14:物件の下見
また一日が始まった。
今日は、アニマはまだぐっすりと眠っているようだ。
次は連立方程式と平方根でも教えようかと、体温を感じながら手元でテキストに編集を重ねていく。テキストは【固定】で作っており、今の俺は傍目にはサイコロを握ったまま寝ているような姿である。
何故こんな状態かといえば、【固定】という力の関係で、触れてさえいれば形状の把握はできるからだ。ただ立体を握って寝ているように見えても、メモリーカードにアクセスしてデータを編集するような真似はできる。
……学生時代にこの力を持ってたら、カンニングペーパー作り放題だったんだけどなぁ。
そんなしょうもないことを今更考えても仕方ないと思い直し、わかり易い資料を目指して編集を続けた。
ひと区切り付いたところで深呼吸すると、何やらもぞもぞと動く感触。その感触の発生源に目を向けると、アニマが目を開いてこちらを見ていた。
「起きてたのか。おはよう」
「お、おはようございますご主人様。何をしてたんですか?」
「アニマにわかり易く教える為に、どう教えるかを考えてたんだ。今丁度区切りが付いたところ」
「えっとそのそれは、ありがとう、ございます。うぅ……」
「覚えるのも大変と言えば大変だろうけど、今のうちに頑張って覚えてくれると俺としても楽なんだよな」
「? なんでです?」
「俺が本堂君に勉強を教える話をしていたのは覚えてるか?」
「はい、たしか、明日ですよね?」
「そうそう。それで、アニマに今教えてる範囲より先の数学なんだよね」
「うぐっ……そ、そうなんですか……」
そうなんだよな。
今教えている範囲が中学の二年と三年、どっちだったかは忘れたが……今のアニマに高校一年の範囲を教えるには、前提となる知識がまだ足りていない。
展開と因数分解、三角関数ぐらいしかやらないとしても、もう少し知識はあった方がいい。
「アニマより本堂君の方が年下ではあるけど、子供の頃から勉強は教え込まれるからねぇ。……明日、アニマに理解できない話が終わるまで待っておくのと、本堂君と一緒に俺から教わるのは、どっちがいい?」
「えぅ……が、が、頑張りま、うう」
「ま、復習から入るし、今までと同じような感じで今夜頑張れば、本堂君に教える時にも付いてこれると思うよ。アニマは凄い早さで覚えていってるからね。今夜頑張れば、後は大丈夫だと思う」
「は、はいっ! ……すみません」
並んで寝たままだったので耳に響いたが、返事自体は良かったので頭は撫でておいた。
今日は予め外に出る予定を立てていたので、アニマには昨日買った服を着せてから朝食に向かった。
朝食の場では今日も訓練に行く駆を応援し、俺達は担当者を付けてもらってから町に繰り出した。
「私のお勧めはこちらのお屋敷です。シライ様がお客を招く際にも、不都合はないかと思われます」
「それはまぁ、そうなんだがなぁ……」
「ふぇぇ……」
お勧めだと言われた屋敷は、なんというか、本当に屋敷だった。
召喚された異世界人は、王族の招いた賓客扱いだという話は聞いている。しかしだ。
「どこぞの貴族を招く予定なんてないからな? 高貴な身分の知り合いも極少数だし、社交が必要でも城経由で良いだろう。俺が欲しいのは、城の外で作業するための工房のようなものだから、悪いがこの屋敷は却下だ」
「そうで御座いますか。……多少お安くしておきますよ?」
「要らないよ。目的に比べて、維持する手間が大き過ぎる。今回買う家だって、必要に応じて買い替えられないわけじゃないんだろう? 付き合いが増えて、必要になったら増やせばいい」
「それは、まぁ、そう御座いますね。では、目星をつけている物件が御座いましたら、お聞かせ願えますか?」
「ああ、目録は持っているか?」
「はい、こちらに」
準備もできているようなので、俺の目的を満たせそうな物件を見て回ることになった。
俺の要望に従って訪れた一件目。
「こちらは要望通りの家で御座いますね。暖炉、上下水道、浴室があり、二階建て。地下室もあります。治安はあまり悪い地域ではありませんね」
「へぇ……アニマ、何か問題はあるか?」
「特には……なさそうです。日当たりは少し悪そうですけど、そのぐらいですね」
「そうか、なら、候補としては合格かな。一応、他の物件も見ておこう。そんなすぐには売れたりしないだろう?」
「はい、ご案内させていただきます」
二件目。
「こちらも部屋数や設備の条件はほぼ同じ、飲食店が近くにあるので、忙しい時には楽ですよ」
「ふむ……ここもそう悪くはないか。市場にも近いが……さて?」
「なんだか、色んなお酒の匂いがあちらこちらからしますね」
「飲み屋が近いのかな。酔っ払いが多い辺りはなんだか面倒そうだ。買うなら、さっきの家の方が良いかな」
