070.眼鏡
朝の仮眠室に、柔らかな日差しが差し込んでいた。窓越しに街の様子をぼんやり眺めながら、俺は椅子に腰を下ろしていた。
最近、どうにも遠くが見えないことに不安を覚えることが増えた。外を行き交う人々の輪郭はぼやけていて、視線を凝らしてもはっきりと顔を確認することができない。護衛として、危険を察知するための視界がぼやけているなんて、致命的なのではないだろうか。
昨晩もそうだ。オカルト雑誌「クロニクル・トレイル」の建物外になんらかの気配は感じたが、それが明確に何であるかは分からなかった。眼鏡があれば、少しは気付けるものがあったかもしれない。
「……どうしようかな……」
思わず独り言が漏れる。眼鏡を作るべきなのは分かっている。でも、無一文の俺が眼鏡が欲しいと言い出すのは、なんだか図々しい気がして気後れする。
扉が控えめにノックされる音がした。俺は反射的に顔を上げた。
「ヴェルナードさん、いますか?」
ロベリアさんの声だ。応える前に扉が少し開き、彼女が顔を覗かせた。
「……どうかしたんですか? なんだか考え込んでるみたいですけど」
彼女は俺の顔を見て、少し眉を寄せた。余計な心配をさせてしまったらしい。
「あ、いや……その、ちょっと……今は眼鏡がないから、遠くが見えにくくて心配だなと思いまして」
言葉が詰まりそうになるのを堪えながら、正直に答える。ロベリアさんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに落ち着いた表情で頷いた。
「そうですか。それなら、眼鏡を作りに行きましょう。トーマス編集長に相談すれば、費用のこともなんとかなると思います」
さらりとした言い方に、俺は思わず目を見開いた。
「で、でも……本当にそこまでしてもらっていいんですか? 俺、そんな……」
どうにも、申し訳ない気持ちが先に立つ。ロベリアさんは軽く首を振りながら、微笑んだ。
「必要なものは必要です。護衛役として、視界を整えるのは当然のことですよ」
俺は彼女の真っ直ぐな目を見て、何も言えなくなる。ただ静かに頷くしかなかった。
「……ありがとうございます。お、お願いします」
ロベリアさんは小さく笑った後、「準備ができたら声をかけてくださいね」と言い残して扉を閉めた。彼女の気遣いには感謝しかないが、正直、自分の情けなさが胸に突き刺さる。
眼鏡か……いくらかかるんだろう。
俺は心の中で呟いてから椅子を立ち、ロベリアさんから借りている仮面をゆっくりと顔に装着した。
「ヴェルナードさん、少し話せるか?」
ロベリアさんが立ち去ってすぐに、トーマスさんの低く落ち着いた声が通信社の仮眠室に響いた。声の方を振り返ると、彼はドアのところで腕を組んで立っていた。
「はい、何でしょうか?」
トーマスさんにそう答えると、彼は軽く顎をしゃくって俺に近づいてきた。その視線はいつものように冷静で鋭い。
「ロベリアから聞いたが、最近遠くが見えないことが多くなっているそうだな。そういや、最初にお会いした時、眼鏡をしていたのを思い出したよ」
「……そうですね。その、少し不便を感じています」
俺は少し言葉を詰まらせながら返事をした。ロベリアさんに相談したことが既に伝わっていることに、ほんの少し驚きもあった。
「なら、眼鏡を作った方がいい。護衛として視界がぼやけているのは危険すぎるからな」
トーマスさんは少しだけ声を落とし、静かに続けた。
「費用の心配はせんでいい。通信社の経費で建て替える。ヴェルナードさんが護衛として全力を尽くせる環境を作るのは、こちらにとっても意味のあることだ」
「で、でも……本当にそこまでしていただいていいんでしょうか?」
俺が戸惑いながら尋ねると、トーマスさんは短く息をつき、わずかに口元を緩めた。
「若いんだから、困ったときは素直に周りを頼れ。ヴェルナードさんは護衛として十分に働いてくれている。眼鏡を作るのに躊躇する必要なんてない」
その言葉には揺るぎない確信が感じられた。俺はそれ以上何も言えず、頭を下げる。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
