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060.ヴァリク・ヴェルナード曰く

 事務所には重苦しい空気が漂っていた。セラフ天啓聖報の記事を目の当たりにし、誰もが次の一手を見出せずにいた。記者たちが行き交う音が聞こえる中、私たちのデスク周辺だけが異様に静まり返っている。


「……何か手がないと、このまま教会の独壇場になりますよね。私たちの記事、出しにくくなるような……」


 メモ帳を握りしめながら呟くと、エドガーが椅子に浅く腰掛けながら、腕を組んで天井を見上げ呟いた。


「何を書いたもんかなぁ……『ヴァリク様は無事に脱獄してます』なんて出すわけにもいかないし」

「そもそも、何が書けるかを考えないと……ですよね。今の状況で」


 私はペンを握り直しながら問いかけた。


「セラフ天啓聖報の記事を否定するのは簡単なんだがなぁ……証拠が無ければ各方面の反感を買うだけだぞ。それに、教会の発表を覆すにはもっと具体的な材料が必要だ」


 編集長の冷静な声が事務所に響く。正論すぎるその言葉に、一瞬場の空気が冷え込んだように感じた。


「じゃあ、例えばさ、『教会はザフラン様を操っているかもしれない』みたいな噂話をまとめて記事にして、疑いを持たせるってのは?」

「それ、証拠が無いですよね」


 エドガーが身を乗り出して提案するが、私は即座に反論する。


「証拠なんて後から出てくりゃいいんだよ。今は疑念を植え付ける方が大事だろ」

「過激すぎますよ。それじゃ、単なる煽動と変わらないじゃないですか」


 私がきっぱりと返すと、エドガーは肩をすくめる。


「おいおい、ロベリア。民衆ってのは、まず考えさせなきゃ動かねえんだぜ? 既に噂自体は広まりつつあるんだ。民衆を煽るようなゴシップをでっち上げるのも、悪い手じゃないと思うがな」


 エドガーの言葉には確かに一理あった。民衆が考えるきっかけを与える必要があるのは分かっている。でも、それが根拠の薄い煽りでいいわけがない。民衆に信じてもらうためには、慎重さが求められるはずだ。


「煽るだけでは意味がないだろうが。ザフラン様の誕生のタイミングに、大いに水を差すようなことをすれば、そのままウチが叩かれることになりかねん」


 編集長が静かに言葉を挟む。


「じゃあ、何を書けばいいんですか? 具体的に……」


 自分でも驚くほど強い口調で言ってしまった。焦りが思わず言葉に乗ってしまう。

 編集長は少し間を置き、慎重に言葉を選びながら答えた。


「ザフラン様自身の、過去や人間性について触れるのがいいんじゃないか? 彼が本当に『完璧な英雄』なのかどうかを掘り下げる。人間味を出せば、少なくとも『神の使い』とは違う印象を与えられる。少なくとも、ヴェルナード様のときにはなんとか許可を取れた話だ。ポジティブな内容ならセラフ天啓聖報からごちゃごちゃ言われることもないだろう」

「ポジティブな内容……か。でも、何をどう書けばいいかが問題ですよね。具体的に掘り下げられる話なんてあるんですか?」


 エドガーが苦笑いしながら言葉を続けると、編集長が腕を組み直しながら少し頷いた。


「それに、ザフラン様のことを書くとしても、異端思想防止規則に引っかからないようにするのが大前提だぞ」

「異端思想防止規則……って具体的には何に触れたらアウトなんですか?」


 私が編集長の言葉に引っかかり、すぐに質問を返した。

 編集長は深く息をつきながら答えた。


「簡単に言えば、教会の神聖さやその教えを否定するような内容だな。『公認報道規定』にも書いてある通り、教会が承認しない情報を出すのは絶対に駄目だ。言葉選びひとつ間違えただけで、裁判沙汰になるのは覚悟しておけよ」

「裁判沙汰……それは怖いですね。でも、そうなると、私たちは何をどう書けばいいんですか?」

「たとえば、『ザフラン様はどんな英雄なのか』という形にすれば、教会批判にはならんだろう。上手くやれば、表向きには教会を称えているように見せつつ、読者に少しでも考えさせることはできるはずだ。まったく、こういう綱渡りばかりだがな……」