「私もさっきの家には賛成です」
値段は同程度の物件だが、却下した。
三件目。
「一件目と比べて日当たりはやや良く、市場との距離も近過ぎず、遠過ぎずといった所ですね。やや建物の大きさは小さくなっておりますが」
「匂いは、こちらも特に問題はなさそうですよ、ご主人様」
「候補としては、二件目よりは良いかな。一件目と比べて値段は……一割増かぁ。これは、一件目のあの家で確定かな?」
「そうで御座いますか。あと二件ほど、ここからあまり遠くない所に御座いますが……」
「じゃあ、一応、見に行きますか。多分、最初の家で確定なんで悪いけど」
「もしかしたら気に入ることもあるかもしれませんので、ご案内させていただきます」
「確かに、ないとは言えないかな」
担当者の案内で四件目及び五件目に向かう。
ただ、その途中でアニマの挙動が少し怪しくなった。何やら少し不安そうな表情だ。
「どうかしたのか? アニマ」
「あ、あの、ご主人様、済みませんが、この先はちょっと……」
「シライ様? どうかなさいましたか?」
「いや、この子があまりこの先に行きたくないらしい。理由はまだ聞いていないが」
「……先程から気になっておりましたが、シライ様は奴隷に意見させているのですか?」
「感知能力は俺より高いし、ちゃんと警告をしてくれるから便利だぞ? それでアニマ、どうしたんだ?」
「はい、あの、ここ、私が居た奴隷商の近くみたいです」
「うん? すまない、これから行こうとしている物件は、目録だとどれだ?」
「はい、こちらと、こちらの二件です」
目録にある物件の住所と、奴隷商のあった位置を頭の中で地図に重ねてみると──
「……本当に近いな、どっちの物件でも一分以内に着くぐらいのご近所さんだ。無駄に負担を掛けそうだし、ここは止めとこう」
「へっ? あの、か、畏まりました。それではどちらの物件をお求めで?」
「すまないが、やはり最初の──この家で頼む。手続きは何処ですればいいんだ?」
「王城で伺います。資金はお持ちですか?」
「金貨四〇枚だよな? 一部は大金貨になるが、持っている」
「承りました」
そんなこんなで物件が決まった後は城へ帰って、金貨を支払い、鍵と権利証を手に、部屋に戻って、また夕食時まで勉強を進める。
夕食では住居というか工房というか、城の外に拠点を持った話をした。
「え、じゃあもう白井さんは引っ越すんですか?」
「いや、現状はただの空き家だからな? 寝具も無いし、寝泊まりする拠点としてはまだ使えないよ」
「そうなんですね、ええと、明日は良いとして……その後僕が勉強を教わる時は、どうしましょう?」
「城の部屋を引き払うわけじゃないんだし、そのままで良いんじゃないか?」
「あ、そうですね」
駆に勉強を教える予定はそんな風に、城でやることに決まった。三日置きに毎回だと面倒なので、ある程度一気に進められるように、わかり易く進めようと思う。
「明日なんですよね……が、がんばります」
「? 白井さん? アニマさんはどうしたんです?」
「今朝のことなんだが、自分だけ理解できないまま俺が教えてるところを見てるか、本堂君と一緒に俺から教わるかーって話になったんだ。数学だけだが、もうちょっとで本堂君の復習についていけるかもしれないってぐらいには、なりそうなところ」
「へぇぇ……あの、元はあんまり勉強とか受けてなかったんですよね?」
「生活の中で四則演算……加減乗除と簡単な面積の計算ぐらいはできてたらしい。代数の理解も早かったし、真面目に頑張ってるからな。あとは、連立方程式と平方根の概念ぐらい教えたら、なんとかいけそうじゃないか?」
「確かに、そうですね。でもなんていうか、無茶苦茶早くないですか……?」
「そうなんだよなぁ。できるだけわかり易い資料を作るようには心がけてるけど、応用力はちょっと不安かな」
「ああ、概要だけならそんなに時間もかからないんですね。こっちには【伝達】もありますし」
「うん? ……ああ、理解してる相手が【伝達】越しに教えれば、覚えが早いのも道理かもな」
アニマの努力を多少否定するようで悪いが、理屈としては納得できた。【伝達】自体は翻訳機能寄りとはいえ、そういう効果もあるだろう。
この仮説が当たってるなら、他の物事を覚えるために必要な時間も案外短くて済むかもしれない。
夕食を終えてからは、予定通りに勉強を教えた。
不慣れではあるものの、確かに概念の理解は早い、気がする。
アニマは相変わらず、知恵熱か何かでぐったりしかけてはいるが、頑張りは伝わってくる。補助があるにしても、これだけ頑張っている姿を見るのは……心が温まるというか、なんというか?
