないでしょう。()いですよ。正太郎に良く()っておきますから』との、言質(げんち)を取り付け、毎日、正太郎と一緒(いっしょ)に静岡(まで)(かよ)わせると()密約(みつやく)が、正太郎本人のみが蚊帳(かや)の外という状況下(じょうきょうか)で、(すで)に、()わされていたのだ。当然(とうぜん)、正太郎は(いや)がったが、母親の強い命令により、彼の意見は却下(きゃっか)された。()くして、正太郎は、毎朝、祐子の家に迎えに行き、二人で桜橋駅(まで)歩き、そして、静岡(まで)(かよ)うと()う、約三週間の夏休みが始まったのである。


 正太郎は(いや)がっていた、とは叙述(じょじゅつ)したが、何も、祐子の事が(きら)いと()(わけ)では無かった。(むし)ろ、妹に対しての様に、好意的ですらあった。ただ、二人で歩くのが、途轍(とてつ)()く恥ずかしかっただけであり、小学校時代は何時(いつ)一緒(いっしょ)に居た(わけ)だから、自然と()(ころ)(もど)った様に、振舞(ふるま)えた。(もっと)も、小学校時代とは異なり、祐子のふくよかに育った胸は、常に意識してしまっていたのではあるが…。祐子にしてみれば、()の3週間の思い出は、何物にも()(がた)い、宝物の様な思い出だった。片道、1時間。往復で2時間。(さら)に会場での4時間。()めて6時間、(あこが)れの正太郎と常に一緒(いっしょ)なのである。()(うち)、帰りに買い物をしたり、アイスクリーム屋に寄ったり、と()った時間も出て来た。お互い学校でのクラスの事、クラブの事、受験の事、勉強の事、二人の間で()わされた、中学校3年間の情報交換は、(すべ)て、()の3週間で()されたと()って()い。また、正太郎が、二人の共通の幼馴染(おさななじみ)である、酒井六助や、杉本一平への受験のアドバイスを祐子にお願いしたのも()(ころ)であった。以前にも書いた事ではあるが、祐子の成績は学年でもトップクラスであり、先生方からは特進科を()された(ほど)でもあり、受験に失敗するなど、到底(とうてい)、考えられない状況下(じょうきょうか)にある。一方(いっぽう)、正太郎はと()うと、流石(さすが)に祐子には(およ)ばぬまでも、祐子に次ぐ次元(レベル)の成績であり、内申点は()(かく)、テストの点数的には(ゆう)に、清水高校の安全圏内(あんぜんけんない)に収まっているのである。彼の(むら)()のある性格上、今回の峻別(しゅんべつ)では、選抜(せんばつ)クラスの4組となってしまっていたが、本来(ほんらい)の実力であれば、当然(とうぜん)、2、3組程度(ていど)(おさ)まる(はず)であり、受験勉強自体には、かなり呑気(のんき)(かま)えていた。(さら)に、清水高校の合否(ごうひ)判断(はんだん)()う点に()いては、()の夏期講習のクラス選抜(せんばつ)が一つの試金石(しきんせき)(もく)されていた。一般的に、()の夏期講習の選抜(せんばつ)クラスに入る事が、清水高校合格の目安(めやす)とされており、()の点からも、二人とも十二分(じゅうにぶん)に合格条件は満たしていたのである。そんな(わけ)であるから、正太郎、祐子、共に受験生特有の悲壮感(ひそうかん)などは皆無(かいむ)であり、特に祐子に(いた)っては、不合格など考えられない高校受験の(ため)の、夏期講習な(わけ)なのだから、(あこが)れの正太郎との受験対策夏期講習に(かこつ)けた安寧(あんねい)の日々。(さなが)ら、毎日がデートの様なものであった。(もっと)も、祐子にも、若干(じゃっかん)後悔(のちぐい)はあった。一つは、正太郎とメアドや携帯番号を交換しなかった事、そして、祐子と正太郎の中途半端(ちゅうとはんぱ)擬似交際(ぎじこうさい)が千春の告白を誘発(ゆうはつ)した事であった。(しか)し、当時(とうじ)としてはそんな事になるとは、知る(よし)も無かったのである。


