059.セラフ天啓聖報
買い出しを終えてカリストリア聖王国通信社に戻る頃、時計の針は昼前を指していた。袋を抱えながら新聞社の廊下を歩き、まずは仮眠室を覗いてみる。中をそっと覗くと――やっぱり、大きな身体を小さく縮めるように丸めて寝ているヴァリク・ヴェルナード様の姿があった。狭いベッドの上で無理矢理身体を丸め込むようにして、静かにスースーと寝息を立てている。
「……ベッド狭かったかなぁ」
思わず呟きながらその様子を眺めていると、後ろからエドガーの声がした。
「寝室覗くなよ、スケベ」
突然背後から声を掛けられ、驚いて振り返ると、エドガーがにやにや笑いながら立っていた。
「違いますってば! ただ様子を見ていただけです!」
「はいはい。お嬢ちゃん、様子見という名目でじーっと見つめてただろ?」
「だから違います!」
私の抗議もお構いなしに、エドガーは笑いながら肩をすくめる。そして、ヴェルナード様を一瞥し、「……そりゃ狭いわな」と呟いた。確かに、仮眠室のベッドは標準的な大きさで、ヴェルナード様の大きな身体には少し窮屈そうに見える。思わず、もう少し広い場所を探した方がいいのかもしれないと考えてしまう。
「……まあ、今は起こさない方がいいだろうな。様子を見るに、疲れてるだろうし」
エドガーがそう言い残して軽く手を振り、廊下の向こうに歩いていく。その背中を見送りながら、私はそっと仮眠室の扉を閉めた。
新聞社の防音室では、トーマス編集長とエドガーがすでに昼前の打ち合わせを始めていた。私は買い出し品をテーブルの上に並べつつ、打ち合わせの輪に加わる。
編集長が手元の紙に何かを書き込みながら、低い声で話を切り出す。
「さて、工房と集会だが、どっちも手掛かりとしては曖昧だ。具体的にどう動くか、今のうちに決めておこう」
「工房は……教会の監視もあるけど、場所自体はすぐに分かりますよね?」
私がそう提案すると、エドガーが顎に手を当てた。
「確かに。工房は物理的な場所だし、足を運べばなんとかなるかもしれない。ただ、中に入るとなると別の問題が出てくる」
「警備とかですか?」
「それもあるし、そもそも怪しまれるだろうな。あそこは基本的に技術師たちの縄張りだし、外部の人間が勝手に入れる場所じゃない」
編集長が頷きながら言葉を継いだ。
「集会の方はもっと厄介だ。表向きは技術を公開して議論する場だが、裏じゃ禁忌に触れるような研究も隠れて行われているかもしれない上に、証拠が見つかる保証はない」
私はテーブルに置かれたメモを眺めながら、少し考え込む。
そもそも、教会そのものが敵というわけではない。問題は、教会内にどれだけ「不都合な真実」を隠している人間がいるのか――そして、その範囲がどこまで広がっているのかが分からないということだ。私たちは敵が誰なのかすら正確に把握できていない状態で、手探りで進むしかない。
集会を調べるにしても、取り扱う分野は千差万別だ。防衛関連の技術か、医療や生命科学に関する研究か。それとも、もっと日常的な生活技術に関連するものか――。どの集会が「最も怪しい」のかを特定しなければ、手当たり次第に調査することになりかねない。
結局のところ、まず何をどこから調べるべきなのか、具体的な指針が必要だ。
私はメモを見直しながら、ちらりと編集長――いや、典籍卿である彼の顔を見た。
「……編集長、どこから調査を始めるのがいいと思います?」
そう口にすると、編集長は腕を組んで一瞬考え込むような素振りを見せた。
「どこから、ねぇ……そうだな……」
低い声で呟いた後、彼は少しずつ言葉を紡ぎ出す。
「工房と集会、どちらも一筋縄ではいかない。だが、集会の方はどうにも動きにくい印象があるな。参加者や発表内容が公開される分、隠れて動くには限界がある。一方で工房は、閉じられた空間だからこそ、何かしらの痕跡を掴める可能性がある」
「でも、工房は教会の目が厳しいのでは?」
私がそう問いかけると、編集長は頷いた。
「その通りだ。監視が多い場所で、目立たずに動くのは至難の業だな。けど……逆に言えば、監視が厳しい工房ほど、何かを隠している可能性が高いとも言える」
