085.それぞれの局面
私、ロベリアが眠い目を擦りつつ、集めた情報を元に原稿のたたき台を書いていると、新聞社の扉が重い音を立てて開かれた。夜の冷えた空気と共に、埃っぽい旅の気配を纏った二人の姿がそこにあった。
「ただいま~」
先輩記者のエドガー・ヘイワードが、疲れたように肩を回しながら新聞社のロビーへと踏み込んできた。その後ろには、彼と共にノルドウィスプへ向かっていたリリィ・マクダウェルの姿もあった。彼女は旅用のコートを纏ったままの姿で、表情には安堵とわずかな警戒が混じっていた。
「お帰りなさい」
私が立ち上がり、二人の姿を確かめる。続いて編集長トーマス・グレインも書類を片付けながら視線を向けた。
「無事で何よりだ。収穫はあったのか?」
エドガーは苦笑しながら、肩にかけていた鞄をテーブルに投げ出した。
「収穫どころか、大漁もいいとこだ。だが、あんまり嬉しくねぇな」
そう言いながら彼が取り出したのは、数枚の手書きの報告書と、古びた地図のようなものだった。リリィがそれを横から補足する。
「ノルドウィスプでは、第二王子側の支持が確実に広がってたわ。だけど、それに伴って教会側の動きも激しくなっているみたい。軍防卿配下の聖騎士部隊がノルドウィスプに駐留するようになったの。建前上では、ザフラン様の駐留に伴って活動拠点を移したってことになってるけど……でも、住民への圧力を強めている印象だったわぁ」
「軍防卿が?」
思わず、眉間に皺寄る。
「まさか、武力で威圧……とかですかね? 第二王子側の動きに反応し始めたんでしょうか?」
「まだそこまではいってねえが……時間の問題かもしれねえな」
エドガーは腕を組みながらため息をつく。
「特に、街の広場や酒場なんかじゃ、妙に教会寄りの連中が増えてやがる。一般人に紛れて、第二王子の支持者を見張ってるって話もあった。そいつらがちょっとでも過激なことを言ったりすれば、すぐに異端の疑いをかけられて、連れ去られるらしい」
「異端審問……って、文典卿の仕事らしいですよ。だから、まだ実際には異端審問にかけられている人はいないんじゃないですかね。文典卿は、第二王子派のようなので」
「うん、そうなの。でも、既に数名は捕まっちゃったみたい。……で、まだ正式な異端審問は無いはずだけど、ノルドウィスプの空気は明らかに変わってきてると思うわ」
リリィが書類をめくりながら続ける。
「それに……私は、これが単なる武力行使じゃないと思うのよねぇ」
「リリィさん、どういうことですか?」
「情報戦の可能性が高いということよぉ。軍防卿が動いているのは、単に第二王子派を押さえつけるためだけではなく、彼らの情報をコントロールするためじゃないかなぁって」
リリィの指摘に、編集長が目を細めた。
「教会が情報を操作して、第二王子派の動きを封じようとしている……そういうことか?」
「はい。反乱を力で抑え込むだけではなく、世論を誘導するために、意図的に情報を操作しているのではないかと思ったんです」
エドガーは腕を組みながら唸るように言った。
「これは、もう戦争だな。剣を振るうよりも、先に民衆の頭の中を塗り替えるつもりなんだろう」
私は深く息を吐いた。
「……となると、私たちも慎重に動かなければなりませんね。もし、誤った形で記事を書けば、それこそ教会の思う壺です」
「だからこそ、こっちも準備がいるな」
編集長は椅子を揺らしながら、静かに机を叩いた。
「ノルドウィスプの状況が決定的に動くのは時間の問題だ。この情報を整理して、次にどう動くか考える必要がある」
「なら、俺たちも休んでる暇はなさそうだな」
エドガーはそう言って、手元の書類を整理し始めた。私もまた、これからの展開を慎重に見極めるべく、情報の整理に取り掛かった。
「そういえば、ダリオンさんへの取材結果も既に送ってありますよね?」
リリィがそう言うと、編集長は頷きながら報告書の束を手に取った。
「確かに受け取っている。……壮絶なものだったな」
「はい……。彼の過去は、私たちが想像していた以上に過酷なものでした」
私は沈痛な思いで報告書の内容を思い返す。ダリオンは、かつてエリザベスの元で働いていた研究者でありながら、被験者たちの苦しみを目の当たりにしても何もできなかった自分を責め続けていた。その後、逃げ出し、今は後悔と贖罪の念に苛まれている。
「彼の証言が、今回の記事の大きな支えになるはずです」
編集長は深く頷き、手元の書類を改めて眺めた。
「……ならば、これをどう生かすかだな」
◆
セシルは楽屋の椅子に深く腰を下ろし、肩で息をしながらぐったりとしていた。舞台の成功が確定し、劇団員たちの興奮した会話が飛び交っている中、ヘクトル・ヴァレンフォードが口火を切った。
「次の次の公演までには、ライラ様本人を舞台に上げよう。観客の熱気が冷めないうちに、彼女自身に語らせるのが一番だろう」
「語らせる……? 何を話してもらうんです?」
主演女優が微笑みながらも、少し慎重な口調で問いかけると、バルドル・グレイソン団長が豪快に頷いた。
「観客の求めるものは、真実だ! 彼女がどんな思いで戦い、なぜダリオンさんを助けたのか。それを語らせれば、さらに劇の意義が深まる」
「しかし、ライラ様はそういった場に慣れておられるのでしょうか?」
救国の英雄役の俳優が、眉をひそめながら口を挟む。
