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073.深い闇の中

 しばらくその場に立ち尽くし、俺たちはただ呆然と目の前の状況を見守っていた。ライラさんの泣き声が玄関ホールに響いている。この口髭の男性が、ダリオンさんなのだろうか。

 ダークブラウンの髪が顔にかかり、表情が若干見えにくい。それでも、わずかに見える顔色は悪く、まるで深い疲労と痛みを抱えているようだ。

 ライラさんがその腕にしがみつくようにして、泣きながら大声でわめいている。そのせいで、男性はほとんど動けていない。腕を引き摺るようにして外へ向かおうとしているが、足元はふらつき、歩みもおぼつかない。

 ライラさんは、そんな彼の腕にぶら下がるようにして、必死に引き留めようとしている。しゃがみ込んで泣きながら、叫び声を上げていた。


「うわあああああん! パパ様やだああぁぁ!」


 その声は、耳を突き刺すような必死さを感じさせる。それでも、男性が一歩踏み出そうとするごとに、ライラさんの力がさらに強くなっていくのがわかる。彼女は、年齢不相応な駄々っ子のように、必死で男性にしがみついていた。彼女の大きな目は涙で潤んで、まるで小さな子供のように、「やだやだ」と繰り返しながら、男性を引き止めようとしている。


「もー! おっさん、何やってんだよ!」


 突然、横でセシルさんの怒鳴り、俺は思わず顔をしかめた。その怒鳴り声と同時に、セシルさんが軽く男性に足を払いかけるのが見えた。


「ッ!」


 男性がバランスを崩し、床に倒れる。その姿がまるで崩れた人形のようで、思わず息を呑んでしまう。


「ダリオンは怪我人なんだから、大人しく寝とけよ!」


 その言葉に反応したのは、男性――ダリオンさんではなく、ライラさんだった。彼女はダリオンさんに引きずられるように尻もちをついたが、すぐに立ち上がり、玄関脇に置かれていた剣を引き抜くと、勢いよくセシルさんに向かって突進していった。


「パパ様に痛いしないで!」


 周囲が反応するより早く、ゴシャッという鈍い音が響いた。剣の刃がセシルさんの頭に叩きつけられたのだ。刃が額の中ほどまで食い込み、血飛沫が俺の足元に飛び散る。思わず、喉の奥から引きつったような悲鳴が出た。


「……っざけんな! ライラてめぇ! 脳みそこぼれたら、馬鹿になっちまうだろーが!」


 セシルさんが右腕でその剣を振り払い、もはや機能の大半を失ったハンチング帽を床に叩きつけながら怒鳴った。

 彼はその怒りのままに、ライラさんを無理矢理引き離すようにして力強く抱え上げる。小さな体が空中に浮かぶと、セシルさんはそのまま勢いよく振り払うように彼女を放り投げた。ライラさんは空中でひと際大きな悲鳴を上げ、次の瞬間、フィオナさんに直撃していた木製の椅子の上にドスンと音を立てて落下する。彼女の身体が強くぶつかる音が広間に響き渡ると同時に、バキリと何かが折れるような音も同時に耳に届く。椅子の折れた音に交じって、別のものが折れた音もする――おそらく、彼女の骨だ。

 思わず俺はリリィ、ヘンリーさん、ユアンさんと顔を見合わせて、息を呑んだ。


(……これが、不死者同士の喧嘩ってやつか?)


 常識が通じねぇ。派手すぎるし、ありえねぇ動きの連続だ。お互いが本気で怪我を負い合っているのに、やめる様子はない。彼らにとっては日常なんだろうが、俺たち一般人からすりゃ、常識外れにも程がある。


「……おいおい、これ、平気なんだよな?」


 思わず口に出してしまうと、リリィが横で苦笑いを浮かべる。


「えっとぉ……大丈夫……だったはず、ですけどぉ……」


 その言葉に、俺は改めてライラさんが転倒した椅子の方を見やる。呻きながらも、ライラさんはどうにか起き上がろうとして、途中でそれを諦めて大声で叫んだ。


「うわああん! セシルの馬鹿あぁ!」

「馬鹿はてめぇだろ馬鹿! 軽くおっさんに足払いしただけじゃねーか!」

「パパ様痛いなのにいいい!」

「俺も痛ぇよ!」


 ヘンリーさんは早速、床に倒れたままになっているダリオンさんを抱え起こし、ユアンさんがダリオンさんの様子を確認する。顔色こそ悪いが、特に体に不調はないらしい。ユアンさんがほっと息を吐き、安心したような笑みを浮かべた。


