076.家族の正解
一度身体を離したライラが、ベッドのシーツを握りしめ、苦し気な嗚咽交じりに言葉を紡ぐ。
「どうしたら……どうしたらパパ様は、わたしを好きになってくれるの?」
その言葉に、俺は息を詰めた。何を言えばいいのか分からない。ライラの瞳は真剣で、そこには純粋な思いが凝縮されていた。
「……ライラ……」
それ以上の言葉が出てこない。俺の胸の奥が痛む。彼女が今、何を求めているのか、理解してしまったからだ。
「好きな人には、キスをするんだよね? それで、もっと好きになってくれるって……そう思ってたの」
ライラは目を潤ませながら、静かに言葉を紡ぐ。その声はかすれていて、涙が喉を塞いでいるのが分かる。その姿を見ながら、俺は頭の中で思考が空回りしていた。何が正しいのか、どう言葉を返せばいいのか、答えが見つからない。俺にとって「好き」という感情は、すでに朽ち果てているように感じられた。
心が軋む音を立てていた。これまでの罪、喪失、贖罪。それらが積み重なり、俺を完全に押し潰していた。もし俺がもっと普通の人間で、家族というものを当たり前に持っていたなら、今ここで彼女に何か救いのある言葉をかけてやれたのかもしれない。しかし、現実は違う。
「どうして……どうしたら、パパ様はわたしを好きになってくれるの? もし、パパ様がわたしのことを好きでいてくれたら……わたしのために生きてくれるんじゃないかって思ったの……」
その言葉が耳に刺さるようだった。俺は思わず視線を逸らした。
「ライラ……お前には、分からないだろう。俺がこれまで、お前たちに何をしてきたのか……。死んだって、償えるようなことじゃない……」
吐き出すようにそう言った。だが、その瞬間、ライラは大きく首を振って反論してきた。
「そんなことない! パパ様がいたから、わたしはこれまで生きてこれたんだよ!」
涙を流しながら、彼女は俺に縋り付いてくる。その声には、切実な思いが込められていた。
「諦めないでいられたのも、痛いのを我慢できたのも、全部パパ様がいたからだよ! そんなこと言わないで……わたしが大好きなパパ様を、パパ様が悪く言わないで!」
彼女の言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。俺がこれまでどれだけ彼女を傷つけ、歪めてしまったかを痛感する。それでも、彼女は俺を必要としてくれている。
「……家族って、なぁに……? わたし、パパ様と家族になりたい……絵本の中の家族みたいに、支え合って生きることは、できないの?」
ライラは静かにそう問いかけてきた。その瞳に宿る純粋さに、俺は耐えられなくなって顔を覆った。
胸が焼けるように痛かった。家族……俺にとってそれは、すでに失われた存在。愛する人たちを守れなかった罪の重さが、鎖のように全身に絡みついている。どうしたら、その鎖を断ち切れるのか、答えは見えない。
「……俺には分からない……昔、家族を失ったんだ……。どうすればいいのか、今でも分からない……」
嗚咽が漏れた。俺の言葉は、もはや理屈ではなかった。ただの無力な吐露だった。
だが、ライラは涙を拭いながら、震える声で続けた。
「じゃあ、パパ様とわたしで……家族の正解を探すことはできないの? どうしたら……パパ様とライラが、パパと娘になれるのか……探すのは無理なの?」
ライラが問いかけた言葉が、俺の胸の奥深くに沈み込んでいた。
「パパ様……探すことはできないの? 今からじゃ、遅いの?」
その言葉が真っ直ぐ俺を突き刺す。俺は答えに詰まり、目を逸らした。探す? 一体、何をだ。すべてを失った俺が、そんなことをできるはずがない。家族を、愛する者たちを、自分自身さえも――俺は全てを壊してしまった。どうして今さら希望なんてものを口にできるだろうか。
「……ライラ、俺には……そんなこと……できる自信がないんだ。俺は……どうしたらいいのかも分からない、何も分からないんだ」
俺の声は、ひどく掠れていた。心の底に染み付いた無力感が、すべての言葉を濁らせる。
「パパ様、分からなくてもいいよ。わたしだって、何が家族なのか、全然分かってない。でも……一緒に探せばいいんじゃないの?」
ライラは怯むことなく、震える手で俺の腕を掴んだ。その手の小さな温もりが、じわじわと胸を締め付けてくる。
「それに……パパ様がそばにいてくれるだけで、わたしは頑張れるの。今までもそうだったんだよ」