「劇場での演説となると、ただ舞台に立つのとはわけが違う。公衆の前で話すことに慣れていなければ、逆効果になりかねませんよ」
「ならば、話す内容をこちらで整えよう」
ヘクトルがすぐに提案し、手元の台本を指で叩いた。
「我々が彼女の言葉を整理し、適切な台詞を作ればいい。それならば、ライラ様も無理なく話せるだろう」
「それなら……手紙を書かねばなりませんね」
主演女優が柔らかく微笑みながら言い、バルドルも力強く頷いた。
「よし、早急に手配しよう! 彼女に直接手紙を送り、舞台での登壇を依頼する!」
楽屋にいる劇団員たちは賛成の声を上げ、興奮がさらに広がる。一方で、楽屋の隅に座る俺――セシルだけが、そのやり取りを黙って見つめている状態だった。
(これはまずい……)
ライラは人前で話すのに向いているタイプではないし、何よりここまで舞台と現実が混ざってしまっていいのか。何かが大きく狂い始めている気がした。
壁にもたれかかっていた第二王子は、時折頷きながら静かに様子を見守っていたが、その表情は読めない。俺は彼の横顔をちらりと見やりながら、内心で小さく舌打ちした。
(王子も止めろよ……)
熱狂する劇団員たちを前に、俺だけが歯噛みしていた。
◆
時は翌日。
クロニクル・トレイルの事務所には、昼過ぎにも関わらず、雑然とした空気が漂っていた。机の上には大量の資料や未整理の原稿が積まれ、印刷機からはインクの匂いが漂ってくる。
手元の粉塵を打ち落としながら、俺――アランは事務所の隅で箒を手に、少しでも清潔な状態を保つように努めていた。いつの間にかここで洗い物をしたり、紙の束を整理したりするのが常になっていた。
「さて、これからどうなると思う?」
アーレンさんが腕を組みながら、部屋の中央でハレックさんに問いかけた。
「どうなるもこうなるも、今の状況じゃ、嵐の前の静けさってやつだろォ?」
ハレックさんは気だるげにソファへ腰を下ろし、天井を見上げながら肩をすくめる。
「オモカゲ劇団の公演がこんだけ話題になっちまったンだ。教会側も何かしら動くに決まってるぜェ。お上品なやつらは正面切って反論記事を出すか、それともまた裏で工作するか……どっちにしても、こっちにはろくでもねえ影響が出るだろうなァ」
「……異端審問が活発化しそうだな」
アーレンさんが静かに言うと、ハレックさんが何でもないように答える。
「そんなことになったら、俺たちの記事の出し方も考え直さないといけねェなァ」
ハレックさんはニヤリと笑い、机の上に無造作に置かれていた原稿の束を指で弾いた。
その傍で話を聞いていただけの俺は、思わず眉を寄せた。俺は雑然としたこのクロニクル・トレイルの事務所を、ここ数日掃除しながら過ごしていた。話を聞くに、怪しいことばかりをしていた雑誌らしい。それなりに親切ではあることは解かってきたが、自分が身を置く場として適切なのかは、未だ測りかねていた。
「……まァ、そもそも、それが狙いでもあるがなァ。カリストリア聖王国通信社から疑惑の目を遠ざけるためには、俺たちが目立つのが一番手っ取り早い。法律スレスレのラインを攻めてりゃ、勝手に俺たちに疑惑の目が向く。どのみち、この雑誌もそろそろ潮時ってやつだろうぜェ」
「あの……お二人が世間を煽っている間に、本命の記事が世に出れば……ってことですか? クロニクル・トレイルはそれが目的で動いていたんですか?」
俺の質問に、アーレンさんはゆっくりと眼鏡を押し上げながら、静かに答える。
「そうだ。私たちが囮になれば、カリストリア聖王国通信社の方は無事に記事を出せる。今は派手に煽るのが役目というわけだ」
「まったく、お前は本当に性格が悪いなァ」
アーレンさんが苦笑しながら呟いたが、ハレックさんは肩をすくめるだけだった。思わず、俺は質問を投げかける。
「……でも、本当に大丈夫なんですか? 異端審問に引っ張られる可能性もありますよね」
俺のその言葉に、ハレックさんは少しだけ目を細めた。
「だからこそ、だぜェ。動きが鈍い今のうちに、手を打っておくんだよ」
その時、アーレンさんが軽くため息をついて、鋭い声で言った。
「ハレック、アラン少年を隠せ」
「へいへい」
ハレックは立ち上がると、ソファの後ろにアランを押しやった。
「ちょ、ちょっと待て、俺は……」
「うるせェ、黙って隠れろ」
俺は無理矢理に肩を押されて、ソファの後ろに身を隠すことになった。そして、ハレックさんが上から乱暴に毛布を被せてきた。
その直後、突然事務所の扉が勢いよく開かれた。
「ごきげんよう。お話がございますの」
鋭い声とともに入ってきたのは、一人の女性だった。端正な顔立ちに、金髪に縦ロールの髪型が目を引く。ふわりと広がる淡い桃色のドレスに、手には書類の入った封筒を抱えている。そんな彼女の目には鋭い光が宿っていた。
「セラフ天啓聖報の編集長、シャルロッテ・ラヴェル……」
アーレンさんが名を口にすると、ハレックさんはにやりと笑った。
「ほう……向こうから乗り込んできたかァ。さて、どんな楽しい話を持ってきたんだァ?」
シャルロッテは静かに扉を閉め、迷いのない足取りで室内へと歩み寄る。
「クロニクル・トレイル。あなたたちのやり方に、異議がございますの」
彼女の言葉に、事務所内の空気が一気に張り詰めた。
報道合戦は、今まさに新たな局面を迎えようとしていた。




