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075.ダリオンの過去②

 あの事件が起こった後、研究所内の空気は一層重苦しいものになった。マルグリットが倒れてから数日が経過しても、誰も彼女について多くを語ろうとはしなかった。エリザベスは、例によって冷徹な指示を出すだけで、感情の一片も見せなかった。

 オリヴィエは明らかに精神的に限界が近いように見えた。彼は頻繁に深い溜息をつき、視線を落としながら震える手で書類をまとめていた。ロイはと言えば、いつも通り無表情で仕事をこなしていた。まるで何事もなかったかのように、彼の態度は一貫して冷静だった。

 俺はといえば、依然として混乱していた。恐怖、無力感、そして言い知れぬ罪悪感が胸を支配していた。何かが根本的に狂っていると感じながらも、そこから逃れる術は見つからなかった。もはやこの場所で何が正しいのか、何を信じればいいのかすらわからなくなっていた。




 そんなある日、イヴリンが微笑みながらリビングに入ってきた。俺は疲れた表情を隠すように書類に目を落としていたが、彼女がそっと近づいてきて座り、ゆっくりと手を握った。


「ダリオン……あのね、聞いてほしいの。私、赤ちゃんができたみたい」


 思わず書類を持つ手が止まった。その一言で、一瞬だけ仕事の重圧が遠のくような感覚がした。だが、同時に何か言葉にできない感情が胸を締め付けた。俺はぎこちないながらも笑顔を作り、ゆっくりと彼女の手を握った。


「そうか……それは、良かった……」


 イヴリンは俺の表情を見て、どこか心配そうに目を細めた。


「最近、ずいぶん疲れてるみたいだけど……無理しないでね。あなたが倒れたら、私たちどうしたらいいかわからないわ」


 その優しい言葉に、胸が痛む。だが、俺は仕事の内容を彼女に伝えることなどできなかった。


「問題ない。少し忙しいだけだ……」


 言い訳めいた言葉が自分の口から出てくるのを感じながら、俺はただ頷くしかなかった。


 心の中では、自分に言い聞かせるように理由を組み立てていた。確かに子供を対象にするのは悪いことだ。しかし、相手は犯罪奴隷だ。死罪に値する罪を犯した者たちなのだから、命を無駄にしないための行為だ――そう考えるたびに、胸の痛みを抑え込もうとした。

 仕事だから仕方がない。誰かがやらなければならないのだ。逃げれば、その重荷を別の誰かに押し付けることになる。研究が成功すれば、いつか多くの命が救われるかもしれない。

 こうして罪悪感や恐怖から目を逸らし続けたが、それがただの言い訳に過ぎないことを、心の奥では薄々感じていた。




 数か月後、研究所に新たな人員が補充された。マルグリットの後任だというその男は、長い前髪で顔を隠しており、名前はエドモンド・カーターと名乗った。彼は研究対象にしか興味がないらしく、挨拶もそっけなく、淡々と仕事を始めた。周囲と打ち解けることもなく、マルグリットがいた頃と同じように、研究は続けられていった。


 やがてイヴリンの出産が近づいてきた頃、エリザベスが上機嫌な様子で新たな被験者を連れてきた。まだ二歳になったばかりと見える、二人の幼い子供たち――ライラとザフランだ。あまりにも小さな彼らの姿を見て、俺は混乱に陥った。


「……エリザベス、これが……この子供が、犯罪奴隷なのか?」


 震える声で問いかけると、彼女は悪戯っぽく笑い、あっさりと答えた。


「あら、ごめんなさい。その『犯罪奴隷』という話は嘘よ。私って、どうにも嘘が下手なのよね」


 その何でもないような言葉に、全身から力が抜けていくのがわかった。これまで自分の中で必死に築いてきた言い訳が、脆くも崩れ去る感覚があった。


――嘘だった? すべて……ただの嘘だったのか?


