058.揺らぐ信仰と燻る火種
聖王国を揺るがす動乱の兆しは、各地に静かに広がりつつあった。
救国の英雄ヴァリクの脱獄は教会内部に動揺を与えたが、一般の人々には知らされていなかった。しかし、処刑台から謎の少女により救出されたダリオンの噂は庶民たちの間で広まり始めており、教会の威信を揺るがす火種となり、燻りつつあった。
さらに、教会による魔術実験に関する噂もまた、庶民の間で囁かれ始めている。それは真実というにはまだ程遠い断片的な情報でありながら、人々の心に疑念の種を植え付けていた。一方で、有識者や貴族たちの大半は、この事態に気付くこともなく、静観しているか、噂自体を鼻で笑う状況にとどまっていた。だが、ごく一部の関係者たち――魔術実験に関わる者たち――だけが、この動きの危険性を薄々理解しつつあった。
一方、王都から遠く離れた北の町「ノルドウィスプ」では、農地卿アティカス・ヴァレンフォードが現王カスパールへの離反を宣言したばかりだった。新たな王を擁立するという彼の行動は、まだ大きく広まってはいないものの、少しずつ周囲に影響を与え始めていた。その傍らには、すでに第二王子レオンハルトが到着しており、両者は協力して次の行動を模索していた。ノルドウィスプは、反旗を掲げた新たな拠点として、その力を静かに蓄えつつあった。
一方、カリストリア聖王国通信社もまた激動の中にあった。編集長トーマスをはじめ、リリィやエドガーらが魔術実験に関連する情報を追い求め、取材に奔走している。その動きは徐々に教会側の目にも留まりつつあり、情報の拡散と妨害の攻防が水面下で始まりつつあった。
動乱の渦中、全てが不確定な状況の中、それぞれの立場と思惑を抱える者たちは、次第に新たな局面を迎えようとしている。
◆
私、ヴァリク様、エドガーの三人で朝の町を目立たぬように足早に移動した。
新聞社の扉を開けると、独特のインクの香りと古紙の匂いが迎えてくれた。僅かに埃が舞う空間に差し込む光が、古びた木の床をかすかに照らし出している。慣れ親しんだ空間ではあるが、今日ばかりは少しだけ足取りが重い。
「ロベリア! 昨日戻れたって聞いたぞ!」
ロビーの奥から僅かに弾んだ声が響いた。新聞社の支配者にして編集長、トーマス・グレインだ。彼の落ち窪んだ目が、私たちを一瞥し、すぐに冷静で鋭い光を宿す。彼の落ち窪んだ瞳が、ヴァリク様をじっと見つめている。
「それで、随分と興味深そうな人物を連れてきたようだが、どういうことだ?」
トーマス編集長の視線が私の隣に立つヴァリク様へ移る。その視線を受けて、ヴァリク様は僅かに緊張を滲ませる様子を見せた。
「……それにしても、髪の毛を黒に……染めたのか? 前は白かったはずだが……」
編集長は戸惑ったように眉をひそめた。視線が一瞬、黒髪になったヴァリク様の頭を行き来する。
「お、お久しぶりです。あの……か、髪は気絶している間に、勝手に染められちゃってまして」
ヴァリク様は短く挨拶を返し、その場で軽く頭を下げた。その仕草には、礼儀正しさと共に、どこか気まずさが漂っている。
「……ご無沙汰しております。こんな場所までお越しになるとは、思いもよりませんでした」
「は、はい。色々ありまして」
トーマス編集長の口調には微かな興味が滲むが、その裏に鋭い警戒心も隠れている。
「編集長。そんな怖い顔すんなって。ちょっとした苦労をして、ここまで来たんだぜ? とにかく、まずは中に入れてやってくれよ。ちょっとヤバいんだって」
エドガーが軽い調子でその場にいる全員の背中をぎゅうぎゅうと押して、新聞社の中に押し込むようにする。戸惑うヴァリク様を見て、私もまずは中に入って落ち着くことを優先させようと、彼の手を引いて「こちらへどうぞ!」と言って歩き出した。
新聞社の奥にある防音室に通されると、そこはまるで街の喧騒から切り離された異世界のように静かだった。分厚い壁に囲まれ、外の音は全く聞こえない。この場所で話す内容が外部に漏れることは決してないだろう。編集長の徹底ぶりに感心しつつも、ここまで来ると、少し緊張してしまう。
「ここならひとまず安全だ、どうぞ座ってくれ」
