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25.失われぬ色

 セシルとキャサリンは、小さな町の教会にいた。白い衣装を身にまとい、これからの人生が共にあることを誓うために。

 神父とセシルとキャサリン、三人だけの質素な挙式だ。

「司祭、やめちゃって良かったの?」

「ああ、未練はない。これからは君との人生を考えたいんだ」

 セシルは言って、キャサリンの薬指にリングをはめた。

「君のほうこそ、こんな地味な式で良かったのかい?」

「派手にする歳でもないし。恥ずかしいわ」

「確かに、人よりちょっと遅かったかもしれないな」

「だいぶ遅いわよ」

「ははは。しかし、君は綺麗だよ」

「あら、おだてたって何も出ないわよ?」

 二人は笑い、手を取り合って口づけを交わした。

 そのとき、鐘の音が響き渡った。あまりにタイミングがいいので神父の計らいかと思ったが、神父が不思議そうな顔をしているので、違うようである。

 そこへ不意に声がかかった。

「おめでとう」

 セシルとキャサリンは目を丸くして息をのんだ。いつのまにか参列席にマイクが腰かけていたのだ。

「マイク!」

「もしかして、今の鐘は……」

「僕からのお祝い」

「これはこれは。天使様からお祝いをいただけるとは、有り難い」

 セシルがかしこまって言うと、マイクは苦笑した。

「やめてよ」

 しかしセシルは聡い男である。マイクがそれだけのために、わざわざやって来たとは思っていなかった。

「で、何か?」

 マイクは途端に表情を曇らせた。

「福音ではあるんだけど」

 セシルは眉根を寄せた。

「そのわりには浮かない顔をされている」

「うん。そうだね。喜ばなくちゃね」

「何かありましたか」

「エミリーがね、生まれ変わったよ」

 セシルとキャサリンは驚いて、互いの顔を見合った。

「生まれ変わった?」

「今度は両親もそろってるし、人として、道を誤らずに進めるんじゃないかな?」

 セシルは息を吸い込みながら、胸を震わせた。

「救われたのか」

 そのひと言は、マイクの心に重く寄りかかった。自分が果たせなかったことを、リークが身を犠牲にして果たしたからだ。

「主はリークをよく見ていたからね。リークは、エミリーもよく見えるようにって考えたんだと思うよ」

 マイクは言って溜め息ついた。エミリーをしっかり抱きしめて離さなければ、たとえ地獄に堕ちても神の目にとまるはずだ、というわけである。

「あの子らしいわ。……それで、リークは?」

 キャサリンの問いに、マイクは首を横へ振った。

「分からない。どこにいるのか、全然」

 悲しむマイクにかける言葉はなかった。セシルはキャサリンの肩を抱き、キャサリンはセシルの胸に顔を寄せた。

「ごめんね。せっかく結婚式なのに」

 マイクは立ち上がりながら言い、二人に歩み寄った。そして手にしていた花束を差し出した。

「ホントにおめでとう。お幸せに」

 キャサリンは涙を指で拭いつつ、笑顔を見せながら花束を受け取った。

「ありがとう」

 そこへ一陣の風が吹いた。開け放してあった窓から吹いたのだ。風は花びらを五、六枚散らして、床に落ちた。


***


 どのくらい歩いたか、記憶はなかった。リークは町を抜け、ひたすら山脈を目指していた。セピア色の風景はいつのまにかモノクロになっていて、暗い景色ばかりが続いている。


 ここは地獄なのかな?


 リークは思って天井を仰ぎ見た。空は灰色で、一筋の雲も光もない。虚ろな世界の中で、ただ鐘の音だけが聞こえてくる。


 あの音までたどり着いても、絶望しかないかもしれない。それでも、痛みを越えて感覚が麻痺した足は、音のするほうを目指すのか。


 リークは立ち止まり、足もとを見た。この道は不毛なのかもしれない。間違いなのかもしれない。そんな疑念がわいて、いたたまれなかった。

 が、その時、一陣の風が吹いた。髪をかき分け頬をなでる風に、リークは顔を上げた。すると目の前に白い花びらが舞って、道に落ちた。リークは花びらを拾い上げ、じっと眺めた。

