064.救出作戦
工房周辺は夜の静寂。
聖騎士が麻袋を担ぐその光景は、一見何の変哲もないものに見えたが、その麻袋の端から人の足が飛び出しているのを目にした瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……人の、足?」
思わず口から漏れた声は震えていた。麻袋の中身が人間であることは明白だった。ヴェルナードさんもその光景を見て、眉間に深い皺を寄せている。
「やべェな、これ……間違いねぇ、人間だろ」
ハレックが低く呟く。その声には珍しく緊張が滲んでいた。
「どうしますか? 放っておくわけにはいきませんよね」
私は二人に向かってそう問いかけた。何もしないという選択肢は考えられなかった。このまま見過ごせば、麻袋の中の人物がどんな目に遭うかは想像に難くない。
「よし、俺が行く!」
ハレックが勢いよく手を挙げて、前に出た。その瞬間、私は慌てて彼の腕を掴む。
「待ってください! 相手は聖騎士ですよ! いきなり突っ込むのは――」
「分かってるよ、嬢ちゃん。でもよ、こういう時は勢いが大事だろォ? 任せとけって」
彼の言葉に不安を覚えつつも、止める時間はなかった。ハレックは肩をすくめながら、堂々と聖騎士の前に歩み寄っていった。
「よォ、お疲れさん! なぁ、ちょっとその荷物、中身見せてもらえねぇか?」
彼はいつもの調子で聖騎士に話しかける。その陽気さは、場違いとすら思えるほどだった。
「関係ない者は立ち去れ。工房の指示だ」
聖騎士は冷たく言い放ち、足を止めることなく通り過ぎようとする。
「おいおい、冷てぇなァ。そんなこと言わずにさァ、ちょっとだけでいいからよォ」
ハレックはさらに一歩近づき、麻袋に手を伸ばそうとする。だが、その瞬間、聖騎士が彼の腕を掴んで制止した。
「触れるな!」
その声には威圧感がこもっていた。ハレックは一瞬怯むように見えたが、すぐにいつもの調子を取り戻す。
「いやいや、確認するだけだってェ。中身が大丈夫なら、それでいいじゃねぇか?」
「必要ないと言ったはずだ。これ以上邪魔をするなら、力ずくで排除するぞ」
聖騎士の手が腰の剣に伸びた瞬間、私が一歩前に出た。
「すみません、ただ確認させていただきたいだけなんです。少しだけ、協力してもらえませんか?」
私の声には、できるだけ落ち着きと説得力を込めたつもりだった。しかし、聖騎士は一瞬だけ目を細めると、険しい表情を崩さないまま応じた。
「必要ないと言った。これ以上近づけば、容赦しない」
その言葉に緊張が高まる。だが、次の瞬間、ヴェルナードさんが素早く聖騎士の背後に回り込み、その剣の腕を押さえつけた。
「あ、あの、争うつもりはありません。ただ、冷静に話をさせてください」
聖騎士は驚きつつも振り返ろうとするが、ヴェルナードさんは力強く相手の動きを封じる。その隙に、ハレックが素早く麻袋を掴み取る。しかし、その重さに耐えきれず、彼の手から袋が滑り落ちて地面に転がった。
「くそッ、重てェ……!」
ハレックが悔しそうに呟きながらも袋を再び掴もうとするが、その間に中身がわずかに見えた。袋の口がわずかに開き、中には不自然な青白さを帯びた青年が横たわっている。
私は息を呑んだ。その光景に、背筋が冷たくなる。
「おい、運ぶぞ!」
ハレックが麻袋の一端を掴み、私は反対側を持とうとする。しかし、袋の中身――青年らしき体の重さは想像以上だった。
「お、重い! こんなの一人で担げるわけないじゃない!」
二人で何とか袋を持ち上げようとするが、うまくバランスが取れず、何度か地面に落ちそうになる。その度に、袋の中身が無造作に揺れる。
