さよなら、世界
僕が今表現できる全てをこの作品にぶつけました。是非、お楽しみ下さい。
気づけば成すべくことなく時間が流れていく。考えれば、考えるほど世の中というモノはくだらない。人間というモノは何のために生まれてきたのか。人間の価値とは何なのか。誰もがそんなことを一度は考えてきただろう。
しかし、この問答の答えはいまだに僕にはわからない。だから、僕は世界の崩壊を何よりも願って生きてきた。一度、世界は崩壊して無に回帰した後、僕が神になってこのくだらない世界を一からやり直せばいいじゃないかなんて。
むろん、それは僕の身勝手な妄想に過ぎない。実際の僕は就職もできないで、毎日を何となく生きているだけ。
僕は、もっと大きなモノを背負っているんだ。
それは日本を、世界を、揺るがすかもしれない何かだ。
僕は選ばれた特別な人間なのだ。
「雄二あんた何やってるの。早く仕事見つけて働きなさい。いい、あんたは特別な人間じゃないの。それは私の子どもだから。あんたは何がやりたいの。どんな才能があるの」
「うるさい。僕は世界をアッと言わせてやるんだ。今に見てろ」
「あなたのためを思って言ってるのに」
「ほっといてくれよ。母さんは僕の何が解るんだよ」
「私は父さんが行方不明になってから女手で一つで大学まで出したんだから」
「そんなこと言われてもさ。僕はどうすればいいんだ?」
「いつまでも夢みたいなこと言ってないで現実を見なさい」
「わかったよ」
母から電話がかかってきた。朝っぱらから、本当に気分が悪い。
あなたのためなんて善意の押し売りだ。いや、偽善者の自己陶酔。
他人は、言いたい事ばっか言って、その言葉に責任なんてほとんど持たない。言うことを聞かないと、頑固者と怒られ、聞いて失敗すると無責任に嘲笑される。僕には人と人との距離感や機微が理解できない。僕を蔑むもの全て消えて欲しい。
どっちにせよ、僕はこのまま一生、怒られ、嫌われ続けるのか。僕なりに頑張っていても、皆の頑張りには追いつけなくて、頑張りが足りないと怒られる。何を頑張っても多くが人並み以下。何を頑張っているのか解らなくなる。
人生デッドエンド。平等なんて幻想。
生まれながらのダメ人間の気持ちなんてお前らにわかるもんか。
もちろん、僕だって薄々心のどこかでは将来のことを考えている。
ただ、僕には人一倍尊大な自尊心があって、それが自分はただのつまらない人間であるということを認めたくないと足掻いているんだ。ホントはありのままの自分を受け入れて欲しい。
自分自身に問う。
お前は社会に受け入れてもらえるほど価値のある人間か。自惚れるのもいい加減にしろ。
自分を殺してまで人に合わせられる程、器用じゃない。
僕は破滅型自虐ナルシスト。どうしようもない自分に嫌悪を感じながらも自分を痛みつけ、かわいそうな自分だと同情を求めているだけかもしれない。
いつも通り洗面所の鏡を見ながら顔を洗う。何度、僕が鏡を眺めてみても、決してカッコ良くはない。だから、友達も恋人もできないのか。
母からの電話と鏡に映る自分の姿にイラついた僕は鏡を拳で叩き割った。血が赤い線になって流れる。何だかスッとした。
この血を見て僕は実感した。こんな僕でもまだ生きているんだ。
コンビニのバイトの面接を受けるためにアパートを出た。
「沢村雄二君だね。大和大法学部卒なのに、なんでこんなことやってるの」
事務所の狭いスペースにあるパイプ椅子僕は座って面接を受けた。紺の制服を着たヒゲ面の中年店長が僕を不思議そうに眺める。
「いや、やりたいことがよくわからないんです。今、それを探してる最中なんですよ」
「君、考えが甘いよ。悪いことは言わない。君みたいなタイプは妙なプライドを持っていて、誰の言うことも聞こうとしない。君がつまらないと思う仕事でもまずそれを認めてやってみたらどうなの。君を雇うくらいなら外国人の方がよっぽど懸命に働くよ。いつでも、首にできるしさ」
「それでも、働きたいんです。お願いします」
「ダメだと言ったらダメだ」
「どうしてダメなんですか」
「お前みたいな奴は最も協調性がない。甘えてばかりのおこちゃまそのものだよ」
「ふざけるな。僕だって何か大きなことができるんだ」
「他行ってくれないかな」
「そんな」
僕は、コンビニを追い出された。
結局、いつもこうだ。人から理解してもらいたいのに、素直になれない。
大きなことばかり言ってるのに、何一つできていない。自分でも損する性格なのは、一番わかっている。
わかっているのに、変われていない自分。理由なく、街を歩く。
飴に群がる蟻みたいにせこせこと急ぐサラリーマン、壊れたラジカセみたいにらっしゃいの一点張りの商店街のおっさん達。
四月の暖かな街は、スーツを決め込んだ新入社員や入学式を終えた中高生で活気に溢れていた。それなのに、僕は心も身体もとことん歪んでいる。
誰かが僕を笑っている気さえする。ヒトというものがコワいんだ。ただ、怯えているだけ。
苦しい。
自分が嫌になる。
いっそ、死んでしまえば楽になるのかな。そうすれば、僕は理想と違う自分に悩むことはない。死んだ直後に、僕の抜け殻を片付ける誰かは迷惑するけど、それ以後は誰にも迷惑をかけることはないさ。
アパートの近くの公園に辿り着いた。今晩、この場所の満開に咲く桜の木の下で首を吊って死んでみようかな。
散ってゆく、鮮やかなピンクの桜の花びらと同じように僕の魂も散っていったらどんなに美しいだろう。僕が美しく首を吊れるような木はないかな。
どの桜にしよう。といっても、この公園にはせいぜい桜の木は十本くらいしか植えられてないけど。バカな考えかもしれないけど僕は公園の桜の木を見渡した。
ベンチに座っていた黒いリクルートスーツを着た就活生のカップルが立ち上がり、手を繋ぎ公園を出ていく。若さに満ちた夕陽を背に、二人とも仲睦ましそうにどこかへ向かっていく。これからホテルでも行くのか。清潔感に溢れるリクルートスーツを彼らが脱ぎ出すと、二人は乱れ、快楽が待っているだろう。
つまらない想像を浮かべた僕の惨めさは増していった。サッカーやままごと遊びに疲れた子ども達も家路に急いでこの公園から消えていく。夕陽を反射してオレンジュースが噴き出しているように見える噴水だけがただ静かに夜に誘っているようだ。
磁石に引き寄せられるように噴水の前に向かった。噴水が本物のオレンジュースのように思えてきて手で掬ってみたいなって思ったんだ。僕は噴水の前に着くと、夢中で両手をくっつけて水を掬った。
その感触は冷たくもなく、温かくもなく、妙な感じがした。
「こんなところで何をしてるのかね。そこの水は飲めないよ」
声のする方を振り返ると、どこまでが髪なのか髭なのか判らないほど白髪混じりの毛が伸びきって、まるで古い漫画に出てくる仙人のような老人が立っていた。その老人はどこか神秘的な雰囲気を持っていた。真ん中に水色の月が描かれているコートのような白装束を着た老人は、僕がこれから何をしようか悟ったように微笑んでいた。老人は右手に透明なプラスチック製のコップを持っていて、本物のオレンジジュースを飲んでいるようだ。
「君、今から死にたいとか考えてるでしょ」
「何でわかるんですか」
「私は神だからね。君は神になりたいと思ったことがあるか」
完全にこの老人は頭がオカシイ。だが、妙に好奇心をそそられるオーラを感じた。
「こんな時代に神様なんているんですかね。若者が夢を持てず、たくさんの人々が自殺していく時代に。あなたが神様なら助けて下さい。この国の愚かな民は、自分ではどうにもならない環境で苦しんでいる人々に対して、甘えだとか、努力不足だとか、自己責任だと言うんです」
「私は神だ。人を救うことができる。そして、今の君にも神になれる素質があると思うよ。なぜなら、君は自分に対する絶対的な自信を持っているし、社会に対する深い問題意識を持っているからだ」
老人の言葉は確信に満ち溢れていた。老人は徐に、飲み終えたばかりのコップで噴水の水を溢れるまで汲んだ。
「いいかい。今、君はコップにどれくらいの水が入っていると思う」
「溢れる位の水が入っていると思います」
すると、老人は水を噴水に戻し始めた。
「じゃあ、これならどうだ」
「コップに水は半分も入っていますね」
「私は君のことが気に入った。そう、このコップには水は半分も入っているんだ。なのに、多くの愚かな人間はコップには水は半分しか入ってないって答えるんだ」
そして、老人はコップの水を全部噴水に戻した。
「最後に君に聞くよ。このコップには水はどのくらい入っている」
「このコップは空です。水は全く入っていません」
「正解だ。このコップには水が入っていない。世の中の多くの人間はコップの水が空なのに、そこに何かが入っていると思い込んでいるだけで行動しようとしない。肝心なのは、コップの水に何が足りないか考えて、どう行動していくかってことだ」