 頭の中で思考がぐらつき、次から次へと疑問が押し寄せてきた。犯罪奴隷ではない? じゃあ、この子たちはどこから……? 誘拐? それとも、何の罪もない子供を無理やり連れてきたのか? 三歳にも満たない子供が、どうしてここにいる……? 俺たちは、一体何をしてきたんだ?


 胸の奥からせり上がってくる激しい吐き気を抑えきれず、足が震える。視界はぼやけ、呼吸が詰まるような感覚に襲われた。

 耳鳴りがキーンと鳴り響き、エリザベスの言葉が頭の中で何度も反響する。罪悪感が今までとは比べ物にならないほど膨れ上がり、全身が冷たく凍りついていく。俺は立ち尽くし、呆然とするしかなかった。身体が鉛のように重く、何かを言おうとしても言葉が出てこない。ただ、足元から崩れ落ちそうな感覚の中、どうすればいいのかもわからず、思考は宙を漂うばかりだった。


「さあ、実験を始めましょう」


 エリザベスの指示で、俺はそのあまりにも幼い子供の魔術実験の監察官としての業務をその日にすることになってしまった。混乱で頭が真っ白なまま、ただ手を動かすことしかできなかった。何を記録しているのかも曖昧なまま、手だけは慣れた動きで記録用紙に文字を走らせていた。だが、震えは止まらず、書いた文字は歪み、かすれていた。自分が何をしているのか、これが現実なのかさえもわからなくなっていた。


 どうやってその日の仕事を終えたのかもわからなかった。ふらふらと家に帰り着いたとき、家の前に近所の人たちが集まっているのが見えた。


「……何が……?」


 不安が膨れ上がる。そこにいた近所に住む中年の女性が、こちらを見て駆け寄ってきた。


「ダリオン! イヴリンが……!」


 その言葉に、全身の血の気が引いた。息が詰まるような恐怖が胸を締め付け、慌ててその場を飛び出した。頭の中が真っ白になり、何度も転びそうになりながら医院へ向かった。

 だが、到着したときには、すべてが終わっていた。


 医師が俺に何かを説明していた。だが、その声は遠く、まるで厚い水の膜越しに響いているようだった。耳には確かに音が届いているはずなのに、その意味は霧の中に消えていく。

  二人とも、戻ってこない――それが、ただ一つ、脳裏にゆっくりと沈み込んできた。まるで重く冷たい鉛が心臓を覆うように、じわじわと内側から圧迫してくる。誰かの声も足音も、遠くで微かに反響しているだけだった。

 時間がねじれ、現実がゆっくりと形を失っていく。言葉にならない痛みが、ひたすら胸の中で波のように押し寄せる。その冷酷な現実だけが、今や俺の世界すべてを支配していた。


 俺はただ茫然と立ち尽くしていた。何も言えなかったし、何を言えばいいのかもわからなかった。

 その夜、冷たくなったイヴリンの傍らで、何も考えられずに座り続けていた。泣くことすらできなかった。現実感が完全に失われ、全てが遠くに感じられる。彼女の顔を見つめても、そこにあるのはただの冷たさだけだった。


 気がつくと、窓の外には白んだ朝が広がっていた。だが、朝になったことすらどうでもよかった。体は鉛のように重く、意識は霞の中を漂っている。まるで自分自身がここに存在していないかのような感覚だった。

 何も感じない。感情がどこか遠くへ逃げ去ってしまったかのようだった。考えることすら放棄してしまいたいのに、奇妙にしがみつく思考が一つだけ残っていた。


(仕事に行かなくては……イヴリンと、これから生まれてくる子のために……働かなくては)


 その言葉が、頭の中で繰り返されていた。まるで誰かが遠くから囁いているような、あるいは自分自身が反響する声に取り憑かれているような感覚だった。現実感は消え、ただその一言だけが脳裏に染み付いて離れなかった。


 俺は重い体を引きずるようにして、ただ孤児院へ向かっていた。何のために向かっているのかすらよくわからなかった。ただ動いていなければ、意識が完全に崩れてしまいそうだった。

