062.第一歩だと信じたい
「第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリアを、擁立するって言ってましたぁ!」
リリィが発したその一言で、部屋の空気が一変した。
王位を狙う反乱者の擁立――これが現実になれば、この国の未来は大きく変わる。それを伝えるリリィの目には、焦燥とともに無力感が見え隠れしていた。
「レオンハルト殿下を擁立……? それが現実のものなら、ただの反乱で終わらんぞ。王位を簒奪するということは、内戦を意味するだろう」
編集長が低く呟き、その言葉に不安を隠しきれない様子が伺える。
リリィは目を伏せたまま続ける。
「はいぃ……農地卿がその準備を進めているって話です。兵力を集めて、武装蜂起をするつもりだと。王都に向けて進軍するつもり……なんだと思うんですけど、現時点では宣言だけで……」
その言葉に、私は一瞬息を呑んだ。王都に波及するとなれば、それはただの一地方の反乱にはとどまらない。国家の根底を揺るがす大問題だ。
「王位を簒奪するような事態に発展すれば、ただでは済まない。特に、第二王子を擁立するという発表が事実なら、この国の政治が一変する可能性が高いな」
私はふとリリィの方を見た。彼女の顔には不安と共に、強い決意が見て取れる。これを報道するべきかどうか、私たちは慎重に考えるべきだろう。しかし、この情報は確実に王都に波及するだろうし、知らないままでいるわけにはいかない。
リリィが部屋に飛び込んでからしばらくして、再びドアが勢いよく開け放たれた。慌ただしい足音とともに現れたのは、簡素な衣服に身を包んだ若い男――誰だろう、と一瞬思ったが、すぐに察しがついた。ユアンだ。ヴェルナードさんの聖騎士をしていた、ユアンが部屋に飛び込んできた。
以前聖王国教会本部で見た時とは異なる簡素な衣服を着た彼は、その姿から、リリィの後を追って慌てて来たことが容易に想像できる。
ユアンは、ヴェルナードさんを見つけて目を見開いて叫んだ。
「待って、リリィさ……あれ? ヴァ……じゃなくて! ご、ご無事だったんすか?! 心配したんすよ!」
ユアンの声に、私は息を呑んだ。彼の顔に浮かぶ表情から、深い心配と安堵が入り混じっているのが伝わってきた。
ヴェルナードさんは一瞬きょとんとした後、顔を綻ばせ、心底嬉しそうな声で答えた。
「ユアン! 本当に良かった。無事だったんだね……!」
彼の声には、再会の喜びがあふれていた。その表情を見て、私まで胸が温かくなるのを感じた。ユアンもどこかホッとしたように肩の力を抜くと、いつもの軽い調子で言った。
「いや、ご無事だろうとは思ってたんすけど、居場所がどこか分かんなかったんで……良かったっす。ダリオンさんも、ヘンリーが保護してて無事っすよ。もちろんライラも」
「そっかぁ……良かった。教えてくれてありがとう。ヘンリーにも、ありがとうって言わなきゃ」
そのやりとりに、私は微笑ましく思った。しかし、ユアンの表情に少し不安そうなものが浮かんでいるのに気づいた。しばらくヴェルナードさんを見つめていたユアンは、やがて疑問を口にした。
「……で、なんで新聞社に?」
ヴェルナードさんはしばらく黙ってから、軽く肩をすくめて答えた。
「ま、まぁ……色々あって、ここで匿ってもらっている……という感じ」
その曖昧な答えに、ユアンは疑問を残しつつも、ホッとしたように笑った。
「なるほど? ……とりあえず、無事でよかったっす」
その言葉に、私も思わず微笑んでしまった。ひとまずは、こんな風に無事に再会できたことが、何よりも良かったことだと思う自分がいた。
リリィとユアンの情報共有が終わった後、編集部の空気は緊張の糸が張り詰めたままだった。その中で、ハレックが机に腰掛け、腕を組みながら不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「なぁなぁ、これ、ザフランとも関係あるだろ。あの英雄の登場のタイミング、良すぎるぜェ」
突然の発言に、室内の全員が一瞬息を呑んだ。エドガーが腕を組み直しながら眉をひそめる。
「おいおい、ハレックさんよ。その話、本気で言ってんのか?」
