ブライダルチェックで「不妊」と言われた妻——山奥の温泉旅館に隠された、もう一人の夫と8歳の息子
ブライダルチェックで「不妊」と言われた妻——山奥の温泉旅館に隠された、もう一人の夫と8歳の息子
導入
彩乃が山の中にもう一つの家庭を隠していると初めて知ったのは、会社から親子トレッキングツアーの受け入れに行くよう命じられた日だった。
ツアーの申込書が手元に届いたとき、正直、少しだけ期待していた。彩乃は三日前、白嶺山麓へトレッキング療養に行く、半月ほど戻らないと言っていた。今回の出張先は山あいの温泉旅館だ。もしかしたら、偶然会えるかもしれない。
同僚が名簿を私の前に置き、参加者情報を確認するよう促した。私は気のない様子でページをめくっていた。けれど、「藤宮彩乃」という名前を見つけた瞬間、視線が止まった。その後ろの続柄欄には、はっきりとこう書かれていた。
【同行者:夫・久我玲司/長男・蓮斗。希望客室:ファミリールーム】
私はその一行を見つめたまま、指先から少しずつ冷えていくのを感じていた。
結婚して八年。彩乃はずっと、自分は妊娠できないし、子どもも好きではないと言っていた。私たちはこの先もずっと、夫婦二人で気楽に生きていけばいい。彼女はそう笑っていた。けれど申込書に載っていた八歳の男の子は、彩乃と同じ目をしていた。
あとになって知った。その子は、私たちの結婚よりも数か月早く、この世界に生まれていた。
彩乃は子どもが欲しくなかったわけではない。
ただ、私に知られたくなかっただけだった。
1.親子トレッキングツアーの名簿
私は東都にある中堅の旅行会社で働いている。主な仕事は団体旅行の企画と、法人顧客とのやり取りだった。ふだん外勤は少なく、オフィスで契約書を確認したり、宿泊施設や交通手配を調整したりすることがほとんどだ。その日、課長から突然、白嶺山麓の提携温泉旅館へ行って、長く取引のある親子トレッキングツアーの受け入れをしてほしいと言われたとき、私は思わず運が向いてきたのかと思った。
彩乃は定期的に山へ行きたがった。スマホの電源を切り、電波の入りにくい温泉旅館に泊まると、仕事や結婚生活から少し息ができるのだと言っていた。夫として、私はそのたびに彼女が道に迷わないか、怪我をしないか心配し、事前に天気や登山ルートまで調べていた。
同僚の高橋さんが申込資料を渡してきたとき、私の顔に期待が出ていたのだろう。彼は小さく笑った。
「にやけてないで、森川。名簿と部屋タイプ、送迎時間をもう一度確認しておいて」
私は三枚目のページをめくり、妻の名前を見つけた瞬間、胸の奥が沈んだ。それは旅館が認証した婚姻関係ではない。あくまで顧客が自分で記入した申込情報だ。それでも、「夫」と「長男」という二つの言葉は、釘のように目に刺さった。
高橋さんが横から資料を確認する。口調はあくまで業務上の申し送りだった。
「藤宮様はリピーターです。旅館側の記録では、毎年ご家族でファミリールームをご利用とのことです。今回も同じ手配で大丈夫ですね」
私は紙の端に置いた指を動かせなかった。
結婚前、私たちは一緒にブライダルチェックを受けた。報告書には、自然妊娠の可能性は低く、追加検査が必要だと書かれていた。けれど彩乃は泣きながら、私は一生子どもを持てないのだと告げた。
私は彼女がかわいそうで、それ以上聞けなかった。大丈夫、彩乃がいればそれでいい。そう言った。その後も彼女は何度も、子どもは苦手だ、育児は自由を奪う、私たちは気楽なディンクスでいたほうがいいと言い続けた。私はそれを信じ、自分の中にあった父親になりたいという願いを、少しずつ押し込めていった。
今にして思えば、あの検査が本当に塞いでいたのは、子どもではなかった。
私が真実へ近づく道だった。
白嶺温泉旅館の前には、観光バスが次々と停まっていた。山風が旗を揺らし、親子ツアーの子どもたちは小さなリュックを背負って、保護者の隣ではしゃいでいる。私は受付台のそばで確認表を持ち、そこに立っていた。やがて彩乃がしゃがみ込み、一人の男のトレッキングシューズの紐を結び直しているのが見えた。
男は高価そうなアウトドアジャケットを着ていた。腕時計が陽の光を受け、冷たく光っている。その隣で男の子が彩乃の周りを跳ねるように歩いていた。眉や目元は、彼女と驚くほどよく似ていた。彩乃はその子の額の汗を拭い、宝物に触れるような手つきで頬に手を添えた。
