表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/54

第1話 ボーイ・ミーツ・ガール

 静岡県静岡市清水区。(かつ)ては、造船とサッカーの街として、名を()せた()(まち)も、平成の大合併の荒波(あらなみ)には(あらが)えず、(となり)の県都静岡市と合併(がっぺい)し、清水市としての約80年に(わた)る市制に終止符(しゅうしふ)を打ち、静岡市清水区として、新たに静岡市の一行政区として歩み始めている。(かつ)ての市の代表駅、JR清水駅の東側、(すなわ)ち、海側に降り立つと、すぐに広い港湾(こうわん)道路に行き当たる。大型コンテナを積載(せきさい)したトラックやタンクローリーが頻繁(ひんぱん)()()する港湾(こうわん)道路であり、とても駅前の道路とは()(がた)い道路ではあるが、元々は清水駅に東口など無かった(わけ)でもあるから、何とも(いた)(かた)ない無い。駅東口側愛染町(あいぞめちょう)交差点を横断し、左手に特撮映画にでも出て来る様な石油タンクやコンビナートを見(なが)ら直進すると、(やが)て、江尻船溜(ふなだ)まりを東から(おお)う様に右手、(すなわ)ち、南側に向かって突堤(とってい)()びている。大型トラックが(しき)りに出入りする倉庫群を左手に見(なが)ら、南へ進むと小さな無人灯台に行き当たる。魚特有の生臭(なまぐさ)(しお)(にお)いと、重油(じゅうゆ)()せ返る様な臭気(しゅうき)(ただよ)う一帯である。(あま)心地良(ここちよ)いとは()(がた)臭気(しゅうき)ではあったが、()の小さな港町に育った者にとっては、何処(どこ)か、ノスタルジックで郷愁(きょうしゅう)(さそ)(かお)りでもあった。堤防(ていぼう)(もた)()かって、ニコニコと微笑(ほほえ)んでいた、一人のぽっちゃりとした若い女性が、卒爾(そつじ)として(つぶや)く。


此処(ここ)だけは、(まえ)と変わらないね』。


 ()れに対し、青年は優しく『ああ』と、(うなづ)いた。対岸の日の出埠頭(ふとう)側では、まるで現実味(リアリティ)の無い、ピカピカのプラモデルの様な色合いのタワークレーンが、茶色いコンテナを、(いささ)無造作(むぞうさ)鷲掴(わしづか)みにしていた。4月になったばかりの江尻(えじり)船溜(ふなだ)まりは、()だ、少し肌寒(はださむ)い。他にも十数人の若者(わかもの)達が突堤(とってい)の下に(たむろ)している。(ひど)く赤()びた舫杭(もやいぐい)に腰掛けている者も居る。一部、礼服(れいふく)などを着込(きこ)んでいる(ところ)を見ると、結婚式か何かの帰りらしい。だが。()れにしても、実に奇妙な話だ。此処(ここ)は、海に突き出した袋小路(ふくろこうじ)地形であり、何かの帰りについでに、立寄(たちよ)る様な(ところ)では無い。(しか)し、彼らは和気藹々(わきあいあい)と実に楽しそうに、思い出話と雑談に(きょう)じている。(しか)し、()陽気(ようき)(しか)()し、結婚式だとしたら、人生の門出(かどで)(いわ)うには、(あま)りにも(うす)(ざむ)い陽気である。なんとも生憎(あいにく)曇天模様(どんてんもよう)日和(ひより)となってしまった(わけ)だが、雲間(くもま)から()(かす)かな薄日(うすび)と、湾外(わんがい)から渡って来る(わず)かばかりの日和南風(ひよりまじ)が、(かろ)うじて今の季節感を物語(ものがた)っていた。にも(かかわ)らず、彼等自身、天候(てんこう)の事など(まった)()(かい)しておらず、楽しそうにしていたし、そして何よりも、彼等全員が、躍動的(やくどうてき)で生命力に()(あふ)れており、そう、(たと)えるなら、(さなが)ら、希望(きぼう)に満ちた(まばゆ)いばかりの光芒(こうぼう)を放っている、とでも()おうか、(まさ)青春(せいしゅん)()只中(ただなか)()った情景(じょうけい)なのである。此処(ここ)で、僭越(せんえつ)(なが)ら、様式美(おやくそく)(のっと)って私見(しけん)()べるのであれば、青春(せいしゅん)()う物は、本当に素晴(すば)らしい。(まさ)に、生きる意義(レゾンデートル)(あたい)する物だ。(いま)だ、春遠い、(うす)(ざむ)江尻(えじり)船溜(ふなだ)まりを(おお)い込む様に、倉庫群に囲まれた突堤(とってい)が、ひどく()いだ海上に向かって突き出している。()()いだ海上を、ポンポン船やら(はしけ)やらが、(あわ)ただしく行き()っている。往来(おうらい)の多い海上に向かって突き出した突堤(とってい)先端(せんたん)にある赤い灯台。()の灯台の正式名称を何と()うのかは、私は知らない。(しか)し、私は()の灯台の事を『赤燈台』と呼んでいる。まあ、(なん)と呼ぼうが、()の際、(あま)り問題では無いのだが、私が今から(しる)して行くお話の本題は、()る高校生達の()()ぐな青春(アドレセンス)物語(ストーリー)なのである。


 清水区内の中心部から、やや東側の秋吉町と()閑静(かんせい)な住宅街の()只中(ただなか)()の高校はあった。静岡県立清水高校。高野正太郎が、()の県下有数の進学校に入学したのは、とても春と()うにはあまりにも(うす)(ざむ)い、桜の花が咲ききらぬ平成××年の四月の事だった。高野正太郎は高校受験に対しては、所謂(いわゆる)、受験勉強と()われるものを一切(いっさい)しない、(まった)くの自然体(しぜんたい)での受験であった。()の様な書き方をすると、如何(いか)にも(はなは)不遜(ふそん)であり、()の受験生達からの顰蹙(ひんしゅく)を買うやも知れぬが、(あなが)ち、間違(まちが)った描写(びょうしゃ)でもなく、事実なのだから仕方(しかた)が無い。毎年、正太郎の中学校から清水高校へは、上位40名程度(ていど)が進学していた。中学全校250人の約一割強から二割弱、(すなわ)ち上位30人程度が合格安全圏(あんぜんけん)内であったが、正太郎は常に学年順位20番以内であり、(ゆう)安全圏(あんぜんけん)内であった。()れは、彼の随縁放曠(ずいえんほうこう)自由気儘(じゆうきまま)な生活態度や、(むら)っけのある、教科への偏向(へんこう)した嗜好(しこう)から考えれば、信じられぬ事でもあった。(もっと)も、彼は優等生という(わけ)では無く、素行不良(そこうふりょう)(まで)は行かぬまでも、割と、行動が剽軽(ひょうきん)かつ、楽天的な(ところ)が有り、一言(ひとこと)()えば、軽率(けいそつ)なお調子(ちょうし)者であった。(さら)に、主要五教科以外は、音楽を除き、提出物もろくすっぽ出さない始末(しまつ)であり、内申点(ないしんてん)も、()る意味、壊滅的であった。そんな次第(しだい)であるから、彼の内申点(ないしんてん)は合格安全圏(あんぜんけん)から大幅に(はず)れていたし、先生のみこも決してよろしくは無かった。とは()え、五教科テストにおいては、常時250点中210点程度マークしていた(わけ)であるから、担任からは、

