第1話 ボーイ・ミーツ・ガール
静岡県静岡市清水区。嘗ては、造船とサッカーの街として、名を馳せた此の街も、平成の大合併の荒波には抗えず、隣の県都静岡市と合併し、清水市としての約80年に亘る市制に終止符を打ち、静岡市清水区として、新たに静岡市の一行政区として歩み始めている。嘗ての市の代表駅、JR清水駅の東側、即ち、海側に降り立つと、すぐに広い港湾道路に行き当たる。大型コンテナを積載したトラックやタンクローリーが頻繁に行き来する港湾道路であり、とても駅前の道路とは謂い難い道路ではあるが、元々は清水駅に東口など無かった訳でもあるから、何とも致し方ない無い。駅東口側愛染町交差点を横断し、左手に特撮映画にでも出て来る様な石油タンクやコンビナートを見乍ら直進すると、頓て、江尻船溜まりを東から蔽う様に右手、即ち、南側に向かって突堤が延びている。大型トラックが頻りに出入りする倉庫群を左手に見乍ら、南へ進むと小さな無人灯台に行き当たる。魚特有の生臭い潮の匂いと、重油の噎せ返る様な臭気が漂う一帯である。余り心地良いとは謂い難い臭気ではあったが、此の小さな港町に育った者にとっては、何処か、ノスタルジックで郷愁を誘う薫りでもあった。堤防に凭れ掛かって、ニコニコと微笑んでいた、一人のぽっちゃりとした若い女性が、卒爾として呟く。
『此処だけは、昔と変わらないね』。
其れに対し、青年は優しく『ああ』と、頷いた。対岸の日の出埠頭側では、まるで現実味の無い、ピカピカのプラモデルの様な色合いのタワークレーンが、茶色いコンテナを、聊か無造作に鷲掴みにしていた。4月になったばかりの江尻船溜まりは、未だ、少し肌寒い。他にも十数人の若者達が突堤の下に屯している。酷く赤錆びた舫杭に腰掛けている者も居る。一部、礼服などを着込んでいる処を見ると、結婚式か何かの帰りらしい。だが。其れにしても、実に奇妙な話だ。此処は、海に突き出した袋小路地形であり、何かの帰りについでに、立寄る様な処では無い。然し、彼らは和気藹々と実に楽しそうに、思い出話と雑談に興じている。然し、此の陽気。然し若し、結婚式だとしたら、人生の門出を祝うには、余りにも薄ら寒い陽気である。なんとも生憎の曇天模様の日和となってしまった訳だが、雲間から射す微かな薄日と、湾外から渡って来る僅かばかりの日和南風が、辛うじて今の季節感を物語っていた。にも拘らず、彼等自身、天候の事など全く意に介しておらず、楽しそうにしていたし、そして何よりも、彼等全員が、躍動的で生命力に満ち溢れており、そう、例えるなら、宛ら、希望に満ちた眩いばかりの光芒を放っている、とでも謂おうか、将に青春真っ只中と謂った情景なのである。此処で、僭越乍ら、様式美に則って私見を述べるのであれば、青春と謂う物は、本当に素晴らしい。将に、生きる意義に値する物だ。未だ、春遠い、薄ら寒い江尻船溜まりを覆い込む様に、倉庫群に囲まれた突堤が、ひどく凪いだ海上に向かって突き出している。其の凪いだ海上を、ポンポン船やら艀やらが、慌ただしく行き交っている。往来の多い海上に向かって突き出した突堤の先端にある赤い灯台。其の灯台の正式名称を何と謂うのかは、私は知らない。然し、私は其の灯台の事を『赤燈台』と呼んでいる。まあ、何と呼ぼうが、此の際、余り問題では無いのだが、私が今から記して行くお話の本題は、或る高校生達の真っ直ぐな青春物語なのである。
清水区内の中心部から、やや東側の秋吉町と謂う閑静な住宅街の真っ只中に其の高校はあった。静岡県立清水高校。高野正太郎が、此の県下有数の進学校に入学したのは、とても春と謂うにはあまりにも薄ら寒い、桜の花が咲ききらぬ平成××年の四月の事だった。高野正太郎は高校受験に対しては、所謂、受験勉強と謂われるものを一切しない、全くの自然体での受験であった。此の様な書き方をすると、如何にも甚だ不遜であり、世の受験生達からの顰蹙を買うやも知れぬが、強ち、間違った描写でもなく、事実なのだから仕方が無い。毎年、正太郎の中学校から清水高校へは、上位40名程度が進学していた。中学全校250人の約一割強から二割弱、即ち上位30人程度が合格安全圏内であったが、正太郎は常に学年順位20番以内であり、優に安全圏内であった。此れは、彼の随縁放曠で自由気儘な生活態度や、斑っけのある、教科への偏向した嗜好から考えれば、信じられぬ事でもあった。尤も、彼は優等生という訳では無く、素行不良と迄は行かぬまでも、割と、行動が剽軽かつ、楽天的な処が有り、一言で謂えば、軽率なお調子者であった。更に、主要五教科以外は、音楽を除き、提出物もろくすっぽ出さない始末であり、内申点も、或る意味、壊滅的であった。そんな次第であるから、彼の内申点は合格安全圏から大幅に外れていたし、先生のみこも決してよろしくは無かった。とは謂え、五教科テストにおいては、常時250点中210点程度マークしていた訳であるから、担任からは、
「普段どおりの出来なら、問題無いだろ」
と、受験に関してはゴーサインが出ていた。尤も、担任は釘を刺す事も忘れてはいなかった。
「だが、内申点については、マイナス要素しか無いぞ。くれぐれも、本番ではミスるなよ」
然し、担任の老婆心乍らの心配は、幸いにも杞憂に終わった。斯くして、高野正太郎は、静岡県立清水高校に入学する運びと相成ったのであった。