「本気も本気だぜェ~。だって考えてみろよ、ザフランが教会に現れてからって、何もかもが妙に都合良く進んでんだよなァ。偶然なんかじゃ説明つかねえだろ? ほら、考えてみろよ! 今、この国じゃ反乱だの内戦だのが起きそうな状況なンだろォ? そこに救世主みてぇな奴が突然現れる。しかも、その登場で民衆の目は教会に集まるし、それで何となーく不安が収まって、教会の評判は急上昇……どう見てもできすぎだろ。まるで最初から用意されてた料理を、そのまま出してきた飯屋みてェなもんだ! これ、教会が元々裏で仕込んでたって考える方が自然だぜェ」
ハレックの声はいつもの調子よりも真剣さが滲んでいたが、その内容は憶測に過ぎなかった。それを指摘するように、編集長が冷静な声で口を開く。
「憶測でつなげるのは危険だ。証拠がない限り、下手に記事にするべきじゃない」
「俺ァ早速記事にするけどな! ごちゃごちゃ言われても、オカルト雑誌『クロニクル・トレイル』に載ってる内容全部を鵜呑みにするなんて、馬鹿のやることだぜェって追い返しゃあ良いんだからなァ」
編集長の言葉に、私は小さく頷きつつも、一つの疑問が頭をよぎる。確かに証拠はない。しかし、ザフラン様を英雄として押し出している教会が、この動きへの対抗策として利用している可能性は否定できない。そう思いながら、私は口を開いた。
「でも、ザフラン様を英雄として押し出している教会の動きには、何か意図的なものを感じます。まだ兆しが見え始めたばかりの反乱ですが、教会はこれを大きな『脅威』として、あえて煽り立て、国全体に危機感を広めることで、民衆を不安に陥れようとしているのかもしれません。そして、その不安を利用して、救世主としてザフラン様を前面に押し出し、民衆の支持を集めようとする……みたいな計画が裏にあると考えるのは、不自然ではないと思います」
私の言葉にハレックが勢いよく頷く。
「だろォ!? そこの嬢ちゃんもそう思うよな!」
「落ち着け、ハレック」
その場を静めるようにアーレンが言葉を発し、黒縁眼鏡を押し上げ、淡々とした口調でさらに言葉を続ける。
「新たな英雄に関しては、教会内の証拠を掴まなければ、これ以上の進展は難しい。現時点での議論は、ただの推測に過ぎない。そして、もしこの状態で記事にした場合、『公認報道規定』第二条第一項、及び『異端思想防止規則』第四条に違反する恐れがある」
アーレンが冷静な声で続ける。
「『公認報道規定』第二条第一項にはこうある。『いかなる報道も、聖王国教会が承認した事実に基づくものでなければならない。これに違反する場合、発行機関に対し厳罰を科す』。教会の承認を得ていない以上、この記事は発表の時点で既に法に触れることになる」
さらに、黒縁眼鏡を押し上げながら、今度は『異端思想防止規則』の条文を口にした。
「次に『異端思想防止規則』第四条。この条文にはこう記されている。『教会の教義や神聖性を揺るがす表現、または教会に対する疑念を植え付けるような内容の発信を禁じる。これに違反した者は異端審問に付される』。教会の英雄に対して、根拠のない疑念を持たせる記事は、この条文に直結する」
アーレンの言葉が響くたび、部屋の空気が冷え込んでいくようだった。誰もが口を閉ざし、その法的リスクの重さを噛みしめていた。彼はさらに一歩踏み込み、静かに締めくくる。
「記事を書くこと自体が悪いとは言わない。ただ、教会が承認しない情報を出すという行為自体が、非常に危険な領域に踏み込むということを、忘れないように」
アーレンの冷静で的確な指摘に、私は改めて現状の厳しさを痛感した。『公認報道規定』や『異端思想防止規則』――これらの法律は、ただ教会を守るためだけに存在しているわけではない。私たちのような報道機関に対して、鋭い牙を向ける危険な罠でもあるのだ。教会にとって不都合な情報を出すだけで、一瞬にして異端者として扱われる可能性がある。
情報を得るだけでは不十分で、それを支える確固たる証拠が必要だ。それも、教会や現王がどんな手段を使っても否定できないような、動かぬ証拠が。それがなければ、記事を出した時点で私たち自身が危険にさらされることになる。けれど、その証拠をどうやって掴むのか――それが、いま私たちが直面している最大の課題だった。
編集長は腕を組み、しばらく思案した後、全員の顔を見渡した。
「よし、ひとまず全員を班に分けて動くぞ。この情報を活かすために、効率よく取材を進める」
その言葉に、室内の緊張感が一段と高まる。
「まず、ロベリアとハレックさんは魔術工房に向かってくれ。魔術実験に関する証拠を集めるのが目的だ。ハレックさん、あんた、こういう怪しい話には詳しいんだろう? あんたの経験を頼りにしたいんだ。よろしく頼む」
編集長は次に、ヴェルナードさんに視線を移す。