「普段どおりの出来(でき)なら、問題無いだろ」

 と、受験に関してはゴーサイン(OK)が出ていた。(もっと)も、担任は(くぎ)()す事も忘れてはいなかった。

「だが、内申点(ないしんてん)については、マイナス要素しか無いぞ。くれぐれも、本番ではミスるなよ」

 (しか)し、担任の老婆心(ろうばしん)(なが)らの心配は、(さいわ)いにも杞憂(きゆう)に終わった。()くして、高野正太郎は、静岡県立清水高校に入学する(はこ)びと相成(あいな)ったのであった。


 高野正太郎は、確固(かっこ)たる目的を持って、()の学校へ入学した(わけ)では無かった。確かに、人より多少(たしょう)は勉強が出来(でき)たかも知れないが、運動は人並み。面相(めんそう)も人並み。身長168㎝。体重58㎏。特徴といえば、いつもニコニコと微笑(ほほえみ)を絶やさず、くりくりと良く動く眼が人目を引いた。彼は、剽軽者(ひょうきんもの)(れい)()れず、気軽で飄々(ひょうひょう)とした(ところ)があり、軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)をこよなく愛し、いつも、何処(どこ)か人を()った様な態度(たいど)(せっ)していたが、物腰(ものごし)丁寧(ていねい)で柔らかく、()ってしまえば、他人を()きつける様な、(ある)いは、他人に安心感(やすらぎ)を与える様な何かを、持ち合わせていた。(しか)し、一方で、時折(ときおり)(かす)かに見せる(かげ)りと()うか、(ほの)かな暗い影の様な(うれ)いは、彼の内面の繊細(せんさい)さを、如実(にょじつ)に物語っていた。(しか)も、彼には年齢の割に、妙に達観(たっかん)したと()うか、超越(ちょうえつ)した(ところ)があった。()れも、彼自身が経験した、死に(まつ)わる体験だとか、持病(じびょう)のせいもあったのであろうが、世の中を比較的冷笑的(シニカル)(とら)え、友人達にさえ、何処(どこ)褪めた(ニヒルに)、そして、何処(どこ)皮肉を以って(アイロニカルに)接していた。(しか)し、彼自身が、(みずか)らを、基本は、臆病(おくびょう)小心(しょうしん)な人間である事は、良く自覚(じかく)してもいた。飄々(ひょうひょう)として、人を()った様な態度(たいど)も、()内面(ないめん)(おお)い隠さんが(ため)の物であり、()(あた)りは、意外(いがい)にも(ぶん)(わきま)えていたのである。(さら)に、付け加えるのであれば、(ひど)く純情で晩熟(おくて)一面(いちめん)があり、特に、異性(おんなのこ)に対しては、強固な(まで)障壁(A・Tフィールド)(はな)っていた。(ゆえ)に、女性に対しては、優しく丁寧(ていねい)ではあったものの、同時に、(ひど)く、ぶっきら棒で不愛想(ぶあいそう)(ところ)もあった。まあ、一言で彼を表現すれば、中二病気質(かたぎ)、と()った(ところ)であろうか。彼が進学先として、()の学校を選んだのも、自分の学力と照らした結果であり、何よりも最大の理由は、自宅の近所であったからに過ぎない。(しか)し、唯一(ゆいいつ)高校に入ってやりたいものとして、クラブ活動があった。彼は中学時代から続けて来た吹奏楽部(ブラバン)へ入部するつもりだった。一級上の先輩から、

「清水高校の吹奏楽部(ブラバン)面白(おもしろ)いぜ。みんな命を掛けて遊んでるぜ」

 果たして、命を掛けるというのが如何(どう)()う事なのか、若干(じゃっかん)意味不明(エニグマ)ではあったが、正太郎にとって、とても、(まぶ)しく思えたのは確かだった。合格後の通知で、正太郎の高校でのクラスは1年4組となっていた。


 山本祐子も、正太郎と同じ江尻(えじり)中学校の出身であった。祐子は、中学時代、文芸部(ぶんげいぶ)()う部に所属していたが、文芸部(ぶんげいぶ)()部活(クラブ)相応(ふさわ)し過ぎる程、内向的(ないこうてき)な少女であった。丸顔で色白のショートカット、目はややたれ目で意外とパッチリしているが、笑うと糸目(いとめ)になる。そして、特徴的(とくちょうてき)団子鼻(だんごばな)所謂(いわゆる)、美人顔とはかけ離れた面相(めんそう)なのであったが、()(また)、いつも笑顔を()やさない愛嬌(あいきょう)のある顔立ちであった。身長も158㎝、体型もぽっちゃり型、と()うよりおデブの範疇(カテゴリー)であったが、()の、のほほんとした顔立ちは、他人に如何(いか)にも人畜無害(じんちくむがい)であるといった、安心感を与えており、ぽちゃかわいいといった風の、何処(どこ)にでもいる様な内気な女の子であった。ただ、一点(いってん)、祐子の為に(べん)ずれば、かなりの規模(スケール)巨乳(きょにゅう)の持ち主ではあった。が、(しか)し、本人にしてみれば、級友(クラスメート)の好奇の目を引くだけに過ぎない物であり、肩も()るし、それでいて、如何(いかん)ともし(がた)い、所謂(いわゆる)、悩みの種でしかなかった。自然、交友範囲は限られ、クラス数人と自身が部長を務める文芸部(ぶんげいぶ)の部員位であった。(もっと)も、祐子は内向的(ないこうてき)である事を(のぞ)けば、特段(とくだん)、人間嫌いと()(わけ)では無かったし、諧謔(ユーモア)を割と好み、(むし)ろ、剽軽(ひょうきん)ですらあった。趣味はアニメ鑑賞と読書であり、読書は()(かく)、アニメに関しては趣味人(オタク)()って()いレベルであり、夏冬のコミケ(聖戦)には必ず参戦していた。が、()れも、祐子の障壁(A・Tフィールド)をかなり強固なものにしていたのも事実である。彼女が文芸部(ぶんげいぶ)に入部したのは、不幸な行き違いに(たん)を発している。彼女が、(あわ)い恋心を(いだ)いた少年が、無類(ぶるい)の読書好きであり、事前(じぜん)に彼女が、数少ない友人から入手した情報によれば、『()の彼は文芸部(ぶんげいぶ)に入部する』と()う、(ガセ)情報に(おど)らされた結果である。読者の想像のとおり、彼は別の部に入部してしまい、(あわ)てた彼女は、文芸部(ぶんげいぶ)を退部して、彼を追って別の部に入部しようとするも、時、(すで)に遅し。彼女は文芸部(ぶんげいぶ)次期部長である副部長に(まつ)り上げられてしまい、退部する機会(チャンス)(いっ)してしまっていた。()の、オーヘンリーチックな(不幸な)出来事(行き違い)は、間違い無く彼女の中学校生活に暗い影を落とし、貴重(きちょう)な三年間の青春時代を、暗澹(あんたん)たる時間にしてしまった事は、想像に(かた)く無かったのである。