高野正太郎は、確固たる目的を持って、此の学校へ入学した訳では無かった。確かに、人より多少は勉強が出来たかも知れないが、運動は人並み。面相も人並み。身長168㎝。体重58㎏。特徴といえば、いつもニコニコと微笑を絶やさず、くりくりと良く動く眼が人目を引いた。彼は、剽軽者の例に漏れず、気軽で飄々とした処があり、軽妙洒脱をこよなく愛し、いつも、何処か人を食った様な態度で接していたが、物腰が丁寧で柔らかく、謂ってしまえば、他人を惹きつける様な、或いは、他人に安心感を与える様な何かを、持ち合わせていた。然し、一方で、時折、微かに見せる翳りと謂うか、仄かな暗い影の様な憂いは、彼の内面の繊細さを、如実に物語っていた。然も、彼には年齢の割に、妙に達観したと謂うか、超越した処があった。此れも、彼自身が経験した、死に纏わる体験だとか、持病のせいもあったのであろうが、世の中を比較的冷笑的に捉え、友人達にさえ、何処か褪めた、そして、何処か皮肉を以って接していた。然し、彼自身が、自らを、基本は、臆病で小心な人間である事は、良く自覚してもいた。飄々として、人を食った様な態度も、其の内面を蔽い隠さんが為の物であり、其の辺りは、意外にも分を弁えていたのである。更に、付け加えるのであれば、酷く純情で晩熟な一面があり、特に、異性に対しては、強固な迄の障壁を放っていた。故に、女性に対しては、優しく丁寧ではあったものの、同時に、酷く、ぶっきら棒で不愛想な処もあった。まあ、一言で彼を表現すれば、中二病気質、と謂った処であろうか。彼が進学先として、此の学校を選んだのも、自分の学力と照らした結果であり、何よりも最大の理由は、自宅の近所であったからに過ぎない。然し、唯一高校に入ってやりたいものとして、クラブ活動があった。彼は中学時代から続けて来た吹奏楽部へ入部するつもりだった。一級上の先輩から、
「清水高校の吹奏楽部は面白いぜ。みんな命を掛けて遊んでるぜ」
果たして、命を掛けるというのが如何謂う事なのか、若干、意味不明ではあったが、正太郎にとって、とても、眩しく思えたのは確かだった。合格後の通知で、正太郎の高校でのクラスは1年4組となっていた。
山本祐子も、正太郎と同じ江尻中学校の出身であった。祐子は、中学時代、文芸部と謂う部に所属していたが、文芸部と謂う部活が相応し過ぎる程、内向的な少女であった。丸顔で色白のショートカット、目はややたれ目で意外とパッチリしているが、笑うと糸目になる。そして、特徴的な団子鼻。所謂、美人顔とはかけ離れた面相なのであったが、此れ又、いつも笑顔を絶やさない愛嬌のある顔立ちであった。身長も158㎝、体型もぽっちゃり型、と謂うよりおデブの範疇であったが、其の、のほほんとした顔立ちは、他人に如何にも人畜無害であるといった、安心感を与えており、ぽちゃかわいいといった風の、何処にでもいる様な内気な女の子であった。ただ、一点、祐子の為に弁ずれば、かなりの規模の巨乳の持ち主ではあった。が、然し、本人にしてみれば、級友の好奇の目を引くだけに過ぎない物であり、肩も凝るし、それでいて、如何ともし難い、所謂、悩みの種でしかなかった。自然、交友範囲は限られ、クラス数人と自身が部長を務める文芸部の部員位であった。尤も、祐子は内向的である事を除けば、特段、人間嫌いと謂う訳では無かったし、諧謔を割と好み、寧ろ、剽軽ですらあった。趣味はアニメ鑑賞と読書であり、読書は兎も角、アニメに関しては趣味人と謂って良いレベルであり、夏冬のコミケには必ず参戦していた。が、此れも、祐子の障壁をかなり強固なものにしていたのも事実である。彼女が文芸部に入部したのは、不幸な行き違いに端を発している。彼女が、淡い恋心を抱いた少年が、無類の読書好きであり、事前に彼女が、数少ない友人から入手した情報によれば、『其の彼は文芸部に入部する』と謂う、偽情報に踊らされた結果である。読者の想像のとおり、彼は別の部に入部してしまい、慌てた彼女は、文芸部を退部して、彼を追って別の部に入部しようとするも、時、既に遅し。彼女は文芸部次期部長である副部長に祀り上げられてしまい、退部する機会を逸してしまっていた。此の、オーヘンリーチックな出来事は、間違い無く彼女の中学校生活に暗い影を落とし、貴重な三年間の青春時代を、暗澹たる時間にしてしまった事は、想像に難く無かったのである。
祐子も正太郎と同様、と謂うよりも、正太郎以上に勉強は良く出来た。中学校時代の学年順位は常に一桁であり、何度も学年首席をマークしていた。のみならず、品行方正な行動と性格は、正太郎とは異なり、先生方の受けもよく、内申点も苦手な体育を除き満点であった。当然、志望高校も清水高校と成った。先生方からは、普通科ではなく特進科を推す声もあったのだが、しかし祐子自身が、
「自信がありません」
