095.――バンッ!
階段を駆け上がり屋上に近づいた瞬間、わたくし――カミラは息を呑んだ。
黒煙が下の階から立ち上り、熱気が押し寄せてくる。下の階で火災が起きている。今いる屋上にはまだ火の手は迫ってきていないが、焦げ臭い匂いが鼻を突き、胸がざわついた。
わたくしの前には白髪の青年が立っている。彼は肩で息をしながら、屋上の光景を鋭く睨みつけている。緊張がその背中から伝わってくる。
彼の後ろから屋上へと足を踏み入れると、そこにいたのは追い詰められた二人の男たちだった。
ハレックさんは脇腹を押さえて蹲っていた。顔が苦痛に歪み、額からは冷や汗が流れている。脇腹から滲む血が服に赤い染みを作り、見るだけで痛々しい。彼がまともに動ける状態ではないことは一目で分かった。
その前に立っていたのはアーレンさんだ。ハレックさんを庇うように立ちはだかり、聖騎士たちに鋭い目を向けている。
そのアーレンさんの足元には、エクリヴァムが設置されていた。エクリヴァム――スクロール上に話した言葉がそのまま文字として筆記される魔術道具は、静かに仄かに光るペン先をカリカリと走らせている。屋上で繰り広げられる会話や音を記録しているのだろう。
アーレンさんは低い姿勢で身を構え、鋭い足技を繰り出して聖騎士たちを牽制していた。
蹴りの速度は速く、精確だ。しかし、相手は数で圧倒している。聖騎士たちは連携してアーレンさんを取り囲み、一斉に攻撃を仕掛けていた。アーレンさんは一瞬で間合いを見極め、身体をしならせるように動かして攻撃をかわしていた。しかし、その動きにも徐々に疲労の色が見え始めていた。
「くっ……!」
アーレンさんの短い呻きが聞こえた。顔には汗が滲み、呼吸が荒い。それでも、彼は後退せずに立ち続けていた。ハレックさんを守るため、そしてエクリヴァムに記録を残すために。
息が詰まった。その姿を見た瞬間、わたくしの心が強く揺さぶられた。
目の前で記者が武力により追い詰められているという恐怖が、全身を貫き、手が震える。
わたくしは無我夢中で、両手を顔の前に持っていった。両の人差し指と親指で直角を作り、手首を捻って右の人差し指と左の親指、左の人差し指と右の親指とをくっつけ、長方形を作った。画角を誤らないよう左目を閉じ作る。
映写魔法の陣――術者の視界と指で、必要な映写範囲の指定を行う構え。瞬間を脳に記録するための動作。
(わたくしだって……わたくしだって、記者なのだから……!)
震える手が視界の端で揺れている。動揺が身体全体を支配していたが、それでもわたくしは記録を止めてはいけないと思った。誰にも聞かれぬよう、悟られぬよう、囁くように映写魔法の呪文を繰り返す。
その瞬間、アーレンさんの蹴りが聖騎士の兜に命中し、甲高い金属音が響いた。
しかし、聖騎士は怯むことなく剣を振り下ろす。アーレンさんは咄嗟に身を捻って避けたが、距離は確実に詰められていた。
指先が痙攣しそうになるのを必死に抑えながら、脳内に記録を刻み込む。わたくしは、ただ震える手を保ちながら、目の前の光景を記録し続けていた。
その時、目の前にいた白髪にハンチング帽の青年が、聖騎士たちに襲いかかった。その動きは、まるで風のように素早く、隙がなかった。
「そこをどけぇ!」
叫ぶと同時に、青年は前方の聖騎士に猛然と突進した。予想外の体当たりに、聖騎士は一瞬の隙を突かれ、バランスを崩す。その瞬間、青年は低く身を沈め、鋭く足を振り抜いた。足首を正確に狙った一撃に、聖騎士の体勢が崩れ、体が宙に浮かぶ。次の瞬間、背中から床に叩きつけられた聖騎士の鎧が鈍い音を立て、屋上全体に金属音が響き渡った。
(強い……!)
