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093.俺が一人で戦えば

 甲高い金属音が部屋中に響き渡った。俺――ヴァリクは剣を構え直し、間合いを見極めるために一歩後退する。

 視界の端で、レオンハルト殿下が鋭い剣撃を繰り出した。聖騎士の胸元を抉る一閃。刃が肉を断ち、骨を砕く音が鈍く響いた。鮮血が空中に舞い、聖騎士の身体がくの字に折れ曲がり、そのまま後方へ吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる音が響き、身体は力なく床に崩れ落ちたまま動かなくなった。

 レオンハルト殿下は、その死体に目をくれることなく、次の敵へと向かった。二人目の聖騎士が動揺の色を浮かべ、剣を構える手が震えている。

 レオンハルト殿下は冷徹な目で相手を見据え、ゆっくりと間合いを詰めた。


「これ以上、王族たる我に剣を向けるのなら、容赦はしない」


 その言葉には凛とした威厳があった。脅しではなく、王族としての誇りと責任を背負った者の言葉だった。聖騎士の顔から血の気が引き、唇が震えた。

 レオンハルト殿下は剣先を相手の喉元に突きつけ、目を逸らすことなく見据えた。


「命を繋ぐために剣を下ろすのもまた、勇気である」


 聖騎士は剣を持つ手を震わせ、恐怖と迷いの色を浮かべていた。レオンハルト殿下の言葉に圧倒され、戦意を失った。


「……退け」


 短く言い放つと、聖騎士は剣を取り落とし、後退していった。レオンハルト殿下は、それを確認すると、背を向けることなく次の標的へと向かった。


 一方で、俺には余裕はなかった。

 俺は必死に剣を振るい、迫り来る聖騎士たちの攻撃を受け流していた。剣を横に薙ぎ払い、敵の剣先を外へと弾く。その瞬間、聖騎士の剣が俺の左肩に食い込んだ。

 痛みが襲いかかる。だが、これでいい。自分の身体を犠牲にして、相手の動きを止めることができれば、それで十分だった。不死の魔術式を刻まれたこの身体は、たとえ斬られても、死ぬことはない。

 聖騎士が驚愕の表情を浮かべる。俺は身体に剣が深々と突き刺さったまま、逆に剣を持った相手の腕を掴んで締め上げた。そのまま肩を回転させ、聖騎士の身体を宙に浮かせ、床に叩きつける。重い衝撃音が響き、剣がその手から転がり落ちた。

 俺は安堵の息を吐いた。相手の命を奪うことは、俺にはできなかった。相手を殺して無力化する方が楽だと分かっていても、それができない。

 次の瞬間、頭上から剣が振り下ろされた。咄嗟に身を捻ってかわすが、刃先が左頬を掠め、血が滲んだ。だが、そのまま懐に飛び込み、敵の胸元を拳で突き上げる。相手の息が詰まる音が聞こえ、聖騎士が苦悶の表情を浮かべながら膝を突いた。剣を取り上げ、柄で後頭部を殴り気絶させる。


「英雄ヴァリク、甘いな」


 レオンハルト殿下が冷徹な目で俺を見た。その瞳には、必要であれば相手を殺すことに何の躊躇もない覚悟が宿っている。彼にとって、敵は殺すべき対象であり、生かしておく価値はないのだ。


「殺さなければ、また襲ってくるぞ」


 分かっている。だが、できない。俺は、人を殺すことができない。それが、俺の弱さだ。


 あの日、何もできなかった。地獄のような戦場で、俺は何もできなかった。逃げることすら、できなかった。だからこそ、今、逃げることは許されない。だが――目の前のガルヴェインを前にして、戦い方が見つからなかった。


 ガルヴェインの戦槌がわずかに動くたび、空気が震える。あの一撃を受ければ、普通なら即死するだろう。俺は不死の魔術式が身体に刻まれているから、たいていの打撃なら耐えられる。だが――あの戦槌で頭を粉砕でもされたら、さすがに俺でも死ぬかもしれない。


 脳裏に浮かぶのは焦りと葛藤。

 セラフの聖槍は、今、手元にない。だから、心臓に刻まれた魔術を発動することができない。発動できれば、この身体を蝕む恐怖に抗い、心臓から指先に伝わる魔術の爆熱を操ることができるようになるのに――。

 だが、それを使うためのセラフの聖槍は、今ここにはない。

 つまり、俺は今、ただの人間として、この化け物と戦わなければならない。


 視界が歪んだ。熱気に揺れる炎の中に、別の光景が重なる。赤黒い大地、燃え盛る空、焼け爛れた死体の山。

 ――あの日、地獄を見た。


(俺は、この人が――ガルヴェインが大嫌いだ)


