鬼憑きちゃんの些細な幸福防衛録
私にとって大切なものはたった一つだけだった。大好きなあの人と過ごす時間。学校に行って、あの人を見て、あの人の授業を受けて、教室という同じ空間であの人の存在を感じる。たったそれだけのことが私にとっては何物にも代え難い幸福であった。
多くを望むことはない、一方通行の好意であっても構わない。あの人がただそこにいてくれるだけでいい。だから、ずっと、そこで貴女には笑っていて欲しかった。
「鏡見さんっ!!」
目尻に涙を溜めながら、あの人は私を呼ぶ。貴女にだけは笑っていて欲しかったのに、結局そんな願いすらも叶いはしなかった。
「鏡見さんっ、お願い、返事をして、お願い……!」
祈るように手を握られる。それを握り返したいのに思うように力が入らなくて、あの人の目から涙が零れ落ちる。
「――クォオォオ!!」
甲高い雄叫びが空気を震わせた。ぼやけた視界で私はそちらを見る。3メートル余りの体躯を持つ黒い獣、ライオンを思わせるフォルム、伸縮を自在とする二つの尾。幸福な日々を奪った憎い存在がそこに居た。
国語の点数があまり良くない私を思って先生が補修をしてくれた放課後のこと補修を終え、丁度帰ろうとしたそのときだった。一階にあった教室に大きな穴が開き、その黒い獣は姿を現したのは。
黒い獣は何故かあの人を目掛けて攻撃を仕掛けた。おおよそ人では耐えきれないないであろう一撃。それが当たればあの人は生きてはいられないだろう。
だから、私は庇った。死んでほしくなくて、あの人の笑顔を絶やしたくはなくて。
――それなのに、結局貴女は泣いてしまった。
「……お願い、お願いだから、死なないで」
ゆっくりとだが、確実に黒い獣が近づいてくる。それなのにあの人は逃げずに私を呼んでいる。死なないでと祈っている。
私のことなんて気にせず逃げれば助かるかも知れないのに、こんな私なんかのために震える体を抑えてまでここに留まって名前を呼んでくれている。
なんて、馬鹿な人なんだろう。なんて馬鹿で、なんて優しくて、なんて……なんて強い人なのだろう。脆い人の身であの巨獣から逃げずに自分ではない者の身を案じるなんて。
――ああ、でも、だからこそ私はこの人を。
「……せ、んせい」
「鏡見さんっ! あぁ、良かった、本当に良かった……!」
抱きしめられて私の体に先生の温もりが伝わってくる。あの日と同じ、変わることのない温もりが。
「せん、せい。わたしは大丈夫です、だから……先生は逃げてください」
「――っ嫌です! 生徒を見捨てて逃げるなんて教師として、いいえ、一人の人間として絶対にできません。逃げるのなら鏡見さんも一緒にですっ!」
それが不可能なことなんて先生もわかっているだろうに。でもそういって貰えるのはすごく嬉しかった。過去、私にはそういってくれた人なんて貴女は以外いなかったから。
「ありがとうございます。すごく、嬉しいです。その言葉。だからこそ、先生には逃げて欲しい。これは、見捨ててと言っているわけじゃないんです。ただ――」
――これからの私を見て欲しくない、そんな私の小さな我が儘なんですから。
「それはどういう」
「時間、ですね。本当は貴女だけには見て欲しくなかった。あの私は酷く、醜いですから」
獣はもうすぐそこに居た。私たちの終わりを愉しむように静観を決め込んでいたが、それももうタイムリミットのようだ。
もういいだろうとばかりに獣は呻き声を漏らす。
うん、もういいよ。私を抱きしめていた先生の手を外して立ち上がる。不思議と痛みは引いていた。
★
稀に産まれながら異形を宿すものがいる。それは『鬼憑き』と呼ばれ、厄災を招く者と忌み嫌われてきた。恐れられ、蔑まれ、人のなり損ないと呼ばれる存在。
それこそが私の正体だった。
人であって人でない、化け物としてのずっと嫌いだったし、今だってそれは変わらない。
けれど、この状況を何とかできるとしたら鬼憑きとして自分しかいないだろう。嫌われてしまうかもと思うと堪らなく怖い。
――ああ、それでも、貴女を亡くしてしまう方がもっと怖いから。
スイッチを切り替える。人としての自分から化け物としての自分へと。変化は一瞬だ。髪は黒から白へと変色し、地に着く勢いで伸びていく。肉体が変化するにつれて視覚が鋭敏になる。眼球は赤く染まり、額からは二つの角が生えて行く。伝承の鬼のような風貌へと変わった自分の姿は、三者の目にはどう映るだろう。やはり、化け物だろうか。
「――その、姿は」
驚愕によって呆然とした声を背に私は地を思い切り蹴り、その勢いのまま獣の体を右足で蹴り飛ばす。
人の身という拘束具を脱ぎ捨てたことにより身体能力の全てが上昇している。ゆえに巨体と言えども蹴り飛ばすことぐらいは訳は無い。
戦い方など知らない。武術なんて習ったことも見たこともない。それでも、体には刻まれている。人としての戦い方ではない、さながら獣のような鬼憑きとしての戦い方。