高橋さんが私の隣で小旗を上げ、声を潜めた。
「森川、ぼうっとするな。藤宮様が到着されたぞ。ご挨拶を」
彩乃がようやく私に気づいた。
彼女の顔から血の気が引いた。握っていた男の手も、とっさに離れる。登山リュックの金具がぶつかり、乾いた音を立てた。
けれど男は落ち着いていた。袖口を整え、私に手を差し出す。その唇には、人を不快にさせるほど余裕のある笑みが浮かんでいた。
「森川さんですね。お噂はかねがね」
私は彼の左手の薬指を見た。そこには、私の結婚指輪とよく似たデザインの指輪があった。さらに目を刺したのは、彼の腕時計だった。去年、私が彩乃に贈ったものと、対になっているモデルだった。
男の子が彩乃の服の裾を引っ張り、不思議そうに私を見上げた。
「ママ、この人だれ?」
その瞬間、私は先月の結婚記念日を思い出した。彩乃は私が買ったシルクのナイトウェアを着て、指先で私のネクタイを弄びながら、私たちは一生、二人だけで生きていこうねと笑っていた。
八年の結婚生活。
彼女の言っていたトレッキングも、療養も、急な出張も、すべてはもう一つの家族に会うためだった。
彩乃は無意識に、子どもを自分の背後へ隠した。その仕草は、どんな言い訳よりもはっきりしていた。
私は彼女を見て、笑った。
「彩乃。僕たちは、いつ離婚したんだ?」
彼女は私の視線を避け、高橋さんのほうへ顔を向けた。声だけは、すぐに客としての冷静さを取り戻していた。
「おたくの会社は、こんな失礼な人を担当者として寄こすんですか」
高橋さんは空気の異様さを察し、すぐに私の手から確認表を受け取った。彼はそれ以上、顧客の前に私を立たせようとはせず、低い声で休憩室へ行くよう言った。荷物とカードキーの確認は旅館のスタッフが引き継いだ。久我は去っていく私の背中を見ながら、勝者が戦利品を見せつけるときのような薄い笑みを浮かべていた。
二階の廊下の突き当たりまで歩いたところで、スマホが震えた。
彩乃からだった。
「ラウンジに来て。話がある」
彼女は一人で、床まで届く窓の前に座っていた。温泉旅館の陽射しが頬に落ち、その顔はまだ、私のよく知る彩乃のままだった。けれどその見慣れた顔が、今はひどく恐ろしかった。
自分の声が乾いているのが分かった。
「藤宮さん。僕たちは、いつ離婚したんですか」
彩乃は顔を上げた。立て直すのが早かった。
「悠真、私が愛しているのは、ずっとあなたよ」
彼女は一度言葉を切った。自分が立っていられる言い訳を、ようやく見つけたようだった。
「蓮斗のことは、わざと隠していたわけじゃないの。あなたと出会う前のことだったから」
2.彼女の言う過去
私は彩乃を見つめながら、ひどく滑稽な話だと思った。
私たちが出会ったのは、八年五か月前だった。
そのころ彩乃は、藤宮家の顧客担当者として、白嶺山麓の温泉事業について私たちの旅行会社に打ち合わせに来た。私は企画営業部の平社員で、会議資料と旅程案の準備を任されていただけだった。彼女は美しく、上品で、言葉の選び方にも隙がなかった。私はそのとき、運命の相手に出会ったのだと思った。
初めて会ってから婚姻届を出すまで、五か月しかなかった。
早すぎるとは思った。けれど彼女の積極性と優しさに、私はすっかりのぼせていた。藤宮家は地方出身の普通の会社員に嫁ぐことを反対している、でもあなたといると安心できる。彩乃はそう言った。私はそれを信じ、彼女にふさわしい人間だと証明したくなった。
今なら分かる。
あの五か月は、恋が早く進んだ時間ではなかった。
彼女が自分を「普通の妻」という場所へ戻すために急いだ時間だった。
蓮斗は八歳七か月。
私は彩乃と結婚して八年。
その時間差は、一本の棘のように胸に刺さった。蓮斗が生まれたとき、私はまだ彩乃と出会ってさえいなかった。彼女が私の前に現れ、目を離せないほど優しい顧客担当者になったときには、すでに一人の子どもの母親だったのだ。
つまり、彼女は結婚後に私の目を盗んで妊娠し、出産したわけではない。
私と結婚する前から、本当の人生を隠していた。
彩乃は俯き、膝の上でスカートを握りしめた。
「そのころ、久我とはもう別れていたの。蓮斗は久我家の戸籍に入って、あちらで育てられていた。過去を私たちの生活に持ち込まなければ、あなたを傷つけずに済むと思ったの」
私は彼女を見た。
「君の言う過去は、毎年、君と一緒にファミリールームへ泊まっていたんだな」