少なくとも俺にとっては、良い物である。
「え、えっくしゅにじょういこーるご、えっくしゅいこーる、るーとご?」
「惜しい。ここではプラスマイナスが必要だ。ルートは正の平方根を表す記号だし、負の数でも二乗にしたら正の数になるからな」
「あぅぅ……」
その後も少しばかり調子に乗って、三平方の定理を教え込んでみたところで結局アニマはダウンしてしまったが……まぁ、三角関数を学ぶなら必要な要素だしな。
寝る準備は済ませてあったので、ダウンしたアニマと共に就寝した。
………………
昨日と同じように俺から起きて、朝食を終え、駆を部屋に招いてから教科書を見た。
確かに発行年月日は俺が死んだと思われる年度のものだった。それはある程度わかっていたことだから良いのだが──
「展開と因数分解は、数をやって慣れれば良い。二次関数は良いとして、二次不等式は……面倒な癖に地味に使うんだよなぁ。三角比? こんな名前だっけ? うあー、集合に、命題と証明? 詳しくは覚えてないなぁこれ……あ、でも割と単純。正弦定理と余弦定理は、証明がちょっと面倒なんだよなぁ。いかん、甘く見て…………ハッ!?」
「えと、だ、大丈夫ですか? ご主人様」
「きょ、教科書通りでいいかな? 詰まったら答えぐらいは導けるはずだからさ。三角関数と指数関数なら、結構慣れてるから安心してくれていい」
「? まぁ、教科書を読み易くなるならそれでいいですけど……」
「それで、どのへんが苦手だった、とかあるか?」
「赤点までは取りませんでしたけど、三角比のあたりですね。三角関数ってなんです?」
「んー、サインとかコサインとかは三角関数って言うんだけど、かなり後の方まで関係するから……高校の先生に怒られそうな順序でなら、結構細かく教えられるよ?」
「……? えと、どの位でしょう?」
「電卓……はないか。数字だけで計算できるところまでは教えられる。円周率も自前で計算できる。その過程で指数、対数、微分積分なんかも必要だけど、必要な分は(ぼんやりと)覚えてるし、教えられる。…………(微積分の細かい公式は忘れたけどな)」
「それは凄い、んですかね…………最後なんて言いました?」
「さあ、復習を始めようか。まずは、展開からな」
「は、はい」
勢いで押し切りつつ、駆の勉強を進めていった。
ホワイトボード等は無いので、いつぞやのようにタオルに光を当てて一部を遮り、文字を浮かべる。
大した消費もなく、好きなように光を遮れるからできることであり、こういう部分でも本当に【固定】様様である。
昼前あたりでアニマがダウンした。駆も疲れたようなので、そこで終わることになったのだが、一応質問受付タイムは設けた。
「三角関数って、どうやって計算するんです?」
「総和っていう、変数の中身を一ずつ増やして、最後に足し合わせる長い計算を使うんだ。こんな奴」
記号と書き方を簡単に示しながら説明していく。
「代入する角度は弧度法っていう、円周率を使った数値じゃないといけないし、なんでこの計算式で求められるのか、って話をするのに微分と積分の知識が要る。だから面倒なんだよねぇ」
「えと、それで、その円周率の求め方もこの総和なんですか?」
「お? その通りだよ、鋭いね。計算式はいくつかあるけど、手書きならこれかな。アークサイン〇.五、の六倍」
「あーくさいん? ……ごちゃっとしてますね、これは……」
「ああ、数字を入れてみれば単純なんだよ? ……こんな感じ。ルールはわかるだろ?」
「それでもまだ難しいですけど、確かに。それで、あーくさいん? っていうのは……」
「逆三角関数っていう、三角関数の答えから、三角関数に代入した角度を求める関数があって、アークサインはサインの逆をやる関数だ。同様にアークコサイン、アークタンジェントなんてのもある。あー……これ以上は長くなるから、ここらでいいか?」