「確かに……」
エドガーが肩をすくめながら口を挟む。
「つまり、監視が薄いところは大して怪しくなくて、がっつり監視されてる場所こそヤバいってことだよんな。今の状況的に、取材が無駄になる方がリスクだと思うし、ヤバいところに行った方が良いと思うぜ」
「なんか、お前の言い方だと軽く聞こえるが……その通りだな。だが、そのヤバい場所をどう調査するかが問題なんだよ」
私は手元のメモを見つめながら考えを巡らせた。
「例えば……監視が厳しい工房でも、定期的に人の出入りがありますよね。弟子や技術師の動向を追うのはどうでしょう?」
「なるほど。それなら、直接工房に侵入しなくても、情報を引き出せる可能性があるか」
編集長が小さく頷いた。
「ただし、弟子や技術師が口を割る保証はない。それに、妙な動きを見せればこちらが目をつけられることになるぞ」
エドガーが冷静に指摘する。
「じゃあ、工房を外から観察するのはどうでしょう? たとえば、物資の搬入や、人の出入りを記録してみるとか……」
私が提案すると、編集長が手を叩いた。
「それなら安全だな。何か変な動きがあれば、そのタイミングで接触するってわけか」
「でも、それだと時間がかかるんじゃねーの?」
エドガーの反論に、編集長が再び腕を組んで考え込む。
「……時間がかかるのは事実だが、地道な調査の方がリスクは少ない。特に今は、敵がどこにいるのかすら曖昧なんだ。慎重に進めるに越したことはない」
「そうですね……」
私は静かに頷きながら、改めてメモに「工房外部の観察」「技術師の動向を追う」と書き加える。
エドガーが椅子に寄りかかりながら、ふと口を開いた。
「で、実際どの工房から手をつけるんだ? 典籍卿ならある程度知っているんだろう?」
編集長が小さくため息をつきながら答える。
「今のところ、監視が特に厳しいとされているのは、王都北部の防衛工房だ。ここは軍事技術の研究が進んでいる場所で、過去にも噂が絶えなかった。ただし、出入りする人間のチェックが厳重だから、どこまで近づけるかは未知数だ」
「……それって、やっぱり危険なんじゃないですか?」
私は少し不安を覚えながら尋ねる。
「その分成果も期待できる……が、やはり危険なんだよなぁ」
編集長が低く呟いた。その言葉には確信があったが、同時にため息混じりのようにも聞こえた。
エドガーが椅子に浅く腰掛け直しながら、天井を見上げてぼやく。
「でもさ、ヴェルナード様が守ってくれるなら、なんとかなるんじゃないか? あの人、すごい強いしさ」
「それはそうですけど……」
私は少し考え込みながら口を開く。
「ヴェルナード様にご迷惑をかけすぎるのは良くないですよ。それに、工房関係者に顔が知られている可能性も高いですし、工房周辺で目立つのは危険じゃないですか?」
「そうだな」
編集長も腕を組み直しながら頷く。
「もし出入りする側の誰かに魔術実験の関係者がいたら、一発でバレるだろうな」
私はペンを回しながら考えた。何か、彼の素顔を隠せる手段があれば――。その時、ふと思い出したのだ。
「あ、そうだ! 殿下から借りたままのお面がありました!」
「お面?」
エドガーが首を傾げるのを横目に、私はカバンの中をゴソゴソと探り、布袋に入ったお面を取り出した。そして、そっとテーブルに広げると、それはそばかすだらけで眠そうな顔をした、どこかシュールな印象の仮面だった。
「これをつければ、別人の顔に見えるんです! これならヴェルナード様も安全に外で活動できるかも……」
そう言いながら、私は慣れた手つきで仮面を顔に当てる。何度か使った経験があるので、もう迷いはなかった。仮面が顔にピタリと張り付く感覚にもすっかり慣れている。鼻筋を指先で軽くなぞると、普段より低くなっているのが分かった。手のひらで頬を触れば、仮面特有の薄皮が張り付いているような感触。これで、眠たそうなそばかす顔に変わっているはずだ。
「……こんな感じで、誰だか分からなくなるんですよ」
私は仮面を着けおえた顔を二人に見せる。今の私の顔は、そばかすのある素朴で眠そうな印象の女の子になっていることだろう。