 エドガーが腕を組み直し、と首をかしげた。


「まあ、それなら問題ないかもしれないけどよ……そもそも、そのザフランの人間味なんてどこから引っ張ってくるんだよ」


 その瞬間、ふと私は仮眠室で休んでいるヴェルナード様のことを思い出した。彼なら、ザフランのことを間違いなく知っている。


「……ヴェルナード様なら、何か知っているかもしれません。かつての仲間だと言っていましたし」


 その言葉に、エドガーと編集長が顔を見合わせる。


「確かに、それは聞いてみる価値があるかもな」


 編集長が静かに頷き、私は仮眠室へと向かった。




 仮眠室のドアをそっと開けると、薄暗い室内にひんやりとした空気が漂っていた。狭いベッドの上で身体を丸めるヴェルナード様は、まだ目を閉じたまま穏やかな寝息を立てている。

 私は足音を忍ばせながら、彼の近くに歩み寄った。ベッドの脇で立ち止まり、その横顔を覗き込む。静かな寝息を聞きながら、つい彼の顔に目を留めてしまう。長いまつげや整った鼻筋が目に入り、何をしているのか自分でも分からなくなるほどだった。


「ヴェルナード様……」


 思わず呼びかけてしまうと、彼のまぶたがゆっくりと動き、瞳が静かに現れた。その深い色に一瞬息を飲む。柔らかな光が反射して揺れ、ぼんやりとした眠気が浮かんでいる。


「ロベリアさん……何かありましたか?」


 低く優しい声が、静かな部屋に響いた。彼の声には、まだ少し眠気が残りつつも、私を気遣う響きが含まれている。

 しかし、その時、私は自分が彼に近づきすぎていたことに気づいた。顔がすぐ近くにあり、思わず身を引こうとしたが、その前にヴェルナード様の視線が私を捕えた。

 彼はわずかに目を伏せたかと思うと、微妙に赤くなった顔をしながら言葉を漏らした。


「そ、そういえばまだ、あの時のお礼が……出来てなかったんですが……」

「あの時……?」


 私は一瞬思考が止まり、何のことか分からなかった。けれど、彼の視線がほんの少し自分の唇を見たのを察し、記憶が一気に蘇った。あの面会室でのこと。緊迫した状況下で、咄嗟にキスを装ってメモを渡した、あの瞬間だ。


「あっ……!」


 思わず声が漏れ、顔が熱くなるのが分かった。思わず、自分の唇に指先で触れる。


「いえ、その……あれは状況的に仕方なかったというか……失礼しました、ヴェルナード様!」


 慌てて胸に手を当てて謝罪する私を見て、彼が小さくため息をつきながら言葉を続けた。


「いや……失礼だとか、そういうことではなくて。あの時、ロベリアさんの機転がなければ、俺は独房を出ようだとか、状況を変えようだとか、そういった発想すら思いつかなかったと思うので……。だから……感謝しています」


 そう言いながらも、彼の耳が赤く染まっているのが見える。真面目すぎる彼の反応に、逆に私の方が気まずさを感じた。


「そ、そう言っていただけると……助かります。でも、忘れてください! あれはただ、やむを得ない手段だったんです! 本当にすいません!」


 私の早口の言い訳に、彼がふっと小さく笑った。その笑顔にはどこか申し訳なさそうな優しさが滲んでいる。


「わ、分かりました。……でも、本当にありがとうございました」


 その一言に、私の胸の中が少しだけ温かくなった気がする。こんな状況でも真摯に感謝を述べる彼の人柄に、改めて救われた思いだった。

 私は深呼吸をして気を取り直すと、ようやく本題を切り出す。


「すみません、休んでいるところを……でも、どうしてもお聞きしたいことがあって」


 ぎこちない声が自分の喉から漏れるのを感じながら、私は一歩ベッドに近づいた。ヴェルナード様は静かに目をこすり、身を起こした。長身の彼が少し背中を丸めて座ると、狭い仮眠室がますます狭く感じられる。彼は私に向き直ると、柔らかな表情を浮かべた。


「何でしょうか?」


 その穏やかな声に一瞬ためらいがよぎるが、私は深く息を吸って言葉を絞り出した。


「ザフラン様のことです」


 その名前を口にした瞬間、彼の表情がはっきりと変わった。柔らかだった笑顔が消え、まるで何か重いものを背負ったかのように影が差す。その変化は、目の前で夜が訪れるような、どこか切ないものだった。


