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エンゼルランプとフキノトウ

作者: 南雲 楼

「もう、泣かないでよ」


 松明が等間隔に照らす石造りの廊下に、低い、諭すような声が響いた。人が入るには大きすぎる格子のついた扉が並ぶ中、一か所だけ扉が閉じられている牢があった。そして、その扉の格子にすがりついてしゃがみこむ人影。しかし、廊下に響いた声と、その人影はそぐわない。人影は二十歳にも満たない位の少女であった。


 少女の顔の丈よりも長く鋭い爪のついた指が、格子の隙間から顔を上げない少女の頬を流れる涙をぬぐった。


「明日になれば、君は英雄になれるんだよ」



 指の主は自身と彼女を隔てる格子に顔を近づける。その顔はヒトとはかけ離れたイヌ科の獣の物であった。体躯もヒトと比べて大きく、逞しい。人類と大きな禍根を持つ種族、《ファー》の少年だった。


 《ファー》とは毛皮を語源とした種族の名称である。ヒトの二倍ほどの大きさで身体は毛皮に包まれており、頭部はイヌ科の獣のような形状をしているのが特徴だ。古来よりヒトと対立していたこの種族は時が流れた今でも争いが続けられ、お互いに何かと殺し合う世の中となっていた。



「あなたが死んで、普通の人になれたって嬉しくない」


 鼻をすすりながら少女は顔を上げて《ファー》の少年を見る。その目はずいぶんと泣きはらしたことがわかるほど赤く、腫れていた。



 この少女も普通の人間ではない。長年差別を受けてきた下位の階級の出自である。そして、その中でも最下層の者に回されている職業、処刑人であった。処刑人は彼女の家系に代々継がれている職業だ。上流階級の者は殺人を穢れた行為として忌み嫌うため、一番階級の低い民に仕事を押し付けていた。


明日、少女は怪我をして仕事のできない父に代わり、重罪を犯した《ファー》の少年の処刑を執行することになっている。だが、獣の少年は笑みを浮かべた。


「普通の人じゃなくて英雄だぞ? 人類はどんな形であれ《ファー》を殺したらクンショウ? がもらえて英雄になれるんだろ? それに、英雄になれば処刑人なんてやらなくて済む」


「そうだけど! 違うんだって……、あなたを処刑して階級が上がれたとしても嬉しくなんてないの!」


 泣きながら喚く少女を見て、少年は困ったような表情を作る。


「でも、君の家はこの前反政府団体に攻撃されただろ? 処刑人は国の犬だって。この前の事が初めてじゃないって聞いたけど。そんな危険なことを俺は続けてほしくない」


「だからって、あなたが殺されることはないのに」


「でも、俺があいつらを全員殺さなければ、君は殺されていただろ? 殺されるならまだいい。拷問されるかもしれないし、売りさばかれるかもしれないだろ?」


 少女は言葉を返そうとして、言い淀む。彼の言葉が的を射ていたため、反論ができなかった。少年の目は血を浴びて彼女を救った時と同じ目をしていた。優しく、強い決意を感じさせる瞳だった。





 ある日、自宅で眠っていた少女は響く振動で目を覚ました。硬い物が砕かれる音。男の怒鳴り声。少女は記憶の底に手をかける。昔、父親が処刑人の傍らで副業として行っている農業の勉強をし始めた頃。上流階級の子供が学校に行き始める年齢の頃。彼女の家は今と同じような音で包まれ、住む場所を移動せざるを得なくなったことがある。


 少女はベッドを出て、居間に向かおうとした。しかし、部屋を出たところで眉間にシワを寄せて肩で息をする父親と顔を合わせた。彼は彼女の手を引くと物起きに連れ込み、少女を物陰に隠した。


「お父さん……? どうしたの?」


「反政府団体だ。助けが来るまでここに隠れていなさい」


 元から険しい顔の父親の表情はいつにまして険しく、少女の反論を許さなかった。父親は少女の綺麗な髪を撫でると、彼女に背を向けて物置を出て行った。


 父親の言葉から呑み込めた現状。子供の時と同じだ。少女は震える息を漏らした。処刑人は最下層の人民唯一の政府直属の職業であるため、反政府団体から敵視されている。つい先日、反政府団体の幹部十数人が公開処刑された。そのせいで彼らの活動に火がついたのだろう。窓が割られる音が耳に飛び込む。少女は震えだした肩を押さえると息を殺した。