「ヴェルナードさん、すまんがこの二人の警護を頼む。顔を隠す道具はあるから、後でロベリアから受け取っておいてくれ」
「はい!」
ヴェルナードさんが力強く返事を返すと、編集長はエドガーとリリィに視線を移す。
「次に、エドガーとリリィは北の町に向かえ。農地卿アティカスや第二王子の動きを追うんだ。彼らの武装蜂起の準備状況や支持者の動向を掴んでくれ。魔術実験の記事で必要になる、ダリオンさんへの事情聴取も頼む」
「分かった。こっちも結構危険そうだな……まあ、やるしかないか」
エドガーが肩をすくめながら応じる。リリィも少し緊張した面持ちで頷いた。その二人を交互に見たユアンが口を開いた。
「オレ、一応部外者なんすけど、ヘンリーからの言いつけでリリィさんの護衛してるんで、このままリリィさんに同行してていいすか? 一応、ヴァレンフォード家の使用人ってことになってるんで、立場的にどうなのかなって思うんすけど」
「……いずれにしても、ダリオンさんへの取材で接触せにゃならん。ただ、ウチの記者を妙なことに巻き込むのだけはやめてほしいんだがなぁ」
「それはオレの一存じゃ決められないっすね!」
ユアンのあっけらかんとした返答に、編集長は大きなため息をついて肩を落とした。そして最後に、ちらりとアーレンに視線を向ける。
「そして、アーレン、あんたは俺と一緒だ。告発記事の発表計画を練る。法的リスクを精査し、外部協力者も視野に入れて準備を進めよう」
編集長の言葉に、アーレンは静かに頷く。
「了解した」
防衛工房の取材計画をどう進めるかを話し合うため、ハレック、私たちは新聞社の小さな応接室に集まった。ハレックは興奮した様子で、手元に広げたメモ帳や雑誌の切り抜きを眺めながら、何やらぶつぶつと独り言をつぶやいている。その視線には異様な集中力が宿り、まるで未知の謎を追い求める探検家のようだった。一方、ヴェルナードさんはそんな彼の様子に少し圧倒されているらしく、私に助けを求めるような視線を送ってきた。
「……ハレックさん、ちょっとお話を伺ってもいいですか?」
私は静かに問いかけた。彼の熱を冷まさず、でも話を進めるためには、慎重にペースを握る必要がある。
「おう、なんだァ? 俺に聞きたいことなんて、やっぱ魔術工房のことかァ?」
ハレックはメモ帳を閉じ、勢いよく顔を上げた。その表情には、協力的というよりも「面白い話をしてやるぜ」という期待感が満ちている。
「防衛工房について、何か情報をお持ちですか? 特に弟子や物資の出入りに関して知りたいんです」
そう聞くと、ハレックの目が輝きを増した。彼は身を乗り出し、机の上に広げた資料のひとつを指差した。
「弟子の出入りと物資の運搬ねェ……いい質問だな! あそこの工房は弟子が多いし、物資の出入りも頻繁だ。ほら、これ見てみろよ!」
彼が差し出したのは、工房の周辺で撮影された映写紙だった。何枚かの映写紙には、木箱を運ぶ弟子らしき人影や、荷車に積まれた荷物が映っている。その光景自体は一見平凡にも思えるが、映写紙の端に写るのは厳重な警備――工房の入口を固める護衛の姿だった。さらに、周囲は夜の闇に包まれ、人通りの少ない時間帯を狙ったように見える。
「これ、俺が取材してる時に映写魔法で撮ったやつだ。見ろよ、この搬入の仕方。木箱は見た目ただの荷物に見えるが、やけに警備が厳重だろう? これじゃ、ただの資材とは思えねェ。しかも、毎回時間を決めたように夜中に搬入してやがンだ。普通ならこんな荷物、昼間に堂々と運べばいいだろォ? それをわざわざ目立たねぇ時間に運んで、あげく護衛付きだぜェ? これで怪しくないって言うなら、何が怪しいってンだァ?」
思った以上に具体的な情報を持っていることに、私は少し驚いた。彼の突飛な言動に隠れがちだが、現場での観察力や執念は侮れない。
「ありがとうございます。まずはこの出入りの様子を確認するところから始めたいと思います。弟子や物資の動きを観察すれば、潜入しなくても情報を得られる可能性が高いです」
「……回りくどいなァ、ロベリア嬢ちゃんよォ。それでどうやって真実を暴くつもりなんだァ?」
ハレックは不満そうに腕を組むと、椅子の背もたれに体重を預けた。
「俺ならよ、直接潜り込んで弟子のフリでもして、中で何が行われてるか探るぜェ。そっちの方がよっぽど手っ取り早いだろ?」
「そ、それは危険です」
言葉を挟んだのはヴェルナードさんだった。彼は眉をひそめ、ハレックを必死に説得しようとする。
