074.ダリオンの過去①
義務教育の十年、高度教育の五年を終えた俺――ダリオンは、魔術に興味を持っていた。それだけなら誰にでもある動機だが、俺の場合はもう少しだけ事情があった。病弱だった母を治したいというささやかな願いが、魔術と医術を結びつけていた。
医術系の工房への就職を決めたのもその一環だ。そこでは魔術を使った医療器具の開発や、新しい治療法の研究が行われていた。だが、工房に入ったばかりの頃に母は息を引き取った。あっけないもんだな、とその時の俺は思った。何かを成し遂げる前に、俺が唯一の目的を失ったことが、現実の実感を遠ざけた。
それからの日々は、霧がかかったようにぼんやりとしていた。研究には携わっているが、心がそこにない。工房の中では、俺はただ与えられた作業を機械のようにこなすだけの存在になっていた。
そんな俺を心配した親戚が、一人の女性を紹介してくれた。二歳下で、明るく優しい女性だった。名をイヴリンというらしい。正直に言えば、最初は何を話せばいいかもわからなかった。ただ、イヴリンは俺の鈍い反応にも構わず、少しずつ距離を詰めてきてくれた。俺にとっては新しい感覚だった。
イヴリンとしばらく付き合ううちに、自然と結婚する流れになった。彼女は俺を受け入れてくれたし、俺も彼女を拒む理由はなかった。それでいいのかと疑問に思ったこともあったが、生活を共にする中で、俺の中に何かが少しずつ変わっていった。彼女の存在が心の中で温かく広がっていくような感覚――これが愛情というものなのかもしれない、とぼんやり考えていた。
俺たちの生活は穏やかだった。些細なことで笑い、時には小さな喧嘩もしたが、それでも一緒にいる時間は心地よかった。そんなささやかな幸せを、これからも大切にしていこうと考え始めていた。
仕事は、世間が思うほど華やかなものではなかった。医術系の魔術工房と聞けば、劇的な発見や革新が連続しているような印象を持つ人もいるだろう。だが実際は、地味な改良や試行錯誤の繰り返しだ。俺は丸薬の保存性を高める瓶の研究に数年も費やした。適切な素材を見つけるために、幾度も失敗を重ね、ようやく成果が出たときには、保存期間がこれまでの倍になっていた。
その成果は評価され、瓶は実際に使用されることとなった。だが、その瞬間も特別な感慨は湧かなかった。ただ、これでまた一つ進んだのか、と淡々と受け止めていた。
そうして、気づけば何年かが経っていた。
ある日、金髪のうねる長い髪を持つ女性が、工房を訪ねてきた。鋭い視線を放ち、堂々とした態度のその女性は、自らをエリザベスと名乗った。工房内にいる全員に向けて、王命による人材の引き抜きに来たと宣言する。
あまりに唐突な話に、工房中の魔術技師たちは顔をしかめた。自分たちの研究の成果や仲間が、いきなり奪われるような感覚に反感を抱いたのだろう。しかし、エリザベスは周囲の反応を意にも介さず、視線を鋭く巡らせていた。
そして、何の因果か、俺が彼女の目に止まった。エリザベスは俺を見つめると、すぐさま引き抜きを決めたようだった。心のどこかで抵抗感が生まれたが、相手が王命を受けた人物とあっては断れるはずもない。さらに、収入が間違いなく上がるという現実的な考えも頭をよぎった。
こうして、俺は新たな勤務先へと移ることになった。
そこは、研究所というには奇妙な場所だった。孤児院で、広いホールには小さな机や椅子が並んでいた。机の表面には子供たちが残した落書きが散見される。
壁には六枚の羽根を持つ天使が描かれていた。それは、この国の国教である聖王国教会の最上神――セラフの姿であり、金の聖杯を高く掲げている。天井近くまで描かれたそのセラフは、光輪を輝かせながらこちらを見下ろしていた。神がこの場所を支配しているかのような、得体の知れない威圧感が全体に満ちていた。
