渋谷駅にて
「この駅で降りるのは、はじめてだぜ」
二人の大学生がホームに降り立った。列車からこの駅で降りた客は、彼らだけだった。利用客が少ないのはいつものことらしく、車掌は早々に扉を閉めて、列車は走り去った。
敷かれた線路は二本だけで、プラットホームは小さい。真ん中に駅名看板と三人がけのベンチがあるだけだ。線路の向こうに生えた雑草は、背が高く、青々としている。
「こっち側には、なかなか来ないからねぇ」
メガネをかけた方が、あたりを見渡しながら言った。ひと気はなく、静かだった。クルマが走る音も聞こえない。
「しかし、こうして休日に郊外までやってくるのも、オツなものだね」
「都会風吹かして、気取るなよ」
メガネをしていない方の学生が言い返した。
「気取るもなにも、俺の家は築地だからねぇ。根っからの、江戸っ子よ」
二人は階段をのぼった。線路を越えるための歩道橋。
「駅のまわりだっていうのに、なんにもねぇな。辺鄙なところだね」
「俺の家に遊びに行きたいって言ったのは、貴様じゃないか。文句いうなよ」
「文句じゃないさ。のどかだってことよ」
木造の薄暗い駅舎の改札をぬけた。椅子に座ってウトウトしていた駅員は、二人の姿を認めると、めんどくさそうに立ち上がった。
駅前は閑散としていた。小さな郵便局とタバコ屋と、雑多な食料品店。あるのは、それだけだ。おかけで空は広く、ハンモックでゆられているかのような呑気な雲が青い空に浮いている。
郵便局の白い外壁は、長いこと塗り直されていないようで、塗装がひび割れていた。その白い壁の前に、朱色のポストがひとり寂しく突っ立っている。食料品店では、乾物やら瓶詰やらが乱雑に積まれていて、店主の老婆が椅子に座って微動だにせず、寝ているのか起きているのかわからない。タバコ屋のくすんだガラス戸のなかで、猫がこちらを見ている。
「なにか甘いものをつまめる店はないのかい?」
「そんな気の利いたものはない。家に、母親がつくったおはぎがあるだろうよ」
「そりゃ、ありがたいね」
ここからでも、畑を焼くにおいがする。焦げたような独特なにおいで、メガネの学生は、田舎のにおいだ、と思った。
二人は並んで歩いた。メガネの学生は見回して郊外の景色を楽しんでいる。地元だという学生は、つまらなそうに小石を蹴りながら歩く。
「こんな静かなところに住むのもいいかもしれないね」
「よかないよ。不便だもの」
「そうかね。本郷まで何分くらいだ?」
「五十分くらいだ」
「それはご苦労なことで。だから、お前はこの町、いや村か、ここを発展させたいって言うんだな」
「そうだ。俺は卒業したら、官僚になってここらを開発するのだ。たしかに不便なところだか、俺にとって、やっぱりここは地元だろう。愛着があるし、離れられない。だから、もっとにぎやかに、みんなが暮らしやすくするのが、俺の夢なのだ」
そう言って、学生は帝大の学帽を正しく被り直した。
二人は振り返って駅を見た。傍から見ると、その姿は殊更しょぼくれて見える。
屋根の上に掲げられた看板には、渋谷駅と書いてある。
「だったら、百年後には上野や新橋よりもずっと大きな駅になっているだろうな」
「ああ。そうしてみせる」
若者の瞳はまっすぐで、そして静かに燃えていた。
「おはぎが楽しみだなぁ、俺好きなんだよ、おはぎ」
二人は再び歩き出した。
明治二十七年、渋谷駅にて