編集長が低い声で言い、私たちは促されるまま椅子に腰を下ろした。ヴァリク様は少し遠慮がちに、けれどしっかりと座る。
「もしかして……街中で戦闘があったことは知られているんでしょうか?」
ヴァリク様がぽつりと確認すると、エドガーが肩をすくめた。
「ああ、騒ぎにはなったさ。でも公式には『老朽化した建物の倒壊』って発表されたよ。ま、誰もそんな話を信用してないけどな。実際、ここ数日で町中じゃ色んな噂が飛び交ってる。昨日の処刑騒動もあってな……あれも関連しているんだろう?」
エドガーが探るように問いかけると、ヴァリク様は少し言い淀んだ後、小さく頷いた。
「あ、はい。ダリオン……という人なんですけど、皆さんはどこまで事情をご存じなんでしょうか? ダリオンのことは分かりますか?」
「ライラさん、フィオナさん、セシルさんからだいたい聞いてるよ。それに、ヘンリーさんもユアンさんも協力してくれてるしな。ヴァリクさんの人柄についても、ある程度聞いてるつもりだ」
エドガーの言葉に、ヴァリク様の表情がぱっと明るくなる。
「フィオナとセシル……! 無事なんですね!」
その顔には驚きと嬉しさが入り混じっていて、私までほっとしてしまう。
「まあ、詳しい話は後だ」
編集長が軽く咳払いをし、ヴァリク様に向き直る。
「とりあえず、何があったのか話してもらえますか? 分からないことがあれば都度確認しますので」
「えっと……では……」
ヴァリク様は少し間を置き、静かに語り始めた。
「街でライラと遭遇して戦闘になってしまった後、ずっと投獄されていました。ですが、ダリオンが無事だと分かり、それで……抑えが効かなくなったというか、脱獄してきました」
その言葉に、編集長は目を大きく見開いたまま、口をあんぐりと開けて固まった。
「あ、すみません……追手が来るとは思うんですけど……たぶん、撃退できると思います」
ヴァリク様は申し訳なさそうに眉を下げながらそう付け加えた。その言葉はどこか頼りなさげで、これまでの彼の経歴を考えると少しちぐはぐに思える。あれだけの実力を持ちながら、必要以上に遠慮してしまうのは、ひょっとすると彼の根っからの性格なのだろう。強いのにどこか控えめで、力を誇示することを好まない――それがヴァリク様という人なのかもしれない。
「ダリオンが無事そうだったのと、他に相談したいことがいくつかあります。でも……」
少し言葉を切ってから、ヴァリク様は私を真っ直ぐ見つめた。
「自分には知り合いがほとんどいません。ロベリアさんしか頼る先が思いつかなかったんです」
その言葉に、胸が熱くなった。頼られることが、こんなに嬉しいなんて――。まだ記者としては駆け出しで、自分がどこまで役に立てるのか分からないことばかりだった。それでも、こうして誰かに必要とされる存在として見てもらえたのだと思うと、嬉しさと安堵が入り混じった感情が込み上げてきた。自分の存在がただの取材者ではなく、「頼れる人」として誰かの支えになれる。そんなふうに感じたのは、初めてのことだった。
編集長が静かに口を開く。
「……ひとまず、わが社で匿いましょう。うちには仮眠室もありますし、私もほぼここに住み着いているようなものです。無人になることはありませんからな」
安心感を与えるようなその声が、この場の緊張を和らげた。
エドガーが軽く笑いながら手を挙げた。
「ただ、ヴァリク様って呼び続けるわけにもいかないよな。家名はあるんですか?」
「えっと……ヴェルナードです。ヴァリク・ヴェルナード。ノルヴァル王国、ヴェルナード騎士爵位の家の長男で……って、これ、言っても大丈夫なんでしたっけ?」
ヴァリク様の言葉に、エドガーと私は顔を見合わせ、揃ってぽかんとしてしまう。
「ノルヴァル王国……?」
私たちが呆然としている間にも、編集長は「うわぁ……」とでも言いたげに頭を抱えていた。その姿には、なんとも言えない困惑と諦めの色が滲んでいるように見える。何かを知っているらしいのは明らかだけど、それを説明しようとする気配は全くない。
それより何より、私の頭を占めていたのは「ノルヴァル王国」という言葉だった。聞いたこともない国名に加え、「騎士爵位の家」という響きまで登場して、完全に置いてけぼりをくらった気分だ。教会で教えられる歴史では、世界はこの王国だけのはずなのに。
