九十部
多重人格者が入れ替わる瞬間を見たことはないが、これははっきりと入れ替わったのだとわかる変化であった。
普段から穏和で笑うときもめったに声を出すこともなく微笑んでいる印象だった桂は、声をあげて笑い、優しい微笑みとはほど遠い下卑た笑顔を浮かべていた。
山本にとってはよく知っているはずの顔なのに、全く知らない誰かに見えてしまい、
「あなたは……………………岩倉ですか?」
「君の知り合いの桂に見えているのかね?
演技?違うね、君ならわかっていると思うがね。」
岩倉はニヤニヤとしながら言いはなった。上田達は山本の顔を見て
「どうなんですか、警部?」
「間違いなく別人だと俺には思えるよ。声のトーンも上がってるし、顔つきも少し違うように見える。」
「本当にそう思うかね?
君が見ていた今までの桂が偽りだったということだってあるんだよ?
人は皆、自分が見たいように人を見る。
そして、人は他人に『こういう風に見てもらいたい』と思ったとき新たな自分の姿を容易に実現することができる。
人にどれだけの信頼を置いたとして、人が作り上げてきた常識と呼ばれる無形のレンズを通して見たところで、人間の本当の姿を写すことはできない。
今、君たちが見ているお互いは本当の姿なのか?秘密もなくすべてを見せているのか?
そんなことはできるわけはないのだよ。
人は誰しも踏み込まれたくない精神領域を持っていて、そこに誰かが近づくたびに拒絶し、嘘をつき、遠ざけようとする。
どれだけ相手を好きだろうが、愛していようが、信頼していようが心のどこかで裏切られることを恐れて本当を見せられない、それが『人』なのだよ」
「自分は多重人格のひとつの人格ではなく、桂先生そのものだと言いたいのか?」
「精神的、身体的に強いストレスを受け続けると、現実から目を背け、違う自分を生み出してしまう?
違うな、生まれた人格はその者の本心の代弁者だ!
諦め、怒り、焦燥、哀れみ、悲しみ、喜び。『自分』というキャラに縛られて、言えない本心が強ければ強いほど、それを発散させる場所を望むのだ。
そういう意味では特殊な性癖を持つような者達にも通じる部分があるとも思えるね。
どう思うかね?」
「知るかそんなもん。
つまり、お前がやって来たこともすべてが桂先生の本心だったと言いたいのか?」
「変えられない葛藤にもがき続けることだってある。
確実によくする道筋が明確に見えていても、それを実行できないことだってあるし、立場があって無茶なことができないからできないことだってたくさんある。
桂という男は、改善への道のりを明確に見いだしながら、実行する力と機会を得ることができずにいた。
その意味で彼はやりたいことができず、常に抑圧された状態にあったとも言えるだろう。
自分の苦手なことから目をそらし、才能がないからと諦め、挑戦することすらしない。
そういう人間に残るのはなんだと思うかね?」
「…………………………後悔か?」
山本が少し考えてから聞くと岩倉は満面の笑みで
「そう、その通りだ。
あのとき挑戦していればよかった、違う選択肢を選んでいれば違う人生を送れたのではないか、もっと努力しておけばよかった、そう思った時には既にチャンスは遠く過ぎ去ったあとなのだよ。
人はその後悔を子供に押し付ける。自分が『もっとこうしておけばよかった』と思うことを子供に強要する。
自分が勉強が苦手だったなら子供に勉強しろと言うし、運動が苦手だったなら水泳や新体操等を習わせるだろう。
自分が選択できなかった答えを子供に選ばせることによって、自分がした選択が正しかったのかを知ろうとしているのだ。
だが、そんなことをしても無駄だとも思っている。
時代が、状況が、経験が、周囲の人が違えば、選択肢が同じようなものであっても、結果は変わってくるからだ。
桂は自分が実現できなかったことを教え子に託そうとしていたが完成された人間にアドバイスはできても思い通りに動かすことはできない。
それがまた彼にストレスを与えていたのだろうね。」
「黒木に実現させようとしたってことか?」
山本が聞くと岩倉は明確には答えなかったが否定もせずに
「誰に………はあまり関係ないのだよ。
人は考え、悩み、そして答えらしきものを見つけて、それを答えだと決めつけて問題を完結させようとする。
悩み続けることが辛く苦しいことだからだ。
答えを追い求め続けても答えがでないことばかりなのに、誰かが決めた答えに終着点を見いだしてしまう。
答えが間違っていても、模範解答がそれなら疑うことすらしないだろう。自分で出した答えが正しいのかを再考もせずにバツをつけてしまう。では、答えとはなんだ?
なぜ、過去に決められたことを答えとして永劫未来に引き継がなければならない?
地動説は正しくなかったのに天動説を唱えたものが罰されたのはなぜだ?
地球温暖化が進むのは二酸化炭素が原因だとわかりながら、先進国が大量の二酸化炭素を出し続けているのはなぜだ?
世の中の不条理は自分勝手な理屈で丸め込まれて、誰もが納得してしまうのはなぜだ?
君達は答えられるのかね?私が今言ったことに。
誰かの言葉の焼き直しではなく、自分の答えを。」
「そうやって話をそらそうと言う作戦ですか?」
伊達が言うと、岩倉はニヤニヤと笑いながら、
「おじいさんから習わなかったのかね?
相手を黙らせるためには、相手が答えられない質問をぶつければ良いと。
あの人はよく学会でその手を使っていたよ。」
「残念ながら、ジジイには勉強を教えてもらったことがないのでなんとも言えないね。」
岩倉は鼻を「フンッ」とならし、山本の向かって
「人には答えられない問題がある。
君が知りたいことも、私が教えたくなければ君が自分で考えるしかないのだよ。
君には自分で気づいていない問題がまだあるんじゃないのか?
さあ、私に質問したまえよ!
私が答えられることなら何でも答えよう。
だが、それが真実だと信じるなよ、自分で考え正しいと思う答えを見つけ出せ。
何から聞きたいかね?
なぜ多重人格になったのかかね、それともなぜこんな事件を起こしたのかかね?
ぶつけたまえよ、君の『なぜ』を。
その先に君が絶望する未来が待っていたとしても、聞きたいのなら聞いてみればいい、調べたいなら地球を何周してでも追いかければいい。」
山本は静かに目を閉じた。




