なき声
遠くからなき声が聞こえる。
あうう、あううと赤子の泣き声のような声が耳に纏わり付いて離れない。私はどうにも眠れなくなって布団の中で目を開けた。
「あれは、猫の発情期の時の鳴き声だよ」
私がまだ幼かった時分に兄に尋ねたときの返答だ。確かあの時は家族で食卓を囲んでいた。
闇で満たされた外から鈴虫の声に混じって聞こえる赤子の泣き声のようなそれに、私は恐ろしくなって兄に聞いたのだった。
兄の返答を聞いて一応、私は安心した。両親はそんな私達を見て微笑んでいた気がする。あの日の風景は奇妙に頭の片隅に残っていた。茶碗と箸が当たる音や私達を包んでいた温かい橙色の光をすぐに思い出すことが出来る。
その時の安心しながらも、ずっと抱いていた魚の小骨が喉に刺さったようなもどかしい違和感もまた未だに覚えている。
窓の外からは全く光が入ってこない。星の光も月明かりさえも無かった。
あの時と違い、鈴虫の声は聞こえない。眠気と緊張が混在した頭の中を、途絶えることの無い、なき声だけが反響していた。耐えられなくなってそろりと布団から這い出た。妻と子供を起こさないように静かに寝室を出る。そうしながら私は一瞬たりとも意識をなき声から離さないよう注意していた。
台所で鉄の味がする生ぬるい水を口に流し込んだ。
——あの声の主は本当に猫なのだろうか。
外から聞こえるそれにじっくりと耳を澄ます。それはまるで私を誘っているように途絶えなかった。
私の中で疑念がむくむくと湧き上がって心の中を埋めていった。
外に出て猫があの声で鳴いているのを確認すればいいだけだ。それで私は安心して眠ることが出来る。
そう思って、熱に浮かされたようなふらふらとした足取りで玄関まで歩いていった。心臓が早鐘を打って痛い程だった。どうしてそこまで緊張しているのか分からなかった。
玄関に着いた。喉まで心臓がせり上がってくる気分だった。玄関の戸に手を掛ける。瞬間、すうっとなき声が止んだ。
唐突な静寂が鼓膜を突き刺した。
首と額から汗がどっと吹き出た。私はひどく安堵していた。膝から下が震える程何かを恐れていたらしかった。
自分でもその理由を掴めないまま、妻と子を起こさないよう足音を殺して布団へ戻った。
もう外からは何の音も聞こえない。二人の静かな寝息が聞こえるだけである。
私は頻りに外を気にしながらもずるずると眠りに落ちていった。
朝になった。鳥の忙しない鳴き声で目を覚ました。
何か夢を見ていた気がする。思い出したくない気がして思考を止めた。
空には灰色のヒルのような雲が青空を食い潰すように散らばっていた。太陽は見えない。
妻はもう起きて居間で朝食の準備をしていたのだろう。居間への障子を開けるとふわりと湯気の香りがした。
「おはよう」
「あら、おはよう」
妻が手早く卓に白米と味噌汁を用意してくれていた。
私はそれをぽつぽつと食べながら、卓の反対でごそごそと何か仕事をしている妻に聞いた。
「なあ、昨日の晩のあの声を聞いたかい?」
妻は仕事をする手を止めて、何のことか分からない、と言うふうなきょとんとした顔をこちらに向けた。
「赤子の泣き声のような猫の発情期の鳴き声だよ」
「ああ、昨日の晩は聞かなかったけれど、たまに聞くわねえ」
「あの声は本当に猫だと思うかい?」
また、妻はきょとんとした顔をした後、可笑しそうに笑った。
「あなたが猫だと言ったんでしょう。それにあれは確かに猫の声だわ」
そう言ってから学校に行く子供に弁当を渡しに離れていってしまった。
私は思わず箸を使う手を止めた。妻に昨晩のことを質問したあの瞬間、何だか彼女の顔が彼女の顔でないように見えたのだ。
朝食を食べる気がしなくなって箸を置いて、そそくさと仕事の準備を済ませた。
「もう出るの? 今日は早いのね」
子供の服の襟の辺りを正していた妻がこちらを振り返って言った。その顔は確かに妻の顔だった筈だが、私は直視出来なかった。
「ああ。朝から会議があるんだ」
