八十六部
「お忙しいなかすみません。」
山本が言うと目の前の白衣を着た男は嫌な顔を隠さずに
「そう思われるなら来ないで頂きたいものです。
何度こられたとしても、答えは一緒です。
患者の情報はプライバシー保護のために教えることはできません。」
「はい、それはわかっています。
それでは精神科医であられる二ノ宮先生にお聞きしますが、解離性同一性障害、つまり多重人格というのは存在するものなんでしょうか?」
山本が聞くと二ノ宮が
「お答えし難いですね。
これを認めたからといって刑事さん達が知りたい内容と無理矢理繋げられても困りますから。」
「推理をするのは仕事に含まれるかも知れませんが、勝手な脚色を加えたものは推理とは呼べないと思ってます。
それはもう小説とか妄想とかだと俺は思っているので先生の心配されるようなことはしないと誓います。」
二ノ宮は迷ったように視線をおとしてから、
「ありますよ。
誰かが勝手に作り出した妄想でもなく、実際にその症状で苦しんでおられるかたも多くおられます。
心的な要因、身体的な要因、そのどちらともの要因で発症することがあります。いじめやトラウマ等から逃げるために、その時の記憶を消したり、なかったことにしたりして、自らの心を守ろうとする防衛本能のようなものです。
もっと言うなら、現実逃避の多い人には発症する可能性が高いとも考えられています。
自分と違う自分を作り出すことによって、心を守っているうちに新たな人格が生まれると考えられているからです。
生まれた人格が、元の人格と近い存在であれば、お互いのなかで折り合いをつけることはできますが、何かから逃げるために産み出す人格が元の人格に近いということは珍しく、正反対の自分を作り出すことの方が多く、自分が多重人格になっていることも気づいていない人もたくさんいる状況です。」
「そういう人たちは、どういった経緯で精神科の受診をするんですか?」
上田が聞くと二ノ宮はめんどくさそうに
「人それぞれですが、例えば友人から見に覚えのない話をされ、その時の写真を見せられたり、独り暮らしで誰も部屋に入ってないはずなのに物の位置が全然違うところにあったりといった感じです。
記憶障害を疑って医者に行ったら、こちらに回されたという人もいます。」
「刑事事件の精神鑑定で多重人格を訴えていた人がいましたが、そういう人は本当に多重人格だと思いますか?」
三浦が聞くと二ノ宮は首を横に降りながら、
「実際にその人を診察したことがないのでなんとも言えませんが、何度も診察を行い、統計学的な考え方も取り入れて総合的に判断せざるを得ません。
それに刑事事件の精神鑑定においての問題は、制度にあると思います。
責任能力の有無で刑罰の重さに影響を与えられるなら、誰もが精神疾患を持っているように供述するでしょう。
そういった人達のせいで本当に病気で苦しんでいる人達が白い目で見られるようなことはあってはいけないと私は思っています。」
「それでは犯人が多重人格だった場合、犯罪を行った人格の方が新しくできた人格だった時に元の人格に責任を追求できないと考えた方がいいのでしょうか?
元の人格は新しい人格の存在を認識しているものなんでしょうか?」
山本が聞くと二ノ宮は難しい顔で
「はっきりとはいいきれません。
切り離した側と切り離された側を『わたし』を使って表現することがありますが、ここでは元の人格を『ボク』、新しい人格の方を『オレ』とするなら、『切り離したボク』と『切り離されたオレ』では、『切り離されたオレ』は『ボク』の存在を明確に把握していることが多く、逆に『ボク』が『オレ』を認識していることもないとは言えませんがかなり少ないと考えられています。
簡単に言うと入れ替わっているときの記憶の共有はされず、元の人格にのみ情報が行き届かないということです。
新しい人格はある程度元の人格に対して情報を持っていますから、自分の好きなように行動することができます。」
「人間って難しいんですね。」
上田がポツリと呟くと二ノ宮が
「世界でいろんなことが研究され、未知の物質だとか太古の謎が解き明かされていくのだとしても、永遠に研究され続けるのは人間についてだと思います。
人が謎の真相に一歩近づいたとしても、その一歩を踏み出した先を人は見ますが、踏み出している自分に目を向けることはないからです。
人智を超えた先にあるものがたくさんあるとしても、人そのものがすでに常識を超え、塗り替えて生き続ける以上、人の可能性や起源や終末は誰にも予想できないのではないかと私は思います。」
二ノ宮はそう言って目の前にあったコーヒーを一口飲んだ。コップを置いたのとどちらが早いかというタイミングで看護師が入ってきて、
「先生、そろそろ診察の方をはじめてもよろしいでしょうか?」
「ああ、わかった。
すみませんが、診察の時間ですのでお帰りいただけますか?」
「すみません、帰ります。
色々と教えて頂きありがとうございました。」
山本が言い、頭を下げると上田と三浦も頭を下げ、部屋を出ていった。二ノ宮は外の様子を聞いて、山本達が病院から出たのを確認して電話を取り出して
「私です。
あの刑事達はもうあなたのことは気づいているのだと思います。
いつあなたのところに行くかはわからない状況ですよ。」
『…………………………………わかりました。』
電話の相手は静かにそう答えて、電話を切ってしまった。
二ノ宮は一枚のカルテを取り出して、小さく「なんでこんなことになるんだよ。」と呟いた。




