079.潜入、医術集会
カリストリア聖王国通信社にて。
前回、アランをバーナード先生に診てもらってから一週間が経過していた。その後も先生とは何度か印刷部のポートリーを介して連絡を取り合っていた。そして、一昨日、先生が新聞社を訪れ、医術集会への潜入を提案してくれたのだ。
「助手として来てもらうなら、これが必要じゃろうて」
そう言いながら、先生は私――ロベリアに細長い銅板を渡してきた。手のひらサイズのそれには、いくつかの紋様が刻まれており、集会において助手としての身分証明になるものらしい。
「胸ポケットに入れておけばいい。それが学会員の証明になるんじゃ。わしの助手として申請しておいたから、問題なかろうて。医術集会は明後日の夜からじゃ。夕方になったら、わしの医院に来とくれ」
先生がクツクツと笑いながらそう説明してくれたのを思い出す。ちなみに先生の身分証は私のものより少し大きく、色も銀色に輝いていた。長年の医術集会での功績を認められた証だという。
夜霧が立ち込める中、私は杖をついたバーナード先生に連れられて、古びた石造りの会館の前に立っていた。会館は一見、ただの学術施設のようだが、門をくぐった瞬間、空気が変わる。目に見えない何か、不思議な気配が周囲に満ちているのを感じた。
「ほう、久しぶりに来たが、ここも随分と様変わりしたものじゃな……」
先生が門を見上げながら静かに呟いた。
「先生、私が立ち入って本当に大丈夫なんでしょうか……?」
不安が声に出てしまう。先生は私の方を振り返り、優しく微笑んだ。
「心配することはない。ここは学術の場じゃからな、顔ぶれが多少変わったところで、気付くものも少ない。話すのに夢中でそれどころじゃないんじゃよ。わしのそばにおれば何も怖いことはない。余計なことに首を突っ込まん限りは、誰も君に手出しはせんよ」
先生の落ち着いた口調が、少しだけ緊張を和らげてくれる。
私は深呼吸をして、先生の後を追うように歩き出した。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは広々としたホールだった。天井には青白い光を放つランタンが吊るされており、その光が複雑な模様の魔術陣を壁に映し出している。冷たい光が壁や床の影を揺らし、静かな緊張感を漂わせていた。
さらに視線を動かすと、壁のあちこちに模造紙が貼られているのが目に入った。模造紙には様々な図や情報がびっしりと描かれている。
ある紙には人間の解剖図が、別の紙には魔術装置の構造図が描かれている。また、文字がぎっしり詰まった研究理論のような資料もある。それらは専門的すぎて、私には一目で理解できそうもなかった。
「……展示会みたいですね……」
思わず口に出してしまう。
「その通りじゃ。ここでは研究成果を持ち寄って発表し合うのが通例じゃからな。昔は一人一人発表しとったんじゃが、途中から人数が多すぎるということで展示形式になったんじゃよ。四十年前くらいの話だったかのぉ」
先生は軽く頷いて説明してくれた。
壁際には展示された模造紙を興味深そうに覗き込む研究者たちの姿が見える。時折、発表者である医師や魔術技師に質問を投げかけ、熱心に議論を始めている。中には身振りを交えながら、自分の研究内容を熱心に説明している者もいた。
参加者たちは思い思いにホール内を歩き回り、気になる展示を次々に見て回っているようだ。見学者が自由に展示に近づけるだけでなく、発表者たちも特に制限を設ける様子はない。
「ここでは、成果を示してなんぼというわけじゃな。互いに技術や知識を刺激し合う場じゃ」
先生はそう言って、私を促した。
私はゆっくりと歩き出し、模造紙の一つに近づいてみた。それは人体の治癒過程を魔術によって促進させる実験結果らしく、いくつもの細かい図が描かれている。説明に目を凝らすが、難しい専門用語が並び、頭がくらくらしてきた。
「君が興味を引かれるものがあれば、どんどん見ていいぞ。ただ、発表者に無礼を働かんようにな」
「はい……。ただ、内容が専門的すぎて、ちょっと戸惑っています……」
先生は笑いながら注意してくれるが、私は苦笑いを浮かべながら答えるしかなかった。質問しようにも、質問内容が思いつかない。
「まぁ最初はそうじゃろう。少しずつ慣れればよい。ここにおる者たちも、みな自分の分野では誇りを持っておる。素直に質問すれば案外親切に教えてくれるものじゃよ」
私は先生の言葉に励まされながら、再び展示を見回した。この場に立っているだけで、魔術と医術が交わる知識の深さと異様な熱気を感じる。未知の世界に足を踏み入れた感覚に、胸が少し高鳴っていた。