と、頑なに、固辞していた。此れには、祐子にしてみれば、尤もな事で、相応な理由が有ったと謂えるかも知れない。其れは、無類な読書好きである高野正太郎が、普通科を志望していたからである。正太郎と祐子は同じ町内会。即ち、近所であり、所謂、筒井筒と謂える間柄なのである。幼稚園に上がる前からの知り合いであったが、然し、同じクラスになったのは、幼稚園と小学校の1、2年そして5,6年の時のみであり、他愛も無い話ではあるが、祐子が小学1年生の頃、級友に虐められていた処を、正太郎に助けられた事があった。果然と謂うべきか、見事なまでの刷り込みと謂うべきか、はたまた、吊り橋効果と謂うべきか、以来、祐子にとって、正太郎は特別な存在となってしまった。頓て、思春期を迎えた祐子にとって、正太郎と同じ組になる事は、祐子の人生に於いて、かなり重要な要素であった事は確かであった。祐子は中学入学時のクラス編成について、祈る様な想いで、渇望して止まなかったに相違無い。然し、人生は儘成らない事の連続である。全8クラスの中学校で、果せるかな、正太郎は1組、祐子は8組と、見事な迄に、端から端へと分断されてしまった。祐子の心情は推して知る可であろう。祐子たち中学校は、3年間クラス替えが無い。クラスが異なり、クラブが異なれば、邂逅の確率は宝くじレベルまで押し下げられ、況してや、一方に全く、其の様な意識が無く、他方はゼルエル並の拒絶型、ATフィールド全開の状態とあっては相思相愛となる可能性は殆んど0に収束するも止む無し、の状況下にあった。
正太郎にしてみれば、祐子は唯の幼馴染であり、其れ以上ではなかった。従って、格別、意識することは何も無かったし、よもや、彼が何気なく吹奏楽部に入部することで、祐子を落胆せしむる事に成ろうとは、露程も思わ無かったであろうし、さらに、思春期の例に漏れず、中学3年の秋に同じ吹奏楽部の鈴木千春という子に告白され交際するようになっていた。と謂う事が、祐子を途轍も無く悲しませていると謂う事実も、知る由等無かったのであった。尤も、千春は近隣の女子高への進学が決っていた。一方、祐子にしてみれば、正太郎と千春の噂は耳にしていたし、これもまた思春期の例に漏れず、大いに涙した事であろうが、此れも、ありふれた片思いの末路として受け入れざるを得なかったのだろう。然し、祐子にとって、正太郎は、何時迄経っても『正ちゃん』の儘であり、永遠の憧れの存在であった。皮肉にも、と謂うべきか、果然、祐子の高校に於けるクラスも1年4組であった。今更乍らではあるが、祐子は図らずも7分の1の当たり籤を引き当てたのであった。
入学式の日は春と謂うのが烏滸がましい程、肌寒い日だった。正太郎は玄関で慣れない革靴を履き乍ら、多少怒った様に謂った。
「母さん。先に行っているから」
「ごめんね。入学式には間に合うから…。車に気をつけてね」
「ったく。んじゃ行ってるよ」
正太郎は、多少、荒々しく戸を閉めると、自転車の荷台に鞄を括り付け、ペダルを踏み出した。
(然し、果たして此の距離で、自転車通学許可が下りるだろうか?)
一抹の不安があった。だって、高校より徒歩通学であった中学校までの方が余程遠いのだ…。そんな事を考え乍ら、高校生活初日の第一歩を踏み出した。いや、漕ぎ出したのであった。花冷えのする、春先の気まぐれな陽気の中、白い蝶々を乗せた涅槃西風が渡って行く。雪を頂いた霊峰富士が、眼前に大きく聳え立つ。正太郎は、近所の資材置き場の空き地に目をやった。アブラナの花が満開である。正太郎は卒爾として、想う。
(春なんだなあ)
確かに、そうである。季節的にも勿論なのであるが、彼自身、志望校に合格し、人生の春に足を一歩踏みだした処なのである。其の、胸躍る茫洋たる未来への希望と安心感が彼を詩人にした。
(菜の花って不思議な花だな)
菜の花は、一夜にして、風景を一変させる魔法の花である。昨日までの何の変哲も無い冬景色を、或る日、突然に、黄色と緑の春の装いに変えてしまう。空き地も、河川敷も、畑も、枯れ草色から、最近、少し緑が増えたかなと思うのも、束の間、一夜にして、黄色い絨毯を敷き詰めたが如く、一変させてしまう。正太郎は、暫しの間、春の幻想の余韻に浸っていたが、大きく息を吐くと、前方に目をやった。
正太郎は、頓て、前方の交差点で、慎ましく信号待ちをしている、ぽっちゃりした女学生を見つけた。濃紺のブレザー、濃紺のベスト、濃紺のスカート、清水高校の制服だ。件の山本祐子だった。正太郎は、何故か桜の花弁の様な華やかな佇まいを連想して、思わずドキリとした。
(何故?)
其れは、不思議とも謂える瞬間であった。祐子は極めて地味な印象である。何処にでもいる様な内気で、やや、肥満気味の女の子である。然し、正太郎の、春に感化された華やかな気分に加え、正太郎同様、人生の春を踏み出し始めた彼女の明るい笑顔が、妙に眩しく見えたのかもしれない。彼は徐に祐子に近づくと、不意に声を掛けた。
「おはよう。祐子…」
「あっ。おはよう。正ちゃん」
祐子の弾ける様な笑顔が、とても印象的だった。
(やっぱり、桜だ)
正太郎は素直に思った。祐子は、ニコニコし乍ら、明るく続けた。
「また、同じ学校だね。よろしくね」
と、謂い乍ら、眦を決した様に、
「正ちゃん。…何組だった?」
「4組。祐子は?」
祐子は飛びきりの笑顔を輝かせて、
「私も4組」
「そうか。また、同じクラスなんだ。小学校以来かな。此方こそ、よろしくな」
「うん」
祐子にしてみれば、小学校卒業以来、待ち望んでいた運命的邂逅でもあった。実の処、祐子は正太郎に組を確認はして見たものの、文芸部時代の友人から、正太郎の組の情報は、予め、入手済みであった。唯単に、会話の切っ掛けが欲しかっただけに過ぎない。
「それじゃあ。俺、自転車だから」
正太郎は、異性と共に喋り乍ら登校する事に、多少の、後ろめたさと、照れ臭さや恥ずかしさを覚えた様だった。まだ、何か話したそうな祐子を尻目に、信号が青になったのを機に、嬉嬉と、ペダルを踏み出した。
(女の子と一緒にいる事は恥ずかしい。誰かに見られたら如何しよう?)
