小話その弐
痛みというものは、甘美である。 人の不幸は蜜の味とは良く言ったものだ。 甘く、美味しい。 それはきっと、誰しもが一度は感じたことだと思う。
友人に言われた。 付き合っていた彼女に手酷く振られたと。 慰めはする、同情もする、不幸だなと思う、そしてどこかで悦を感じる。
街を歩いていたら、傘を盗まれている人を見つけた。 気の毒にと思う、雨なのに酷いことをする奴がいるものだと思う、たかが傘一本でも可哀想だと思う、そしてどこかで悦を感じる。
それは何故か? 簡単なこと。 人はそれらのひとつひとつに、嫉妬しているのだ。 恋人に振られたという話なら、その二人の幸せに。 傘を盗まれた話なら、雨に降られないということに。 相手が自分と同じ境遇に近ければ近いほど、そのときの味は蜜により近くなっていく。
だから人の不幸は甘く、美しい。 そう思ってしまう人間が、この世界には多すぎる。 有象無象は今日もまた、どこかで悦を感じている。
「な? 分かったか? つまり君はさ、自分以外の殆どに嫉妬しているんだよ」
「き……さま……何を、する気だ」
X地区の戦いが起きた数日後、俺はアジト地下にある部屋に居た。 連れ去ったアリアナの処分をするために。 どのみちこいつは死ぬし、生き残る道はない。 だからせめて、最後に俺が教えを説いてやろうというわけで。
「君の不幸を見たいんだ。 他人の不幸を悦と感じる君の、不幸をさ」
「……なるほど。 ならば貴様も同類だ、ゴミクズめ。 他人の不幸を蜜とするのは、貴様も同様ということか」
アリアナは磔の如く、冷たいアスファルトの壁に手錠と足枷で拘束されている。 監視はロクに任せていたけど、約束通り拷問はしていないらしい。 あいつもあいつで不幸を蜜にするタイプだと思うんだけど、雑魚には興味がないのかな、やっぱり。
「あっはっは、俺が一緒? いやいや、違うよ。 さっき言ったろ? それは嫉妬があってこそだって。 嫉妬がなければ、その蜜はなんの味もしない、無味無臭の水みたいなものなんだから。 俺は嫉妬しない、だってさ、自分より下の人間に嫉妬する必要がどこにあるんだい? アリアナくん」
嫉妬するという行為。 それは、相手を自分より上に位置していたという認識があってからこそ。 それがなければ、そこに生じるのはただの哀れみでしかない。
「ガキが。 ふん、それでどうする? 私を餌に、機関と交渉でもするつもりか? だったら無駄だな、あいつらに慈悲などない。 失敗した私は捨てられるだけで、なんの利用価値もない」
アリアナは自虐的に笑って言う。 そうそう、知ってるよ。 それに、その必要も俺たちと機関での会議の場が設けられたおかげで、必要なくなった。 だから同時に、アリアナの存在意義は更になくなってしまったんだ。 可哀想に、ほんと、可哀想。
「いやでもさ、俺は君に利用価値を見出してあげてるんだよ。 これは慈悲だぜ? アリアナくん。 まぁもっとも……君がそれをどう思うかなんて、知らないけどさ」
俺は笑う。 アリアナは俺の顔を見て、どこか怯えた様子を見せた。 何をするつもりか、何をされるのか、恐怖を感じているか。 それなら良い、その恐怖は、お前が周りの人間に振りまいてきたものだ。 お前が切り捨てた仲間に、教えずに与えてきたものだ。 真実を隠し、必要ならば無慈悲に仲間も見捨てていく。 素晴らしい信念だが、腐った信念。 俺と同じ考え方でもあるけど、全然違う。
それは力がある者がするべきこと。 状況で仕方ないと判断したときにすること。 そしてその他を守るときに行うこと。 お前のそれは、自分を守るためだけだ。
