092.炎の中の対峙
積み上げられた書類の山を前に、アーレンとハレックは睨み合うように立っていた。対峙するのは、黒い軍服を纏い、冷徹な眼差しを湛えた男——軍防卿ガルヴェイン・ストラグナー。
「貴様らの異端行為、ここで終わりだ!」
重々しい声が部屋に響き、冷たい圧力が空気を支配した。まるで鋼の刃が喉元に突きつけられたかのような緊迫感が、空間全体を凍りつかせる。
ガルヴェインは鋭い目つきで二人を見据えた。その眼光は獲物を逃さない猛禽のそれに似ており、まるで感情がないかのように冷酷だった。
彼の手に握られた書状が、乾いた紙の音を立てながら振りかざされる。その動きは儀式的で、まるで死刑宣告を読み上げる処刑人のようだった。
「王命により、クロニクル・トレイル編集部は解体。書類を即刻引き渡せ! 関係者は全員、拘束の上、査問を受けるものとする。従わぬ場合は、即刻、異端者とみなす!」
アーレンは冷静な口調で言った。
「なるほど。だが、その書類が無くなったら、どうするつもりされるおつもりで?」
ガルヴェインの眉が一瞬だけ動く。その瞬間を見逃さなかったアーレンは、素早くハレックに視線を送った。ハレックはニヤリと笑い、荒々しい声で言い放つ。
「火の用心ってのは、大事なことだぜェ!!」
そう言うなり、ハレックは部屋の端にあったオイル缶を掴み、書類の山へ豪快にぶちまけた。それとほぼ同時に、アーレンは無言のままポケットからオイルライターを取り出し、静かに呟いた。
「……さようなら、軍防卿殿」
ライターは弧を描いて書類の山の中へと転がり落ちた。ほんの一瞬の静寂が訪れた。
次の瞬間、轟音とともに炎が爆発的に広がった。まるで獰猛な獣が勢いよく飛びかかるように、炎はオイルに反応し、一瞬で部屋全体を赤々と照らし出した。熱風が吹き荒れ、空気が焼ける臭いが鼻を突く。
書類の山が炎に包まれ、赤々と燃え上がった。火は瞬く間に燃え広がり、乾いた紙が焦げて巻き上がる。灰が渦を巻き、部屋全体が熱と煙に包まれていく。
「貴様ッ!」
ガルヴェインが低く唸り、聖騎士たちが一斉に動き出した。
「ハレック、行くぞ」
アーレンは素早く窓を開けた。それと同時に、机に無造作に置かれていたエクリヴァムを手に取り、素早く畳むと、勢いよくポケットに突っ込んだ。そのまま窓枠に足を掛け、外壁に設置された非常用の梯子を見つけると、躊躇なく身体を乗り出して登り始めた。
ハレックも後を追おうと窓枠に手を掛けた瞬間、鋭い痛みが腹部を貫いた。
「ぐっ……!」
炎を搔い潜って走り寄ってきた聖騎士の一人が、無表情のまま剣を突き立てていた。血が脇腹から噴き出し、ハレックの視界が一瞬暗転する。
「いってェ! ふざけんなクソがァ……!」
アーレンは片手で梯子にしがみついたまま、もう片方の手をハレックに差し出した。
「掴め、ハレック」
苦悶の表情を浮かべたハレックが一瞬だけ躊躇ったが、すぐにアーレンの手を強く掴んだ。
アーレンは歯を食いしばりながら、一気にハレックの身体を引き上げた。梯子が軋む音を立て、二人の体重がかかる。
アーレンは梯子の途中で身体をひねり、ハレックを先に行かせるために梯子の端に寄った。
「先に行け、ハレック!」
ハレックが脇腹を押さえながら、梯子を一段一段と登っていくのを確認する。その背中に視線を向けながら、アーレンは自分の背後に気配を感じ取った。
斜め下を見ると、窓枠から聖騎士の顔が覗いた。鋭い目つきでこちらを睨みつけている。
次の瞬間、アーレンは片手で梯子を掴み、もう片方の手で身体をしならせるように回転させた。しなやかで流れるような動きは、まるで空中を舞うかのように軽やかだった。
「邪魔だ」
言葉と同時に、両脚を揃えて勢いよく蹴り込んだ。重い衝撃音が響き、アーレンの革靴の底が聖騎士の顔面に叩き込まれた。窓枠に衝撃が走り、聖騎士の身体がバランスを崩して後方へ弾き飛ばされる。
アーレンはさらにその反動を利用して、一気に身体を引き上げた。まるで鉄棒から跳び上がるかのような動作で梯子を駆け上がり、ハレックの後を追った。