「……は? いやいやいや、待て待て、なんだそのデタラメみたいな能力の魔術道具!」
エドガーが勢いよく椅子から身を乗り出す。
「これ、誰のだよ?」
「……第二王子のです」
「……は?」
エドガーの顔が固まった。同時に編集長も手を止め、ロベリアをじっと見つめる。
「えっと、私が捕まっていた間、殿下の使い走りのようなことをしていたんですが……殿下が『貸し与える』と……。というか……借りたまま返しそびれてて……」
私が言い訳めいた声で説明すると、二人の表情が一気に驚愕に変わる。
「借りたまま返してないだと!? お前、第二王子から借りパクしやがったのか!?」
エドガーが思わず声を上げた。
「だ、だって、返してって言われてなくて! おまけに、返す暇もないくらい突然にどこかへ行かれてしまって……! 本当に!」
「いやいや、それが第二王子って時点でとんでもないだろ!」
「まあ、あのお方ならごちゃごちゃと返せだのなんだのと、煩く仰ることもないか……? いや、にしても、顔バレ対策にこれを使うって、王族のものをこんな風に使っていいのか……?」
編集長が頭を抱えながら呟いた。
私が仮面をゆっくり顔から剥がし机に置くと、エドガーが仮面を手に取りしげしげと眺めた後、大きなため息をつく。
「まあ、これをつけりゃ確かに誰だか分からなくなるだろうけどな。でも、第二王子の私物ってのが怖すぎるだろ……」
「とにかく、これでヴェルナード様の顔を隠すのは可能になりますよね?」
私が話を戻すと、二人は顔を見合わせて小さく頷いた。
「使えるなら使うか……危険な橋を渡るのは変わらないけどな」
「まあ……どうしても返す必要があれば、俺から返しておくか。一応典籍卿って肩書きもあるんでね」
その後、自分のデスクで取材の準備をしていると、国中の今日の夕刊を抱えたトーマス編集長が事務所に飛び込んできた。
その顔は真っ青で、いつもの軽口も冗談も一切なく、ただ沈んだ表情で私とエドガーを見た。
「……何かあったんですか?」
私が声を掛けると、編集長は無言で夕刊を差し出した。「セラフ天啓聖報」のロゴが目に飛び込んでくる。そして、紙面の中央には大きな見出し――。
「新たな英雄――ザフラン、聖王国を救う」
私は思わず紙面を握りしめ、記事を読み始めた。
◆
セラフ天啓聖報
【新たな英雄――ザフラン様、聖王国を救う】
カリストリア聖王国に、新たな奇跡が訪れました。聖教会が「神の導き」を受けたと認める若き英雄、ザフラン様が聖王国を救うべくその姿を現したのです。彼が聖王国教会の守護者として選ばれたその瞬間、神の御意志は再びこの地に降り注ぎました。
ザフラン様は、天啓を受けた夜から人知を超えた力を宿したとされます。その力は、魔物を退け、戦場を平穏に包む神聖なものであり、彼を見た者は「神の使い」として彼を讃えるほかありません。ある目撃者はこう語ります。「その光に包まれる感覚は、まるで神そのものが現れたかのようでした」また、別の証言では、傷ついた者が彼の腕の一振りで癒されたとも言われています。
一方で、かつての英雄ヴァリク様は、聖なる使命を全うし、その力を神へと返しました。聖王国教会は彼の献身を「神の御意志に従った最後の奉仕」と称えたと発表しています。聖王国のために尽くした彼の功績は、人々の記憶に残り続けるでしょう。
ザフラン様の登場により、聖王国教会は新たな時代が始まったと宣言しました。民衆に向けて「神の意志に従い、ザフラン様の導きのもと一致団結すること」を呼びかけており、聖王国全土で熱狂が広がることでしょう。これはまさに神が授けた新たな光――ザフラン様の導きによって、カリストリア聖王国は栄光の未来へと歩み出すのです。
◆
「……ヴェルナード様、もう必要ないってことか?」
エドガーがセラフ天啓聖報の紙面を覗き込みながら呟いた。その言葉に、私の心臓がざわつく。
「必要ない、って……どういうことですか?」
「記事を読めば分かるだろ。英雄ヴェルナード様の存在は、もはや聖王国にとって不要だって暗に示してるんだよ。そりゃ、ザフラン様って新しい英雄を出してきたからな」