老人の言葉が何を言っているか上手くは理解できなかったが、何となくこの人はタダ者ではないとわかった。
「我々がコップに入った水を好き勝手解釈するように、世界には真理なんてない。あるのは認識だけだ。それでも、我々は真理がないと不安になる。だから、我々は神を創り出し、その価値観に従うことにしたんだ。そうすれば、我々は何も考えなくていいのだから。だから、新たな価値さえ見出すことができれば、誰にだって神になることができる。所詮、生きるとは死ぬまでの暇潰し。キワモノなら消えるし、本物なら歴史を創る。どうせ君がこれから死のうとしているのなら、価値ある死を選ぼうと思わないか」
「だから、僕はどうすればいいんですか」
「君は私の言っていることがわからないのか。私はもう長くは生きられないが、君はこれから神になるんだよ。君の名前を教えてくれ」
「沢村雄二です」
「君は沢村雄二って言うんだね。最後に君の名前をしかと覚えたよ」
そんな言葉を残し、老人は安らかな笑顔を浮かべ公園を去っていった。あの老人は何だったのだろうか。ただ、これだけは言える。もう少しだけ生きてみたい。僕の人生が本当に空のコップなのか知ってから死んでも遅くはない。
あの不思議な老人との出会いから数日後の朝だった。その日も僕は何も成すことなく平穏に過ごすはずだったのに、部屋中に鳴り響くけたたましいインターホーンの音で目覚めた。
一体、誰が僕の眠りを邪魔しようとするのか。部屋のドアの小さな穴から外を覗き込んだ。すると、この前の老人が着ていたような水色の月が描かれた白装束を着ている三人組の男がこちらを覗いている。
「あなたが沢村雄二様ですね。お迎えに上がりました」
その男の中の一人でいかにもいかつそうなスキンヘッド頭の男が小さな穴から僕に向かって丁寧な口調で話し掛けてきた。その横で、メガネをかけた根暗そうな青年と頭の禿げかかった中年が微笑んでいる。この人達は物凄く怪しいが、どこか悪い人ではないような気がした。尋常じゃないほど、にこやかに笑っているからだ。
そこで、思わず僕はドアを開けた。だが、その考えは甘かった。
突然、三人組の男は一斉に何かの薬品に浸したような白い布を僕の鼻に押し当てた。
「やめろ。何するんだ」
「決して悪いようにはしません。全ては教えに導かれた行為なのです」
「導かれた行為って。頭大丈夫ですか?」
「ついてくればいいんですよ」
学校の理科室にあるアルコールのような臭いが僕の鼻から脳に突き抜けていった。僕の身体は浮遊していくみたいに意識が遠退いていった。
気づくと、僕は白いバスの助手席に乗せられていた。八十人くらいは乗れそうな巨大なバスだった。内装は不気味な黒一色。それぞれのシートには水色の月が描かれていて怪しげな雰囲気を醸し出していた。
意識はあるがまだ薬のせいで動けない。窓から見た景色は夕陽と共に緑で溢れていた。どうやら、相当山奥に連れていかれたらしい。辺りは田んぼや畑が一面に広がっている。そして、茶色い木製の小さな小屋には鶏や牛が多くつながれている。そこは、都会の雑踏から離れた日本の原風景とも言える田舎のほのぼのした光景だった。
「どこに連れていくつもりだ」
僕は朦朧とした意識の中、声を振り絞った。すると、運転席のスキンヘッド頭のどうどうとした声が返ってきた。
「あなたが神になれる理想郷ですよ。手荒な真似をして申し訳ないです。私達はあなたを新しい神として迎え入れようとしているだけなんですよ」
「お前ら、正気なのか。あの爺さんの仲間だろ」
「何をおっしゃられるのですか。直々に教祖のチャンドラ様があなたを神に任命したのですよ。とりあえず、私達のサンクチュアリにお越し下さい。あなたの価値観は大きく変わります」
バスは満月のような金色をしたドーム型の建物の前で止まった。本物の東京ドームよりもさらに巨大な建築物だった。辺りは十メートル以上あるだろう塀に囲まれ、水の月が描かれたぎっしりとした鋼鉄の正門が構えていた。ドームの中央部分にはSF映画にも出てきそうなバカでかいアンテナが立っていた。まるで近未来の天体観測所だ。
身動きの取れない僕は青年と中年男に担架に乗せられながらその建築物の中に運ばれていった。一歩先を行くスキンヘッド頭はガラス張りの自動ドアの前で手をかざすと開いた。
中には何十もの小さな部屋があるようだが、中がよく分からないようにどの部屋も分厚い鉄のドアで閉ざされていた。僕はその中でも一番大きな部屋に運ばれていった。
この部屋は本当に怪しい部屋だった。天井は水色の月を中心にプラネタリウムのように数えきれない星が描かれている。床は道場みたいに黄緑色の畳が所狭し敷き詰められている。そこに、四十~六十人ぐらいの老若男女が同じ水色の月が描かれた白装束を着て僕を待っていた。畳の先には、ステージがあって中央には水色の月とあの老人の写真と黒い壺が飾られた大きな祭壇が祭られていた。
「新しい教祖がお見えになったぞ」
部屋中から滝のような大歓声が上がる。この異様な一体感に飲み込まれてしまいそうだ。そして、祭壇の上まで案内されて初めて気づいた。黒い壺には雲のように今にも消えてしまいそうなほど粉々になった白い骨が水に溶け込んでいることに。
「さあ、一つになるのです。ヴァル様」
青年と中年男に押さえ込まれ抵抗することもできなくなった僕の口に無理やりスキンヘッドの男が、壺ごと骨入りの水を流し込んだ。僕はその骨を咽ながらも、飲みこんだ。
「チャンドラ様の魂が今新しい教祖に乗り移ったぞ。チャンドラ様の魂は永遠だ」
スキンヘッドの男が叫ぶ。信者達の熱狂が渦を描いた。いつ倒れてしまうのか分からないほど薬でフラフラして全く状況が掴めない僕だが、これだけはわかった。僕がこの異質な宗教団体の教祖になったのかもしれない。あの老人の言った話は本当に実現されているのか。それを確かめるため戸惑いながら、僕はその場の空気に流されるまま叫んだ。
「私が新たな神ヴァルだ」
予想通り、信者はさらに熱狂した。
「ヴァル様が降臨された」
「奇跡が起こっている」
「救世主が現れた」
そんな声が所々で沸き起こり、僕の声を聞くや否や合掌したり、涙を流す信者までいる光景に僕はホントに教祖になってしまったのだろうか。
「皆はこの奇跡を目の当たりにしているだろう。教祖が肺ガンで亡くなった後、預言通り魂の乗り移った新たな救世主ヴァル様が現れ、理想郷へと導いてくれるのだ。恐れることはない。我々はヴァル様に全てを捧げればいいのだ。これから、我らルナパラダイスは大きく発展するに違いない」
スキンヘッドの男は堂々と声を張り上げた。
すると、薬のせいで僕の意識は再び遠退いていった。もしかしたら、実は夢や幻なのかもしれない。そんな期待を寄せながら。
次に意識が戻った瞬間、僕は一面真っ黒な部屋にいた。さらに、目を疑った。全裸の美しい三十歳前後位の女性が一人正面を向き四つん這いになって僕の方を微笑みながら見つめているからだ。だが、何だか僕には違和感がある。昔、彼女の顔を見たことがあるからだ。でも、どうしても思い出せない。
「もしかして、ヴァル様って沢村君?」
ようやく、思い出した。長い黒髪と吸い込まれそうな大きな瞳と雪の肌。僕の高校三年生の時に国語の先生で担任の相沢さやか先生だ。さやか先生は、美人で授業も分かりやすく大人気の先生だった。しかも、新婚ホヤホヤでいつも幸せそうに笑っていた良い先生だった。というより、僕は先生が好きだった。
高校時代の自分のことを思い出す。皆が合唱祭や体育祭に燃える毎日でも僕はひたすら勉強をしていた。勉強で成果を上げれば僕が特別な人間であると証明できると信じていた。
でも、孤独だった。本当は誰でもいい、愛して欲しかった。だけども、器用になれない僕が皆に近づいていってもすぐに離れていくような気がしたんだ。そんな不安にどこか怯えていた。
直接いじめられはしなかったが、反感を買い、友達もなく無視される日々。僕だって皆の輪の中に入りたかった。ただ、皆から拒絶されるのが恐く、自分に自信がなかっただけ。
僕は、学校では自分のプライドを守るため、誰にも傷つけられないように自らバリアーを張った。頭の良い僕が他の頭の悪い連中に自分の世界を侵されないように僕はひたすらポーカーフェイスを貫いた。
だけど、さやか先生はだけは違った。
「いつも沢村君は勉強頑張っているんだね。これなら志望校も受かるよ」
孤独な僕だけの世界に先生はすんなりと入ってきて僕を励まして、認めてくれた。本当に嬉しかったのを憶えている。なのに、先生には既に夫がいる。僕のモノには絶対なり得ないのだ。