「ポチ」
丁度そのとき、後ろから声がした。 振り返ると、階段の一番上にツツナが立っている。 その左右には、知らない女と知らない男。 女の方は歳をわりと食っているが、男の方はまだ若い。
「お疲れさん。 悪いな、面倒くさいことさせて」
「いいや、構わない」
ツツナはいうと、その二人を階下へと放り投げる。 扱いは慎重にって話したのに、ツツナの慎重ほど雑なことはないよね。 けどまぁ、生きているならそれで良い。
「アリアナくーん、感動の再会だ。 会いたかったろ? この二人に」
俺は笑う。 笑って笑って笑って言う。 アリアナは二人の顔を見て、青ざめた。 そして震えだし、うわ言のように「どうして」と呟き始める。 そうか知りたいか、けれど、そんなことはどーでも良い。 大事なのはそこじゃない、これからのことだよ。
「言ったろ? 俺は他人に嫉妬しない。 それはつまり、俺が他の奴より弱くないからだよ。 十二法だっけ、あいつらが追っていたようだけど、俺の方が一歩先を行っただけの話だね」
「き、さま……やめろ! 私の家族は関係ないだろうッ!? 妻も息子も、私のしてきたことには一切関係していないッ!! 今すぐ開放しろッ!!」
「あー、うん。 あは。 関係ないね、そりゃそうだ。 でも、君に不幸を与えるのにもっとも最適だったのがこの二人だったんだ。 それだけの理由だよ」
そう、たったそれだけ。 理不尽だろ? そんなこと。 けどなぁこの世は理不尽で埋め尽くされている。 そして力がない者は、その理不尽を受け入れるしかない。 似ているじゃん、それって。 いきなり殴られても、殺されても、ゴミのように扱われても、文句をひとつも言えない異法使いの立場にさ。
正当なやり方とか、正しい道とか、明るい未来とか。 そんなの、全部ふざけた妄想でしかない。 理不尽を受けたのなら、理不尽を与えてやればいい。 そうやって仕返しをしないと、うまいことこの世界は回って行かないんだよ
「あなた!! これは一体なに!? あなた一体何をしたの!? この人は誰!?」
「おいテメェ! こんなことしてただで済むと思ってんのか!?」
二人は明らかに動揺している。 両手を後ろで縛られ、床に突っ伏したままの状態でも、俺に向け、そしてアリアナに向けて言葉を放っていく。
あまり騒がれても迷惑かな。 だったら、手短に終わらせてしまおうか。
「よっし。 んじゃ本題だ、アリアナくん」
俺は二人の間にしゃがみ込み、髪の毛を鷲掴みにする。 その顔をアリアナへと向けさせ、続けた。
「誰か一人を殺そう。 君自身か、こっちの女か、この男。 どれが良い?」
「き……さま」
アリアナは俺の顔を少し見つめたあと、その瞳に憎しみを込め始めた。
「本来だったら、十秒くらいはあげても良いんだ。 でも、無駄話が過ぎたからさ、あは。 五秒で決めてくれよ。 生憎、こう見えて俺も忙しい身なんだ」
「ふ、ふざけるなッ!? たったの五秒で……」
アリアナは言うも、俺はそれを無視してカウントを始める。 理不尽だろう? 俺もそう思うよ、だから別に良いじゃないか。 恨むなら恨めば良い。 この世の全ての恨みや憎しみなんて、俺にとっては関係ない。 でもね、何も背負う覚悟がないお前には、これから先なんて存在しない。
「いち、にー、さん」
「……ッ」
誰を殺すも、アリアナの自由だ。 自分を殺しても良いし、女を殺しても良い。 まだまだ未来がある若い男でも良いんだ。 これだけ自由なのに、選ぶのに一体何を迷う必要があるのだろうか?
