096.落ち込むに決まってんじゃん!
ロベリアさんが泣いていた。軍防卿の死体の前で、膝をついて、肩を震わせて泣きじゃくっていた。
俺は何を言えばいいのか分からなかった。俺はただ、剣を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。口を開こうとするたび、乾いた息が漏れるだけだった。
(……どうすればいい?)
慰めるべきなのか? それとも、ただ黙って見守るべきなのか?
俺は、人の感情に触れるのが下手だった。どうすればいいのか、全く見当がつかない。
ロベリアさんの父親の死に際、俺は――助けられなかった。あの日、あの地獄の戦場で、俺は無力だった。そのせいで、ロベリアさんの父親は死んだのかもしれない。
逃げ出したくなるほどの罪悪感が、俺の胸を締め付けた。
「すいません……」
ロベリアさんの声が聞こえた。涙で濡れた顔を上げ、俺を見つめている。目は真っ赤に腫れていたが、その瞳には感謝の色が浮かんでいた。
「私情でこんな……泣いちゃって……すみません。助けてくれて、ありがとうございました」
背後で足音が響いた。振り返ると、レオンハルト殿下が無言のまま、険しい表情で屋上へ向かって外階段を駆け上がっていくところだった。その目は鋭く、迷いのない決意が滲んでいる。
「レオンハルト殿下……?」
俺の呼びかけに、殿下は振り返らなかった。そのまま、足音を鳴らして階段を駆け上がっていく。
その時だった。何かが落下する影が窓を通り過ぎた。俺とロベリアさんは同時に窓を見つめた。
「今のは……?」
ロベリアさんが呟いた。その声が、かすかに震えている。
俺は、視線を窓に固定したまま、無意識に足を踏み出していた。視線の先、窓の外で、何かが落下していく。
目が合った。落下している二人の男――そのうちの一人、ハレックさんが、こちらを見ていた。その顔には、不敵な微笑みが浮かんでいた。
「――ッ!」
息が詰まった。心臓が凍りついたような感覚に襲われる。落ちていくハレックさんは、微笑んだまま、ゆっくりと視界から消えていった。
我に返った瞬間、俺は駆け出していた。炎の中を突っ切り、窓に向かって一直線に走った。熱風が顔を焼き、煙が目にしみたが、気にしている余裕はなかった。
窓の縁に手を掛け、外を覗き込んだ瞬間、バンッと、鈍い音が地面から響いた。それは、何か重いものが地面に叩きつけられる音だった。俺の全身から血の気が引いていく。
ゆっくりと、俺は目を下へと向けた。ハレックさんとアーレンさんの身体が、血溜まりの中に転がっている。
――ゴゴゴゴゴッ!
次の瞬間、轟音を立てて今いる部屋の天井が崩落した。上から火の粉が降り注ぎ、焦げた木材が瓦礫と共に落ちてくる。
「危ないッ!」
反射的にロベリアさんに駆け寄り、腕を掴み引き寄せた。火の粉が俺の背中を焼く。だが、立ち止まっている暇はなかった。
ロベリアさんの手を引いて、階段へと駆け出した。背後で爆音が響き、炎が勢いよく吹き出す。
二階の踊り場に辿り着いた瞬間、外階段をショートカットして飛び降りた。地面が近づき、足裏に衝撃が走る。そのまま転がり込み、立て直して駆け出した。
ハレックさんとアーレンさんが倒れていた場所に辿り着いた時、そこには二人の姿はなかった。地面には血痕が残っている。だが、遺体はない。
「……消えた?」
背後を振り返ると、ロベリアさんが後から駆けつけてきた。彼女もまた、二人がいなくなっている光景を目にして、愕然と立ち尽くしている。俺は息を整え、ロベリアさんと目を合わせた。彼女の目は見開かれ、困惑と恐怖が浮かんでいる。
俺も、似たような顔をしていることだろう。
「……一体、何が……?」
恐怖と困惑が混じり合った感情が、胸の奥で渦を巻いている。ロベリアさんは何も言わなかった。ただ、蒼白な顔で、無言で俺を見つめ返していた。
◆
わたくしは、柵から離れてその場に座り込んでいた。背中が冷たい金属に触れているが、熱を感じることはなかった。屋上から立ち上る黒煙が、空高く渦を巻いている。階下の炎の光が赤々と揺れ動き、瞳に焼き付く。
目の前で、アーレンさんとハレックさんが――。