ホールには数人の子供たちがいた。しかし、俺とエリザベスが姿を現すと、彼らは一瞬にして硬直するか、あるいは逃げるように走り去っていった。その怯えた様子が、ここで何が行われているのかを何となく暗示しているようだった。
同僚は三人しかおらず、それぞれが独特な雰囲気を持っていた。
一人目はオリヴィエ・カーヴェル。小柄で華奢な体型をした青年だ。焦げ茶の髪に灰色の目、眼鏡をかけた姿が特徴的で、研究着を常に身にまとっていた。不安げな表情が彼の常であり、何かに怯えているかのように見える。
二人目はマルグリット・スフォルツァ。緑色の目を持ち、ブロンドの髪をまとめている女性だ。研究に没頭しすぎているせいか、肌は青白く、まるで陽の光を長らく浴びていないかのようだった。
三人目はロイ・フラヴィアン。長い黒髪を後ろで束ね、冷徹な雰囲気を漂わせた男性だ。薄い青灰色の瞳を持ち、身だしなみは常に整えられていた。彼の視線には、相手を見透かすような鋭さがあった。
研究所に入り、初めて本格的な業務が始まった頃、俺はこの場所で行われている研究の実態を知ることになった。それは、人体実験だった。
何かがおかしいと感じていた俺に、エリザベスが近づき、静かに笑みを浮かべながら言葉を投げかけてきた。
「知っていると思っているのだけれど、この研究は王命なの。魔術の神髄を追求するのがこの研究の目的よ。……分かる? あなたにここから退くという選択肢はないの。あなたにはこの研究と共に死ぬか、この研究のことを公言しようとして死ぬかのどちらかしかないわ」
その冷たい言葉に、思わず背筋が凍りついた。
「フフフ、そんな怯えた顔をしないで頂戴。ここの実験対象は、全員犯罪奴隷よ。死罪に匹敵する悪いことをした子たちなの。処刑までを無為に過ごすより、未来の為にその命を使った方がいいでしょう? これは生命の有効活用なのよ」
エリザベスの言葉は淡々としていて、まるで日常の延長として語られていた。だが、その内容は重く、吐き気を催すほどの現実を突きつけてくる。
そんな話を彼女が囁いた後、視線をホールに向けると、子供たちが十数人ほど集まっていた。その半分ほどの髪が白く、全員が五歳くらいから十代半ばほどの年齢に見える。清潔な白い服を着せられた彼らは、エリザベスと俺を怯えた目で見つめていた。
犯罪奴隷とは言っていたが、予想していたような粗雑な扱いではない。意外と環境は整えられており、子供たちも服装はきちんとしている。これならば、思っていたほど悪くはないのかもしれない。
俺はふと考えた。もし人間を実験の対象にできるならば、医術の発展には大きな貢献をもたらすだろう。倫理的な問題は無視できないが、確かにこれは効率的な方法だ。だからこそ、秘密裏に進められているのかもしれない。
そんな思考に沈んでいた時、ふと目を引く存在がいた。
顔に斜めに走る傷跡を負った少年が、年上らしき子供たちの後ろに隠れてこちらを見ていた。年の頃は十歳くらいだろうか。栗色の髪のその少年のオニキスのような黒い瞳が、不安げに揺れている。
少年の視線が俺と交わると、彼は小さく震えながらさらに後ろへと身を隠した。怯えた目が、ここでの彼の過去を物語っているようだった。
俺は彼から目を離せずにいた。この場所で何が行われてきたのか、これから何が行われるのか、その一端を垣間見た気がした。
実験の内容は、想像を絶するほど凄惨なものだった。痛みを軽減する技術など存在せず、子供たちはただ痛みに耐えるしかなかった。手足を拘束された彼らには、舌を噛み切らないように器具を噛ませたり、布を詰めたりするだけの対策が施される。研究所の中に響くのは、押し殺された悲鳴や苦痛に喘ぐ声ばかりだった。