「……こんな記事が出たら、私たちの告発記事はどうなるんです?」
私は焦燥感を覚えながらトーマス編集長に問いかけた。
編集長は少し考え込むように腕を組み、テーブルに肘をついた。
「……どうなるも何も、かなり厳しくなるだろうな。聖王国、教会は今回、ヴェルナード様を『既にその使命を終えた存在』として位置付けている。そして、新しい英雄を絶対的な存在として民衆に押し付けることで、ヴェルナード様の証言を『過去のもの』として片付けようとしているんだ」
「どういうことですか?」
私は紙面を見直しながら問い返した。
編集長は紙面を指で軽く叩きながら続ける。
「記事をよく読め。『力を神に返し、安息を得た』――こう書いている。この曖昧な表現だけでも、ヴェルナード様が既に『この世にいない』もしくは『人の身に戻った』と受け取らせる効果がある。つまり、生きているとしても、彼が語ることは『神に選ばれた新たな英雄』であるザフラン様に比べて無意味だ、と印象付けるわけだ」
エドガーが椅子に浅く腰掛け直しながら、不敵な笑みを浮かべた。
「だったらさ、もっと分かりやすく民衆に直接訴えかければいいんじゃねぇの?」
「……どういう意味ですか?」
私が眉をひそめると、エドガーは軽い口調で続ける。
「つまりよ、『教会が言ってることは全部信じるな』って大声で言ってやりゃいいんだよ。民衆に直接、『真実』を突きつける感じでさ」
「……エドガー、それは危険すぎるだろが」
編集長が額を押さえながら深くため息をついた。
「えっ、なんでだよ。民衆が気づくきっかけを作るのが一番手っ取り早いじゃねぇか。ガツンと教会の矛盾を暴いてさ」
「お前、本当にそれで民衆がどう動くか分かってるのか?」
編集長の鋭い声に、エドガーが思わず口をつぐむ。
「もし教会に『異端者』として名指しされたらどうなると思う? 教会に従順な民衆が反発するだけじゃ済まない。むしろ、恐れから教会に対する依存が深まる可能性だってあるんだぞ」
「……うっ……」
エドガーが渋々口を閉じ、肩をすくめる。
編集長は深く息を吐いてから続けた。
「聖王国教会はプロパガンダにおいて圧倒的に有利なんだ。教会発の情報が『真実』として先に広まる以上、そこに正面からぶつかるのは分が悪い。それよりも、間接的に『教会の矛盾』を突く記事を作るべきだ」
「矛盾、ですか……?」
私は問いかけるように言いながら、メモ帳を取り出した。
私の言葉に、編集長は小さく頷く。
「そうだ。たとえば、『ザフランの奇跡は本当に神の意志なのか』と仄めかすだけでも効果がある。教会が発表する内容がどこか不自然だと思わせることができれば、民衆の中に疑念を植え付けられるだろう」
「なるほど……」
「地道にじわじわと考えさせるんだ。一度教会の情報が『絶対』ではないと思わせることができれば、後の動きが楽になる」
編集長が低い声でそう言い切る。その言葉に、私は頷きながら「教会の矛盾」「民衆に疑問を持たせる記事」とメモに書き加えた。
「……ただ、その仄めかす記事って……いつ出します……? 今、証言しかない状態で……今すぐには……」
私が言葉を詰まらせると、編集長は無言で机に肘をつき、視線を落とした。
「……あー、朝刊に、か……」
エドガーがぽつりと呟く。
「ど、どうしましょうか……?」
私がそう尋ねても、誰もすぐには答えを返さなかった。
事務所の周囲では、忙しなく動く記者たちの足音やペンを走らせる音が微かに聞こえてくる。その活気とは裏腹に、私たちのデスク周辺だけが異様に静まり返っていた。
エドガーは椅子に浅く腰掛けたまま、ため息をつきながら天井を見上げる。編集長は机の上に広げた紙を指でトントンと叩いているだけで、それ以上は何も言わなかった。私自身も、ペンを握った手を動かせず、ただ机に置かれたメモを見つめるばかりだった。
「……とりあえず、中身考えるか」
「うい……」
編集長が重い声でぼそりと呟いた。エドガーも、力のない声で応じる。
それきり、私たちの間に再び沈黙が訪れる。活気のある事務所の中で、私たちの周辺だけがやけに重苦しい空気に包まれていた。




