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斜陽華族の婚姻2

舞台は大正時代。

傾きかけている華族の令嬢であるヒロインと、突然現れた成金男をめぐる恋愛小説です。


【登場人物】

茉莉まつり…ヒロイン。三兄弟の真ん中。両親が亡くなり没落寸前の家を立て直したく、責任感が強い。絵を描いて少額を稼いでいる。

・深野総一…庶民あがりの成金男。30代。当初は茉莉の妹である桜に求婚していたが、気持ちが変化してきた。

・桜…茉莉の妹。天真爛漫な性格。幼なじみの幸人ゆきとを好いている。

幸人ゆきと…桜の幼なじみ。陸軍に勤めている。桜を大事に思っている。

瑞希みずき…茉莉と桜の兄。長男であり家長。本当は絵画や生花の才能があるが、今は吉原通いのだらしない生活を送っている。

時田ときた…執事。

 あの舞踏会を過ぎてから二度も、幸人(ゆきと)の婚約者である瀬田家の人間がやってきた。

 彼らは桜とともに応接間に入ると、二、三言葉を交わしてすぐに帰っていく。


 ある日、瀬田が帰った直後に、茉莉まつりが部屋に顔を出すと、桜はぽつんとひとりうつむいていた。

 テーブルには札束の入った封筒が置かれている。


「何かいやなことを言われた? 桜」


 茉莉が向かいに座ると、桜は力なく首を振った。


「……持って帰ってくださいと言ったのに、無理やり置いていかれたわ」


 相当額の札束を横目で見やる。

 瀬田家は娘の縁談を守るために、幸人との手切れ金を桜へ渡しに来ていた。

 これには桜もいたたまれず、ひどく思い詰めた顔をしている。


 それに、あの夜、桜と幸人は気持ちが通じ合わぬまま、喧嘩別れしてしまったらしい。


「私、幸人さんがわからないわ。私に相談もせずに軍の出征を決めてしまって。ひどいわ、あの人。私の気持ちなんて考えてないのよ」


 桜が泣きそうな顔をする。


「桜……」


 ふと、茉莉は深野のことを思い出した。仮面舞踏会の日以来、画廊に通ったりと忙しくしていて、一度も深野に会っていない。


 あの直後、ふたりがいた庭へ深野の商売仲間がやってきたので、結局、茉莉は彼と話せずじまいだった。

 あの夜の秘密は胸にしまっておこう……と思っていた。


「──私、深野さんと結婚しようかしら」

「へっ?」


 突然の桜の言葉に、茉莉は素っ頓狂な声をあげてしまった。

 桜が宙を見つめながらぶつぶつと言う。


「深野さんはお金持ちだし、幸人さんより気が利くし……。お姉様、あのあと深野さんと何か話した?」

「いいえ。あ、あなたが振ったと聞いたけれど」

「ええ。でも、いま思い直したの」


 明らかに桜の様子がおかしい。幸人と一緒になれなくて意地になっているように見える。


「いまからでも間に合うかしら?」

「ええ、ええ」


 それは、憤怒と嫉妬の入り混じる、見たことのない妹の姿だった。



****



 明け方、淡色の光が射す大広間で、茉莉はひとりカンバスの前に佇んでいた。

 大きな画布の上には水面が広がり、睡蓮の花がいくつも浮かんでいる。


(ひどい絵……色がめちゃくちゃだわ。)


 一晩中描き続けていたわりには、ほとんど進展していない。甘い匂いのしてきそうな泡沫の渦に指を置く。


(この絵、潰してしまおうかしら。)


 手の中の絵筆を握り締めるも、まるで力が入らない。

 すべての感情をカンバスにぶつけていればそれで充分だったはずなのに。

 一日中、絵を描いて、たまに時田にピアノを弾いてもらって、また絵を描いて……そんな毎日を繰り返していれば、自分は幸せだった。それで幸せだと思い込もうとしていたのだ。

