21.老人のバイブル
翌朝。
朝食の席で、いかにも寝不足といったふうのリークを、キャサリンは心配した。
「大丈夫?」
「あ、大丈夫です。すみません」
「どうかした?」
「ちょっと、寝るのが怖くて」
「え?」
「最近の夢、普通じゃないし」
「全部が事実じゃないわ、きっと。思い込みからも夢を見るし、記憶違いもあるし、抽象的なメッセージってことも……」
真面目に慰めようとするキャサリンへ、リークは微笑みかけた。
「ありがとうございます。でも、結構リアルだし、そんなに事実と違うってことはないと思います」
「あら、言い切っちゃうのね」
「すみません」
「いいのよ。でも食事はちゃんとして。ここのスクランブルエッグ、おいしいわよ?」
差し出されたスクランブルエッグを見て、リークは苦笑した。さりげなく元気づけようとしてくる、キャサリンの優しさが嬉しかった。
朝食をすませたあと、リークは仮眠をとった。「夢を見るのは恐ろしいかもしれないが、睡眠不足では、何かあった時に充分な対応ができない」とセシルに説得されたからである。
セシルとキャサリンは、横になっているリークを見守りながら、イスに腰かけ、テーブルを挟んで話した。
「あの人たちは、もう帰ったの?」
「ああ」
「加勢してくれるんじゃないの?」
「結論から言うと、かえって悪魔に利用されかねないので、引き上げることにしたそうだよ」
「そうなの?」
「現に見誤った。あの時、悪魔に目隠しされていた状態ではなかったと言うことはできない」
「そんな」
「それに、リーク君の言うとおり、悪魔との戦いがパンドラの天使を巡る単純なものでないとしたら?」
キャサリンは眉をしかめた。
「なんなの?」
「神が重大な過失を犯したのだとしたら」
「え……?」
キャサリンはぞっとして青ざめた。セシルは冗談抜きの顔でキャサリンを見据えた。
「考えてもみたまえ。神は天使らに当てるはずの雷を、罪のない彼に落としたのだよ? 神の雷を受けて地獄に堕ちない者はいない。だが彼はどうだ。しつこくルシファーに追われているということは、つまり」
「堕ちてない?」
セシルはうなずいた。
「エルピスを守っただけではなく、神の雷を受けても地獄に堕ちなかった。そんなものを、ルシファーが指をくわえて見ているだけとは思えない」
ようするに、セシルが言っている神の過失とは、その存在をルシファーに示してしまったことである。
しかしキャサリンは、事の重大さを認識する一方で首をかしげた。
「でも、なんに利用できるって言うの?」
「ルシファーは雷によって敗退したのだよ。彼はそれに対抗しうる武器になるかもしれない」
「また天界戦争が起こるっていうの? この現代に?」
驚き呆れるキャサリンを前に、セシルは苦笑し、リークへ視線を投げた。
「わからんよ」
キャサリンもつられるように、安らかな表情で目を閉じているリークを見やった。
「かわいそうね」
セシルは肩をすくめた。
「なにがだね?」
「だって彼、弟を助けたいだけなのよ? 彼の心はあの冬の日のまま、止まってしまっていた。それがやっと動き始めたっていうのに」
「聞いたのかね」
「聞けるわけないでしょ? でも分かるわ。奇跡の調査なんて全然乗り気じゃなかったのに、老人の証言を聞いてから、彼、変わったもの」
「その老人は誰だ」
キャサリンはふっと口をつぐんで、セシルに顔を向けた。
「誘導尋問?」
「いやいや、私もちょっと聞きたいことがあってね」
「どうして? 当時のことは詳しいんじゃなかった?」
「天使と悪魔が対峙したときは居合わせたが、その後、二週間滞在して何事もなかったので、引き上げたのだよ。そして一ヶ月後、例の少女が死んだことを知らされた」
「自殺だったんでしょ?」
「悪魔に憑かれると、自身の体を傷つける傾向がある。それを自殺として処理するべきか、疑問だね。もっとも、それが悪魔の仕業なのか、精神性のものからなのか、見極めるのも難しいところだが」
***
セシルが気になる発言をしたので、キャサリンはリークが起きるのを待って、ともに老人宅を訪れた。老人はセシルを覚えていて、少し驚いたような顔をしながら迎え入れた。