朝、まだ寝むそうな先生を見ると、昨晩夫と何があったのだろうかと想像したこともあった。
先生の明るさの中にある秘密。
一見、真面目そうな先生の夜の姿を考えると僕は、知りたいような、知りたくないような複雑な心境だった。
僕の中の清廉潔白な幻想の先生と既に誰かに汚されてしまっている手に入らない現実の先生。
あの時の僕はただ想像の世界だけで先生を弄ぶことしかできなかった。だが、自己満足の行為の後の罪悪感は底なしの沼。自己嫌悪が深まるだけの慰めに過ぎなかった。
しかし、今、現実の先生が全裸で僕の前で四つん這いになっている。
「さやか先生ですよね。どうして・・・・・・」
僕は、震わせながら精一杯の声を振り絞った。何よりも、肉親以外の生の裸の女性を見たのは初めてだった。それが自分の高校時代の担任の先生というから衝撃だ。
「実は私はあの頃から夫から暴力を振るわれてたのよ。普段は、優しいのに夫は酒を飲むと人は変わった。倒産しそうな中小メーカーのストレスからか家に帰ると酒を飲み、とっさの感情で私を殴ったり、蹴ったり。そして、酔いが覚めると私に泣きながら謝るの。『こんな情けないオレ死ねば良いのかな』その言葉で、私が泣きながら彼を抱きしめる。それが毎晩、無限ループで続いた。今思うと私が甘やかしていたのかしらね。結局、あなたが卒業した年、会社の倒産と共にあの人は自殺したわ。電車に飛び込んで。バラバラになった夫の姿は今でも頭から離れない。だって、顔割れちゃって、表情なんてわからないもん」
「えっ、そんな?」
僕は、戸惑う。しかし、だんだん先生は息を荒くしていった。
「今、思い出しただけで涙が止まらないの」
泣いている先生は僕に見せたことのない姿を見せていた。僕の前では先生ではなく女だ。
「じゃあ、なんでこんな宗教に入ろうと思ったんですか」
「私は社会を捨てたのよ。今まで、あの人のために生きようと思ったのに既にこの世にはいない。私は生きる意味を求めて学校を辞め、日本中を放浪したわ。このサンクチュアリの近くを通った時に、チャンドラ様に出会ったの。彼は私の話を精一杯聴いてくれて、私の心を癒してくれた。彼の月から送られる超電波で世界を変えるという考えは私の心を奪った。最初は嘘だと思ったのに、今では肉体的にも精神的にも癒されている。だって、こんなに広い愛を受けたのは初めてだもの」
泣きながら、先生は強引に僕に迫ってきた。
「ねえ、あなたがチャンドラ様の魂が乗り移っているなら私を抱いて。一つになって」
その時、 僕には人を騙しているという後ろめたさはあった。僕がなんで教祖のヴァル様になったかわからないし、あの老人の魂が自分にある実感など全くなかったからだ。
それでも、眼の前には憧れだった先生が全裸で恥ずかしいような格好で僕を待っている。少し腹部が弛んでいるが逆にその不完全さが僕を興奮させた。先生の美は僕の中では永遠であり、今、僕の内に秘めたる波打つ感情が解放を求めているのだ。
僕は本能に導かれるままに先生と一つになった。先生の真っ白い肌に僕の肌が触れ合う。お互いの身体が溶けてしまうように心地いい。
「ホントに、チャンドラ様そのものだわ。あなたと一つになった瞬間、私は宇宙を経験するの。月からのパワーが漲ってくるの」
僕はこんなにも緊張しているのに先生は微笑みながら、涙を流して盛りのついた猫のように声を出している。汗ばむ先生の長い黒髪が僕にくっつく。甘いフローラルの香りに溶けてしまいそうになる。
先生の普段見せない姿に僕は魅了され、中ですぐ果てた。お互い果てた後も獣のように求めあいその儀式は朝まで続いた。早朝、冷静になった先生は僕に告げた。
「今日、私が魂の浄化の儀式に参加にできて良かったわ。毎晩、チャンドラ様は日替わりで一人の女性信者に対し、今の儀式、魂の浄化を施してくれたの。この儀式の時だけは、どんな女性信者も全身全霊の無償の愛を一身に受け取ることができるのよ。でも、男性信者にはこの儀式はないの。なぜなら、男性には生まれながらにして強い肉体が宿っているから、修行によっていくらでも浄化することができるの。ただ、女性には子どもを産むための器が宿っているだけで、浄化をするのは難しい。そこで、チャンドラ様の魂を器に届けることで浄化するの。この儀式を体験してから私、教祖の力は本物だと確信したの。だって、こんなにありのままの自分を愛されたことがないんだもの」
僕は後ろめたさと罪悪感を抱きながら考えた。本当にこんなことをしていていいのか。てゆうか、儀式が女性信者だけというのは絶対あの老人のエゴイズムじゃないか。
でも、僕はもう先生と関係をもった時点で戻れない。やっていることはあの老人とほとんど同じことで違いはないからだ。
どっちにせよ、多からず、少なからず、この世はインチキだ。
もしかしたら、今ある世界が空想の世界かもしれない。だが、ここにさえいれば僕は教祖であり続けるんだ。騙していても、騙されている実感がなければそれが真実だろう。僕はこの世界で教祖という道化を演じてやろう。僕にはそんな決心が過った。
その後、何もなかったように僕と先生は例の白装束に着替え、部屋を出た。眩しい朝日のオレンジが、この教団の朝を呼び覚ました。
「じゃあ、朝食を皆でいただきましょう」
昨晩と全く違う先生の明るい声を聴きながら僕は、食堂に案内された。食堂は普通の社員食堂みたいでキッチンと白い長テーブルが並べられているだけのシンプルなものだった。
唯一違うのが僕専用の黄金の机と椅子が用意されているということだけだった。出された食事も味噌汁、ご飯、漬物といったような日本の典型的な質素な朝食だった。
「材料はどこからもってくるんですか」
僕は近くのテーブルに座る先生に聞いてみた。
「私達は基本、自給自足の生活をしているの。自分達で畜産物や農作物を育てて自分達で消費する。そして、教祖も信者も平等に同じものを食べて、同じように生活する。だけど、信者はルナパラダイスに出家する際、現実社会との交わりを一切絶って、全財産を教団に捧げなければならない。その財産でさえも平等に信者のために使われる。つまり、ここは競争なんてない世界。全てが平等なの」
僕は競争のない世界という言葉が妙に喉に詰った。僕が生まれた世界は競争しかなかった。受験戦争も就活も出世争いも全て競争だ。その競争で僕自身は負けている。
勝ったら生き残り、負けたらそこで終わり。どんなに勝ったとしても能力が衰えたり、自分より強い人間が現れればいつかは負ける。負けた人間は全てを失う。
真の安定なんて存在し得ない。誰もが明日どうなっているかわからない生殺しの状態を生きている。
今の世の中で果たして、本当にそんな理想的な世界が存在するのだろうか。
「でも、不満とか出ないんですか。人に感情が存在する限り誰かがサボろうと思うし、共産主義や社会主義の崩壊は歴史が証明しているじゃないですか」
「ここにいるのは、私みたいに社会で生きられない人ばかり。それぞれに問題を抱えて世の中を捨てた人ばかりなの。私は違うけど、もしかして信仰なんて関係ないかもしれない。ここは現実社会とは違う場所に位置し、テレビやネットなど外部の有害な情報は一切入ってこない。まあ、教祖の許可が降りた時、幹部だけは本殿に一台だけあるノートパソコンで社会からの情報を得ることができるけどね。ここでは毎日決められた作業をこなし、月に祈りを捧げてさえいれば、自分の生活は絶対侵されないし、平等の愛を受けることができるから。皆、見えないだけで心に傷をもっている。だから、誰も傷つけようとは絶対思わないはずなの」
「ここは信者にとってはある意味理想郷なんですね。こんな教団を立ち上げたチャンドラ様ってどんな方だったんですか」
「チャンドラ様は本当に優しい方だったわ。いつでも笑顔で皆を平等に愛してくれた。彼は見えない絶対的なオーラを持っていて、私達の傷ついた心までも癒してくれた。彼は父であり、母であり、私達を不安と絶望の世界から守ってくれているの。一緒に汗を掻いて農作業を手伝ってくれたり、私達の幸福を祈ってくれた。何一つ欲を感じさせない聖者のような方だった。だから、私達は全力でついていこうと思ったし、何よりも大切な人になった。その気持ちは遺言で魂が乗り移ったあなたも一緒。まだ、ルナパラダイスを理解していないところもあると思うけど、チャンドラ様の魂があなたに宿っているのなら絶対皆を率いてサンクチュアリだけではなく、世界までも幸福で一杯にしてくれる。信者はあなたのためなら何でもしてくれるわ」
「すごい立派な方だったんですね」
僕には同情する気持ちさえ湧いてきた。先生を含めこの人達、頭が大丈夫なのかって。そもそも、魂の浄化にせよ、全財産のお布施にせよ、全部、あの老人の自己都合じゃないか。それなのに、誰一人文句を言わず幸せそうな顔をしている。