そんな心理が正太郎を急がせたのであろう。確かに、正太郎には、其の様な意識が残っていた。思春期の中にあって、本物の恋愛経験を知らない男の子特有の物だったのかも知れない。それでも、自転車をこぎ乍ら、『ちょっと、愛想が無さ過ぎたかなあ』と、反省したのも事実だった。現に、100メートル程進んだところで、余程、戻って一緒に登校しようかとも考えたのだが、結局、恥ずかしさに支配される彼の少年気質が勝った様だった。正太郎少年からは、祐子の表情を窺い知る事は出来なかったし、また、心情を慮る事も出来なかった。或る意味、先程のように、ちょっと反省しただけでも、出来過ぎであったと謂えるだろう。まあ、後から振り返れば、一種の『好き避け』であったのかもしれない。
入学証書授与式。所謂、入学式であるが、此の清水高校の場合、生徒1名1名が、演壇の校長先生から、入学証書を手渡される。総勢、367名。これだけでも、約半日の行程である。入学式の無駄に長い全ての式次第が終了したのは、正午少し前の事だった。各クラス毎の教室に移動し、担任からの説明の予定だった。正太郎は、教室内を見廻した。自分の席は、左から3列目、前から2番目である。成程、女子の人数が少なめである。クラスの総勢が45人、そのうち女生徒が20人といない。彼は、卒爾として、自分が県内有数の進学校に進学した事を悟ったのだった。
(みんな、勉強が出来そうな面してるなあ)
彼は素直にそう思った。正太郎は辺りを見廻し乍ら、右列、一番廊下側の後ろから3番目、祐子がニコニコし乍ら、此方を見ていることに気が付いて、再び、ドキリとした。彼は慌てて目を逸らせると、ふと、斯う思った。
(祐子ってこんなに可愛かったけか?)
そして、正直、少しホッとしたのも事実だった。今朝の自分の無愛想な態度が、彼女を傷つけてない事に安心したのだ。尤も、『傷つけていない』と謂うのは、彼の独り合点に過ぎぬだろう。事実、祐子は少しだけガッカリしていた。恋する少女の常として、好きな人とは、たとえ片思いであっても一分一秒でも永く一緒に居たかったし、何よりも、祐子には胸の奥に秘めたある計画があった。然し、一方で片思い少女に特有な、類稀なる忍耐力も持ち合わせていた。彼女は愛嬌のみが自分に許された武器である、と謂う自覚を強かに持っていたし、何よりも、通学途上で話し掛けられるという、彼女にしてみれば過分な僥倖に頗る満足していた。其れらの全てが、咄嗟に彼女を笑顔にさせたのであろう。
「えーっと。高野君だったかな? かわいい子でも見つけたのかな?」
担任の声で、正太郎は我に帰った。いつの間にか、担任が来て、HRが始まっていたらしい。正太郎の顔から火が出た。
「ハハハ…」
クラス全員の笑い声。
「もう一度謂うぞ。今週中に調査票を記入の上提出するように。また、部活動入部希望届けを今月中に提出しろよ。じゃあ、本日は解散」
散会するや否や、祐子が正太郎の元にやって来た。
「ごめんね。私も先生が来たことに気がつかなくて…」
「いや。悪いのは俺だし…」
「ところで、正ちゃん。これから如何するの? 帰る?」
「いや。部活の見学に行こうと思って…」
「部活は決めたの?」
「うん」
「何処?」
「吹奏楽部!」
其処で、言葉を切った正太郎は、
「祐子は決めた?」
「ううん。未だ。…実は、正ちゃんに部活のこと相談しようと思って…。私、友達…あまりいないから…」
「祐子…ちゃん。中学の時…確か、文芸部だったよな。文芸部にはしないの? 後、アニメ研とか、漫研とかもあるって聞いたけど…」
正太郎は、女性慣れしていない哀しさ故か、此の幼馴染の事を何と呼ぶべきか、少し、戸惑っていた。此処に来て俄かに、祐子と呼び捨てにする事に気後れしたのだろう。不器用乍らも、『ちゃん付け』にした。然し、恥ずかしい事には、全く変わりは無く、結果、不必要に小声になってしまった。差し当たって、祐子は悲しんだかもしれないが、此処は素直に『山本さん』とでもしておけば、無難であったのだろうが、咄嗟にそんな知恵は出なかった。と謂うより、抑々、彼女の苗字を、此のどぎまぎした心情の中で思い出せずにいた。仮に思い出したとしても、彼にして見れば、『祐子』と『山本さん』では、違和感があるのは明らかに後者であり、更には、祐子も正太郎の事を一貫して『正ちゃん』と呼んでいる事が、なお、彼を混乱させていた。本来であれば『山本さん』が正解であるにもかかわらず、幼馴染との会話という特殊性故に、正答を選択し得ない、一種、不可思議的状況下に置かれてしまっていた。此の流れが、彼の今後を決定付けたのかもしれない。扨、閑話休題。祐子は徐に喋りだした。
「うん。アニメ研とかも考えたんだけど…。音楽系もやってみたくて…。ちょっと見てみようかなとも思ってるの…」
