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斜陽華族の婚姻1

 画家仲間たちと北海道旅行に行っている最中、父の訃報が届いた。

 手紙が届くまでの日数と帰途を足すと、家に着くのは父が死んでから十日後になってしまうだろう。

 茉莉まつりは荷物を抱えて、本州へ至る船へと飛び乗った。


 数日かけてようやく自宅にたどり着くと、そこは以前とはまるで変わった雰囲気になっていた。平常よく庭にいた妹や女中の姿はなく、外から見ても薄気味悪いほどに静まり返っている。

 父の死に方が普通ではなかったことは手紙で知っている。その不穏な空気がひたひたと家全体を覆っているようだ。


 茉莉は門を片手で開けようとして体勢を崩し、画板や画材の入っている袋をゴタゴタと地面に落としてしまった。


「ああ、いやだわ」


 そのときちょうど玄関扉が開き、何者かの足がこちらに向かってきた。


「お嬢さん、大丈夫ですか?」

「す、すみません、お構いなくっ」


 慌てて荷物をどかそうとすると、その男が門の内側から出てきて、目の前に膝をついた。


 視線をあげれば、舶来物の背広を粋に着こなした若い紳士の姿があった。どこか野性的な美丈夫が、意志の強そうな瞳でこちらを見つめている。


「ずいぶん大荷物ですね」 


 男の大きな手が地面に散らばる荷物を拾い上げる。


「その、旅行に行っていたもので」


 茉莉は絵の具で汚れている袴姿が恥ずかしくなった。


「ひょっとして、あなたが茉莉さんですか?」

「ええ、そうです」


 驚いて答えると、男は会心したように唇の端を上げ、立ち上がった。


「家の中までお運びいたしましょう」


 茉莉の手からトランクを取り上げ、ひょいと肩に担いで進んでいく。


「ま、まあ、ごめんなさい」


 茉莉は急いで追いついて男の隣に並んだ。


「あの、失礼ですがあなたは……?」

「俺は深野総一と申します」

「父のお知り合いの方ですか?」

「まあ、そんなところです」


 深野とともに玄関に入っていくと、妹の桜が悲鳴をあげて駆け寄ってきた。


「お、お姉様! 大丈夫? なにかされてない?」


 桜が姉を深野のそばから引き離して言う。


「一体どうしたの、桜?」

「茉莉様、お帰りなさいませ」と家令の時田が頭を下げる。

「ただいま、時田」

「時田君、茉莉さんの荷物だ」


 深野が快活に笑いながら、時田に鞄を渡している。


「えっと、深野さん、ありがとうございます」


 茉莉が礼を言うと、彼はひらりと手を振ってみせた。


「いえいえ。では、茉莉さんに桜さん、また伺いますよ」


 深野は外に寄せていた高級外車に乗って颯爽と去っていった。


「お姉様、あんな人に挨拶なんてしなくていいのよ」

「どうしたのよ、桜。あの人となにかあったの?」


 そう聞くと、桜は怒ったように頬をふくらませた。


「あの男は、うちを色々と掻き回してくれてね」


 突然入ってきた優美な声に振り返ると、兄の瑞希が階段を下りてやってきた。


「ただいま帰りました、お兄様」

「無事に帰ってきてくれて何よりだよ、茉莉」


 表面上は穏やかな茉莉と瑞希だが、実のところあまり馬が合わず、桜がいなければ一家の均衡は保てないも同然だった。


 居間に入り、茉莉は瑞希から事の顛末を聞いた。


「まあ、では、お父様は本当に急に……」

「お前なしでお父様の葬儀をしてしまって本当に申し訳ない。もちろん、お前を待つべきだと思ったんだけど、最近暑くなってきたからね……」


 瑞希が言葉を濁す。


「お姉様が帰ってきてくださってよかった」


 桜が眉根を寄せて茉莉の腕にくっついてきた。


「お父様は夜会の途中で急に倒れて亡くなってしまうし、あんな人も来るし……不安でどうにかなりそうで」


 妹のはじめて見る表情に、茉莉は一瞬何と返せばよいかわからなかった。


「“あんな人”というのは……深野さんのこと?」

「そうよ。あの人、私のことよく知りもしないのに妻にするのにちょうどいいなんて言うのよ……!」


 聞けば、深野という男は桜と瑞希からひどく嫌われているようだった。


「そうなの? 親切そうな方だったけど」

「茉莉も意外と騙されやすいねぇ」


 瑞希がやれやれと溜息をつく。


「兄様ったら失礼ね」

「でも、私を勝手に婚約者呼ばわりなんかして、本当にばかにしてるわ」

「たしかに礼儀には欠けるかもしれないわね……。でも、私は明るくて面白そうな方だと感じたわ」

「面白そうって……当たり前だけど、結婚には桜の一生がかかっているんだよ」


 瑞希のさりげない言葉に、茉莉は胸がちくりと痛むのを感じた。

 きっと兄は無意識だ。自分がこういったことに過敏になりすぎているのだろう。


「深野さんは何を考えているのかわからないところがあるから、お姉様も近づきすぎてはだめよ」と、桜が念を押してきた。



****



 大広間にイーゼルをかまえ、十号のカンバスを立てかけて、茉莉はたたずんでいた。

 ここは本来はダンスホールになる広間だが、めったに夜会を開かないこの家では「アトリエ」として使うことが許されている。


 次期当主である瑞希は亡き母に反対されて画家となることは叶わなかったが、茉莉の場合は特別で、体の弱さに免じて絵の道に進むことを許可された。両親は茉莉に甘く、女子美術学校も卒業させてもらえた。