「ダリオンさん、何やってんすかぁ。大人しく療養してくださいよ。ヘンリーだって、アティカスさんだって、良いって言ってんすからぁ」

「……」

「ダリオン殿? ひとまずベッドに戻りませんか? 我が家としては、まずご自身のお身体を大事にしていただきたいのですが……」


 ヘンリーさんが丁寧な口調で諭すと、ダリオンさんはゆっくりとヘンリーさんを見上げた。目には疲労と迷いの色が浮かんでいる。だが、何も言わず、沈黙する。

 ユアンさんがダリオンさんの腕を軽く支え、もう片方の手で額に触れた。


「……ん? ちょっと熱っぽくないすか? 無理もないっすよ、脚ボロボロなんすから。動くのは回復してからにしてくださいよ」


 ユアンさんの言葉に、俺たちもようやく状況を飲み込む。

 ダリオンさんはライラさんに引き止められながらも、何か理由があって、突き動かされるようにして外へ出ようとしていたのだろう。けれど、この状態では到底まともに動けるはずがない。

 ヘンリーさんはダリオンさんの肩を支えながら、優しく促す。


「どうぞ、安心してお休みください。ここでは誰もあなたを責めたりしませんよ。兄上もライラも、まずはダリオン殿が元気を取り戻すことを望んでいるのです」


 しばらくの間、ダリオンさんは言葉を発することなく、やがて小さく頷いた。それを確認すると、ヘンリーさんとユアンさんは連携して彼を支えながら奥の部屋へと歩いて行く。


「俺たちは……どうする?」


 俺がリリィに視線を向けて問いかけると、リリィは少し考えた後、静かに答えた。


「今日は取材の予定だけ取り付けて、ひとまず引き上げましょうか。今の状態じゃ、まともに話は聞けなさそうですしねぇ……」


 俺たちは同意し、ヘンリーさんたちが戻ってくるのを待った。少しして、ヘンリーさんが一礼しながら現れる。


「ここまで来てもらっておいて、申し訳ない。ここを出る時はライラがダリオン殿に何か怒鳴っているだけだったので、彼女に席を外させれば問題ないと思っていたのですが……。取材は、また明日以降に改めて行うのが良いでしょう。ダリオン殿には、今は少し身体を休めることに集中してもらわねばなりません」

「了解したよ。助かる、ヘンリーさん」


 俺がそう答えると、ヘンリーさんは静かに微笑んで頷いた。


「では、宿泊の件ですが……お決まりでしょうか? お近くの宿を手配することもできますが」

「ああ、ありがとう。でも宿は一応目星をつけてあるから、大丈夫だ」


 俺がそう告げると、ヘンリーさんは納得したように小さく頷いた。


「かしこまりました。どうぞ、ごゆっくりお休みください」

「お大事に、ダリオンさんによろしくな」


 そうして俺たちは邸宅を後にし、ノルドウィスプの夕闇が静かに広がる中、宿へと歩みを進めていった。





 俺は、うめき声をこらえながら、ベッドの硬い感触に身を沈めた。

 エリザベスに弄り回された足の痛みが鈍く残り、全身が酷く重い。さっきまで俺を止めようとしたライラの声が、未だに頭の中でぐるぐると反響している。だが――痛みや疲労よりも、もっと深いものが胸の奥を抉り続けていた。


(本当なら、俺はもっと早いうちに死ぬべきだった)


 そうだ。処刑場に引き出されたあの日、俺はあそこで終わるはずだった。

 数え切れないほどの命を奪っておきながら、ただ思考停止していただけの存在だった俺に、生きる資格なんてあるわけがない。あの瞬間――それで全てが終わるはずだったんだ。


 だが……ライラが俺を救い出した。危険を顧みず、何の迷いもなく。

 あの小さな少女は、目に涙を浮かべ、それでも無理に笑顔を作り、俺を救い出したのだ。彼女の腕は細く、俺を引っ張るには頼りなさすぎたはずだ。それでも、あの時の彼女の力は、何よりも強く感じた。

 俺は今、こうして生き延びてしまった――無様にも。

 ライラにとっては「助ける価値がある人間」だとでも思ったんだろう。だが、それがどれほど間違っているか、俺は痛いほど分かっている。


(……何が「パパ様」だ。もっと前に訂正しておくべきだった)


 ライラは俺を、まるで家族のように慕ってくれる。だが、その呼び方が、いつも俺の胸を締めつける。彼女のその無垢な笑顔を直視するたび、俺は自分がどれほど汚れた存在なのかを思い知らされる。こんな俺が、彼女の保護者ヅラをする資格なんて――。

 俺は、右手を額に当てた。熱があるのか、頭の芯がぼんやりとしている。


(終わらせたい……)