 祐子も正太郎と同様、と()うよりも、正太郎以上に勉強は良く出来(でき)た。中学校時代の学年順位は常に一桁(ひとけた)であり、何度も学年首席(トップ)をマークしていた。のみならず、品行方正(ひんこうほうせい)な行動と性格は、正太郎とは(こと)なり、先生方の受けもよく、内申(ないしん)点も苦手な体育を(のぞ)き満点であった。当然(とうぜん)、志望高校も清水高校と成った。先生方からは、普通科ではなく特進科を()す声もあったのだが、しかし祐子自身が、

「自信がありません」

 と、(かたく)なに、固辞(こじ)していた。()れには、祐子にしてみれば、(もっと)もな事で、相応(そうおう)な理由が有ったと()えるかも知れない。()れは、無類(ぶるい)な読書好きである高野正太郎が、普通科を志望していたからである。正太郎と祐子は同じ町内会。(すなわ)ち、近所であり、所謂(いわゆる)筒井筒(おさななじみ)()える間柄(あいだがら)なのである。幼稚園に上がる前からの知り合いであったが、(しか)し、同じクラスになったのは、幼稚園と小学校の1、2年そして5,6年の時のみであり、他愛(たわい)も無い話ではあるが、祐子が小学1年生の頃、級友(クラスメート)(いじ)められていた(ところ)を、正太郎に助けられた事があった。果然(かぜん)()うべきか、見事なまでの刷り込み(インプリンティング)()うべきか、はたまた、()(ばし)効果と()うべきか、以来、祐子にとって、正太郎は特別な存在となってしまった。(やが)て、思春期(ししゅんき)(むか)えた祐子にとって、正太郎と同じ(クラス)になる事は、祐子の人生に()いて、かなり重要な要素(ファクター)であった事は確かであった。祐子は中学入学時のクラス編成について、(いの)る様な想いで、渇望(かつぼう)して()まなかったに相違(そうい)()い。(しか)し、人生は(まま)成らない事の連続である。全8クラスの中学校で、(はた)せるかな、正太郎は1組、祐子は8組と、見事な(まで)に、(はし)から(はし)へと分断されてしまった。祐子の心情は()して知る(べし)であろう。祐子たち中学校は、3年間クラス替えが無い。クラスが異なり、クラブが異なれば、邂逅(かいこう)の確率は宝くじレベルまで押し下げられ、()してや、一方に(まった)く、()の様な意識が無く、他方はゼルエル並の拒絶型、ATフィールド全開の状態とあっては相思相愛(両思い)となる可能性は(ほと)んど0に収束(しゅうそく)するも()む無し、の状況下(じょうきょうか)にあった。


 正太郎にしてみれば、祐子は(ただ)幼馴染(おさななじみ)であり、()れ以上ではなかった。従って、格別、意識することは何も無かったし、よもや、彼が何気なく吹奏楽部(ブラバン)に入部することで、祐子を落胆(らくたん)せしむる事に成ろうとは、露程(つゆほど)も思わ無かったであろうし、さらに、思春期の例に()れず、中学3年の秋に同じ吹奏楽部(ブラバン)の鈴木千春という子に告白され交際するようになっていた。と()う事が、祐子を途轍(とてつ)も無く悲しませていると()う事実も、知る(よし)(など)無かったのであった。(もっと)も、千春は近隣の女子高への進学が決っていた。一方(いっぽう)、祐子にしてみれば、正太郎と千春の(うわさ)は耳にしていたし、これもまた思春期の例に()れず、大いに(なみだ)した事であろうが、()れも、ありふれた片思いの末路(まつろ)として受け入れざるを得なかったのだろう。(しか)し、祐子にとって、正太郎は、何時(いつ)(まで)()っても『正ちゃん』の(まま)であり、永遠の(あこが)れの存在であった。皮肉(ひにく)にも、と()うべきか、果然(かぜん)、祐子の高校に()けるクラスも1年4組であった。今更(いまさら)(なが)らではあるが、祐子は(はか)らずも7分の1の当たり(くじ)を引き当てたのであった。


 入学式の日は春と()うのが烏滸(おこ)がましい程、肌寒(はださむい)い日だった。正太郎は玄関で慣れない革靴(かわぐつ)()(なが)ら、多少(たしょう)怒った様に()った。

「母さん。先に行っているから」

「ごめんね。入学式には間に合うから…。車に気をつけてね」

「ったく。んじゃ行ってるよ」

  正太郎は、多少(たしょう)、荒々しく戸を閉めると、自転車の荷台に(かばん)(くく)り付け、ペダルを踏み出した。

((しか)し、()たして()の距離で、自転車通学許可が下りるだろうか?)

 一抹(いちまつ)の不安があった。だって、高校より徒歩通学であった中学校までの方が余程(よほど)遠いのだ…。そんな事を考え(なが)ら、高校生活初日の第一歩を踏み出した。いや、()ぎ出したのであった。花冷(はなび)えのする、春先の気まぐれな陽気の中、白い蝶々(チョウチョ)を乗せた涅槃西風(ねはんにし)が渡って行く。雪を(いただ)いた霊峰(れいほう)富士が、眼前に大きく(そび)え立つ。正太郎は、近所の資材置き場の空き地に目をやった。アブラナの花が満開である。正太郎は卒爾(そつじ)として、想う。

(春なんだなあ)

 確かに、そうである。季節的にも勿論(もちろん)なのであるが、彼自身、志望校に合格し、人生の春に足を一歩踏みだした(ところ)なのである。()の、胸躍(むねおど)茫洋(ぼうよう)たる未来への希望と安心感(やすらぎ)が彼を詩人にした。

菜の花(アブラナ)って不思議な花だな)

 菜の花(アブラナ)は、一夜にして、風景を一変させる魔法の花である。昨日(きのう)までの何の変哲(へんてつ)も無い冬景色を、()る日、突然に、黄色と緑の春の(よそお)いに変えてしまう。空き地も、河川敷(かせんじき)も、畑も、枯れ草色から、最近、少し緑が増えたかなと思うのも、(つか)()、一夜にして、黄色い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたが(ごと)く、一変させてしまう。正太郎は、(しば)しの間、春の幻想の余韻(よいん)(ひた)っていたが、大きく息を()くと、前方に目をやった。


 正太郎は、(やが)て、前方の交差点で、(つつ)ましく信号待ちをしている、ぽっちゃりした女学生を見つけた。濃紺のブレザー、濃紺のベスト、濃紺のスカート、清水高校の制服だ。(くだん)の山本祐子だった。正太郎は、何故(なぜ)か桜の花弁(はなびら)の様な(はな)やかな(たたず)まいを連想(れんそう)して、思わずドキリとした。

何故(なぜ)?)