彼女の睫毛が震えた。
「私はただ、あの子の顔を見たかっただけ」
私は窓の前に立った。自分でも聞き慣れないほど、声が冷えていた。
「だから僕と結婚して、自分は妊娠できないと言い、子どもが嫌いだと言い、その裏で毎年山へ行って、別の男の妻、別の子の母親になっていたのか」
彩乃の顔が白くなった。
「あなたを傷つけるつもりはなかった」
私は思わず笑った。
その棘のある言い方は、彼女が普段、私に苛立ったときの口調によく似ていた。長く一緒にいると、人は変わるのだ。私はかつて、彼女に強い言葉を向けることさえ惜しんでいた。それなのに今は、ようやく彼女と同じように人を傷つける言い方を覚えてしまった。
彩乃は立ち上がった。柔らかな仮面を、もう支えきれなくなったようだった。
「悠真、今のあなたはおかしいわ」
整った目元は変わらない。それなのに、私には別人のように見えた。
「私たちには何年もの時間があるのよ。あなたが知らなかった過去が一つ増えただけじゃない。どうして前みたいに受け止めてくれないの」
私は答えなかった。彼女が求めているのは、受け止めることではない。私にこれからも、静かで、体面を守り、扱いやすい夫でいてほしいだけだった。
休憩スペースの外から足音がした。久我が眠った蓮斗を抱いて通り過ぎる。子どもは父親の肩にもたれていた。彩乃はほとんど反射的に立ち上がり、その後ろ姿を目で追った。その反応は、どんな台詞よりも正直だった。
私は背を向けて、その場を離れた。
廊下の突き当たりでスマホが鳴った。画面には「藤宮孝志」と表示されている。彩乃の父親だ。過去八年、私は彼を義父と呼んできた。けれど一度も、本当の家族として扱われたことはなかった。
電話に出た瞬間、怒鳴り声が耳に叩きつけられた。
「森川、もう気は済んだのか」
孝志さんの口調は、いつもどおりだった。物分かりの悪い部下を叱るような声だ。
「彩乃がお前と結婚してやっただけでも、人生最大の幸運だろう。ほかに何が不満なんだ」
私はスマホを握ったまま、廊下のガラスに映る自分のひどい顔を見ていた。
「蓮斗君のこと、前からご存じだったんですね」
電話の向こうが一瞬だけ静まった。次に聞こえたのは、藤宮理恵さんの甲高い声だった。
「知っていたから何なの? あの子は彩乃が産んだ子よ。あなたに、母親と子どもを切り離す資格があるの?」
目の前が暗くなった。
この八年、藤宮家へ行くたび、私は事前にスーパーで彼らの好物を買っていった。孝志さんが入院したときは、病室の外で何日も付き添った。給料が入ると、まず二人のために栄養補助食品を注文した。どこか至らないところがあってはならないと、いつも気を張っていた。
自分で働き、自分で暮らしているはずなのに、藤宮家にいる私はいつも借りを抱えた人間のようだった。
ただ、彼らのほうが裕福だったから。
理恵さんはまだ電話の向こうで話し続けていた。
「あなたが大人しくて真面目だから、ここまで許してきたの。蓮斗を受け入れれば、この家は丸く収まるのよ」
私はもう震えていなかった。
皆、知っていた。彩乃も、久我も、藤宮家も知っていた。夫である私だけが、八年間、何も知らされていなかった。
私は静かに言った。
「この生活には、もううんざりです」
電話を切った。初めて、説明もしなかった。謝りもしなかった。廊下の照明は目に痛いほど明るく、八年間の私を、舞台の真ん中に置かれた道化のように照らしていた。
3.離婚調停
夜が明ける前に、私は弁護士へ連絡した。
電話がつながったとき、自分の声は自分のものとは思えないほどかすれていた。事情を聞いた弁護士は、申込書、カードキーの記録、旅館の防犯カメラ、メッセージの履歴、不貞関係が継続していたことを示す資料をすべて保全するよう言った。
私は思わず、彩乃のしていたことは重婚に当たるのかと尋ねた。弁護士はすぐに否定した。
「刑法上の重婚は、配偶者のある人が、さらに婚姻届を出して別の婚姻を成立させた場合です。藤宮さんと久我さんが長年、夫婦のように振る舞っていたとしても、それだけで重婚罪にはなりません」
彼は少しだけ間を置いた。
「ただし、不貞行為、精神的損害、離婚原因、慰謝料請求の根拠としては十分です」
私は目を閉じた。