歩みを進めると、周囲の視線がこちらに集まっているのに気づいた。皆、一瞬こちらを見ては何事もなかったかのように再び展示や議論に戻っていく。だが、その中の一人、初老の女性の医師が私たちに興味を示し、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
女性は背丈は私とほぼ同じくらいで、ふっくらとした体型。短めに切りそろえられた白髪が全体に広がっており、落ち着いた茶色の瞳が優しげな印象を与えている。顔立ちは丸く、笑い皺が目立つが、視線には確かな知性が宿っていた。白衣の胸元には、医術集会で高い地位を示す銀色の証明板が輝いている。
「バーナード先生、これは珍しい。随分久しぶりではないですか。それに、そちらの方は?」
医師は興味深そうに私を見てくる。先生はそれに穏やかに答える。私は軽く頭を下げた。
「おお、アンジェリカか。長いこと顔を見ておらんかったな。久しぶり。これはわしの助手じゃよ。若い世代にもこの場を見せておきたくてな」
私は軽く頭を下げた。
「そうですか……。それにしても、バーナード先生がこんな場に現れるなんて、少し驚いております。エリザベス達とここに来ていた頃を思い出しますね」
「エリザベス? 若いののどれかにおったのか?」
「ええ、私を入れて、三人くらいで出入りしていたじゃないですか。そのうちの一人ですよ」
エリザベス――その名前を聞いた瞬間、私は息を飲んだ。
「エリザベスが、ここに?」
思わず問い返すと、アンジェリカは興味を示したように私を見つめる。
「ええ、随分前の話ですけれどね。彼女は一時期、出産関連の魔術の研究をしていたのです。成果はこれからだったけれど、頭が良くて、とても優秀な人でした。ただ、ある時を境に姿を見せなくなってしまいましたが……」
アンジェリカの声には、どこか意味深な響きがあった。
「何か問題があったんでしょうか?」
私は慎重に尋ねた。
「詳しいことは私にもわかりません。ただ、彼女が私たちに顔を見せなくなった後、『魔女集会』というものの噂を耳にしました。違法性のある研究を行う者たちが集う場所だと……もっとも、ただの噂に過ぎませんがね。彼女はそこに心酔するようになっちゃったんじゃないかって、私たちの間で噂になってたんですよ」
アンジェリカは肩をすくめて笑った。
「魔女集会……」
私はその言葉を繰り返した。エリザベスと関係があるのかどうか、確証はない。それでも、集会内では絶対に語られない「影の研究」があることは間違いないように思えてくる。
「どうも、エリザベスに興味があるご様子ですね。過去の記録を参照されたのかしら? 医術集会の記録をあたれば、少しは情報が残っていると思うのだけれど」
彼女の言葉を受け、私は思わずごくりと生唾を飲み込む。
――間違いない、ここで何かの情報を得られるかもしれない。私はこの場でさらに情報を探る決意を固めた。
アンジェリカから離れた後も、私はエリザベスが医術集会に出入りしていた事実と「魔女集会」の噂が頭から離れなかった。違法性のある研究が存在するというのは、ただの都市伝説だと考えたほうが良いのかもしれない。でも――。
「何か引っかかっているかの?」
バーナード先生が私の表情を見て優しく声をかけてくれる。私はそれに、正直に答えた。
「ええ、少し……。エリザベスが関わっていたかもしれない集会のことが気になります」
「それも含めて、今日の収穫をしっかり整理しておくことじゃな。まぁ、焦らずにな」
先生は穏やかな口調で言い、私を促して歩き出した。
会場の端に設けられたアーカイブ室にたどり着くと、そこでは数人の研究者や記者らしき人物たちが資料を閲覧していた。そこで目を引いたのは、華奢な体格に眼鏡をかけた若い男性だ。すらりと長身で、肩まで届く黒い髪は少し無造作に伸びており、前髪が眼鏡のレンズにかかっている。細めの顔立ちと、知的な雰囲気を漂わせた凛々しい眉と目元が印象的だ。何やら専門書を熱心に読みながら、時折ノートにメモを取っている様子が、真剣そのものである。
「君、今忙しいかね? アーカイブ室に詳しいのは君で合ってるかね?」
バーナード先生がその青年に声をかけた。青年は顔を上げ、少し驚いた様子を見せる。
「やや! これは失礼しました。ええ、私は『魔術集会通信』という情報誌の記者をしております、オルフェウスと申します。皆様よりは、ここを参照することは多いと思います」
オルフェウスと名乗った青年は慌てて立ち上がり、軽く会釈した。
「なるほどのぉ、『魔術集会通信』か。わしもここまで足を運ぶのが面倒じゃから、普段は君のとこの情報誌で確認しとるよ」