 これは道しるべなのか。この道を行けということなのか。真剣に考えても分からなかった。

 リークは花びらを上着のポケットに入れ、歩を踏んだ。とにかく信じて歩くしかないのだ。遠い山脈——そこに鐘の音の正体があるとはかぎらない。山の向こうかも知れない。それでも……


 幾日も歩いた。空腹は覚えず、喉の乾きもない。足の痛みも忘れた。生きている証はとうに失っている。だが胸を打つ音を聞いていた。心臓なのか、鐘の音をこだましているだけなのか。区別などつかない鼓動が、リークの足を動かしていた。

「もう少し。もう少しだ」

 リークは呟いて、自分を励ました。だが唐突に——

〝どこへもたどり着けはしない〟

 という声がした。リークはギョッとして足を止めた。先ほどまで人影などなかった道の先に、美しい天使が立っている。リークは恐怖に固まった。

「……暁の」

 言葉は途切れた。先を言ってしまったら立っていられない気がして、声を飲み込んだのだ。

 そんな様子を見たルシファーは不敵に笑った。

〝懸命なことだ、パンドラの天使。だが何をしても、ここには絶望しかない。地獄に出口などないのだ〟

 リークは眉をひそめた。想像している地獄とは、あまりにかけ離れていたからだ。

 するとルシファーはまた、リークの心を見透かしたような笑みを浮かべた。

〝地獄のような地獄はない。人間が思う地獄とは魔界だ。では人間の地獄とは何か——この世界だ。色のない暗い世界。霊界の最下層と言われるこの場所こそが地獄なのだ〟

 ルシファーは両腕を広げ、空を仰いで、再びリークを見据えた。

〝その世界でただ一人、色を持つオマエは異質だ。光を放てるこの私のように〟

 ルシファーは言って、口の端を上げた。

〝しかし浮かばれぬ諸々の魂のように、地獄につながれている〟

 ふっと気づくと、いつのまにか顔は近くにあって、ルシファーの目はリークの瞳を覗き込んでいる。リークが驚いて飛び退くと、ルシファーはさらに、その背で待ち構えた。

〝逃れることなどできようか。その魂はこの私に捧げよ。ヤハウェではなく、このアッタルに。さすれば天の呪縛を逃れ、私の自由な世界へ飛び立てるであろう〟

 背後から耳元に届く悪魔の囁きに、リークは震えた。

〝欲するが良い。金も物も、快楽も。それらを禁じるヤハウェの言うことなどに耳を貸してはならん。欲のままに生きてこそ人間ではないか。そのように人間らしい人間を、我が王国は否定しない〟

 リークは震えを抑えるように拳を握り、強く目を閉じた。

「……あなたの王国は、私の王国ではありません。堕落は真の歓びをもたらしません。ゆえに私は暁の星を消し去るごとく現れる太陽に向かって心を開きます。あなたが背いた神の道に立ち、その王国を目指します」

 リークは、神と暁の輝ける子に捧げる詩を作って口にした。

 ルシファーは激怒した。

〝小賢しい!〟

 後ろから首をつかまれて、リークの背筋は凍った。そして少しずつ込められる力に死を覚悟した。もがいても逃れられそうにない強い力である。頸骨を砕かれるのも時間の問題だ。

 肉に食い込んでくる爪は痛みをもたらし、全身を闇で蝕む。

 しかしリークは耐えた。たとえ身体を失っても、魂だけは曇らせまいと必死に抵抗した。

 悪には屈しない。

 それこそが本当に人間のあるべき姿だと信じるからだ。

 痛みがピークに達すると、喉の奥から絶叫がもれた。自分のものとは思えない声に驚く冷静な心と、死に恐怖する心との葛藤に苦しみ、リークは失われていく意識にしがみついた。