 ()れは、不思議(ふしぎ)とも()える瞬間(しゅんかん)であった。祐子は極めて地味(じみ)な印象である。何処(どこ)にでもいる様な内気で、やや、肥満気味(おデブ)の女の子である。(しか)し、正太郎の、春に感化(かんか)された(はな)やかな気分に加え、正太郎同様、人生の春を()み出し始めた彼女の明るい笑顔が、妙に(まぶ)しく見えたのかもしれない。彼は(おもむろ)に祐子に近づくと、不意に声を掛けた。

「おはよう。祐子…」

「あっ。おはよう。正ちゃん」

 祐子の(はじ)ける様な笑顔が、とても印象的だった。

(やっぱり、桜だ)

 正太郎は素直(すなお)に思った。祐子は、ニコニコし(なが)ら、明るく続けた。

「また、同じ学校だね。よろしくね」

 と、()(なが)ら、(まなじり)を決した様に、

「正ちゃん。…何組だった?」

「4組。祐子は?」

 祐子は飛びきりの笑顔を輝かせて、

「私も4組」

「そうか。また、同じクラスなんだ。小学校以来かな。此方(こちら)こそ、よろしくな」

「うん」

 祐子にしてみれば、小学校卒業以来、待ち望んでいた運命的邂逅(かいこう)でもあった。実の(ところ)、祐子は正太郎に(クラス)を確認はして見たものの、文芸部(ぶんげいぶ)時代の友人から、正太郎の(クラス)の情報は、(あらかじ)め、入手済みであった。(ただ)単に、会話の切っ掛けが()しかっただけに過ぎない。

「それじゃあ。(オレ)自転車(ちゃりんこ)だから」

 正太郎は、異性と共に(しゃべ)(なが)ら登校する事に、多少の、後ろめたさと、照れ臭さや恥ずかしさを覚えた様だった。まだ、何か(はな)したそうな祐子を尻目(しりめ)に、信号が青になったのを(しお)に、嬉嬉(いそいそ)と、ペダルを踏み出した。

(女の子と一緒にいる事は恥ずかしい。誰かに見られたら如何(どう)しよう?)

 そんな心理が正太郎を急がせたのであろう。(たし)かに、正太郎には、()の様な意識が残っていた。思春期(ししゅんき)の中にあって、本物の恋愛経験を知らない男の子特有の物だったのかも知れない。それでも、自転車をこぎ(なが)ら、『ちょっと、愛想(あいそう)が無さ過ぎたかなあ』と、反省したのも事実だった。現に、100メートル程進んだところで、余程(よほど)、戻って一緒に登校しようかとも考えたのだが、結局、恥ずかしさに支配される彼の少年気質(かたぎ)(まさ)った様だった。正太郎少年からは、祐子の表情を(うかが)い知る事は出来(でき)なかったし、また、心情を(おもんぱか)る事も出来(でき)なかった。()る意味、先程のように、ちょっと反省しただけでも、出来(でき)過ぎであったと()えるだろう。まあ、後から振り返れば、一種の『好き避け』であったのかもしれない。


 入学証書授与式(じゅよしき)所謂(いわゆる)、入学式であるが、()の清水高校の場合、生徒1名1名が、演壇(えんだん)の校長先生から、入学証書を手渡される。総勢(そうぜい)、367名。これだけでも、約半日の行程である。入学式の無駄(むだ)に長い(すべ)ての式次第(しきしだい)が終了したのは、正午少し前の事だった。各クラス(ごと)の教室に移動し、担任からの説明の予定だった。正太郎は、教室内を見廻(みまわ)した。自分の席は、左から3列目、前から2番目である。成程(なるほど)、女子の人数が少なめである。クラスの総勢が45人、そのうち女生徒が20人といない。彼は、卒爾(そつじ)として、自分が県内有数の進学校に進学した事を(さと)ったのだった。

(みんな、勉強が出来(でき)そうな(つら)してるなあ)

 彼は素直(すなお)にそう思った。正太郎は(あた)りを見廻(みまわ)(なが)ら、右列、一番廊下(ろうか)側の後ろから3番目、祐子がニコニコし(なが)ら、此方(こちら)を見ていることに気が付いて、(ふたた)び、ドキリとした。彼は(あわ)てて目を(そら)らせると、ふと、()う思った。

(祐子ってこんなに可愛(かわい)かったけか?)

 そして、正直(しょうじき)、少しホッとしたのも事実だった。今朝(けさ)の自分の無愛想(ぶあいそう)な態度が、彼女を傷つけてない事に安心したのだ。(もっと)も、『傷つけていない』と()うのは、彼の(ひと)合点(がてん)に過ぎぬだろう。事実、祐子は少しだけガッカリしていた。恋する少女の常として、好きな人とは、たとえ片思いであっても一分一秒でも永く一緒に居たかったし、何よりも、祐子には胸の奥に()めたある計画があった。(しか)し、一方で片思い少女に特有な、類稀(たぐいまれ)なる忍耐力も持ち合わせていた。彼女は愛嬌(あいきょう)のみが自分に許された武器である、と()う自覚を(したた)かに持っていたし、何よりも、通学途上(とじょう)で話し掛けられるという、彼女にしてみれば過分(かぶん)僥倖(ぎょうこう)(すこぶ)る満足していた。()れらの(すべ)てが、咄嗟(とっさ)に彼女を笑顔にさせたのであろう。

「えーっと。高野君だったかな? かわいい子でも見つけたのかな?」

 担任の声で、正太郎は(われ)に帰った。いつの間にか、担任が来て、HR(ホームルーム)が始まっていたらしい。正太郎の顔から火が出た。

「ハハハ…」

 クラス全員の笑い声。

「もう一度()うぞ。今週中に調査票を記入の上提出するように。また、部活動入部希望届けを今月中に提出しろよ。じゃあ、本日は解散」


 散会(さんかい)するや(いな)や、祐子が正太郎の元にやって来た。

「ごめんね。私も先生が来たことに気がつかなくて…」

「いや。悪いのは(おれ)だし…」

「ところで、正ちゃん。これから如何(どう)するの? 帰る?」

「いや。部活の見学に行こうと思って…」

「部活は決めたの?」

「うん」

何処(どこ)?」

吹奏楽部(ブラバン)!」

 其処(そこ)で、言葉を切った正太郎は、

「祐子は決めた?」

「ううん。()だ。…実は、正ちゃんに部活のこと相談しようと思って…。私、友達…あまりいないから…」

「祐子…ちゃん。中学の時…確か、文芸部(ぶんげいぶ)だったよな。文芸部(ぶんげいぶ)にはしないの? (あと)、アニメ研とか、漫研(まんけん)とかもあるって聞いたけど…」