 しばらく、物の壊される音や怒号におびえ、物陰で縮こまっていると、突然男の悲鳴が聞こえた。悲鳴というよりは断末魔だ。さらに盛り上がる怒鳴り声。少女の頭に父親の顔がよぎる。今の声は父親なのではないか。そう考えると、一層体が震えだした。確かめに、できることなら助けに行きたいのに、体が動かない。


 少女がどうにか立ち上がろうと手足に力を込めた時、違う断末魔が聞こえた。続いてさらに違う叫び声。処女の頭に疑問符が浮かぶ。もし父の身に何かあったとしたら、あの声は最初の一度しか聞こえないはずだ。事態が呑み込めず、何が起きているかも考えたくなくて、少女は目を閉じて耳をふさいだ。



 突然、物置の扉がゆっくりと開かれた。固まる身体。響く重い足取り。そして、何か大きなものが少女の肩をつかんだ。感触に驚き、目を見開いた。驚きの余り、声が出ない。少女は耳から手を放しながら恐る恐る振り向いた。


「ごめんね、遅くなった」


 そこにはイヌ科の大きな頭があった。見慣れているはずのその顔はところどころ傷を負っていて、口元は血で濡れていた。しかし、優しい目は変わらない。《ファー》の少年がいた。赤く濡れた彼の容貌から、彼が何をしたのかわかってしまう。


「どうして」


「君に会いに来たんだけど、家の方から火薬の臭いや物が壊れる音がしたから、何かあったんじゃないかって」


 少女の体から力が抜ける。そこで自分をここに隠した父のことを思い出した。


「あ、お父さん……は?」


「大丈夫。ひどい怪我だけど生きてる。大丈夫だよ」


 よかった、と呟くと少女の目から涙が流れ落ちた。少年は少女を抱きしめると口を開いた。


「じゃあ、もうすぐお別れだね」


少年の言葉に時が止まる。少女はゆっくりと顔を上げると、様変わりした彼の顔を見た。血を浴びた彼はまさしく獣の形相だ。だが、瞳は違う。優しく、決意を秘めていた。そして、あることに思い至る。


「あなた、自首するつもり……?」


「そうだよ」


少年の毛でおおわれた腕に少女の指が触れる。


「犯罪は、犯罪なんだよ?……それにこんな事件を起こしたら《ファー》じゃなくたって死罪なのに。今逃げれば、きっと警団から逃げ切れる」


「わかってる。でも」


 少年は言葉を区切ると少女を抱く腕に力を込めた。名残惜しむように。少女の温度を神経の奥に刻み込むように。静かに抱きしめた。そして耳元でささやいた。


「俺は君を守りたい。《ファー》である俺と、友達になってくれた君を守りたい。それだけなんだ」


 その言葉が少女の脳に染みるより早く、人の話し声と足音が聞こえた。銃を持った人間が部屋に飛び込む。町の警団であった。彼らは少年を囲み、銃を向け、投降の意思を少年に問うた。少年は少女から手を離し、低い声で“これからデザートだったのに”と呟くと、両手を上げて警団に向かった。


「クソムカつく人間を十何人か食えたしいいや。殺せよ」


 少女の聞いたことのない、暗く、外見通りの獣のような声で言う。彼の言葉が演技であるとわかる者は少女ただ一人だ。口を血で染めた獣がそのような言葉を口にすれば、彼を知らない人間にとってはその言葉が彼の本意となる。じわじわと彼の言葉の意味が心に浸透していく。


 彼の言葉が頭を駆け巡る。人類の何倍もの筋力のある《ファー》でも簡単には壊れない枷で拘束されて連れて行かれた彼の後姿を見送ることしかできない。今すぐ少年を連れて行こうとする警団を止めたい。だが、彼の思いを無駄にできない。


 警団の団員に支えられリビングに戻ると、そこはほとんどの物が壊され、とても生活できない状況になっていた。重傷を負ったらしい父親はすでに町の医院に搬送されたらしく、姿はない。