ちらりとエドガーを見れば、彼も同じく「?」という表情で固まっている。お互い目が合った瞬間、暗黙の了解で「この話、編集長に丸投げしておこうか」と無言で頷き合う。いや、でも編集長も今、頭抱えてるし……。どうすればいいんだろう、これ。
「……とりあえず、これからは『ヴェルナード様』と呼ぶことにしましょう」
とエドガーがそう言って場を収める。
場の空気が少し落ち着きを取り戻したところで、編集長が再び静かに口を開いた。
「さて、ヴェルナード様。相談というのは、具体的にどういった内容でしょうか?」
その言葉に促されるように、ヴァリク様……もとい、ヴェルナード様は一度深く息をつき、静かに話し始めた。
「……戦場で、ザフランを見ました。彼は……かつての仲間で、弟のように思っていた存在です」
ヴェルナード様は静かに語り始めたが、その表情には明らかに深い苦しみが宿っていた。
「ですが、あの時の彼は明らかにおかしかった。虚ろな目をして、何かをぶつぶつと呟きながら、戦場で敵兵を次々と……」
ヴェルナード様は言葉を切り、少しうつむいた。その手がわずかに震えているのが分かった。
「……それだけじゃありません。その戦場で、俺は初めて気づいたんです。今までずっと魔物だと思って戦っていた相手が、人間だったのかもしれないって」
その言葉に、私もエドガーも思わず息を呑んだ。
「認識阻害の魔術式がかけられていて、今まで気づかなかったんです。でも、戦場で視界が澄み渡り……見えたのは剣を振るう人間たちでした」
ヴェルナード様の低い声は震えを帯びている。その口調は確信を得たというよりも、受け入れたくない現実を吐き出すような重さがあった。
「……俺が今まで倒してきたのは……魔物なんかじゃなくて……」
そこから先の言葉は彼の喉元で止まった。苦しみを抱え込むように拳を握り締めるヴェルナード様の姿に、私たちはそれ以上何も言えなくなった。
「……ザフランも、あんな形で戦わせ続けられるのは間違っているんです。彼を……助けたい」
その最後の言葉は、とても小さく、けれど確かに届いた。ヴェルナード様がずっと抱えてきた重みを、私たちも共有してしまったような感覚だった。
「……ふむ」
編集長がしばらく考えるように沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「……もし、この事実を告発記事として出せれば、状況をひっくり返すことができるかもしれませんな」
「確かに、教会の暗部が暴露されれば、民衆の目も変わる。だけど、編集長……まだ記事を出せる状況じゃないだろう?」
エドガーがそれに応じるように言った。その言葉に、編集長が頷く。
「その通りだ。まず物的証拠が無い。証言だけは充実しとるんだが、関わっとる人数がかなり絞られているらしく、どうにも探りにくい。それに……記事を出すタイミングも慎重に見極めなければならんしな。一歩間違えばお縄にかかっちまう」
ヴェルナード様が一瞬考え込むように視線を落とし、それから意を決したように顔を上げた。
「……て、手伝わせてください。俺にできることがあるなら、どんな危険なことでもやります。護衛だってできます。腕っぷしには……ちょっとですが、自信がありますから!」
その言葉に、一瞬場が静まり返った。言った本人は至って真剣なのだろうが、こちらとしてはツッコミたくなる内容だった。だって、この人、国ひとつを守り抜いていた救国の英雄、カリストリアの守護者なのだ。これに勝てる人間がどれほどいるかなんて、考えるまでもない。そんな彼が「腕っぷしにはちょっと自信がある」なんて、逆に冗談に聞こえる。
私はついエドガーの顔を見た。彼も同じことを考えているのか、半分呆れたような、けれどどこかおかしそうな表情を浮かべていた。
「いや、護衛がヴェルナード様って……むしろ贅沢すぎるだろ。頼もしい限りだよ」
エドガーは肩をすくめながら、苦笑い混じりにそう言った。その言葉には冗談めいた軽さもありつつ、彼の実力を信頼していることが伝わってくる。