 (さて)、夏期講習も愈々(いよいよ)、今日が最終日である。帰り(ぎわ)に、(めずら)しく正太郎から祐子に、『何か飲んでいかないか?』と、誘いがあった。当然(とうぜん)、祐子に(いな)やは無かった。二人は()だる様な暑さの中、玩具(オモチャ)の様な静鉄電車で終点(しゅうてん)の新清水(まで)乗り過ごし、清水銀座はずれの生ジュース屋さんへ寄った。二人は、油蝉(あぶらぜみ)の泣き声が至る所に()()んだ炎天下(えんてんか)の昼下がりに、メロンジュースを注文し一緒(いっしょ)に飲んだのだった。正太郎は何時(いつ)に無く、言葉数(ことばかず)が少なく、他愛(たわい)も無い話柄(わへい)終始(しゅうし)していた。()れと()った出来事(できごと)も無い(まま)、二人は店を出ると、(せみ)達が、がなりたてる清水銀座を抜け、魚町稲荷(うおまちいなり)、そして、母校である二の丸小学校へと(いた)った。家への道程(みちのり)は、小学校を通り抜け、裏門から(かつ)ての通学路へ至る道が一番の近道であった。(やが)て、二人はグランドを見下ろす石の階段に並んで腰掛(こしか)けた。眼の前に、馬大頭(オニヤンマ)空中停止(ホバリング)をしている。灼熱(しゃくねつ)の太陽が創り出す陽炎(かげろう)は、(すべ)ての風景を海の底の海草の様に()らし、働き者の(せみ)達が力の限り声をあげている中、生徒達の製作物であろうか、空き缶を利用した風鈴(ふうりん)が、時折(ときおり)、思い出したかの様に遠慮(えんりょ)がちに(わた)青東風(あおごち)を受け、カランコロンとカウベルの様な()()けた音を発していた。特段、何の変哲も無い、水彩画の様な杪夏(びょうか)の一風景である。(せみ)の声のみが(あた)りを(つつ)()む。其処(そこ)には海の底の様な静寂(せいじゃく)しか無かった。じりじりとした暑さの中、正太郎は祐子に対する気持ちを、正直な(ところ)、少し持て余していた。2年半の中学校生活に祐子との接点は(まった)()って無かった。唯一(ゆいいつ)あるとすれば、学力テストだけである。中学3年とも成ると、何と無く、自分と同レベルの子達とつるむ様になる。同じクラスの中でも、()傾向(けいこう)はあったし、クラス外にあってもそうであった。特に地元有数の進学校である清水高校志望(しぼう)の場合、何処(どこ)のクラスの(だれ)志望(しぼう)しているかは、(すぐ)(わか)る事であって、正太郎と祐子は、クラスこそ(はし)から(はし)であるものの、お互いに、(うわさ)は良く耳にしていた。


 運動場(グランド)(めん)した石段に腰掛(こしか)けた(まま)、正太郎は祐子に()った。

「祐子。3週間有難(ありがと)う。祐子のお陰でなんとか続けられたし、その、…結構(けっこう)、楽しかった」

 最後の言葉は、苦渋(くじゅう)の選択ではあった。当時(とうじ)の正太郎には、『好きだ』と()う言葉は、本当の恋を知らない少年には、選択し得なかった言葉であったし、2年もの間、何の接点も無く使い得る様な言葉でも無かった。(さら)に、現時点では、受験生でもある。何を()っても受験からの逃避(とうひ)の様に思われた。(しか)し、それに対して、祐子は本当に(うれ)しそうに()うのだった。

「私の方こそ、ありがとね。正ちゃん。()の3週間、本当に助かったし、…私も楽しかった」

 正太郎は(まよ)っていた。今の胸の内を如何(いか)に言葉にすべきかをである。()些細(ささい)躊躇(とまどい)後々(のちのち)(まで)禍根(かこん)を残した。グランドを(はさ)んだ道の向こうには巴川(ともえがわ)、そして、(さら)に、()の向こうには()()つ様な夏色(なついろ)積乱雲(せきらんうん)が見えた。祐子は()の雲をぼんやりと見つめ(なが)ら続けた。

「…あのね、正ちゃん。私、好きな人がいるの…。そして、清水高校に入って、()の人と来年もまた、一緒(いっしょ)にあの雲を見たいな…」

 それは、思いも寄らない祐子の一言だった。晩熟(おくて)()()思案(じあん)だとばかり思っていた祐子の、予想だにしない、強烈(きょうれつ)一撃(クリティカルヒット)だった。小学校時代、いつも影の様に正太郎の後を(だま)って付いて回っていた祐子。中学校時代の2年間に何があったかは分からない。(しか)し、何時(いつ)の間にか、祐子にはそう()う思いの人が出来(でき)ていたのか? 落ち着いて、冷静に考えれば、前後の文脈(ぶんみゃく)から類推(るいすい)しても、祐子の好きな人が、(だれ)の事を()していたのかは、(まさ)に、一目瞭然(いちもくりょうぜん)。普通に考えても、分かりそうな物なのだが、正太郎には分からなかった。『ひょっとして彼奴(アイツ)じゃないか?』、()の対象者の名前を、一人、一人、推理したが、()()けた事に、容疑者(ようぎしゃ)一覧(リスト)の中に、自身(おのれ)の名前だけは入っていなかったのである。そして、今、目の前の現実にあるものは、祐子の不退転(ふたいてん)決然(けつぜん)とした意思表示(こくはく)。正太郎は脳天(のうてん)を叩き割られた様な衝撃(しょうげき)を受けると共に、持ち味である冷静さを失っていた。(さら)に、