俺は、監察官という役割を与えられていた。実験が終了した子供たちは、一時的に独房に収容されることになっていた。そこで、傷が癒えるまで休息するのだ。彼らの身体には特殊な魔術式が刻まれており、驚異的な速度で傷が回復していく。その回復具合を確認するのが、俺の主な業務だった。
とはいえ、ただ見ているだけというわけにはいかない。実験の過程も結果も全て記録する必要があった。その過程を観察するたび、俺の神経は徐々に削り取られていくようだった。
手術や魔術実験の施術を担当していたのは、エリザベスとロイだ。二人は手際が良すぎるほど冷静に仕事をこなしていく。俺やオリヴィエが補佐に回ることもあったが、特にオリヴィエはこの仕事に対して明らかに消極的だった。
ある日のこと、いつものように手術が終わり、俺たちは観察記録の整理を進めていた。オリヴィエは顔色が悪く、肩を小刻みに震わせていた。
「……ダリオン氏、辛くないんですか?」
彼は控えめにそう尋ねてきた。その声には、恐怖と疲労が滲んでいた。
「辛くないわけがない。でも……俺たちにできるのは、ここで求められている仕事をこなすことだけだ」
自分でも冷たく響く言葉だと思ったが、それ以上言葉が出てこなかった。オリヴィエはその答えを聞いても納得がいかない様子で、さらに言葉を継いだ。
「でも……これ、本当に必要な研究なんでしょうか? 医術の為、未来の為って言ってますけど、本当に役に立つんですか?」
その言葉に俺は一瞬返答を詰まらせた。確かに、今の研究はおそらく基礎研究に近いもので、具体的な医術への落とし込みは出来ていないように思う。
「考えてもどうにもならないことだ。俺たちが疑問を抱いたところで、状況が変わるわけじゃない。……お前も分かってるだろ?」
オリヴィエは俯いて、震える手でメガネを押し上げた。
「分かってますよ……でも、怖いんです。このままだと、僕たちも心まで壊れてしまいそうで……」
俺は沈黙したまま彼の言葉を聞いていた。確かに、オリヴィエの不安は俺自身も感じていたものだ。だが、それを誰かに打ち明けることで救われるわけではない。
その時、遠くからエリザベスの足音が響いてきた。オリヴィエは反射的に身をこわばらせる。
「とにかく、今は仕事に集中するしかない」
俺は静かにそう言い、オリヴィエの肩を軽く叩いた。彼はわずかに頷き、震えながらも記録整理を再開した。
一方でロイは、実験が終わるといつも淡々としていた。彼は結果至上主義で、子供たちの恐怖や痛みなど意に介していなかった。子供たちは彼を一目見るだけで距離を取り、怯えたように視線を逸らしていた。
俺は改めて、この場所の現実の重さに押し潰されそうになりながら、記録用紙にペンを走らせた。
ある日、独房の監察業務を行っていると、頭を掻き毟りながらマルグリットが突然現れた。普段、彼女は新規の魔術式開発に没頭しており、ぶつぶつと独り言を言いながら紙と向き合っていることが多かった。俺たちと顔を合わせることも少なく、まともな会話をする機会などほとんどない。
「……どうしたんだ、マルグリット?」
そう問いかける間もなく、マルグリットは両手で頭を掻き毟りながら叫んだ。
「ああああああああ! いつも、いつもいつも、うるさい、うるさいうるさいうるさい! ガキ共の叫び声で、頭が割れそうなんだよおおお! 全部黙らせろよおおおおお! 耳が、耳がもう限界よ! お前えええ! 何とかしろよおおお!」
その声に思わず体が固まる。彼女は異常なほど取り乱していた。俺の胸倉を掴むと、血走った目で顔を近づけてくる。
「何でもいいから、早くガキ共を黙らせろよ!! うるさいんだよ! 限界限界限界限界、もう限界なのよおおお!!」