緊張しながらそう答えると、トーマスさんは頷いて少しだけ微笑んだ。
「ロベリアに付き添ってもらえ。俺にはよく分からんが、服だの眼鏡だの、ロベリアは詳しいらしいからな」
「わかりました。行ってきます」
俺が軽く頭を下げると、トーマスさんは再び冷静な表情に戻り、仮眠室を後にした。
◆
街中の喧騒を背に、俺たちは小さな硝子工房の扉を開けた。木製の看板には「視界屋」と書かれている。店内に一歩踏み入れると、硝子と木の混じり合った独特の香りが漂ってきた。
奥では、年配の男性が何かのレンズを磨いている。その動きは手慣れていて、作業に集中している様子が伝わってくる。俺は少し緊張しながらロベリアの後ろに立った。
「いらっしゃい」
男性が作業の手を止め、俺たちに気づいて顔を上げた。白髪混じりの髪を後ろでまとめ、眼鏡越しにこちらをじっと見てくる。職人気質な鋭さを感じるが、その表情はどこか穏やかでもあった。
「あの、眼鏡を作りたいんですが……」
ロベリアさんが一歩前に出て丁寧に話す。その隣で俺は軽く頭を下げた。
「おや、必要なのは君か」
職人が俺を指さしながら近づいてきた。俺は少し言葉に詰まりながらも、「はい、お願いします」とだけ答えた。
「まずはフレームを選んでもらおうか。その後、視力を測るよ」
彼がカウンターの下からいくつかのフレームを取り出して並べた。金属製や木製、飾りがついたものやシンプルなものまで、さまざまな種類が揃っている。
俺は慎重にそれらを見つめた。選択肢が多いのはいいが、どれを選ぶべきかさっぱり分からない。耐久性を重視した方がいいのか、それとも軽さなのか――。
「こういうの、全然分からないんですけど……。どれが、一番頑丈なんですか?」
正直に尋ねると、職人は少し笑った。
「頑丈さを求めるなら、これだろうな」
彼が差し出したのは、太めの金属フレームだった。見た目はやや無骨だが、確かに丈夫そうだ。
「そ。そうですね。それにします」
「丈夫なものを選ぶのはいい判断です。荒っぽい状況でも長持ちするだろう」
俺は迷うことなくそれを手に取り、軽く重さを確認した。少し重いが、これなら壊れる心配は少なそうだ。俺の選択に対する職人の言葉に、俺は安心感を覚えながら頷いた。
「これでお願いします」
選択を終えると、職人が「よし、じゃあ次は視力を測るぞ」と作業を進め始めた。職人が測定用の器具を取り出し、レンズを交換しながら次々と質問をしてくる。「こっちはどうだ? こっちは?」と言われるたびに、俺は少しずつ返事を返していった。
しばらくして、職人が手を止めてメモを書き始めた。
「レンズの製作には数日かかる。完成したら取りに来てくれ」
「わかりました。よろしくお願いします」
俺は軽く頭を下げた。だが、次の瞬間、職人が口を開いた言葉に少し戸惑った。
「で、支払いはどうするんだ?」
「費用は、カリストリア聖王国通信社が建て替えます」
ロベリアさんがすかさず口を挟んでくれた。その声は落ち着いていて、自然と俺も安心感を覚えた。
「なるほど、経費か。そういうことなら問題ない」
職人は納得したように頷き、作業台へ戻った。俺はロベリアさんに向き直り、小さな声で言った。
「……助かります。本当に……」
「気にしないでください。必要なものは整えるべきですから」
ロベリアさんは穏やかに微笑んだ。その優しさに、俺はただ静かに頭を下げるしかなかった。
フレームの選択を終え、職人に完成を託して、俺たちは工房を後にした。数日後には、この小さな硝子の道具が、俺の視界を支えてくれることになる。まだ実感は湧かないが、少なくとも、この選択が先を見据えるための一歩になることを願うしかなかった。
視界屋を出ると、午後の日差しが柔らかく街並みを照らしていた。硝子工房の中の静けさとは対照的に、街の通りは人々の話し声や行き交う足音で賑わっている。
「ヴェルナードさん、お腹空いてませんか?」
ロベリアが軽く微笑みながら問いかけてきた。俺は一瞬、視線を足元に落として考える。
「……そうですね、少し」
「それなら、屋台で何か買いましょう。こういう日は、ちょっとしたご馳走でもいいですよね」