思わず息を呑んだ。
金属が空気を裂く音が響いた。彼が振り返る間もなく、聖騎士の剣が青年の脇腹を切り裂いた。青年の顔が一瞬だけ歪む。唇を噛み締め、苦痛を抑え込むように目を細めた。
だが、その傷口は、次の瞬間には塞がり始めていた。皮膚が繋がり、切れた肉が瞬く間に再生していく。青年は短く舌打ちを漏らした。眉間に皺を寄せ、イライラとした様子で脇腹を押さえる。
「ちっ、うっとおしいな……」
そう呟くと、青年は素早く体勢を立て直し、今度は前方の聖騎士に向けて突進した。低く沈み込むように接近すると、鋭く足を引っ掛け、相手の重心を崩す。聖騎士の体が揺れ、甲高い金属音を立てながら床に転がった。青年は素早く転身し、倒れた聖騎士にのしかかった。動きを封じるように両膝で肩を押さえ込み、手首を後ろ手にねじ上げる。
聖騎士が苦悶の声を漏らしたが、青年は一切の容赦を見せなかった。
だが、最初に転倒させられた聖騎士が上半身を起こし、クロスボウを構えていた。
「これで終わりだ、不死者め!」
クロスボウから矢が放たれる。空気を裂く音がし、矢は一直線に白髪の青年の腹部へと突き刺さった。
「ぐあっ……!」
白髪の髪が揺れ、目が見開かれる。その瞬間、矢の根元から赤黒い紋様が浮かび上がった。魔術の紋様がうねりながら広がり、矢の周囲に奇妙な光を放っていた。
(これは……魔術!?)
わたくしは目を見開いた。同時に、彼の髪がゆっくりと色を変えていった。
最初は、光の加減かと思った。だが、違う。白髪だった髪が、まるでインクに浸したように、徐々に根本からオリーブ色に変わっていく。
「な、なんだ、これ……」
青年が苦しげに呻いた。彼の腹部には深々と矢が突き刺さっており、その根元から血が溢れ出していた。血の色は濃く、重く、まるで止まることを知らないかのように流れ続けていた。
「う、ぐっ……くそっ……何だよ、これ……!」
青年が矢を掴み、引き抜こうとする。しかし、矢に触れた瞬間、彼の身体が痙攣するように震えた。赤黒い紋様がさらに光を増し、彼の身体を蝕んでいるように見えた。
わたくしの手は震えていたが、映写魔法の構えを崩さなかった。
両手で長方形を作り、画角を確認する陣を構えたまま、目の前の光景を脳内に刻み込んでいく。青年の髪がオリーブ色に変わり、血を流し続けている姿が、鮮明に脳裏に焼き付いた。
(何が……起きているの……?)
理解できなかった。ただ、青年の苦しむ姿が、目の前にあるという現実だけが鮮明に映っていた。
「セシル!」
突然突風が吹き抜け、枯草色の長衣が風に舞った。屋上の端から風に乗って飛び込んできたのは、以前にヴェルナードさんから聞いたことのある、元聖騎士のユアンさんだった。黒のくるくると毛先の巻いた髪をなびかせ、冷静な表情のまま青年に駆け寄った。
「セシル、しっかりして」
ユアンさんの声は落ち着いていた。彼は青年――セシルさんの腹に刺さった矢を見つめ、眉をひそめた。
「……これは、ライラと同じ……面倒なものを作りやがって」
ユアンさんの顔には焦りはなかった。ただ冷静に状況を分析しているようだった。彼は矢を掴み、その表面をじっと見つめた。
彼はセシルさんの腹に刺さった矢に手を伸ばし、慎重に柄を掴んで一気に矢を引き抜いた。血が噴き出すのを防ぐように手で傷口を押さえ、その目は鋭い集中を保ったままだった。
「応えたまえ、応えたまえ、水の精霊……癒しの力を」
ユアンさんの声が静かに響いた。次の瞬間、黄緑色の光がセシルさんの傷口に流れ込み、血が止まっていく。肉が繋がり、傷口が塞がっていく様子を、わたくしは呆然と見つめていた。
(……何、これ……?)