梯子が軋む音を立てる中、二人は建物の屋上を目指して必死に登っていった。
◆
街の一角で黒煙が立ち上っていた。空に向かって螺旋を描くように揺れながら、黒い煙が不吉な影を落としている。
「……まさか」
レオンハルトの顔が険しく歪んだ。嫌な予感が胸を締め付ける。視線の先に見えるのは、クロニクル・トレイル編集部の方向だった。
「行くぞ、セシル」
短く言い放つと、レオンハルトは迷うことなく駆け出した。セシルがすぐに後を追い、二人は人混みをかき分けるようにして進んだ。
炎の気配が近づくにつれて、熱気が肌を刺すように強くなった。耳をつんざくような割れたガラスの音、木材が燃える独特の臭いが鼻を突いた。編集部のある建物の四階からは既に黒煙が噴き出しており、内部から赤い炎が見え隠れしていた。建物の外階段には何人かの聖騎士が剣を構えて入口を包囲しているのが見える。
「……遅かったか」
レオンハルトが低く唸った。
その時、聖騎士たちの一部が屋上に向かって移動を始めた。セシルはそれを目ざとく見つけ、軽く顎をしゃくった。
「あいつら、何か隠してるな。俺、見てくるわ」
「気をつけよ」
レオンハルトの言葉に、セシルは片手を軽く振り、ひょいひょいとした軽快な動きで屋上への階段に向かった。
自分たちの後ろから、ハンチング帽の男が階段を駆け上がってくることに気付いた聖騎士たちが、剣を構え、次々と襲いかかってくる。セシルは体を翻し、攻撃を避け続けた。剣先が頬を掠め、鋭い痛みが走る。脇腹に一撃を受けた瞬間、セシルの表情が一瞬だけ歪んだ。
「……チッ、痛ぇな」
苛立ちを押し殺すように呟くと、セシルはそのまま体を捻って勢いをつけ、脇腹を抑えたまま肩からぶつかるように体当たりを仕掛けた。
「邪魔なんだよッ!」
体当たりされた聖騎士の身体がバランスを崩し、階段から転げ落ちていった。激しい衝撃音が響き、踊り場まで転がり落ちる音が遠のいていく。
セシルは脇腹の痛みを堪えながらも、さらに上へと駆け上がった。
不死の魔術式を刻まれたセシルは、どれだけ斬られても怯むことはなかった。血が流れているのに、動きは鈍るどころかむしろ軽やかになっていく。
一方、レオンハルトは正面から突入を決断していた。階段を駆け上がろうとした瞬間、聖騎士の一人が行く手を塞いだ。剣を振りかぶり、狙い澄ました斬撃が迫ってくる。
だが、レオンハルトは微動だにせず、相手の間合いに飛び込むようにして接近した。剣が空を切った瞬間、聖騎士の腰に両腕を回し、力強く身体を反転させた。体重を利用した見事な投げ技。聖騎士の身体が宙を舞い、階段の壁に叩きつけられた。鈍い衝撃音が響き、聖騎士は階段の脇に崩れ落ちた。
レオンハルトは素早くその場に跪き、聖騎士の腰に帯びられていた剣を抜き取った。鋭い音を立てて剣が鞘から抜け、冷たい輝きを放った。
「これで、ようやく戦える」
手に馴染む重さを確かめるように剣を握り直し、レオンハルトは険しい目つきで階段を睨みつけた。
その直後。
レオンハルトとセシルを追ってきたカミラとヴァリクは、建物に到着するや否や、外階段を一気に駆け上がった。煙が立ち込める中、足元に倒れる聖騎士を避け、息を切らしながら編集部がある四階に到達する。
その瞬間、カミラの視線が屋上へ向かう複数の聖騎士を捉えた。
「ヴェルナードさん、わたくしは上を確認してきます!」
「お願いします!」
カミラは素早く決断し、屋上に向かって駆け出した。
ヴァリクは短く頷くと、迷わず四階の扉に飛び込んだ。
「レオンハルト殿下!」
煙をかき分けながら、ヴァリクは視界を確保する。部屋の中央にはレオンハルトが剣を構えていたが、その背後に影が迫っていた。一人の聖騎士が剣を振りかぶり、レオンハルトに斬りかかろうとしていた。
ヴァリクは一瞬の判断で身体を捻り、勢いよく駆け出して聖騎士の背後に迫った。
間に合った。
