086.助言
セラフ天啓聖報の編集長、シャルロッテ・ラヴェルが迷いのない足取りで部屋へ踏み込む。クロニクル・トレイルの雑然とした事務所を一瞥し、静かにため息をついた。端正な眉が僅かに寄せられ、まるで薄汚れたものを見るかのような表情を浮かべる。
「珍しいお客様だなァ。どーぞ、勝手に座りなァ」
ハレックが椅子に深く腰を下ろしながら、皮肉たっぷりに言った。その態度はまるで猫が獲物を弄ぶような余裕に満ちていた。しかし、シャルロッテはその言葉に対して特に反応することなく、彼を一瞥すると、迷うことなくハレックの対面に腰を下ろした。
アーレンは無言のまま、茶器を手に取り、丁寧に紅茶を淹れた。蒸気がゆるやかに立ちのぼる中、静かな動作でシャルロッテの前に一杯を差し出す。
しかし、彼女はその紅茶には目もくれず、鼻で笑った。
「要りませんわ。まさか、記者ともあろう者が、取材先で出された飲み物に口をつけるわけがございませんわよね? そのくらい、常識ですもの。たとえコーヒーの一杯であろうとも、相手に恩を売らせる行為等、一切許されないのが我々記者ですものね」
淡々とした口調ながら、その声には確固たる自信と皮肉が滲んでいた。シャルロッテの目はアーレンをじっと見据え、その視線には自分の方が一枚上手だと言わんばかりの含みがある。
アーレンは一瞬、表情を動かしたが、すぐに肩をすくめて自分のカップに口をつける。
「……そう言われると思いましたが、まあ、お好きに」
彼は落ち着いた調子でそう言い、テーブルの上にカップを置いた。その音が、事務所の張り詰めた空気の中で妙に響いた。
「用件を伺いましょうか?」
アーレンがそう促すと、シャルロッテは優雅に微笑みながら、その手元に置かれた資料の束を指でなぞって静かに口を開いた。
「ええ、もちろん。時間を無駄にするつもりはございませんもの」
「時間が惜しいなら、セラフ天啓聖報の編集長様直々に、こんな場末の雑誌編集部まで足運んでないで、デケェ自前の社屋でお堅い記事でもこねくり回しときゃ良いんじゃねーのかァ?」
しかし、シャルロッテはそんな挑発には微塵も反応しない。ただハレックの対面に座り、背筋をまっすぐ伸ばしたまま、鋭く彼を見据えて微笑を浮かべている。しかし、その微笑の裏には、冷たく研ぎ澄まされた刃のようなものが感じられた。
「あなた方が最近扱っている記事、特に『英雄』や『魔術実験』について、気になることがございますの」
その言葉に、一瞬だけ事務所内の空気が張り詰めた。
「気になることとは?」
アーレンの促しに、シャルロッテは優雅な仕草で書類の束を机の上に広げ、端整な指先で一枚ずつ整えながら、静かに告げた。
「我々はすでに、あなた方が魔術実験の『被験体』を匿っているという情報を掴んでおりますのよ」
シャルロッテのその言葉が落ちた瞬間、事務所内の温度が一気に下がったように感じた。誰もが無意識に息を呑む。アーレンが眉をひそめ、慎重に言葉を選ぶ。
「証拠があるのですか?」
シャルロッテは微かに笑みを浮かべたまま、書類を指で軽く叩く。
「正確な証拠が必要なら、軍防卿がいずれお持ちになりますわ。ですが、今は話し合いのために来ました」
彼女の声は決して大きくはなかったが、その一言には圧倒的な威圧感があった。
ハレックは口元の笑みを薄め、アーレンは静かに手を組む。事態は、彼らが思っていたよりも、はるかに切迫していた。
シャルロッテは軽く息を吸い、ハレックに向かってさらに言葉を投げかけた。
「貴誌『クロニクル・トレイル』が今後も続くことをお望みなら、教会にとって適切な報道をすることが貴誌の利益につながりますわ。あなたがたの記事は明らかに法に触れておりましてよ。聖騎士があなたがたをお迎えに来るのも時間の問題ですわ」
その言葉に、ハレックの笑みが一瞬だけ消えた。しかし、すぐに口角を上げ、ゆっくりと椅子の背にもたれかかる。
「教会の言いなりになれってことか? 冗談じゃねェなァ」
声は軽いが、その目には鋭い光が宿っていた。
アーレンは冷静な表情を崩さず、慎重に問いかける。
「……セラフ天啓聖報がどんな『適切な報道』を求めているのか、詳しくお聞きしたいですね」
シャルロッテはわずかに微笑み、机の書類に指を滑らせながら言った。
「少なくとも、教会の名誉を傷つけるような内容は慎んでいただきたいですわね。そして、あなたがたが匿っている『被験体』を軍防卿に引き渡していただきたいですわ。彼は罪人でしてよ」
その瞬間、事務所内の空気が一気に緊迫する。ハレックは低く笑い、机を軽く叩いた。
「随分とご立派なご提案だなァ。つまりは、俺たちに『黙れ』ってことだろォ? で、俺たちが仮に被検体とやらを匿っているとして、渡せば何が変わるってンだァ?」
「それを決めるのは我々ではありませんし、存じておりませんわ。少なくとも、今のあなた方は死罪に匹敵する重罪人の容疑がかかったままでしてよ。わたくしはあくまで、親切なご忠告をしに来ただけでしてよ」