その言葉に、胸の中で何かが崩れた気がした。俺が彼女を支えていた? そんなことがあるはずがない。俺は彼女を守るどころか、苦しめ、傷つけてきただけの存在じゃないか。
「ねぇ……パパ様は、わたしのことが嫌いなの? それとも……またいなくなっちゃうの? 死んじゃうの?」
その問いかけは、俺の中で眠っていた罪悪感を一気に呼び覚ました。ライラに救い出された後、俺は彼女を置いて、何度も終わりを求めた。なのに、今ここでまた同じことを繰り返すつもりか。
「……そんなことはない。お前を置いていくなんて……もう、できるわけがない」
言葉が自然と口をついて出た。ライラの手が、過去に取り憑かれた俺の心を現実へと引き戻していた。
「じゃあ……一緒にいて。わたし、パパ様と一緒に生きたいんだよ……」
彼女の声は震えていたが、その瞳には強い決意が宿っていた。俺は一度息を吐き、視線を下げたまま、深い自己嫌悪に囚われていた。
(情けない……どうして俺は、いつもこんなふうに逃げてばかりなんだ……)
「……でも、俺には……家族なんて、もう……」
「だったら一緒に探そうよ……」
ライラの言葉が、俺の思考を遮った。その声は切実さに満ちていて、縋るような響きがあった。彼女は俺の胸に縋り付き、震える小さな体を預けてくる。涙が頬を伝いながらも、視線は決して逸らさない。
「パパ様がいなかったら、わたし、きっともう生きてない……だから、これからはわたしがそばにいるから。一緒に探せばいいんだよ……家族を、正解を」
その言葉が、ゆっくりと胸の奥に染み込んでいく。逃げ続けていた俺に、彼女は道を示しているのかもしれない。
心が軋む。どうして俺なんかにそんなことを求めるんだ。だが――
「……お前がそう言うなら……少しだけ、一緒に探してみてもいいかもしれない……」
搾り出すように呟いたその言葉が、自分でも信じられなかった。
ライラは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに安堵したように息をついた。涙の跡を拭いながら、震える声で問い直してくる。
「本当に……? パパ様、わたしと……一緒に?」
俺は微かな笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「……約束はできない。でも、考えてみる。お前と……正解を探すことを」
ライラは涙をこぼしながらも、穏やかな表情を浮かべた。だが、その顔には希望というにはあまりにも脆いものが宿っていた。絶望の中で見つけた、わずかな可能性――それにすがるような表情だった。
俺たちの間に、静かな時間が流れた。まだ何も解決していない。だが、それでも二人でいることが、この暗闇の中で唯一の拠り所なのかもしれない。
俺は静かに腕を伸ばし、ライラを強く抱き寄せた。その小さな体の震えが伝わってくる。
俺はこれまで何も守れなかった。家族も、自分自身も――すべて失ったと思っていた。だが、今ここにいるライラとの絆だけは、失うべきではないのだろう。
胸の奥にわずかな決意が芽生える。それはまだ脆く頼りないものかもしれない。それでも、彼女と共に生きていくこと。それが俺に残された最後の選択なのかもしれない。
俺はしばらくの間、彼女の温もりに身を委ねていた。
◆
部屋には魔術実験の当事者として俺、ライラ、フィオナ、セシル。今現在の支援者としてヘンリー、そしてカリストリア聖王国通信社のエドガー記者とリリィ記者がいる。取材は一区切りを迎えたが、重苦しい空気が消えることはなかった。
エドガー記者とリリィ記者は手元の記録を見直している。その動作一つ一つがやけに遅く感じる。彼らの顔には、話した内容があまりにも衝撃的だったのか、強張りが残っていた。エドガー記者は眉間にしわを寄せ、何かを考え込んでいる様子だ。リリィ記者もまた、挨拶を交わした時の朗らかさが消え、言葉を失っている。
また、ヘンリーも表情を曇らせていた。俺が語った過去の話が、彼にとって予想外だったのだろう。視線を落とし、深い沈痛な面持ちをしている。いつもの柔らかな物腰からは想像もできないほど、重く静かな雰囲気をまとっていた。
(……俺の話が想定以上に重かったんだろう。誰だって、こんな話を聞けば固まるか……)
俺は視線を床に落とした。あまりにも多くのことを背負いすぎた過去。それを語ることの重みを、改めて感じていた。