「うん。そうか。そうなるといいね。僕も…応援(おうえん)するよ」

 と()う、明白(あからさま)に本心を韜晦(とうかい)した、心にも無い(アンビバレントな)応援(おうえん)(まで)していた。後から思えばバカバカしい限りではあるが、正太郎は幼馴染(おさななじみ)の祐子にだけは、祐子の事で取り乱した自分を見せたく無い、そう()う思いが、強くあった。家までの帰り道、何時(いつ)もより言葉少なではあったが、正太郎は、表情(カオ)だけは完璧(かんぺき)に作っていた(はず)だった。でも、祐子の自宅に送り届けた時の、祐子の何処(どこ)(さび)しげな表情(カオ)は一生忘れないだろう。正太郎は自宅に帰ると、自室に(こも)り、ぼんやりと外を見た。南の空には、先程(さきほど)見た様な、空に()き上がる、夏特有の入道雲(にゅうどうぐも)が見えた。それは、巴川(ともえがわ)の向こうに(そび)え立ち、(まばゆ)いばかりの光芒(こうぼう)(はな)っていた。今日で、夏期講習は終了(おわ)ってしまった。明日からは、祐子と会う口実(きっかけ)すら無くなってしまったのだ。正太郎は()れを見ている内に、涙が(ほほ)(つた)って来るのを感じた。涙は(あふ)れる様に込み上げて来て、同時に、(のど)の奥からは(てつ)臭い(かおり)がした。正太郎は、ぼんやりとではあるが、自分が生まれて初めて失恋した事を自覚した。


「正ちゃん。大丈夫(だいじょうぶ)?」


 祐子の一言で、正太郎は一年前の、幻想(げんそう)の様な白昼夢(はくちゅうむ)から、中州(なかす)岩の上の現実に引き戻された。祐子はボーっと瞑想(めいそう)(ふけ)っている正太郎が心配になったのだ。現実に引き戻され(なが)らも、正太郎はあの当時(とうじ)から(いだ)いていた(ほの)かな疑問を、思わず口にした。

「…ねえ、祐ちゃん。今更(いまさら)こんな事聞くのも、何か変な話なんだけど…。1年前の夏期講習。祐ちゃん、本当は何組だったの?」

 祐子は躊躇(ためら)いがちに答えた。

「本当は、…選抜(せんばつ)の…1組。康代ちゃんにお願いして、()わってもらったの…。正ちゃんが4組だったから…」

 正太郎は溜息(ためいき)()(なが)()った。

「だよなあ。ヤスベエの1組も(みょう)だとは思ったけど、祐ちゃんの4組は、絶対有り得ないって、思ってたもん」

 祐子は赤くなり(なが)ら、下を向いている。正太郎は自嘲気味(じちょうぎみ)に続けた。

(しか)し、(われ)(なが)ら、随分(ずいぶん)間抜(まぬ)けな話だなあ…。今頃(いまごろ)になって、気付くなんて…」

 (ようや)く、此処(ここ)に来て、正太郎は、1年前に祐子が()っていた『好きな人』の正体に、率爾(そつじ)として、気が付いたのだった。(しか)(なが)ら、祐子も、明らかに目的語が欠落した正太郎の自嘲(じちょう)を受けて、笑い(なが)()った。

「本当だよ。折角(せっかく)、ありったけの勇気を()(しぼ)って(こく)った心算(つもり)だったのに…。正ちゃんたら、(なな)め上のリアクションするんだもん」

 正太郎は下を向き(なが)ら謝った。

「…ごめん」

 ()の時、正太郎は、熱波(ねっぱ)(あふ)れる(くす)んだ夏の空を見上げて思った。祐子は(さなが)ら、(せみ)の様だと。成程(なるほど)、確かにそうかも知れない。祐子は空白だった中学校時代、()の空白を埋めるべく、(わず)か3週間と()う一瞬に中学生生活の(すべ)てを()けていたのだった。7年間地中に暮らし、地上に出た3週間に、一気に()の命を燃やし()くす。自分は()の思いに、気付け無かった。()の事を思うと、後悔(こうかい)しかなかった。そして、祐子は続けた。

「それに、()(あと)の方が、もっと、(つら)くて、悲しかったんだぞ…」

 そう()(なが)らも、祐子は泣いたりはしなかった。(むし)ろ、ニッコリとし(なが)ら、昔を(なつ)かしむ様に()った。

「本当に…ごめん」

 正太郎は謝る。無論(むろん)、それより(ほか)は無い。(しか)し、()(のち)、祐子の笑顔(えがお)に釣り込まれた様に()った。

「本当は、あの日、3週間付き合ってくれたお礼と、高校に入ってからも、仲良しでいてくださいって、()おうと思って、ジュース屋に誘ったんだ。…()えなかったけど。こんな話自体が、…今更(いまさら)()うか、今となっては、(あま)り意味が無い事かも知れないけど…、1年間、悲しい思いをさせちゃって、ごめんね」

