斜陽華族の婚姻3
舞台は大正時代。
傾きかけている華族の令嬢であるヒロインと、突然現れた成金男をめぐる恋愛小話です。
この3話目で一旦完結です。
~前回までのあらすじ~
由緒ある華族の長女である茉莉は、妹の求婚者・深野と想い合う仲に。
深野は桜をあきらめ、茉莉にプロポーズするが、茉莉は依然として断り続ける。
ある夜、家の前に深野の車がとまっていることに気づいた茉莉は、彼を避けて出奔してしまう。
※登場人物のリストは、2話の前書きをご参照ください。
山の麓にある小さな民宿の窓から、茉莉は外を眺めていた。
人間とは自暴自棄になると、どんな行動をするか分からないものだ。
昨夜、茉莉は友人の画家から金と画材一式を借りると、その足で列車に乗り、箱根にたどり着いた。
深野に会いたくない、忘れたい一心で飛び出してきてしまった。
実家には、宿に着いてから電話で連絡した。
普段、思いつきで動いたりしない茉莉は、自分でも突拍子もない行動に呆れていた。
この宿は、画家や彫刻家のために開かれている古い民宿で、茉莉も一度来たことがあった。
働いているのは宿主の老夫婦だけで、今泊まっている客は茉莉一人らしい。
目下に広がるあぜ道を俯瞰して、壁に立てかけたカンバスに向かうも、脳裏によぎるのはあの男のことばかりで集中などできない。
「忘れようと思ったのに……」
詮ないことを考えても仕方ないと思い、桜のことを思い出す。
今、桜と幸人はどこにいるのだろう。二人一緒で、幸せなのだろうか?
畳の上に仰向けになってみると、土壁の上のほうに青い顔料がこびりついているのが見えた。
細く平らな腹部に手をあてる。
もしも、この体が普通の女性と同じようであったなら。
──想像してはいけない、と思った。今までだって、そんな惨めになることは考えないようにしてきた。だが、子供ができない、結婚ができないと思った途端に、喉から手が出るほど欲しくなる。
深野は、子供ができなくても優しくしてくれるだろう。
しかし、茉莉自身に負い目があるかぎり、彼に気を遣わせることになる。妾は作らないかもしれないが、子供がいないことに、どこかで無念を感じるだろう。
彼にはそんな思いをしてほしくなかった。
かと言って、彼が他のだれかと幸せになるのを、私は見ていられるだろうか?
ただの恋煩いならまだよかった。
どうしても一緒になれないと分かっているから、彼を忘れようとするが、心をよぎるのは彼のことばかりだ。
彼に出会わなければ、恋などしなければ、こんな苦しみに気付かずに済んだのに。
深野の口付けが忘れられない。今、寂しい自分を抱き締めてほしい。
「深野さん……」
****
夕暮れ時、西日の射す客室でうとうとしていると、不意に、廊下のほうから慌ただしい物音が聞こえてきた。
夢うつつのなかで、遠くからあの男の声が響いてくる。抑揚のある深い低音。
突然、どすどすとこちらに向かってくる足音に、茉莉ははっとして飛び起きた。
音を立てて襖が乱暴に開かれ、その向こうにはなんと、深野総一その人が立っていた。
「深野さん?!」
「あぁ──茉莉さんっ!!」
深野は部屋に踏み込んできて、茉莉の体を抱き締めた。
「やっと会えた……茉莉さん」
深野の体からは、まるで花畑でも通ってきたかのように甘い匂いがする。
彼の肩越しに、女将がそっと襖を閉めるのが見えて、驚いて呆然としていた茉莉は赤くなった。
「なんで……」
「先刻、瑞希さんから、あなたがいなくなった話を聞いてな。仕事を片付けて飛んで来たんだ」
深野がこちらを見下ろして言う。その顔に疲れが浮かんでいるのを見て取って、茉莉は心苦しくなった。