 道端の景色やすれ違う人々の顔、すべてがぼやけて見える。どこからどこまでが現実なのか、靄がかかったように曖昧になっていた。足を進めているのは俺のはずなのに、その感覚すら希薄だった。


 孤児院の入口にたどり着いたとき、ふと壁に描かれたセラフが目に入った。六枚の羽根を持つその天使は、金の聖杯を高く掲げている。柔らかな光輪がその頭上に輝き、厳かにこちらを見下ろしていた。


「……神罰だ……」


 自然と俺の口が言葉を紡いだ。

 嗚呼、そうか。これは罰なのだ。俺がここでしていること、今までしてきたこと……そのすべてが積み重なって、今、俺に降りかかっている。

 セラフの無機質な視線が、まるで冷淡に裁きを下す者のように俺を捉えていた。逃げ場はどこにもない――そう言われているように感じた。


 昨日の実験で使われた被験者の様子を確認するため、独房を訪れた。重苦しい空気が漂う中、その小さな体がまだ微かに動いているのが目に入った。生きている。俺は思わず息を詰め、足を止めた。

 子供はうっすらと目を開けて、俺の方をぼんやりと見つめた。その姿を見た瞬間、安心感が胸を満たし、張り詰めていた何かが一気に崩れ落ちた。視界が滲み、涙腺が熱くなる。

 小さな手が精一杯に伸ばされ、俺に向かって揺れるように差し出された。そっと顔を近づけると、その子は震える手で俺の頬を撫でた。


「いたい、ない……いたい、ない……」


 か細い声で、その子供――ライラは同じ言葉を繰り返す。その言葉の意味を完全に理解することはできなかったが、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。俺はその小さな手を優しく握りしめ、耐えきれずにその場で泣き崩れた。


 それ以来、俺は贖罪に囚われるようになった。イヴリンの葬儀を終えてからは、家にろくに帰ることもなく、研究所に居続けた。出来る範囲で子供たちの世話をするようになったが、心のどこかでは自分の行いを気まぐれな同情だと思っていた。何かを償いたいという衝動に突き動かされながらも、それが何の役に立つのかもわからないまま、ただ手を動かしていた。




 それから数年が過ぎた。俺は子供たち一人一人の名前と個性を覚え、とにかく彼らを死なせないようにと努力するようになった。些細な変化にも気を配り、実験内容を少しでも軽減する方法を模索し続けた。

 不幸中の幸いだったのは、軍防卿の協力が途絶えたことだった。新たな被検体の供給が止まり、被検体を使い潰すような非人道的な実験は避けられるようになった。それでも、研究所に残された子供たちは、今もなお恐怖と痛みの中にいる。


 俺はこの場所で、せめて彼らを守り続けることが自分に課せられた使命だと信じるようになっていた。




 約九年が経過した頃、ロイが一時的に研究所を離れることになった。その隙を突く形で、俺は子供たちを連れて脱走を計画した。研究施設の守衛たちは、孤児院の建物内部ではなく、あくまで外部を警備していた。そして、その守衛たちへの具体的な指示は研究員に任されている。

 日中の監督がエリザベスからオリヴィエと俺の二人体制に変わった時、俺はオリヴィエに協力を求めた。


「オリヴィエ……頼みがある。守衛を一時的に裏手へ集めてほしい」


 オリヴィエは少しの間、無言で俺を見つめていた。だが、やがて静かに頷いた。


「……いつか、こうなることは分かっていました。ダリオン氏なら、そうするだろうと」


 彼の声は疲れ切っていたが、どこか穏やかでもあった。


「僕には……あなたのような勇気は出ませんでした。尊敬しています。ダリオン氏……どうか、成功させてください。彼らを、遠くに逃がしてあげてください」


 彼の言葉に、胸が詰まった。オリヴィエの手を握りしめると、驚くほどやせ細っていることに気づいた。出会った頃とは比べ物にならないほど痩せ衰えていた。


「オリヴィエ……本当に、ありがとう……」


 オリヴィエは微かに微笑み、俺を送り出してくれた。




 しかし、計画は失敗に終わった。子供たちの生死を確認することは出来ていない。不死の魔術式が刻まれているとはいえ、首と胴体が離れてしまえば確実に絶命する。最後にちらりと視界の端に見たオスカーは、首と胴体が皮一枚で繋がった状態に見えた。死んでいてもおかしくはない。他の子供達も、おそらくは……。