白嶺山麓を離れ、東都へ戻るバスに乗った。窓の外で山道が後ろへ流れていく。それは、八年の結婚生活の中で私が見落としてきた細部が、次々と遠ざかっていくように見えた。バスが途中の停留所を出る頃、久我が眠った蓮斗を抱いて乗り込み、まっすぐ私の隣へ座った。
「森川さん。奇遇ですね」
私は彼を見なかった。
「久我社長は、偶然を作るのがお好きなようで」
彼は笑い、ゆっくりとカフスを整えた。私のものと似た指輪が、また目に刺さる。
「恋愛に、先に出会ったかどうかは関係ありません。愛されている人間が家族なんです。愛されていない人間のほうが、余計な存在でしょう」
私は爪を掌に食い込ませた。痛みのおかげで、すぐに取り乱さずに済んだ。
久我はスマホを私の目の前に差し出した。画面には、彩乃と彼の親密な写真が映っていた。写真の中の彩乃は、私が贈ったのに一度も私の前では着なかった黒いナイトウェアをまとい、柔らかく、くつろいだ笑顔を見せていた。
さらに目を刺したのは、日付だった。その日は、私の母の葬儀の日だった。
彩乃はそのとき、接待が入ってどうしても抜けられないと言った。母を最後に見送る私のそばには来られなかったのに、別の男の部屋で、私が贈った服を着る時間はあったのだ。
久我が低く笑った。
「彼女は優しくないわけじゃありませんよ。あなたに優しくしたくないだけです」
バスがトンネルに入った。暗闇が車内を飲み込む。ようやく、彼に自分の目を見られる心配がなくなった。
一番痛かったのは、私が大切にしまっていた優しさの記憶が、最初から毒を含んでいたと知ったことだった。
4.藤宮家の審判席
私は弁護士が作成した離婚協議書を彩乃へ送った。返事はすぐに来た。
「本気で言ってるの?」
「まだ冗談で済ませられるうちに、すぐ取り下げて」
私はアイコンを数秒見つめた。それは新婚旅行のときに撮った後ろ姿の写真だった。海風に彼女のスカートが揺れ、あの頃の私は、世界のすべてを手に入れたと思っていた。
返事は短くした。
「署名してほしい。最後くらい、お互いの体面を残そう」
すぐにメッセージが表示された。
「両親の家に来て。直接話しましょう」
八年間、喧嘩をするたび、最後には私が藤宮家へ出向いて頭を下げることになった。この結婚を終わらせるときでさえ、私は被告席に連れていかれるように、彼ら一家の前で辱めを受けなければならないらしい。
藤宮家は、東都湾岸区の高級タワーマンションに住んでいた。玄関の扉が開くと、リビングから子どもの笑い声が聞こえた。蓮斗は仕立てのいいTシャツを着て、久我の膝の上に座っていた。彩乃はその隣にいる。顔色は悪かったが、誰かを止めようとはしていなかった。
孝志さんは離婚協議書をローテーブルに叩きつけた。
「本当に離婚を切り出すとはな」
理恵さんが蓮斗を私の前に押し出し、耳に刺さる声で言った。
「見なさい。これが子どもよ。彩乃が欲しいのは、きちんとした家族なの。あなたみたいな地方出身の平社員に用意できるものじゃないわ」
私は彼女を見た。以前のように、どうにか気に入られたいと思う本能は、もう残っていなかった。
久我はソファに座っていた。この家の本当の婿のような顔で、小切手帳を取り出す。声は軽かった。
「孝志さん、森川さんを追い詰めなくてもいいでしょう。彼がいくら欲しいのか、私が出しますよ。彩乃との八年を買い取ると思えば、安いものです」
蓮斗が突然、私を指差した。
「パパ、この人がママにずっと付きまとってた人?」
リビングが一瞬、静まり返った。
私はゆっくりと結婚指輪を外し、彩乃を見た。彼女の視線は落ち着かずに逃げ回り、指先は無意識に服の裾を弄っていた。その仕草を、私はかつて彼女が緊張したときの可愛い癖だと思っていた。今なら分かる。あれは、嘘が私の体へ突き刺さる直前の合図だった。
私は指輪をテーブルの上に置いた。
「お金のことは、法律に従って処理します。財産分与、慰謝料、不貞行為による損害賠償については、弁護士から連絡が行きます」
孝志さんの顔が険しくなった。
「森川、忘れるな。結婚のとき、披露宴や新居の初期費用を出したのは藤宮家だ」
私は頷いた。
「だから、一つずつ清算します。僕に属するものは受け取る。僕のものではないものには触れません」
久我の笑みが少し消えた。彩乃がようやく私を見る。目元が赤かった。
「悠真、本当にここまで話をこじらせるの?」
私はすぐには答えなかった。ただ、離婚協議書を彼女の前へ押し出した。