驚愕が胸を貫いた。見たこともない力だった。魔術とも違う、もっと自然で柔らかな光。ユアンさんは、それを当然のように使っている。
「くそっ……なんだよ、畜生!」
セシルさんが呻き声を上げ、顔をしかめた。苛立ちと困惑が混じった声だった。彼は明らかに動揺していた。先程、矢傷が塞がらなかったことに納得がいかない様子だった。
その時、ユアンさんが冷静な声で周囲に言い放った。
「……アストラル帝国の名のもとに宣言する」
彼の声が屋上全体に響き渡った。その声は冷たく、無機質で、情け容赦がなかった。聖騎士たちが動きを止め、一斉にユアンさんを睨みつける。
「ここにいるセシル・ラグナは、アストラル帝国の国民である。そして、彼は不当に拉致され、貴国によって囚われていた。アストラル帝国女王陛下の御命令により、我が帝国は自国民保護のため、正当な権利に基づき、ここに軍事介入を宣言する」
その瞬間、空気が凍りついた。
その言葉には、一片の揺らぎもなかった。事実を淡々と告げ、正当性を主張する冷酷な宣言。ユアンさんの目は鋭く、氷のように冷たい光を宿していた。
彼の宣言は容赦なく、絶対的な力を持って屋上に響き渡った。
「抵抗するのであれば、それはアストラル帝国に対する敵対行為とみなし、大陸盟約に基づき、必要最低限の措置を講じる」
ユアンさんの目は冷酷だった。聖騎士たちの顔が引きつり、誰もが言葉を失ったまま動けずにいた。わたくしは息を呑んだ。それは、圧倒的な権威を背後に感じさせる、冷酷なまでの正義の宣言だった。
だが、わたくしには、その意味が全く理解できなかった。
アストラル帝国。大陸盟約。
耳慣れない言葉が空気に漂う。屋上にいる誰もが、ユアンさんが告げた内容を理解していないようだった。聖騎士たちは動きを止め、顔を見合わせている。畏怖と困惑、戸惑いが混じった表情だった。息を呑む音が聞こえた。誰もが言葉を失っていた。誰も、何も理解していない。
ユアンさんは微動だにせず、冷酷な目で聖騎士たちを見据えていた。説明する気など微塵もない。ただ、事実を突きつけるかのように、静かに佇んでいる。
屋上には、不気味な静寂が漂っていた。遠くで燃え盛る炎の音だけが低く唸っている。
わたくしは、震える手で映写魔法の構えを保ったまま、屋上の光景を見つめていた。
足元には、エクリヴァムがあった。小さな魔道具が、カタカタと微細な振動を繰り返し、今までの言葉を忠実に筆記している。
ふと、ユアンさんとセシルさんを見ていたアーレンさんがエクリヴァムの横にしゃがみこんだ。彼はその動作を簡単に確認すると、静かに屋上の端に視線を向けた。何故か、彼の目には決意の色が宿っている。戦う意志ではない、何か別の覚悟を秘めた瞳に見える。彼は無言で立ち上がると、苦しげに脇腹を押さえるハレックさんに近づいた。
「どうする?」
アーレンさんのその言葉に、ハレックさんは膝を突いたまま苦笑いを浮かべた。顔色は悪く、血の気が引いているが、その目はまだ力強い光を放っていた。
「……なァ、たまには心中でもしようぜェ……悪くねェだろ、相棒」
その言葉に、わたくしの身体が震えた。喉が引きつり、息が詰まる。今、何を言ったのか――その意味を理解した瞬間、胸の奥が冷たく凍りついた。
アーレンさんは黒縁眼鏡の奥の目を細め、僅かに笑った。そして、躊躇うことなくハレックさんに肩を貸し、ゆっくりと立ち上がらせた。ハレックさんはアーレンさんに寄りかかりながら、それでも笑みを崩さなかった。
アーレンさんはハレックさんに肩を貸し、支えるようにゆっくりと屋上の端へと歩き出した。
ハレックさんの顔は蒼白だったが、その表情には不思議な安らぎがあった。彼は鼻で笑い、わざとらしく大きな声で言った。
「……まァ! 予定とは若干違ェが……問題ねェ! 概ね想定通りだ!」
アーレンさんはそれに何も言わなかった。ただ、肩を貸し続けたまま、目を閉じて微かに頷いた。
二人は、肩を寄せ合ったまま、屋上の端に立った。ゆっくりとこちらを振り返り、薄く微笑んでいる。
空は灰色に曇り、黒い煙が渦を巻いている。階下から時折漏れ出す炎の光が揺れ動き、彼らの影をこちら側に長く引き伸ばしていた。
その光景が、まるで絵画のように瞼に焼き付いた。
わたくしは、息を飲み込んだまま、言葉を失って立ち尽くしていた。そんなわたくしに向かって、ハレックさんが指差し言葉を投げかけてくる。
「おい! あんたァ……聖王国通信社の記者のねーちゃんだろォ? 撮っといてくれよなァ……俺の、俺たちの、最後の最後、『隠し味のスパイス』をなァ……」
ハレックさんが、わたくしを指差すその手で、ぐっと拳を握った。
そんな彼に肩を貸すアーレンさんは、じっと空を見上げていた。口元に薄い笑みを浮かべながら、静かに言葉を紡ぐ。
