069.雑誌記者たちの危険な隠れ家
応接室でアランと会話してから、二日が経過した。あのとき、アランの身柄をどうするかで一瞬だけ議論になったが、最終的には「クロニクル・トレイルが引き取る」という形で決着がついた。もっとも、トーマスさん――カリストリア聖王国通信社の編集長――は、明らかに不安げな表情を浮かべていた。
「本当に問題ないのか?」
トーマスさんはそう言いながらも、アーレンさんの「ここに置いておくと通信社として動きにくくなる」という説明で了承した。カリストリア聖王国通信社のためにアランの身柄を移すことを、ハレックさんとアーレンさんが名乗り出たのだ。
その移動の護衛役に俺が選ばれたのは、「力があるから」という単純な理由だった。危険な目に遭う可能性がゼロではない以上、誰かがアランを守る必要がある。それが俺の役割だった。加えて、アランには移動中、髪を隠すよう指示が出された。白髪はあまりにも目立つ。それが彼に何が起きたかを語る最大の証拠であると同時に、追っ手に見つかる危険性も高める。
そして今日、俺はアランを連れてクロニクル・トレイルの事務所に向かっている。途中、アランの家に立ち寄って挨拶と連絡先の伝言を済ませておいた。
その移動中、アランは何度も髪を隠したスカーフを気にしていた。慣れない装いに違和感があるのだろう。
「ヴェルナードさん、これ……本当に隠れてる?」
アランが不安そうにスカーフを触りながら尋ねてきた。
「問題ないと思う。十分隠れていますよ」
俺は周囲を警戒しながら振り返らずに答えたが、アランの不安は完全には解消されていないようだった。
「あのさ、クロニクル・トレイルって、どんなとこなの?」
「オカルト雑誌の編集部と聞いてます。二人だけの小さな事務所で、ハレックさんとアーレンさんの他には誰もいないと聞いてます」
曖昧に答えながら歩を進めると、アランはわずかに眉をひそめた。
「あの二人、オカルト雑誌の記者だったのか。オカルト雑誌って……なんか、大丈夫なのかな」
「ええと……正直分かんない……けど、アーレンさんの方が、法律に強い人……らしいですよ」
俺の言葉に、アランは小さく「そっか」と呟いて黙り込んだ。
道中は特に異常もなく、静かな街路を歩き続ける。周囲を警戒しながら進んだが、追跡者の気配は感じられなかった。それでも油断はできない。アランのスカーフがずれそうになるたびに、俺は歩を止めて直させた。
やがて目的地にたどり着く。見るからに古びた外観の建物が目の前にそびえていた。外壁は錆びつき、窓は曇っているように見える。アランが建物を見上げてぽつりと呟いた。
「ここ……本当に大丈夫?」
「う、うん……たぶん……」
そう答えながら、俺は階段を上り始めた。アランは一瞬戸惑ったようだったが、小さく頷き、その後を追った。
埃臭い建物の四階――ここがオカルト雑誌「クロニクル・トレイル」の事務所だという。床板が軋む音がするが、建物そのものはしっかりしている。ただ、部屋に足を踏み入れた瞬間、雑然とした空気に圧倒された。
机の上には書類や新聞が山のように積み上げられており、その間にエクリヴァム――スクロール上に話した言葉がそのまま文字として筆記される魔術道具らしい――や半分飲みかけのコーヒーカップが無造作に置かれている。棚には、何に使うのか分からない水晶玉や古びた地図が押し込まれ、その隙間に雑誌のバックナンバーや資料らしき紙束がぎゅうぎゅうに詰められていた。全体的に埃っぽく、長い間掃除されていないことが明らかだ。
床のあちこちにも散らばった書類や雑誌が放置されている。明らかに急いで移動させたのだろう、机の下には適当に詰め込まれた箱がいくつも見えた。奥のほうには小さな棚があり、その上に奇妙な装飾品が並んでいるが、それすら整理されているとは言い難い。