 でも、人間の欲望には限りがないから、いつしかその向こうのものが欲しくなってしまった。

 大きな手のひら、琥珀色の瞳、底抜けに明るい笑い声、熱い唇。


「ひどい姉だわ」



****



「──茉莉様、茉莉様っ!」


 誰かが、がくがくと肩を揺すってくる。

 昼頃まで死んだように眠り続けていた茉莉は、その声にぼんやりと目を開けた。


「な、に……時田?」

「大変ですっ、茉莉様! 桜様と、幸人様が、いなくなってしまわれたのです!」

「なんですって?!」


 急いで食堂へ行くと、兄の瑞希みずきが腕を組んで椅子に座っていた。彼は茉莉と時田を見て、口を開けた。


「さっき、幸人君のご両親が来たんだよ、茉莉。桜も幸人君も、今朝、気づいたらいなくなっていた。たぶん夜のうちに駆け落ちしたんだろう」

「駆け落ち……」


 茉莉は呆然と呟き、椅子の上に腰をおろした。

 先日の、明らかに妙だった桜の様子を思い出す。

 彼女は、茉莉が思っていたよりずっと深く思い悩んでいたのだ。


「私、桜のことをちゃんと見てあげてなかった……ひとりで苦しんでいたのに」


 兄がため息を吐く。


「お前の責任じゃないよ、茉莉。とにかく、なんとかして居場所を見つけなければいけない。結婚とか、そういう話はそれからだ」

「どこにいるのか、まったく分からないの?」

「ああ。幸人君の両親が大っぴらになっては困ると言うから、捜索願は出せないし……」

「私が探しに出てまいります。女中たちにも手伝わせましょう」と、時田が厳しい目をして言う。

「そうだね。僕も街に出て情報収集してくるよ。茉莉、留守はお前ひとりに任せて大丈夫かい?」

「ええ」

「じゃあ、決まりだね」


 兄も時田も出かけ、誰もいなくなった屋敷を、ぐるぐると茉莉は歩き回った。

 父も母も、桜までいなくなってしまった。もしも、このまま誰も帰ってこなくなったら──。途端に、生まれ育った屋敷が不気味なものに見えてくる。


 その時、唐突に玄関のチャイムが鳴る音が響き、茉莉はすっ飛んでそちらに向かった。

 急いで玄関扉を開けると、そこにはパナマ帽を目深にかぶった深野が立っていた。


「なん、だ、深野さん……」

「なんだ、とはご挨拶ですな、茉莉さん」


 深野が茶目っ気のある笑顔を見せる。

 夜会の時のことを思い出し、茉莉は慌てて扉から離れて後ずさった。


「ずっ、ずいぶん久しぶりですのね、深野さん」

「ああ、しばらく出張に行っていたんでね。今日は土産話と、それから贈り物も持ってきましたよ」


 そう得意げな表情で言って玄関をくぐる。


「それにしても静かだな。誰もいないのか?」

「それが……」


 応接間に入り、茉莉が事の顛末を説明すると、深野は目を丸くして聞いていた。


「駆け落ちか……あの二人がそんなことをするとは」


 意外にも彼はショックを受けた顔はしていない。


「あの子、私になにも話してくれなかった」


 茉莉はため息をついて、自分で淹れた紅茶を飲む。


「私、桜の気持ちを全然わかっていなかったのね。あなたをすすめたりして」


 今、やっと気づいた。絵があったからじゃない。桜がいたから生きてこられたのだ。自分が妹を守って、支えている気になっていたから、自分の存在価値を見失わずに済んだのだ。