「……私たちは、この国がひた隠す真実を追った。魔術実験の犠牲者たちの苦しみを、誰も聞こうとしなかった声を記録した」
「俺たちは所詮、オカルト雑誌の記者だ。世間からは眉唾物だと笑われ、誰も信じやしねェ。だけどなァ……それでも俺たちは真実を追い続けた。何故なら、それがジャーナリズムだからだ」
ハレックさんは脇腹を押さえたまま、苦笑を浮かべた。痛みに顔を歪めながらも、その目には決意が宿っていた。
「だが、それがこの国にとっては都合が悪かった。だから、私たちは異端者にされ、消される運命になった。軍防卿ガルヴェインは直接、査問の為の拘束をすると、我々の編集部に襲撃に来たのだ。これはジャーナリズムの死と言っても過言ではない。権力が、武力で報道を潰しに来たのだ」
「俺たちは、救国の英雄の裏に隠された、化け物の素顔を暴こうとした。偽りだらけの舞台で、踊らされるのはいつだって民衆だ。この国を蝕む化け物どもは、虚構の英雄を作り出して、その裏に潜む犠牲者を隠してやがったんだ」
「私たちは知ってしまった。沈黙を選ぶことはできなかった。記者として、知らなかった振りをして生きることは、できなかったのだ」
アーレンさんはエクリヴァムを足元に見下ろしながら、目を細めた。それは、彼らの言葉を記録し続け、カリカリとスクロールに文字を刻んでいる。
「真実を伝える。それが、俺たちの仕事だ。たとえ俺たちの命が消えても、この言葉はいずれ誰かに届く。それが、ジャーナリズムの本質だ。……オカルト雑誌だってなァ、たまには嘘の中から拾い上げた真実を元に、記事を書くんだぜェ?」
ハレックさんは空を見上げ、口の端を僅かに持ち上げた。その彼の目には、どこか晴れやかで、吹っ切れたような光が宿っていた。
「世間の為、民衆の為だなんて、綺麗事を言うつもりは毛頭無い。記者としての本能がそうさせただけだ。真実を知ってしまったら、世間に伝えなければならないのだ。それが、記者という生き物だ」
「……俺たちが暴いたのは、英雄譚の裏に隠された、魔術実験の被害者だ。そして、それを隠蔽するために、俺たちは消されることになったらしい。……今逃走したところで、数日ばかりの延命しか出来ねェ。だったら、俺たちは、俺たちの死をもってこの真実を伝える。……権力に媚びず、支配に屈せず、真実を伝える。それが、俺たちの最後の誇りだ」
ハレックさんは薄く笑った。その笑みには覚悟が滲んでいた。
「そうだ。たとえ、命を奪われようとも、私たちは真実のみを信奉する。それが、ジャーナリズムだ」
アーレンさんは頷いた。その目には、既に迷いはなかった。
「俺たちの死によって、それが誰かに届くなら、それでいい。……さァ、ここは笑うところだぜェ、諸君。この国の正義を、笑い飛ばしてやるんだァ……」
「……願わくば、私たちの死が、誰かの怒りに火を点けることができますように」
ハレックさんの背中がわずかに動いた。彼はアーレンさんの肩に体重を預け、ふらつく足を支えられていた。風が吹き抜け、二人のジャケットの裾がはためいた。
二人の背中が、ゆっくりと傾いていく。わたくしの目には、それがスローモーションのように映った。空に向かって倒れ込むように、後ろへ、後ろへと――。
彼らの背中が屋上の縁を越えた瞬間、わたくしは思わず一歩前に出た。
――違う!
わたくしの胸の中で、何かが叫んでいた。これは、こんなにも静かで、こんなにも穏やかであってはいけない。彼らは、追い詰められて、命を絶とうとしているのに――。
彼らは、空を見つめたまま、静かに落ちていった。その顔には、安らぎのようなものが浮かんでいた。ハレックさんの唇が微かに動き、何かを呟いた。アーレンさんもまた、瞳を閉じ、穏やかな表情を浮かべていた。
そして――消えた。
――バンッ!
直後、鈍い音が地面から響いた。わたくしは、身体が凍りついたように動けなかった。画角を確認するポーズを取ったままの手が震えている。
(この人たちは、死なないはず……記録上の死のはず。なのに……)
頭の中が混乱している。演技のはずだ。記録上の死を偽装するための演出だと思いたい。オカルト雑誌「クロニクル・トレイル」の二人は、そういった死を偽装することに長けていると聞いたことがある。
だが、地面に叩きつけられた音は、あまりにも現実的だった。
足が震えた。それでも、わたくしは恐る恐る、屋上の縁に近づいた。喉が乾き、胸が締め付けられるような痛みが広がる。覗き込むことなんて、したくなかった。
でも――目を背けてはいけないと思った。
わたくしは、ゆっくりと身体を傾けて、下を覗き込んだ。
視界がぐらりと揺れた。地面が遥か遠くに見える。黒煙の隙間から見えるその地面に――二つの影が転がっていた。




