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088.マルグリット・スフォルツァ

 カリストリア聖王国中央医院の長い廊下を、俺――エドガー・ヘイワードは足早に進んでいた。高い天井に反響する靴音が、薄暗く静まり返った医院内に響く。窓の外はすでに夕暮れを迎えており、霞がかった光が廊下をぼんやりと照らしている。

 数日前からいくつかの医院に問い合わせを続け、ようやく取材目的の人物がこの医院にいることを突き止めた。そして今日、その取材目的の人物――マルグリット・スフォルツァへの取材のため、ここへ来た。

 かつて、ダリオンさんと共にエリザベスの研究に携わっていた彼女は、今や精神を病み、中央医院の隔離棟で暮らしているらしい。俺はこれまでに様々な情報提供者と接触してきたが、今回ばかりは勝手が違った。相手は正気を失い、世界を正常に認識できていない可能性が高い。


(まともな取材になるかどうかも怪しいな……)


 それでも、彼女がエリザベスの研究に深く関わっていたことは事実だ。何かしらの情報を引き出せれば、これまでの取材結果を補強する重要な証拠となるかもしれない。

 医院の奥にある扉の前で立ち止まると、付き添っていた医師が静かに口を開いた。


「患者の容体は非常に不安定です。負担のかかる話題は控えていただきたい。彼女の精神は脆く、何かの拍子で急激に混乱することがありますから」

「承知しています」


 俺は短く答えた。ここまで来て引き下がるつもりはない。医師が小さくため息をつくと、そばに控えていた看護師に合図を送り、扉が静かに開かれた。

 病室の中は、外の光が届かず、薄暗くひんやりとしていた。白い壁と簡素なベッド、それに小さなテーブルと椅子が置かれているだけの、味気ない空間だった。そして、部屋の奥――窓際に座る一人の女性。


 マルグリット・スフォルツァ。


 彼女はやせ細った身体を椅子に預け、壁の一点を見つめていた。顔色は青白く、ブロンドの髪は乱れ、指先はわずかに震えていた。そして何より、彼女の視線は宙を彷徨っていた。


「……光が黒いの……違う、白? でも音が……どこかで水が……落ちる……」


 ぼそぼそと、何かを呟いている。意味を成さない言葉の羅列。俺が近づくと、彼女は微かに身じろぎしたが、それでも視線を壁から外さなかった。


「マルグリット・スフォルツァさんですね」


 俺は静かに声をかける。しかし、彼女はすぐに反応しない。


(耳が聞こえていないのか? それとも、俺の声を正しく認識できていないのか……?)


 もう一度声をかけようとしたその時――彼女の唇が微かに動いた。


「……あなた……誰……?」


 目の焦点が合わないまま、彼女は震える声で問いかけた。

 俺はゆっくりと空いた椅子を引き、彼女と同じ目線になるように座る。


「エドガー・ヘイワードです。記者をしています。あなたに話を聞きに来ました」


 マルグリットは何かを考えるように、ぼんやりと天井を見つめる。次の瞬間、彼女は小さく首を傾げた。


「話……聞く? でも……何を?」


 言葉を選びながら、俺は静かに口を開いた。


「エリザベス・クロフォードの研究について。あなたが携わっていた頃のことを教えてほしいんです」


 マルグリットの指が微かに震え、彼女の表情がわずかに歪む。


「エリザベス……彼女は……」


 唇が震え、か細い声が漏れる。彼女の震える指先が、膝の上で微かに動いている。唇がかすかに開閉し、喉の奥で言葉が詰まるような音が漏れていた。焦点の定まらない瞳は、まるで過去のどこかに取り残されているように見える。


「私は……あの人を……間違えていた……」


 その言葉を最後に、マルグリットは壁を見つめたまま、何かを呟き続けた。俺は彼女の言葉を反芻しながら、その真意を探るべく、静かに問いを投げる。


「エリザベスの……何を間違えていたんですか?」


 マルグリットの目が揺れた。彼女は震える指で自分の腕を擦るように抱きしめると、消え入りそうな声で答えた。


「最初は……ただの研究だった……」

「研究?」

「ええ……最初は……ただの理論……生命の……」


 俺の背筋が粟立つ。


「生命の……?」

「生命を……生み出す……再構築する……そんな研究だった……」


 マルグリットの目は焦点を結ばず、どこか遠くを見ているようだった。


「それが、どうして人体実験に?」


 マルグリットは怯えたように首を横に振る。


「分からない……気づいたときには、もう……研究は違うものになっていた……創り出した後から……おかしくなった……」


 俺は彼女の言葉を噛み締める。生命の再構築――それが、人体実験に繋がった。彼女はそう説明したいのかもしれない。


「エリザベスが……何かを創ったんですね?」


 マルグリットは、小さく震えながら唇を噛んだ。


「分からない……私は……何を創っていたのか……知らない……!」

「知らない?」

「魔術式を書いただけ……理論を整えただけ……楽しかった……だけど……気づいた時には……もう……」


 彼女は髪を乱し、膝を抱えるように縮こまった。


「……あの人は……まるで、神にでもなろうとしていたみたいだった……王も逆らえなかった……」


 俺は息を呑む。

 彼女の言葉の端々から伝わるのは、恐怖と絶望――まるで、得体の知れない存在に触れてしまったかのような、圧倒的な無力感だ。

 王が逆らえなかったということは、エリザベスが何かしらの決定的な力を持っていたということになる。だが、それは単なる知識や権威といった類のものではないはずだ。

 俺は眉をひそめる。


(エリザベスの研究が、ただの医術の魔術研究の発展形だったとは思えない……)


 彼女の関与する魔術実験は、異常な領域に達していた。しかし、王がそれを黙認せざるを得なかったのは、単に彼女を制御できなかったからなのか? それとも、彼自身が何らかの理由でエリザベスを切り捨てることができなかったのか――?