 正太郎は、女性慣れしていない(かな)しさ(ゆえ)か、()幼馴染(おさななじみ)の事を何と呼ぶべきか、少し、戸惑(とまど)っていた。此処(ここ)に来て(にわ)かに、祐子と呼び捨てにする事に気後(きおく)れしたのだろう。不器用(なが)らも、『ちゃん付け』にした。(しか)し、恥ずかしい事には、(まった)く変わりは無く、結果、不必要に小声になってしまった。差し当たって、祐子は悲しんだかもしれないが、此処(ここ)素直(すなお)に『山本さん』とでもしておけば、無難(ぶなん)であったのだろうが、咄嗟(とっさ)にそんな知恵は出なかった。と()うより、抑々(そもそも)、彼女の苗字(みょうじ)を、()のどぎまぎした心情の中で思い出せずにいた。仮に思い出したとしても、彼にして見れば、『祐子』と『山本さん』では、違和感があるのは明らかに後者であり、(さら)には、祐子も正太郎の事を一貫(いっかん)して『正ちゃん』と呼んでいる事が、なお、彼を混乱させていた。本来であれば『山本さん』が正解であるにもかかわらず、幼馴染(おさななじみ)との会話という特殊性(ゆえ)に、正答を選択し得ない、一種、不可思議(ふかしぎ)的状況下に置かれてしまっていた。()の流れが、彼の今後を決定付けたのかもしれない。(さて)閑話休題(かんわきゅうだい)。祐子は(おもむろ)(しゃべ)りだした。

「うん。アニメ研とかも考えたんだけど…。音楽系もやってみたくて…。ちょっと見てみようかなとも思ってるの…」

「じゃあ。(おれ)、今から、吹奏楽部(ブラバン)を見に行くんだけど…。祐子…ちゃんも一緒に行く?」

 正太郎の()(かく)しの一言(ひとこと)が、実は、祐子が、此処(ここ)数週間にわたって待ち望んでいた一言(ひとこと)であった。

「うん!」

 祐子の丸っこい顔は、(はじ)ける様な笑顔になった。正太郎との関係の深耕(しんこう)()難題(なんだい)苦慮(くりょ)し、中学校時代から呻吟(しんぎん)していた祐子にとって、正太郎の一言は、(まさ)に、渡りに船であったのである。


 以上のやり取りを見て、読者の(ほと)んどの方は、祐子の性格描写(びょうしゃ)無理(むり)があると思われたに相違(そうい)無い。()のやりとり、如何(どう)見ても積極的であったし、とても『内向的(ないこうてき)』などとは()()ないのではあるまいか? そんな事は無い。()の点に関しては、滑稽(こっけい)ではあるものの、馬鹿馬鹿(バカバカ)しくも涙ぐましい努力が背景(バックボーン)にあるのだ。祐子は、正太郎と以上のやり取りとなる事を想定して、(いな)、以上の様なやり取りに(みちび)くべく、()の二週間、いや、合格が決まった直後から、()の状況を、家で何度も模擬演習(シミュレーション)していた。祐子にしてみれば、()る意味、不合格が考えられない高校受験以上に、此方(こちら)の方が重要かつ難易度(ハードル)が高かったに相違ない。内向的(ないこうてき)な少女が、()る日突然に、好きな人を前にして饒舌(じょうぜつ)に成れる物では無い。入学後、確実に迫られるであろう部活の選択。勿論(もちろん)、祐子が何の調査も無く、吹奏楽部(ブラバン)を選択する事も出来(でき)(わけ)だが、(たと)えば()の時、正太郎が文芸部(ぶんげいぶ)を選択していたら如何(どう)であろう。それこそ、オーヘンリーの短編集に有りそうな話になってしまうではないか。我々には笑って済む話ではあるが、祐子にとっては、とても、笑って済まされる話では無い。祐子は、中学校時代の悲劇(トラゴイディア)を繰り返さない(ため)にも、入学後の早い段階で正太郎の(部活の)進路を探査(インヴェスティゲイト)する必要があったのだ。少なくとも、正太郎が何処(どこ)の部活に入るのかを調査し、吹奏楽部(ブラバン)なのか、本当に確実に入るのかを、入念に甄別(けんべつ)する必要があったのだ。間違っても、正太郎が何処(どこ)に入部するか見定(みさだ)める(まで)は、絶対に自分の去就(きょしゅう)を明らかにしてはなら無い。そして、可能であれば、正太郎をして、『一緒(いっしょ)に入ろうよ!』と、()わしむる事が出来(でき)ればベストであったのだ。本来(ほんらい)であれば、朝、登校時のあの瞬間は、祐子にとって、邪魔者もいない理想的な瞬間であったに違い無い。が、残念(なが)ら、無情にも、()機会(チャンス)()られなかった。(しか)し、祐子は(くじ)け無かった。幸運にも、入学式当日に、()機会(チャンス)に恵まれた。そして、練習の成果を遺憾(いかん)無く、発揮(はっき)出来(でき)たのであった。(ただ)、祐子の為に一つ(べん)ずれば、彼女は腹黒い方でも、権謀術数(けんぼうじゅつすう)を好む方でもない。元来(がんらい)無邪気(むじゃき)な方である。(しか)し、()の時ばかりは、自身の思い(えが)いた構想(プロット)に、彼女の得意な数学的正確さで論理(ロジック)を組み立て、正太郎をして、『一緒(いっしょ)に見学に行こう』と、()わしめたのは、見事(みごと)というより(ほか)、無かった。(まさ)に、一途(いちず)乙女(おとめ)の一念と()えよう。一応(いちおう)、正太郎には付き合っている彼女がいる(はず)だったけれどもネ。


 吹奏楽部の練習場所は、先ほど入学式を行った講堂だった。良く見ると、壁の塗装(とそう)があちこち()げかかっており、かなり老朽化(ろうきゅうか)が進んだ建物だった。沢山(たくさん)椅子(いす)は、()だ、今後の行事で使用するのであろう。整然と並べられた(まま)であり、吹奏楽部の部員達が、思い思いの場所に陣取って練習をしていた。正太郎は、落ち着かない素振(そぶり)で、周囲を見渡していた。椅子(いす)が並べてあるせいか、(ひど)く狭く感じた。舞台(ぶたい)の上には、演壇(えんだん)が残された(まま)になっていたが、全体練習の為であろう。部員達が片付け、椅子(いす)を並べ始めていた。後方の袖には、『吹奏楽部』の表示がある倉庫のような部屋がある。部員達が頻繁(ひんぱん)に出入りしている処を見ると、部室か楽器庫として、使用しているらしい。彼は、(しき)りに祐子の方に視線を送った。彼は祐子の事を気に掛けていた。何故(なぜ)なら、経緯(いきさつ)如何(どう)あれ、見学に誘ったのは彼である。詰まらなそうにしていたら、申し訳ないという思いがあった。(しか)し、祐子は興味深げに周囲を見ていた。

「ねえ、正ちゃん。()の部、『カーボーイビバップ』のオープニングみたいな曲やるのかなあ?」

「『カーボーイビバップ』のオープニング? ああ『タンク』だっけ? でも、あれ、思いっきりジャズテイストだぞ。ちょっと路線が違うような気が…」

「じゃあ、『ジャストビコーズ』の作中で使われたブラス曲。ちょっとかっこよかったよね」

「作中曲?ああ『インユニゾン』か、あれならあるかもな。確かにかっこよかった。爽快感が半端ないよね…」

「映画版エヴァの『翼をください』も良かったよね」

「『僕はどうなっても()い。世界がどうなっても()い。でも綾波は…。綾波だけは』の、時に流れるあれだよね。あれも良かった。でも、ブラスでアレンジするなら、『けいおん』の翼をくださいの方が()いかな」

 祐子が顔をニコニコさせて()った。

「正ちゃんって、随分(ずいぶん)アニメに詳しいよね。意外だな」

「えっ」

(しまったあ。今まで誰にも知られていない俺のアニメ好きを、何故(なぜ)、祐子が知っている? 何時(いつ)、ヲタバレした?)