「じゃあ。俺、今から、吹奏楽部を見に行くんだけど…。祐子…ちゃんも一緒に行く?」
正太郎の照れ隠しの一言が、実は、祐子が、此処数週間にわたって待ち望んでいた一言であった。
「うん!」
祐子の丸っこい顔は、弾ける様な笑顔になった。正太郎との関係の深耕と謂う難題に苦慮し、中学校時代から呻吟していた祐子にとって、正太郎の一言は、将に、渡りに船であったのである。
以上のやり取りを見て、読者の殆んどの方は、祐子の性格描写に無理があると思われたに相違無い。此のやりとり、如何見ても積極的であったし、とても『内向的』などとは謂い得ないのではあるまいか? そんな事は無い。此の点に関しては、滑稽ではあるものの、馬鹿馬鹿しくも涙ぐましい努力が背景にあるのだ。祐子は、正太郎と以上のやり取りとなる事を想定して、否、以上の様なやり取りに導くべく、此の二週間、いや、合格が決まった直後から、此の状況を、家で何度も模擬演習していた。祐子にしてみれば、或る意味、不合格が考えられない高校受験以上に、此方の方が重要かつ難易度が高かったに相違ない。内向的な少女が、或る日突然に、好きな人を前にして饒舌に成れる物では無い。入学後、確実に迫られるであろう部活の選択。勿論、祐子が何の調査も無く、吹奏楽部を選択する事も出来た訳だが、例えば其の時、正太郎が文芸部を選択していたら如何であろう。それこそ、オーヘンリーの短編集に有りそうな話になってしまうではないか。我々には笑って済む話ではあるが、祐子にとっては、とても、笑って済まされる話では無い。祐子は、中学校時代の悲劇を繰り返さない為にも、入学後の早い段階で正太郎の(部活の)進路を探査する必要があったのだ。少なくとも、正太郎が何処の部活に入るのかを調査し、吹奏楽部なのか、本当に確実に入るのかを、入念に甄別する必要があったのだ。間違っても、正太郎が何処に入部するか見定める迄は、絶対に自分の去就を明らかにしてはなら無い。そして、可能であれば、正太郎をして、『一緒に入ろうよ!』と、謂わしむる事が出来ればベストであったのだ。本来であれば、朝、登校時のあの瞬間は、祐子にとって、邪魔者もいない理想的な瞬間であったに違い無い。が、残念乍ら、無情にも、其の機会は得られなかった。然し、祐子は挫け無かった。幸運にも、入学式当日に、其の機会に恵まれた。そして、練習の成果を遺憾無く、発揮出来たのであった。唯、祐子の為に一つ弁ずれば、彼女は腹黒い方でも、権謀術数を好む方でもない。元来、無邪気な方である。然し、此の時ばかりは、自身の思い描いた構想に、彼女の得意な数学的正確さで論理を組み立て、正太郎をして、『一緒に見学に行こう』と、謂わしめたのは、見事というより他、無かった。将に、一途な乙女の一念と謂えよう。一応、正太郎には付き合っている彼女がいる筈だったけれどもネ。
吹奏楽部の練習場所は、先ほど入学式を行った講堂だった。良く見ると、壁の塗装があちこち剥げかかっており、かなり老朽化が進んだ建物だった。沢山の椅子は、未だ、今後の行事で使用するのであろう。整然と並べられた儘であり、吹奏楽部の部員達が、思い思いの場所に陣取って練習をしていた。正太郎は、落ち着かない素振で、周囲を見渡していた。椅子が並べてあるせいか、酷く狭く感じた。舞台の上には、演壇が残された儘になっていたが、全体練習の為であろう。部員達が片付け、椅子を並べ始めていた。後方の袖には、『吹奏楽部』の表示がある倉庫のような部屋がある。部員達が頻繁に出入りしている処を見ると、部室か楽器庫として、使用しているらしい。彼は、頻りに祐子の方に視線を送った。彼は祐子の事を気に掛けていた。何故なら、経緯は如何あれ、見学に誘ったのは彼である。詰まらなそうにしていたら、申し訳ないという思いがあった。然し、祐子は興味深げに周囲を見ていた。
「ねえ、正ちゃん。此の部、『カーボーイビバップ』のオープニングみたいな曲やるのかなあ?」
「『カーボーイビバップ』のオープニング? ああ『タンク』だっけ? でも、あれ、思いっきりジャズテイストだぞ。ちょっと路線が違うような気が…」
「じゃあ、『ジャストビコーズ』の作中で使われたブラス曲。ちょっとかっこよかったよね」
「作中曲?ああ『インユニゾン』か、あれならあるかもな。確かにかっこよかった。爽快感が半端ないよね…」
「映画版エヴァの『翼をください』も良かったよね」
「『僕はどうなっても良い。世界がどうなっても良い。でも綾波は…。綾波だけは』の、時に流れるあれだよね。あれも良かった。でも、ブラスでアレンジするなら、『けいおん』の翼をくださいの方が良いかな」
祐子が顔をニコニコさせて謂った。
「正ちゃんって、随分アニメに詳しいよね。意外だな」
「えっ」
(しまったあ。今まで誰にも知られていない俺のアニメ好きを、何故、祐子が知っている? 何時、ヲタバレした?)