彼はペテン師だったのか、それとも真の聖者だったのか、僕は困惑した。
一方で、もう一人の僕にはこんな認識も湧く。信者の皆が幸せならそれでいいんじゃないか。誰も傷つけない嘘が人々の幸せを生み出す。虚構の世界でも皆が生き生きとしている。
「いただきます。月に感謝を」
僕と信者達は同じ言葉を一斉に唱え食事を食べる。まるで学校の給食みたいだ。僕が想像する新興宗教ではもっと教祖が偉そうにしているのに、ルナパラダイスでは儀式の時以外それを感じさせない。ここでは信者も教祖も同じ人間に違いないんだ。ただ、違うのは教祖の命令には何があっても従わなければならないという点だけだった。
僕の横には先生とスキンヘッドの男と青年と中年男がご飯を食べている。どうやら、この四人は幹部で僕の世話役らしい。何となく、スキンヘッド頭の男に話し掛けてみた。
「あなたはこの教団に入る以前に何をやっていたんですか」
「私はここに来る以前、デッドローズというバンドで直樹という名前でヴォーカルをやっていました。バンドマンとしてはヒットチャートでベストテン入りしたり、武道館のような大きな会場でもライブを成功させたり、順風満帆の生活でした。ただ、次々、若手バンドが現れたり、バンドも世間から飽きられ始め、結局はメンバーと喧嘩して解散したんですよ」
僕は、ビックリした。デッドローズは僕が高校時代最も熱狂したバンドの一つだからだ。メンバー全員長髪を逆立てた金髪のヴィジュアル系バンドでライブではメタルサウンドに乗せ楽器を壊したり、炎を噴き出したり過激なパフォーマンスを繰り広げ、僕を虜にした。しかし、イロモノとして扱われなかったこのバンドは徐々に人気が衰え、解散して、いつの間にか人々の記憶から忘れ去られていた。
僕自身、こんなところでヴォーカルの直樹に会えると思ってもいなかった。少し年を取ったし、スキンヘッド頭で気づかなかっただけで、ド派手なメイクをすれば直樹だとわからなくもない。直樹はさらに語った。
「音楽で行き詰まった私は自殺までも考えました。でも、たまたま友人から聴いたルナパラダイスの噂が頭から離れなくてサンクチュアリを訪れたんです。ここでの暮らしはロックに出会った時よりも十万倍以上衝撃でした。全てが平等で一人ひとりが認められた世界。チャンドラ様はこの世界を司る絶対的な存在だったんです。私は今を、全てを、捧げているつもりです」
「なら、他の信者も同じことを考えているんですか」
「例えば、あそこに座っている青年、新太郎は中学時代いじめられてから不登校になり、トラウマを抱え長年引きこもりだったんですよ。ネットのアニメやロボットしか彼の理解者がいなかったらしいですが、この教団で愛されることを知り、のめり込んでいったんです。あと、彼の横にいる中年、進士はある有名銀行の課長だったのに、家族にも愛想尽かされたり、突然リストラされたりでここに来たんですけど、今では自由を知り相当気に入っているみたいです」
こんな会話をしながら、朝食を食べ終わった。
「ごちそうさまでした。月に感謝を」
この言葉と同時に信者は巣に戻る蟻のように退散していった。
「これから何があるんですか」
直樹に聞いてみた。
「聖なるカルマです。各自持ち場に行って、畑や果樹園や家畜の世話に励むんです。ヴァル様は何かやりたいことありますか」
「何でもいいです」
「じゃあ、新太郎と進士と一緒にサンクチュアリ内の身回りをお願いします」
そんな訳で、三人でサンクチュアリを見回ることになった。各自の作業場で生き生きと働く信者の姿を見ながら、僕らは会話を交わした。
「新太郎さんは今の生活は楽しいですか」
「そりゃ楽しいですよ。ネットやテレビはないですけど、ここでは誰にもいじめられないし、比べられることもない。存分に自分の好きな過去のアニメやフィギュアの話をしても嫌がられることはない。それでも、まだ社会に対する未練がどこかにあるのかもしれません。例えば、社会では今どんなものが流行っているのか考えることがあります」
「じゃあ、進士さんは」
「働いていた頃よりも幸せを感じます。私は悩んでいたのです。会社のために働くのか、自分のために働くのか。朝から晩まで働いていました。会社のための自己犠牲。自分は単なる歯車みたいに感じるようになりました。自分の時間はなく、ただ会社と家を行き来するだけ。こんな生活だから、子どもとも、妻ともコミュニケーションが取れずに距離がどんどん離れていき、別れてしまいました。皮肉ですよね。自分のため、家族を養うために働いていたのに、気づいたら自己という充実感は奪われていた。会社が家族を呼び戻してくれるわけではないですからね。とにかく、寂しかった。その上、働き過ぎたのがたたって過労で倒れ、それがきっかけでクビになったんですよ。私は一度全て失いました。精神的な死を迎えたのです。しかし、ここに来て、第二の生を得た。ここでは全員が家族であり、愛してくれます。私は真面目しか取り柄のない人間ですが、社会は真面目な人間に対して、染まることを要求します。そして、染まらない人間には偽善者だと嘲笑するのです」
「それぞれ大変なモノを背負って生きているんですね」
「結局、全てのルールを決める人間は金を持っている人間、社会的地位のある人間なんですよ。彼らはずる賢く自分達で我田引水のルールを造り上げる。何もできない弱い僕らはひたすら搾取され続けるのです。私もこのサンクチュアリでしか価値を成さない人間なんです」
僕はまだ社会に出ていない。親におんぶに抱っこで甘えて暮らしている。
全ての信者が何を抱えているのか根本的には理解できない。だけども、ここでは信者の皆は僕を無条件に信じて、愛してくれるんだ。
僕らは、それぞれの作業場を手伝いながら回った。どの信者も精一杯の笑顔で僕らを迎えてくれた。農作物に肥料をやったり、鶏や牛に餌をやったり、今まで掻いたことのないような心地よい汗が流れて、生きている実感で一杯になった。
昼食になるとまた学校給食のように信者が一堂に集まる。どうやら、信者は各自当番制で料理を用意して振舞っているのだ。この日は、大鍋で作られたカレーを皆で食べた。こんな経験は、高校の時の遠足でキャンプをやった時以来だ。もしかしたら、僕らにとっては毎日が遠足であり、修学旅行なのかもしれない。食事を終えると信者達はまた各自の持ち場に戻っていく。
僕には、都会とは全く違ったゆっくりした時間の流れを感じた。むしろ、忙しさに追われ、どうすることもなく時間に振り回されていただけなんだと今までの自分への嫌悪を感じたのだ。
僕は時間の奴隷だったのだ。
そんなことを真剣に考えていると、時間が川のせせらぎのように流れ、日は落ちていった。今日の聖なるカルマはこれで終了みたいだ。
信者達は一目散に、自分の部屋に戻り一息つく。そして、例のように皆で夕食を食べた。その日は、すき焼きだった。テーブル毎に、肉や野菜をつつく。僕は、先程の直樹、新太郎、進士、先生と一緒に食事を取った。
「食事が終わったら何があるんですか」
僕は、直樹に聞いた。
「ヴァル様にはこの後、毎晩恒例の超電波の受信を二時間行ってもらいます。昨日、皆で集まったサンクチュアリの本殿で、空に腕を挙げ、両手を広げ、宇宙から送られてくる超電波を受信して、祈りを捧げるんですよ」
「なるほど、これも儀式ですね」
「そうです。これが一番の儀式ですよ。超電波のおかげで病気が治ったり、精神が安定に保てているという信者がいるくらいですから」
「じゃあ、それが終わったら」
「魂の浄化ですね。今日はどの信者が訪れるかわかりませんが、魂の間でどなたかが待っていると思います」
今日から本当の儀式が始まる。僕はここでは教祖であり続けなければならない。そんなプレッシャーが僕には湧いてきた。
いいんだ。道化師でも、偽善者でも。皆が笑顔でいてくれれば。
「じゃあ、サンクチュアリの本殿に行きましょう」
はしゃぎまわる子どものような笑顔の四人にひかれ僕は昨日朦朧とした意識で運ばれたサンクチュアリの本殿に向かった。
実際、祭壇の前に立つと神秘的な力が宿ってくるような気がするから不思議だ。これは、ホントにあの老人の力なのかと思うほど、僕にはオーラが現れた。それは、僕を狂信的な目で見つめる信者の期待が生み出す偽りのオーラなのかもしれない。しかし、僕の体内にはもう一人の自分が宿っているかのように自然に声が出てきたのだ。
「皆、私を見よ。私は救世主であり超人である。私に縋れば皆幸せが訪れる。さあ、両手を広げ宇宙と一体になるのだ」
集団心理というのは恐ろしいものだ。直樹から聴いた知識を基に教祖っぽい言葉を唱えてみると意外に様になって動揺した。僕の言葉と同時に、信者達は歓喜で涙を流しながら、両手を一斉に広げた。彼らは宇宙から振り注ぐルナウェーヴの存在を本気で信じているのだと改めて実感した。
