第三十二話
「ポチ……さん」
「ごめんな」
ポチさんだ。 ポチさんだ、ポチさんだ。 本当に、まったくなんてタイミングで来る人だ。 最悪だけど最高だよ、ポチさん。 だからさ、だから僕は好きなんだ。 どうしようもないほどに、ポチさんのことが好きなんだ。 声も、顔も、その性格も。 大好きだ。
「今戻してやる」
ポチさんは言うと、僕の体に刺さっていた短剣を抜いた。 血が溢れたが、ポチさんはそのまま僕の頬に手を添える。 暖かい、人の手だ。 法使いたちは人間じゃないと言うが、人間だよ。 同じ、人間。 そしてポチさんは小さな声で「異法執行」と言った。 すると、僕の体の傷は見る見るうちに消えていく。
「……お前は! 一体、何をした!?」
女の声は、遠い。 恐らくポチさんの異法によって、位置をずらされたんだ。 顔を横へ向けると、先ほどまで僕を見下ろしていた女は、数十メートルは離れた位置にいた。
「……」
ポチさんは女の方を見ると、人差し指を立てて口の前にやる。 そして言う。
「ワンワン。 見れば分かるだろ? ちょっと静かにしろよ。 今、俺はお前とじゃなくてロクと話してんだ。 そういうときは『待て』だろ?」
「何を……ぐっ!」
直後、女は膝を付く。 あのとき、学校を襲ったときに使った異法だ。 それを使い、女は当然のようにその場に立てなくなる。
「もう大丈夫か? ロク」
「ふふ、うん。 平気だよ、ポチさん」
「なら良かった。 まったく、危なくなったらすぐに言え。 いつでも思った通りに進むことはないからな。 連絡は取れるようにしているんだから、遠慮すんな」
「悪かったよ、ポチさん。 だから、そんな怒らないで……え?」
僕は目を疑った。 僕の顔に生暖かい液体がかかり、そしてその光景が目に焼きついた。
ポチさんは、落ちていた短剣を自らの腹部に刺したんだ。 思いっきり、迷わずに。
「だけど悪かったのは俺の方だ。 これで許してくれ、ロク。 お前はもう休んでいて良い」
「……ポチさん、何を」
「俺らは仲間だ。 一人が傷付けばそれは全員の痛みとなる。 お前の負った傷は俺の責任で、俺も負う必要がある。 だから許してくれ、ロク」
ポチさんの犬のお面、雨によって水が流れ、その一滴が僕の顔へと当たる。 それが泣いているように見え、悲しんでいるように見え、僕は何も言えない。 ポチさんはいつもそうなんだ。 まとめているからと言って、自分が上に立っているとは思っていない。 僕たち全員を対等に見て、優劣を持っていない。 力があるからこそ、自分がその分強くいなければならない。 そういう考えをしているんだ、ポチさんは。
だから、僕はポチさんに付いて行く。 みんな性格も考え方もバラバラだ。 法使いに対する考え方にも差がある。 しかし、そんなみんながどれほど思っているのか分からないが、少なからずそんなポチさんに惹かれていったんだ。
「さーて、ロク。 お前が負けた原因と理由を教えながらやってやる。 おい女『よし』だ。 来いよ」
「……一体お前は何をした、異法使いランク一位、ポチ。 こうも早々に大将と再び戦えるとは思ってもいなかったよ」
僕は壁際まで抱きかかえられ、そこへ降ろされた。 ポチさんは着ていた上着を脱ぐと、僕の頭にかぶせる。 それを握り、僕はその姿を見つめていた。
「鹿名と言ったっけ、法使いの女。 今日は保護者同伴じゃないのか?」
「生憎だが、数多支部長は別の奴と交戦中だ。 とは言ってもお前は知っているだろうけどな」
「知らないなぁ。 そっちは俺の仲間じゃないよね? それならどうでも良いんだけど、もしもそうなら……今からそっちも殺さないといけなくなる」
雰囲気が変わった。 まるで僕まで殺されたと錯覚しそうなほどの殺気だ。 それをまともに受けた女は、一体どれほどの死をイメージしたんだろう? 本当に良かったよ、ポチさんが敵じゃなくて。
「……噂通りの男だな。 ふ、今回はさすがに死んだか」
冷や汗を流し、女は言う。 きっと、今にでも逃げ出したい気持ちに支配されているのだろう。 ここで逃げ出したら、僕は「まぁそうか」と納得していたところだ。 だが、女は短剣をポチさんへと投げ付けた。
どうやら、あの女には現在、逃げるという言葉はないらしい。 ポチさん自身もそれには驚いたようで、感心したような声が漏れていた。
「ロク、まずお前はいつも死ぬことを考えている。 分かるか?」
「……死ぬことを?」
そうかもしれない。 僕はいつ死んでも構わないって思ってるんだ。 だから、僕は……死のうとしていた?