 子供の頃は喧嘩をしながらもよく兄と一緒に絵を描いていたことを思い出す。年子である兄から受けた影響は大きかった。

 今では、花街通いしている瑞希に愛想を尽かし、ほとんど話すこともなくなってしまった。


 木炭を握り、まっさらなカンバスに手を伸ばそうとした時、大広間の扉が軋む音がした。

 振り向くと、中折れ帽を手にした紳士がホールに入ってきた。


「まあ、ごきげんよう、深野さん」


 驚く茉莉にむかって、彼はにこりと笑みを向ける。


「お久しぶりですね、茉莉さん」


 久しぶりと言うには先日会ったばかりのような気がする。たしか、初めて会った時から数日しか経っていない。


「桜さんをデートに誘いに来たんだが、断られてしまいましたよ」


 デートなどとあっさりと口にする男性は初めてだったので、思わず茉莉はどきっとしてしまった。


「今日は珍しく幼なじみの幸人さんが来ていたから、一緒に出かけたんじゃないかしら?」

「その通りです」


 目の前で桜を他の男に取られたというのに、深野は落ち込む様子でもなく、しゃくしゃくとしている。


「それは何を描こうとしてるんですか?」

「北海道で見てきた風景です」


 床に置いてある風景画のスケッチを指し示す。


「本当はむこうで描いてきたかったんですが、仕方なかったので、スケッチを元にして描こうと……」

「なるほど」


 深野がスケッチを覗き込む。


「俺が見たことのある北海道は、こんなに綺麗じゃなかったな」

「いらしたことがあるんですか? ご旅行で?」

「いいえ、泥臭い開拓事業でね。俺がやった初めてのでかい仕事ですよ」


 茉莉は目を見張った。瑞希の話から、この男は単なる戦争成金かと思っていたが、そうでもないらしい。


「……たしかに、北海道も綺麗な所ばかりではないでしょう。でも、私にはまだ混沌としたものを描けるだけの力量がないんです」

「ほう、そうですか」


 深野は興味を持ったように彼女を見た。


「どうです、茉莉さん。今から俺と一緒に、美術展でも見に行きませんか? 上野にある博物館で、西洋絵画の展示をやっているそうですよ」


 深野の目はきらりと光っている。

 茉莉は一瞬迷ったが、せっかくここまで足を運んできてくれた彼を追い返すのは可哀想に思えて、頷いた。


****


 深野の車の後部座席で、身を寄せ合うようにして座る。寄り添いたいわけではないのだが、大柄な彼と一緒に座るとそうならざるを得ない。

 茉莉は肩を縮めて窓の外を眺めていた。大通りの遠くに、浅草の雑踏が垣間見える。

 深野は先ほどから運転席の秘書と仕事の話をしていて、彼がかすかに動くたびにふわりとオーデ・コロンの香りが漂った。茉莉自身は香水をつけないが、舶来物の香水の香りが好きで、その男性的な香りにうっとりしてしまいそうだった。


「お、そろそろ着きそうですね」


 ぼんやりしていた茉莉は、彼の声にはっとした。

 並木道を通って車が停車する。先に降りた深野が、ドアを開けて茉莉に手を差し伸べた。


「あ、ありがとうございます」


 赤面する彼女を、深野は嬉しそうに見つめている。

 一瞬のことだったが、こんなふうに異性の手に触れたことのない茉莉は緊張してしまった。


(妹の求婚者にどきどきするなんて、私は何をしているのかしら?)



 博物館の中に入ると、平日だからか客はまばらで静謐としている。大階段の前に数人の外国人が集まっていて、もしや著名な画家が来ていたりしないか、と茉莉の胸は高鳴った。

 深野は意外と静かに鑑賞していて、茉莉のペースに合わせてゆっくりと見て回っている。


 ひとつの絵の前でしばらく立ち尽くしている間に、ふと気付くと、彼の姿が消えていた。

 あたりを見回すと、隣の間で、深野と羽織姿の初老の男性が談笑しているのが見えた。

 仕事上の知り合いだろうか。いかにも政治家らしい男が、笑いながら深野の肩を叩いている。

 ……あの人は、私が思っているよりももっとすごい金持ちなのかもしれない。



 次の部屋で、縦に大きい絵をじっと眺めていると、背後に足音が近寄ってきた。


「すみません、偶然、知人と会ってしまいまして」


 振り向くと、深野がにこりと微笑んだ。


「マネの絵ですか。見返り美人ですね」と彼が言う。


 茉莉は絵画に目を戻した。

 水辺に座る女性が、こちらに真っ白い背中を向けている絵だった。


「……後ろ姿がとても綺麗だわ」

「あなたがた姉妹も、俺から見ればこんな感じですがね」

「まっ、まあ、変なことをおっしゃるのね」


 一瞬絶句した後、茉莉は赤くなった。


「はははっ、本当のことですよ」


 彼は気障に笑って、次の絵にむかって歩いていった。その背中を見て茉莉は思う。

(型破りな人だけど、悪い人ではなさそうだわ。)