「ザフラン……がどうかしましたか?」


 静かで、それでいて心の奥を覗くような問いかけだった。その声に、私の胸の中で何かがざわめく。


「あの……セラフ天啓聖報で、新しい英雄としてザフランを取り上げる記事が出たんです。今、教会が彼を前面に押し出して、民衆を煽っています。でも、私は彼のことをよく知らなくて……。ヴェルナード様、彼のことを教えていただけませんか?」


 必死に伝えようとした私の言葉を、ヴェルナード様は静かに受け止めた。その瞳は遠くを見つめるように揺らぎ、どこか迷っているようにも見えた。

 一瞬目を伏せ、彼は深く息を吐いた。その沈黙は、私に彼が抱えているものの重さを想像させた。きっと、ザフランについて話すことは、彼にとって容易ではないのだろう。


「……分かりました。話せることはお話しします」


 その言葉が発せられるまでの間、時間がゆっくりと流れたように感じた。

 ヴェルナード様の視線が、真っ直ぐに私を射抜く。彼の目に宿るのは、確かに苦悩と迷いの色だったが、それでもどこかに決意の光が見えた。私はその視線を受け止めるようにして、大きく頷いた。


「ひとまず、防音室に移動しましょうか? 編集長たちも話に交えたいですし」


 そう提案したのは彼の方だった。確かに、仮眠室の狭さでは話す内容に集中できないかもしれない。それに、誰かに聞かれる心配もなくなる。


「はい、お願いします。」


 私が頷くと、ヴェルナード様はベッドからゆっくりと立ち上がり、軽く身を伸ばしてから扉の方へ歩き始めた。その背中に少し遅れてついて行きながら、私は編集長とエドガーのいる防音室へと向かう。




 防音室のドアを閉めると、ヴェルナード様は静かに椅子に腰を下ろした。編集長とエドガーは既に席についており、私も彼に向き合うようにして椅子を引いた。


「お休みのところ、起こして申し訳ございませんね」

「い、いえ。こちらこそ、急に来て寝入ってしまうなんて申し訳ないです」


 編集長の言葉に、ヴェルナード様がぺこぺこと頭を下げる。私はその様子を見ながら、慎重に言葉を選びながら切り出した。


「それで……ザフラン様について知っていることを教えていただけませんか?」


 改めて真剣に尋ねた私を見て、彼は戸惑ったように眉を寄せた。わずかに頭を傾けながら、視線を少しだけ泳がせる。


「ええと……じ、実験のこと……とかですかね」

「そういう話じゃないんです」


 私が否定すると、彼はますます困惑した表情を浮かべた。その顔がなんとも言えずおかしくて口元がにやけそうになり、思わず口元を引き締める。


「具体的には、ザフランがどんな人だったか、好きなものとか、性格とか……そういうことです」


 その言葉に、ヴェルナード様はそのままの首の角度で目を瞬かせた。彼の顔には困惑と疑問の色が浮かんでおり、何故そんなことを聞かれたのか飲み込めない様子が伺える。


「……好きなもの、ですか?」

「そうです。覚えていることで構いません」


 私が真剣に返事をすると、彼は今度は頭をその逆側に僅かに傾けた。何か大層な話をするつもりだったのか、それともただ単に面食らっているのか、その顔には微妙な苦笑いが浮かんでいる。


「いや、そんなことを聞かれるとは思わなくて……。好きなもの……ああ、そういえば果物が好きでした。リンゴをよく食べていました」

「リンゴ!」


 思わず声を上げると、ヴェルナード様はまた驚いたように目を瞬かせた。そのリアクションが面白くて、つい笑みがこぼれる。


「まあ……彼がほとんど赤ちゃんの頃から知っているので。だからか、嫌いな食べ物はあまりなかったような気がします。あの……食べ物の選択肢って、あんまり無かったので。そんな中でも、リンゴは好きそうでした」


 その記憶を思い出したのか、ヴェルナード様の口元がわずかにほころぶ。彼の中にも懐かしい感情が蘇ってきているのだろうか。


「性格はどうだったんですか?」

「……性格ですか……無口な子でしたね。あまり、自分の気持ちを言葉にするのが得意ではなかったと思います。でも、何か不満があると、俺の袖を引っ張ってアピールしてくるんですよ。でも何が言いたいのか俺にはよく分からないので、困っているとセシル……他の仲間が補足してくれました」