 記憶がよみがえる。それは、血と炎に染まった忌まわしい過去。今でも鮮明に脳裏に刻み込まれている、あの日の戦場の光景だった。



 ◆



 あの日、俺は軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーの初陣に連れて行かれた。

 謎の敵勢力による侵攻が始まり、戦場に駆り出された俺は、血と炎に染まった戦場に立っていた。目の前には無数の死体が転がり、焼け爛れた大地が広がっていた。

 耳をつんざく悲鳴、肉が焼ける臭い、吹き荒れる熱風――それは地獄の光景そのものだった。


 俺は不死の魔術式を刻まれた身体を持っているという理由で、ガルヴェインに連れられてきた。「いざという時の保険だ」と言われていたが、それがどんな意味なのかは分からなかった。

 不死身の身体を持つ俺が、肉盾くらいにはなるかもしれない。ガルヴェインは短絡的に、そう考えていたのだろうと思う。


 だが、戦況は悪化していた。ガルヴェインは作戦らしい作戦を立てることもなく、ただ突撃を命じていた。


「正面から叩き潰せ!」


 それが、彼の唯一の戦術だった。聖騎士たちは次々に森の中に突撃していったが、逆に反撃を受けて多くの聖騎士が倒れていった。


「……無様なものだな」


 ガルヴェインの冷たい声が耳に届いた。彼は後方の陣の中央で、倒れた聖騎士たちを見下ろしていた。そこには、何の感情もなかった。


「役立たずの聖騎士など、生きている価値はない」


 ガルヴェインは油壺を手に取り、まだ息のある聖騎士の上に無造作にぶちまけた。聖騎士が苦痛に喘ぎながら、震える声で叫んだ。

 しかし、ガルヴェインは何の躊躇もなく、火を放った。次の瞬間、油が燃え上がり、聖騎士は炎に包まれた。焼け爛れる肉の臭いが立ち上り、絶叫が耳をつんざいた。炎の中で、聖騎士たちはもがき苦しみ、断末魔の叫びを上げ続けた。


「やめろ……やめてくれッ!」


 思わず俺は叫んだ。だが、ガルヴェインは振り向きもしなかった。ただ冷酷な目で、燃え上がる部下を見つめていた。そこには何の感情もなかった。


「無駄に苦しませるな。それが、せめてもの情けだ」


 ガルヴェインの声は冷たかった。まるで人間の命など、どうでもいいと言わんばかりの口調だった。俺は震えた。恐怖と無力感に支配され、何もできなかった。ただ、立ち尽くすことしかできなかった。


「不死の身体に感謝することだな。お前の苦しみは一瞬なのだから」


 ガルヴェインの言葉が耳に突き刺さった。それは、俺を救うための言葉ではなかった。ただ、冷酷に事実を告げるだけの声だった。


(こいつは……化け物だ)


 恐怖に震える俺の目の前で、ガルヴェインは油壺を投げ捨てると、炎に背を向けた。後には、焼け爛れた死体と、焦げ付く臭いが残った。


「おい、まだ生きている奴はいるか?」


 炎が燃え盛る中、俺は必死に倒れた聖騎士たちを探していた。何人かの聖騎士がうめき声を上げながら、炎の中でもがいていた。


「待ってろ、今、助ける!」


 俺は炎の中に飛び込み、焼け爛れた死体の山を掻き分けた。熱気が襲いかかり、皮膚が焼けるように痛んだが、それでも俺は進んだ。

 瀕死の状態で横たわる聖騎士を引きずり出し、肩を貸して歩かせた。だが、息は弱々しく、身体は重かった。俺は必死に声をかけ続けたが、聖騎士は力なく目を閉じた。腕の中で、命が消えていくのを感じた。


「どうして……どうして、こんな……」


 俺は震える手で、死んだ聖騎士の瞼を閉じた。その手には、家族への手紙と小さなペンダントが握られていた。俺はそれを取り上げ、静かに胸ポケットに仕舞った。遺品を持ち帰ることが、せめてもの弔いになると信じていた。

 だが、それでも救えたのはごく僅かだった。ほとんどの聖騎士は、炎の中で無惨に死んでいった。俺は無力だった。不死の身体を持っていても、救うことはできなかった。ほとんど役に立つことはなかった。


「こんなの、あんまりだ……」


 涙が滲んだ。悔しくて、情けなくて、拳が震えた。俺は無力だ。どれだけ血を流しても、俺には何もできない。

 ガルヴェインを見た。炎の向こう側で、彼は無表情に戦場を見下ろしていた。そこには、何の感情もなかった。自分の部下たちが無惨に死んでいく様子を、ただ冷酷に見ているだけだった。

 俺はガルヴェインの前で跪いて懇願した。涙を拭うこともなく、必死に頭を下げた。喉が詰まり、言葉が途切れ途切れになる。震える肩を抑えることができなかった。


「これからは、俺が……俺が、一人で前線を維持する! 全ての敵を退けるから! だから、これ以上……無駄死にはさせないでくれ!」


 ガルヴェインは俺をじっと見下ろしていた。表情には微塵の感情も浮かんでいない。彼の瞳には、ただ冷酷な光が宿っているだけだった。


「……腰抜けのお前に、殺せるわけがない」


 鼻を鳴らすと、ガルヴェインは肩をすくめ、興味を失ったかのように背を向けた。俺はその背中を見上げたまま、動けなかった。

 喉が焼けつくように痛む。悔しさで唇を噛み締めたが、何も言い返せなかった。膝が震え、地面に手をついて崩れ落ちる。土埃が舞い、傷ついた指先が血に濡れた。俺は拳を固く握りしめた。だが、全身が痺れたように力が入らなかった。