「いや、別に…。普通だと思うぞ」

「そお? でも、正ちゃん。私が()った作品。全部分かってたよ。…モノマネ(まで)してたし…」

「…。何でそう思ったの?」

先刻(さっき)、会話の中で真っ先(まっさき)にアニメ研が出たでしょ。()しや、って思っただけ」

「おまえはコナン君かあっ!」


 ()の時、祐子の後ろでやはり見学している生徒がいる事に気がついた。身長は175㎝位であろうか、ぼさぼさ髪で痩身(そうしん)で背が高く、色白、全体的にひょろ長いもやしのようである。が、筋肉のつき方であろうか、もやしと()うよりも、(むし)ろ、精悍(せいかん)な印象を与えていた。正太郎は、(おもむろ)に、ぼさぼさ髪男の方に歩み寄り、そして、話しかけた。

「入部希望者ですか?」

 ぼさぼさ髪男が、多少(たしょう)物憂(ものう)そうに答えた。

「そうだけど。君も?」

「ああ。そうだよ。中学のときの先輩に勧められてね。実は、清水高校の吹奏楽部(ブラバン)に入るのが夢だったもんで」

「って事は、経験者か? (おれ)(まった)くの未経験でね。楽譜(がくふ)も読めないよ。ああ、(おれ)は、岡本高志。興津一中の出身だよ。中学時代は野球部だった。よろしくな。えーっと、高野君は?」

 正太郎は、彼が、何故(なぜ)自分の名を知っているのかを、(いぶか)しみ(なが)らも、

(おれ)は中学時代、江尻中でトロンボーンとユーフォをやってた。名前は高野正太郎。よろしく。で、此奴(こいつ)は祐子」

「祐子?」

「じゃなくて、えーと。山本祐子さん。俺と同じ、江尻中出身だよ」

「山本祐子です。よろしくお願いします。中学の時は文芸部(ぶんげいぶ)やっていました。だから、私も初心者だよ」

 会話の途中から祐子も参加した。彼女にしてみれば、会話の前後で、彼女の(しゅ)たる目的は(おおむ)ね達成されていたのを感じ取っており、(さら)には、正太郎の()めたる、それでいて、自身と共通の趣味を発見した事で、終始(しゅうし)笑顔であった。

「ところで、先刻(さっき)(なん)(おれ)の名前を知ってたんだ?」

「はっ? …だって、先刻(さっき)、先生から名指しで注意されてたじゃねーか」

「と()う事は、お前も4組?」

 高志はニヤニヤし(なが)ら、

「そーだよ。気がつかなかったのか? (さて)は、本当に女の子を物色(ぶっしょく)してやがったな? (おれ)は、二人とも4組にいたのを確認してたぜ」

「二人とも?」

「そーだよ。おめーは今日、クラスで一番、悪目立(わるめだ)ちしていたし…」

 そこで、高志は声を(ひそ)(なが)ら、祐子に聞かれ無い様に、心持(こころもち)顔を正太郎に寄せて、

「山本さんのあの胸。あれは間違いなく全校で3本の指に入るぞ。クラスではナンバーワンだな」

「…どっちが、物色(ぶっしょく)だよ?」

「ちょっと。自己紹介するなら私たちも()ぜなさいよ」

 (うし)ろから、はきはきとした声が聞こえた。振り返ると、二人の女性徒がいた。声を掛けたのは、ちょっとくせ毛の仁王立(におうだ)ちの子。身長は155㎝位、少し小柄で、目が大きくかわいい顔立ちだが、お転婆(てんば)で気が強そうな子だ。髪の毛は栗色に近い。が、残念(なが)ら胸は小さい様だ。

「私は岡中出身で、稲森ひろみ。中学時代は空手をやっていたわよ。だから、音楽は全くの初心者です。あと、空手の方は一応初段です。クラスは7組。よろしくね」

 続いて、身長145㎝位と、かなり小柄な子だ。八重歯(やえば)がとてもチャーミングである。目はどちらかというと釣り目、だけど、大きくてくりくりしている。髪はおかっぱボブカットで、ソバージュがかった髪をしている。体型は幼女体型。悲しいかな、稲森以上に胸はペッタンコだ。ちょっと、おどおどしており、あまり、会話好きではないらしい。おずおずと歩み出て、

「私は清水中でクラをやってました、2組の小泉菜月です。…(りゃく)して『いずな』と呼んで下さい…です」

「あーっ。『ノーゲーム・ノーライフ』の!」

 祐子が素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。

「知ってるの? 実は、お家に、付け耳と付けしっぽがあるんだけど、『今日は入学式だからやめなさい』って、ママに取り上げられて…」といずな。

「付け耳と付け尻尾(しっぽ)だあ~?」

 と、高志。

「知ってるよ。大好きなラノベだもん。アニメも映画も見たよ! あっ。私、山本祐子です。よろしくお願いします」

「わーっ。良かった。初めて、趣味の合いそうな人、見つけた! ゆーちんって呼んでいい? ゆーちんも、()の部入るんだよね。いずなも、絶対入るから」

 前言撤回(ぜんげんてっかい)(あなが)ち、会話嫌いと()(わけ)ではないらしい。かなりの『不思議ちゃん』の様だ。全体練習の見学が終わり、今日の練習が散会(さんかい)となったのは、15時頃だった。正太郎達は講堂を出(なが)ら、