「君が久我さんと蓮斗君を、僕の目の前に連れてきた時点で、もう十分ひどい話になっている」
蓮斗が突然こちらへ駆け寄り、私の手首に噛みついた。鋭い痛みが弾け、鉄の味が喉元へ上がってくる。理恵さんはそれを見て、子どもが母親を守ろうとしていると拍手までした。
私は血が滲む歯形を見下ろし、心に残っていた最後の柔らかい部分が切れる音を聞いた。スマホを取り出し、傷口とその場の状況を撮影する。
「ありがとうございます。未成年の子どもによる加害でも、監護者には責任があります」
リビングにいる人間の表情が、ようやく変わった。私は背を向け、振り返らずにそこを出た。
5.空になった部屋
八年間暮らした部屋へ戻ったときには、もう夜になっていた。
そこは豪邸ではない。駅からそう遠くない、ごく普通の二LDKだった。賃貸契約は私の名義で、家具も一つずつ買い足していった。ダイニングテーブルは年末賞与が出たときに買ったものだ。窓辺の観葉植物は、彩乃が部屋が殺風景だと言ったので、私が持ち帰ってきた。
ドアを開けると、慣れた匂いが流れ込んできた。
リビングには、まだ結婚写真が飾られている。写真の中の彩乃は柔らかく笑い、彼女を見る私は、愛情に満ちた目をしていた。今見ると、その男が哀れなほど愚かに思えた。
寝室のシーツは、彼女の好きな淡い青のままだった。クローゼットには、彼女が持っていかなかった服が掛かっている。明日になれば帰ってきて、エアコンの温度が合っていないと不満を言うのではないか。そんな錯覚さえした。けれど分かっていた。この家はもう死んでいる。
私はベッドの端に座り、いろいろなことを思い出した。
彼女が熱を出したとき、私はベッドの横で体温を測り続けた。仕事がうまくいかないときは、夜遅くまで一緒に歩いた。彼女が何かを望むたび、自分がもう少し努力すれば、きっと笑ってくれると思っていた。
けれど結局、彼らにとって私は、いつでも取り替えのきく安い家政夫のようなものだった。
スマホが鳴った。実家からだった。母の声は、どこか遠慮がちだった。
「悠真、ご飯は食べた?」
喉が詰まった。できるだけ落ち着いた声を出す。
「食べたよ」
母は彩乃は元気か、仕事は忙しくないかと尋ねた。私は長く沈黙し、ようやく口にした。
「母さん。僕、彩乃と離婚する」
電話の向こうが静かになった。
父が受話器を代わったとき、その声は低かった。
「帰ってこい」
たったそれだけで、私はもう耐えられなかった。
私はずっと、東都で踏ん張らなければならないと思っていた。藤宮家に、自分は彼らに頼っているわけではないと示さなければならないと思っていた。けれど本当に私を受け止めてくれる人たちは、あの高級タワーマンションにはいなかった。奥雲町の、古い木造の実家にいた。
涙を拭き、私は荷物をまとめ始めた。
彩乃のものには一つも触れなかった。私の書類、証拠、思い出、そして傷だらけになった心だけを持って出ていくつもりだった。
6.タワーマンション入口の傷
翌朝、弁護士事務所へ行く準備をしていたとき、母から突然電話がかかってきた。
電話の向こうで母は息を切らしていた。背後からは言い争う声が聞こえる。
「悠真、すぐマンションの入口に来て。お父さんが……」
私がマンションの入口へ駆けつけたとき、父は地面に座り込んでいた。小腿からは血が流れている。母はそばに膝をつき、散らばったものを拾おうとしていたが、管理会社の警備員に止められていた。
床には、二人が奥雲町から持ってきたものが散らばっていた。新米、自家製の梅干し、味噌、畑で採れた大根とほうれん草。あちこちに転がっている。卵はいくつも割れ、黄身と泥水が床の上で混ざっていた。
久我はそばに立っていた。顔には軽蔑が浮かんでいた。
「このお二人を外へ出してください。ここは、こういう方々が来る場所ではありません」
私は母を支え、それから父の脚を見た。
「父さん、どこが痛い?」
父の顔は青ざめ、額には冷や汗が浮いていた。
「大丈夫だ。大ごとにするな」
私は久我を見上げた。
「何をしたんですか」
久我は冗談でも聞いたように、ゆっくりと袖口を整えた。
「あの方々が自分から車の前へ出てきたんですよ。森川さん、ご両親は金でも取るつもりだったんですか」
母は怒りで震えていた。
「あなたの車が急に前へ出てきたんです。私たちはただ、悠真に荷物を届けに来ただけで……」
久我は靴先で床の梅干しを軽く避けた。顔には露骨な嫌悪があった。