「も、もし見つかったらどうするんですか? それに、捕まったら……その……後で内容はハレックさんにも説明しますが、俺が受けてたような、魔術実験に巻き込まれる危険だって……」
もどかしそうに言葉を詰まらせる彼の様子に、私は小さく微笑んだ。冷静とは言えないけれど、彼が真剣に心配しているのは伝わってくる。
「ハレックさん、まずは安全な方法で進めましょう。出入りする弟子や物資の運搬を観察して、それから計画を練るべきです。目的はあくまで情報収集なんですから、騒ぎを起こしても意味がありませんよ」
私が静かに説得すると、ハレックは口を尖らせ、しばらく私を睨みつけた。
「つまんねぇやり方だなァ。まぁいいや」
「まずは地道に観察を続けてみましょうよ。それで分かることが増えれば、潜入しなくてもいい方法が見つかるかもしれません」
私がそう返すと、ハレックはしぶしぶ『しゃーねぇなァ』と呟いて折れた。そんな彼と私を交互に見ていたヴェルナードさんが、少し控えめに微笑みながら言葉を継いだ。
「が、頑張りましょう……ね?」
彼の言葉に場の空気が少し和らぎ、私はほっと胸を撫で下ろした。ハレックの情報力と大胆さ、ヴェルナードさんの護衛があれば、大きな問題は起こらないだろう。この取材は、ようやく一歩を踏み出したところだ。まだ道のりは長いけれど、手がかりを掴むための第一歩だと信じたい。
「よし、まずは工房周辺で観察だなァ!」
ハレックが勢いよく立ち上がり、取材に向かう気満々の様子でドアの方へ向かおうとした。その背中を見て、私は一瞬で全身の疲労を思い出した。寝不足の頭では、彼の勢いについていける自信がない。
「……すいません、無理です。私、寝ます。取材は明日からで……」
掠れた声でなんとかそう告げると、足取りもおぼつかないまま仮眠室へ向かう。全身が重くて、まるで鉛の塊を背負っているようだ。扉に手を伸ばすのも一苦労で、なんとか押し開けると薄暗い室内に足を踏み入れた。
ベッドが目の前に見える。その距離はほんの数歩しかないはずなのに、果てしなく遠く感じる。あそこまでたどり着けば……そう思ってもう一歩足を踏み出した瞬間、完全に足元の力が抜けた。
体は限界を迎えていたらしい。足元がふらつき、膝から力が抜ける。上か下か、どっちがどっちだか分からなくなるような感覚に襲われた次の瞬間、意識がふっと途切れた。
そして――ひんやりとした感触が頬に伝わる。
「……固い……冷たい……ここ……床?」
意識がぼんやりと遠のく中で、自分がベッドに辿り着けなかったことを薄ぼんやりと理解した。しかし、もうどうしようもない。ただ、眠気に抗う気力もなく、そのまま深い眠りへと落ちていった。
ベッドまであと少しなのに。
そんな思いが一瞬だけ頭をよぎったものの、すぐに眠気が全てを飲み込んでいった。
寝たい。とにかく、寝たい――。
◆
仮眠室のドアが静かに閉まる音が聞こえた。それを聞きながら俺――ヴァリクは、ハレックの様子を観察していた。勢いと元気が有り余っていて、一人で出かけてしまうのではないかという心配があったのだ。
「……なんだ寝てねぇのかァ」
そんなハレックの呟きが響いた直後、仮眠室の方から「ゴトッ」と何かが倒れる音がした。
ハレックが「なんだァ?」と声を上げるより早く、俺は反射的に立ち上がり、仮眠室の扉を開けた。ロベリアさんが限界ギリギリだってことは知っていたけど、それでも音を聞いた瞬間、嫌な想像が頭をかすめた。ロベリアさんの身に何かあったのかもしれない、という不安が頭をよぎった。
中に目を向けると――ロベリアさんが床に倒れ込んでいた。慌てて駆け寄り、肩を抱き起こす。
「ロベリアさん! ……なんだ、寝てるだけか。びっくりした……」
肌に伝わる体温と、規則正しい寝息に気づいて、俺は安堵の息を吐いた。でも、やっぱりここまで無理をしてたんだと分かると、胸の奥がちくりと痛む。
床で眠らせておくわけにはいかない。そっと彼女を抱き上げると、驚くほど軽くて、不安になるほどだった。
ベッドに慎重に寝かせ、乱れた髪をそっと直しながら、毛布を肩までかけてやる。彼女の表情には少しの安らぎが浮かんでいて、俺もようやく胸を撫で下ろした。
「……しっかり休んでくださいね」
呟いて、静かに仮眠室を後にした。でも、やっぱり少し後悔が残った。ロベリアさんが無理してるのを分かっていたのに、もっと早く「休んだほうがいい」って言えてたら……。そんな考えが頭を離れなかった。
不器用だな、俺。自分でも嫌になる。