その力は異常なほど強く、彼女の手が震えているのが伝わってきた。
「……子供たちは痛いから叫ぶんだ。実験の痛みに耐えるために、どうしても声を出さないと抑えられないんだ」
俺が静かに説明すると、マルグリットは一瞬驚いたように目を見開いた。そして、突然表情が明るくなり、狂気じみた笑顔を浮かべて叫んだ。
「……痛いから叫ぶのよ! 痛くなければいいんだわ!」
そう言い放つと、彼女は興奮した様子で踵を返し、足早に独房を後にした。
数日後、事件が起こった。
それは突然のことだった。静寂が支配していた孤児院の地下に、耳をつんざくような絶叫が響き渡った。空気が震え、壁に反射した声はまるで獣の咆哮のように何度も反響する。孤児院の地下にあるマルグリットの研究室で彼女が叫んだのだ。
「マルグリット!? 何があった!」
オリヴィエと共に慌てて駆け込むと、研究室の床にはマルグリットが倒れていた。彼女の四肢は痙攣し、瞳は左右上下にぐるぐると動き回っている。異常な様子に言葉を失った。
「マルグリット氏、しっかりしてください!」
呼びかけても反応はない。彼女の体は小刻みに震え、床には失禁の跡が見えた。オリヴィエが恐る恐る部屋の中を見回し、鉄板に刻まれた魔術式と、マナを流し込むための端子が転がっていることに気が付き、俺に教えてくれる。
「これ……魔術式の逆噴射が起きたのかもしれない……」
オリヴィエは青ざめた顔でつぶやいた。
「逆噴射……?」
「マナを吸いすぎた魔術式が暴走して、制御できなくなることです。見たところ、彼女の体表には魔術式は見当たらないので……内臓や皮膚の内側に定着している可能性が……」
説明を聞きながら、俺は呆然とするしかなかった。その時、エリザベスが姿を現した。
「何事かしら?」
彼女は倒れたマルグリットを一瞥すると、無表情のまま研究資料を手に取り、ページをめくり始めた。そして、資料を見ながら口元に微笑みを浮かべた。
「……素晴らしいわ、マルグリット。いつの間にやら感覚遮断の研究をしていたのね。あとは私が引き継いで、使いやすい形にしてみせるわ」
エリザベスはロイを振り返り、淡々と指示を出した。
「マルグリットには退職頂きましょう。後をよろしくね、ロイ」
その言葉に、俺は思わず声を上げた。
「……マルグリットをどうするつもりなんだ?」
エリザベスは軽く肩をすくめ、何でもないことのように答えた。
「しばらく観察するわ。回復の見込みがないなら、適当な理由をつけてご家族の元へ帰してあげる。それくらいしか、出来る事ってないのではなくって?」
その冷酷さに、オリヴィエが真っ青な顔で口を押さえた。そして、我慢しきれなかったのか、小走りで部屋の隅に向かった後、彼が嘔吐する音が聞こえた。
エリザベスはわずかに顔を顰め、オリヴィエに目をやると、若干の嫌悪感を滲ませた声で言った。
「……やぁね。掃除はしておくのよ」
そう言い残し、彼女は部屋を去っていった。
恐怖と混乱が胸の中で渦を巻き、何が起きているのか理解できなかった。目の前の光景が現実とは思えず、心臓が締め付けられるように鼓動を速める。言葉を発することすらできず、足は地面に縫い付けられたように動かない。
ロイが冷徹な視線を保ちながら、マルグリットを何の躊躇もなく肩に担ぎ上げた。その動作はあまりにも自然で、まるでいつも通りの仕事をこなしているかのようだった。その無感情さに戦慄が走る。
どうしてこんな状況で、そんなに平然としていられるんだ?
俺は思わず目を見開いたまま、ただ彼の姿を見つめるしかなかった。頭の中が真っ白になり、逃げ出したい衝動すら抑え込まれていた。恐怖に囚われ、現実が遠のくような感覚が俺を支配していた。