先生が頷くと、オルフェウスさんは少し誇らしげに微笑んだ。
「なんと! お読みいただいていたとは光栄です。今日は医術集会の新しい治療技術に関する特集の取材で来ています。しかし、正直に言いますと、もっと面白い話がないか、探していましてね」
オルフェウスさんは言葉を濁しながら、私たちを探るように視線を向ける。
「あの、オルフェウスさん。エリザベスという人をご存じありませんか?」
私が彼にそう問いかけると、オルフェウスさんの表情が一瞬で強張った。
「むむ! エリザベス……あのエリザベス・クロフォードのことですか? ええ、少しは聞いていますよ。医術や魔術の研究において、特異な存在だと……。あなた方も彼女について調べているのですか?」
「カリストリア聖王国通信社の、ロベリア・フィンリーと申します。私も彼女について知りたいんです。今後の取材に協力していただけると助かりますが……」
私は真剣な眼差しでオルフェウスさんを見つめた。彼は一瞬考え込むと、静かに頷いた。
「なるほど……面白いですね。わかりました、情報交換という形で協力いたしましょう。その代わり、ひとつお願いがあります」
オルフェウスさんは眼鏡を少し押し上げて、慎重に続けた。
「実は……あなたが所属する新聞社――典籍卿のいるカリストリア聖王国通信社に、ぜひ私個人を紹介していただけませんか? 可能であれば、典籍卿が所蔵されている、貴重な資料を読みたいのですが、なかなか門戸が狭くて……」
バーナード先生と私は顔を見合わせる。意外な協力者との出会いに、私は新たな展開への期待を感じ始めていた。だが――。
「……ど、どうして……う、うちの編集長が、典籍卿だと知っているんですか? し、知られていない情報のはずなのですが……」
私は声を落として、疑問をぶつけてみた。
「ああ! それですか! 我が誌の編集部内だけですが、周知の事実です。降竜祭の時のお顔と、御社の出入り口とを舐め回すようにしっかりバッチリ確認して、独自に特定しました。典籍卿――トーマス・グレインハースト氏は、学術資料の収集や保存において非常に高名な方ですからね。どうにか繋がりをと思っていたのですが、『魔術集会通信』があまりにもしつこく取材申し込みをしたせいで、我が社は十年前に、御社を出禁になりました――と、先輩方から聞いております」
オルフェウスさんは当然のように答えた。
「え、えぇ……。出禁ならちょっと……紹介は……」
「やや! お慈悲を! 一番の後輩である私は、面識がありませんから! だから『私個人』と! 取り次いでほしいと! お願いしているのです!」
私はオルフェウスさんの熱意に少し引きながらも、その真剣な表情に圧倒されていた。彼の目は輝いていて、まるで自分の熱意が全てだと言わんばかりに話している。その圧に、少し戸惑いながらも言葉を切り替えた。
「そ、その件については相談してみます。……ところで、『魔女集会』について心当たりはありませんか? エリザベスと何か関連があるのではと、昔に噂されていたようなんです」
「やや! 『魔女集会』ですか。ええ、かつて存在していたと言われていますが、解散してから随分経つと聞いています。今はもう存在しないはずですよ。ですが、記録は一部に残っているはずです。が、この膨大なアーカイブ室の中から探すことになりますよ」
私はそのオルフェウスさんの言葉に、少し気後れした。膨大な資料を一つ一つ調べるのかと思うと、少し気が重くなる。だが、すぐにオルフェウスさんがウィンクしながら言った。
「ふふ、大丈夫。私が見つけておいてあげますよ。得意なんです、こういうの探すの」
私はその態度に思わず驚いたが、すぐにオルフェウスさんは手にしていた紙束を乱暴に鞄に押し込めながら言葉を続ける。
「それでは! 明日資料をお持ちして、早速御社に伺いますね! 楽しみにしていてください! 御社の編集長に、取次お願いしますよ!」
「わ、分かりました!」
オルフェウスさんは私の回答に満足そうに微笑み、明るい声で続けた。
「では、明日早速、御社にお邪魔しますからね! いやあ、楽しみですね!」
そう言うや否や、オルフェウスさんは小さくスキップしながらアーカイブ室を去っていった。
「……?」
私は去っていく彼の背中を見つめながら、思わず首を傾げた。そのテンションの変化に違和感を覚えたものの、深く考えるのはやめておいた。今は、エリザベスに近づくための一歩を踏み出したことを喜ぶべきだろう。
「なんじゃあ、あいつ。キモすぎじゃろうて」
横で唐突に吐かれたバーナード先生の辛辣な言葉に、私は思わず吹き出した。