 王も逆らえなかった――マルグリットが呟いたその言葉が、頭の中で反響する。


(王がエリザベスに弱みを握られていた……?)


 おそらく、エリザベスは、王にとって致命的な何かを握っていた。だが、それが何なのかまでは分からない。単にエリザベスが王の秘密を知っていたのか、それとも、彼女の研究の成果が王と深く関わっていたのか――そこまでは、現時点では推測することしかできなかった。

 非人道的な魔術実験がここまで長く続けられてきたのも、王が何らかの形でエリザベスの研究を容認していたからなのか? いや、それとも――容認せざるを得なかったのか?

 俺は思わず拳を握る。

 何にせよ、エリザベスがただの研究者ではなく、カリストリア聖王国の根幹にまで食い込んでいることは間違いない。俺たちが探るべきものは、彼女の過去、そして彼女が何を創り出したのか――それに尽きる。


「私は……間違えていた……全部言って、全部終わらせればよかった……」


 マルグリットの瞳には、深い後悔の色が滲んでいた。

 彼女は、研究の本質を知らなかった。ただ、それが恐ろしいものに変質していったことだけは分かっていた。そして、それを止めることができなかった自分を悔いているのかもしれない。

 エリザベスは、何かを創った。しかし、それが何なのかは、マルグリットも知らないらしい。


「……あの人は、人ではなかった……」


 俺の心臓が跳ねた。


「エリザベスが……人ではなかった?」

「違う……違う……彼女は……人だった……でも……私の知っている人じゃなかった……」


 マルグリットは喉の奥で嗚咽を漏らした。


「もう……終わりにしなくちゃ……」


 突然、マルグリットが震えながら顔を上げ、俺の方を見た。焦点の合わない目は虚空をさまよい、声はひび割れている。


「全部……全部、燃やしてしまえばよかった……私の手が、あんなものを書かなければ……! 違う……書いたのは私じゃない……違う、私……違う、違う……私……私?」


 眉をひそめる俺を見ているのか、それとも全く別の何かを見ているのか、彼女の目は揺れている。


「だって……あの人は……あの人は……ッ!」


 言葉が途切れ、マルグリットはガクガクと頭を振った。


「違う! 違う違う違う! 消えた、消えたのに、戻る! でも白い……白いのに、黒い! あの人は……あの人は……誰……? 誰……? 私は……止められなかった……! 止めた? いや、見た……見てた……見てたのに、何も言わなかった……! だって……!」


 涙を流しながら、彼女は嗚咽混じりに叫ぶ。指が痙攣し、無意識に掻きむしるような動きをする。


「王も……誰も……誰も……止めてない……? でも、終わる……でも、終わらない……!」


 彼女の声が病室の壁に反響する。

 俺は、それ以上の言葉を引き出せる状況ではないことを悟った。


「今日は、ありがとうございました」


 マルグリットは、かすかに頷いたが、俺の顔を見ようとはしなかった。俺は静かに病室を後にした。




 カリストリア聖王国通信社に戻ると、ロベリアとトーマス編集長が机を囲んでいた。


「エドガーさん、どうでしたか?」


 ロベリアがすぐに尋ねる。俺は深く息を吐き、机の上にメモ帳を置いた。


「……エリザベスの研究は、最初は『生命の再構築』だったらしい、ということは聞き出せた」


 二人の表情が険しくなる。


「生命の再構築……?」

「だが、マルグリットは途中で研究の方向が変わったことに気づいた。そして、何が創られたのかは分からないと言っていた」


 編集長が腕を組む。


「……何かを創ったのは間違いないんだな?」

「ああ。そして、それを創ったのが王の命令だった可能性がある。詳しいことは分からないが、マルグリットは『王はエリザベスに逆らえなかった』と言っていた。おそらく、王はエリザベスに弱みを握られてる。それで、王はエリザベスに絶対的な権限を与えた。そして、彼女は好き勝手に研究を続けた……ってとこのようだ」


 編集長が沈痛な表情を浮かべる。


「……王が何かを隠しているというわけか」

「可能性は高いぜ」


 俺は机を指で叩きながら、頭の中で情報を整理する。

 エリザベスの研究は、最初は『生命の再構築』だった。エリザベスは何かを創った。だが、それが何なのかは分からない。実験は、途中から人体実験へと移行した。王はエリザベスに逆らえず、彼女に自由を与えていた。


「……記事にはできそうにないな」


 編集長が、静かに言った。俺は頷くしかなかった。

 俺と編集長の顔を交互に眺めていたロベリアが、口を開いた。


「証拠が足りない……ということですかね?」

「足りないというより、曖昧すぎる。記憶が混濁している証言だけでは、まともな記事になりそうもない。これだけ曖昧じゃ、告発記事の補強としても使えそうにないな」


 編集長の言葉に、ロベリアは小さくため息をついた。


「王を探るのも無理ですもんね……あまりにも話が大きすぎる……」

「そうだな。話を聞く限り、結局、王が何をしたのか、マルグリット本人も分かっていなかったみたいだしなぁ」


 俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。ここまで踏み込んだ取材をしておいて、記事にできないというのは、皮肉な話だ。


「まぁ、取材の成果がゼロってわけじゃない。エリザベスの研究が、少なくとも最初から人体実験を目的にしていたわけじゃなかった、っていうのは重要な示唆になるだろう……すぐには、どうにも出来んが」


 編集長が苦笑しながら肩をすくめる。俺も、薄く笑うしかなかった。

 それでも、無駄にはならない。断片的な情報でも、いつか繋がる時が来る。そう心の中で結論を出すしかなかった。

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