 桜の隣に並んだら、案外似合いの夫婦になりそうだと思えた。



****



 父が死んでからひと月が経った。

 茉莉はいまだに頭が追いつかず、涙を流すことさえできないでいた。

 瑞希はあいかわらず家を空けてばかりで、桜はというと、屋敷にこもっていつも茉莉の隣に寄り添っていた。


「ねぇ、お姉様、変に感じない? お父様がいなくなってしまったのに、生活はなにも変わらないで続いてくの」


 桜はそうかもしれない。だが、茉莉にとって、状況は大きく変わっていた。


「桜、またそこに座って」

「はい」


 大広間で桜をモデルにして絵を描く。父が亡くなってからはこれが日課になっていた。


「その絵、できあがったら本当に出展するの?」

「ええ。本気よ」


 ペインティング・ナイフで背景に色を重ねていく。


「二科展に出すの。入賞したら、帝国ホテルで展示してもらえるのよ」


 二科会で女性画家は珍しいが、最近は雑誌の挿絵なども描き始めている茉莉には、意地があった。


「お姉様ならいけるわよ! この前も画廊で絵が売れたんでしょ? でも、私を描いた絵が飾られるのはちょっと恥ずかしいわ」


 給金は雀の涙ほどとはいえ、今、家族の中で働いているのは茉莉だけだった。


 お茶の時間になって、食堂に行こうと二人で廊下を歩いていると、にわかに玄関のほうから話し声が聞こえてきた。


「あっ、幸人さん!」と、桜が笑顔を見せて言う。


 玄関で時田と並んでいる幸人が、こちらを見て挨拶した。


「またいらしてくれたのね」

「ああ。まだお前が落ち込んでいるかと思ってな」


 幸人は仕事帰りなのか軍服を着ている。

 幸人の家は位が低いが一応華族であり、代々軍人の多い家系だった。

 幼少期以来、久しぶりに再会した桜と幸人だが、先日のデートで仲の良さを取り戻したらしい。


「その、このまえお前が言っていた銀座の活動小屋にでも行こうか、と思って。茉莉も一緒にどうだ?」

「いいえ、私はいいわ。少し絵の続きをやりたくて。桜、気晴らしに行ってらっしゃい」


 茉莉は幸人の表情を読み取り、気をきかせて言った。


「え、でも、いいの?」と桜が渋る。

「いいから。幸人さんがせっかく来てくれたんだもの」

「そうね、わかったわ。準備をしてくるから、少し待っていてね、幸人さん」


 桜を待つ間、茉莉と幸人は応接室で向かい合って座っていた。


「──桜を心配してくれて、ありがとうね、幸人さん」

「いや、俺はそんな」


 幸人は表情を変えずに否定する。


「この前も、あなたと出かけて帰ってきた後、桜は嬉しそうだったわ」


 幸人がむず痒そうに下を向いた。

 彼が幼い頃から桜を好きだったことは、茉莉も勘付いている。気付いていないのは桜だけだ。


「欧米の活動写真を観に行くの?」

「ああ。桜が恋愛劇を観たいと言ってな。あいつも意外と女らしい趣味があるんだな」

「そうよ。あの子は花も裁縫も好きじゃないけど、中身はちゃんと女の子よ」

「そう言うと、お前は器用だが、案外お前のほうが男勝りなのかもな」

「あはは、なによそれ」

「今だって、絵を売って稼いでいるじゃないか」

「少しだけだけれどね」


 そうこうしているうちに、桜が階下に降りてきた。



****



 出かけていく桜と幸人を見送ってしばらくした後、屋敷の前に黒塗りの車が停まった。茉莉が二階の窓から外を見下ろすと、スーツ姿の男が車から出てきた。

 あの男だ。

 玄関扉を叩く音と、時田が急いでそちらに向かう足音がする。


「──やあ、桜さんはいらっしゃるかな」


 階段下の廊下から、快活な声が聞こえてきた。


「申し訳ございませんが、桜様は先ほどお出かけになられたばかりで」

「あぁ、それは残念だな。瑞希さんと茉莉さんもいないのか?」

「茉莉様はいらっしゃいます」

「タイミングが悪かったわね、深野さん」


 茉莉が階段を下りていくと、深野はぱっと目を輝かせた。


「茉莉さん、お元気でしたか? いや、しかし、俺もつくづく間が悪い男だ。今度来る時は先に桜さんの予定を確かめてから来ますね」


 深野に頼まれて予定をあけておく桜ではないだろう。桜は、荒々しい男らしさのある彼を苦手としているようだった。


「茉莉さんの今日のご予定は?」

「これからちょっと画廊へ行こうかと思ってます」


 以前描いた絵でも売ろうかと茉莉は考えていた。


「ほう、あなたの馴染みの画廊ですか。面白そうだな。俺も今日は午後はあけてあるんだ。車で送ってさしあげますから、ひとつ気分転換に画廊デートと洒落込みましょう」

「えっ、画廊ですよ?! そんなに面白い所じゃないと思いますけど……」

「まあまあ、いいじゃないですか」



 結局、深野の勢いに押されて(車付きで便利だったし!)、茉莉は彼の車に乗り込んだ。今日は運転手がおらず、深野みずから運転している。

 茉莉は後ろの席で、藍色のスカートの膝にカンバスの包みを抱え直した。


「あなたがた姉妹は、見た目は似ているようで、性格はまるで違いますな。桜さんはお転婆な感じだが、あなたは落ち着いていてしっかりしている」


 ハンドルを回しながら深野が言った。

 たしかに、趣味は正反対だ。茉莉は好き嫌いがあるが、桜は誰にでも優しく、社交的である。

 服装も、桜はいつも振袖を着ているが、茉莉は動きやすい洋装が多かった。


「深野さんたら、桜に求婚しているんでしょう? 私なんかとこんなに出かけてどうするんです?」

「俺はどうやら桜さんから嫌われているようですからね、まずはお姉様から落とそうと思ったわけです」

「まあ、作戦だったのね」

「ははは、恋は計画的に、ですよ」


 車が角を曲がり、人の多い銀座通りに入った。


「つかぬことをお聞きしますが、茉莉さんは結婚されないんですか?」


 どき、と心臓がいやな音を立てる。

 彼のことだから、この家の長女の噂は知っているのだろう。


「ええ。私は何にも縛られずに絵を描いていたくて……両親も、変わり者だからと結婚は諦めてくれました」


 バックミラー越しに目が合わないように俯く。


「芸術に理解ある男と結婚すれば、絵は描けますよ」

「そう、ですけど」


 次はなんと言い訳しようか考えていると、急に車が停まった。


「着きましたよ」


 茉莉はほっと溜息をつきそうになった。深野が車を降りて、後部座席のドアを開けてくれるまでの間に、平常心を取り戻した。


****


 駆け出しの画家を取りまとめている、顔見知りの画商に作品を渡して、外に出ると、もう空は暗くなっていた。


「画廊に来たのは初めてだったが、いや、なかなか楽しかったですな!」


 何がそんなに面白かったのかは分からないが、深野は満悦の表情だ。


「それはよかったですわ」

「ふふ、また来ましょう。それで車止めは……と。おや?」


 不意に深野が通りの向こうを見たので、茉莉もつられて見る。なんと、百貨店の前を歩いている、桜と幸人と瑞希の姿があった。


「うわっ」


 いきなり深野が茉莉の手を掴んで、そちらに歩き出したので、慌ててついて行った。


「やあ、桜さん! みなさんお揃いで」


 うしろから深野が声をかけると、三人はいっせいに振り返った。


「深野君」

「茉莉まで!」


 瑞希と幸人が驚いて口を開ける。


「ど、どうしてお姉様と一緒なんですか?!」


 桜が下から睨みあげると、深野はハッハと笑った。


「ちょっとデートをしていたんですよ」

「お姉様っ、なにもされてない?!」

「それ、この前も聞いたわ、桜」