玄関の戸を開けると湿った、ぬるま湯のような風が私の頬を撫でた。
列車に揺られながら今朝の妻の顔を思い出していた。あの顔は確かに私の見慣れた彼女の顔ではなかった。それではあれは何だと聞かれると分からない。もしかしたら彼女は私に嘘をついているのかもしれない。彼女はなき声の正体を知っていたのではないか? 私は一度そう思ったら、段々そうとしか思えなくなってきた。
そうだ。あれは猫ではないのだ。私の兄も、妻も、隠しているのではないか。いや、もしかしたら周りの人間は皆、あの正体を知っているのかもしれない。そうして、私に隠しているのだ。
そこまで考えて、自嘲気味に笑った。
そんな訳があるか。
自分の拙い妄想を断ち切りながらも何時かのような喉に魚の小骨が刺さったような違和感は拭えなかった。
職場である学校に着いた。教員室の中にはちらほらと人の姿がある。
「おはよう」
今年入ったばかりの種崎君という新米の教師に声を掛けた。
「あ、おはようございます」
ふと気まぐれを起こした。
「時々夜になると赤子の泣き声みたいなもの聞こえないか?」
唐突な私の言葉に彼は戸惑っているようだった。
彼が考え込んでいた頭を上げた。
「ああ、あの猫の発情期の時の泣き声ですか?」
私は彼の顔を凝視していた。嘘や誤魔化しを見抜くためだ。
よく分からない。ただ、彼の顔がずれたように見えた。顔の動きに目と鼻と口が置いていかれたような感じだった。
私は彼の底をさらうように見つめた。
「どうしました?」
彼が怪訝な声音で言った。
「いや、何でもない。そうだそうだ、それだよ。あれは気味が悪いものだね」
ぐるぐると頭の中で疑問符が回り始めた。
彼と対峙していることに耐えられなくなって、「そうですねえ」と相槌を打つ彼の前から退いて、教室へ向かった。
教室に続く廊下を歩いていると生徒達の騒々しい声が聞こえてきた。教室の戸を開けて中へ足を踏み込む。
いつも通り教室は水をうったように、しん、とした。学級委員が号令をかける。がたがたと椅子と机を鳴らしながら全員が立ってから礼をし、また、がたがたと座った。
一つ軽く咳をしてから授業を始めた。
生徒達は真面目な顔で授業を受けている。私は全く落ち着かない。自分が何を教えているのかあやふやになってきた。手に力が入って黒板に当てていた白墨がへし折れた。
ずっとあのなき声が聞こえている。教室の後ろの隅の方にそれはいるようだった。生徒達の机の影から聞こえてくる。
しかし、それは幻聴に違いない。いつも羽虫一匹でも教室に迷いこめば反応する生徒達が、真面目な顔で授業を受けているのだ。昨晩のことを気にしすぎている自分が創り上げた幻想に過ぎない。そう理解している筈なのに声は止まない。
生徒達を見回る振りをして教室の後ろまで行って確認してやろうかと考えた。何もいないことは確信していた。
しかし、足は動かない。
教室の後ろまで歩いていく。声が聞こえてくる場所を覗く。その瞬間を頭に思い描くと、足が凍りついたように動かなくなる。両腕に気味の悪い鳥肌がぶわりと立った。何度想像してもそこに何かがうずくまっているのだ。大きさはちょうど猫か赤子と同じくらい。それがぬるりとこちらへ顔を向ける。その顔はぐちゃぐちゃに黒く塗りつぶされていた。
——もし本当に何かがいたら。
それを考えてしまう自分を笑いながらも私は一度もそこを見ることはしなかった。
考査の採点が終わる頃には教員室には誰もいなかった。自分の動き一つ一つが妙に大きな音になって部屋の中を反響した。まるで誰かが私の動きを逐一真似ているようだった。
窓の外は既に日が暮れている。出遅れたひぐらしの声が聞こえてくると、目の周りがじわりと熱くなった。
教員室を出た。後ろを振り返ると、校舎が私に覆いかぶさるように立っていた。自分がさっきまで、闇に沈むそれの中にいたことが信じられなかった。私は真っ黒な校舎とその中にいるであろう何かから逃げるように足早に駅へ向かった。