確かに、護衛という意味ではこれ以上ない存在だろう。彼一人で大抵の問題は解決できるんじゃないだろうか。いや、それどころか、どんな敵が来ようと彼がいれば大丈夫――なんて思えてしまう自分がいる。そんな安心感を与えられる人なんて、滅多にいないはずだ。
私は少しだけ気を取り直して、改めて彼の方を向いた。
「ある程度、変装や行動の制限はお願いすることになりますが……ご協力をお願いしても、よろしいでしょうか?」
言葉を伝えながら、私はヴェルナード様の目を真っ直ぐに見つめた。彼がどう応えるかは分かっているけれど、やはり直接その意志を確かめたかった。
「はい!」
ヴェルナード様は力強く頷いた。その瞬間、どこかほっとしたような、嬉しそうな表情が浮かんだ気がする。
エドガーが笑いながらぽつりと呟く。
「これで俺たちの護衛は盤石だな……いや、盤石すぎるか」
その言葉に思わず口元が緩む。確かに、ヴェルナード様が護衛に付いてくれるなんて、これ以上頼もしいことはない。どんな状況になっても、なんとかしてくれるんじゃないか――そんな気がしてしまう。
「それで――」
ヴェルナード様が何かを言いかけた瞬間、カクンと首が傾いた。そのまま微かに揺れる姿に、私たちは一瞬言葉を失う。
「おいおい、大丈夫か?」
エドガーが慌てて声をかけると、ヴェルナード様ははっとしたように顔を上げた。
「すいません、やっぱり……疲れてたみたいで……」
ヴェルナード様は申し訳なさそうに眉を下げ、小さな声で謝る。その顔には明らかに疲労の色が滲んでいる。
「そりゃ、無理もないだろう。いろいろあったみたいだしな」
エドガーは苦笑いを浮かべると、軽く肩をすくめた。
「ほら、ヴェルナード様。とりあえず仮眠室で少し横になってきな。これ以上倒れられたら、俺たちの方が困るからさ」
「でも……まだ話が……」
「いいから、いいから!」
エドガーが半ば強引にヴェルナード様を立たせると、背中を軽く押して奥の仮眠室へと案内し始めた。
「すみません……ありがとうございます」
ヴェルナード様は小さく頭を下げながら、エドガーに連れられてゆっくりと奥へと進んでいく。その背中を見送る私と編集長は、無言のまま顔を見合わせた。
「……じゃあ、私はヴェルナード様の生活に必要なものを、買い出しに行ってきますね」
私がそう言うと、編集長が頷く。
「頼む。しばらくはあの人もここに居つくことになるだろうしな」
「分かりました。それじゃ、行ってきます」
私は必要なものを頭の中で整理しながら、新聞社を後にした。
◆
一方その頃。
街の広場から少し離れた場所を、金髪に縦ロールの髪型が目を引く一人の女性が歩いていた。ふわりと広がる淡い桃色のドレスに、手には書類の入った封筒を抱えている。まるで絵画の中から飛び出してきたような佇まいだ。
「さて……これで新しい記事も間に合いそうですわね」
彼女は細い日傘をくるくると回しながら、満足げにほくそ笑む。
その封筒には、「セラフ天啓聖報」と記されたロゴがはっきりと見て取れる。カリストリア聖王国において、最も高い発行部数を誇る新聞社の名前だ。彼女――この新聞社の編集長、シャルロッテ・ラヴェルは、最新の英雄を大々的に取り上げる記事を夕刊に間に合わせるため、セラフ天啓聖報御用達の印刷所に向かっている最中だった。
「新たな英雄『ザフラン』……新たな神の使いとして民衆が讃える日が来るとは。これも神の御意志が示された証ですわ」
彼女の声はどこか陶酔した響きを帯びていた。その目にはただひたすらに「正しさ」への信念と、教会を讃える喜びが宿っている。
「この聖王国において、神の御意志を拒む者など、救いが得られるはずもありませんわ。正しき導きこそが、すべての者に救済をもたらしますのよ」
彼女はそう呟き、民衆が熱狂し、教会の下で一つにまとまる光景を思い浮かべながら、日傘をくるくると回す。
シャルロッテは街の喧騒の中を足早に進む。
「嗚呼、神の御意志が民衆の心に根付き、広がっていく様子が目に浮かびますわ……さあ、急ぎませんと」
彼女の足取りは軽く、信仰と使命感が宿る笑みをその顔に浮かべていた。




