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087.それぞれの動向

 ノルドウィスプの朝は、いつもと違う張り詰めた空気に包まれていた。広場の中央には、軍防卿の派遣した聖騎士部隊が陣取っており、周囲では農夫たちが不穏な視線を向けていた。

 農地卿アティカス・ヴァレンフォードは、怒気を孕んだ足取りで聖騎士たちの前に進み出た。彼の顔には、抑えきれない苛立ちが滲んでいる。


「貴様ら、一体何のつもりだ!?」


 声が広場に響く。のうたちもその怒声に呼応するようにざわめき立った。


「ザフラン様をここに駐留させるだと? それだけならまだしも、我が愛すべき農夫の一人が『異端の疑い』で捕縛されたと聞いた。説明せよ!」


 アティカスの視線の先に立つのは、聖騎士部隊の指揮官を務める男だった。鋼の鎧に身を包み、冷静な表情を崩さずに農地卿を見据える。


「農地卿閣下。捕縛された者は、国法に則り異端の疑いで拘束したまでのこと。聖騎士団は王の名の下に秩序を維持するためにここにいるのです」

「秩序維持だと? バカも休み休み言え!」


 アティカスは拳を握り締め、血管が浮き出るほどの勢いで叫んだ。


「そもそもザフラン様のために駐留すると言っていた貴様らが、何の権限で我が愛する農夫を捕える!? 異端の疑い? どこの誰がそんな馬鹿げたことを言い出した?」


 聖騎士の指揮官は一歩も退かず、むしろ淡々とした口調で答えた。


「異端容疑者を拘束するのは我々の職務の一環。管轄外の権限に口を挟むものではございません。異端審問官に引き渡した後に、正当な判断が下されるでしょう」

「異端審問官だと……? 文典卿がそんなことを認めるはずがなかろう! 貴様らこそ、軍防卿配下でありながら文典卿管轄の異端審問の権限を振り翳しているではないか! これは不当な拘束であるぞ! 文典卿へ問い合わせよ! それまで、吾輩の農夫を拘束する権限は貴様らにはないはずであるッ!」

「お引き取りください。軍防卿配下の我々には、治安維持の権限が与えられております」

「貴様ァ……!」


 アティカスの反応に、周囲の農夫たちもさらに騒然とした。異端容疑による捕縛はこれまで度を超えた聖王国教会に対する侮辱行為にしか行われてこなかった。ここに来て急にノルドウィスプでそれが発生したのは、意図的な弾圧の可能性がある。


「これは軍防卿の命令か?」

「……私には答える義務はありません」


 指揮官の言葉が終わるや否や、アティカスは地面を蹴りつけるようにして足を踏み出した。


「ふざけるなよ、貴様ら……!」


 彼の怒声に、周囲の農夫たちも息を呑む。

 アティカスは拳を握りしめ、聖騎士たちを鋭く睨みつけた。


「吾輩が愛する農夫とその家族たちは、貴様らの都合のいい道具ではないぞ。吾輩の農地で好き勝手やるつもりなら……相応の覚悟をしておけ!」


 その言葉に、農夫たちの間からも賛同の声が上がる。

 聖騎士団は動じない様子だったが、その場に広がる緊張感は、次の衝突が避けられないことを物語っていた。

 アティカスは一歩前へ進み、鋭い視線で指揮官を睨みつける。


「ザフラン様に会わせよ」


 静寂が広場を包んだ。農夫たちが息を呑み、聖騎士たちが無言のまま互いに視線を交わす。


「……申し訳ありませんが、それは許可できません」


 指揮官は硬い口調で即答した。その瞬間、アティカスの表情がさらに険しくなる。


「吾輩は農地卿アティカス・ヴァレンフォードであるぞ? 農地に駐留するというなら、吾輩が直接ザフラン様に進言することに、異論はなかろうが!」

「ザフラン様は現在、休息が必要な状態です。お会いすることはできません」

「貴様……!」


 アティカスの拳が震え、農夫たちの間にも怒りの波が広がる。しかし、指揮官はそれ以上の言葉を発することなく、無言で部下たちに目配せをした。


「……お引き取りください」


 その言葉が、農地卿の怒りに油を注ぐことになるのは、誰の目にも明らかだった。



 ◆



 クロニクル・トレイルの編集部は、今にも崩れそうな積み上げられた資料と、散らかった紙の山に埋もれていた。室内にはインクの匂いが立ち込め、エクリヴァム――スクロール上に話した言葉がそのまま文字として筆記される魔術道具がカリカリと文字を刻む音が、途切れ途切れに響いている。

 俺――アランはソファの隅で、雑巾を手にしながら床の汚れを拭き取っていた。掃除でもしていないと、頭の中の不安が膨らむ一方だった。


「で、次の増刊号の特集はどうする?」


 ハレックさんが椅子にだらしなく深く座り、デスクに足を乗せたまま、ぼんやりと天井を見上げながら口を開いた。いつも飄々としているが、目は冴えていて、次の一手を探っているのがわかる。