「司祭が来とるという噂は聞いておったが、まさかアンタとはな。管轄があるのかい」
「いや、成り行きでね。縁があるらしい」
「ほう? それで、何が聞きたい」
「例の少女のことを」
すると老人はやや顔をこわばらせ、深く溜め息ついた。
「教会にはいまだに悪魔が出よる。あの時、天使が命を懸けて滅ぼしてくれたのにのう」
「その悪魔なら、僕たちも見ましたよ。黄色い目をしていましたけど」
リークが言うと、老人はリークをしげしげと眺めて、目をそらした。初めて見たときから、何かに似ていると思っているのだが、それが分からないのである。
老人は思い出すのを諦めて、また溜め息まじりに白状した。
「それはエミリーじゃよ」
三人は驚いて、背筋を凍らせた。
「取り込まれただけではないのか」
とはセシルが聞いた。しかし老人は首を横にふった。
「さて。中身は知らんが、外身は彼女の遺体じゃ。まあ、悪魔は魂を喰らうというからのう。もしかしたら中身も——わしはそう思っておる」
「ひどいな」
リークはポソリと呟いて、膝の上で指を組んだ。教会の悪魔を思い出していた。あれがかつてはエミリーという名の少女だったとは、信じられなかった。
毎日マリアに祈っていた少女の心はどこへ行ってしまったのか。十字架を見上げていた瞳も、賛美歌を口ずさんだ唇も、すべて跡形もない。それが哀しすぎた。
そんなリークの様子を、老人はまたジッと見て、しわの刻まれた唇を動かした。
「しかたないわい。悪魔は自己中心的な思考で動いとるし、エミリーは心が弱かった」
するとリークは突然、強い眼差しを向けた。
「一人じゃないって、誰も言ってやらなかったからじゃないですか?」
これにはセシルもキャサリンも目を丸めた。老人はじわりと目を見開いた。
「人は誰も孤独じゃ」
「違います。そんなの淋しさをまぎらわすための言い訳です」
「なんじゃと?」
「目に見えなくても、そばにいなくても、その人を知らなくても、誰かが自分を想ってくれています。それを信じなきゃいけないんです。仮に、本当に誰もいないとしても、神様が見ています。僕だけじゃない。みんなを見てる。あなたも、エミリーも見てる。昔からずっと。あなたたちがいて、マイクがいて、神様が見ていたのに、それでも孤独だと思ったまま死んでいったなんて、最悪です」
老人は腕を震わせ、目をさまよわせてうつむいた。町の人々の罪をさらされたようで、居心地が悪かった。エミリーを邪険にしなかったと言えば、嘘になるからだ。悪魔に憑かれた小娘は、本当に厄介者でしかなかったのだ。ゆえに天使へ丸投げした。人間は関わろうとする努力をしなかったのだ。
リークは、黙り込んだ老人を見て、組んでいた指に力を入れてソファから立ち上がった。分かってしまったのだ。少女もマイクも、住人から見殺しにされたことを。言い換えれば生贄である。町から悪魔を追い出すための——生贄。
「ここの人たちも、そんなに悪魔と変わりせんよ」
リークは捨て台詞を吐いて、勢いよく老人宅を飛び出した。セシルとキャサリンは後を追おうとしたが、一瞬だけ老人に止められた。
「本当に、あの天使の身内なんじゃな?」
念を押すような確認に、セシルはうなずいた。
「身内どころか、すぐ上の兄だし、パンドラの天使だ」
「パ……!!」
絶句して固まった老人を置いて、セシルとキャサリンも出て行った。
やがて、しばらく茫然としていた老人もよろよろと歩き出し、棚の引き出しから聖書を取り出した。開いた聖書には、四つ折りにした一枚の紙が挟まれている。それは教会の地下室から持ち出した資料の一部だったが、老人にとっては聖書に等しい一枚のバイブルだった。
淵に美しい紋様があり、中に十字架とキリストが描かれている。その左下の円に囲まれた部分に、少年の横顔がある。老人はそれが、リークという青年を幼くしたような顔であることに気づき、また震えた。
絵のタイトルは、『翼を持たぬことを許された天使』である。
そこには「人であっても天使であり、たとえ地獄においても天使である」という意味が含まれている。
老人は紙面を見つめたあと、天を見上げた。
「主よ。どうかわしに力をお貸しくだされ。町の罪を償う、お力を」