「思う存分超電波を受信しなさい。疲れたら腕を下ろし休めばいい。また、超電波を感じたくなれば両手を広げればいいことだ。皆、ここでは全ての重荷を私に預け、私を信じればいい」
こんなにも教祖が愉快な仕事だと思ってもいなかった。ここでは僕が全能なる神であり、皆が僕に熱狂しているのだ。僕は、イタズラ心でこんなことを叫んでみた。
「さあ、皆、飛び跳ねろ」
「・・・・・・ドンドン、ズギャン」
信者達はトビウオのように勢いよく飛び上がる。
「ぺッ、ペッ、ペッ・・・・・・・これは聖水だ。お前達舐めなさい」
僕が畳中に吐きつけた唾に信者達は競うように群がる。この異常な状況が僕には滑稽にさえ感じた。そんなことを繰り返し、遊んでいると僕は信者達に悪いような気さえしてきた。再び、超電波受信の体勢に構える。
僕は必要とされている。僕自身にもぽつりぽつりと涙が流れているのがわかった。
超越的時間。
全ての時間が嵐のように僕に向かって降り注いで来る感覚さえ感じるほど、僕は無心で祈り続けた。神憑りの状態になった僕は痙攣していた。
我を取り戻すと、二時間以上時間が経っていた。部屋には放心状態になった信者、涙を流した信者、失神した信者で溢れかえっていた。
「本日の祈りはこれで終わりにする」
自己陶酔した僕は全信者に言い放った。信者達も元の自分を取り戻したように、各々部屋に帰っていく。僕にとっても、信者にとっても長い信仰の一日が終わりを迎えようとしていた。直樹、新太郎、進士、先生も何もなかったように自分の部屋に戻っていった。
「魂の浄化頑張って下さい。愛を満たせば世界は救えます」
直樹が会釈をしながら、僕の前を去っていったのが印象的だった。僕にはまだ魂の浄化という使命が残っていると考えると、疲れていたが再び超人的な力が漲ってくるようだった。
魂の間を開けると、僕は驚いた。そこには全裸の老婆が立っていた。年齢は七十代くらいだろうか、気品があるが小枝のように細く、かよわい貴婦人だった。
さすがに、僕は萎えてしまう。なぜ、自分の祖母のように歳の離れた女性を抱かなければならないのか。これから毎晩のように若い女が抱けると思っていたのに。
「あなたは?」
「私は文恵と申します。夫には先立たれ、一人息子と嫁には遺産をほとんど搾り取られた揚句邪険にされて、気づいたらここにいました。信仰しか私を救うことができないのです」
そんな話を聞くと、僕は妙に老婆が愛おしくなってきた。今、彼女を女にすることは僕にしかできない。僕は精神的にも肉体的にも彼女を支配できることを確信した。
だから、そっと肌と肌を触れ合い、一つになったのだ。
「こんな私でも抱きしめてくれるあなたは本当の神様です。愛されているという実感を与えてくれる唯一の神様です」
文恵は涙を流していた。たまに零れる吐息のような声は妙に心に残った。この人だって、今は老婆であっても若い頃があったのだ。眠っていた感情を僕が呼び覚ましている。
「ゴメン」
「いいんですよ、私は肌と肌が触れ合うだけで満足です」
「えっ、ああ・・・・・・・」
さすがに、僕は果てることはなかった。乾ききった肌と乳房は色気とはかけ離れ、グロテスクなものにさえ思えた。
もしかたら、これは僕の同情心が導いた行為であると考えると、性衝動は何も起こらず終始不能だった。ただ、自分なりの精一杯の愛を注ぎ込んだ。これは教祖である義務感からの行為だったのかもしれない。文恵の満足そうな顔を見ていると、僕の罪悪感は吹っ飛んでいった。
そのまま、二人は朝まで魂の浄化に及んだ。
新興宗教ルナパラダイスでの生活は僕にとって全てが感動だった。社会から疎外された人々が愛を求めて、彷徨って来るこの地は本当の意味での理想郷だった。
僕もここでは愛を与え、与えられ、生かされていた。気づけば、口調も雰囲気までも本物の教祖らしくなっている自分が当たり前のようにさえ思えてきた。
毎日、聖なるカルマと祈りに没頭する日々。むろん、毎晩、魂の浄化も続けられていた。いじめでのストレスからリストカットが止められなくなった少女や夫からの暴力を思い出し今も苦しむ元主婦、歳を取って生きる意味さえわからなくなってしまった老婆まで僕は余すことなく抱きしめて、愛を与えていった。
ルナパラダイスの教祖として生活を送って、六ヶ月ほど過ぎた。
ある晴れた日のことだった。季節は秋になり、サンクチュアリ全体が実りの赤や黄色に染まっていった。もちろん、僕だって、ルナパラダイスの永続性を疑うこともなく過ごしていた。万物は止まることはなく流動していくが、志は永遠に残るものだと何ら根拠もなく信じていた。
僕に付いてくる信者達が僕を正当化してくれる、それが不安定な僕の存在理由でもあった。
「娘を返せ。このインチキ野郎」
耳を劈くような声を挙げ、彼らは突然やってきた。
時刻は作業も終盤に近づく十六時。以前から地域住民が様子をうかがいにサンクチュアリ周辺をうろついていることはよくあったが、こんなに露骨に現われたのは初めてだった。
白髪の老人を先頭に、主婦を中心とした二十名ほどの地域住民が、『カルト教団は今すぐ出てけ』と書かれたプラカードを堂々と掲げ、正門の前に居座っていた。
「ヴァル様どうしましょう」
新太郎が僕に不安げな声を掛ける。サンクチュアリの窓から僕は眺めながら言った。
「私に任せなさい。全て月に導かれることだ。ここでお前は見ていればいい」
僕は、正門の向かい駆けだす。
「さやか戻ってこい。お前は騙されているんだ」
先頭の老人が声を枯らすまで叫んでいる。何とも、耳障りだ。さすがに、このままでは埒が開かないので僕が正門の扉をわずかに開けて、言い放った。
「ここはあなた達の来る場所ではありません。私達は何一つあなた方の生活を脅かすつもりはありません」
すると、老人は物凄い剣幕で僕の前にすり寄ってきて言った。
「嘘つけ。お前がうちのさやかを連れ去ったんだろ。オレは相沢さやかの父太郎として必ず娘を取り返す」
「あなたはさやかさんのお父様ですか。じゃあ、さやかさんを今呼んできます。話せば、さやかさんが無理やりではなく自らの意思でこのサンクチュアリに来ていることがわかるでしょう」
「うるさい。とっととさやかを出せ」
しかたがなく、僕は大急ぎで先生を探した。先生は畑の横の青いベンチで休憩をしていた。
「大変なことが起こってる。さやかの父親が今サンクチュアリの正門で怒鳴り込んでるんだ」
「本当ですか。ただ、私は最近何だか体調が悪いんですよ。いつも喉に何か詰ったように気持ちが悪いんです。でも、父が来たのなら。今すぐ行きましょう」
僕と先生は猛スピードで正門まで駆け出した。これから何が待っているか一抹の不安を抱えながら。
「さやか、お前にずっと会いたかった。お母さんを亡くしてから、お前が全てだったのに。お前までも失いかけた私がどんな気持ちだったかお前はわかるか。こんなところにいないで早く戻って来なさい」
太郎は安堵の表情を浮かべ、涙を流しながら言った。そして、僕が、見る限り父親との再会を果たしたさやか先生も懐かしさのあまり涙を流していた。
「パパ、会いたかったよ」
この言葉と同時に先生は太郎に抱きついた。この時ばかりは、喧しかった周りの住民も一斉に静まり返って、父娘の再会をじっと見つめていた。
「もう離さない。早くこんなところから出ないか。二人で暮らそう」
「私はここからは離れられないの。なぜなら、私はここで必要とされているから」
「どうして。さやかはこんな得体の知れないカルト集団と一緒に暮さなきゃいけないんだ。さやかは、洗脳されているんだ」
「違う。これは洗脳なんかじゃないわ。私は自ら選んで、自らの意志でここにいたいと思っているの。たとえ、親子の縁を切っても」
太郎は力の限り先生の腕を握った。
「やめて下さい。さやかさんはここにいたいからいるんです」
「嘘つけ。今日はさやかを連れ戻すまで帰らないと決心して私はここにきたんだ」
もう、これじゃ埒が明かない。僕自身、強行的に老人を殴ってでも追い返そうと考えた時だった。
「やめて。私がこの施設から出て、明日の日付が変わるまでに父を説得します。そして、必ず戻ってきます」
「本当ですか。私はあなたを信じています。必ず戻ってきて下さい」
そうして、その場は収まった。だが、この決定に納得しない者もいたのだった。
「ヴァル様、相沢さやかの外出をなんで許したんですか。実は私もここから出たいです」
その日も例のように超電波の受信があった。儀式が終わりに差し掛かった時に、新太郎が突然大声で怒鳴り出したのだ。
「それはさやかに月の許しが出たからだ。だが、お前には信仰心が足りていない」