「もっと遠くに行っていたらどうしようかと思ったぞ」
「どうして来たんです……」
「そりゃ、あなたとじっくり話すために決まってる」
横座りしている茉莉の前に、深野はあぐらをかいて真面目な顔をした。
「あなたに正式に結婚を申し込みに来た」
「残念ですけど、帰ってください」
「俺は、あなたの兄さんから話をすべて聞いて、ここに来た。あなたが気にしているようなことは、俺は気にしない。あなたの体のことも気遣う。それでも、だめなのか?」
「……だめです」
「どうして!」
「どうしてもです」
自分で断っておいて、傷付かないように膝の上でこぶしを握る。
かたくなな茉莉の態度を見て、彼はため息を吐き、背後の戸口に背をもたれた。
「じゃあ、強硬手段といきましょうか。俺は、あなたがうんと言うまで絶対にここを動かない」
呆れたような目を向ける彼女に、深野は言った。
「茉莉さん……本当は俺のことをどう思っているんだ?」
まっすぐな瞳に見つめられて、身動きも取れない。答えようと口を開くが、息苦しかった。
本当に嫌いだったら、こんなふうに苦しまないで済んだのに。
「……結婚は、できないわ」
「好きじゃないなら好きじゃない、と俺の目を見て言ってくれ」
「……帰って」
「どうして、目を合わせてくれないんだ」
いきなり距離を詰められ、正座していた茉莉は咄嗟に後ずさりできずに、その胸に抱き込まれた。
「っいや……」
「──愛している。俺は本気なんだ、茉莉さん」
彼の強張った肩が頬に触れる。
「でも……深野さん、子供好きでしょう? 私では、あなたを幸せにできないのよ」
感情をおさえて、茉莉は小声で呟いた。
「どうして、そんなことを──! あなたと一緒にいることが、俺の幸せなのに!」
「んっ!」
急に唇を塞がれたかと思うと、そのまま畳の上に押し倒された。強く押し当てた唇を離して、深野が見下ろしてくる。
「あなたは、俺のものだ……っ」
「……!」
力強く覆いかぶされて、獣のように唇を奪われた。
下唇を甘噛みされ、痛いほど吸い立てられて、茉莉の体が小刻みに震える。
「んっ、んん──!」
視界に、深野のこわばった眉間と、乱れた前髪が見え、彼の下で必死に逃れようとする。
(こんなふうに近付かれたら、どんどん好きになってしまうのに──!)
胸を叩こうとすると、その手を捕らえられる。もう片方の手で顎を掴まれ、無理やり口を開かされた。
「……ぃや……っ!」
合間に洩れた声を、分厚い舌で塞がれた。
「っ……!」
「ん、っふ……ぁ、ん……」
深野が吐息をこぼしながら、息苦しいほど口中を嬲る。
舌を絡め取られて、気が遠くなるくらい狂おしく愛撫される。
「ゃ、らっ……ん、ぅ」
唇を貪られ、熱い舌と重い体に肉迫されながら、茉莉は泣きそうになって彼の肩を弱々しく押し返した。
はじめは深野の足の間でもがいていた茉莉の足が、やがてぐったりと抵抗をあきらめた。
胸を喘がせている彼女を見下ろして、深野が囁く。
「茉莉さん……俺を頼ってくれ。あなたの寂しさを、俺に分けてくれ」
「……深野さん……」
茉莉の瞳に涙が光るのを見て、深野はぎゅっと彼女の頭を肩に押し付けた。
「っ!」
「ほら、ここで泣くといい。我慢しなくたっていい。……俺には全部を見せてくれ」
茉莉の目から涙が溢れた。
服越しに感じる、彼の肌が温かい。
大粒の涙が肩口を濡らすと、深野は両腕で彼女の頭を掻き抱いた。
今まで溜め込んでいたものが、わっと溢れ出る。気付けば両親が死んでからほとんど泣いていなかった。哀しさ、悔しさ、虚しさ、恋しさ、すべてが流れ出して、茉莉は彼の背中に両手でしがみついた。