「ハレックさん、こっち持ち上げて!」
「分かってるって……よっし、いくぞォ」
何とか袋を持ち上げ、ふらふらと足を進める。しかし、動きは鈍く、逃げるにはほど遠い。重さに耐えながら一歩ずつ進む私たちを、ヴェルナードさんの気迫が支えているように感じた。
◆
視界の端で、ロベリアさんとハレックさんが麻袋を抱えようとしているのが見えた。だが、その重さに二人とも苦戦している。ハレックさんは片端を引っ張り上げようとするが、袋が持ち上がる気配はない。ロベリアさんも反対側を押し上げようとしているが、動かそうとすればするほど袋の中身がぐらりと揺れて、二人のバランスが崩れている。
焦りが胸を締めつける。聖騎士の剣を握る手首を俺は既に掴んでいるが、その力は強く、容易には押さえ込めない。このままでは二人が袋ごと捕まるのは時間の問題だ。ここで俺が踏みとどまらなければ――そう思い、力を込めて手首を捻った。
剣の刃先が揺らぎ、聖騎士の握力が一瞬緩む。その隙を逃さず、俺はさらに強く捻り上げた。手首から剣が滑り落ち、金属の音を立てて地面に転がる。驚愕と苛立ちの色が浮かんだ聖騎士の顔を見て、俺はすかさず彼の腕を背後にねじ上げた。
相手の重心を崩し、倒れ込むようにして上半身に覆いかぶさった。膝で彼の片腕を押さえつけ、もう片方の手は肩を固定するように抑え込む。体重を全て預けることで、聖騎士の動きを封じ込めたつもりだったが、相手の力は想像以上だった。足が無理に地面を蹴りつけるように動き、俺の体ごと振り落とそうとしてくる。腕が軋む感覚が伝わる。それでも、ここで手を緩めるわけにはいかない。
抑え込んだ体勢のまま、相手の動きを封じるためにさらに力を込めようとしたその時、聖騎士の手が腰元に伸びたのが視界の端に映った。次の瞬間、鈍い光を放つナイフが彼の手の中に現れた。
鋭い閃きとともにナイフが俺の腕に向かって突き出される。避ける間もなく、鋭い痛みが前腕に走った。熱がじわりと広がる感覚とともに、ナイフが皮膚を突き破り、さらに奥へと食い込む感覚が伝わってくる。
(刺された……橈骨と尺骨の間に入ったか……!)
短い判断の後、冷静に次の行動を選択する。前腕の筋肉に力を込めた後、手の甲が内になるように前腕を捩じる。自分の腕の肉の内、細い二本の骨と筋肉に挟まれたナイフが相手の手からずるっと抜けた。すかさずそのナイフの柄を掴み、少し離れた地面へと投げ捨てる。
だが、相手は怯むどころか、俺の一瞬の隙を見て膝を持ち上げた。その鋭い膝蹴りが背中を狙って飛んでくるのを感じた瞬間、衝撃が体を貫いた。強烈な打撃が背中の腎臓のあたりに食い込み、呼吸が一瞬止まる。
「くっ……!」
声を漏らすと同時に、体勢を崩されないように全身に力を込めた。だが、相手の反撃の勢いは強く、抑え込んでいた体勢が少しずつ崩れていくのを感じる。今、力を抜けば再び聖騎士が反撃に転じてしまうだろう。
俺は歯を食いしばって耐えた。ここで離せば、二人が危険に晒される。
視線の先でロベリアさんが袋を引きずるようにして動かそうとしているものの、膝をついてしまった。ハレックさんも無理に持ち上げようとしたせいで袋が傾き、二人ともバランスを崩して尻もちをつく。
「二人とも! 早く!」
祈るような思いで、二人に向かって叫ぶ。だが、二人は袋を持ち上げようと必死で、足元がふらついている。ハレックさんが額に汗を浮かべながらロベリアさんに何かを叫んでいるが、その声が耳に届く余裕はなかった。
(無理だ、このままじゃ……!)