「死ぬ気で戦え、死んでも勝つ、死んでも通さない、死んでも守る。 良いかロク、そんな言葉は世迷言だ。 勝つつもりなら、死ぬことなんて考えんな。 生きることだけ考えとけ」
ポチさんは僕に向けて言う。 そうして話している間にも、短剣はポチさんの眼前へと迫って行き。
「死んだら終わりだ。 何もかもが消えてなくなる。 死んで大事なものを守るより、生きて大事なものを守れば良い。 生きていれば、終わらずに続いて行くんだよ。 なら生きろってな」
止めた。 短剣の方に目も向けず、僕の顔を見ながら。 あの剣に異法は効かない、それはポチさんも分かっていたはずだ。 それでも、軽々しく剣を指で挟み、止めた。
「ロク。 お前の頭の中にはいつも死ってものがある。 そんで、イレギュラーが起きたときにひとつの動作しか取れなくなる。 お前でも止められただろう? こんくらいはさ」
「……ごめん」
謝った僕の姿を見て、ポチさんは短剣を放り投げた。 怒ってはいない、というよりも、もっと別の何かだ。
「聞こえない。 で、次に移るぞ。 お前の能力……異法について」
ポチさんは人差し指を立て、僕の顔を見たまま言う。 そんなポチさんの周りをキラリと何かが光った。 これは……さっき見たアレだ。
「舐めてくれるなよ……異法使いッ!!」
いつの間にか、糸は張り巡らされていた。 電柱、電灯、標識、建物の窓、配管、それらに計算しつくされた形で張り巡らされた糸を女は引く。 すると、辺りに散らばっていた全ての短剣は踊りだす。 そしてそれらは一直線にポチさんの元へと飛んで行く。
ポチさんは、避けなかった。 一本、二本、三本、四本、五本。 数秒もしない内に、全ての短剣がポチさんの体に突き刺さった。 だけど、ポチさんは笑っている。 お面でその表情はハッキリと見えないが、隙間から見えたその口元は笑っていたんだ。
「異法が効かないってことは、その回路に対策を打たれたってことだ。 火に水をかけるのと一緒で、俺たちの異法を火だとするなら、法使いが作り上げた武器は水。 そこまではお前も分かったと思うけど、それならそれでやりようがある。 簡単な話だよ、ロク」
ポチさんは体に突き刺さった短剣を引き抜き、それを捨てる。 一切の動揺を見せない……やっぱり、違うなぁ。 僕なんかとは全然違うよ、ポチさんは。
「火でいなければ良い。 一度傷を負えば、それがどんな構造かは体で分かるだろ? それを組み込んだ上で異法を再構築するんだ。 そうすれば、こんなのはただのオモチャになる」
「な……お前は……一体何を」
まるで子供だ。 大人が子供を相手にしているように、その実力差は歴然だった。 別にポチさんを贔屓しているわけじゃない。 あの女の人も相当強く、手強い。 けど、そんなのポチさんからしたら些細な違いでしかないんだ。 世界一のお金持ちから見たら、一円玉も一万円札も変わらないようなもの。 実力がある程度近い者にしか分からない違いをポチさんは感じ取れない。 それほどまでに、かけ離れている。
「ああ、雨……止んだな。 空が綺麗だ」
女は一歩、後ろへと下がった。 僕はそれを横目で見たが、対するポチさんは一切気に留めている様子はなく、空を見上げてそう呟く。 言われて僕も空を見ると、本当に雨は止んでいて、雲の隙間からは星々が煌めいていた。
「ところで君、名前なんだっけ?」