「僕もいま偶然、桜と幸人君に会ったところでね」


 瑞希の言葉に、深野が眉を上げた。


「ほう、そうですか。こうして会えたのも縁だ。今から皆で夕食でも行きませんか?」


 全員が深野の調子に呑まれている。


「僕は嫌だよ」


 瑞希がしれっと言う。


「幸人さんは?」

「悪いんですが、俺はもう帰らなければ……」

「おや、それは残念だ。では、姫君二人をお借りしますよ、お兄様」


 まったく、と瑞希が嘆息した。

 銀座の往来に立ち止まっているわけにもいかず、一同はぞろぞろと移動した。



 四人は深野の車に乗って、彼の行きつけだという牛鍋屋に向かった。

 店に入ると、奥の座敷に通され、茉莉と桜が隣に、そのむかいに瑞希と深野が座った。

 黒い鍋が卓子の中央に置かれる。


「お兄様はレストランが嫌いだとお聞きしたんでね、今日は料亭にしてみましたよ」

「瑞希お兄様は和食の方がお好きだものね。私は洋食も好きだけれど」と茉莉が言う。

「ここの店は洋酒も沢山ありますからね、遠慮せずに飲んでください」


 鍋がぐつぐつと煮えたぎってくると、それまで不機嫌そうだった桜の表情が変化してきた。


「おいしそうな牛ね、桜」


 茉莉が脇をつつくと、桜が輝く目を向けた。


「牛の肉がこっちを見つめているわ、お姉様」

「桜は詩人だね」


 瑞希が食前酒を飲みながら言った。

 食欲旺盛な深野と桜のおかげで、鍋の中身はみるみるうちに減っていった。


「茉莉さん、なにか飲みますか」と深野が聞く。

「赤の葡萄酒、ありますか?」

「ええ。牛にも合うでしょう」


 まもなく女将が葡萄酒の瓶を持ってやってきて、深野が全員のグラスにそそいだ。


「これ、この店の名物の葡萄酒なんですよ」

「私、あまりお酒は……」


 桜がグラスを持って困った顔をする。


「大丈夫よ。これくらいじゃ酔わないわよ。ほら、一口だけ」


 茉莉にあおられて、桜は本当に一口だけ飲み込んだ。


「う……。だめよ、やっぱり私、苦手だわ。お姉様にあげる」

「茉莉さんは酒がいける口ですか?」

「ええ、まあまあです」

「酔うと人が変わるよ、茉莉は」と瑞希が口を挟んだ。


 すぐに茉莉は食べずに酒ばかり飲むようになり、鍋が空になる頃には、桜の肩にゆるく腕をまわしていた。


「お姉様、殿方が見ている前で、動作が男らしすぎるわ」

「いいじゃないの。ほら、桜も一杯飲んで」


 茉莉が片手で瓶を持って、桜の器に注ごうとする。


「だからぁ、私は……」

「やれやれ。飲まないほうがいいと言ってるのに」


 嘆息する瑞希の横で、深野はからからと笑っている。

 茉莉は日頃しっかりしていて他人に頼らない反動か、酒を飲むと絡み癖が激しくなるのだ。


「飲めないなら、かわりに罰! 桜、男性の好みを言って!」

「どうして普段絶対に言わないようなことを言うのよ、お姉様ぁ」

「あっはは、面白くなってきたね」


 瑞希が笑う。


「それは俺も気になるな、桜さん」

「ひ、ひどいわ、みんな」

「言わないと首を絞めるわよっ」


 茉莉が桜の肩に抱きつく。


「わ、わかったわ、言うわよ。えっと……大きい人が好み、かしら」


 一瞬、場が静まった。


「そ、それは、どういう意味かな? 桜」


 瑞希が唖然として妹を見る。


「その、だから、背が高めの人が好きかしら」

「ああ、そういう意味か……」


 安堵したような瑞希の顔と、きょとんとしている桜を見比べて、茉莉は思わず噴き出した。


「やだあ、お兄様ったら!!」


 茉莉が自分の膝を叩きながら、けらけらと笑う。


「どうして軽く流してくれないかな、茉莉」

「だって、だって、お兄様、想像力がたくましすぎるんですもの!あはは」

「茉莉!」


 これにはさすがの桜も察したようで、顔を真っ赤にしていた。むかいでは深野が豪快に笑っている。



****



 世間的に見て、この家の長女は謎に包まれていた。

 次女の桜には盛大な夜会を開いて婿を探すくらいなのに、長女は夜会に出席したことさえない。芸術家とあってはきっと相当な変わり者で、嫁に出すことさえできないのだろうと華族の人々は思っていた。

 茉莉にとっても事実を明かすよりはそう思われる方が楽で、家にこもって絵ばかり描いていた。


****


「本っ当に、ごめんなさい!」


 翌日、家に来た深野にむかって、茉莉は勢いよく頭を下げた。


「そんなに深々と頭を下げないでくださいよ。俺は何も気にしていません。あなたの興味深い姿も見られたしな」


 昨夜の自分の有り様をかすかに覚えている茉莉は、恥ずかしさで真っ赤になった。


「あ、俺はまた言葉を間違えたみたいだな。まあ、とにかく、あれだけ飲んでいて二日酔いしないとはさすがですな」


 茉莉はおずおずと深野の向かいの椅子に座った。


「そうですね……。桜はあれしか飲んでいないのに、今も頭痛で休んでいますから」


 時田が淹れてくれた紅茶を啜る。


「最近、桜さんをモデルにして肖像画を描いているそうですね」

「ええ。桜から聞いたんですの?」

「そうです。完成したらぜひ見てみたいな。俺が買い取ってもいい」

「残念ですけど、二科展に応募するからだめです。それに、桜も嫌がると思いますよ」


 茉莉がそう言った時、ちょうど応接間の扉が開いて、桜が入ってきた。


「おはよう、桜さん。気分はどうだ?」

「ええ……もう大丈夫です」


 桜の顔に、また来たのかと書かれている。


「どうです、これから食事でも、」

「すみませんが、今日は女学校の時の友人と会う約束をしてるんですの」


 間髪入れずに桜が答えた。


「つれないな、お姫様は」


 だが、深野は落ち込む様子でもない。


「仕方ない。行きは送ってさしあげますよ。茉莉さんは?」

「えっと、じゃあ、図書館まで送っていただけるかしら?」



 浅草で桜は車を降り、茉莉だけに手を振って出かけていった。赤い振袖の揺れる後ろ姿を、深野がじっと眺めている。

 父が逝き、外に出たがらないほど塞ぎ込んでいた桜だが、深野とのデートを避けるために予定を入れているとしか思えない。深野も仕事で忙しい中、時間を作って来ているのだと思うと、少し不憫だった。


 国立図書館の前に着くと、深野が降りてドアを開けてくれた。その時、どこからか深野を呼ぶ男の声が聞こえてきた。


「深野さーん!」

「おお、これは、桐生君!」


 振り返ると、背広姿の青年が近寄ってきた。深野よりいくらか若く小柄だが、端正な顔立ちをしている。

 男二人が親しげに挨拶を交わす横で、茉莉は所在無さげに立っていた。


「茉莉さん、彼は俺の会社の取引先で通関士をやっている、桐生守君という人だ」


 急に視線を向けられ、茉莉は慌てて会釈を返した。


「あなたが画家の茉莉さんですか。雑誌で挿絵を拝見したことがありますよ」

「あ、ありがとうございます」

「彼は芸術に詳しくてね、美術品の輸入も手伝っているんだ」


 桐生は爽やかな笑顔を茉莉に向けた。


「そうだ、せっかくだから、これから三人で食事でもしましょう。図書館はその後でいいでしょう?」

 と深野が言う。特別急いでいるわけでもなかったので、茉莉は頷いてしまった。



 レストランに入ってしばらくしてから、深野がなぜこんなことをしたのか、やっと茉莉は気が付いた。

 彼は見合いのつもりで桐生を食事に誘ったのだ。

 たしかに桐生は好青年で、美術品に詳しいと言ってもそれを鼻にかけることなく、茉莉の話を聞きたがった。彼が明らかに茉莉を気に入ったそぶりを見せると、深野は嬉しげな表情を浮かべた。