「こんなものが私の車輪を汚したんですよ。清掃にいくらかかるか分かりますか」
彼は腰をかがめ、父の傷口に顔を近づけた。
「おじいさん、血を私の靴に垂らさないでください」
私は彼の顔を殴った。
警備員がすぐに駆け寄り、私を押さえつけた。久我は鼻を押さえて後ろへ下がる。目に、ようやく怒りが浮かんだ。
「森川、覚えておけ」
私はもう彼を見なかった。
ただ、驚きと心配で揺れる両親の目を見ていた。胸の内側を、刃物で少しずつ抉られているようだった。
周囲には住民が集まり始めていた。ひそひそ声が細い針のように刺さる。かつての私は、こんな姿を見られることを何より恐れていた。藤宮家にふさわしくないと言われることも恐れていた。けれど今は、自分があまりにも遅くまで背筋を伸ばせなかったことだけが悔しかった。
私は両親を病院へ連れていった。
医師は検査を終えると、診断書を書いてくれた。父の小腿には明らかな打撲と軽い骨折があり、ただ転倒しただけでは説明しにくい傷だという。
医師は書類を私に渡した。
「大事に保管してください。被害届を出す場合、この診断書は重要になります」
私はその紙を握りしめ、その足で警察署へ向かった。
所轄署で、警察は高級マンション入口の防犯カメラ映像を確認した。映像の中で、久我の車は両親が通りかかった瞬間、急に前へ出ていた。父が倒れたあと、彼が車から降りて最初にしたのは、怪我人の様子を確認することではなく、自分の車が汚れていないか気にすることだった。
映像を見終えた警察官の表情は硬かった。
「故意性が疑われます。被害届を出されますか」
私は父を見た。
父は長い沈黙のあと、ようやく頷いた。
「出す」
両親の手続きに付き添い、私は二人を駅まで送った。
ホームで母が私の手を握った。
「悠真、一緒に帰ろう」
私は母のマフラーを直した。
「母さん、まだ片づけなきゃいけないことがある。終わったら帰るよ」
父は杖をつき、目を赤くしていた。
「父さんが頼りないばかりに、お前に苦労をかけた」
私はその粗い手を握った。
「違うよ。僕が父さんたちに嫌な思いをさせたんだ」
列車が入ってきたとき、母が急に私を抱きしめた。
「悠真、あなたにはもっといい人生がある」
ドアが閉まったあと、私はホームに立ち、列車に運ばれていく二人の姿を見送った。
今度こそ、もう退かない。
7.証拠
弁護士事務所で、代理人の弁護士は資料に目を通し、眼鏡を少し上げた。
「方針ははっきりしています。まずは離婚調停と不貞慰謝料請求を進め、同時に久我さんに対して共同不法行為に基づく損害賠償請求を準備しましょう。傷害事件については、診断書と防犯カメラ映像が重要です。会社に関する資料は、ネットで勝手に拡散してはいけません。合法的なルートで提出する必要があります」
私は、久我から送られてきた写真、旅館の申込資料、カードキーの記録、メッセージの履歴、高級マンション入口の防犯カメラに関する資料、その他の証拠を、一つずつ弁護士の机に並べた。
「僕が望んでいるのは、離婚だけではありません」
弁護士は私を見た。
「分かっています。ただ、きれいに勝つためには、自分が加害者になってはいけません」
その一言が、最後に残っていた衝動を押しとどめた。
久我の会社は、私たちの旅行会社と何度か企業研修旅行の取引をしたことがあった。私は過去にその契約を担当していたため、「接待費」や「研修旅行費」の中に、少し不自然なものがあることを知っていた。当時は深く考えなかった。けれど今、古い資料を改めて照合してみると、金額、人数、実際の行程が合わないものがいくつも見つかった。
私は資料をすべて弁護士に渡した。
弁護士はそれらを整理し、税務署へ情報提供資料として提出した。しばらくして、久我の会社に税務調査が入るという話が流れた。取引銀行は追加融資を見送り、提携先も次々と距離を置き始めた。
彩乃から電話がかかってきた。
その声は尖っていた。以前のような余裕はもうなかった。
「悠真、私をここまで追い込まないと気が済まないの?」
私は弁護士事務所の下に立ち、目の前を流れる車を見ていた。
「僕が追い込んだんじゃない。君たちが僕をここまで押したんだ」
彼女の呼吸が荒くなった。
「八年の結婚生活を、本当に何とも思わないの?」
私は目を閉じた。
「君が久我さんと蓮斗君を連れて、ファミリールームへ入った時点で、僕たちの間に残ったものは証拠だけだ」