窓際には観葉植物の鉢が置かれていたが、土が乾いて葉がしおれかけている。
アランは部屋の全体を見渡してから、首をかしげた。
「……ここ、本当に仕事場?」
「え、ええ……そうみたいです」
俺がそう答えると、アランは呆然としながらも何も言わず、ただスカーフを押さえた。
「おっ、来た来たァ! 待ってたぜェ、アラン少年ン~」
奥の机から派手な赤毛の男――ハレックさんが立ち上がる。濃いオレンジのチェック柄ジャケットを無造作に羽織り、その襟元には小さなペンダントが揺れている。
「まあ、ここでしばらく匿ってやるよォ。……とは言ったが、期待すんなよなァ? ここが安全だなんて一言も言ってねえからな」
彼は散らかった机の上に腰掛けると、ニヤリと笑った。アランは一歩前に出て、礼儀正しく頭を下げる。
「あ、ありがとうございます……助けていただいて……」
「ただで匿うとは言ってないけどなァ」
アランの言葉にハレックさんはさらに笑みを深め、返事をする。
「ついでに、この部屋の掃除を頼むわァ」
ハレックさんは周囲を見渡しながら、散らかった事務所全体を指差した。山積みの紙束、雑然と置かれたオカルト謎グッズ……どこを見ても手をつけるべき場所ばかりだ。
「……い、いやいや、俺、ここに逃げ込んできたんですけど?」
アランが思わず突っ込む。その反応にハレックはケラケラと笑った。
「だから匿ってやるって言ってんだろォ? いいじゃん、掃除くらいさァ」
ハレックさんは机に肘をつきながら、気楽そうに肩をすくめる。
「若いんだから、体動かしてナンボだろォ?」
「さすがに逃亡者に掃除させるのはどうなんだ?」
ハレックさんのその言葉に、事務所の隅で腕を組んでいたアーレンが苦笑し、苦言を呈する。彼は一応そう言ったものの、その声には本気で止める気配はない。むしろ楽しんでいるように見える。
「気にすんなってェ。掃除してたほうが気が紛れることもあるだろォ?」
ハレックさんの言葉に、アーレンさんは「まあ、そうだな」と曖昧に同意して黙り込んだ。
アランは肩を落とし、古びたモップを手に取った。床を掃き始める彼の背中からは、諦めたような空気が漂っている。
「なんで、いきなり掃除する羽目に……」
ぼやくアランの声が聞こえてきて、俺は思わず苦笑した。少なくとも、この状況でも彼が動けているのは悪いことじゃないような気がする。
埃と紙の匂いが充満する事務所の中央で、ハレックさんが新聞を広げている。その手には、セラフ天啓聖報の最新号――クロニクル・トレイルの記事への反論が大々的に載せられたものだ。
俺は横目でその新聞をちらりと見やる。普段は新聞や雑誌をあまり意識することはなかったが、セラフ天啓聖報の名くらいは知っている。聖王国の中でも指折りの権威を誇る新聞社だ。そんな大手に目をつけられたという事実に、正直、嫌な予感しかない。
クロニクル・トレイルの記事がどれほどのものだったのか、俺には詳しい事情は分からない。だが、そこに書かれた内容がわざわざ反論されるほど、相手の神経を逆撫でしたということだろう。しかも、ただの小競り合いではなく、こうして大々的に取り上げられるくらいには。
ハレックさんやアーレンさんがどれほど事態を深刻に考えているのかは分からないが、有名な新聞社に目をつけられることの危険性は、俺でも察しがつく。これは、単なる仕事の延長線上で終わる話じゃない気がした。
「うわァ、めんどくせーなコイツら」
ハレックさんがあからさまに嫌そうな顔をしながら新聞をバサリとテーブルに投げ出した。その仕草のあとには、ふと楽しげな笑みが浮かぶ。
「でもまァ、これで次の記事がもっと面白くなるってもんだ」
彼は椅子の背もたれに体を預け、机の端に置いてあったコーヒーカップを手に取った。