()れから、如何(どう)する?」

 と、正太郎。すると、早速(さっそく)、高志が口火を切った。

折角(せっかく)だから、茶店(さてん)でも行かねーか?」

「うん」

「いいよ」

 全員賛同して、喫茶店に行く事になったが、高志が、

「高野。何処(どこ)かいい店知らないか? 地元民なんだし…」

「そーだな。キャトルあたりは? ()の近所だし」

「わかった。私、家に電話してから、行くから。先に行ってて」

 と、ひろみ。

「正ちゃん。私、歩きだから、一旦(いったん)、家に帰って自転車とって来るね。絶対に行くから、()(まで)、待っていてね」

「了解。(あわ)てなくて()いからな」

「うん」

 5分咲きの桜の下、祐子が小走りに駆け出していった。後姿が何処(どこ)か楽しげである。それを見送り(なが)ら、正太郎は、

「じゃあ。俺達も行くか」

 相変わらず肌寒くはあったが、今日新しく出来(でき)た仲間達と語らう事思うと、何処(どこ)か胸が高鳴るような心持になる正太郎達であった。


 正太郎、高志、いずな、の3人は先着した。先に入っていようかと岡本が(うなが)した(ため)、恐る恐る入店した。広い店内ではあったが、比較的閑散(かんさん)としていた。正太郎は、一歩大人の階段を踏み出したような感覚に酔いしれていた。実は、正太郎はまだ喫茶店に入った事はなかったのだ。所謂(いわゆる)、喫茶店初体験なのである。

(おれ)、アメリカン」と高志。

「あっ。じゃあ。俺も」

「うーんとね。いずなストロベリーパフェとコーヒー」

「いや、コーヒーって何のだよ」と、高志。

「えっ。メニューの此処(ここ)に書いてあるよ」

「それはカテゴリー名だろ。()の下にいっぱい書いてあんだろ」

「いっぱい種類があるけど、如何(どう)違うの?」

(おれ)が知るか!」

「だって、(きみ)。この、『マンデリン』って、楽器じゃないの? 推理小説で凶器に使われた奴」

「違げーだろ。あれは、マンドリンだ」

「じゃあ、このウィンナコーヒーってのも、ソーセージが入っている訳じゃないの?」

「たりめーだろ。恥ずかしい(ヤツ)だな。なんか、クリームみてーのが入ってんだよ」

「ヴーッ。じゃ。いずなもアメリカンにする」

「おい、岡本。多分、祐子ケーキ二つは行くぞ」

「マジ?」

「いや、三つも有り得るかも…。賭けるか?」

「おもしれー。一個に千円」

「受けた。二個に千円」

「おまたせー」

 三人で、どーでもいいような会話を交わしている中、やや、遅れてひろみが到着した。

「えっ。()だ頼んでなかったの? じゃあ、私メロンのタルトとジャワティー」

 オーダーが届き始めた頃、息を切らしまくった、祐子が到着。

「すみません。遅くなりました」

「おいおい、祐子。そんなに慌てなくても良かったのに…」

「だって。折角(せっかく)出来(でき)たお友達だよ。待たせちゃ失礼だよ」

 すごくうれしそうだ。

「えーと。モンブランとブレンド…あと、チーズケーキとメロンのタルト」

「……マジかよ…」

「賭け不成立だな」

「…だな」

 いきおい、男子二名で1卓、女子三名で1卓、そのテーブルを横に(つな)げる様な形である。

 高志が、心持ち正太郎に顔を寄せて、小声で()った。

「ところで、高野。お前ら付き合ってんの?」

「へっ、誰と?」

「誰って、山本さんだよ」

「そんな(わけ)ないよ。(ただ)幼馴染(おさななじみ)だよ」

「そーかあ? とても、(ただ)幼馴染(おさななじみ)には見えねーけどなあ」

 殊更(ことさら)、声を(ひそ)めて、正太郎が、

「それに、俺付き合っている人いるもん。清高じゃないけどな」

「マジか?」

「ああ。女子の比率が低い、うちの高校で彼女を作らない俺は、人生勝ち組だ。岡本は?」

「んなもん。居るわきゃねーだろ」

 彼女がいる、と大見得(おおみえ)を切った正太郎ではあったが、此処(ここ)3ヶ月程、会話はおろかメールすらしていない事を思い出した。お互いに受験という大切な時期であり、仕方が無い事だと思っていたのだが、後から振り返って、『彼女がいる』という言葉に、しがみ付いて安心していただけなんだと思わざるを得なかった。

 一方女子卓では、ひろみが、

「うちは、父親が、『お前は空手だとか合気道とかお転婆(てんば)な事ばかりで、高校にあがったら華道とか茶道とか女の子らしい事をしなさい!』って、うるさくて…」

「合気道もやっていたの?」と、祐子。

「うん。空手の(かたわ)ら中学校3年間は、夜、近所の道場へ。あっ、でも、空手は小学校1年の時からだから、9年間」

「すごいね。蘭姉ちゃんみたいだ」

 と、いずな。

「ところで、山本さん、高野君と同じ中学なんでしょ。どんな関係なの?」と、ひろみ。

「どうって、(ただ)幼馴染(おさななじみ)だよ。…すごく優しいよ」

「本当に(ただ)幼馴染(おさななじみ)なの?」

「うん」

「祐子は何で吹奏楽部(ブラバン)を選んだの?」

「うーん。なんとなく…かな」

 祐子は答え(なが)ら、右側にいる正太郎を優しげに見つめている。ひろみはいたずらっ子のような顔つきで、

「ふーん。なんとなく(ジャストビコーズ)かあ。何となく分かっちゃった。いいなあ」

 正面にいるいずなも、にやにやしている。

「えっ」

 あわてて、顔を赤らめた祐子は、

「違うよ。そんなんじゃなくて…」

「いいって、いいって。気にしない、気にしない。命短し恋せよ乙女(おとめ)ってね」

 磊落(らいらく)にひろみが(さえぎ)れば、いずなも明るい声で、

頑張(がんば)ってね。ゆーちん。いずなも応援するから」

「もう」

 祐子は照れ(なが)らも、心地(ここち)良い恥ずかしさの中にいた。自分の好きな人の事で、友達から(はや)し立てられる事に(ささ)やかな幸せを感じていた。が、やはり少し恥ずかしかった。あわてて、話題を変えるべく、いずなに話しかけた。