ヴァリクは腕を振りかざし、聖騎士の脇腹に肩をぶつけるように突っ込んだ。そのまま勢いを殺さず、体重を乗せて聖騎士の身体を肩口に乗せ、重心を低くして前方へと投げ飛ばした。
聖騎士の身体が宙を舞い、床に叩きつけられる。鎧が重々しい音を立て、床板が軋んだ。
聖騎士が呻き声を上げて動けなくなったのを確認し、ヴァリクは素早くその腰に帯びられていた剣を抜き取った。
「すいません、遅くなりました。大丈夫ですか?」
ヴァリクは腕に血が滲んでいるのも構わず、レオンハルトの隣に立った。レオンハルトは剣を構え直し、わずかに頷いた。
「問題ない。だが、そいつは厄介だ」
レオンハルトの視線の先には、戦槌を肩に担いだ軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーが立っていた。重厚な甲冑を纏い、その巨体は部屋の空間を圧倒するほど威圧感に満ちている。肩に乗せた戦槌が微かに揺れ、重さを誇示するかのように床板が軋んだ。
煙が渦を巻き、赤い炎が背景を照らし出す。その中で、ガルヴェインの額には青筋が浮かび、赤々と燃える瞳がヴァリクに突き刺さった。
「貴様……顔は違うが……やはりこの編集部に関わりがあったか、ヴァリクッ!」
その声には激しい怒りが滲んでいた。低く唸るような声が部屋中に反響し、燃え盛る炎の轟音と共鳴して耳に響く。
戦槌がゆっくりと肩から下ろされ、ガルヴェインの全身に力がみなぎった。
「お前だけは……この儂が直々に、この手で捕らえるか、殺すかしてやる! お前らを不死の戦士だと、あの魔女はのたまうが……頭と胴体を完全に切り離してしまえば、死ぬのを知っておるわ!」
怒声が爆発した瞬間、部屋全体が震えた。まるでその怒気だけで空気が揺れ動いたかのような錯覚すら覚える。
ヴァリクは剣を構え直し、仮面越しにガルヴェインを睨み返した。顔は別人に見える精巧な仮面を被っているが、相手は体格を見ただけで正体に気付いていた。隠すことなど、初めから不可能だったのだ。
ヴァリクは、薄皮のように顔に張り付くその仮面を引き剥がした。手のひらには汗が滲み、無意識に喉が渇いてごくりと唾を飲み込んでいる。
緊張感がヴァリクの全身を包み込み、筋肉がこわばっていた。
レオンハルトが短く笑い、剣を構え直した。だが、その目には緊張が滲んでいた。
「まさか、軍防卿直々にお出ましとはな。貴様もずいぶんと、暇であるな?」
挑発するような口調だったが、その声には微かに張り詰めたものがあった。レオンハルトもまた、この相手の恐ろしさを肌で感じているのが明らかだった。
ガルヴェインは鼻を鳴らし、冷酷な笑みを浮かべた。戦槌が炎の赤い光を反射し、鈍い輝きを放つ。その目は獰猛な猛禽のように鋭く、ヴァリクとレオンハルトを交互に見据えていた。
「殿下よ。姉上の替え玉にすらなれない、お飾りの殿下よ。お前がどれだけ画策ごっこしようとも、最初から殿下に用意された椅子は無いのだ。……英雄共々、この手で始末してくれるわ!」
怒号と共に、ガルヴェインは戦槌を高く掲げた。その動きに合わせて、ガルヴェインの背後で剣を構えていた聖騎士たちが、ヴァリクとレオンハルトを取り囲むように前進してきた。
炎の赤い光が剣の刃に反射し、揺らめく影を壁に映し出す。
ヴァリクは剣を構え直し、レオンハルトと共にガルヴェインを挟み込むように位置を取った。視界の端で、炎が轟音を立て、床板が焦げて煙が巻き上がる。
背後には扉があり、逃げ道はある。だが、この男を前にして逃げることは許されない。ここで戦わなければならない。
「行くぞ、ヴァリク!」
レオンハルトの声が響く。ヴァリクはそのレオンハルトの声に、小さく頷いて返した。
緊張感が極限に達し、静寂が訪れる。一瞬の無音が、世界全体を包み込んだかのような感覚に陥る。
次の瞬間、ガルヴェインの戦槌が轟音を立てて振り下ろされた。激しい衝撃波が部屋全体を揺るがした。
炎が唸りを上げ、床板が悲鳴を上げて軋む。吹き荒れる熱風が、空間を歪めるかのように揺らめいた。
そして、戦いの幕が切って落とされた。