「そ、そうですね、ありがとうございました」
三角関数と微積分、総和と指数関数、対数関数あたりは網羅してないと難しい、というか、ちゃんと説明しようとしたら網羅することになるんだよな。
……だからといって、あれはない。高二の時点で弧度法を使わせる癖に、弧度法を使う理由がわかる三角関数の微分は高三までやらないとか、それでいて三角関数自体は高一からとか。対数だって指数の指数部分に代入すれば一発なのに、いきなり対数関数だけで書かせてそのまま覚えさせようとしたり──
「……白井さん?」
「……ハッ!? ごめん、高校の頃の嫌なことを思い出してた。勉強頑張ってな」
「は、はい、それでは」
カチャリと静かに扉を閉めて駆は帰っていった。
久しぶりに思い出して、やはりと思うが……「とりあえずこのまま覚えろ」って丸暗記させにくる先生が本当に苦手だったんだよなぁ、俺。
とりあえず俺もなんだかんだで頭を使ったので、椅子に座って、少し休憩することにした。
俺が地球で死んでいたのは、まず間違いない。
しかし今日確かに確認したように、俺が地球で死んでから時間はあまり経過していない。
だが、物品こそないが、エルヴァンとして生きた証である転生後の世界で手に入れた【固定】の力は、今でも間違いなく扱えている。
日本で得た知識を基に行動した覚えも多々あるので、時系列が入れ替わっているということはないだろう。
夢だったという可能性も、恐らくはない。かなり好き勝手に行動したし、行動した結果はちゃんと残っていた。俺の頭はあそこまで長期間、現実的な世界を維持できる程よろしくはない。
魂だけの状態だったから、時間の流れの早い所でも平気だったとか? ……これはあり得そうだな。
時間の流れの早い所だったとするなら、今の俺がエルヴァンとして生きたあの世界に行ったとしても、知り合いは……。
そもそも行きようがないというのもある。アニマも居るし、俺がこのまま行ってもエルヴァンだと認識されるとは思えない。
というかあちらにはエルヴァンの体が死体になって転がってたりするんだろうか。……色んな意味で嫌だなぁ、それ。
エルヴァンだった頃のことを考えながらベッドで眠るアニマを見ていると、俺にも緩やかに眠気がやってきた。
……たまには、昼寝もいいか。
悠理が微妙に触れた弧度法を使う理由について、ちょっと文字だけだと分かり辛いですが補足。
微分、積分、という計算法がまず存在します。
例えばマクローリン展開という、微分を繰り返す事で近似値を求める級数(特定の形の総和)を導く計算法が存在します。
微分と積分を組み合わせる事で逆関数(X軸とY軸を逆転させた関数)も導けたりします。
つまり、三角関数の微分、積分が行われるのは、数学としては自然な流れなわけですね。
sin(x) や cos(x) を微分する場合、 sin(h)/h (あるいは sin(t)/t )といった式が途中で現れます。
この h をどちらも 0 に限りなく近づけていった際の値(極限値)が 1 にならないと、三角関数の微分が綺麗な形になりません。微分を繰り返す必要があるマクローリン展開等はとんでもない事になります。
sin(h)/h を 1 にするためには、『 h が角度を表せる値である』、『 h が 0 に限りなく近い時に sin(h) と限りなく近い値になる』といった条件を満たしている必要があります。
必然的に、この条件を満たせる弧度法が採用される事になるわけですね。
三角関数と同じ半径 1 (直径 2)の円弧でないとこの条件が満たせないので、弧度法は 2(直径) × π(円周率) = 2π で 1 周です。
高三までやりませんけど。工業高校とかだとやりませんけど。