 そして、俺とヴァリクは捕まってしまった。

 ヴァリクは即座に地下の独房に閉じ込められ、俺は孤児院のホールへと連行された。六枚の羽根を持つセラフが壁から見下ろす中、詰問が始まった。

 エリザベスと軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーが、俺をどう処分するかを話し合っていた。


「ダリオンを殺せば、ヴァリクが制御不能になる可能性があるわね」

「ふむ……厄介だな。しかし、何らかの手を打たねばならん」


 二人が冷静に話し合う中、やがて話題はオリヴィエの責任問題に移った。


「オリヴィエとやら、ダリオンに協力したな?」


 問い詰められたオリヴィエは、青ざめた顔で口を開いた。


「……確かに、ダリオン氏に協力をしました。孤児院裏手に守衛を集めたのは、私です」


 その言葉が発せられた瞬間、世界が軋むように歪んだ。

 軍防卿が無言で戦鎚を振り上げる。その動きが異様にゆっくりと見えた。戦鎚の鈍い輝きが空気を切り裂きながら、絶対的な力を伴って振り下ろされる。瞬間、オリヴィエの胸元に正確に命中し、鈍い破砕音が響き渡った。

 衝撃で彼の身体が激しく弾かれ、背骨が折れる音が微かに聞こえた。膝が折れ、全身から力が抜けて床へと崩れ落ちていく。衝撃音が耳を貫き、視界が揺れた。

 オリヴィエが崩れ落ちる瞬間、俺の目にはすべてが切り取られるように映っていた。背中が不自然に折れ曲がり、無力な身体が床に叩きつけられる。髪が無造作に広がり、揺れる視線が最後に俺を捉えた。

 彼は俺をじっと見つめていた。恐怖ではない……何かを伝えたい、だが言葉にならない思いが、その瞳に静かに宿っていた。


 ――なぜ……こんなことに……――


 その問いが、ただ俺の胸の中で響いていた。

 軍防卿はゆっくりと跪き、オリヴィエの亡骸を前にして目を閉じた。重い沈黙が場を支配する。


「……儂は、優秀な人材を失ってしまった……悔しいものだ……」


 この男は、自分で殺しておいて、悔やんでいる。俺はこの言葉の意味が理解できず、ただ混乱するばかりだった。状況が現実離れしていて、頭が追いつかない。


「仕方ないわ。残ったもので研究を続けましょう。そのうち、外で使う日が来ることでしょう」


 エリザベスは淡々とした口調で結論を述べ、話を終わらせた。




 それから約一年後、予想もしなかった事態が起きた。この国が他国からの侵攻を受けることになったのだ。医術分野での利用を想定していた研究成果は、国防のために転用されることが決定された。

 そして、おぞましい歴史を背負った救国の英雄、ヴァリクが戦場で活躍することになる。聖王国教会は、彼を「丁度いい広告塔」としてプロパガンダに利用し始めた。


 いつからか、俺は自分の意志を失い、思考を停止して流されるままに命令に従うようになっていた。反抗することも、疑問を抱くこともなく、ただ機械のように動くだけの日々。

 ヴァリクが俺を庇ってくれたおかげで、今こうして生き延びている。だが、それが恩なのか、罪滅ぼしなのか、俺には分からなかった。感謝をすべきなのか、謝罪をすべきなのかもわからない。

 二人そろって、ただ時間を無為に過ごしているように感じていた。

 それが救いなのか、罰なのかさえも、答えは見つからないまま、静かに時が流れていった。

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