「いや、別に…。普通だと思うぞ」
「そお? でも、正ちゃん。私が謂った作品。全部分かってたよ。…モノマネ迄してたし…」
「…。何でそう思ったの?」
「先刻、会話の中で真っ先にアニメ研が出たでしょ。若しや、って思っただけ」
「おまえはコナン君かあっ!」
其の時、祐子の後ろでやはり見学している生徒がいる事に気がついた。身長は175㎝位であろうか、ぼさぼさ髪で痩身で背が高く、色白、全体的にひょろ長いもやしのようである。が、筋肉のつき方であろうか、もやしと謂うよりも、寧ろ、精悍な印象を与えていた。正太郎は、徐に、ぼさぼさ髪男の方に歩み寄り、そして、話しかけた。
「入部希望者ですか?」
ぼさぼさ髪男が、多少、物憂そうに答えた。
「そうだけど。君も?」
「ああ。そうだよ。中学のときの先輩に勧められてね。実は、清水高校の吹奏楽部に入るのが夢だったもんで」
「って事は、経験者か? 俺は全くの未経験でね。楽譜も読めないよ。ああ、俺は、岡本高志。興津一中の出身だよ。中学時代は野球部だった。よろしくな。えーっと、高野君は?」
正太郎は、彼が、何故自分の名を知っているのかを、訝しみ乍らも、
「俺は中学時代、江尻中でトロンボーンとユーフォをやってた。名前は高野正太郎。よろしく。で、此奴は祐子」
「祐子?」
「じゃなくて、えーと。山本祐子さん。俺と同じ、江尻中出身だよ」
「山本祐子です。よろしくお願いします。中学の時は文芸部やっていました。だから、私も初心者だよ」
会話の途中から祐子も参加した。彼女にしてみれば、会話の前後で、彼女の主たる目的は概ね達成されていたのを感じ取っており、更には、正太郎の秘めたる、それでいて、自身と共通の趣味を発見した事で、終始笑顔であった。
「ところで、先刻、何で俺の名前を知ってたんだ?」
「はっ? …だって、先刻、先生から名指しで注意されてたじゃねーか」
「と謂う事は、お前も4組?」
高志はニヤニヤし乍ら、
「そーだよ。気がつかなかったのか? 扨は、本当に女の子を物色してやがったな? 俺は、二人とも4組にいたのを確認してたぜ」
「二人とも?」
「そーだよ。おめーは今日、クラスで一番、悪目立ちしていたし…」
そこで、高志は声を潜め乍ら、祐子に聞かれ無い様に、心持顔を正太郎に寄せて、
「山本さんのあの胸。あれは間違いなく全校で3本の指に入るぞ。クラスではナンバーワンだな」
「…どっちが、物色だよ?」
「ちょっと。自己紹介するなら私たちも交ぜなさいよ」
後ろから、はきはきとした声が聞こえた。振り返ると、二人の女性徒がいた。声を掛けたのは、ちょっとくせ毛の仁王立ちの子。身長は155㎝位、少し小柄で、目が大きくかわいい顔立ちだが、お転婆で気が強そうな子だ。髪の毛は栗色に近い。が、残念乍ら胸は小さい様だ。
「私は岡中出身で、稲森ひろみ。中学時代は空手をやっていたわよ。だから、音楽は全くの初心者です。あと、空手の方は一応初段です。クラスは7組。よろしくね」
続いて、身長145㎝位と、かなり小柄な子だ。八重歯がとてもチャーミングである。目はどちらかというと釣り目、だけど、大きくてくりくりしている。髪はおかっぱボブカットで、ソバージュがかった髪をしている。体型は幼女体型。悲しいかな、稲森以上に胸はペッタンコだ。ちょっと、おどおどしており、あまり、会話好きではないらしい。おずおずと歩み出て、
「私は清水中でクラをやってました、2組の小泉菜月です。…略して『いずな』と呼んで下さい…です」
「あーっ。『ノーゲーム・ノーライフ』の!」
祐子が素っ頓狂な声を上げた。
「知ってるの? 実は、お家に、付け耳と付けしっぽがあるんだけど、『今日は入学式だからやめなさい』って、ママに取り上げられて…」といずな。
「付け耳と付け尻尾だあ~?」
と、高志。
「知ってるよ。大好きなラノベだもん。アニメも映画も見たよ! あっ。私、山本祐子です。よろしくお願いします」
「わーっ。良かった。初めて、趣味の合いそうな人、見つけた! ゆーちんって呼んでいい? ゆーちんも、此の部入るんだよね。いずなも、絶対入るから」
前言撤回。強ち、会話嫌いと謂う訳ではないらしい。かなりの『不思議ちゃん』の様だ。全体練習の見学が終わり、今日の練習が散会となったのは、15時頃だった。正太郎達は講堂を出乍ら、
「此れから、如何する?」
と、正太郎。すると、早速、高志が口火を切った。
「折角だから、茶店でも行かねーか?」
「うん」
「いいよ」
全員賛同して、喫茶店に行く事になったが、高志が、
「高野。何処かいい店知らないか? 地元民なんだし…」
「そーだな。キャトルあたりは? 此の近所だし」
「わかった。私、家に電話してから、行くから。先に行ってて」
と、ひろみ。
「正ちゃん。私、歩きだから、一旦、家に帰って自転車とって来るね。絶対に行くから、其れ迄、待っていてね」
「了解。慌てなくて良いからな」
「うん」
5分咲きの桜の下、祐子が小走りに駆け出していった。後姿が何処か楽しげである。それを見送り乍ら、正太郎は、
「じゃあ。俺達も行くか」
相変わらず肌寒くはあったが、今日新しく出来た仲間達と語らう事思うと、何処か胸が高鳴るような心持になる正太郎達であった。
正太郎、高志、いずな、の3人は先着した。先に入っていようかと岡本が促した為、恐る恐る入店した。広い店内ではあったが、比較的閑散としていた。正太郎は、一歩大人の階段を踏み出したような感覚に酔いしれていた。実は、正太郎はまだ喫茶店に入った事はなかったのだ。所謂、喫茶店初体験なのである。