「あなた、お願い。 私を殺して」
女の声が辺りに響いた。 そして同時に、五秒が経った。 勇気があると感心したよ。 自分が殺されるのを選ばせるひと言は、とてつもなく重い。 その覚悟もまた、重い。
「さぁ、アリアナくん。 選ぼうか」
「私は……私はッ!!」
アリアナは一体、今何を思っているのだろう? この女との思い出か、それとも子供との幸せか。 自分がしてきたことを悔いているだろうか? 恥じているだろうか? いいや、どれも違うだろう。 こいつは今、俺をどうやったら殺せるかを考えているんだ。 それにそんな思い出なんて、クソみたいにくだらなく、不要なものでしかない。 法使いが考えることなんて、総じて意味のないものなんだよ。
「私を」
アリアナが言いかけた。 だから俺は、持っていた拳銃で女の頭を撃ち抜いた。 パンッという軽い音と共に、女は頭から血を流して倒れる。 少しの肉片が飛び散り、血飛沫は辺りに散乱した。 アリアナも、若い男も、その光景に言葉を失った。
「時間切れだよ、アリアナくん。 言っただろう? 五秒しか待たないって。 それにこの世の中は理不尽だって、ちゃんと言ったじゃん」
「あ……あ、あぁあああああぁあああああああああああッ!! 貴様、貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様キサマァアアアアアアア!!」
さて、終わらせないと時間が本当にヤバイかな。 話し合いも一度しないといけないし、構っていられる時間も残り少ない。 だから、そろそろもう良いか。
俺は思い、暴れるアリアナを無視し、若い男に視線を向ける。
「こうなったのは、全部アリアナ中佐がしてきたことの所為だ。 でも、お前の母親を殺したのは俺だ。 俺とあいつ、どっちが悪いのかなんてことを比べれば、明らかに悪いのは俺だろうさ。 だから、あとはお前に託してみよう」
拘束している紐を千切る。 そして、その若い男の元に拳銃を置いた。
若い男は拘束が解かれた瞬間、俺に襲いかかってくることはなかった。 過度のショックが、却って冷静にさせたのかもしれない。 男は拳銃を持ち、手を震わせながらそれを見つめる。
「好きな奴を撃てば良い。 俺を撃って俺が死んでも、俺はそんな理不尽にはもう慣れちゃったから。 ほら、俺ってさ。 異法使いなんだから」
笑う。 俺がしてきたこともまた、正しいなんてことは絶対に言えない。 俺のことを恨み、殺そうと思っている奴はこの世界に大勢居るだろう。 だが、まだまだそんなものでは俺を殺すことなんてできやしない。 甘いんだよ、どいつもこいつも考え方が。 今ある自分の足元を見るので精一杯だから、その先の道がどこに続いているのかが分かっていない。 その最たる例が、現状の三派に分かれているという問題だ。
同じ見た目で、同じことを思ったり、同じことで悩んだりするというのに。 たったひとつ、能力というものがあるおかげで、俺たちは恨み、殺し合う存在になっている。 まぁ、それ自体は自然の摂理と言っても良いから文句はないけどね。 ただそれなら、共存できた可能性も絶対にあったはずなんだ。
「ふ、ふふ……くそ……」
笑い、泣き、男は銃を構える。 その先は――――――――アリアナへと向いていた。
「な、な……何を考えている馬鹿者ッ!! 私は敵ではないだろう!? 敵はあの異法使いだッ!! あいつを撃てッ!!」
「……黙れ。 もう、良い」
そう。 この世は理不尽でできている。 そして少しの妥協でできている。 男は判断した。 俺を撃って殺せるのかという可能性を見極めた。 状況と、状態。 それを理解し、決断した。 俺にはこの異法使いを殺すことはできないとね。 俺が今異法を切っていることを知らない。 撃たれたら普通に死ぬということを知らない。 一度賭けて撃ってみれば良いものを……それをしない。
どうしてか。
そこにあるのが妥協だ。 俺よりも確実に恨みを晴らせる対象に怒りの矛先を向けた。 この状況を作り出したもう一人の人物、自らの父親に。 もっとも近くで見てきたから分かる。 父親の醜悪さを。 危機的状況に陥った人間は、自分よりも弱い人間を攻撃する。 手を出しやすい対象に矛先を移す。 法使いが、異法使いに手を出すように。 魔術使いに手を出すように。
「やめ――――――――」
乾いた音が辺りに響く。 そして火薬の匂いが漂ってきた。 アリアナは額から血を流し、絶命した。
死というものは何度見ても呆気ない。 その瞬間には美しいものが詰まっていると、どこかの殺人鬼は言っていた気がする。 でも、俺にはとてもそうは思えないね。 そこにあるのはただただ人が死んだという事実だけ。 美しさなんて、存在しない。
「くたばれ、苦しんで死ね……異法使いが」
涙を流し、男は俺に顔を向ける。 俺と目を合わせ、ハッキリとそう言った。 そして、自らの頭を撃ち抜いた。
「うん。 俺も最後は多分そうなると思うよ。 だから、その約束は守ってあげよう」
ひとつの裏話はひっそりと終わる。 それがきっと、アリアナにはお似合いだったのだろう。 こいつは盤外の駒でしかなかった。 そして盤上に乗れるほどの駒でもまた、なかった。
たった、それだけの話だ。