彼女の静かな言葉が、事務所の空気をさらに冷たく引き締めた。
アーレンが眉をひそめる。
「……そもそも『被験体』などとおっしゃいましたが、当誌にはそのような者はおりませんが?」
シャルロッテは鼻で笑い、机の上に用意してきた書類を広げた。
「あなたがたの記事の内容を見れば、知らないとは到底思えませんわ。むしろ、あなたがたが書いた内容が、彼らを匿っていることを示唆しているのではなくて? どこまで繋がりがありますの? アランという名の元聖騎士は、確実にあなたがたが身柄を確保されておりますわよね? 他は?」
シャルロッテの言葉に、ハレックが挑発的に笑い、書類を指で弾く。
「おうおう、国一番のセラフ天啓聖報の編集長ともあろうお方が、俺たちの雑誌を読んだだけで結論を出すとは、随分と都合のいい解釈をするもんだなァ。俺たちは真も虚構も織り交ざったオカルト雑誌だぜェ? ああいう娯楽雑誌ってのはなァ、読者に想像させる余地を残すもんだろォ? その俺たちの単なる『オカルトジョーク』に食ってかかるたァ、あんたら高級紙の余裕はどこに消えちまったンだァ?」
シャルロッテの目が冷たく光る。
「読者に想像させる余地ですって? それであなたがたは責任逃れをするつもりなのかしら?」
「責任なんざ最初から持っちゃいねェよ。だが、仮に俺たちが『被験体』とやらを匿ってるって話が本当なら、それを証明するのはお前らの仕事だろォ? 直接噛みつく前に、紙面で噛みついて来なァ。……言っておくが、当誌は法に則った内容を掲載してるだけだぜェ? 娯楽如きに本気でムキになるだなんて、らしくねェなァ」
ハレックが肩をすくめ、目を細めて捲し立てる。
アーレンが静かに紅茶を一口飲み、低い声で言葉を継いだ。
「こちらとしても、証拠がない限りは対応のしようがありません。軍防卿が証拠をお持ちになるのでしたら、その時改めて考慮しましょう」
シャルロッテは小さく舌打ちし、鋭い視線でハレックを睨みつけた。
「あなた方の軽口が、どこまで通用するか見ものですわね」
ハレックは不敵に笑い、椅子の背に深くもたれかかった。
「おう、俺たちの娯楽雑誌、楽しみにしてなァ」
シャルロッテはハレックの言葉に目を細め、顔から微笑を消して睨みつける。
「……で、記事の内容を改める気はございませんの?」
彼女の静かな言葉が、事務所の空気をさらに冷たく引き締めた。
ハレックは肩をすくめながらも、目の奥では警戒の色を滲ませたまま口を開いた。
「悪ィが、そいつはできねェ相談だな」
「……では、今後の展開次第では、あなたがたは異端として扱われることになるかもしれませんわね」
アーレンが静かにメガネを押し上げ、慎重な口調で確認する。
「それは脅しと受け取ってよろしいですか?」
シャルロッテはあくまでも優雅な態度を崩さず、涼しげな笑みを浮かべた。
「いいえ、ただの『助言』でしてよ」
その曖昧な答えに、室内の空気はさらに重くなった。
シャルロッテはゆっくりと立ち上がり、スカートの裾を軽く払うと、整った仕草で視線を巡らせた。
「軍防卿が次に動く時には、あなたがたにも『正しい選択』をしていただけると信じておりますわ」
それだけ言い残し、シャルロッテは事務所を後にした。ドアが静かに閉まった後、数秒間の沈黙が訪れた。
やがて、ハレックが忌々しげに舌打ちし、足元の床を軽く蹴る。
「クソが……」
アーレンは深く息を吐き、指でこめかみを揉みながら呟いた。
「これは……いよいよ時間がなくなってきたな」
◆
俺はソファの後ろにうずくまり、毛布の隙間から外の様子を伺った。
シャルロッテ・ラヴェル。セラフ天啓聖報の編集長。教会の代弁者とも言える女だ。どうやら、軍防卿と繋がっているらしい。
全身がじっとりと汗ばむのを感じた。指先まで冷たくなっているのに、背中には不快な熱がこもっている。喉が渇く。だが、息を殺して、ただ耳を澄ましてやり過ごすしかなかった。
俺はここに来るまで、クロニクル・トレイルの二人をどこか気楽な人間たちだと思っていた。法律の抜け穴を探して、刺激的な記事を書いて、それで教会に睨まれながらも生き延びている、そんな風に見ていた。
でも今のやり取りを聞いていると、それがただの気楽な商売じゃないとよく分かる。
シャルロッテは、ハレックたちが「被験体を匿っている」と確信している。確証があるかどうかは分からないが、彼女の言葉には自信があった。そして、それを材料に交渉を持ちかけている。表向きは冷静で丁寧な物言いだが、その裏には確かな圧力が込められていた。
(軍防卿まで動いているなら、もう逃げ場はないのか……?)
そんな考えが頭をよぎる。
もしここが教会の兵に包囲されていたら? 俺はまた囚われるのか? あの地獄のような日々に逆戻りするのか?
息を吸おうとして、喉がひどく引きつるのを感じた。