ロベリアさんが楽しげに言いながら先に歩き出す。その後ろ姿に引っ張られるように、俺も足を進めた。
町の活気は相変わらずだ。屋台の店主たちが声を張り上げ、果物や焼きたてのパンを手にした客が次々と行き交っている。そんな中で、俺はどれを選べばいいのか分からず、少し戸惑いながらロベリアさんに尋ねた。
「何か、おすすめってありますか?」
ロベリアさんは振り返り、少し考えるような仕草を見せた後、近くの屋台を指さした。
「栄養が取れるものがいいですね。あそこのローストチキンと野菜のセットなんかどうですか? パンも付いていて食べやすいですよ」
彼女の言葉に従い、俺は屋台の店主に注文を告げた。香ばしいチキンの匂いが漂い、腹が少し鳴る。
「……こういうの、久しぶりです。あの、前回連れて来てもらったぶりです」
思わず小さな声で呟くと、ロベリアさんが穏やかに笑った。
「外でのんびり食事をするのも、たまにはいいですよね」
商店通りを後にして、近くの広場に足を運ぶ。日陰になったベンチに腰を下ろし、買ったばかりの食事を袋から取り出すと、香ばしい匂いが一層鼻をくすぐった。
ふと、ロベリアさんが視線を遠くに向けながら呟く。
「……エドガーさんたち、どうしてるかな」
その名前を聞いた瞬間、心の奥にざわつくような不安が広がった。エドガーさんとリリィさんは現在、北の町「ノルドウィスプ」へ取材に向かっている。しかし、彼らが今どんな状況に置かれているのか、確かな情報はまだ届いていない。
リリィさんがもたらしたノルドウィスプでの政変の兆候は、彼女自身の目撃情報に過ぎない。それでも、その渦中にヘンリーやユアンが巻き込まれているらしいという話が気にかかる。さらには、被検体仲間であるセシル、フィオナ、ライラの姿もノルドウィスプにあるとのことだ。仲間たちがその地にいると考えるだけで、俺も今すぐにでもノルドウィスプに向かうべきなのではないかという焦りが頭をよぎる。
だが、それを実行に移せば、カリストリア聖王国通信社とクロニクル・トレイルという二つの拠点が、あまりにも無防備な状態に置かれてしまう。守るべきものが多い今、安易に動くわけにはいかない。
ヘンリーは戦闘面では期待できないが、行動の素早さや立ち回りの上手さには目を見張るものがある。ユアンもまた、子猿のように身軽で、木の上や狭い路地でも自在に動ける抜群の身体能力を持つのを知っている。あの俊敏さがあれば、どんな状況でも巧みに切り抜けてくれるだろう。さらに、不死の魔術を宿したセシル、フィオナ、ライラ――彼らならば、ある程度は心配しなくても大丈夫だろう。少なくとも、一般人よりは遥かに頑丈だ。
それよりも気になるのは、現政権に反旗を翻したという第二王子の動向だ。彼の勢力は、魔術実験を白日の下に晒そうとしていると聞く。それが事実ならば、少なくとも現時点で敵対する可能性は低いだろう。しかし、その行動がどこまで踏み込んでいるのか、俺にはまだ計りかねている。
「……きっと無事だと思います」
短く答えると、ロベリアさんは小さく頷いたが、その表情にはまだ不安が残っているようだった。俺自身も、心の中で確信を持ち切れていない自分に気づく。
「でも、戻ってくるまでは気が抜けませんね」
ロベリアさんのその言葉に、俺はただ黙って頷く。
食事が進むにつれ、少しずつ緊張がほぐれていく。香ばしいローストチキンの匂いが鼻をくすぐり、温かいパンの柔らかさが口の中に広がる。久しぶりにこうして穏やかな食事を取れることが、思った以上にありがたく感じられた。
ロベリアさんが袋から小さな果物を取り出して差し出してきた。小ぶりなオレンジのような果実は鮮やかな色をしていて、皮からほのかに甘い香りが漂う。
「こういう時こそ、しっかり食べて備えましょう」
彼女の穏やかな声に、俺は小さく「はい」とだけ答えた。言葉は短いが、その背後にある気遣いが伝わってくる。
果実の皮を剥くと、手にじんわりとした果汁が滲んでくる。口に運ぶと、ほのかな酸味と甘味が広がり、疲れていた体にじわりと力が戻る気がした。俺は黙って食べ続けながら、ロベリアさんにもらったこの静かな時間をかみしめる。