俺は、ちらりとその新聞を覗き見た。記事には「危険な噂に惑わされるな――魔術工房と教会の正当性を考える」との大きな見出しが掲げられ、クロニクル・トレイルの記事を徹底的に批判する文面が並んでいるようだ。
その反対側では、アーレンさんが記事をじっと見つめていた。指先で端をつまみ、丁寧に目を通しながら眉を動かしている。何かを考えているように見えるが、口を開く気配はない。
「で? 次の記事でこいつらをもっと煽ってやるかァ?」
ハレックさんがコーヒーをすすりながら、アーレンさんに声をかけた。
アーレンさんは返事をせず、視線だけで軽くそちらを向く。その無言の反応にも構わず、ハレックさんは言葉を続ける。
「秩序だの中傷だの騒いでるけどさァ、民衆が見るのは見出しとインパクトだろォ? 向こうも派手に出てきたんだ、こっちももっと、派手にやってやろうぜェ?」
彼の目がギラリと光る。それは、純粋な快楽を求める狩人のような目だ。
アーレンさんはようやく小さく笑い、軽く肩をすくめただけで何も言わない。その表情からは、彼がハレックさんの言葉を楽しんでいることだけは伝わってきた。
俺はそのやり取りを眺めながら、ふと疑問が浮かんだ。アランをここで匿うことの意味が、本当に彼らに理解されているのか――。ずっと気になっていた疑問が胸の奥から湧き上がって、思わず二人に問いかける。
「……でも、なんでここでアランを匿うんですか?」
俺の問いに、アーレンさんは新聞を畳む手を一瞬止めたが、すぐに肩を軽くすくめて口を開いた。
「カリストリア聖王国通信社を疑いの目から遠ざけるためだ。あそこに矛先が向いたら、真面目な連中が仕事にならない」
その声は平淡で、感情を一切感じさせなかった。
「でも、それだとここが狙われるんじゃ……?」
俺が慎重に言葉を選びながら返すと、先に口を開いたのはハレックさんだった。
「だから何だァ?」
ハレックさんは新聞を指先で弾くように置き、椅子にどっかりと背を預けた。その目には、底知れない好奇心が宿っている。
「未知の領域に踏み込むってのは、リスクが付き物だろォ? それを避けたいなら、記事なんて書く意味がない。俺たちは、新しい発見のためにやってるんだ」
ハレックさんはコーヒーを一口すすり、視線を宙に泳がせる。
「だから、もし追っ手が来るならむしろその方がいいねェ。そいつらが何を考えて動くのか、徹底的に観察してやるさ。むしろ歓迎だねェ、退屈しなくて済む」
その言葉には、ただの楽観主義ではなく、未知を探り出すことへの飽くなき探求心が滲んでいた。俺はその勢いに言葉を失ったが、横でアーレンさんが淡々と口を開いた。
「ハレックが狙われるとしても、大した問題ではない。私が書類上でハレックを殺してきたのは説明しただろ? また同じことをするだけだ」
平然とそう言い切るアーレンさんの横顔には、まるで何も感じていないかのような冷静さがあった。
「つまり、襲撃者が来ようが、彼の名前を消して新しい名前で再出発させればいい。簡単な話だ」
あまりにも軽く言い放つその言葉に、俺は思わず背筋が冷たくなった。
「……とはいえ、次は名前を選ばせてやることは出来んぞ、ハレック」
アーレンさんが投げかけた言葉に、ハレックさんはケラケラと笑いながら答えた。
「どーでもいいぜェ、名前なんて。俺がどんな名前で記事を書くかなんて、誰も気にしちゃいないだろうしなァ」
彼のその無邪気な笑みが、どこか怖かった。俺は、彼らが言葉にしない部分の重みを感じ取りながら、黙って視線を落とした。この事務所の空気は、俺にはまだ理解しきれないものが渦巻いている。
会話が一区切りついたところで、ハレックさんがコーヒーカップを机に置き、軽く伸びをした。そして、アランのほうを振り返り、にやりと笑う。