蹴り飛んでいった獣を追いかけグランドに出る
頭部から地を流した状態で、激昂を孕んだ眼を獣はこちらに向けている。
次に仕掛けてきたのは獣の方だ。巨体からは想像もつかない早い動きで迫ってきたかと思うと、首元を狙い鋭利な牙を突き立ててくる。避けることは不可能だと悟り、咄嗟に左手で防御する。
容赦なく食い込んだ牙は左腕の皮膚を容易く突き抜け、骨すら砕いた。噛みつきを解くべく右手で力いっぱい頭部を殴りつける。それによりほんの僅かに噛みつきが緩んだことを確認すると後ろに退き距離を取る。
尋常じゃない痛みが左腕を襲う。骨を砕かれたのだから当たり前だ。左腕に意識を集中させ、再生力を向上させる。
鬼憑きの特徴にはズバ抜けた身体能力の他にもう一つ、並外れた再生能力が挙げられる。といっても精神を集中しなければならない上に体力の消耗も尋常ではないため多用できるものではない。だから今回やることはほんの僅か、痛みを少しでも緩和させるために再生を使う。
僅か2秒程だが、それでも痛みは若干和らぐ。砕かれた骨も少しだけだけれどくっ付いている。
これなら戦える。獣の方も回復したのだろう。一点に留まっているわけにはいかないと横に飛んだ瞬間、私がいた場所に獣の前足が大きく振るわれた。それにより地面が大きくひび割れる。
力もスピードも優っているのは向こう。このまま長引けば負けるのは必至であった。かといって戦術など思いつく脳などありはしない。ならばどうするか、決まっている。死ぬ覚悟で挑む、ただそれだけだ。
思考を削る。今この場において理性なんてものはなんの役にも立ちはしない。ただただ本能的に、神経だけを尖らせる。
「ぁあああぁああ!!」
自己の鼓舞するように獣の如く叫び声を上げる。そしてそれに呼応するように黒い獣のも大きく吠えた。さっきまでが1ラウンド目ならばこれからは2ラウンド目だ。
獣と鬼憑きの攻防。黒と白が衝突するたび互いの体に傷がついていく、砕かれては再生させ、切り裂かれては蹴り飛ばし、噛みつかれては拳を入れる。弱いほうが、立てなくなった方が死ぬという極めて単純なルールのもとで戦いは激化していく。
何度とない激突末に先に膝を着いたのは私だった。体格による差、攻撃回数自体は大して変わらなくとも与えるダメージは向こうが上だ。はぁはぁ、と肩で息をする。体力的にも限界は近かった。
そして、遂には足が耐えられなくなったのだろう。私の体は地へと沈んだ。全身に掛かる痛みと倦怠感。再生には多量のエネルギーを使う。それをこうも連続で使用すればこうなるのも必然だった。
――このまま、死ぬのだろうか。
あの人はきっとまだあの校舎の中に居る。私が死ねば、目の前の黒い獣はあの人を襲いに行くだろう。あぁ、それだけは許せない。それだけは。そうだ、私がこのまま死んだら誰が、誰があの人をこの状況から守るのか。
力が戻ってくる。否、力をひねり出す。あの人を守らないといけない、そのためには何が何でもあいつを殺さなければならないのだから。
途切れそうな意識を無理やり繋ぎ止めて立ち上がる。
――限界だと、体は言っていた。
――もう無理だと魂は告げていた。
――けれど、心は、心だけはまだ。倒れるわけにはいかないとひたすらにそう叫び続けていた。
「ァアアァアアァアアアァ!!!!」
力を振り絞り、奴の懐に飛び込む。虚を突かれ、反応の遅れた獣の懐はガラ空きだ。これで、終わらせる。
精神力、生命力、自分の持つ全ての力を右腕へと集中させる。
バチリ、と拳から紅い稲妻が迸った。込めたエネルギーが別の何かへと変換されたのだろう。
そして、大きな衝撃と雷撃を伴って、私の拳が獣の体を撃ち抜いた。
「――どう、して、人間なんて、守ろうとするのだ」
今まで雄叫びしか上げなかった獣がそう言葉を発した。死に際の獣の言葉、たった一言なのに私にはその獣の正体がわかってしまう。
「――貴方も、私と同じ」
「そう、だ。我らは人間共にずっと、ずっと!! 虐げられてきた! だからこそ、我らには復讐を行う権利がある!! なのに、なぜ貴様は、我らが同胞の癖に、復讐の邪魔をするのだ!! 貴様は、奴らが憎くはないのか、同胞よ!!」
何故か、その答えは決まっていた。
「私も貴方達ときっと同じ、人間は今でも憎いし怖い。けれど、私はそれだけが人間じゃないことを知ってる。それを教えてくれた人はとんでもなくお人好しで、得体の知れない私に手を差し伸べて、抱きしめてくれた。冷たいことだらけの日々の私に温もりをくれた」
それが、何よりも嬉しくて、幸せだった。
「だから、あの人だけはなくさせない。例え、私と同じ存在と戦うことになったとしても、貴方たちがあの人を傷つけると言うのなら、私はそれを許さない」
だから、ごめんなさい。私は貴方たちの復讐には付き合えない。
「……そう、か。貴様は、鬼憑きとして生きながらも暖かさを知ったのか。あぁ、それは、それはなんて――」