「信仰心って何ですか。そんなのデタラメじゃないですか。とにかく、私はこんな刺激のない生活に飽きたんです。最初はちょっと世の中が嫌になって入っただけなのに、抜けられないなんて。今は生きづらさとは別に最新のアニメやネットを楽しみたい気持ちでいっぱいだ」
「ルナパラダイスでは自身の意志だけでは抜けることはできないんだ。それがルールである。私の言うことは絶対であり、必ず守って欲しい」
僕は、裏切られたような気分になり、強い口調で答えた。
もう頭の悪い奴の言い訳なんてウンザリだ。そんな気分だった。しばらく、魂の間で待っていると今日は新入りの女性信者が来た。
二十歳前後の女子大生だった。名前は多恵子と言った。スタイルは文句なし、顔立ちも整っていて綺麗だ。
それでも、一つだけ問題があった。顔の半分が火傷で酷く爛れているのだ。ストーカーのように付きまとわれた同級生に交際を断った結果、硫酸をかけられ酷い顔になってしまった可哀想な女だった。
「私も他の信者と同じように愛してもらえますか。私はこの顔になってから誰かに見られてないかって考えると恐くて。小学生が私を見て、泣き出した時には死のうと思いました。そうすれば、楽になれるかななんて」
「もちろんだ。ルナパラダイスは全員が家族である理想郷的共同体なのだから。裏切り者は許さないがな」
僕は、まるで母親が子どもを撫でるような手つきで多恵子の全身を愛撫していった。その度に悦楽の声が部屋中に響き渡る。僕にはもはや顔なんて関係ない。この行為自体が教祖としての生活の一環であり、僕は自らの愛で多恵子を本能に導き出すゲームをしているのだ。
「私も幸せです。ヴァル様。私の顔も心も永遠に愛を与え続けて」
僕と多恵子は同時に果てた。
「私を信じれば永遠は必ず訪れる」
「私はヴァル様に何が起こっても、死ぬまで信じ抜きます」
そこから先の細かな記憶は存在しなかった。朝のどこまでも身を焦がすような鮮やかな白い朝日が二人を現実世界に戻したのだ。
だが、快楽から解き放たれた現実世界は想定外に醜いものだった。僕らが魂の間に籠っている間、新太郎は死んだ。
サンクチュアリのガラス張りの入り口に新太郎だった塊が転がっていた。多数の殴打の跡があり、白装束は真っ赤に染まり、顔は原型が判らないほど潰れ、歯は抜け落ち、手首、足首の骨が本来絶対向かない方向に曲がっていた。
この世のものとは思えない凄惨な光景だった。だが、ほとんどの信者が口にケチャプのように血をつけ、ニコニコと笑っている。
「誰がこんなヒドイことをやったんだ」
「皆で彼の邪悪な電波を中和しました」
自信満々に全ての信者が応えた。昨晩、脱走を試みようとした新太郎は発見され、信者全員のリンチに遭ったのだ。恥ずかしいことだが、僕はどの信者がリンチに参加したのか、傍観していただけなのかわからなかった。ただ、恐ろしいのは誰一人この反道徳的な行為を止めなかったことだ。
もはや、サンクチュアリの善悪の基準は道徳ではなく僕一人が委ねているのだ。あらゆる悪が集団というシンリの中で正当化されてしまう。
僕は信じられなかった。教祖の僕が目を離した間に人が一人死んでしまうなんて。同時に、人一人を僕が間接的に殺してしまったのではないかという深い罪悪感が芽生えた。
「私はこんなことを望んでない。直樹もどうして止めなかったんだ」
「それはヴァル様に新太郎が逆らおうとしたからです。さあ、埋葬の儀式の続きを始めましょう。チャンドラ様同様に新太郎を皆で腐る前に食べてしまうのです。死んだ者は私達の魂の中に取り込まれることになるでしょう」
直樹が悪びれた様子もなさそうに応えた。
皆、狂ってる。僕が正常であるという根拠すらも存在し得ない。
それでも、僕は、思った。
歯車が狂ってしまった以上このままにしていてはいけない。
幸いにも、新太郎には身寄りはなく、社会ではもはや行方不明の身になっていた。
「皆で埋葬の儀式をしながら。証拠を全てなくすようにするぞ。絶対今日の出来事は外部にはもらすな。これはルナパラダイスを守るための防衛的手段である」
その日は、聖なるカルマを一切中止にし、信者全員で新太郎殺害の証拠隠蔽を図った。心のどこかで日付が変わるまでに先生が戻ってくるかという深刻な不安を抱えながら。
ただ、僕らは先生が戻ってくることを信じながら、眼の前の現実を直視するしかなかった。
一丸となって飛び散った血を最後の一滴まで舐め切り、脳や腸や眼球など食べられる部位は全て生のまま食べた。骨までもしゃぶってしまうように。
僕の感覚はおかしいのか。腹の裂け目から恥ずかしそうに覗くピンク色の腸が愛おしく見えてしまうのだから。
むろん、味なんか生臭く過ぎて解らない。ただ、教祖としての使命だけが僕を人肉食へと突き進めたのだ。僕や信者全員、吐きながらも新太郎の死体の肉を食べ尽くす。死体の臭いの他に嘔吐物と胃液の臭いが鼻に突き刺さる悪臭をただ寄せていた。
残った骨が白砂糖のような粉にしてサンクチュアリの裏山に埋める。これで、新太郎は僕らの認識から消える。
彼は元々この世界には存在しなかった。
これでいいんだ。そう思い込むしかなかった。
日がどんどん暮れていく。
真っ赤に燃える夕陽の後には氷のように蒼白く冷たい満月が妖しく僕らを照らしていた。
結局、その日に先生は帰って来なかった。魂の浄化どころでなく、僕は心配でよく眠れなかった。いつの間にか明け方になり、空は曇っていきシトシトと雨が降ってきた。雨が不安な現実さえ流してしまえばいいのに。僕はそんな風にさえ思った。小降りの雨は静寂の中に安らかな音楽を奏でる。
眠れない間、ふと小学生の頃大切にしていたボロボロの熊のぬいぐるみを勝手に母に捨てられた時の記憶が蘇ってきた。
普段は、対して何とも思ってなかったのに、急に姿を消すと不安と共に妙に愛おしくなる黒ずんだぬいぐるみ。しかし、母から見れば幼稚園の頃に遊んでいたのに見向きもしなくなった汚らしい綿でできた物体でしかなかった。
僕は泣き叫びながら母に抗議したのだ。なんで、大切なものを捨てたんだと。すると、母は言った。
「じゃあ、そんな大切なものなら普段から大切にすれば良かったのに」
大切なものなんて人間の気分次第。失ってから気づくことの方が多い。僕らはどこまでも自己中心的で我儘な生き物に過ぎない。
先生はもしかして僕らを裏切ったのか。それとも俗世間に触れることで正気に戻って誰かを引き連れてサンクチュアリを脅かしに来るのか。
いつもの朝食なのに、皆元気がない。細長いテーブルに信者達は魂が抜けたように座っているだけだ。
「いいか。さやかは戻ってくる。信じろ。我々がこの世の中で一番正しいのだから」
僕が大きな声で全信者に向けて言葉を発した。
「お前らそんなことでどうする。ヴァル様を信じてみようじゃないか」
直樹が声を発する。
「私も何があっても命を捧げます」
進士も腹の底から声を張り上げた。
「やっぱり私達はついていきます」
「全てをルナパラダイスに捧げる覚悟はできています」
「命を擲ってでもサンクチュアリをお守りするぞ」
直樹と進士に同調するように信者達の熱気に満ちた声が広がっていった。
僕らなら何かやれるような気がする。
だが、それは単なる幻想だった。どこまでも残酷な現実が僕の目に突き刺さる。
朝食を食べ終わった後あたりだろうか。さっきまでは雨の音しか聞こえないほど静かだったのに、外の様子がいつもよりザワザワしている。不思議に思って門の前から覗いてみると僕は目を疑った。
今までは地域住民だけだったのに、今度はヤジ馬に溢れ、数台のTV局のカメラまでもこちらを撮影しているのだ。
先生が僕らの活動のことを全部話してしまったのか。裏切られたのではないかという不安が現実になったのか。
もし、TV局に新太郎のことがバレたら、警察がやってきたらどうなるだろうか。僕は恐ろしさのあまり身震いした。いくら僕らが新太郎を認識世界から消しても、新太郎を殺したという事実は決して消えない。
バレるのは時間の問題だ。
「直樹、奴らを追い払ってこい」
直樹に命じた。そんな直樹を僕は門の外から眺める。
「あなた達ここは私達の土地です。出てって下さい」
直樹がゆっくりと話すと一瞬ざわめきが止まったかに思えた。ただ、それは甘えた考えだった。次の瞬間、
「ここはカルト教団なんですか」
「何人ぐらい信者はいるんですか」
「信者の家族が家に戻って来て欲しいと訴えを起こしていますけどコメントお願いします」
「ここにいる目的は何ですか」
「巷では謎のSEX教団と呼ばれていますけど本当ですか」
直樹に質問の集中砲火が浴びせられていた。
「静粛に。とにかく、ここから出て行って下さい。私達はあなた達に何も迷惑をかけていません。だから、私達の活動を黙って見守っていて下さい。」