「もうそろそろ、撤収を考えても良いんじゃないか? 世論を引っ掻き回すことには寄与しただろう」


 ソファに浅く腰かけたアーレンさんが眼鏡を押し上げ、慎重な口調で続ける。


「いーや、まだ足りねェなァ。どうせならパァッと華々しく散りてェだろう?」

「ほう? では、こういうのはどうだ?」


 アーレンさんは手元の紙を弄びながら、僅かに微笑んだ。それをくるりと裏返し、走り書きの見出しをハレックさんに見せつける。


「『地下に蠢く禁断の魔術実験! 救国の英雄は、実は人間兵器?』」

「それはッ……」


 あのハレックさんが、言葉を詰まらせた。アーレンさんは小さな溜息を吐いた後、言葉を続ける。


「ああ、最後になるなら、このくらいの派手なことをしても良いだろう?」

「……そういうことかよ」


 ハレックさんが天井を見上げながら低く呟いた後、再びアーレンさんの提案した特集の見出しに視線を戻した。


「要するに、今までギリギリを攻めてきたが、とうとう完全に法律的にアウトな領域に踏み込むってことかァ?」

「そういうことだ。これまで私たちは、対抗勢力に尻尾を掴ませないように、法を搔い潜った記事を書いてきた。向こうは確実な証拠を掴めなければ、我々の異端を決定打にはできなかった。だが、そろそろ向こうも我慢の限界だろう。そろそろ最後の一手を打とうではないか」

「アハハハハァ! そりゃァいいや。やる気が出てきたわァ」


 ハレックさんが笑いながら言うが、俺にはその軽さが信じられなかった。実験の被害者である俺にとって、これはただの興味本位の記事なんかじゃない。


(……もう、この場所は限界が近いんじゃないのか……?)


 俺は無意識のうちに、雑巾をぎゅっと握りしめた。ハレックさんとアーレンさんの会話を聞いていると、今まではギリギリのバランスで踏みとどまっていたクロニクル・トレイルが、今度こそ本当に終わるかもしれないという気がしてきた。

 クロニクル・トレイルがなかったら、俺はどうなる?

 ここがなくなったら、俺はどこへ行けばいい?

 追われる身である俺にとって、ここは数少ない安全な場所だった。記事の内容がどうとか、どこまで攻めるべきかとか、そんな話をしている彼らとは違って、俺はただ、自分の行く先がなくなることへの不安に苛まれていた。


(軍防卿まで動いてるんだ……もう、どこにも逃げ場がないんじゃないのか……?)


 喉がカラカラに乾いて、思わず唾を飲み込む。

 そんな俺を見ていたアーレンさんが、静かに口を開いた。


「アラン少年、心配するな。君の身分はもう用意してある」


 俺は顔を上げた。


「……え?」

「しばらく様子を見て、落ち着いたら君はここを離れるんだ。新しい身分もある。君の家に戻ることもできるだろう。しばらく前の身分で生活してみて、追手が来ることがあれば、新しい身分の方で生きればいい」


 その言葉に、胸の奥が一気に軽くなった気がした。


「……本当ですか?」

「ああ、準備は済んでる。あとは君が決断すればいい」


 俺は、しばらく言葉が出なかった。自分の家に戻ることができる。その選択肢がまだ残っていたことに、驚いていた。


「……ありがとうございます」


 俺は心からの感謝を込めて言った。

 ふと、ハレックさんとアーレンさんを見た。


「……あの、それで……二人は、どうするんですか?」


 ハレックさんは軽く肩をすくめ、アーレンさんは黙って眼鏡を押し上げた。

 結局、彼らは何も答えなかった。



 ◆



 ノルドウィスプのヴァレンフォードの家に、騒がしい朝が訪れていた。外ではアティカス兄上が、軍防卿の聖騎士部隊と激しく言い争っている怒声が響いている。屋敷の中にもその緊迫した空気が伝わり、落ち着かない雰囲気が漂っていた。

 朝日が差し込む薄暗いダリオン殿が休む客室内、私は机の上に広げられた二通の手紙をじっと見つめていた。


 一通はオモカゲ劇団からライラ宛てのもので、舞台出演の依頼が記されていた。「あなたの言葉を、真実として伝えてほしい」と、劇団の熱意が綴られている。

 もう一通はカリストリア聖王国通信社からダリオン殿宛てのものだった。内容は、魔女集会で発表されたエリザベスの過去の論文を解読し、実験の非人道性を明らかにする協力を求めるものだった。

 ライラもダリオン殿も、内容を把握すると無言で手紙を見つめていた。沈黙が落ちる。


「……ダリオン?」


 フィオナ殿がそっと声をかける。私はダリオン殿の横顔を見つめながら、彼が何を思っているのかを探ろうとした。


「ダリオン殿、私は断ってもいいと思います。私は、ダリオン殿の回復を優先すべきと思います。これは、ダリオン殿の心労に繋がる依頼ではないかと思うのです」


 それでも、ダリオン殿はゆっくりと手紙を握りしめた。


「……俺は、あの頃、何もできなかった」


 その低い呟きに、部屋の空気が張り詰めた。


「でも、こうして生きているなら、せめて自分にできることをやるべきだ。魔術技師として、この論文を解読し、実験の本質を暴く。それが俺にできることなら……やってみる価値はある」