深野が優しく肩を撫でてくれる。
ずっと、ずっと、彼と一緒になりたかった。
深野の大きな体に抱かれると、緊張で胸が高鳴るのに、同時にひどく安心する。
彼は、茉莉が落ち着くまでずっと抱き締めてくれていた。
「きっとひどい顔だわ……」
見られる前に顔を手で隠して、茉莉が鼻声で呟いた。
「泣き顔も可愛いよ」
そう言って茉莉を抱き起こした深野の声も、少しかすれている。
「使うといい」
深野が差し出した白いハンカチを片手で受け取り、茉莉はくるりと背を向けて、それを顔に押し当てた。深野の手が後ろから彼女の髪をもてあそぶ。
「もう、頷いてくれるだろう?」
「………」
「まだ……駄目なのか?」
そう訊いた深野の声はひどく切なげで、茉莉は愛おしさが胸に溢れるのを感じた。
「……いいわ」
「茉莉さん……! 本当だな? 撤回は絶対に許さないぞ!」
「本当よ、深野さん」
「あぁ……」
深野が背中から茉莉を抱き締める。
「一生、大事にする、茉莉さん……」
彼の腕の中で、茉莉は笑顔で振り返って、その頬に口付ける。
二人はもつれ合うように、その場に身を倒した。
****
髪にそよ風がかかるのを感じて、茉莉は目を覚ました。
眼の前に真白い布団があり、肌のこすれる感触から、裸で眠っていたことを思い出す。
手を伸ばせばシーツの横に温もりがまだ残っている。
目を上げると、視線の先の縁側にその人の姿があった。
ワイシャツ姿の深野は、こちらに背を向けて静かに煙草を吸っている。
早朝の淡い光のなかに浮かぶたくましい背中をぼんやり眺めていると、ふと昨夜のことを思い出して頬が熱くなった。
声をかけるのも恥ずかしく、とりあえず起きて何か羽織ろうと見回すと、血の付いたスカーフが腰のあたりにあった。
衣擦れの音に、深野がこちらを振り向く。茉莉ははっとして布団をかぶった。
「っあ、あの……おはようございます、深野さん……」
「おはよう、茉莉さん」
深野は柔らかい笑みを見せ、煙草の火を消して畳に上がってきた。
布団ごと、ぎゅっと抱き締められる。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、茉莉はうっとりと目を細めた。
(夢みたいだわ。)
「昨日は飯も食わずに寝てしまったな。あなたも腹が減っただろう」
ばさっと目の前に浴衣が置かれる。
「さ、それを着なさい。まず朝食を食って、そうしたら一緒に風呂でも入るか? 茉莉さん」
「い、いやよ」
「即答ですか。いやはや」
茉莉も服を着たいのだが、深野の目が気になって、かぶった布団の中から出られない。
「どうした、茉莉さん? やはり体が痛むのか?」
深野が屈んで訊ねてくる。
「だ、大丈夫です……その……」
「ん?」
俯く茉莉の顔を、彼は覗き込もうとする。
「し、しばらく壁のほうを向いててください……」
「なんだ、照れてるのか? あなたは本っ当に可愛いなあ」
深野が頭に口付けてくる。
「着替えを手伝ってやろうか?」
「け、結構です!」
宿の湯を使い、部屋に戻ってくると、先にあがったらしい深野が濡れた髪のまま壁際のカンバスを眺めていた。
「昨日一日、描くこともままならなかったんだな」
「……深野さん、お仕事は大丈夫なの?」
「大丈夫だ。今日は休みを取ったからな」
彼が振り返る前に、その広い背中に抱きついた。筋肉のついた背中が温かい。
「甘えん坊さんだな」
深野が茉莉の両手を優しく握り締める。
「桜と幸人さんはどうしてるかしら……」
「おやおや、目の前に将来の旦那がいるというのに、他のことを考えてるんですか」
“旦那”という言葉に思わずどきっとする。
「あなたは心配じゃないの?」