 レストランを出て、桐生が茉莉に手を差し出してきた。


「茉莉さん、僕が車でお送りしますよ」

「あの、ごめんなさい、私、深野さんとお話ししたいことがあって」


 一歩離れた所に立っている深野が、意外そうな顔をする。


「そうですか。では、またそのうちお会いしましょう」


 桐生と別れ、茉莉と共に後部座席に乗り込みながら、深野は満足げに言った。


「どうです、なかなかいい奴だったでしょ? 彼は若いのに仕事もよくできるから将来有望ですよ」


 茉莉は自分の膝をじっと見下ろしながら、呟いた。


「……どうして、こんなことしたんですか」

「どうしてって、二人は気が合うと思って」

「深野さんは、お見合いのつもりだったんでしょう?」

「こう言っちゃなんですが、長女から順番に結婚を決めていくのが普通でしょう。俺だって、あなたを差し置いて、桜さんと結婚するのは気が引けるんだ」


 深野がきまり悪そうな顔をする。


「この前、私は結婚はしないって、話したじゃないですか」

「でも、彼みたいな男だったらいいでしょう? そんなに意固地にならなくても」


 茉莉は俯いたまま唇を引き結んだ。


「深野さんのお知り合いだから、余計断りづらくなるでしょう」

「彼はだめでしたか。俺のことは気にしないで下さい」

「彼がだめなんじゃなくて、私は誰とも結婚しないんです」


 思わずきつい言い方になってしまった。


「どうして? あなたがそんなにかたくなな理由は何です?」


 深野の鋭い視線を感じるが、茉莉は窓の外に顔を向けた。


「あなたには関係ありません。……もう、こんなことしないでください」


 深野は何か言いたげだったが、ただ溜息をついて目をそらした。

 車を降りるまで、ふたりは一言も喋らなかった。



****



 珍しく兄妹三人で集まって、蔵の整理をしていると、奥にあった葛籠から娘用の服がいくつか出てきた。


「まあ、お母様、若い頃はこんなかわいい服を着てたのね」

「しまったのをすっかり忘れてたのかもしれないね」

「これなんか新品みたい。今でも着れそうよ」


 桜が洋服を一着かかえて、蔵の二階にいた茉莉の所に駆け寄ってくる。


「見て、お姉様! このドレス素敵でしょ。これはきっと私よりお姉様のほうが似合うわ」


 見ると、薔薇の刺繍が入った藤色の綺麗なワンピースである。茉莉はそれを胸に当てて、古い姿見の前に立ってみた。


「やっぱり似合うわ!」


 桜が横から覗き込んで言った。

 陰気な顔をした自分が、鏡の中に佇んでいる。昨晩遅くまで描いていたせいか、手から油絵の具の匂いがした。

 先日の深野とのやり取りを思い出し、茉莉は妹にワンピースを押し返した。


「私はあまりお洒落に興味がないのよ。これはあなたが着るといいわ」

「えー、似合ってらしたのに」


 桜はぶつくさ言いながら、階段を降りていった。

 茉莉は顔料で汚れた自分の服を見下ろした。

 どこに出るわけでもない、誰に会うわけでもない自分が着飾る意味があるのかしら。

 困窮しているこの家で、結婚の責任をぜんぶ桜に背負わせるのは心苦しかったが、そのかわりに、茉莉のすべては絵画だった。絵を描いて世に売らなければ、茉莉にとって生きている意味はなかった。

 そのために、綺麗な恰好をする必要があるだろうか?