「俺、アメリカン」と高志。
「あっ。じゃあ。俺も」
「うーんとね。いずなストロベリーパフェとコーヒー」
「いや、コーヒーって何のだよ」と、高志。
「えっ。メニューの此処に書いてあるよ」
「それはカテゴリー名だろ。其の下にいっぱい書いてあんだろ」
「いっぱい種類があるけど、如何違うの?」
「俺が知るか!」
「だって、君。この、『マンデリン』って、楽器じゃないの? 推理小説で凶器に使われた奴」
「違げーだろ。あれは、マンドリンだ」
「じゃあ、このウィンナコーヒーってのも、ソーセージが入っている訳じゃないの?」
「たりめーだろ。恥ずかしい奴だな。なんか、クリームみてーのが入ってんだよ」
「ヴーッ。じゃ。いずなもアメリカンにする」
「おい、岡本。多分、祐子ケーキ二つは行くぞ」
「マジ?」
「いや、三つも有り得るかも…。賭けるか?」
「おもしれー。一個に千円」
「受けた。二個に千円」
「おまたせー」
三人で、どーでもいいような会話を交わしている中、やや、遅れてひろみが到着した。
「えっ。未だ頼んでなかったの? じゃあ、私メロンのタルトとジャワティー」
オーダーが届き始めた頃、息を切らしまくった、祐子が到着。
「すみません。遅くなりました」
「おいおい、祐子。そんなに慌てなくても良かったのに…」
「だって。折角出来たお友達だよ。待たせちゃ失礼だよ」
すごくうれしそうだ。
「えーと。モンブランとブレンド…あと、チーズケーキとメロンのタルト」
「……マジかよ…」
「賭け不成立だな」
「…だな」
いきおい、男子二名で1卓、女子三名で1卓、そのテーブルを横に繋げる様な形である。
高志が、心持ち正太郎に顔を寄せて、小声で謂った。
「ところで、高野。お前ら付き合ってんの?」
「へっ、誰と?」
「誰って、山本さんだよ」
「そんな訳ないよ。唯の幼馴染だよ」
「そーかあ? とても、唯の幼馴染には見えねーけどなあ」
殊更、声を潜めて、正太郎が、
「それに、俺付き合っている人いるもん。清高じゃないけどな」
「マジか?」
「ああ。女子の比率が低い、うちの高校で彼女を作らない俺は、人生勝ち組だ。岡本は?」
「んなもん。居るわきゃねーだろ」
彼女がいる、と大見得を切った正太郎ではあったが、此処3ヶ月程、会話はおろかメールすらしていない事を思い出した。お互いに受験という大切な時期であり、仕方が無い事だと思っていたのだが、後から振り返って、『彼女がいる』という言葉に、しがみ付いて安心していただけなんだと思わざるを得なかった。
一方女子卓では、ひろみが、
「うちは、父親が、『お前は空手だとか合気道とかお転婆な事ばかりで、高校にあがったら華道とか茶道とか女の子らしい事をしなさい!』って、うるさくて…」
「合気道もやっていたの?」と、祐子。
「うん。空手の傍ら中学校3年間は、夜、近所の道場へ。あっ、でも、空手は小学校1年の時からだから、9年間」
「すごいね。蘭姉ちゃんみたいだ」
と、いずな。
「ところで、山本さん、高野君と同じ中学なんでしょ。どんな関係なの?」と、ひろみ。
「どうって、唯の幼馴染だよ。…すごく優しいよ」
「本当に唯の幼馴染なの?」
「うん」
「祐子は何で吹奏楽部を選んだの?」
「うーん。なんとなく…かな」
祐子は答え乍ら、右側にいる正太郎を優しげに見つめている。ひろみはいたずらっ子のような顔つきで、
「ふーん。なんとなくかあ。何となく分かっちゃった。いいなあ」
正面にいるいずなも、にやにやしている。
「えっ」
あわてて、顔を赤らめた祐子は、
「違うよ。そんなんじゃなくて…」
「いいって、いいって。気にしない、気にしない。命短し恋せよ乙女ってね」
磊落にひろみが遮れば、いずなも明るい声で、
「頑張ってね。ゆーちん。いずなも応援するから」
「もう」
祐子は照れ乍らも、心地良い恥ずかしさの中にいた。自分の好きな人の事で、友達から囃し立てられる事に細やかな幸せを感じていた。が、やはり少し恥ずかしかった。あわてて、話題を変えるべく、いずなに話しかけた。
「いずなちゃんはクラリネットだったよね?他の部は考えなかったの?」
「ううん。本当はアニメ研か漫研に入りたかったけど、ママが吹奏楽続けたらって。でも、いずな、友達居ないし…、如何しようかなって思ってたの」
「私も、お友達が居なくて…」
「でも、吹奏楽部にゆーちんが入るならいずなも入るよ。楽しそうだもん」
「うん。私も入部するよ」
「そーだよねー。高野君も入部するし」
と、ひろみ。
「もう」
ここで、高志がみんなに提案した。
「なあ。どうだろう。みんな入部するつもりなんだろう。良かったらアドレスと携帯番号を交換しないか?」
「うん」
「いいわね」
反対するものは誰もいなかった。メアド交換をした後、岡本が言った。
「あと、ラインは如何する?」
「いいぜ。高志。設定しろよ」
「名前は如何する?」
ひろみが、
「ボストンティーパーティー(ボストン茶箱事件)ってのは如何かしら?」
「ボストンティーパーティー?」
「そうよ。ボストン茶箱事件よ。知らないの?」
「いや、それは知っているけど。…なんで?」
「なんかカッコいいじゃないの」
「分かったよ。えーっと。ボストンティーパーティーっと。これでよし」
高志がライン設定を終えたところで、みんなに向かって斯う謂った。
「扨、これから如何するか。カラオケでも行くか? それとも、今日はお開きにするか?」