静寂を破ったのはリリィ記者だった。彼女は少し口を開きかけた後、思い切ったように言葉を紡ぐ。
「……ありがとうございました。これで取材としては一つの区切りがつきます」
その言葉を聞いた瞬間、ライラが不安げな顔でゆっくりと口を開いた。
「パパ様……オリヴィエが死んだって、どういうこと?」
その声は震えていた。彼女の目がわずかに見開かれている。フィオナとセシルも同様に顔を曇らせながら、俺を見つめている。
その様子を見たエドガー記者が慎重に口を開いた。
「まさか……三人は、知らなかったのか?」
ライラはゆっくりと頷き、目を伏せた。
「パパ様から聞くまで知らなかった。オリヴィエは、いつもわたしたちのこと避けてた」
ライラに続くように、フィオナが小さな声を漏らす。その声は、動揺でかすかに震えていた。
「オリヴィエが目を合わせてくれたことなんて、一度もなかった……だからわたしは、彼は冷酷な人物なのだと思っていたのだ。彼は、誰も彼もに怯えた視線を向ける人だった。そんな人が、わたしたちを庇ったせいで、死んでたなんて……」
彼女は手を強く握りしめている。震えを抑えようとしているのが分かった。
セシルは視線を落とし、腕を組みながら小さく息をついた。普段の冷静さが崩れ、わずかに肩がこわばっている。
「……自分のことで精一杯だったんだろうな。でも……軍防卿に殺害されるなんて……」
彼の声は沈んでいて、言葉を紡ぐたびに重苦しい空気が部屋に広がっていく。
重い沈黙が再び訪れる。俺は視線を落とし、遠くを見つめた。オリヴィエが最期に見せた表情が、今も頭から離れない。
そんな空気を破るように、エドガー記者が慎重に口を開いた。
「この証言だけでも大きな進展ですが、さらなる証拠があれば、確実性が増します。……他に心当たりのある人物はいませんか?」
俺は少し考えた後、低い声で答えた。
「……マルグリット・スフォルツァ。彼女が今も生きているなら、話を聞けるかもしれない。ただ……俺が見た限り、倒れたときの状態はひどかった。エリザベスが『家族の元へ帰す』と言っていたが、もし本当にそうなら、今は寝たきりかもしれない。話せるかどうかもわからないが……」
リリィ記者が表情を引き締め、慎重に問いかける。
「……その人がまだ生きている可能性があるんですね。なら、取材の申し込みを考えてみる価値がありそうです」
セシルがゆっくりと頷いて、俺の情報に補足する。
「確かに……彼女なら、俺たち被験者目線では知り得なかった内部事情を知っているかもしれない。あの施設で、俺たちは常に実験対象として扱われていたから、研究の根本的な目的やきっかけなんて何も教えられなかった。エリザベスがどうしてあの研究を始めたのか、研究所での変化や、ダリオンが来る前の状況だって、彼女から何か聞けるかもしれねーな」
エドガー記者は記録を確認しながら、決意を込めて口を開いた。
「よし、マルグリット・スフォルツァの行方を追うため、情報を集めるとするか。情報のご提供、ありがとうございました」
リリィ記者も深く息をつき、静かに頭を下げた。
「ご協力、ありがとうございました」
取材が一区切りついた後、ヘンリーが俺に向き直った。静かな口調で語りかけてくる。
「……ダリオン殿、私はあなたのことを誤解していました。当時はただのヴァリク様の護衛の聖騎士の先輩だと思っていて……あなたが何を背負っていたのか、何も知らず、酷い言葉を投げかかてしまった事もありました」
彼の瞳には深い後悔の色が宿っていた。俺は「気にするな」と言おうとしたが、ヘンリーはそれを遮るように頭を下げた。
「ですが、過去の無理解を謝罪させてください。私がもっと知っていれば、あるいは……」
「ヘンリー、もういい。お前が気に病むことじゃない」
俺が静かにそう言うと、彼は少しだけ顔を上げ、言葉を続けた。
「……それでも、私には謝りたいのです。あなたがしてきたことの重みを、ようやく少しだけ理解できた気がします。申し訳ないことをしました」
その言葉に、俺は小さく息を吐いた。ヘンリーらしい、誠実な態度だった。
部屋の空気が少しだけ和らいだように感じた。ライラが俺を見上げ、静かに呟く。
「パパ様……もう大丈夫だよ……エドガーが何とかしてくれるよ……」
その言葉に、俺は静かに頷き、彼女の肩にそっと手を置いた。