言葉が出なかった。頭の中がぐるぐると回り、何を考えればいいのか分からなかった。
「……何があった?」
低く抑えた声が頭上から響いた。はっとして顔を上げると、第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリア殿下が立っていた。赤い目を鋭く細め、屋上を見渡している。
わたくしは、口を開こうとして、喉が詰まった。唇が震え、言葉が出てこない。だが、殿下の目が鋭くこちらを射抜いているのを感じて、必死に言葉を絞り出した。
「……クロニクル・トレイルの……二名が……飛び降りました」
「……は?」
レオンハルト殿下の目が見開かれた。信じられないという表情が一瞬だけ浮かぶ。
「……飛び降りた、だと?」
殿下は屋上の端に歩み寄り、柵に手を掛けて下を覗き込んだ。わたくしは膝を抱えたまま、その背中を見上げていた。
レオンハルト殿下は、下を見つめたまま何も言わなかった。その背中は動かず、冷静に光景を見下ろしている。
しばらくして、レオンハルト殿下は一歩後ろへ下がると、柵から手を離した。
「……フン」
殿下から乾いた吐息が漏れた。その顔には憐れみも悲しみも浮かんでいなかった。冷酷なまでに無感情な横顔だった。殿下は、何を見たのだろう。
レオンハルト殿下は無言でわたくしを一瞥すると、そのまま屋上の端から離れた。振り返ることもなく、こちらに背中を向ける。
レオンハルト殿下が屋上の中央へと歩み寄った。黒い靴底が鉄板を叩き、低い金属音が響く。その冷徹な瞳が、屋上にいる全ての者を見下ろしていた。
「軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーは、我が手によって討たれた」
その言葉が放たれた瞬間、空気が凍りついた。聖騎士たちの表情が強張り、全員が目を見開いてレオンハルト殿下を見つめる。誰もが信じられないとでも言うように、唇を震わせ、言葉を失っていた。
レオンハルト殿下は微動だにせず聖騎士たちを見据えたまま続けた。
「軍防卿は死んだ。ここに貴様らを指揮する者はいない。今、貴様らの剣は宙に浮いている」
その声には、一片の感情もなかった。冷徹で、無機質で、まるで石像が喋っているかのような響きだった。聖騎士たちは一瞬、顔を見合わせ、動揺の色を浮かべる。誰もが困惑し、どうするべきかを迷っていた。
「捕縛予定だった異端者も死んだ。貴様らがここに留まる理由はない。もし、ここで剣を抜くというのなら、我はそれが誰に向けられたものであれ、王族に対する反逆とみなす。王族の前で剣を抜くという行為そのものが、無礼極まりない。反逆罪として討たれても、何ら不思議ではない。王族に剣を向けた愚か者として、我が手で粛清してやる」
やがて、先頭に立っていた聖騎士が、ゆっくりと剣を鞘に収めた。その動きを合図にするように、他の聖騎士たちも次々に剣を納め、互いに視線を交わしながら退却していく。その顔には、恐怖と不安、そして絶望が滲んでいた。
屋上から、剣を持った者の姿が消えていく。まるで波が引くように、聖騎士たちは姿を消した。レオンハルト殿下は、彼らの退却を無表情のまま見届けていた。
わたくしは喉が引きつるように痛むのを感じた。レオンハルト殿下の横顔は、氷の彫刻のように冷たく、隙のない美しさを湛えていた。だが――。
その目は、まるで死んでいるようだった。感情の欠片すら感じられない、凍りついた瞳。ゾクリと背筋が寒くなる。
その時、レオンハルト殿下がこちらを向いた。冷徹な赤い瞳がわたくしを捉える。
「……貴様も去れ」
冷たい声が空気を切り裂いた。凍てつく刃のように鋭く、冷酷だった。わたくしは目を見開いた。
次の瞬間、レオンハルト殿下の剣が音を立てて抜き放たれた。鋭い銀の刃が、こちらに向けられる。その目は氷のように冷酷だった。
「……っ!」
声が出ない。レオンハルト殿下の目が冷酷に細められる。わたくしは反射的に後ずさった。足がもつれ、踵が鉄板にぶつかって鈍い音を立てる。それでも、レオンハルト殿下は微動だにせず、剣を向けたままだった。
その時、足元でカタカタと微細な音が聞こえた。