 そう思うたび、処刑場でのライラの言葉が耳に蘇る。「パパ様……遅くなってごめんね。迎えに来たんだよ」――あの言葉が、まるで鎖のように俺を縛り付けている。

 俺が終わりを選ぼうとするたび、彼女がその選択を拒絶する。


 ……そうか。

 あの処刑場で、ライラが俺を救ったのも、結局は同じようなことだったんだろう。

 ライラは、俺がいなくなってしまうことを恐れている――それは愛情というにはあまりにも歪んだ執着だ。俺が自分の贖罪に執着するのと同じように、彼女もまた歪んだ愛情に執着してしまっているのだ。


 彼女は狭い世界しか知らない。

 生まれてからずっと、外界を遮断された実験施設の中で育ち、ただ人体実験を繰り返されてきた。普通の家庭や、まともな人との繋がりなんて一切知らずに。

 彼女にとって、俺だけが「生きるために必要な親の愛をくれる人」だった。


(だから、俺を助けに来たのか……)


 俺は、保護者などと呼べる立場ではない。悪戯に、気まぐれに、中途半端な愛情のような何かを与えていただけの人間だ。

 それでも、ライラにとって俺は大切な存在になってしまったのだろう。歪んだ環境の中で、唯一の繋がり――それが俺だったせいで、あの場で無謀にも俺を助けに飛び込んできた。

 彼女をこんな執着に縛りつけたのは、他ならぬ俺自身だ。そんなことに今さら気付いた自分が、ひたすら情けない。

 俺は大きく息を吐いた。


「……ふざけるなよ」


 搾り出すように呟いたその言葉には、自分への苛立ちが滲んでいた。本当にふざけている。ライラは、俺なんかに執着してしまったせいで、あの日危険を冒した。彼女の狭い世界を少しでも広げてやるべきだった俺は――何もできなかった。


(俺は……あの子に、何をしてやれる?)


 小さく呟いた声は、部屋の静寂に溶けて消えた。俺の中で渦巻く罪悪感も、それを断ち切ることのできない未練も、どちらもどうしようもないものだ。

 ライラが守ってくれた命を、今さら捨てることなんて、もう許されないんだろう。


 だが、俺はこの先、何をして生きればいい?

 ……それすらも、まだ分からない。


 その時、部屋のドアがゆっくりと開く音がした。


「パパ様……」


 聞き慣れた、しかしどこか沈んだ声が静かに響く。振り返ると、そこにはライラが立っていた。さっきの騒動で見せた駄々っ子のような顔とは違う――沈痛な面持ちを浮かべ、真剣な瞳でこちらを見つめている。


「……ライラ」


 俺が名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと歩み寄ってくる。その動きには迷いがない。そしてベッドのすぐ脇に立つと、まっすぐ俺を見つめたまま問いかけた。


「どうしたら……どうしたら、パパ様は死なないって言ってくれるの? 死にに行くの、やめてくれるの?」


 その言葉はあまりに重たく、心の奥をえぐるようだった。俺は答えに詰まり、視線を逸らしてしまう。


「ライラ……俺は――」


 だが、言葉が出てこない。

 ライラは何も言わず、ベッドの端に腰掛けると、俺の上半身をそっと起こした。彼女の手が震えているのが分かる。それでも、彼女は俺を優しく抱き寄せた。


「……大丈夫よ。わたしがずっと一緒にいるから。わたしが、パパ様を守るから」


 その声はどこか囁くようで、甘くも悲痛な響きを帯びていた。

 そして――ライラは、俺の唇にそっと口付けた。


 全身が硬直する。……違う。これは――


「ライラ……やめろ」


 震える声で制止しようとするが、一度唇を離した彼女は、さらに強く俺を抱きしめる。

 その行為には、どこか歪んだものを感じた。性愛と、親への無垢な愛情。それが一体となってぐちゃぐちゃに絡まり合っているのが、肌を通して伝わってくる。


(――違う。こんなのは間違っている……!)


 思わず俺は、ライラを突き飛ばしていた。


「きゃっ!」


 ライラが短い悲鳴を上げ、ベッドの端に倒れ込む。彼女は目を見開いたまま、俺を見つめている。その表情は、絶望そのものだった。

 俺は我に返り、慌てて体を起こすとライラの肩を抱きしめた。


「……すまない、ライラ。お前を突き飛ばすつもりじゃ……」


 言い訳じみた言葉が、喉から漏れる。

 だが、ライラの瞳からは涙が溢れ出し、彼女はその場で嗚咽を漏らし始めた。


「……パパ様が……突き放すなんて……嫌だよ……わたしと一緒にいて……もう、消えないで。死なないで……」


 俺はその言葉を聞いて、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚える。どうすればいい? 俺は一体、何をしてしまったんだ?


(……もう、俺にはどうすることもできないのか)


 ライラを抱きしめながら、俺は自分の絶望を噛み締めていた。

 彼女を守るつもりだった俺が、今や彼女を縛り付けてしまっている。その現実を突きつけられながら、俺は深い闇の中を彷徨っていた。

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