 無駄死にを繰り返すだけの戦場で、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。




 それから数日後のことだった。戦場から戻った俺は、疲れ果てた身体を引きずるようにして、仮の寝床に倒れ込んでいた。傷は癒えず、心も重く沈んでいた。助けられなかった者たちの叫びが、耳の奥でこだまする。無力感と悔しさに苛まれ、眠ることもままならなかった。

 だが、そんな俺の元にエリザベスが現れた。彼女は何故か嬉しそうに微笑んでいたが、その目に感情はなく、まるで道具を検分するような冷たさがあった。


「良いことを思いついたのよ、ヴァリク。あなた……戦場で戦いたいそうね? そんなあなたに、贈り物があるの。ウフフ、我ながら良いことを思いついたものだわ」


 そう言い放つと、エリザベスは俺の背中に冷たい手を添えた。次の瞬間、焼かれたペン先が肌を焦がす感触が走った。


「……ッ!」


 背中に魔術式を刻まれる灼熱の痛み。激痛が脊髄を駆け上がり、全身が痙攣した。目の前が白く霞み、意識が遠のいていく。喉が塞がれたように息が詰まり、苦痛だけが脳を支配していく。

 意識が途切れる寸前、エリザベスの冷たい声が耳元に響いた。


「これからは、あなたは英雄として生きるのよ」


 その言葉の意味が理解できるはずもなかった。俺の身体が冷たくなっていく感覚の中で、意識は闇に飲み込まれていった。




 ――それからしばらくして、俺は再び戦場に駆り出された。


 エリザベスに言われたとおりに、胸にセラフの聖槍を突き刺して、心臓に刻まれた魔術式を発動した。

 普段と違って、視界が白黒に明滅し、世界が歪むような感覚に襲われた。だが、不思議と心は静かだった。怖心が消え去り、冷徹なまでの平静が胸に広がっていた。痛みも、恐怖も、何も感じなかった。ただ、戦うことだけが頭の中に刻み込まれていた。


 目の前には、異形の姿をした魔獣がいた。赤い目を輝かせ、牙を剥いて襲いかかってくる。その姿は醜悪だった。俺は反射的に白銀に輝く剣を構え、魔獣の一撃を受け流した。腕に重い衝撃が走り、骨が軋む音が聞こえた。


(戦える……!)


 剣を握り直し、俺は魔獣に向かって突き進んだ。魔獣は目を見開き、唸り声を上げたが、俺は一瞬の隙を突いて刃を突き立てた。鋭い感触が手に伝わり、魔獣の身体が弾けるように崩れ落ちた。その感触は、生々しく、重く、冷たかった。血が吹き出し、鉄の臭いが鼻を突いた。だが、俺はためらうことなく、次の魔獣へと向かった。


 目の前にいるのは魔獣だ。人間ではない。だから、斬ることにためらいはなかった。

 俺は剣を振り続けた。何度も、何度も。魔獣たちは次々に血を撒き散らして倒れていった。赤い目を見開き、断末魔の叫びを上げながら、地面に転がっていく。

 足元には、無数の死体が転がっていた。だが、その時の俺には、それが何を意味するのかを理解することはなかった。ただ、斬り続けることしかできなかった。


 そして、すべてを斬り終わった時、俺は戦場に立ち尽くしていた。赤黒い空の下、燃え盛る炎が背後で唸りを上げ、黒煙が空へと立ち上っていた。足元には、転がる死体の山。血が大地を赤く染めていた。だが、その時の俺は、ただ静かに剣を見つめていた。


「……俺が、一人で戦えば……」


 呟くように言葉が漏れた。俺が一人で戦えば、他の聖騎士たちは無駄死にしなくて済む。だから、俺は戦った。誰も無駄死にさせないために、俺は斬り続けたのだ。

 ――俺は斬り続けた。無駄死にを減らすために、俺が一人で戦えば、それでいいのだと信じて。




 戦場から戻ると、軟禁場所の邸宅にダリオンが待っていた。彼は聖騎士の格好をして、聖王国教会本部の中のこぢんまりとした邸宅で待っていた。


「引き続き監察官として、ヴァリクを見ていろと指令を受けた」


 ダリオンはそう言って、俺を見つめた。ダリオンは変わらず、酷く悲しく、そして優しい目をしていた。

 穏やかな空気が流れる檻に囲まれた邸宅。だが、それは仮初の平穏だった。その平穏が崩れるのは、時間の問題だと分かっていた。


 俺は戦場で化け物になった。あの血と炎の中で、人間としての何かを失ったのだ。

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