エクリヴァム――アーレンさんが設置した魔道具が、まだ記録を続けている。カリカリとスクロールに文字を刻み続けているペン先が、わずかに揺れていた。
わたくしは喉が潰れそうになるのを必死に堪え、震える手を伸ばした。指先がエクリヴァムの冷たい金属に触れる。その感触に、身体がびくりと震えた。レオンハルト殿下が、わずかに剣を傾けた。その鋭い刃先が、わたくしを追いかけるように向きを変える。
(これを持ち帰らなければ……)
わたくしは震える手でエクリヴァムを掴み、乱暴に引き寄せた。
レオンハルト殿下の無機質な視線が、わたくしを射抜いている。まるで、虫けらを見るような冷酷な眼差しだった。
わたくしは踵を返し、階段へと駆け出した。足がもつれ、転げ落ちそうになるのを必死に堪えながら、階段を駆け下りる。
背後で、レオンハルト殿下の視線がわたくしを見送っているのを感じた。
エクリヴァムが腕の中で微かに震え、カタカタと音を立てていた。その音が、今の出来事を記録し続けているように聞こえて、わたくしは背筋が寒くなった。
◆
レオンハルトは、カミラが階段を駆け下りていくのを見届けた後、ふうと小さく息をついた。屋上には、今や自分ともう二人――ユアンと、セシルだけが残っていた。
セシルは腹部に血の染みを残していたが、痛がっている様子はなかった。何故か、髪の色が不自然にオリーブ色に変わっている。彼のその目には、微かな戸惑いの色が滲んでいた。冷静を装っているようだが、その視線はわずかに揺れている。自身の髪の色の変化に気付いているようで、何度も髪に触れては眉間に皺を寄せている。
だが、まずは他に確認すべきことがある。私はゆっくりとユアンの方へと顔を向けた。
見慣れない軍服を羽織ったユアンは、普段見る、どこか抜けたような面影は微塵も残していなかった。まっすぐに背筋を伸ばし、冷静な目で屋上の光景を見渡している。
「……なぜ貴様がここにいる?」
私は低く、冷たい声で問いかけた。ユアンは顔を動かさず、まっすぐに私の目を見つめたまま答えた。
「自国民の保護のためです」
「……自国民?」
私は片眉を僅かに上げ、視線をセシルに向けた。セシルはユアンの言葉に動じることなく、冷静にこちらを見返してきた。
「まさか、セシルを言っているのか?」
「はい。セシル・ラグナはアストラル帝国の国民です。女王陛下の御命により、彼を保護するよう仰せつかっております。オレはアストラル帝国の調査員、活動名はユグドラ・ダブルオーエイトです」
あまりにもあっけらかんとしたユアンの宣言に、私の思考が一瞬停止した。言葉の意味を理解するのに、数秒の間を要した。
「……アストラル帝国の、国民?」
「ああ、確かに、五歳頃まで暮らしてた俺の母国は、アストラル帝国だよ」
私は再びセシルを見下ろした。セシルは落ち着いた様子で、何の動揺もなく、静かに頷いた。
「そ、そして……貴様が……アストラル帝国の調査員、だと……?」
「我らが女王陛下は、カリストリア聖王国、第一王子のレオンハルト・アルデリック・カリストリア殿下とのご面会を希望されております」
あまりにもあっさりとした返答に、私は目を見開いた。その平然とした態度が、かえって現実感を失わせる。やっと絞り出した私の声は震えていた。
「……何……だと?」
ユアンは私の回答に、何故かにこりと微笑んだ。
「レオンハルト殿下。女王陛下のご命令により、貴方の行動に協力するよう仰せつかっております。ただし、アストラル帝国のご意向に背かぬ範囲での話ですので、誤解なきよう」
ユアンは一瞬間を置き、スッと目を細めた。
「……場合によっては、貴方の背後に控える後ろ盾にもなれるかもしれません。もちろん、女王陛下のご判断次第ですが」
言い終えると、彼は微笑みを浮かべたまま、礼儀正しく頭を下げた。
「……我は、人を見る目がなかったということか」
思わず口に出た言葉に、自分で驚いた。自分が今まで信じてきたものが、まるで砂の城のように崩れ去っていく感覚。愚鈍な元聖騎士だと思っていたユアンが、実はアストラル帝国の諜報員――。
ヘンリーの件と合わせれば、二人目。救国の英雄に差し向けた人選で言えば、全外しである。