 彼の目には、迷いと、それを押し殺す決意が宿っていた。私は静かにその姿を見守った。かつて、研究施設の暗闇の中に閉じ込められていた彼が、今こうして前を向こうとしている。その姿は、ダリオン殿を実の父のように慕うライラの心にも響いたのだろう。


「……パパ様がやるなら、私もやる」


 ダリオン殿のベッドに腰かけ、静かに手紙を読んでいたライラが、ふと顔を上げた。彼女の手は小さく震えていたが、その瞳には真剣な光が宿っていた。


「でも……何をすればいいの?」


 ライラの呟きには、戸惑いと不安が混じっていた。彼女は決意を固めたものの、具体的に何をすべきかはまだ掴み切れていないのだろう。

 それを察したダリオン殿が、そっとライラの肩に手を置いた。


「お前は、お前の言葉で話せばいい。舞台で語ることは、ただの演技じゃない。お前がそこで話す言葉は、お前が生きてきた証なんだ」


 ライラはダリオン殿の顔をじっと見つめた。ダリオン殿の言葉には迷いがなかった。ライラの瞳の奥に、ゆっくりと強い決意が灯っていく。


「……うん、私、頑張る」


 フィオナ殿が軽く頷くと、ライラの頭をぽんと撫でた。


「護衛として、わたしが同行しよう。ライラがどんな言葉を語るにせよ、わたしはそれを守ろうではないか」


 私はその様子を静かに見守りながら、二人の決意が固まっていくのを感じていた。ダリオン殿の背中はいつになく頼もしく、ライラもまた、その強い意志を受け止め、前を向こうとしているようだ。


「では、私は移動の準備を整えます。ライラとフィオナ殿のために、必要なものは揃えます」


 そう告げると、私は立ち上がって、振り返って彼女たちに質問する。


「移動手段はどうしますか? 聖王都まではそれなりに距離があります。馬車では時間がかかりますし、目立つ可能性も高いでしょう」

「それであれば、馬で直接向かうことにする」


 フィオナ殿が腕を組み、即座に答えた。


「わたしは馬に乗れのだ。軽いライラなら、後ろに乗せていける」


 ライラは少し驚いたようにフィオナ殿を見上げた。


「わたしも乗るの?」

「そうだ。ライラ、馬は苦手か?」

「えっと……乗ったことがない……落ちたらどうしよう……」


 ライラが少し不安げに言うと、フィオナ殿は苦笑しながら彼女の肩をぽんと叩いた。


「心配は無用だ。しっかり捕まっていれば問題ない。移動時間を短縮するには、それが一番確実なのだ」


 私はその意見に頷いた。


「確かに、馬で行けば時間を大幅に短縮できます。ただし、目立たないようにする工夫は必要になりmすね」


 フィオナ殿はライラをじっと見つめ、「髪、どうにかしないとまずいな」と呟いた。

 ライラもフィオナ殿も、髪は目を引くほど白く、そのままでは街道を進む間に人々の注目を浴びる可能性が高い。その中に、白髪の若者について、心当たりのある人物が紛れている可能性は否めない。


「それなら、布で髪をまとめてしまいましょう」


 私はそう提案し、部屋の隅にある収納箱を開け、適当な布を取り出した。


「しっかり結んでフードの下に隠せば、多少の風では髪が露出することはないでしょう」

「なるほど、では、それでいこう」


 フィオナ殿は納得したように頷き、ライラの二つに結われた髪をまとめる手伝いを始めた。

 ライラは緊張しながらも、じっと大人しくしている。


「これで、本当に行けるかな……?」

「もちろん。あとはライラがしっかり掴まってくれれば問題ない」


 フィオナ殿が自信満々に言い、ライラの背中を軽く叩いた。

 ダリオン殿はそのやり取りを静かに見守り、やがて低く静かな声で言った。


「気をつけろ。聖王都は何が起こるかわからない。真っ直ぐにオモカゲ劇団の劇場に向かい、セシルとの合流を優先しろ」

「ダリオンこそ、無理をするんじゃないぞ。ライラもわたしもセシルも……きっとヴァリクだって、ダリオンがいつだって心配なのだ」


 フィオナ殿が真剣な表情で彼を見つめた。ライラもダリオンを見上げ、ぎゅっと手を握る。


「……パパ様、無理しないでね」


 ダリオンは微笑んで、ライラの手を優しく握り返した。


「お前もな。戻ってきたら、また話をしよう」


 ライラは力強く頷き、フィオナ殿と共に準備を進めるために部屋を出ていった。私は二人の背中を見送った。


「さて、ではこちらも急ぎましょう」


 私はダリオン殿に向き直りながら言った。


「論文の解読には時間がかかるかもしれませんが、できる限りお手伝いします」

「助かる。できるだけ早く仕上げる」


 ダリオン殿は短く答え、手紙を再び読み直しながら深く息をついた。

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