電話を切り、その番号を着信拒否にした。
一週間後、家庭裁判所が離婚調停を受理した。彩乃は最初、結婚生活はすでに破綻していたと主張し、自分の責任を薄めようとした。けれど旅館の記録、親密な写真、子どもの年齢、長年の同行記録、久我からの挑発的なメッセージが並ぶと、何も言えなくなった。
後日、弁護士が資料を整理する過程で、調停に提出された戸籍関係の資料と旅館のリピーター記録から、最後の事実が確認された。
蓮斗は、私と彩乃が出会う前に生まれていた。
蓮斗が生まれたとき、彩乃はまだ私たちの旅行会社へ来たこともなく、私とも出会っていなかった。戸籍は久我家にあり、対外的にもずっと久我の姓を使っていた。彩乃は私と結婚するとき、その子を私の生活に連れてくることも、私に養子縁組の手続きをさせることもしなかった。
私が結婚生活だと思っていた八年間は、最初から彼女の本当の人生の外側に置かれていた。
久我の状況はさらに悪くなった。
傷害事件の被害届は受理され、税務署も会社の帳簿を調べ始めていた。彼が私に電話で脅してきた日、私はちょうど弁護士の事務所にいた。通話がつながった瞬間、怒鳴り声が飛び込んできた。
「森川、お前、死にたいのか」
私は録音ボタンを押し、静かに答えた。
「久我社長。あなたはすでに、傷害、脅迫、会社の不正を疑われています。まだ続けますか」
電話の向こうで、何かが叩きつけられる音がした。
続いて、彩乃の崩れた泣き声が聞こえた。
「悠真、どうしたらやめてくれるの」
私は机の上の証拠を見た。
「君が結婚を裏切り、八年間、僕を欺いていたと認めること。あとは法律に任せる」
三か月後、調停は成立した。
彩乃は離婚に同意し、私へ慰謝料を支払うことになった。久我に対する不貞慰謝料と傷害事件については、弁護士が別件として手続きを進めた。藤宮家の関連会社にも税務上の問題が見つかり、資産家としてのきらびやかな外側は、少しずつ崩れていった。
家庭裁判所を出た日、空は青かった。
思っていたほど、胸はすっとしなかった。
8.彼女が実家の畳に膝をついた日
私は奥雲町へ戻った。
そこは山と田畑に囲まれた小さな町だった。駅は大きくなく、通りには昔ながらの喫茶店と地方の旅行会社がある。母の知人の娘である宮原紗季さんは、東都から地元へ戻ったばかりで、その旅行会社で農村体験プログラムを担当していた。
初めて会ったのは、駅前の喫茶店だった。
紗季さんはシンプルな白いニットを着ていた。笑うとえくぼができる。私が以前、旅行企画をしていたと聞くと、奥雲町の収穫体験や温泉体験、トレッキングルートについて、ごく自然に話し始めた。探るような視線も、憐れみも、わざとらしい慰めもなかった。
帰り際、彼女は名刺を一枚くれた。
「時間があったら、うちの旅行社にも寄ってください。団体企画が分かる人を探しているんです」
その日、家へ戻る道で、私は久しぶりに、まだ日々は続いていくのだと思えた。
途中でスマホが震えた。彩乃からだった。
「悠真、私が悪かった」
「久我は最低な人だった。殴られたし、被害届を取り下げるようあなたに頼んでこいって脅されたの」
「八年の結婚生活に免じて、もう一度だけ話を聞いてくれない?」
私は返事をしなかった。
けれど家へ戻ったとき、茶の間の光景に足が止まった。
彩乃が畳の上に膝をついていた。顔には痣があり、手首にも縛られたような跡が残っている。両親はそばに立ったまま、どう対処すればいいのか分からない様子だった。彩乃は私を見ると、すぐにこちらへ飛びつこうとした。
私は一歩下がった。
彩乃の手が宙で止まった。
「悠真、本当に反省してるの」
彼女は腕を見せた。
「これ、全部久我にやられたの。被害届を取り下げるよう頼みに行かなければ、あなたのご両親に何をするか分からないって脅された」
私は彼女を見た。胸の奥が一瞬、強張った。
「それなら警察に行くべきだ」
彩乃は固まった。
「あなたなら、私を見捨てないと思ったから来たの」
私は彼女を見ながら、急にひどく疲れた。
外から急ブレーキの音がした。藤宮孝志さんと理恵さんが、よろけるように家へ飛び込んできた。以前の高慢さはどこにもなかった。孝志さんはその場に膝をつき、自分の頬を強く叩いた。
「悠真君、私たちが間違っていた」
理恵さんも泣きながら続いた。