「念の為確認するが……この国にはいつから……?」
「……五年前からっす」
「五年も前から? 子どもの頃からということか?」
「いやぁ……オレ、見た目は若いっすけど、実は三十二歳なんで……」
「……はあ?!」
思わず声を上げた。ユアンの外見は高く見積もっても二十代前半、せいぜい私と同年代にしか見えない。
それはセシルにとっても衝撃の回答だったらしく、目を見開き「年上?!」と叫んでいる。
「いやぁ、若く見えるのって得っすね。おかげで、何でもスルーされちゃうんすよ。救国の英雄の護衛だって、立候補したらあっさりなれたし」
「……冗談だろう?」
「いや、マジっす。もしかしてなれるかなーって思ってたら、本当になれちゃったんで」
あまりにも軽い口調に、私は頭を抱えたくなった。
「……それで、救国の英雄についての情報は……?」
「ええ、もちろん、我らが女王陛下に筒抜けとなっております。あ、いやぁ! でも、女王陛下は殿下のこと、好意的に見てますから……ね?」
「……」
私は沈黙した。目の前がぐらりと揺れるような感覚に襲われる。
「いやぁ、まさか気付かれないとは思わなかったっすよ。殿下って、もうちょっと鋭いと思ってたんすけどね」
ユアンはにこにこと無邪気に笑っている。私は何度か口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。
「……我、心底間抜けではないか。まるで道化だ」
口に出した瞬間、自己嫌悪と強烈な羞恥心が胸に込み上げた。これほどまでに見抜けなかった自分が情けなくて仕方がない。
「そんなに落ち込まないでくださいよ。女王陛下から、殿下には協力するように仰せつかってますんで」
疲れ果てたような溜息が私の胸の奥から漏れ、思わず膝を抱えてしゃがみ込んだ。そして、普段なら絶対にあり得ないのだが――王族の顔のままで、市井にいる時と同じ口調で叫んだ。
「落ち込むに決まってんじゃん! もっと早く言えよ!!」
まぁまぁと諫めようとしてくるユアンとセシルに向かって、私は語気を強めてさらに言葉を続ける。
「……そんなことより、生きてたぞ! 二人!」
私は先ほど目撃した、屋上から下を覗き込んだ時の光景を思い出していた。
記者らしき女が「二人が飛び降りた」と言ったのを聞き、確認のために見下ろしたのだ。
見れば、二人の男が地面に横たわっていた。あれがオカルト雑誌「クロニクル・トレイル」の記者たちだろうか。彼らは血だまりの中に倒れ込み、まるで人形のように動かない。
私は、眉をひそめた。「死んだ」と思った。女の言葉もあったし、何よりも今いる屋上は七階の位置だ。この高さから落下して、生き延びるのは不可能だと思えたからだ。
だが――。
まず黒髪の男が動いた。ゆっくりと身体を起こし、頭を振っている。その隣で、赤毛の男も腹を押さえて、じたばたと足を動かしながら身体を起こした。
その時、黒髪の男と目が合った。
黒髪の男が私を見上げ、口をあんぐりと開けた。彼は慌てた様子で赤毛の男に何事かを耳打ちした。すると、赤毛の男も顔を上げ、私と目が合った。
距離が離れているから、その表情の詳細までは読み取れない。しかし、彼らが何を言いたいのかはすぐに察しがついた。彼らは唇に人差し指を当て、大袈裟なジェスチャーで黙っていてほしいと合図を送ってきたのだ。
そして、呆然と見下ろす私に向かって、彼らは必死に手を振った。まるで「見なかったことにしてくれ」とでも言うように、必死な様子だった。
私は、無言のまま二人を見下ろした。彼らは再び「シー」の仕草をし、今度は黒毛の男が、赤毛の男に肩を貸しながら、慌てた様子でその場からバタバタと走り去っていく。
(……なるほど、そういうことか)
私は、無言で視線を外した。あの二人は、生きている。そして、意図的に「死んだ」と見せかけようとしている。何の企みであるかもおおよそ察しがつく。一般人が弾圧された結果、自死を選んだとなれば、あっという間に世間のヒーローだ。
……このことは、記者の女には黙っておくか。
「……フン」
これを目撃した時、私はそう決めて、ただ鼻を鳴らしただけにとどめた。