****


「ええ、お姉様から話は聞きました。お姉様も、きつい言い方をしてしまったから謝りたいと言ってたわ」

『いや、俺も余計な世話を焼いてしまったようだ』

「お姉様に“結婚”は禁句だものね」


 電話の向こうで、深野がううんと唸る。桜は廊下に誰もいないことを確かめて、受話器を握り直した。


『なぜ、茉莉さんは結婚しないんだ? 今の時代、結婚しない女性がいても別におかしくないとは思いますが、彼女は何か隠してる気がしてね』

「……お姉様は、単に殿方が苦手なのよ」

『………』

「とにかく、姉のことは放っておいてあげてください」



****



「時田、どうしたの? その子は?」


 茉莉が庭に出ると、執事の時田が小さな男の子の前にかがんでいた。


「どうも迷い子のようで、庭に入り込んで遊んでいたんです」

「迷い子?」


 薄い着物を着ている男の子は、まだ一歳くらいに見え、両足で立ってはいるが表情が乏しい。


「ねぇ、ぼく、お名前は?」


 茉莉がしゃがんで訊ねると、男の子は「あい」と言った。


「はい、と言いたいんだと思います」


 時田が横から言う。


「困ったわね。この辺りで小さい子のいる家はないはずだし……」

「私は交番に行ってきますから、茉莉様はその子をお願いします」


 時田の後ろ姿を見送って、茉莉は男の子に手を差し出した。


「ほら、おいで」

「あい」


 小さくふっくらとした手が、茉莉の手を握り返してくる。


「やだ、かわいい……」


 あまり小さい子供と遊んだことのない茉莉は、どきどきしながら男の子の手を引いた。



「名前もわからないなんて」


 桜が頬杖をつきながら言った。

 男の子は居間の長椅子で足をぶらぶらさせながら、砕いたビスケットを頬張っている。時田も困惑した顔をしている。

 時田が交番に行ったが、迷子の届け出はなく、交番に置いておくのも可哀想なので、親が見つかるまでしばらくこの家で預かることになった。


「とりあえず仮の呼び名を付けましょうよ。ご両親が見つかるまでの間ね」


 なんだか桜は楽しそうだ。それに乗って、


「男の子だけど、花の名前なんてどうかしら」と茉莉が提案する。

「花の名前……紫苑なんてどう? お庭に咲いてて綺麗でしょ」

「そうね。いい名前だわ」

「じゃあ、決まりね、紫苑くん」


 桜が頬をつつくと、男の子は笑顔になった。


「私、末っ子だから、弟ができたと思うとなんだか嬉しいわ」

「もうお姉さん気分なのね、桜は」


 しかし、次の日になっても、男の子の両親は現れず、さすがの桜も思案顔になっていた。


「まさか、捨て子じゃ……」

「それならうちで育てる、と言いたいところだけど」


 そう言って茉莉は時田と目配せした。家にそんな余裕がないことは、茉莉もよく知っている。


「僕はちょっと街へ行って、知り合いの間に話を広めてこようかな。役に立つかはわからないけどね」と、瑞希がふらりと家を出て行った。



 昼を過ぎたころ、紫苑は退屈になったのか、部屋の装飾品で遊び出し、困っている時田を見て、茉莉はふとひらめいた。


「紫苑、おいで。一緒に遊びましょう」

「あいっ」


 大広間の床に大きな画用紙を敷いて、まわりに水彩絵の具とスポンジをいくつか置く。

 茉莉は床に膝をつき、絵の具のチューブから直接、画用紙に動物や車の絵を描いた。

「ぶっぶー」と言って、紫苑が笑っている。


「紫苑、ほら、これを持って」


 紫苑にスポンジを持たせ、その手を取って、パレットに広げた絵の具にスポンジを押し当てる。


「このまま、ぽんぽんって、叩くのよ」


 スポンジで軽く紙を叩くと、点状に色が広がった。


「ぽんぽん」


 紫苑は気に入ったようで、ぽんぽん、と呟きながら、夢中になって絵に色を付けていく。

 不意に紫苑がスポンジを放り投げ、それが茉莉の体に当たった。白いスカートに黄色い水玉ができる。


「きゃっ、あはは、やったわね」


 紫苑がパレットに直接手をつけ、真っ青になった手の平を、茉莉のスカートに押し当てた。


「あっ、こら。じゃあ、仕返しよ!」


 茉莉は指先に赤い絵の具を取り、紫苑の手に花の絵を描いた。


「おはな!」


 急に立ち上がった紫苑が体勢を崩し、それを受け止めようとして茉莉は床に転がった。


「きゃあ」


 その時、大広間の両開きの扉がひらき、男の影が床に伸びた。

 ひっくり返ったまま見上げると、そこには驚いた顔の深野が立っていた。


「深野さん!」

「茉莉さん……すごい有り様ですな」


 茉莉の上に乗っている子供を見て、深野は目を丸くしている。


「す、すみません、こんな格好でっ」


 慌てて紫苑を下ろして起き上がると、深野は帽子を取って、紫苑の前に膝をついた。


「お前が噂の紫苑君か。茉莉さんを押し倒すとは、よほどのやんちゃ坊主だな」

「あい」

「いい返事だ」


 深野が高く抱き上げると、紫苑はホール中に響くような笑い声をあげた。


 あとから入ってきた桜が、茉莉と紫苑を見て笑った。


「二人とも、絵の具だらけじゃないの! こっちにおいで、紫苑、おやつの時間よ」


 桜が手招きすると、紫苑はぱたぱたとそちらに歩いていった。


「桜、その子、手に絵の具が付いてるから気をつけてね!」

「ええ、大丈夫よ」


 扉が音を立てて閉まり、大広間に深野と二人きりになってしまった。

 立ち上がると、深野が目の前に来て、茉莉は思わずびくっとした。


「顔に色が付いてますよ」

「やだっ、私ったら」


 両手で顔を覆うより先に、深野の手が頬に触れてきた。指の腹で絵の具をぬぐわれる。


「あ、しまったな」


 深野が、手に広がった青い絵の具を見て、ハンカチを出そうとした。


「待ってください」


 そう言うと、茉莉は床にある手拭いをバケツの水に浸して、深野の手にあてた。

 彼の手を支え、爪の間に入った絵の具を、丁寧に拭く。


「その……この前は、ごめんなさい。乱暴な言い方をしてしまって」


 俯いていると、長身の深野の顔は視界に入らない。


「いや、俺も余計なことをした」


 きまりが悪くて、茉莉は顔を上げられなかった。


「茉莉さん、また今度、皆で食事でも行きましょう。できればお兄さんも誘って」

「ええ」


 彼から離れ、バケツの中に手拭いを置く。茉莉は決心して顔を上げた。


「あのね、深野さん、私──」


 しかし、バタバタと駆けてくる足音が、茉莉の声をさえぎった。


「お姉様ー!」

 桜が勢いよく扉を開けて入ってくる。「紫苑の両親が見つかったわ!」



 自動車に乗り、去っていく紫苑こと一郎と、その両親を見送って、茉莉達は庭に出た。


「東京に旅行でいらしていたご夫婦が、この近くの神社にお参りなさっていた時に、はぐれてしまったそうです。捜索願は出していたそうですが、警察の連絡がうまくいっていなかったようですね」


 茉莉と桜の後ろで、時田が言った。


「かわいい子だったわね。私もあんな子供が欲しいわ」と桜が言う。

「俺と一緒に作るか、桜さん?」

「冗談でもやめてください」

「あっはは、桜さんはきっついなあ」


 時田が咲かせた春紫苑の花弁が、風に揺れていた。



****



「今日は天気がいいから、お外へ出て好きな場所で絵を描いてみましょう」

「はーい」


 子供達が画板と画用紙を持って飛び出していく。

 茉莉も庭へ出て、昼下がりの空を仰いだ。初秋だが、まだ風はなく外は蒸し暑い。

 二科展の受賞を逃し、落ち込んでいるところに、深野から孤児院の美術教師の話を受けた。なんでも深野は孤児院も経営していて、そこの子供達に週一回ほど絵を教えてほしいのだという。