直樹は冷静に言い放った。すると、紺のスーツ姿のアナウンサーが切り返す。
「こんなに世間を騒がしている以上あなた達は迷惑をかけているじゃないですか。早く全てを話して下さいよ。これだけの騒ぎになればいずれは警察が来ますよ。てゆうか、もしかしてあなたはデッドローズの直樹さんですよね」
直樹はひるんで、茫然とした。僕は見てられなくなった。
「直樹早く戻ってこい。こいつらと対話を持とうとしても無駄だ」
直樹は取材陣を振り切って門を通り、戻ってきた。取材陣達はざわめきを強めていた。行方不明だった伝説のバンドマンがこんなところにいるから衝撃は大きい。
「ここまで来てもバンド時代の過去が付きまとうんですか。私は悔しいです」
直樹の声はいつもの自信と裏腹に弱弱しかった。
「こんなことで落ち込んでいる場合じゃないぞ。これからどうするべきか考えなければ。全信者本殿に集めるぞ」
昨晩、最悪の事態を想定していた僕の中の答えはある程度は決まっていた。だが、それは悪に満ちた正義だと自分でも解っていた。どの道、警察が来たら、僕らの理想郷は終焉を迎えるということを僕は知っていた。
なぜなら、僕らは人を殺すという罪を犯した。
結果的に信者を騙し、傷つけてきた。
こういった行為は俗世間では許されるはずはない。元々、僕は公園で首を吊って死ぬはずだった。
全てはあの時から始まり、時間はずっと止まっていた。僕の中にある狂気と欲望だけがサンクチュアリを支配していたのだ。
僕は、もはやこの世界では生きられない。だが、これから起こす僕の行為が遂行されれば、人々の記憶の中では永遠に生き続けることができる。僕が世界全体の意味を変えてしまえばいいのだ。
信者は全員すぐに本殿に集結した。祭壇に立った僕は全身全霊を込めて言葉を絞り出す。
「皆も知っての通り、一人の裏切りによりこのサンクチュアリは既に報道陣や愚民どもに囲まれてしまっている。施設に警察が踏み込んでくるのも時間の問題だ。この世界でのサンクチュアリの崩壊は免れないだろう。だが、安心してくれ。我々はこれから理想郷へと旅立つのだ」
信者達は真剣な眼差しでこちらを見つめながら各々叫んだ。
「どういうことですか」
「私は何があってもヴァル様についていきます」
「理想郷の建設のためなら何でもします」
僕は信者達一人ひとりの目を見つめながら、僕は天井の水色の月に右手の人指し指を突き立て宣言した。
「明日、ガソリンをバラまいたバスに乗って国会議事堂に突撃する。我々は死ぬわけじゃない。これは理想郷建設の最後の仕上げなんだ」
最初はどよめいたが信者全員の答えは決まっていた。なぜなら、ここにいる信者達は僕と同じようにルナパラダイスのない世界は考えられないからだ。ルナパラダイスがない世界で生きていても意味がない。それは明確な答えだった。
「最後までついていきます」
涙を流しながら皆声を張り上げた。
僕は一晩中考えた。どうすれば、僕を切り捨てた世の中に僕という存在理由を実証できるか。
僕は思う。いくら現世で理想郷を築こうとしても永遠なんて存在し得ず、心ない人間や警察に簡単に壊されてしまう儚いものじゃないか。
考え抜いた結論が日本の政治の中枢である国会政議事堂の前で火だるまになるということだった。
僕の人生は必死に水を入れようとしても、空っぽのコップだったのではないか。そんな虚無感ばかりが僕に襲いかかる。どんな形でもいい。命懸けで世間をあっと言わせたいんだ。
そうすれば、世界は僕に注目する。幸いにも僕には信者達がいる。僕達の訴えで世界は転覆し、あらゆる価値観が揺らぐかもしれない。無駄に生きていた人生が燃え尽きた時、僕らは理想郷へと旅立つ。
僕は自身の死と言う最期の創作活動に及ぶことにした。
「皆、カメラの前で我々の言葉を笑顔で叫ぼう。これはバスの中でノートパソコンから動画共有サイトに投稿する。これは現世への遺言だ。皆、心の限りをぶつけてくれ」
進士が感極まって声を出す。
「ヴァル様は本物の救世主です」
もはや、本殿は信者の熱気と歓声で一体となった。
この計画の目標は自分の生きた証明を永遠に残すこと。インターネットを介して僕達の生への証明が世界を駆け巡る。これから死ぬのにワクワクして仕方なかった。狂ったように僕は笑いながら言い放つ。
「世界はルナパラダイスで変わる。各々の思いを月に発信しなさい。私を信じてついてきなさい。永遠の幸福が訪れるのだから。計画は、明日の正午必ず遂行する」
その晩は、信者達は思い思いの言葉を綴っていった。ルナパラダイスへの日々の回想、家族への思い、社会への恨み、吐き出された言葉は多種多様だった。
僕と直樹、進士は最後のメッセージを収録するため魂の間に集まった。
「ここまでよく私を支えついて来てくれた。ありがとう。あとは好きなようにしてくれ」
僕は祭壇で一人、一人、抱きしめて感謝の言葉を述べた。二人ともドクドクと心臓の音が聞こえるほど高揚して、温かった。
「ヴァル様に救われたのは私の方です。本当にありがとうございます」
進士の目には涙でいっぱいだった。
「まだまだ、これからですよ。死後の世界で我々の理想郷を築くんですから」
直樹は相変わらずクールだった。しかし、直樹にカメラを向けると普段見せない彼になった。
「華やかに燃えろ 紅の翼を広げ 退廃の旅立ちへ」
直樹はデットローズ時代の代表曲「ファイアーバード」をただひたすら歌い上げた。僕が高校時代夢中になったデッドローズのカリスマヴォーカル直樹の姿がそこにはあった。
「メッセージはこんなのでいいのか」
「これが一番私らしい姿です。この姿だけ最期に残しておきたいんです」
誇らしげに直樹は言った。さらに、直樹はこんな話を始めた。
「ヴァル様はアリとキリギリスの話を知っていますか」
いきなり、直樹は何を話すのかとその時は思った。
「ああ、働き者のアリとバイオリンを弾きながら歌い遊び呆けるキリギリスの話だろ」
「ヴァル様、キリギリスは怠け者だと思いますか」
「そうじゃないか。働きもせず遊んでたんだから。たぶん、そんな奴、社会に必要とされないんじゃないか」
僕の疑問は膨らむが、直樹は少年のような笑顔で話す。
「私はそうは思えません。キリギリスは見えないところで練習を重ね、森の皆を楽しませるためにバイオリンと歌に全てを注いだんですよ。将来どうなるかわからない。絶えず凍死と飢え死の危機に晒されている。だけど、森にいる皆を少しでも笑顔にしたいという気持ちで自分の才能を信じ音楽を奏でているんです。これがアーティストとしての私の生き方なんです」
やっぱり、直樹は生粋のバンドマンだった。死の直前でもこんなことが言えてしまうのだから。
「つまり直樹もキリギリスなんだな」
「私も音楽に全てかけてきたキリギリスなんです。確かに、キリギリスはお金や食糧を生み出すことはできません。でも、そのキリギリスの創り出したアートは死後も残り、永遠に誰かを元気づけ、時にはその人の人生まで変えてしまう無限の可能性を秘めている」
「死後も我々は残るのか」
「命を燃やして我々の存在を永遠にしましょう」
妙に直樹の言葉は僕の心を突いた。僕もキリギリスのような人生だったのか。
犯罪が帯びる芸術性。
今から僕らが遂行しようとする行為は僕ら全てを肯定する。燃え上がる僕らこそ最期の作品なのだ。
一方、進士のメッセージはいたってシンプルだった。
「澄香、将雄、お父さんはこれから旅に出るんだよ。今までありがとう。二人ともこれからも幸せに暮らすんだよ。将雄は、小学校でしっかり勉強して立派な大人になれよ。シン世界でずっと見守っているから」
妻と子どもへ最期のメッセージを穏やかな笑顔で話していた。僕は何だか心が温まった。
「まだ、家族のことを思っているんですか」
「それはそうですよ。向こうは私のことをどう思っているにせよ、私にとってはかけがえのない家族ですから」
このように全信者のそれぞれの想いが綴られていく。最後に、僕自身もメッセージを入れた。
「これが我々の想いです。全てを受け取って下さい。我々が生きた証明を。ルナパラダイスは絶対的理想郷建設のため旅立ちます。今から国会議事堂を炎上させます。観念世界の崩壊。自己の解放へ。我々の現世における最後の創作活動をとくとご覧下さい」
僕は今までの人生への不満をぶつけるように吐き捨てた。考えれば、考えるほど、大した人生じゃなかった。こんな形でしか、僕は存在を示すことしかできないつまらない男だ。
直樹も、進士も自分の部屋に戻っていった。サンクチュアリ全体がそれぞれの信者の回想の中で静まり返っていた。
僕は教団に唯一あるノートパソコンを開いた。インターネットに接続すると僕らの話題で溢れていた。
