呼び声
その青年は、川沿いの道を歩いていた。
風がゆっくりと吹いていた。川には魚が泳ぎ、その水面にはトンボがゆらゆら揺れながら飛んでいた。青年は空を見上げた。青空が広がり、小鳥が鳴きながら飛び交っていた。
そのとき、不意に後ろから声がした。
「おい!」
青年は呼び声に気付き、その足を止めて振り向いた。
――そこには誰もいなかった。
「そら耳かな?」
呟いて、青年はまた歩き出した。
「おい!」
またも呼び声がした。再び青年は振り向いた。
――やはり、誰もいなかった。
「誰かいるのかな?」
青年は呟いて、辺りを見渡した。しかし、そこに人影は一切見えなかった。
青年は首を傾げながら、また歩き出した。
「おいってば!」
やや怒ったような語調で、三度目の呼び声がした。
――いや、やはり誰かがいる!?
そう思い、青年はすぐさま振り返った。
しかし、やはりそこには誰もいなかった。
「……何だ?」
不可解な現象に、青年は一人で問いかけた。思わず腰に下げた刀に手を掛けた。
「さっきから呼んでるだろ!?」
また声がした。青年は腰の刀を握り締めながら辺りを見渡した。
「どこ見てんだよ。下だよ。下!」
その声に従い目線を下ろすと、そこには一匹の柴犬が立っていた。
(犬?)
青年は犬を見つめたまま、その刀から手を離した。
「そうそう、俺だよ俺!」
先刻まで聞こえてきたものと同じ声が聞こえた。犬は尻尾を振っていた。
(犬が喋ってる……)
青年は我が目を疑った。戸惑っている間にも、犬は話を続けた。
「おう、ちょっと話があってよ――」
(いやいや、犬が喋るわけがない。きっと幻聴だ)
そう自分に言い聞かせ、青年はまた歩き出した。
「お、ちょっ、ちょっと待てお前!」
慌てて呼び止める声がした。
(いや、待てよ。もしや、本当に犬が喋っているのか?)
青年はぴたりとその足を止めて振り向いた。犬の顔をまじまじと見た。
「よし、止まったな! 話があるんだよ、実は――」
よく見ると、声に合わせて犬の口がぱくぱくと動いているように見える。犬は続けた。
「ちょっとお前の腰の――っておい!」
またも青年は歩き出していた。
(いやいや、やはりどう考えても犬が喋るわけがない。これは幻聴だ。幻覚だ。ありえない!)
青年は自分に何度も何度もそう言い聞かせ、毅然とした態度で歩き続けた。
犬はそれを追いながら、しつこく呼び止めた。
「待てよお前。ちょっと止まって俺と話をしようぜ、なあ?」
(しつこい幻覚だな。ちくしょうめ!)
青年はその歩を速めた。しかし、犬は小走りにその後を追ってきた。
「待て! 待てって言ってるだろ! おい!」
犬は必死に呼び止めようとした。しかし青年は耳を貸さなかった。
そして青年は走り出した。
「おい! 嘘だろ!? マジか!? 止まれよお前!」
犬は走りながら叫んだ。しかし、青年はその声に一切耳を貸さなかった。
いつしか犬の姿は徐々に小さくなり、その姿は豆粒のようになった。
「待てよ! これじゃまずいんだってば! おーい!」
遠くから呼ぶ声が聞こえたが、そんなことはお構い無しに青年はさらに走り続けた。
そして、ついに犬の姿は見えなくなり、その声も聞こえなくなった。
それを確認し、青年は息を切らしながら呟いた。
「はあはあ、まさかあんな幻覚見るなんてな……。さてはあのババア、団子に何か変なものでも入れたんじゃないか?」
青年の背中に背負った『日本一』の旗がひらひらとはためいていた。
なお、青年はこの後、さらに喋る鳥と喋る猿にも呼び止められた。
上記と同様のやりとりが繰り広げられたことは言うまでもないだろう。
桃太郎 完。
十年ほど前に運営していたHPに掲載したものに手を加えてみました。
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