再び聖騎士が体を捻り、反撃しようとする気配を見せた。その瞬間、俺は迷わず拳を握りしめ、奴の側頭部に向かって振り下ろした。骨に響く衝撃とともに、聖騎士の動きが一瞬止まる。だが、それでも完全には崩れない。
「……っ!」
さらにもう一撃、今度はこめかみを狙い、正確に拳を叩き込む。深い呼吸と共に、全身の力を拳に乗せた。鈍い音が夜の静寂に響き、相手の瞳孔がぐらりと揺れる。
聖騎士の抵抗が次第に弱まり、ついにはその体が完全に力を失って地面に沈んだ。俺は一瞬動きを止めて相手の様子を確認する。かすかに胸が上下しているのを見て、生きていることを確認しつつも、動かないことに安堵する。
俺は聖騎士の動きが完全に止まったのを確認すると、二人の元へ駆け寄った。肩で息をしながら、ロベリアさんが顔を上げて言う。
「すみません……。重くて」
「大丈夫、俺がやります!」
俺はそう言って麻袋に手をかけた。袋の中身が誰であれ、この場から早く離れる必要がある。全身の力を込めて持ち上げると、その重さが肩にずしりとのしかかる。
「二人とも、先に行ってください! 後ろは俺が抑えます!」
ロベリアさんは一瞬躊躇したようだったが、ハレックさんが彼女の腕を引っ張り、足早にその場を離れていくのを確認する。
肩に麻袋の重みを感じながら、俺は二人の後を追うために足を踏み出した。
◆
工房内の空気は、ひどく張り詰めていた。
研究室の中央に立つエリザベスは、その長い金髪を乱雑にかき上げながら、苛立ちを隠そうともしなかった。彼女の前に積まれた報告書の束は乱雑に散らかり、床にもいくつかが散乱している。彼女の鋭い視線に晒された部下たちは、それぞれ顔色を失いながら慌ただしく動き回っていた。
「ねぇ、これが何の役に立つのかしら?」
エリザベスが手元の報告書を手に取るなり、それを乱暴に机に叩きつける。紙の端が折れ曲がり、書かれた文字が歪んで見えた。彼女は誰にともなく問いかけるように言葉を続けた。
「ヴァリクが逃げ出したっていうのに、これっぽっちの報告しかできないなんて、本当に優秀な人材を揃えてるつもり?」
部下たちは誰も彼女の言葉に反応しない。ただうつむきながら書類を整理したり、器具を運んだりと、それぞれの作業に没頭する振りをしている。そんな彼らを冷たく一瞥したエリザベスは、呆れたようにため息をつくと、机の上に両肘をついて頭を抱えた。
「これだから、無能な連中ばかりだと疲れるのよね。しかも、あの軍務卿の干渉ときたら……」
その名前を口にするだけで、エリザベスの声には明らかな苛立ちがにじみ出ていた。最近、軍務卿からの監視が厳しさを増し、研究の自由が徐々に奪われている。特に人体実験に関しては、軍務卿からの目が厳しく、たびたび「聖王国の倫理に反する」として指摘を受けていた。
「あの頑迷なジジイ、私の仕事が何のためにあるのか分かっていないのね。これだけ役に立つ研究をしているのに、非難するばかりだなんて、滑稽だわ。何様のつもりなのかしら?」
突然、研究室の扉が乱暴に開け放たれ、息を切らした部下が駆け込んできた。顔は汗で濡れ、目には恐怖の色が浮かんでいる。
「エリザベス様! 被検体が……奪われました!」
彼の声は震えており、部屋の静けさを一瞬でかき乱した。エリザベスは、その言葉を聞いても動じることなく、ゆっくりと顔を上げた。そして、冷たく笑いながら軽く肩をすくめる。
「被検体? ああ、あの失敗作のことね。心配しないで。あんなもの、どうせ役に立たない失敗作よ。いなくなっても何の問題もないわ。ザフランがいるもの」
「で、でも……」
部下が口ごもると、エリザベスはわざとらしい無関心を装いながら彼を見下ろした。
「なぁに? 失敗作は戦場で使わないでしょう?」
その言葉に、研究員は何も言えなくなり、うつむいて黙り込んだ。エリザベスは彼の反応に満足したのか、再び机に向き直ると、新たな実験の準備を始めた。
その時、突然研究室の扉が勢いよく開け放たれた。重い足音と共に、軍務卿ガルヴェイン・ストラグナーがその姿を現す。その背後には二人の聖騎士が付き従い、無言の威圧感を放っている。
「エリザベス!」