第二の白装束集団、カルト系電波軍団、謎のSEX教団など意味不明な言葉が並ぶ。電子掲示板には僕らを早く捕まえてしまえという書き込みがあったり、ニュースサイトにはさっきの直樹の写真に『カルト洗脳されたロックスター』と大きな見出しがついて報じられていた。
恐らく、世界全体僕らを抹消しようとしている。僕らが理解されようと奔走してもこんな不快な言葉でしか表現されない。憤りとの憎しみが込み上がる。
僕らは間違っていない。僕らこそが真の正義なんだ。明日になればそれが解明されるんだ。僕の心の拠り所はそこだけだった。
そんな気持ちを抱えながら、メール画面を立ち上げてみると、受信欄に見たことのないアドレスが載ったメールが一通あった。開けてみた僕は驚いた。
もしかしたら、しばらく帰れないかもしれません。今、理由は言えません。万一、何かあったらこのアドレスにメールを送って下さい。
相沢さやか
これはどういう意味なのか。僕には理解できなかった。ただ、わずかな希望を込め指定されたアドレスにメールを送る。
どうして帰ってこないんだ。お前の裏切りのせいで教団は崩壊の危機に晒されることになったんだぞ。もし、このメールを見たのなら明日の正午国会議事堂の前に来い。我々は永遠の理想郷へ旅立つのだ。
メールは返ってくるのか。そんなことはどうでも良かった。もはや、僕らにとって現世世界が終焉するのなら、先生への感情なんて無意味だからだ。
雨はいつの間にか止んでいた。朝日が一筋の白い線になって窓から差し込んだ。僕らの理想郷の創造を導くように。
真っ蒼な空の海に目の眩むようなオレンジの太陽の光のシャワーが降りそそぐ晴れた日だった。それは僕達の死という旅立ちにふさわしい祝福にさえ思えた。
「さあ、準備はいいか。皆で旅立つぞ」
信者全員でありったけの赤いポリ容器に入ったガソリンをバスの後ろの席に詰め込む。十個以上のポリ容器に入ったガソリンは僕らの安息を約束する導入剤そのものだった。同時に、サンクチュアリにもガソリンをバラ撒いていった。過去を消し去るために。
乗り込むのは最初にルナパラダイスに運んで行ってくれた白いバス。
信者達は皆お揃いの白装束に身を包み、一人残らずバスに乗り込む。僕が教祖になってからも人数が増え続けた信者の人数は総勢七十名にもなっていた。僕にとっては全員本物の家族より家族だ。
「ヴァル様とご一緒できて大変幸せです」
シワシワの手を合掌し、文恵は涙を流しながら僕を見つめていた。
「私も、もう後悔なんてありません。どんな現実でも受け入れるのです」
多恵子も誇らしげな声も聞こえる。
老若男女、血の繋がりを越えた家族だった。
「さあ、サンクチュアリとの最期の別れだ」
僕はバスの外から信者達に向かい声を張り上げた。サンクチュアリにマッチで火をつける。
爆発音と共にビチビチと悶え声をあげるように真っ赤に燃えるサンクチュアリに僕は官能的な美さえ感じた。全焼したとしてもサンクチュアリは僕らの記憶の中では朽ち果てることなく聳え立っているのだ。
誰も不安な顔などはしていない。僕を信じ切っている彼らは幸福の笑顔で満たされていた。僕らにとってはこのバスはノアの箱舟なのだ。僕もノートパソコンを手にバスに乗り込む。乗る直前にメールをチェックしても先生からのメールは届いてなかった。やはり、裏切られたのか。それでも、僕は気を取り直し準備を進める。
「直樹、私が指示を出したら動画共有サイトに昨日の動画の投稿を頼む。お前だからこそ頼む大切な仕事だからな」
「解りました。ヴァル様。私に任せて下さい」
「そして、進士。お前は私が指示を出したらガソリンをバスの中にブチまけろ。一滴残らずだ」
「もちろんです」
僕が運転席に乗り、その後ろにノートパソコンを持った直樹とガソリンを見守る進士が座った。あとは今か、今かと待ち続ける信者達がいた。
全員乗ったのを確かめると僕は叫んだ。
「さあ、出発だ」
太陽が衝突したかのように輝かしく燃えるサンクチュアリを見ながらノアの方舟は動き出す。僕が踏むアクセルには信者全員の命の重さを感じた。
僕が初めてここに来た時には緑に溢れたこの場所も今では紅葉の赤に占拠されていた。僕は時の流れをまざまざと感じた。箱舟はそんな世界に別れを告げ都会へと吸い込まれていった。
「直樹そろそろ動画をアップしてくれ」
東京のオフィス街に差しかかった頃だろうか。日中の無機質な銀色のビル群が僕らの行き手を阻むかのように立ち並ぶ。直樹は、ノートパソコンで昨晩録った動画をアップしていった。その映像は次々と動画共有サイトに現われていく。もう一度、メール欄を確認したが先生からの返信はなかった。
「進士、ガソリンを皆にかけてまわれ」
進士がポリ容器の蓋を開け、信者一人ひとりにガソリンをかけると歓喜に沸く者、感涙する者、ひたすら合掌する者など死を目前にした反応を逸脱していた。ただ、皆、一斉に祈りを捧げているという点では一致した。
謎のカルト教団の集団自殺。燃え上がるサンクチュアリ。残された告白と犯行声明が映された映像。最高のシナリオじゃないか。
時刻は午前十一時五七分。
眼の前には、黄土色をした国会議事堂がどんどんと近づいてくる。
「ヴァル様の動画をアップしました。これで全動画のアップが終わりました」
直樹の声を確認した。僕の犯行声明が世界に発信された。
「ガソリンの配布も終りました。この甘美な香りがたまりませんね」
進士の声も返ってくる。
しかし、スピードを上げ国会議事堂が近づいてくると、僕はあることに気づいた。正門の前で一人の女性が両腕を広げて、何かを伝えようと叫んでいる。
「バカなことは止めて」
僕にはそんな風に聞こえた。裏切り者がどうして僕の目の前に現れるのか。僕は、アクセルを踏み、全信者に伝えた。
「今から旅立つ。私と共に永遠になろう。さよなら世界」
国会議事堂の正門が近づく。むろん、本館まで到達する前に大爆発を起こし、燃え尽きてしまうだろう。それでもいい。
「だって、私のお腹にはあなたの子どもがいるの」
それを聞いた途端、僕は急ブレーキを踏んだ。
「キューイン・・・・・・ガタガタドグン」
バスが右に左に揺れ動く。しかし、間に合わず先生は跳ねられていた。正門の直前で止まったバスに黒ずくめの警備員が取り囲む。
僕はハンドルに頭をぶつけていた。僕の中のもう一人の僕が目覚めた。
「見ろよ。こいつ涎垂らしながら、いつもニタニタ笑ってる。もはや、自分で食事も排泄もできない。時より、鉛筆で何か書いてるんだけど、意味不明な文字で全く解読できないんだ」
「彼は何者なんですか」
「お前知らないのか。新興宗教ルナパラダイス教祖ヴァル様こと沢村雄二だよ」
「今から一年前に二人の信者を殺害し、テロ行為まで企てたカルト教団の教祖様ですよね」
「でも、不思議なことに彼を悪く言う信者は誰もいないんだ。例えば、熱心な信者だったある老婆は『私は騙されていない。ヴァル様は自分の家族なんかよりもはるかに優しくしてくれた。なんで逮捕するんだ』って大真面目に言ってるみたいだぜ」
「本当ですか」
「あっ、顔に火傷を負った信者の女子大生に至っては釈放されてからも、『ヴァル様は救世主です』っていまだに布教活動してるみたいだぜ」
「でも、事件に関わったメンバーは服役してるんじゃ」
「そうだよ。元デッドローズの直樹は獄中で熱心に曲を書いてるみたいだ。まあ、彼なりの罪滅ぼしだよな。あと、進士って幹部は事件の当時流れた映像をきっかけに家族との文通が始まったみたいだぜ」
「元信者達もそれぞれの道を歩んでいるんですね」
「あっ、この前、雄二の母親が面会に来てたんだ。いつもと変わり果てた息子を見て涙を流していた。そして、オレにこんなことを言うんだ。『私は若い頃、夫と別れから雄二を女手一つで育ててきたんです。この子は人一倍不器用だけど、正義感が強くて優しい子なんです。どうにか治して下さい』ってさ」
「だけど、ここまでくると、沢村雄二は廃人ですね」
白いベッドのシーツに震えながら包まる僕に若い医者とベテランの医者の会話が聴こえてくる。
僕はついに理想郷を見つけた。この閉鎖された病棟の中だ。
僕は自分で生み出したヴァル様に従うことにしたのだ。
鋼鉄のドアの隙間から誰かが覗きに来るが、誰も僕に危害を加えてこない。ここでは、精神世界に他者は介在できす、僕は他者のいない自分だけの世界で全肯定される。だから、僕は仕合わせだ。
僕の人生は決して空っぽのコップではなかった。なぜなら、これだけ多くの人々の人生を変え、今も影響を与え続けている。そして、僕は彼らの傍観者であり続けることだってできるのだ。
僕は、狂ってなんかいない。僕は、狂ってなんかいない。誰も笑うな。
だから、今、自分という小説を綴っている。
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