食べ終わると、ロベリアさんがふと笑みを浮かべ、「少しのんびりしましょう」と促してくれた。俺はその言葉に従い、広場のベンチに腰をかけたまま、しばらく何も話さなかった。
周囲から聞こえるのは、子どもたちの笑い声や噴水の水音、そして風に揺れる木々の葉擦れの音だけだ。心地よい風が頬を撫で、昼間の明るさが少しずつ柔らかな色合いに変わっていく。
ロベリアさんは目を細めて遠くを眺めている。その表情はどこか安心しているようでもあり、少しだけ物思いにふけっているようでもあった。俺は特に声をかけることもせず、彼女の隣でただ静かに座っていた。
普段の慌ただしい時間から解放された、ささやかな休息。こんな時間があるだけで、不思議と心の重さが少し軽くなるような気がする。
ふと、隣に座っていたロベリアさんが、静かに立ち上がった。その動きがあまりにも自然だったので、最初は何をしようとしているのか分からなかった。俺は少しだけ顔を上げ、彼女の様子を伺う。
「……どうしました?」
問いかけると、ロベリアさんはこちらをじっと見たまま、一歩こちらに近づいてきた。視線は――俺の顔のあたりを見ているようだが、何を考えてのことか全く分からない。その動きにつられて、思わず背筋が伸びる。自然と目が合った瞬間、彼女がさらに一歩踏み出した。距離は手を伸ばせば届くほどに近くなる。俺は咄嗟に肩を引きそうになったが、それでも動けない。
視界いっぱいに映るのは、彼女の顔。そのまっすぐな視線――何を見ているのか分からないその目が、まるで俺を射抜くように感じられる。それだけで、鼓動がどんどん早くなっていくのが分かった。
顔と顔の距離は、たぶん肘を曲げた腕くらいだろう。そこまで他人に近づかれることは滅多にない。無防備な状態で人とこんなに近づくこと自体、久しぶりだ。
声にならない声が漏れるが、彼女の動きは止まらない。さらに一歩――今度はあとほんの少しというところまで間合いを詰めてくる。その距離の近さに、呼吸すら浅くなっていく。
「な、何か……?」
自分でも驚くほど震えた声が口をつく。だが、ロベリアさんは答えない。ただ静かに、じっと俺の顔に目を向けている。
彼女が何を見ているのか、何を考えているのか、まるで分からない。それが余計に俺を緊張させた。心臓の音が耳に響いてくる。たった数秒の沈黙が、何分にも感じられる。
そして、不意に彼女が俺の頭に手を伸ばした。その瞬間、俺は思わず顎を引いた。だが、ロベリアさんは気にする様子もなく、小さく「ああ」と納得したように頷いた。
「髪の毛……根元が見えてきてますね。白い部分が少しだけ伸びてます」
その言葉に、ようやく俺は状況を理解した。黒く染められていた髪の色が、根元から少しずつ元の白に戻ってきている。彼女が注目していたのは、それだったのだ。
「あ、ああ! か、髪の毛……!」
思わず声が裏返る。その理由が分かったのに、急に間近に来られたせいで高鳴った胸の鼓動は、まだ収まらない。
ロベリアさんは特に慌てる様子もなく、じっと俺の髪の根元を見つめたまま小さく頷くと、「染め直したほうがいいかもしれませんね」と静かに言った。その後も視線を外さずに、少し考え込むような表情を浮かべている。
「ひとまず……帽子で誤魔化すのもいいかもしれませんね。今日のうちに何とかしましょうか」
彼女がそう提案すると、俺は「あ、はい……」と答えたものの、どこか気まずさが抜けなかった。視線が頭のあたりに集中しているのが、どうにも落ち着かない。
さらに、ロベリアさんは少し笑みを浮かべて言葉を続けた。
「街中で誰かに見られたら大変ですし、このまま買いに行きましょうかね」
彼女の声には穏やかな気遣いが含まれていたが、俺はまだ鼓動の高まりを抑えられない。ついさっきまで平穏だったのに、急に近づかれたせいで頭がぐるぐるしている。
ようやくロベリアさんは少し距離を取り、何事もなかったかのように再びベンチに座る。
彼女が全く気にしていないのが、逆に気恥ずかしい。髪のことを指摘されたのは納得だが、それ以上に、俺の鼓動をどうにか落ち着ける必要があった。