軍務卿の声は低く鋭かった。その怒りは、部屋全体を瞬時に冷え込ませるほどの迫力を持っていた。エリザベスはその声を聞いても動じることなく、わざとらしい笑みを浮かべる。
「あら、いらっしゃい。どうしたの? 今日はまた、どんなつまらないお説教をしに来たのかしら?」
その挑発的な態度に、軍務卿の顔はさらに険しくなる。彼はエリザベスに向かって一歩踏み出し、怒りを押し殺すような声で言った。
「説明しろ。不始末を起こした聖騎士を、勝手に被検体に転用した件についてだ」
「説明も何もないわ。アラン君はいずれにせよ、処罰の対象でしょう? 死罪か何罪か知らないけれど、せめて研究の材料にしてあげれば、その方が少しはマシだと思ったのだけれど?」
エリザベスの冷笑に、軍務卿の顔が赤く染まる。彼はさらに一歩前に踏み出し、拳を握り締めながら声を荒げた。
「貴様……儂の聖騎士たちを、何だと思っている!?」
「何って? ただの資源よ。消耗品でしかないわ。あなたも同じでしょう? 研究室で殺すのと戦場で殺すの、何の違いがあるのかしら? あなたの初陣に連れて行かれた聖騎士が、一体何人死んだかお忘れ?」
エリザベスの言葉は、冷たく無情だった。その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が凍りついた。部下たちは息を呑み、聖騎士たちも険しい表情を浮かべている。だが、エリザベスはその反応を楽しむように微笑み、さらに言葉を続けた。
「戦場で無駄死にさせるのが、そんなに尊いことなのかしら? 私の研究で役立つデータを残した方が、よっぽど意味があると思うけれど?」
軍務卿の拳が震えている。彼の怒りは頂点に達していた。だが、その怒りを全てぶつけることを堪え、彼は冷たい視線でエリザベスを睨みつけた。
「貴様のような存在は、聖王国にとって害悪だ。これ以上好き勝手に振る舞うなら、ただでは済まないと思え」
「脅しのつもり? そんな言葉、何度も聞いたわ」
エリザベスの笑みがさらに深まる。その笑顔には、一切の恐れがなかった。むしろ、軍務卿の怒りを引き出すことを楽しんでいるかのようだった。
「私の研究は王命なの、お忘れかしら? 結局のところ、戦場の聖騎士の死者数を抑えているのは私の成果なのだけれど、ご存知? むしろ、感謝してほしいくらいだわ。……ああ、お爺ちゃんにはちょっと難しい話だったのかしらね?」
軍務卿の顔が怒りで引きつる。その手が一瞬、腰の剣の柄に伸びかけたが、聖騎士たちがそれを静かに止めた。彼は深く息を吐き、振り返らずに部屋を出ようとした。
だが、エリザベスが追い打ちをかけるように口を開いた。
「ああ。あと、アラン君の事なのだけど、逃がしちゃったわ」
軍務卿の足が止まる。その背中越しに見える彼の肩が大きく震えた。そして、振り返ると同時に、彼の怒りが爆発した。
「何だと……!? 貴様、脱走まで許したのか!? ふざけるのも大概にしろ!」
「失敗作だったのよ。それに、既に死にかけよ。大げさに騒ぐほどのことじゃないわ」
「失敗作だと……!? その失敗作の話を揉み消すために、どれだけの人間を動かす必要があると思っている!」
軍務卿は拳を振り上げ、今にもエリザベスに掴みかかろうとしたが、再び聖騎士たちに止められる。それでも彼の怒りは収まらない。
「これ以上貴様の身勝手を許すつもりはない! 次に何かあれば、たとえ王が黙認していようとも、儂は貴様を処分する!」
エリザベスはその言葉に一瞬たりとも怯むことなく、逆に興味深そうに軍務卿を眺めた。そして、冷笑を浮かべながら軽く肩をすくめる。
「……どうぞご自由に」
その挑発的な言葉に、軍務卿は何も言わずに踵を返し、部屋を出て行った。その背中を見送りながら、エリザベスは再び楽しげに笑い声を上げた。
「本当に頑固で滑稽な人たちね……まぁいいわ。私は私の仕事をするだけ」
彼女は新たな資料を手に取り、冷たく笑みを浮かべながら、次の実験の計画を立てる。その目には怪しい光が宿り、狂気を帯びた熱意が滲み出ていた。
工房内に残されたのは、恐怖と冷たい静寂だけだった。