「ううん、意味が無いなんて事、無いよ。それに、()の半年間。特に受験の後は、すごく楽しかったよ。正ちゃんと、如何(どう)したら仲良く成れるかって…、康代ちゃんと一緒(いっしょ)に、すごく一生懸命(いっしょうけんめい)、いろいろ考えたり、いずなちゃんや皆に応援(おうえん)してもらったもの。()れに、1年前に()ったとおり、大好きな人と、また夏の雲が見れたから…」

「…うん」

 祐子は、正太郎の手を遠慮(えんりょ)がちに(にぎ)(なが)らも、ニコニコしている。()(ころ)(せみ)の声に(ひぐらし)の声が()じるようになってきていた。祐子は一年前の事が、恥ずかしくなったのであろうか。話題を変えようとした。

「でも、正ちゃん。本当に川って、気持ち()いね。私、()の合宿に来て良かった」

「うん、本当だね。祐ちゃん。それに、祐ちゃん苦手(にがて)な水辺なのに、本当に楽しそうだもん」

 祐子は、正太郎の隣に座り(なが)ら、山から吹いてくる涼風(りょうふう)に体を預けている。

「うん。とっても。…それに、あの(ころ)の、正ちゃんの気持ちが聞けたしね」

「…もう」

 二人の間には、(ゆる)やかな時間が流れている。(あた)りには、(せみ)の声しか聞こえない。不思議な静寂(せいじゃく)(あた)りを包んでいる。


 静けさや 岩に染み入る (せみ)の声


 正太郎は、逆説的な()の句の意味を初めて理解した様な気がした。(やが)て、目を閉じ、耳を澄ませていた正太郎が(つぶや)いた。

「そろそろ、面白(おもしろ)い事が起きるよ」

「えっ、何?」

「まあ、耳を()ましてごらん」

「?」

 祐子は目を(つむ)って、耳を()ました。油蝉(あぶらぜみ)、ニイニイゼミ、ツクツクホウシ等の声が聞こえた。が、混じって、聞きなれない声が聞こえた。

『カナカナカナ…』

「えっ。これは?」

「めずらしいだろ?下ではめったに聞けないからね」

「エヴァンゲリオンでよく出てきたよね。何て蝉?」

(ひぐらし)。通称、かなかな」

「なんか哀愁(あいしゅう)漂う声だね」

「日が暮れる前に鳴くからひぐらし。でも、夜明け前や夜中にも聞こえる時があるよ。…()のうち、(ひぐらし)一色になるよ」

 祐子は、目を(つむ)って、(ひぐらし)の声をしみじみと味わっていた。突然(とつぜん)一筋(ひとすじ)、祐子のほほを涙が(つた)った。祐子は正太郎に(もた)()かった(まま)()った。

「何か夢みたい。私、正ちゃんと、こんな風になるの夢だったの。小学校の(ころ)から…」

「僕も、すごく幸せだよ…。高校に入った(ころ)から、ううん1年前から、祐ちゃんとこんな風になれたらなあって…」

 そう()うと、正太郎は、再び祐子の手を軽く(にぎ)()めた。祐子の手は熱くとても(やわ)らかだった。祐子は突然(とつぜん)小声で(さけ)んだ。

「よし。来年の目標。大好きな人と、(ひぐらし)の声を聞く!」

「だったら、僕も来年の目標。大好きな祐ちゃんと一緒(いっしょ)に、(ひぐらし)の声を聞く。ほら、ちゃんと、述語(じゅつご)を明確にしておかないと、(なな)め上のリアクションをする人が居るから…」

「あー、ひどい。自分の事を(たな)に上げて…。私は、そんな(なな)め上の解釈(かいしゃく)しませんよーだ」

 遠くで高志の声が聞こえる。

「おーい、二人ともー。そろそろ、帰るぞー」


 気がつけば、(あた)りは(ひぐらし)の大合唱になっていた。夏場(なつば)渓流(けいりゅう)での、ごくありふれた風景であったが、全員にとって、夏休みのとても素敵(すてき)な1ページとなった。そして、正太郎と祐子にとって、1年前に止まった時計が、再び動き始めた、とある夏の一幕(ひとまく)でもあった。


明彦だ。露天風呂つったら、やっぱ覗きだよなあ。(いや、抑々、其の発想がおかしい)それは、どんなアニメだろうが、露天風呂と謂った瞬間に覗きのフラグが立つ訳なんだが…。次回、『第14話 露天風呂と様式美』。お楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