 桜も手伝いとして来ていて、二人の姉妹は孤児院の人気者だった。

 道路に出ないよう注意しながら、茉莉が子供達の絵を見て回っていると、桜がそばに寄って来た。


「最近、お姉様は絵を描いてないけど、何か新作を描く予定はないの?」

「そうねぇ……肖像画ってあまり描かないし、一度、男性をちゃんと描いてみたいとは思ってるのだけど」


 十歳くらいの女児二人が、白詰草を筆に巻き付けて遊んでいるのを眺めて、茉莉は言った。

 瑞希のような中性的な男以外に近寄るのは苦手な彼女にとっては、それはなかなか難しかった。作者の緊張は絵に現れてしまうものだからだ。


「幸人さんは? じっと止まっていてくれそうよ」

 桜はそう言ってから、ふと暗い顔をした。

「どうしたの、桜?」

「いいえ、なんでもないの」

「茉莉せんせー!」

 子供に呼ばれ、茉莉は忙しくそちらに駆けて行った。


 帰りの車に乗っても桜の表情は晴れず、茉莉は心配になって訊ねた。


「桜、何かあったの? 暗い顔をして」


 桜は窓の外を見つめ、しばらくしてから口を開いた。


「幸人さんの婚約者が決まったのですって」

「あ……瀬田家のご令嬢ね」


 茉莉もその話は、情報通の深野からなんとなく聞いていた。


「侯爵家の人よ。うちなんかよりもっと大きい家の」


 唇を噛んでいる桜の横顔を見て、茉莉はやっとぴんときた。


「……幸人さんのことが、気になってるの?」


 小声で訊ねるが、桜は返答に困っているようで、何も言わない。

 子供同士は仲がいいが、華族としての位が違いすぎるせいで、幸人の家とは昔から相性が悪かった。

 桜と幸人が友人以上の関係を築くのは、どう見ても困難だった。


「桜、あなたもまだ自分の気持ちがはっきりしていないんでしょうけど……他にもいい殿方はたくさんいるわ。深野さんだって、桜は苦手みたいだけれど、いい人よ」

「お姉様は深野さんをすすめるのね」

「ええ。あの人、ああ見えて優しいし、きっと桜を大事にしてくれるわ。それに面白いし」

「もう、結婚なんて嫌よ。私がお姉様だったらよかったのに」


 そう言ってから、桜はしまったというように口を噤んだ。うっかり口が滑ってしまったのだろう。


「……ごめんなさい、お姉様。そんなつもりはなかったの」

「いいのよ。悪気はないってわかってるから」


 桜が気まずそうに俯く。桜は綺麗だ。これは男性が放っておかないだろうという可憐さがある。




 家に帰り、茉莉と桜が縁側に並んで涼んでいると、にわかに玄関のほうが騒がしくなった。


「何かしら?」


 裸足のまま二人で行ってみると、瑞希が玄関の床に座り込み、時田が手を貸して立たせようとしていた。


「お兄様!」

「ああ、ただいま、桜、茉莉」


 瑞希がへな、と笑う。


「どうしたの、お兄様?! 酔ってらっしゃるの?」


 桜が訊ねると、瑞希は力なく答える。


「つい、いつもより飲み過ぎちゃってね。たまたま知り合いとたくさん会ったから」


 だらしなくよれた着物には、京紅らしきものが付いている。どうせ相手は芸妓だろうと思い、茉莉は眉間をしかめた。


「茉莉、そんな怖い顔しないで。二人とも向こうの部屋に行ってなさい。時田、悪いけど水を──」


 しかし、時田が動くより先に、茉莉は腕を振り上げて、瑞希の横っ面を張った。


「茉莉様っ!」


 時田が叫び、瑞希が唖然として茉莉を見上げる。


「お兄様、いい加減にしてください! 同じ家族としてみっともないわ。私も桜も少しは働いてるのに、一人だけ毎晩のように遊んで!」

「お姉様、もうやめて……」


 傷付いたような兄の顔を見て、桜が割って入ろうとしたが、茉莉の憤りは止まらなかった。


「お兄様はこの家を潰す気なの? うちを立て直す責任を、全部桜に押し付けて──」


 その時、突然しずかに玄関扉が開いた。


「これは、皆さん、お揃いで」


 少し驚いてはいるが余裕のある様子で、深野が顔を覗かせる。


「深野さん……!」


 途端にあわあわしだす姉妹を見て、彼は小さく笑みを浮かべた。




 深野を応接間のソファに通し、そのむかいに茉莉と桜が並んで座った。


「すみません、見苦しいところをお見せして……」

「いいえ、いいんですよ」


 茉莉が詫びると、深野は軽やかに笑った。


「今日はお二人を夜会にお誘いしようと思って来たんです」

「夜会?」


 茉莉が不安そうな顔をする。


「茉莉さんはあまり夜会は得意でないとお聞きしたんで、仮面舞踏会ならどうかな、と」

「仮面舞踏会って、何です、それ?」と桜が訊ねる。

「参加者全員が仮面をつけて、匿名で出席する西洋式の舞踏会ですよ。知人の物好きな夫人が企画されたんです」


 桜は少し興味を引かれたようだが、茉莉は気がすすまなかった。


「でも、私、ダンスができないので……」


 夜会に出ようと思ったことすらないので、女学校での授業以外で踊った経験はなかった。


「踊らなくたっていいんですよ。それこそ誰が誰だか分かりやしないんだから」と深野が言う。

「幸人さんとその婚約者も来るらしいですよ」


 彼の言葉に、かすかに桜が反応するのを茉莉は感じた。


「どうする? 桜」


 茉莉は薔薇の紅茶を一口飲んで、彼女の返事を待った。


「行ってみましょう、お姉様」

「よしっ! ぜひともあなたがたをお誘いして来いと言われてたんだよ。よかったよかった」


 深野が満面げな表情を浮かべた。


「私、ちょっとお兄様の様子を見てきますわ」


 神妙な顔つきでそう言って、桜が席を立った。

 翻る着物のすそを隠して閉まったドアを見て、深野がソファの背に肘をつく。彼と二人だけになり、さっきの失態を思い出して、茉莉は溜息をついた。


「……俺もね、桜さんの心がこっちに向いてないことくらい、気付いてますよ」


 はっとして深野を見ると、彼は目をそらしたまま呟いた。


「あの人は、幸人さんのことが好きなんでしょう」


 茉莉は答えずに、紅茶で舌を湿らせた。


「案外、うまくいかないものですね」


 渇いた声で深野が笑う。


「どうです? 茉莉さん。残り者同士、一緒にくっつきますか」

「へ、変な冗談はやめてください」


 茉莉が赤くなって言うと、あっはっはっと彼は笑った。


「言い方が悪かったかな。……俺と結婚すれば、あなたをその責任感から解放してやれますよ」

「何です、それ」

「見ていればわかりますよ。あの悠々自適なお兄様よりも、長女のあなたのほうがずっとしっかり者だ」

「………」

「そのままじゃ、いつか押し潰されちまいますよ、責任感に」


 いつもの余裕綽々な笑みではなく、優しげな微笑で、深野がこちらを見つめていた。

 窓から射す夕陽が彼を照らし、この一瞬を、カンバスのなかに大切に閉じ込めてしまえたらいいのに、と茉莉は思った。



****



 帝国ホテルのロビーに入ると、どこからともなく主催者の伯爵夫人が現れた。


「ごきげんよう、茉莉さんに桜さん。いらしてくださって嬉しいわ」

「お招き頂いてありがとうございます」


 茉莉と桜が会釈すると、夫人はふわりと微笑んだ。


「お客さんみんなに仮面を配ってるの。そうね、お姫様達は……こちらがいいんじゃないかしら?」


 そばに仕えている侍女から二つの仮面を受け取って、夫人が差し出してきた。目元から鼻までを覆う、同じ意匠の金と銀の仮面である。


「着物でも合うかしら……?」


 ドレスを纏っている夫人を見て、桜が呟いた。桜は薄紅色の振袖、茉莉は紺瑠璃の着物を着ていた。


「大丈夫、似合うわよ。和装の女性も沢山いらしてるもの」と夫人が言う。

「仮面はあそこの控え室でお着けになって。開会は蘭の間ですからね。その後はどちらへいらしても大丈夫よ」



 茉莉が銀の仮面、桜が金の仮面をつけて大広間に入ると、もうホールは招待客で一杯だった。高い天井に輝くシャンデリアの灯りが、人々の仮面に反射し、異様な雰囲気を醸し出している。

 少し不安そうな桜の手を引いて、壁際に向かおうとすると、突然ひとりの男が声をかけてきた。


「こんばんは、お姫様方」


 馴染みのある低い声だ。


「深野さん!」


 全員匿名であるのを忘れて声をあげてしまい、茉莉はあっと口を覆った。


「ふふ、大丈夫ですよ。顔を隠していても、知り合いにはばれてしまうものですから」


 深野は、かすかに緑がかった燕尾服に、絹のスカーフと、黒い革の仮面を着けていた。日本人離れした体格の良さに、驚くほどよく似合っている。


「本当に麗しい姉妹ですね。さ、こちらへどうぞ」


 深野が二人の手を取って、壁際の椅子に座らせる。


 そうこうしているうちに、主催者がホールの中央で開宴の言葉を述べ、一曲目のワルツが始まった。

 深野が二人に飲み物を取ってきてくれたが、その間も桜は難しい顔をして、辺りを見回していた。茉莉はというと、酒ではなく、場の空気に酔ってしまいそうだった。普段は怖くて絶対に来られない所だが、仮面をつけていれば誰の目にさらされる心配もない。


「桜さん、次の曲になったら踊りましょう。茉莉さん、妹君をお借りしますよ」

「ええ、おかまいなく」

「あまり飲み過ぎないでくださいよ」

「わ、わかってますっ」


 あははと快活に笑いながら、深野は渋る桜の手を引いて、ホールの中心に向かっていった。


 一人になった茉莉は、注意深く広間を見渡し、目当ての人物を見つけた。バルコニーの柱の前に、幸人とその母、そして婚約者らしき女性が集まっている。茉莉が近付いていくと、幸人の母親がいち早く気付いて小さく眉をひそめた。