 警団の捜査員による事情聴取が行われるも、犯人として取り押さえられたのが《ファー》であったためか、捜査員の中ではすでに結論が出ていて、少女が相槌を打つだけで切り上げられた。


 処刑人の家を襲撃した反政府組織を《ファー》が食い殺し、処刑人の娘が殺される寸前で犯人が取り押さえられた。少女は少年の臨んだシナリオと同じだろうと判断し、ただうなずくだけであった。本当は反論したい気持ちでいっぱいであったが、彼のしたことを無駄にすることは彼の決意に対する冒涜だと自身に言い聞かせた。反論したとしても罪は罪だ。彼が死罪を免れることはない。


 家がこの状況では生活ができないため、少女は警団に紹介された宿泊施設に向かうべく、無事な荷物をまとめた。家を出るとき、倒れた鉢植えが視界に入った。こぼれた土。そこに植わっていたエンゼルランプが目についた。


 少女が物心つく前に病気で亡くなった母が好きだった花らしい。父親がよくその話をして欠かさず世話をしていた。彼の話を思い出す。確か花言葉は“あなたを守りたい”だ。


 瞬間、少年の言葉が思い出され、目から涙がこぼれ落ちた。嗚咽は止まらず、膝をつく。どうして彼はこんな自分のために自ら死地に向かうような真似をしたのだろう。彼が願ったのは少女を英雄にすること。この社会から守ること。涙が出なくなっても嗚咽は止まらなかった。





 少女は一週間ほど前のことを思い出し、また涙を流した。何度思い返しても、溢れるものは絶えなかった。


 少女の脳内に張り付いた記憶はそれであったが少年が最も強く想起する記憶はさらに昔、十年以上も前の物だった。



 温かくなりつつある季節、少年は人目を避けて森の中を駆けていた。少年の家は森の中に隠れるように作られた《ファー》の集落から離れたところにあり、生活用品を取引するにはかなりの距離を移動しなければならなかった。まだ幼いとはいえ、すでに長距離移動するには十分な身体能力を手にしていた少年は親の手伝いとして《ファー》同士の交流に使われている規模の大きな集落に向かっていた。


 そんな時、がさがさ、と草が揺れる音が鼓膜に伝わった。何らかの動物だろうか。物々交換に出せる肉になりうるだろうか。少年は音の方角に向かった。


 音の主のもとにたどり着く。少し血の匂いがする。がさがさと草を揺らしていたのはウサギでもイノシシでもなく、自身の敵対している種族であるヒトの少女だった。道にでも迷ったのか目に涙をためてふらふらと彷徨っている。転んだのかボロボロの上下が一繋ぎになったスカートの服から露出した足は傷だらけだった。



 唯一の肉親である母親から“人間は敵だ”と、“父親を殺し、仲間を狩り続ける悪魔だ”と教えられていた。もしも森の中で出会ったら背後から襲って殺し、集落に持っていけばかなりの高値で取引できるとも。しかし、少年には少女がどうしても、どうしても殺すべき悪魔に見えなかった。


「君、何してるの?」


 少年は興味から少女に声をかけてみた。声をかけた瞬間、少女の体は硬直する。脅かしてしまったのだろうか。少年は少女に歩み寄る。少女はぎこちなく振り返ったが少年の姿を見ると怪訝な表情になる。


「人間じゃないの……?」


「《ファー》って種族、知らないの?」


「……初めて見た」


 少女は物珍しげに少年の姿を見つめると彼の毛だらけの腕に手を伸ばした。少年は瞬時に手を引っ込めて少女の手を躱す。


「……あ、ごめんなさい」


「いや、違うんだ」


 申し訳なさそうに目を伏せる少女に対して少年は取り繕うように言葉を続ける。


「君たち人間が俺たち《ファー》に自分から触れたことがばれたら穢れたって言われて殺されちゃうよ? 前にそんな人間がいたって話を聞いたことがあるんだ。俺たちは人間に嫌われてるから」


 少女はきょとんとした表情で少年の言葉に耳を傾けた。


「でも、ここには私とあなたしかいないよ? だから触っても怒られないよ?」


 確かにそうだ。笑みが込み上げる。こんな森の奥深くに来る人間はほとんどいない。いたとしても自分の聴覚なら相手に気づかれる前に察知することができる。少しだけ少女と話してみたいと思えた。