時間は十六時半を少し過ぎた処だった。正太郎が皆に呼び掛けた。
「良かったら、もう一ヶ所行かないか?」
「いいけど、何処?」
「赤灯台」
「赤灯台?」
「ああ。いいから、ついて来いよ」
一行が赤灯台に着いたのは、十七時頃だった。港内の暗緑色の水面を、傾きかかった春の優しい陽射しが、淡いオレンジ色に染めている。潮の独特の香りが、未だ馴染んでいない鼻腔を軽くくすぐった。眼前に横たわる海と対岸の倉庫群の向こうに、ドリームプラザの観覧車が見えた。カモメの鳴き声が遠ざかって行く。全員突堤からはしごを使ってさらに下の突堤に降りた。潮の香りが一段と強くなった。ひろみが、
「へー素敵な処じゃない。祐子知ってた?」
「ううん。初めて来た。正ちゃん良く知っていたね」
「中学ん時来た事あるからなあ。3年の夏。ほら、知ってるだろ祐子。燃料屋の江崎。夏休みの最後に、二人でここから飛び込んだら、通報されて、…補導された」
「…マジ?」と、高志。
「えっ、あれは正ちゃんだったの?全校集会で校長先生が『決して真似してはいけません』って。クラスで話題になったんだよ。一体、誰だろうって」
いずなが、目を輝かせ乍ら、
「何かすごいね。青春アニメのワンシーンみたい」
「でも、リアルでやると普通にお縄になるんだよ。いずなもやるなよ。俺も、まさか、捕まるとは思わなかったし」
「いや、思うだろ。フツー。停学、喰らったのか?」
「うんにゃ。両親呼び出しの厳重注意で済んだ」
「そもそも、何で飛び込んだんだよ。普通、受験生がそんな事しねーぞ。まさか、自殺未遂じゃねーだろーな?」
「いや、夏だし。何か暑いなーって」
「ばかだなー」
そこで言葉を切った高志が、しみじみと謂った、
「でも、本当にいい所だな。稲森さんも初めてか? 家が此方の方じゃないのか?」
ひろみがちょっと顔を赤らめ、ツンとし乍ら謂った。
「ひろみでいいわよ。ううん。初めてよ。家は富士見町よ。S銀行の本店の近く」
「いずなは梅陰寺の近所」
「二人とも割りと近いのな」
「高志は興津一中って謂ったっけ」
「ああ。興津駅のそばだ。ところで、山本さん、ケーキ好きだね?」
「うん。あっ、でも、今はちょっとダイエットしていて…」
「…うそだろ」
と、正太郎が呟く。
「本当だよ。…でも、あそこのケーキおいしいから」
ひろみが口を挟んだ。
「なによー。乙女にそんな事謂うもんじゃないわよ。ねえ、祐子」
「うん」
傾きかけていた春の陽がますます傾き、頓ては日本平の向こうに沈んだ。潮の香り漂う赤灯台周辺も、雀色に黄昏、急速に夕闇が迫って来た。
「扨と、そろそろ、帰るか?」
「そうね」
愛染町の交差点で高志が、
「それじゃあ。また明日な」
といい乍ら、興津方面に、ひとり、去って行った。そして、江尻踏切のところで、ひろみといずなが、
「ありがとう。明日からもよろしくね」
「バイバーイ。ゆーちん。正ちん」
頓て、渋川橋東の交差点。朝、祐子とであった場所だ。辺りはすっかり暗くなっていた。交差点の大きな水銀灯の下で、
「それじゃあ、気をつけてな」
「何言ってるの。正ちゃん。家まであと100メートルもないよ。でも、ありがとね」
そこで、祐子は一息つくと躊躇い乍ら続けた。
「あのね、正ちゃん。今日はありがとう。本当に楽しかった。私もブラスやってみるよ。これからもよろしくね」
「うん。祐子と一緒だと心強いよ。こちらこそよろしくな」
正太郎は渋川橋のほうに向かって自転車をこぎだす祐子の後姿を、穏やかな眼差しで見送っていた。祐子の家は渋川橋を渡らずに、橋の袂を左折してすぐだ。正太郎は祐子の後姿が見え無く成る迄見送り、家路についた。
自宅についた祐子は、恐らくはそれまでの人生の中で最高の日だった今日という一日を振り返っていた。正太郎と同じクラスに成れただけでも出来過ぎた僥倖だと謂うのに、同じクラブに入部出来て、素敵な友達とも巡り会え、一緒に喫茶店に行ったりお喋りしたり、そして、憧れの正太郎とメアドと携帯番号の交換とラインまで出来たのだ。気がつくと、少し涙が出てきた。祐子が、この涙の正体がうれし涙だけではなかった事に気がついたのは、しばらく後のことだった。
とまれ、祐子はこの気持ちを正太郎に伝えたかった。記録に留めて置きたかった。だから、ちょっとくどいかも、とは思ったけれども、正太郎にメールを打った。
『今日は本当にありがとうございました。すごく楽しかったよ。明日からもよろしくね』
文面を読み返して、最後別れ際に交わした挨拶と、全く同じ内容である事がちょっとおかしかった。
「まあ、いいか」
祐子は送信した。時刻は二十二時を回っていた。すぐに、祐子の携帯の着信音が鳴った。
「えっ」
携帯を見ると、正太郎から返信が来ていた。
『俺の方こそ、今日はとても楽しかった。ありがとう。祐子ちゃんと同じクラブに入れて良かった。明日からもよろしくね。おやすみなさい』
携帯画面を見つめる祐子の瞳から、また涙が溢れた。とめどなく涙が溢れていった。
「正ちゃん。ありがとう…。大…好き…」
祐子は泣き乍ら、
『おやすみなさい。正ちゃん』
と、打ち込むと送信した。
本当に、最高の一日だった。
明日からもこんな日が続くといいね。祐子ちゃん。
新たなメンバーを加えたボストンティーパーティーの面々。そして、お互いに意識し始めた、正太郎と祐子はひょんな事から、春爛漫の休日に散歩に行く事になるのだが…。次回、『第2話 桜の花の満開の下で』。