――羨ましい。
消えゆく中で獣が最期にそんな言葉を発した気がした。
ほんの少し後味の悪い最後とはなったものの、これであの人は守れたのだと思うと安心感がこみ上げる。
「鏡見さんっ!!!」
遠くから聞こえるあの人声を聞きながら、私の意識は深い闇の中へと落ちていく。
目覚めるとそこは病院のベッドだった。
なんでこんなところに、と一瞬疑問が脳を掠めたが、すぐに倒れる前の出来事を思い出して病院にいる理由を理解する。
そうだ。あの人の前で変身してしまったんだ。
思い返して気分が落ち込んだ。きっと、嫌われてしまっただろうな。気持ち悪い、とか思われたかな。他の人に冷たくされるのは慣れたことだから構わないけど、あの人にだけは冷たくされたくないな。とかそんなようなことばかりが頭に浮かんでは消えていく。
あの人に冷たく見られるのならいっそ。
「何処か遠くにでも行っちゃおうかな……」
そんな考えを巡らせいた私は病室のドアがノックされたことにも気づかず、ましてやドアが開かれ、あの人が入って来ていたことなんて気づきもしなかった。
「遠くってどこに?」
「――っえ、あ、せんせい、どうしてここに」
「どうしてって、勿論お見舞いに、です」
「お見舞い……」
「はい。それより何処かへ行ってしまいたいって、どこか旅行にでも行くのですか?」
こてんと首をかしげて先生が私に聞いてくる。首を傾げている先生も可愛いなぁ。
「えっと、旅行とかでは、なくて」
「では、やはり今回の件のことで、ですか……?」
私はそれになんて答えたらいいのかわからず口を閉ざす。そんな私の無言を肯定と受け取ったのか悲しげに眉を下げる。
「そう、なんですね……。私が教師として不甲斐ないばかりに、鏡見さんを危ない目に合わせてしまって、嫌われてしまったとしても当然ですね……」
「ちが、違います!!」
「でも、鏡見さんは逃げて欲しいと言っていたのに私は。なにかできることがなんて思い上がりで行動して、結局、鏡見さんの足手まといになっただけだんですから。本当我ながら情けないですね。教師としても、一人の大人としても」
「そんな! そんなこと、ないです……。先生がいたから私は、守ろうって守りたいって思えて、その、力が出せたんです。だから、先生を嫌いなったとかじゃなくて、寧ろ先生のことが大好きで――って、そうじゃなくてそのっ」
考えがまとまらなくて変な方向に思考が流れる。それを落ち着けるために一度息を大きく吸う。
「私がその、心配だったのは。先生が私のことを嫌いになったんじゃないかってことで」
「嫌いに? どうして?」
「先生も見ましたよね、その私の本当の姿。醜くて、穢らわしい。鬼憑きとしての姿を、だから」
「はい、確かに」
ほら、やっぱり。見られていないなんてそんな期待はありえない。
「強くて、格好良くて、私を懸命に守ろうとしてくれた。そんな優しさに溢れた、私の大切な生徒の姿を」
それは思いもよらぬ言葉だった。だってそうだろう。あの私はあんなにも醜くて、怖いはずなのに。
「――怖いとか思わなかったんですか。だってあんなにも私は」
「怖いだなんて思うはずがありません。姿が変わった時は確かに驚きましたが、ただ外見が変わっただけです。その中身は同じ、優しく、物静かで、それでいて強い情熱を秘めている、鏡見めぐみという子に変わりはなかったのですから」
そういって私の体が抱きしめられる。
「ありがとう、鏡見さん。貴方のおかげで私は今ここにいることができます。本当に……ありがとう」
ああ、泣きそう。いや、実際はもう泣いてしまっているのかも知れない。だってこんなにも視界がぼやけていて、先生の姿さえはっきりとは見えないのだから。でも不思議だ。昔から辛くて、苦しくて、泣いたことは数えきれないほどあったのに。今日の涙は昔のものとは全然違う。だって、こんなにも胸が、心が温かいのだから――。
貴女はいつも私に温もりを与えてくれる。なにもかもが苦しくて逃げ出したあの日のように。
きっとあの日受けた優しさも貴女にしてみれば当たり前のことだったのだろう。けれど、その当たり前が私には嬉しかった。だってそれは私が今まで一度も受けたことのない『当たり前』だった。そしてあの時、手を差し伸べて貰った時から誓ったのだ。貴女を守りたいと。
だから、これからも変わらない。なにと敵対することになろうとも。貴女という幸せを決して失わせない。
それがきっと私に出来る精一杯だと思うから。
読んでくださった方ありがとうございます。
浮かんだ一シーンを書いただけなので、需要のあるなしに関わらずまた続きを書きたいなと思っております。その時はどうかよろしくお願い致します。
また、なろうでは初投稿のため、ジャンルの選択がこれでいいのかわかりませ。そのため、なにかありましたらご指摘して頂けると幸いです。