「私たちは見る目がなかったの。誰が本当に彩乃を大切にしていたのか、分かっていなかった」
私は、二人がうちの古い畳に膝をついているのを見て、なぜか笑いたくなった。
かつて、私は手土産を持って藤宮家の玄関に立っていた。彼らはスリッパを出すことさえ面倒そうだった。今、その二人が私の両親の前で頭を下げ、ようやく誰が良い人間だったか分かったと言っている。
遅すぎた。
私は静かに口を開いた。
「藤宮さん、奥様。以前おっしゃっていましたよね。久我さんなら彩乃にきちんとした家を与えられる。僕には不満を言う資格がない、と」
理恵さんの顔から血の気が引いた。
「私が悪かったの。ひどいことを言ったわ。悠真君、どうか大目に見て――」
私は遮った。
「結構です。ここまで来たら、もう戻れません」
彩乃が突然、悲鳴のように叫んだ。
「そんなに冷たい人だったの? 私は本当にあなたを愛しているのに」
私は彼女を見た。
「久我さんに何もなかったら。彼の会社が調べられず、今でも君の両親が満足する男のままだったら、君はここへ来たのか」
彩乃は答えなかった。
沈黙が、答えだった。
私は両親に向き直った。
「父さん、母さん。中へ入ろう」
孝志さんがまだ私の腕を掴もうとした。私は彼を見下ろした。
「これ以上つきまとうなら、今日の録音と防犯カメラの映像も弁護士に渡します」
彼らはようやく引き下がった。
扉を閉めると、外で彩乃が泣き叫ぶ声がした。かつてなら、その声だけで心が揺らいだ。けれど今は、遠い谷の向こうから響いてくるようで、もう私のところまでは届かなかった。
スマホがまた震えた。
紗季さんからメッセージが届いていた。
「週末、収穫体験のイベントがあります。よかったら見に来ませんか」
私は薄暗くなっていく窓の外を見て、一文字だけ返した。
「はい」
許せる過ちもある。けれど、裏切りは違う。
9.最高の仕返し
半年後の初春、私は県内の商店街で偶然、彩乃に会った。
彼女はコンビニ配送員の制服を着て、古い電動自転車に乗っていた。かつて手入れの行き届いていた長い髪は、無造作に後ろでまとめられ、顔には疲れが滲んでいた。信号の前で視線がぶつかると、彼女はすぐに俯き、私に見られるのを恐れるように走り去った。
その後、藤宮家は久我の会社の一件に巻き込まれ、関連会社が調査を受け、資産も大きく減ったと聞いた。孝志さんと理恵さんは県内の古い家へ移り、以前のような体面はなくなった。蓮斗は県外の親戚の家へ預けられ、彩乃は臨時の仕事で生活するようになったらしい。
私は、それ以上は聞かなかった。
一方で、紗季さんとの関係は穏やかに進んでいった。
彼女は私の過去で私を判断しなかった。家の事情を笑いものにすることもなかった。私の両親の誕生日を覚えていて、私が仕事で忙しいときには温かい弁当を届けてくれた。初めて家に来たとき、父が修理した木戸と、母が庭に干した布団を見て、ここは家の匂いがしますねと言った。
結婚式は、奥雲町の小さな会館で挙げた。
豪華な式ではなかった。それでも、温かく、にぎやかだった。紗季さんが白いウェディングドレスで陽射しの中を歩いてくると、両親は客席で涙を拭っていた。その瞬間、私はようやく、自分が愛される資格のない人間ではなかったのだと信じられた。ただ、かつて愛する相手を間違えただけだった。
結婚して三か月後、紗季さんの妊娠が分かった。
初めての妊婦健診で、胎児の力強い心音を聞いたとき、私は診察室でしばらく言葉を失った。医師はそんなに緊張しなくて大丈夫ですよと笑い、紗季さんは私の手を握った。彼女の掌は温かく、確かな力があった。
娘の一か月健診が終わった日、私は庭で彼女を抱き、陽に当てていた。
小さな手が柔らかく動き、娘は意味のない声を上げて笑っている。紗季さんが家の中から出てきて、私の肩にブランケットを掛けた。彼女はふと門の外を見て、静かに私の手を握った。
私もその視線を追った。
彩乃が配送バッグを提げて道端に立っていた。私たち家族三人を見た瞬間、彼女の顔は一瞬で白くなり、慌てて背を向けた。
紗季さんは何も聞かなかった。
ただ私のそばに寄り、陽射しの中で笑う娘を一緒に見ていた。
そのとき、私はようやく分かった。
人生で一番の仕返しは、憎しみを何度も噛みしめ続けることではない。
傷つけてきた人たちが、遠くから見ることしかできなくなるほど、温かく、明るい日々を生きていくことなのだ。
――完――