私は駅に着き、何時ものように列車を待っている。列車を待つ人々の顔は皆一様に憔悴しきっていた。頬はこけ、目は落ちくぼんで黒々とし、ひび割れた唇を呆けたように半開きにしている。皆、何かを呟いているようだが聞き取れない。小さな声が集まって獣の唸り声のように聞こえた。
突然、黄色い光が私の網膜を焼いた。車両が滑り込むようにして目の前に止まった。先程の光は列車の前照灯だったらしい。続々と降りてくる乗客の顔は、脂でてらてらと光って作り物に見える。全員が降りたようだ。空になった車両から橙色の明かりが漏れて、足元を流れていく。うそ寒く感じた。
車内に足を踏みんだ。先頭だった筈が既に何人も乗っている。私は仕方なく吊り革を掴んだ。
列車が鋭く汽笛を鳴らして発車した。発車の揺れでよろめいたのは私一人だった。
何とは無しに窓の外を眺めていた。目の前を街灯がちらちらと瞬きながら流れていく。それに合わせて私の頭も明滅して思考が纏まらなくなってきた。
窓に反射している車内の様子がどうもおかしい。先程までじっと縮こまって座っていた乗客が俄にそわそわし始めた。私を気にしているようだった。
音も無く乗客全員が立ち上がったのが窓に映った。背中に彼等の気配が押しかかるのを感じる。あのなき声が聞こえた。
後ろに覆いかぶさる彼等から聞こえてくるのだと思った。私の中に悲しみが溢れてきた。下をじっと見たまま、黙って立つことしか出来ない。顔の横を汗が伝っていく。それが床に落ちて音がしたのがはっきりと聞こえた。
そして気づいた。なき声は自分の口から漏れていた。あうう、あうう、と猫とも赤子とも思えない声が、震える私の口から零れ出ていた。彼等は黙って涙を流している。
そこで私は目を覚ました。立ったまま眠ってしまっていたらしい。
乗客は皆座っている。ほっとして下を見ると小さな水溜りが出来ていた。
列車が目的の駅に着いた。たった一つの裸電球だけが明滅しているホームに降りた。じりじりと音を出す電球は今にも消えそうだった。
家まで歩かなければならない。何時ものことなのに妙に面倒に感じた。
とぼとぼと歩いていると、いつあの声が聞こえてくるのかと恐ろしくなってきた。また聞こえることは分かっていた。
何だか何時もより家までの道が長く感じる。ずっと両脇に腰の高さ程の茂みが続いている。建物は一軒も見えない。数歩先も見えないほど暗いのに奥の方に黒々とした山が二つ見える。空は低い雲に覆われている。
なき声が聞こえた。あうう、あうう、と私を呼んでいる。右側の茂みから聞こえてくる。私は躊躇わずに茂みに踏み込んだ。地面はぬかるんでいて、足元がぬらぬらと鈍く光るのが見えた。
段々と声に近づいてきた。あと数歩で辿り着くことが出来る。もうこの声は止まないことを確信していた。
足が止まった。声はすぐ下から聞こえる。腰まで生えている草が邪魔で姿は見えない。手で少し草をどかせば見えるだろう。
不意に恐ろしくなった。なき声それ自体にではない。
なき声の主が猫ではなかったら? もし、赤子か、または別の何かだったとしたら?
私はどこまで疑えばいい? 兄も妻も同僚も疑わなければいけないのか?
それを思うと体の毛が逆立つような恐怖に襲われた。彼等がなき声の正体を知らないとはどうしても思えなかった。私に隠している。そうとしか思えない。
今、なき声の主の姿を見てしまったら、私は誰も信じられなくなる。それはあまりに恐ろしい。
考えている間もなき声は止まない。
私はなき声に背中を向けた。本当のことなど知らない方がいい。茂みを抜けて道へ戻ろうと思った。そうして、一歩足を踏み出そうとした瞬間、私はひどく後悔した。呼吸が荒くなり、視界がチカチカと明滅する。膝が震えて動けない。悲しいのやら恐ろしいのやら分からない感情に潰されて思考が止まる。
私は錆びついた機械のように首を後ろに回して声のする場所を見た。
毛のない、つるりとした湿った何かが私の足首を掴んでいた。