「君はどうしてこんなところにいるの? 道に迷ったの?」


「知らないおじさんたちに連れてこられたの。でも置いていかれて帰り道もわからなくて」


 少年は少女の服を見る。衣服に興味を示さない《ファー》の目から見ても安っぽい素材で敗れているところ以外にもほつれが見える。おそらく人間の中でも身分が低いのだろう。


「多分あの人たち、お父さんが嫌いなんだと思う。お父さんと喧嘩してたから。それで私を引っ張って森まで連れてきたの。お父さんに意地悪したかったんだと思う……」


 どうやら彼女の父親と敵対している人間による嫌がらせらしい。嫌がらせというよりは規律で罰せられてもおかしくない。人間の規律はわからないが。少年は少女を抱き上げる。


「俺が君の街の近くまで連れて行ってあげるよ。どこから来たの?」



 少年は少女の話を聞くと、彼女を背に捕まらせて地を蹴った。少女の家は少し遠いが十分走れる距離だ。彼女を送り届けてから集落に行ったら帰りは遅くなる。母親にはどう言い訳しよう? 一瞬そう考えたが、すぐにどうでもよくなってしまった。母の説教よりも、人間の少女に対する興味が勝った結果だ。


「君の街に着くまででいい。よかったら人間の世界のことを教えてくれないか? 人間からしたら俺と話すことは嫌かもしれないけど」


「嫌じゃないよ? 私、あなたともっと話したい。お友達になりたい。また会いに来てもいい?」


 少年はその言葉に耳を疑った。少女を送り届けるべく動かしていた足を止めるほどに驚いていた。


「何言ってるの? 君たち人間は本当は俺たちと関わっちゃいけないんだろ? 俺たちは敵だって親に聞いてるんだろ?」


「でも、あなたは私に何もしなかったよ? 《ファー》がみんな敵なんてことはないんでしょ? あ、他の人に見られるのを心配してるなら、誰もいないところでだけ会うから!」


 少女の言葉に反論する術はない。少年はまた走り出した。獣道を、駆ける。


「ホントにいいんだね? 俺なんかと友達になっていいんだね?」


 元気に肯定する少女の声が耳に入る。自分たちを否定しない人間に会えた。家族の言うように、《ファー》を狩る者ではない人間に出会えた。それが嬉しくて視界がぼやけた。


 それから少年と少女は合う回数を重ねた。他の人間や《ファー》に見られることがないように常に周囲に気を配りながらであったが、二人はそれで満足であった。種族の壁があれど友情には何の支障はく、互いにかけがえのない存在となっていった。





 少年は過去の少女から、今格子の向こうで嗚咽を漏らす少女に意識を向ける。檻の隙間から出した爪で自分と比べて小さい少女の涙をぬぐった。少女は指を掴み、頬を摺り寄せる。


「俺は君に感謝しているんだ。俺と友達になってくれた君に。返しきれないほどの感謝を。もう何度も言ったことだけどね」


「わかってるけど……。そうだ、今からでも真実を話して」


「だから。君がいくら主張したって犯人は全員俺が殺したんだし、信じてくれないって。それに……どんな事情があれど俺のしたことは罪なんだ。たくさんの人間を殺したんだ。俺が《ファー》だからとか、もう関係ないよ。きっと人間でも処刑されるさ。それは処刑人の家系の君ならよくわかってるだろう?」



 少女は頷く。そのたびに涙がこぼれて冷たい石造りの床に染みを作る。彼女の眼はうかがえないが、きっと自分の想いを受けっとってくれた――そう信じたかった。


「わかった、わかったよ」


「ありがとう、幸せになって」


 それが俺のやり方だ。少年は常日頃から考えていた。少女をあの階級、あの仕事から救うにはどうすればいいのだろう。他の人間からは敵として扱われる自分はどうすれば彼女を一人の人間として扱われる人生を歩ませることができるのだろう。今回の事件は偶然にも状況が整っていた。人間を殺した《ファー》を殺せば英雄となれる。ずっと昔にそうやって上流階級に上り詰めた処刑人もいたらしい。ずいぶん昔に少女に聞いた。彼女を守るには自分を捨ててでも、人間の法律を利用するしかなかった。