「上の空ですね」


 はっとして、桜は目の前の男の顔を見上げた。深野は悪戯そうな目をして言う。


「分かってますよ。幸人さんを探してるんだろう?」


 桜は黙って唇を引き結んだ。


「あなたの家とあの家の間にわだかまりがあることは、茉莉さんから聞いて知っている。そんな幸人さんの家で、あなたがあなたらしく過ごせるとは、俺は思えない」


 踊りながら、深野は手の平にある桜の手を強く握った。


「俺の屋敷は、あなたの好きなように変えていい。欲しい物もなんだってくれてやる。……絶対に苦労なんかさせない」


 顔を寄せ、低く真剣に囁いてくる声から、桜は顔をそむけた。


「それでも、私もあなたも幸せにはなれないわ」


 深野は溜息をついて、彼女を見下ろした。


「彼を愛しているんだな?」

「……ええ」


 小さく頷いて、桜の目がわずかに潤んだ。


「負けましたよ。……このワルツの間に、あなたの心を惹こうと思ったのに、な」

「あきらめてくれるんですね?」

「ああ。俺はあなたの幸せを願っているからな」


 彼は仕方ないというふうに苦笑した。


「……深野さん、本当は、茉莉お姉様に惹かれていたんでしょう? 私より、お姉様といる時のほうが楽しそうだもの」

「ばれていましたか」

「お姉様もきっと、深野さんのことが好きよ」



 茉莉と二人で壁に背を寄せると、幸人はほっと息をついた。


「──しかし、驚いたな。お前にあんな演技力があったとは」

「自分でもびっくりしたわ。仮面があると人は大胆になるみたいね」


 今さっきの出来事を思い返してほくそ笑む。

 茉莉は、幸人の母と婚約者令嬢に丁寧に挨拶をすると、貧血を起こしたふりをして、幸人の肩に寄りかかった。そして、化粧室まで付き添ってくれと言って、幸人を連れ出したのだ。


「婚約者の方、少し不安そうな顔をしていたわね」

「そうだったか? 彼女はいつも表情がなくて、何を思ってるのか俺には分からないんだ。……同じ年頃の女性でも、桜なら分かりやすいのにな」


 そう呟き、目を伏せた幸人の手に、茉莉は三鞭酒のグラスを押しつけた。


「軽く飲んで、気分を晴らしましょう、幸人さん」

「お前は瑞希君に似て、酒が好きなんだな」

「幸人さんは苦手なんだったかしら?」

「ああ。その……一杯が限界だな。酔って踊れなくなったら大変だからな」

「そうね」


 茉莉が景気よく飲む横で、幸人はちびちびと三鞭酒を啜る。


「最近、全然桜と会ってないのね」

「ああ。軍の仕事以外で家からあまり出られなくてな」


 婚約者ができた手前、以前のようにうちに来れないようにされているということは、安易に想像がついた。幸人の両親は、彼が桜を好きだと気付いているのだろう。


「桜も会いたがってたわ」

「……そうか」

「あの子はさっき、深野さんと踊りに行ったのだけど──あ、いたわ」


 曲が終わり、こちらに戻ってくる桜と深野に、小さく手を振る。


「ただいま、お姉様。もしかして──幸人さん?」

「久しぶりだな、桜」


 仮面の奥の桜の瞳が、かすかに輝いた。


「すみませんが、少し桜をお借りします」


 幸人は茉莉と深野に会釈し、桜を連れて広間を出て行った。

 二人の後ろ姿を見送って、茉莉がそっと微笑む。


「また結構飲んでるな、茉莉さん」

「まだ三杯目よ」

「今の一瞬で三杯も飲んだんですか」


 深野が呆れたように溜息を吐いて、壁に背をつけた。


「私、深野さんのことも桜にすすめておいたのよ」

「それはありがとうございました。……だが、駄目でしたよ」

「振られたの?」

「振られました。見事にね」

「じゃあ、深野さんもぱあっと飲んで、語り明かしましょう」

「飲むんじゃなくて、俺はあなたと踊りたい」


 振り向くと、深野は腕を組み、真剣な顔をして茉莉を見下ろしていた。


「ご冗談を。私、踊れないのよ」

「なら、俺が教えてさしあげます。来て下さい」

「あっ、待って、どこへ──?!」


 強引に腕をひっぱられ、茉莉はホールから連れ出された。



 階段を降りて裏庭に出ると、深野はぎりぎりホールの明かりが届かない所まで来て止まった。


「ここなら上から見えないし、ちょうど音楽が聞こえる」

「深野さん、私、本当に踊れないんですよ」


 急に酔いがさめて恥ずかしくなってきた。


「基本的なステップくらいは知ってるでしょう?」

「ええ、でも」

「ワルツだけでいいんですよ」

「でも、もう何年も前に習っただけで──きゃっ」


 深野が左手で茉莉の手を掴み、右手で腰を抱き寄せた。突然の至近距離にたじろぐ茉莉の体を、深野が揺する。


「さあ、右足から」


 二階のホールから漏れ聞こえる音楽に合わせて、慎重に足を動かす。


「そう。次はこっちへ」


 深野がゆっくり導く。顔が近く、彼に握られている手が震え出さないように必死でこらえる。

 男と踊ったことのない茉莉でも、深野のリードのうまさは分かった。


「ほら、なかなか上手いじゃないか」


 あまりに必死で言葉が出ない。

 彼が大きく動き、ぐるりとその場を回ろうとした時、茉莉が砂利につまずいて倒れそうになった。


「あっ」


 茉莉の仮面がはずれて落ち、反射的に目を瞑る。

 その瞬間、深野はすばやく反応した。


「っ……!」


 茉莉が瞼を上げると、目の前に深野の顔があり、腕で腰を支えられ、もう片方の彼の手は茉莉の背後の木につかれていた。茉莉は深野にしがみつくように立っている。

 仮面の奥にある彼の目は暗くてよく見えず、怖くなって唾を飲み込んだ。

 不意に優しくあごを掴まれ、茉莉は後ずさって木に背中をぶつけた。

 深野の手が、彼女の肩を木の幹に押し付ける。


「茉莉さん……」


 深野の顔が傾き、近付いてきて、茉莉は暗闇の下で目を大きく見開いた。


 柔らかい唇の重なる感触がする。

 下唇をやさしく食まれたかと思うと、すぐに離れた。

 目を上げると、深野が表情を確かめるようにこちらを見下ろしている。目をそらせずに、固くなって見つめる彼女に、深野はふたたび口付けた。


「っふ……ん……」


 緊張している茉莉の唇を割って、男の舌がもぐり込んでくる。

 深野は震える彼女の体を包み込み、熱い舌を無理やり絡めて、自分の口の中に引き寄せた。


「ん、ぅ……っんん……」


 息苦しくなりながらも、茉莉は唇のこすれに痺れを感じ、力が抜けそうになって深野の首に腕をまわした。


「ぁ、んむ……」


 華奢な体を支え、深野は吐息をもらしながら、茉莉の唇をむさぼった。

 深野の膝が着物のすそを割り、太腿の隙間に入ってくるのに気が付いたが、茉莉は止められなかった。


 ふたりとも酔っているのだ。この仮面舞踏会の妖しい熱気に。

 桜の身代わりにされてもいい。今夜だけでもいい。

 こんな体験は、もう二度とできないかもしれないのだから。


 茉莉は愛しい彼の背中を抱き締めた。

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