顔を下げたポチさんは、挑発するように女へと言った。 あざ笑うかのように、格下を見るように。
「こ……んの! 貴様はッ!!」
「ああ、やっぱ良い。 それよりさ、選んで良いよ。 雨が止んだから気分が良いんだ。 そんな日に気が進まないことはあまりしたくない。 ロクと一緒でさ、俺も夜の雨はあまり好きじゃない。 だから気分が良いんだよ」
「……選ぶ、だと? 一体何を言っている?」
「決まってるでしょ、そんなの。 俺とここで戦うか、逃げるか。 戦うならば相手になるし、逃げるなら追わない。 ロクを休ませないといけないしね。 さぁ、どうする?」
「お前は……!」
女はポチさんを睨み付ける。 しかしポチさんは気にせず、その場にしゃがみ込んで続けた。
「怒るなよ、法使い。 もう少し分かりやすく言ってやろうか? ここで死ぬか、逃げて生きるか、選んで良いと言ってるんだよ」
きっと、法使いの女は逃げる選択はしない。 さっきまでの状態なら、僕はそう思っていた。 女の中でも様々な葛藤があったんだろう。 異法使いを前にして背中を向けるのか、機関の人間としてそれが許されるのか。 普通の人でも、異法使い相手に逃げることなんてしたくはない。 ましてや女は機関の人間だ。 プライドと意地があり、そう簡単には逃げる選択肢なんて取れるわけがない。
「……っふうう」
しかし、女は違った。 状況と状態、自分の強さと相手の強さ、持っているモノ。 それらを頭の中で組み上げ、大きく息を吐く。 次に顔を上げ、僕とポチさんのことを睨みつけ……そして、女は暗闇の中に消えていった。
……やっぱり、あの人は僕らにとって危険だなぁ。 いや、ポチさんを除いた僕らにとって、かな。 あそこで退く選択肢は中々取れるものじゃない。 感情を抑えこみ、そして退くという選択肢を取れたあの人は大したものだ。 勇気ある撤退とは良くいうけど、まさにこれがそうだった。
「ああ、やっぱり殺しておけば良かったかな。 まぁ、良いや」
ポチさんは立ち上がりながら言うと、僕の方へと顔を向ける。 そして、そのお面を外して言った。
「……終わったなぁ。 いろいろと終わったよ、今夜は。 ロク、最後にひとつ言わせてくれ。 良いか?」
言いながらポチさんは目の前に来ると、再びしゃがみ込んで、僕の頭に手を置いて言った。 泣いているような、笑っているような、そんな表情で。
「お前が死んだら、俺は悲しいよ。 だから死ぬ気で戦わないで、生きる気で戦ってくれ。 もしもお前が死ぬ気で戦うっていうそれを続けるなら、俺はずっとお前の背中を守らないといけない。 俺にそんなことは、させないでくれ」
ポチさんの言葉は、僕の中へ消えていく。 僕の背中を任せたいけど、ポチさんとしてはそれを重荷に感じてしまうんだ。 それは僕が弱いからとか、ポチさんが大変だからとか、そういうことじゃない。
それは、ポチさんが優しいからなんだ。
「うん、分かった。 今日は迷惑かけてごめん、ポチさん」
「謝るな。 俺の方こそ、来るのが遅れて悪かった。 それで手打ちってことにしようぜ。 んで、ご飯でも食べに行くか? 腹、減ってるだろ?」
「……ふふ、そうだね」
体は軽い。 昨日まで、さっきまでと比べたら、宙に浮くほどにも軽かった。 ポチさんは僕に手を差し伸ばし、立たせてくれる。 いつでも、どんなときでも。
ポチさんが伸ばした手を掴む。 ポチさんの手はやっぱり、暖かかった。