 指から少女の手が離れる。懐中時計を開いて息をのむ。


「もう朝が近いの」


「そっか。じゃあもう戻らないとね。こんなとこにいるのが見つかったら――」


「わかってる。わかってるよ」


 何度もわかってる、という少女を見て顔がほころぶ。“わかってる”というのは彼女の口癖のようなものだった。泣くときは何を言ってもわかってる、と強がるのだ。そんなところも愛おしい。


 少女は涙を拭って笑顔を作った。


「いままでありがとう。でも、二人で幸せになりたかった」


 その笑顔はどう見ても作られたもので、壊れそうだった。


「俺の方こそありがとう。きっとつらいこともある。でも。君なら一人でも必ず幸せになれるから」


 目頭が熱くなる。少女は走り去った。自分一人しかいない牢獄にドアの閉まる音が響く。



 冷たい壁に体を預ける。毛皮でおおわれているとはいえ、体の芯から冷えていく感じがする。ずっと二人で生きてきた。その相手と会えるのは自分が殺されるときのみ。また過去に意識を飛ばす。とても幸せだった。よく二人で森で遊んだ。倒木に座って彼女の買ってきた人間の食べ物を食べた。そして、よく二人で階級も種族も差別されない場所を探して死ぬまで一緒に暮らしたいと話していた。その笑顔を守りたいと思った。ずっと、ずっと――


 そして、気づいた。少女の幸せは自分なしでは満たされないことに。


 そうだ。彼女もずっと言っていたじゃないか。二人でいることが幸せだと。何度も何度も何度も何度も言っていたじゃないか。少年と会うたびに、口にしていた。人によっては彼女の言葉が嘘くさく聞こえるほどに、人によっては聞き飽きてしまうほどに。


「俺は、君の幸せを奪ってしまったのか」


 誰もいない、冷たい地下牢に少年の咆哮が響く。初めての号泣、慟哭であった。人を殺したときも、警団に捕縛され、死刑を宣告された時も、一度たりとも泣かなかった異形の少年は、初めて涙を流し、吠えた。


 確かに少女は守られた。生命の危機を脱し、少年を処刑した後、《ファー》を殺した英雄として、普通以上の階級で生活していくことになるだろう。石を投げられることもなく、罵声を浴びせられることもなく。一定の、いや、かなり地位の高い仕事について生きて行ける。処刑人の仕事からも解放され、警備のしっかりとした地区に住めるだろう。反政府団体に襲われるということもないはずだ。


 確かに命や生活を守ることはできた。だが、幸せを守ることはできなかった。彼女の幸せは少年と共にあり、その少年を処刑するという責務を負わせてしまった。少女が自分を忘れない限り、幸せにはなれない。彼女にはきっと少年を忘れることはできない。俺が彼女の幸せを奪い、これからを壊してしまった。


 少年の号哭は冷たい壁に反響し、ついには松明の光に吸い込まれて消えた。





 空は晴れていた。雪は溶けだし、緑色の草が顔を出していた。広場の処刑場には多くの人が詰めかけていた。人間を何人も食い殺し、処刑人の男性に重傷を負わせ、その娘を食い殺そうとした《ファー》の少年が処刑される。人々の胸中は様々であったが、どれも少年の死を楽しみにしていることは確かだった。


 沸きあがる歓声や怒号に囲まれて少女と少年は佇んでいた。罪人の首を切り落とす斧の点検を行う処刑人の少女。ぼんやりと少女を見つめる、堅牢な枷と首を固定する器具に繋がれた獣の少年。両人とも目が腫れていた。


 友人の幸せを願い、それを壊してしまった者。その者を手にかける処刑人。二人の思いは誰にも知られることはない。


 執行時間を告げる鐘が鳴る。いっそう高まる群衆の声。少女は少年に歩み寄る。少年は自嘲するように口元を緩め、目を閉じた。少女は少年を見張る警団の団員と目配せした後、きっ、と口を結び、華奢な身体に不釣り合いな斧を握る両腕に力を込めた。


 飛び散った血で溶けた雪の下ではフキノトウが顔を出していた。


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