「いずなちゃんはクラリネットだったよね?他の部は考えなかったの?」

「ううん。本当はアニメ研か漫研に入りたかったけど、ママが吹奏楽(ブラス)続けたらって。でも、いずな、友達居ないし…、如何(どう)しようかなって思ってたの」

「私も、お友達が居なくて…」

「でも、吹奏楽部(ブラバン)にゆーちんが入るならいずなも入るよ。楽しそうだもん」

「うん。私も入部するよ」

「そーだよねー。高野君も入部するし」

 と、ひろみ。

「もう」

 ここで、高志がみんなに提案した。

「なあ。どうだろう。みんな入部するつもりなんだろう。良かったらアドレスと携帯番号を交換しないか?」

「うん」

「いいわね」

 反対するものは誰もいなかった。メアド交換をした後、岡本が言った。

「あと、ラインは如何(どう)する?」

「いいぜ。高志。設定しろよ」

「名前は如何(どう)する?」

 ひろみが、

「ボストンティーパーティー(ボストン茶箱事件)ってのは如何(どう)かしら?」

「ボストンティーパーティー?」

「そうよ。ボストン茶箱事件よ。知らないの?」

「いや、それは知っているけど。…なんで?」

「なんかカッコいいじゃないの」

「分かったよ。えーっと。ボストンティーパーティーっと。これでよし」

 高志がライン設定を終えたところで、みんなに向かって()()った。

(さて)、これから如何(どう)するか。カラオケでも行くか? それとも、今日はお開きにするか?」

 時間は十六時半を少し過ぎた(ところ)だった。正太郎が皆に呼び掛けた。

「良かったら、もう一ヶ所行かないか?」

「いいけど、何処(どこ)?」

「赤灯台」

「赤灯台?」

「ああ。いいから、ついて来いよ」


 一行が赤灯台に着いたのは、十七時頃だった。港内の暗緑色(あんりょくしょく)の水面を、(かたむ)きかかった春の優しい陽射(ひざ)しが、(あわ)いオレンジ色に染めている。(しお)の独特の香りが、()だ馴染んでいない鼻腔(びくう)を軽くくすぐった。眼前(がんぜん)に横たわる海と対岸の倉庫群の向こうに、ドリームプラザの観覧車が見えた。カモメの鳴き声が遠ざかって行く。全員突堤からはしごを使ってさらに下の突堤に降りた。(しお)の香りが一段と強くなった。ひろみが、

「へー素敵(すてき)(ところ)じゃない。祐子知ってた?」

「ううん。初めて来た。正ちゃん良く知っていたね」

「中学ん時来た事あるからなあ。3年の夏。ほら、知ってるだろ祐子。燃料屋の江崎。夏休みの最後に、二人でここから飛び込んだら、通報されて、…補導された」

「…マジ?」と、高志。

「えっ、あれは正ちゃんだったの?全校集会で校長先生が『決して真似してはいけません』って。クラスで話題になったんだよ。一体(いったい)、誰だろうって」

 いずなが、目を輝かせ(なが)ら、

「何かすごいね。青春アニメのワンシーンみたい」

「でも、リアルでやると普通にお(なわ)になるんだよ。いずなもやるなよ。俺も、まさか、捕まるとは思わなかったし」

「いや、思うだろ。フツー。停学、喰らったのか?」

「うんにゃ。両親呼び出しの厳重注意で済んだ」

「そもそも、何で飛び込んだんだよ。普通、受験生がそんな事しねーぞ。まさか、自殺未遂じゃねーだろーな?」

「いや、夏だし。何か暑いなーって」

「ばかだなー」

 そこで言葉を切った高志が、しみじみと()った、

「でも、本当にいい所だな。稲森さんも初めてか? 家が此方(こっち)の方じゃないのか?」

 ひろみがちょっと顔を赤らめ、ツンとし(なが)()った。

「ひろみでいいわよ。ううん。初めてよ。家は富士見町よ。S銀行の本店の近く」

「いずなは梅陰寺の近所」

「二人とも割りと近いのな」

「高志は興津一中って()ったっけ」

「ああ。興津駅のそばだ。ところで、山本さん、ケーキ好きだね?」

「うん。あっ、でも、今はちょっとダイエットしていて…」

「…うそだろ」

 と、正太郎が(つぶや)く。

「本当だよ。…でも、あそこのケーキおいしいから」

 ひろみが口を挟んだ。

「なによー。乙女にそんな事()うもんじゃないわよ。ねえ、祐子」

「うん」

 (かたむ)きかけていた春の陽がますます(かたむ)き、(やが)ては日本平の向こうに沈んだ。(しお)の香り(ただよ)う赤灯台周辺も、雀色(すずめいろ)黄昏(たそがれ)、急速に夕闇(ゆうやみ)が迫って来た。

(さて)と、そろそろ、帰るか?」

「そうね」

 愛染町(あいぞめちょう)の交差点で高志が、

「それじゃあ。また明日な」

 といい(なが)ら、興津(おきつ)方面に、ひとり、去って行った。そして、江尻踏切のところで、ひろみといずなが、

「ありがとう。明日からもよろしくね」

「バイバーイ。ゆーちん。正ちん」

 (やが)て、渋川橋東の交差点。朝、祐子とであった場所だ。(あた)りはすっかり暗くなっていた。交差点の大きな水銀灯の下で、

「それじゃあ、気をつけてな」

「何言ってるの。正ちゃん。家まであと100メートルもないよ。でも、ありがとね」

 そこで、祐子は一息つくと躊躇(とまど)(なが)ら続けた。

「あのね、正ちゃん。今日はありがとう。本当に楽しかった。私もブラスやってみるよ。これからもよろしくね」

「うん。祐子と一緒だと心強いよ。こちらこそよろしくな」

 正太郎は渋川橋のほうに向かって自転車をこぎだす祐子の後姿を、(おだ)やかな眼差(まなざ)しで見送っていた。祐子の家は渋川橋を渡らずに、橋の(たもと)を左折してすぐだ。正太郎は祐子の後姿が見え無く成る(まで)見送り、家路についた。


 自宅についた祐子は、恐らくはそれまでの人生の中で最高の日だった今日という一日を振り返っていた。正太郎と同じクラスに成れただけでも出来(でき)過ぎた僥倖(ぎょうこう)だと()うのに、同じクラブに入部出来(でき)て、素敵な友達とも(めぐ)り会え、一緒に喫茶店に行ったりお(しゃべ)りしたり、そして、(あこが)れの正太郎とメアドと携帯番号の交換とラインまで出来(でき)たのだ。気がつくと、少し涙が出てきた。祐子が、この涙の正体がうれし涙だけではなかった事に気がついたのは、しばらく後のことだった。

 とまれ、祐子はこの気持ちを正太郎に伝えたかった。記録に(とど)めて置きたかった。だから、ちょっとくどいかも、とは思ったけれども、正太郎にメールを打った。

『今日は本当にありがとうございました。すごく楽しかったよ。明日からもよろしくね』

 文面を読み返して、最後別れ際に交わした挨拶(あいさつ)と、全く同じ内容である事がちょっとおかしかった。

「まあ、いいか」

 祐子は送信した。時刻は二十二時を回っていた。すぐに、祐子の携帯の着信音が鳴った。

「えっ」

 携帯を見ると、正太郎から返信が来ていた。

『俺の方こそ、今日はとても楽しかった。ありがとう。祐子ちゃんと同じクラブに入れて良かった。明日からもよろしくね。おやすみなさい』

 携帯画面を見つめる祐子の(ひとみ)から、また涙が(あふ)れた。とめどなく涙が(あふ)れていった。

「正ちゃん。ありがとう…。大…好き…」

 祐子は泣き(なが)ら、

『おやすみなさい。正ちゃん』

 と、打ち込むと送信した。

 本当に、最高の一日だった。


 明日からもこんな日が続くといいね。祐子ちゃん。


新たなメンバーを加えたボストンティーパーティーの面々。そして、お互いに意識し始めた、正太郎と祐子はひょんな事から、春爛漫の休日に散歩に行く事になるのだが…。次回、『第2話 桜の花の満開の下で』。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 一点だけ。今の東高8クラスもなかったんじゃなかったっけか? [一言] 中野先生。お久しぶり。結構、おもしろいよ。毎月楽しみにしています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