「へえ、不器用な人だったんですね」


 私が感心したようにメモを取ると、ヴェルナード様は小さく頷いた。


「そうかもしれません。ただ、本人に聞いたら『そういうんじゃない』って言いそうですけど」


 その一言に、私は思わず笑ってしまう。無口で、反抗期的な人柄が浮かんでくるような気がした。


「ほかには何かありますか? たとえば趣味とか」

「趣味……そうですね、うーん……俺と、もう一人の年長者への悪戯……かなぁ。通路にロープを張っておいて転ばせたり、転んだ先に割れたガラスを撒いていたり……あとは、上から鉄の塊が落ちてくるような悪戯とか……」

「え、えぇ……」


 それは、傷害事件ではないだろうか……と思ったのだが、ここで実際に目にしたことのあるヴェルナード様の回復力を思い出した。通常の人とは異なる速度で骨折や裂傷が癒えていくのだ。同じような人達の中にいると、悪戯とい言葉で片付けられる範囲も広がるのかもしれない。

 このことを知っているらしいエドガーは苦笑いするだけであったが、トーマス編集長は目を見開き顔を青くした。その編集長の顔色に気付いたらしいヴェルナード様が、顔の前で手を振って慌てて訂正する。


「……ああ! あの、俺たちは欠損以外の肉体の損傷から回復できる魔術式が身体に刻まれていて、それで皆、基本的には切り傷や骨折はしばらく待てば回復するんです。……ええと、お見せした方が良いですか? 指でも折ってみま──」

「だ、だめですよっ!」「待て待て待て!」


 謎の親切心から、その回復能力を実演してくれようと、自分の指に手をかけたヴェルナード様を、私とエドガーで大慌てで静止する。きょとんと不思議そうな顔になったヴェルナード様だったが、すぐに視線を左右に泳がせてその手を下ろした。


「す、すいません。言葉で伝えるだけで十分でしたね。……そんな能力が皆に備わっていたので、外を知らないライラとザフランは……少々暴力的なところがあったなぁと思います」

「い、いや……話に聞いてはいたんだが、失礼した。護衛をお願いすることになったとしても、怪我を気にせず行動していただけると分かったのは、非常に心強いですよ」


 編集長が頭をポリポリと掻き、苦笑いで言った。


「そ、そこに関しては本当に、死ににくいと思うので心配しないでください」


 困ったように眉尻を下げて頬を掻くヴェルナード様が苦笑する様子に、私は胸の奥が少しだけ重たくなる。彼の「死ににくい」という言葉が気軽に感じられるのは、この力ゆえなのかもしれない。しかし、それが同時に彼を「守られる側」から遠ざけてしまうこともあるのだろう。彼が無意識に自分を犠牲にする姿が浮かび、私はその危うさを感じた。




 そうして揃った情報を元に、記事……と言っても、異端思想防止規則、公認報道規定等の、この国における報道を取り巻く法律に抵触しないようなに、慎重に情報を選び、エドガーが記事を形にしていく。真っ向から神聖を否定してしまうと、何らかの法律に抵触する恐れがあるかららしい。

 添削作業からは添削、校正を担うことが多いカミラも参加し、慎重に言葉選びを行う。


「一応補足なのですけれど、わたくしはあくまで詳しいだけで、法律の専門家ではありません」


 ふと作業の途中でカミラが言う。エドガーと二人でまじまじと彼女の顔を見つめると、一つ咳払いをして言葉を続ける。


「……ですので、わたくしがいくら気を付けたとて……所詮素人の付け焼刃かもしれません。編集長とリリィさんとエドガーさんと……ロベリアさんまで巻き込んで、大きなことを調べているのは分かるのですが……早めに専門家を入れた方が良いのではと思っております」



 カミラの指摘はもっともだ。エドガーがペンを置き、深く息を吐いたのを見て、私も思わず作業の手を止めた。確かに、法律の専門家がいれば心強い。誰か信頼できる人がいればいいのだけれど……そんな人をどこからどう探せばいいのだろう。


 カミラの言葉には正論しかない。けれど、私たちがここまで慎重に進めてきたからこそ、誰に頼るべきかも慎重に見極める必要がある。その選択を間違えれば、計画全体が瓦解しかねない――それは明白だ。

 焦らず、確実に――誰にも揚げ足を取られない記事を仕上げる。それが今の私たちにとって最善の選択だ、と自分に言い聞かせた。

異端思想防止規則、公認報道規定は本作のオリジナル設定です。

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