 暗く沈み込んでいる彼女を見て、深野は眉間に皺を寄せた。


「茉莉さん、あなたが悪いわけじゃない。これは桜さんと幸人君の問題だ。感情に走ってしまったから、あなたに相談なんてできなかったんだろう」


 深野が腰を上げて、茉莉の隣に移動してきた。二人分の重みでソファがしずむ。


「幸人君がついているから、きっと桜さんは大丈夫だよ。心配しなさんな」


 深野が背もたれに腕を置く。急な近さに、茉莉は緊張して下を向いた。


「あなたは不器用だな。全部覆い隠してしまって……人に頼ることができないのは、あなたのほうだろう」

「いいじゃないですか。子供じゃないなんだから」

「そういう話じゃないでしょう」


 深野が体を傾け、指先で茉莉の髪に触れてきた。茉莉は固まって身動きすら取れない。


「あなたが好きだ、茉莉さん」

「………」

「あなたが背負っているものを、俺にも分けてくれ」


 低い声で囁かれる。


「どういう、意味ですか」

「……俺と、結婚してくれ」


 髪の一房に口付けられた。


「だめですっ」


 茉莉は髪を引っ張って勢いよく立ち上がり、彼に背を向けた。


「どうして」

「だめなものはだめです!」

「あなたは“いや”じゃなくて、“だめ”なんだろう? それはなぜだ?」


 深野が背後に近寄ってくる気配がする。

 止まっている茉莉の体を、背中から力強い腕が抱き込んだ。

 彼の体温を服越しに感じて、一瞬思考が乱れる。


「は……離してください」

「嫌だ」


 やんわりと抵抗しようとするが、深野はびくともしない。


「あなたは、桜に求婚していたんでしょう?」

「はじめはそうだった。だが、あなたと出会ってから、俺はどんどんあなたに惹かれていった」


 少し焦ったような早口が真上から降ってくる。


「俺はあなたが好きなんだ。答えてくれ、茉莉さん」


 目の前にある男の腕が、かたく強張っている。心臓の鼓動とオーデ・コロンの深い香りを背後から感じる。

 深野が後ろから茉莉の顔を覗き込んで、言った。


「……どうして、そんな顔をするんだ」


 茉莉は泣き出しそうになるのを、唇を噛んで必死でこらえていた。


「俺が、嫌ですか」

「嫌よっ!」


 深野が一瞬ひるんだ隙に、茉莉は部屋から駆けだした。

 兄が帰ってくる気配がしたが、振り返らずに階段を駆け上って、自分の部屋に飛び込んでしまった。



****



 その日は、いつも通っている図書館より遠い所を選んで行った。

 本棚から一冊の画集を取り出して机に置く。表紙には『Gustav Klimts Leben』と書かれている。今年亡くなったウィーンの画家、クリムトの新しい画集だ。

 頁をめくると、代表作のDer Kussの絵が現れた。紙面では金箔の輝きは失われてしまっているが、その筆致は損なわれない。

 茉莉は、背景の花模様をすっと指でなぞった。

 昨日の彼の言葉を思い出す。


 ──俺が、嫌ですか。


 本当に嫌だったら、いま、こんなふうに落胆するはずがない。

 茉莉は机に肘をついて、瞼をふせた。



****



「茉莉さんは?」

「今日は出かけているよ」と答えながら瑞希が深野に椅子をすすめる。「座るといい。僕は茉莉から伝言を預かってるから」

「伝言、ですか」


 二人が応接間の長椅子に座ると、時田が紅茶のポットを持って入ってきた。

 ややあって、瑞希が口を開く。


「桜と幸人君は、なかなか見つからないね。すぐつかまえられるかと思ったんだけど。もう大陸にでも渡ってしまったかな?」

「幸人様のお家のほうからも、何も……」と時田が口を挟む。

「桜さんのことは、俺が全力をかけて捜し出してやる。しかし、まずは、茉莉さんの伝言とやらを聞いてからだ」


 深野が食らい付くような真剣な表情で言う。

 瑞希は紅茶を一口飲み、カップを置いた。


「茉莉から話は聞いたよ」

「………」

「あの子は、君と結婚はしないよ」

「どうして? 理由を聞きたい」

「茉莉は結婚をしないんじゃなくて、できないんだ」

「どういうことです?」


 瑞希が不快そうに眉をひそめる。


「君だって、噂くらいは聞いたことがあるだろ? 茉莉は変わり者の芸術家だから、夜会にも出ず屋敷にこもって絵ばかり描いてて、呆れた両親が結婚をあきらめたのだと」


 深野は何も答えず唇を結ぶ。


「でも、知っての通り、あの子はそんなに変わり者ではない。そんな噂を作り出したのは茉莉本人だよ」

「え……」


 疑わしげな顔をする深野に、瑞希はぽつりぽつりと語り始めた。


「これはうちの家族と時田しか知らないことだが……六年前、まだ女学生だった頃、茉莉は大きな病気にかかってね。女性特有の病だよ」


 深野は険しい目で、瑞希を見つめた。


「手術をして病気は治ったが、子供を作るのは難しい体になってしまった。もしできたとしても、茉莉の身体がそれに耐えられるかどうかは分からない」

「そんな……」

「だから、生涯結婚しないと決めたのは、茉莉自身だ。結婚しても、子供ができなくて責められるのは可哀想だから、両親も茉莉の好きにさせた」

「………」

「茉莉も何度か君に言おうとしたみたいだよ。でも、どうしても言えなかったから、僕に託したんだ」


 時田は壁際でじっとたたずんで目を伏せている。


「あの子は十分悩んで傷ついた。だからもう、そっとしておいてあげてくれ」


 飄風が応接間の窓ガラスを打った。


「嫌です」


 深野の言葉に、少し驚いたように瑞希が目を上げる。


「俺は、そんなことは気にしない。子供なんて作らなくてもいい」

「もし君がそう言ったとしても、断ってくれ、と彼女は言っていたよ」

「どうして!」

「知らないよ。本人に聞いてごらん」



****



 昼を過ぎても人の少ない図書館の窓から、茉莉は中庭の景色を見下ろしていた。

 コスモスの咲く狭い庭を、三人の親子が並んで散歩している。

 ……深野さんには、幸せになって欲しい。

 夜会で見ていても分かったが、彼は顔が広く、若くして経済界で大きな力を持っている。そういう人は、身分があり健康で若い女性を妻にもらうべきだ。


 それに、彼は子供好きだ。孤児院の子供達に向ける笑顔は屈託なく、将来、自分の娘や息子を抱えている深野の姿は容易に想像できた。


 恋とはこんなにも苦しいものだったのか。

 書架の影から見える太陽は、どこまでも遠い。


 夕刻、茉莉が屋敷にたどり着くと、車止めに見覚えのある黒い高級車が停まっていた。


(深野さん、まだ帰っていないんだわ。)


 茉莉が誰にも行き先を告げずに出かけたので、帰宅するまで待っているつもりなのだろう。

 会いたくない。

 こんな顔を見せたくないし、会っても余計つらくなるだけだ。


 そのとき、屋敷の中から物音が聞こえて、茉莉は逃げるように来た道を引き返した。

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