「そういやァ説明してなかったが、ここにいる間は好きな時に掃除して好きな時に寝て食って、自由に過ごしてていいぜェ~」
「えっ……あ、はい……」
アランは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに布を持ち直し、埃っぽい床に膝をついた。ひと先ずは目の前の作業に集中することにしたようだ。その表情には戸惑いと困惑が滲んでいる。
ハレックさんはそんな彼の様子を見て、満足そうに笑った。
「いいねェ、若いって素晴らしい。こういう地道な作業が一番成長を促すってもんだぜェ」
アランが何か言いかけたが、言葉にはせずに黙々と掃除を続ける。その姿を眺めていたアーレンさんが、ふと口を開いた。
「あ、アラン少年に対する賃金は支払う。清掃も労働である以上、正当な対価を渡すべきだ」
言葉そのものは真面目そうだったが、その声にはどこか適当な響きが混ざっている。
「えっ、お金払ってくれるんですか?」
アランが顔を上げて思わず聞き返すと、アーレンさんは小さく肩をすくめた。
「当然だ。……もっとも、ここにいる全員が対価と言う概念を知っているかは、疑問だがな」
そう言って視線をハレックさんに向けると、ハレックさんは片手を上げて笑った。
「あ? 俺を一般労働者に振り分けンじゃねェよ。だって俺は記者だぜェ? いかに世の中を驚かせるか、いかに記事を面白くするかしか考えてねェ。そんな俺が、労働の正当性なんて守ると思うかァ?」
その言葉に、アーレンさんは軽く笑みを浮かべたまま、何も言わずにまた新聞に目を落とした。
アランは肩を落としつつも、「役に立てるなら……」と小声で呟き、再び雑巾を動かし始める。埃を払う手つきは不器用だが、それでも真剣さが滲んでいる。
「頑張れよ、少年ン~。自分の寝床だけでも今夜中に確保しといてくれよなァ」
ハレックさんがそう声をかけると、アランは一瞬だけ顔を上げ、気まずそうに笑った。
窓辺に立ち、俺は外の路地をじっと見つめていた。夜の帳が降りた街はほとんど人影がなく、静まり返っている。そのせいか、かえって視線を感じるような錯覚に襲われる。どこかに潜む誰かが、この事務所を見張っているような気がしてならなかった。
「……誰かに見られている気がします」
低く呟いた俺の声に、ハレックさんが新聞をくしゃっと丸めながら軽く笑った。
「ほっとけほっとけ。追っ手が来るのなんて当たり前だろォ? そんなの気にしてたら記事なんか書けねェよ」
彼の軽い口調に、俺は無意識に眉をひそめた。
「まぁ、何もいない方が不自然まである」
アーレンさんが淡々と付け加える。その声は静かだが、確信に満ちていた。
「魔術工房から人攫いをしたのは我々だと喧伝するような記事なのだから。相手が動かない方が、よほど奇妙だ」
彼は黒縁眼鏡を軽く押し上げながらそう言った。その冷静な言葉に、俺は言葉を失う。確かに、それも一理ある。だが、だからといってこの状況を放置していい理由にはならない。
窓の外を最後にもう一度見やったが、路地は相変わらず静まり返ったままだった。ため息をついてから、俺はアランの方を振り返る。埃まみれの雑巾を手に、彼は黙々と床を拭いている。その光景が、どうにも場違いに見えた。
「……とりあえず、俺は帰ります」
俺のその言葉に、アランが顔を上げる。俺は彼に小さく頷いてから、アーレンさんの方へ視線を向けた。
「アランをよろしくお願いします」
そう言うと、アーレンさんは淡々と頷いた。
「任せろ。必要とあれば、いつでも新しい名前で再出発させてみせる」
その無機質な返答に、俺はほんのわずかな寒気を覚えた。
一瞬だけ振り返り、アランが掃除を続ける姿を確認してから、俺は静かにその場を後にした。




