約束と失望
心臓を交換すると、契約ができるんだって。
誰かから聞いたその言葉に少女は飛びついた。何もわからない頃だった。物心もついていなかった。自然物にはすべて霊的な力が宿っていて、心臓を交換すると契約ができる。どんなものと契約して、どんな力をもらいたい? 自分の何を差し出したら、契約してもらえるかなあ。僕はね、鳥と契約したいな。空を飛んでみたいんだ。じゃあ、私は――。
いつまでも幻想を引きずっている、と思う。契約の話を教えてくれたのは初恋の相手だった。庭番の息子で、少女をこっそりと庭へ連れ出しては外の話をしてくれた。少女が召使いと衝突するたびに、いつも素知らぬ顔で庭木の目立たぬところに隠してくれた。今やその少年は妻も子供もいるし、幼い日の夢を叶えて鳥と契約した。いつからか何となく太って魅力的とは言えなくなったが、それでも彼の持つ朗らかさは、家中でなにがしかのいい影響を振りまいているらしかった。
それに比べて、と少女は膝を抱える。虎は今日も背もたれのようにそこにいる。物置部屋は綺麗に整理され、いつもランプの灯がともるようになった。品物が劣化するから、暗いところでも怖くないからと主張してはみたが、少女の居場所はいつも明るくされた。本当は明るいところなど嫌いなのだ、暗いところで一人にしてくれという願いを聞いてもらえるほど、彼女は家の中に受け入れてはもらえなかった。彼女は大事な大事な腫物だった。
「出て行くぞ、こんな家」
虎は近頃、このことばかりを口にする。
「無理だよ。お父様にすぐ見つかっちゃう」
「俺を誰だと思っているんだ。お前みたいなちび一人、誰にも見つからないところに――」
「いい加減、小さなこどもみたいに扱うのはやめて」
少女の冷えた声に、虎は不服そうな唸り声を残して黙る。少女は、常に腹の中にある堪えがたい怒りをやり過ごそうと大きく息をついた。
「出て行けるわけがないでしょう。ほんのちょっと門の外に出るだけでも大騒ぎなのに」
強いて落ち着いた声を出す。虎がいらいらと尻尾を振るのが少女の腰に当たった。
「約束だったろうが」
「なにが」
「大きくなったら一緒に家出するって、お前が言ったんだぞ」
そうだけど、と少女は頭皮に爪を立てる。歯がこすれるのが余計にいらだちを誘った。
「それなのにお前と来たら、いつまでたってもうじうじと――」
「いつまでもちびちびってこども扱いするのは誰よ」
つい、語気が強くなった。我に返ってはっと息を吸ったのに、次に出てきたのはさらなるいらだちだった。
「……あんたのせいよ。みんな遠巻きにへこへこしちゃって、ご機嫌取りに媚び売りに、そのくせ家から追い出せないのよ。あたし、何かした? 虎に魅入られてるとか言うけど、一度だって誰かに怪我させたりした?」
言葉になるたびに、次の言葉が膨れ上がった。連鎖的に吐き出される声は、次第に激しい調子を帯びた。
誰も少女のことを見ようとはしなかった。少女にあるのは金持ちの商家の一人娘、そして虎と契約したという肩書だけだった。強くなれば、自分の力でどうにかしていけると思っていた。ひとりじゃなければ、家に居場所がなくても堪えられると思っていた。どれも幻想だった。虎と契約したことで、周囲は少女に危害を加えられることを恐れた。外の世界を見せてくれるはずの虎は、彼女と周囲とを切り離した。虎の声が、少し困った。
「だから、こんな家」
「こんな家って何よ。あんたはこの家が金持ちだからあたしとの契約に乗ったんじゃない。裕福な暮らしをさせてくれるならって。いまさらこんな家、って」
少女はいらだちに任せて、手近なガラス細工を壁に投げつけた。清い音がして、ガラスは砕け散る。砕け散ったガラスがランプの明かりに照らされて、涙が出るほどきれいだった。
「もういや。知らない。あんたの心臓は返すわ。あたしの心臓を返して」
低い声で言うと、それまで困ったように揺らしていた虎の尻尾がぴたりと止まった。少女は目の端に映ったそれを見て、あ、と思った。緩やかな失望が胸に広がっていくのを感じた。無論、虎に対しての失望ではない。
沈黙が続いた。虎はぴくりとも動かなかった。ただその尻尾の毛の底で、虎の確かな血流だけが動いているのが見えた。永遠の沈黙の末、虎は言葉を落とした。
「好きにしたらいい。お前は人間だ。俺の意志に関係なく、契約は解消できる」
少女はゆっくりと瞬きをしたが、なぜ自分が一度瞼を閉じたのか分からなかった。ただ、いつまでも失望を噛みしめながら、あるかなしかの息のなかに、ごめん、と一言つぶやいた。