「そりゃ心配だよ。だが、探偵を雇って一応手は回しておいたからな」
「さすがだわ」
深野が振り返り、胸に茉莉を抱き寄せる。彼女の髪に頬を寄せて、幸せそうに囁いた。
「ん……あなたの甘い香りがする」
「石鹸じゃなくて?」
「いや、ちがう。あなた自身の花のような香りだ」
風呂上がりだから、深野の胸板からはいつものオーデ・コロンの匂いはしない。
いまだに目を合わせるのが恥ずかしい茉莉は、彼の胸元で目を瞑っていた。
昼頃、宿の電話を借りていた深野が、笑顔で部屋に戻ってきた。
「茉莉さん! 桜さんと幸人君が見つかったそうだぞ!」
「本当に?!」
はっと茉莉が立ち上がる。
「見つかったというか、やはり自分達で帰ってきたらしい。俺達も帰ろう、茉莉さん」
「ええ、よかったわ……大陸などに行ってなくて」
茉莉の目が安堵で潤む。
「ああ。しかし、幸人君は実家に入ると二度と出て来られんかもしれないから、今はあなたの家にいるらしい」
「そう。……でも、もうここを発ってしまうのね」
「なんだ、もしかして歩くのがつらいか?」
昨夜のことを考えて、深野は茉莉の体を心配してくれている。
「そ、それは全然、大丈夫よ」
「本当か? 荷物は全部俺が持ってやるからな。箱根へはまた来よう。新婚旅行でな」
深野がにこりと笑う。つられて茉莉もはにかんだ。
****
「お姉様……!」
応接間のドアを開けた途端、中にいた桜と幸人が立ち上がった。
「桜!」
茉莉が駆け寄ると、桜は姉の腕の中に飛び込んでいった。
「心配かけてごめんなさい、お姉様!」
「帰ってきてくれて本当によかったわ……桜も、幸人さんも」
茉莉は妹の体をひしと抱き締めた。
茉莉の後から部屋に入ってきた深野を見て、幸人が驚いた顔をした。
「深野さん、茉莉と一緒だったんですか?」
「ええ。まあね」
桜が涙をぬぐって茉莉から離れる。
「お姉様、もしかして……?」
桜は二人の顔を見比べ、茉莉の嬉しそうな笑みを見て、はっとした。
「桜さん、近いうちに俺はあなたの義兄になることになった。あなたは俺の可愛い妹、というわけだ」
深野が後ろから茉莉の肩を抱いて言う。
「お姉様、よかったわね……! 本当におめでとう!」
桜が茉莉の両手を握りしめて、目を輝かせた。
「──瀬田家が金を積みに来たという話は、桜から聞きました。いま俺が屋敷に帰っても、たぶん今回の俺達のことは揉み消されるだけでしょう」
幸人が硬い表情をして言う。
その隣には不安そうな桜が、むかいに茉莉と深野が座っている。
「俺も軽く調べてみたんだが、どうも瀬田家のご息女はあなたにひどく執着してるようだな。彼女さえ納得させれば、どうにかなるというわけだ」
深野がゆるく足を組んで、茉莉の肩に腕を回した。
「まあでも、そこのところは俺に任せてください。そういうことの解決に熟練な知り合いがいるんでね」
「お願いします」と、幸人と桜が頭を下げた。
「……でも、本当によく帰ってきてくれたわね」
茉莉が微笑んで呟くと、桜が答えた。
「一度、仙台のほうまで行ったのよ。でもね、ふと、お姉様とお兄様のことを思い出して……こんなことをしたら、残った二人はどうなるんだろうと急に不安になってしまって」
人は何かから逃げる時に、北に向かう習性があると聞いたことがある。慣れ親しんだ土地を離れていくうちに、真面目な彼らは恐ろしくなってしまったのだろう。
目を潤ませる茉莉の横で、深野が煙草をふかしながら言った。
「女性のほうが現実主義だというのは本当だな」
「ちょっと、茶化さないでよ、深野さん!」
茉莉が叩こうとすると、彼はすまんすまんと笑いながら謝った。