 数分後。

 ルシファーは灰色の道に横たわるリークの遺体を眺め、冷たい言葉を投げつけた。

〝愚か者め。この地獄において救いなどないわ〟

 だが、死してもなお色を失わないそれに疑問も抱いていた。

 亜麻色の髪。血の通った顔色。閉ざされたまぶたの内側には、いまだ青い瞳が輝いているように見受けられる。

 しかし、今に色を失うはずだと思って辛抱強く待った。この地獄において、死の瞬間に少しでも恐怖心が存在すれば、身体は途端に色を失い魔界へ落ちるはずだからだ。ところが、まもなく三十分たつ頃になっても、リークは色を失わなかった。

 ルシファーは眉をひそめた。

〝なんなのだ、これは〟

 依然としてそこにあるリークは、ただ眠りについただけとでも言うような表情をしている。ルシファーにとってあり得ないことが、目の前で起きているのだ。

〝バカな。恐怖心は欠片もなかったと言うのか? いや、そんなはずはない。私は確かに奴の恐怖心をその瞬間まで感じ取っていた〟

 そうして静かに近づいたルシファーは、リークの身体を優しく包む微風に気づいた。

〝……なんということだ。この地獄に現世から風を呼ぶとは〟

 ルシファーは踵を返し、その場を立ち去った。惜しくはあるが、関わらないほうが無難だと判断したのである。


***


 リークは何時間も夢を見ていた。

 青い闇一色の世界で、穴だらけの洞窟に住まう人々を横目に見ながら歩いていた。彼らは地べたに座り込み、苦しそうに唸っている。

 こんな所は早く過ぎてしまおう。

 そう思っていると、急にその中の一人が膝へ飛びついてきた。

「おたすけください」

 それにつられるようにして、人々がわらわらと寄って来た。

「ああ、たすけて」

「苦しい」

「たすけてくれ」

 リークは困ったが、無視することもできず、恐る恐るその手を取って握りしめてみた。

「大丈夫です。あらゆる人を許し、恐怖に打ち勝てると信じてください。そうしていれば、きっといつのまにか、すべてが報われていますよ」

 なぜそんな台詞が出たのか、リークには分からなかった。ただ自然に言葉が出たのだ。誰かに言わされているのだろうと思わないこともなかった。だがそれでいいと思えた。人々が勇気づけられていることは分かったし、自分も励まされていると感じるからだ。

 リークは、青い洞窟の中を少しずつ進みながら、すがりつく人々に声をかけていった。すると人々は安心したような笑みを浮かべて消えていく。おそらく、ここではない別の場所へ逃れたのだ。やがて、自分が声をかければ人々が青い地獄から抜け出せるらしいと悟ったリークは、積極的に声をかけるようになった。

 一人、また一人。人々が青い地獄から去るごとに、壁に開いた穴から見える景色が、明るさを増していった。洞窟の外は海だった。そしてついにその海は、夜から昼へと変貌を遂げた。太陽の光が海面に反射し、波がキラキラと輝きを放ちはじめたのだ。

 洞窟を抜けると、強い風が吹きつけた。暖かい潮風にもたれると、リークの身体は宙に浮いた。

 輝く海原の上を滑るように飛んだ。照りつける太陽と、青い空と白い雲。遠くに見える島々は豊かな緑に覆われている。

 そして意識は、光の中に溶けていった。


 気がつくと、リークは道の真ん中でうつ伏せになって寝ていた。優しい風は春の香りを運んでいる。土は茶色、葉は緑。

 リークはハッとして身を起こした。道の向こうに十字架を掲げる教会の屋根が見えた。そして鐘の音がハッキリと聞こえてくる。

 立ち上がろうとすると足の痛みにさいなまれたが、今は構っていられない。リークは焦燥にかられて懸命に足を動かした。左右によろけながらも、前に伸びる道をまっすぐに進んだ。

 教会が近づいてくると、人の話し声が聞こえた。

「ライスシャワーいる? 一応、用意したけど」

「あら、じゃあお願い」

 聞き覚えのある声に、リークの鼓動は高鳴った。

 教会の入口に立つ新郎新婦——どちらの顔も知っている。ライスシャワーを浴びせる少年も、誰だか分かる。

 リークは疲れた身体を奮い立たせ、残された力を振り絞って歩いた。


 今、リークの姿を認めたその三人は、驚いた顔をしたあと、目に涙を浮かべて微笑んだ。色鮮やかな、明るい日差しの中で——

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